セルゲイ・プロコフィエフ
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セルゲイ・プロコフィエフ Сергей Сергеевич Прокофьев | |
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1918年、ニューヨーク | |
基本情報 | |
生誕 | 1891年4月23日 ロシア帝国、ソンツォフカ |
死没 | (1953-03-05) 1953年3月5日(61歳没) ソビエト連邦、モスクワ |
職業 | 作曲家、ピアニスト |
セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(ロシア語: Сергей Сергеевич Прокофьев シェルギェーイ・シェルギェーイェヴィチュ・プラコーフィイェフ;ラテン文字転写の例:Sergei Sergeevich Prokofiev、1891年4月23日 - 1953年3月5日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。
目次
1 概要
2 生涯
2.1 誕生と幼年期(1891年 - 1904年)
2.2 音楽院時代(1904年 - 1914年)
2.3 革命前後(1914年 - 1917年)
2.4 亡命と日本滞在(1918年)
2.5 遍歴:アメリカとパリ(1918年 - 1932年)
2.6 帰国(1933年 - 1941年)
2.7 第二次世界大戦(1941年 - 1945年)
2.8 戦争終了後の3年間(1945年 - 1947年)
2.9 晩年(1948年 - 1953年)
3 作風
4 小説家プロコフィエフ
5 主な作品
5.1 交響曲
5.2 劇場音楽
5.2.1 歌劇
5.2.2 バレエ音楽
5.2.3 劇付随音楽
5.2.4 映画音楽
5.3 管弦楽曲
5.3.1 劇場音楽からの組曲
5.3.2 その他の管弦楽曲
5.4 協奏曲
5.4.1 ピアノ協奏曲
5.4.2 ヴァイオリン協奏曲
5.4.3 チェロ協奏曲
5.5 室内楽曲
5.5.1 弦楽四重奏曲
5.5.2 ヴァイオリンソナタ
5.5.3 その他の室内楽曲
5.6 ピアノ曲
5.6.1 ピアノ・ソナタ
5.6.2 その他のピアノ曲
5.7 合唱曲
5.8 歌曲
6 著書
7 関連文献
8 出典
9 外部リンク
概要
現在のウクライナ、ドネツィク州(当時はロシア帝国領)ソンツォフカ(Сонцовка;ラテン文字転写の例:Sontsovka)生まれのロシア人。帝政期のロシアに生を受け、サンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ。革命後、シベリア・日本を経由してアメリカへ5回渡り、さらにパリに居を移す。20年近い海外生活の後、1936年に社会主義のソヴィエトへ帰国。作風は、こうした外的な環境に応じて大きく3つの時期に区分できる。
ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーらと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされたが、ジダーノフ批判を受けるなど、必ずしも総て順風であった訳ではない。
交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されており、演奏頻度が高い傑作も多い。特に、自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品があり、ピアニストの重要なレパートリーの一つとなっている。
生涯
誕生と幼年期(1891年 - 1904年)
1891年4月23日、農業技術者で貴族の農場の管理人をしていた父セルゲイ・アレクセエヴィチ・プロコフィエフ(1846年 - 1910年)と母マリヤ・グリゴリエヴナ・プロコフィエヴァ(旧姓ジトコヴァ、1855年 - 1924年)の息子として、ウクライナ地方南部のエカテリノスラフ県バフムート郡ソンツォフカ村に生まれた。プロコフィエフ家には、はじめ2人の娘が生まれたが、2人とも幼くして世を去ったので、3番目の子供セルゲイは特別注意を払って育てられた。
1896年(5歳)最初の作曲。母親が譜面に起こしたヘ長調のピアノの小曲で「インドのギャロップ」と名づけられた。
1898年(7歳)4手ピアノのためのハ長調の行進曲を作曲。
1900年(9歳)両親に連れられ、モスクワでオペラ「ファウスト」、「イーゴリ公」、バレエ「眠りの森の美女」を見る。最初のオペラ「巨人」を作曲。
1901年(10歳)第2のオペラ「無人島で」の作曲を始めるが、序曲と第1幕までしかできなかった。
1902年(11歳)父の友人の甥ポメランツェフの尽力で、母と共にタネーエフを訪問。タネーエフの勧めでポメランツェフのレッスンを受けるが退屈きわまりないものであった。ソンツォフカに帰るとタネーエフの紹介でグリエールに師事。夏の終わる頃、ト長調の4楽章の交響曲を作曲。冬に2度目のタネーエフ訪問をし、グリエールと2人で交響曲を連弾するが、和声が単純すぎると評され、いっそう和声の勉強に集中するようになった。
1903年(12歳)グリエールの指導のもとプーシキンによる本格的なオペラ「ペスト流行期の酒宴」を作曲。3度目のタネーエフ訪問。
音楽院時代(1904年 - 1914年)
1904年(13歳)母に連れられペテルブルクのアレクサンドル・グラズノフを訪問。女流詩人マリーヤ・キルシュテットの勧めにより、フーケの詩によるオペラ「ウンディーネ(水の精)」の作曲を開始、第1幕を書く。サンクトペテルブルク音楽院に入学。リャードフの和声学クラスで学び、ボリス・アサフィエフと親交を結ぶ。
1905年(14歳)音楽院当局への抗議文に署名。特別ピアノ・クラスに移りヴィンクレル(1865-1935)にピアノを学ぶ。オペラ「ウンディーネ」の第2幕を書く。
1906年(15歳)リャードフの対位法クラスとリムスキー=コルサコフの管弦楽法クラスで学ぶ。ニコライ・ミャスコフスキーと親交。ミャスコフスキーとヴァイオリン・ソナタを共作し、プロコフィエフは第1楽章を書いた。
1907年(16歳)オペラ「ウンディーネ」の第3幕と第4幕を書き、オペラを完成させる。
1908年(17歳)ミハイル・チェルノフに連れられ、音楽サークル「現代音楽の夕べ」に参加する。ホ短調の3楽章の交響曲を作曲、グラズノフの斡旋でワルリヒ指揮の宮廷オーケストラの非公開リハーサルで演奏される。ヴィートル(1863年 - 1949年)に楽式を学ぶ。12月31日に「現代音楽の夕べ」で自作7曲(『伝説』『雪』『思い出』『躍動』『祈り』『絶望』『悪魔的暗示』)で初の公開演奏。
1909年(18歳)音楽院の作曲科の課程を修了。ミャスコフスキーらに音楽院をやめずにピアノと指揮のクラスに入るように説得される。ニコライ・チェレプニンに指揮と作曲を学び、エシポワ夫人にピアノを学ぶ。ピアノ・ソナタ第1番Op.1を作曲。
1910年(19歳)父が急死。
1912年(21歳)「人民の家」ホールで作曲者のピアノ、サラジェフの指揮でピアノ協奏曲第1番が初演される。
1913年(22歳)パーヴロフスクの夏の演奏会で作曲者のピアノ、アスラーノフの指揮でピアノ協奏曲第2番(初版)が初演される。曲はモダニズムに満ちており、賛否両論を巻き起こした。
1914年(23歳)ピアノ科と指揮科を修了。音楽院卒業試験でバッハのフーガと自作のピアノ協奏曲第1番を弾き、アントン・ルビンシテイン賞を得る。
革命前後(1914年 - 1917年)
1914年(23歳)ヌヴェルと共にロンドン旅行に行き、ヌヴェルが催した招待会でロシア第一の興行家セルゲイ・ディアギレフ(セルゲイ・ヂャギレフ)と会う。ディアギレフにピアノ協奏曲第2番を弾いて聞かせ、その才能に驚嘆したディアギレフから一緒に仕事をしようと提案される。プロコフィエフはドストエフスキーの「賭博者」のオペラ化を申し出るが、オペラは流行遅れだと反対される。話し合った結果、ロシアの昔話をテーマにしたバレエを作ることになり、前衛的詩人ゴロデツキーと協力してスキタイの物語を題材にしたバレエ「アラとロリー」の台本を作り上げ、作曲に着手する。その合間に「アラとロリー」とは全く対照的な叙情性あふれる歌曲「みにくいあひるの子」を作曲。
1915年(24歳)イタリアでディアギレフと再会する。ディアギレフに「アラとロリー」のスケッチを聞かせるが「筋は作為が多く、音楽はチェレプニン風で面白くない、もう1つ新しいバレエを書くべきだ」と上演を拒まれる。ディアギレフの家でストラヴィンスキーと会い、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を連弾する。ディアギレフが「アラとロリー」に代わる新しい題材をアファナシエフの「ロシア民話集」の中から選び、プロコフィエフに新しいバレエの作曲を注文する。帰国後、早速作曲に着手してバレエ「道化師」を完成させる。「アラとロリー」を改作して「スキタイ組曲」を完成させる。9月、ペトログラード音楽院に再入学してオルガン科に籍をおく。アルバート・コーツにドストエフスキーの小説「賭博者」に取材して、オペラ「賭博者」を書くようにすすめられ、作曲に着手する。
1917年(26歳)ロシアが革命の嵐に包まれる中、祖国を離れることを考え始める。
亡命と日本滞在(1918年)
1918年(27歳)「古典交響曲」の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意した。教育人民委員アナトリー・ルナチャルスキー(1875-1933)は、「君は音楽の革命家だ。我々は生活の革命家なのだ。手を取り合うのは当然ではないか。それでも行くというのならば邪魔はしないが...」と説得に努めたが、彼の亡命の意志は固かった。5月7日、シベリア鉄道にてモスクワを発つ。31日、敦賀港に上陸し、6月1日、東京に到着。冬シーズン中の南米行きの船便を探すが出航した直後で、次便ではシーズン終了後になることから、8月になるまで日本に滞在してから北米へ向かうことにする。11日までは東京、横浜周辺に滞在。12 - 18日、京都に滞在し、琵琶湖疏水、祇園などを散策。13日には大阪を訪れている。19〜28日、奈良に滞在し、奈良ホテルに宿泊。奈良公園周辺を散策している。この奈良滞在中に、ピアノ協奏曲第3番等の原型となった「白鍵四重奏曲」の構想を練っている。29日に東京に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19〜21日には軽井沢を、28日には箱根を訪れている。更に7月6日、7日には東京で9日には横浜で自作を含むピアノ・リサイタルを開催した。8月2日、離日。このプロコフィエフの日本滞在は、ヨーロッパの大作曲家の最初の日本訪問と言うことができ、評論家大田黒元雄や徳川頼貞などとの交流により、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。プロコフィエフはサンフランシスコに上陸し、9月にはニューヨークへ到着した。
遍歴:アメリカとパリ(1918年 - 1932年)
1918年(27歳)-1922年(31歳)主にアメリカを拠点として、作曲家、ピアニストとして活躍する。そして1922年3月にはバイエルンの小村エッタルに居を構える[1][2]。この頃からボリス・アサフィエフと文通を始める。
1923年(32歳)フランスを拠点として活動を始め、居を構えて数ヶ月のうちにヴァイオリン協奏曲第1番、ピアノソナタ第5番、ピアノ協奏曲第2番(改訂版)などが初演される。アメリカで知り合ったカロリナ・コディナ(リーナ Lina)と結婚。翌年には子供も生まれる。
1925年(34歳)交響曲第2番が初演。ディアギレフの依頼を受けバレエ「鋼鉄の歩み」の作曲開始。
1927年(36歳)「鋼鉄の歩み」がバレエ・リュスにより初演される。
1928年(37歳)前年に完成していたオペラ「炎の天使」が演奏会形式で一部初演される。交響曲第3番作曲。
1929年(38歳)バレエ「放蕩息子」がバレエ・リュスにより初演される。交響曲第4番(初版)の作曲を始める(完成と初演は翌年)。
1931年(40歳)パウル・ウィトゲンシュタインの委嘱でピアノ協奏曲第4番を作曲する。
1920年代後半にはしだいに祖国復帰を考えるようになり、1927年に短期間だけ帰国を果たす。この2年後の1929年のモスクワに於ける演奏会シリーズに着手する寸前、交通事故に遭い手を損傷したために公演を中止せざるを得なくなる[3]が、これによって新しいソビエト音楽を数多く聴き、何年かぶりにロシアの音楽家たちとの交流をするきっかけとなって母国への帰郷に導く役割を果たしたという[4]。
帰国(1933年 - 1941年)
1933年(42歳)ソビエト連邦へ2度旅行し、モスクワに住まいを借りるが、生活の拠点はまだパリにあった。ベルゴスキノ映画製作所からの依頼で映画音楽「キージェ中尉」を作曲。
1934年(43歳)レニングラード劇場からの依頼で、バレエ「ロメオとジュリエット」の作曲を開始する。
1936年(45歳)モスクワへ移り、家族とともに正式にソビエト連邦へ定住する。「ロミオとジュリエット」完成(初演は1938年)。「ピーターと狼」作曲。翌年のアレクサンドル・プーシキン没後百周年に合わせ依頼を受け、「スペードの女王」による映画のための音楽、「ボリス・ゴドゥノフ」「エヴゲーニイ・オネーギン」への劇付随音楽の作曲を進める(しかし企画はすべて実現しなかった)。
1938年(47歳)最後の国外への演奏旅行を行う。映画音楽「アレクサンドル・ネフスキー」を作曲。
1939年(48歳)オペラ「セミョーン・カトコ」作曲。のちの伴侶となるミーラ・メンデリソンと出会う[5]。友人であり芸術上の協力者でもあったフセヴォロド・メイエルホリドが逮捕され、翌年刑死する。
1940年(49歳)「セミョーン・カトコ」が初演されるが不評に終わる。ピアノソナタ第6番作曲。
1941年(50歳)家族と離れ、ミーラとの生活を始める。4月に歌劇「戦争と平和」の構想を立てはじめる。
第二次世界大戦(1941年 - 1945年)
- ドイツ軍の侵入により、他の芸術家らと共に1941年8月にモスクワからナリチクへ疎開、さらに戦況の拡大により11月末にグルジア・ソビエト社会主義共和国の首都ティフリスへ移動。「戦争と平和」の作曲を進める。
1942年(51歳)5月、映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインとの「イワン雷帝」の仕事のため、カザフ・ソビエト社会主義共和国の首都アルマ・アタへ移動。ピアノソナタ第7番作曲。
1943年(52歳)スターリン賞第1席をはじめて得る。労働赤旗勲章受章、功労芸術家の称号授与。
1945年(54歳)1月13日、交響曲第5番初演(この演奏が作曲者の最後の指揮)。1月末、階段から墜落して後頭部を強打し、意識不明のまま病院にかつぎ込まれる。6月、イギリスのロイヤル・フィルハーモニー協会から金メダルを授与される。
戦争終了後の3年間(1945年 - 1947年)
1945年(54歳)9月、「戦争終結によせる賛歌」が完成。11月、交響曲第5番がクーセヴィツキーの指揮でアメリカ初演。バレエ「シンデレラ」がモスクワ・ボリショイ劇場で初演。
1946年(55歳)病気が重くなったため、ニコーリナに移る。ヴァイオリン・ソナタ第1番初演。交響曲第5番、ピアノ・ソナタ第8番、「イワン雷帝」第1部、バレエ「シンデレラ」にスターリン賞が贈られる。
1947年(56歳)交響曲第6番完成、ムラヴィンスキーの指揮で初演される。ヴァイオリン・ソナタ第1番にスターリン賞が贈られる。
晩年(1948年 - 1953年)
1948年(57歳)ジダーノフ批判の対象となる。2月17日、プロコフィエフの作品を批判対象とする作曲家集会が開かれ、作品数曲が演奏され、その席上で芸術委員会議長と作曲家同盟書記長にあてたプロコフィエフの手紙が発表される。
1949年(58歳)病状が悪化、医師から1日1時間しか作曲を許されなくなる。夏には部分的な言語症まで起こし、作曲の時間は1日30分にまで減らされた。そんな厳しい状態の中、驚異的な速さでバレエ「石の花」を完成させる。直後、親友アサフィエフが1月に死亡していたことを知りショックをうける。
1950年(59歳)組曲「冬のかがり火」を完成させるが、病状を悪化させ再入院、モスクワ郊外のバルビハ療養所に入る。8月に親友ミャスコフスキーが死亡。親友2人のあいつぐ死はプロコフィエフをひどく落胆させた。それでも仕事を続け、歌劇「戦争と平和」を一夜で上演可能な形に大改訂し、オラトリオ「平和の守り」を完成させる。
1951年(60歳)組曲「冬のかがり火」とオラトリオ「平和の守り」が、1950年度スターリン賞第2席を得る。作曲家同盟主催によるプロコフィエフ60歳誕生日祝賀会がモスクワ作曲家会館で開かれ、同会場でピアノ・ソナタ第9番がリヒテルによって初演される。バレエ「石の花」から3つの組曲(「結婚組曲」、「ジプシー幻想曲」、「ウラル狂詩曲」)を編曲。13年前に作曲したチェロ協奏曲第1番の主題を使用してチェロ協奏曲第2番を作曲。
1952年(61歳)チェロ協奏曲第2番がロストロポーヴィチの独奏とリヒテルの指揮によってモスクワで初演される(初演後さらに改訂を加え、『チェロと管弦楽のための交響的協奏曲』に題名を変更した)。最後の交響曲である交響曲第7番を完成、10月11日の初演に出席(これが最後の演奏会出席となった)。チェロのためのコンチェルティーノ(小協奏曲)の作曲に着手。
1953年(62歳)「ソヴィエト音楽」誌 第1号に最後の文章となる「創作プラン」を発表。2月、作曲家同盟第6回総会で、交響曲第7番がソヴィエト交響曲の新しい達成だと認められる。3月5日午後6時、突然脳出血による呼吸困難に陥り死去。3月7日、カバレフスキーを委員長としてモスクワ作曲家中央会館にて葬儀が行われ、ノヴォデヴィチ寺院のアサフィエフとミャスコフスキーの墓のそばに葬られた。偶然の一致だが、プロコフィエフの死はスターリンの死と同年同月同日で、その3時間前であった[6][7]。
作風
プロコフィエフは自身の作品を構成する要素として「古典的な要素」「近代的な要素」「トッカータ、もしくは "モーター" の要素」「叙情的な部分」「グロテスク」の五つを上げている[8]。初期には急進的な作風を取る一方、長期の海外生活中の作品は次第に新古典主義的で晦渋なものとなったが、ソヴィエト連邦への帰国後は社会主義リアリズムの路線に沿った作風へ転換し、現代的感覚と豊かな叙情性を併せ持つ独自の境地へ到り、多くの傑作を生んだ。
快活なリズム感、斬新な管弦楽法は、ティシチェンコやシチェドリンなど後代のロシアの作曲家に影響を与えた。
理論的に音楽を構築するタイプの作曲家ではなく、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、バルトークのように音楽語法の発展に寄与した面は少ない。
小説家プロコフィエフ
プロコフィエフは海外にいた1918年ごろにいくつかの短編小説を書いている。2003年にロシアで刊行され彼の新たな才能が知られるようになった。作品の多くが当時のモダニズム文学の流れを汲むもので、「エッフェル塔が歩き出す」といった奇想天外な内容である。しかし彼の「作家活動」は3年程度で終わり音楽活動に専念することになる。日本語の翻訳は2010年に刊行された。
主な作品
交響曲
- 交響曲 ホ短調(1908年)
古典交響曲 ニ長調(交響曲第1番) op.25(1917年)
交響曲第2番 ニ短調 op.40(1925年、op.136として改訂の予定であった)
交響曲第3番 ハ短調 op.44(1928年)
交響曲第4番 ハ長調 op.47(第1版:1930年)、op.112(第2版:1947年)
交響曲第5番 変ロ長調 op.100(1944年)
交響曲第6番 変ホ短調 op.111(1947年)
交響曲第7番 嬰ハ短調(「青春」) op.131(1952年)
劇場音楽
歌劇
- 「マッダレーナ」 op.13(1911年)
- 「賭博師」 op.24(1916年)
- 「三つのオレンジへの恋」 op.33(1919年)
- 「炎の天使」 op.37(1927年)
- 「セミョーン・カトコ」 op.81(1939年)
- 「修道院での婚約」 op.86(1940年)
- 「戦争と平和」 op.91(第1版:1943年、第2版:1946年、第3版:1947年、第4版:1950年、第5版:1952年)
- 「真の男の物語」 op.117(1948年)
- 「遠い海」(1948年、未完)
バレエ音楽
- 「道化師」(「七人の道化師をだました一人の道化師の物語」) op.21(1920年)
- 「鋼鉄の歩み」op.41(1925年)
- 「放蕩息子」op.46(1928年)
- 「ボリステーヌの岸辺で」op.51(1930年)
「ロメオとジュリエット」op.64(1936年)
「シンデレラ」op.87(1944年)
「石の花」op.118(1949年)
劇付随音楽
- 「エジプトの夜」(1933年)
- 「ボリス・ゴドゥノフ」op.70bis(1936年)
- 「エフゲニー・オネーギン」op.71(1936年)
- 「ハムレット」op.77(1938年)
映画音楽
- 「キージェ中尉」(1933年)
- 後に交響組曲に改作する
- 「スペードの女王」op.70(1936年)
「アレクサンドル・ネフスキー」(監督:エイゼンシュテイン)(1938年)
- 後にカンタータに改作する
- 「レールモントフ」(1941年)
- 「コトフスキー」(1942年)
- 「ウクライナ草原のパルチザンたち」(1942年)
- 「トーニャ」(1942年)
- 「イワン雷帝」(第1部、第2部) op.116(監督:エイゼンシュテイン)(1945年)
管弦楽曲
劇場音楽からの組曲
スキタイ組曲(「アラとロリー」) op.20(1914年)- バレエ組曲「道化師」 op.21bis(1922年)
- 「三つのオレンジへの恋」組曲 op.33bis(1924年)
- 「鋼鉄の歩み」組曲 op.41bis(1926年)
- 「放蕩息子」組曲 op.46bis(1929年)
- 歌劇「賭博者」からの四つのポートレートおよび終結部 op.49(1931年)
- 「ドニェプルのほとりで」組曲 op.51bis(1933年)
- 交響組曲「キジェー中尉」 op.60(1934年)
- 組曲「エジプトの夜」 op.61(1934年)
- 「ロメオとジュリエット」第1組曲 op.64bis(1936年)
- 「ロメオとジュリエット」第2組曲 op.64ter(1936年)
- 「セミョーン・コトコ」組曲 op.81bis(1941年-1943年)
- 「ロメオとジュリエット」第3組曲 op.101(1944年)
- 「シンデレラ」第1組曲 op.107(1946年)
- 「シンデレラ」第2組曲 op.108(1946年)
- 「シンデレラ」第3組曲 op.109(1946年)
管弦楽のための組曲「ワルツ集」 op.110(1946年)- プーシキン・ワルツ op.120(1949年)
- 交響組曲「夏の夜」 op.123(1950年、歌劇「修道院での婚約」による)
- 結婚組曲 op.126 (1951年、バレエ音楽「石の花」による)
- ジプシー幻想曲 op.127 (1951年、バレエ音楽「石の花」による)
- ウラル狂詩曲 op.128 (1951年、バレエ音楽「石の花」による)
その他の管弦楽曲
シンフォニエッタ イ長調 op.5(第1版:1909年、第2版:1914年)、op.48(第3版:1929年)- 交響的絵画「夢」 op.6(1910年)
- 交響的スケッチ「秋」 op.8(1910年)
ヘブライの主題による序曲 ハ長調 op.34bis(1934年)
- op.34(室内楽版)の編曲
- 室内管弦楽のための序曲 変ロ長調 op.42(1926年)
- ディヴェルティメント op.43(1929年)
- 交響的な歌 op.57(1933年)
- 小管弦楽のための子供の組曲「夏の一日」 op.65bis(1941年)
- 子供の音楽 op.65 からの管弦楽編曲(全7曲)
- 交響的物語「ピーターと狼」 op.67(1936年)
- ロシア序曲 op.72(第1版:1936年、第2版:1937年)
- 交響組曲「1941年」 op.90(1941年)
- 行進曲 変ロ長調 op.99(1944年) [吹奏楽]
- 祝典詩曲「30年」 op.113(1947年)
- 組曲「冬のかがり火」(朗読、児童合唱およびオーケストラのための) op.122(1949年-1950年)
- 祝典詩曲「ヴォルガとドンの邂逅」 op.130(1951年)
協奏曲
ピアノ協奏曲
ピアノ協奏曲第1番 変ニ長調 op.10(1912年)
ピアノ協奏曲第2番 ト短調 op.16(1913年)
- ロシア革命時に紛失、1923年に改作。
ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 op.26(1921年)
- 第3楽章に日本滞在時に聴いた越後獅子の主題を用いているという俗説があるが、第3楽章の主題は未完の「白鍵弦楽四重奏曲」から流用したもので、越後獅子とも似ておらず、誤りである可能性が高く、中央アジアの民謡を祖にした可能性が高い。
ピアノ協奏曲第4番 変ロ長調(左手のための) op.53(1931年)
パウル・ウィトゲンシュタインのために作曲したが演奏を拒否された(初演は1956年)。
ピアノ協奏曲第5番 ト長調 op.55(1932年)- ピアノ協奏曲第6番(2台のピアノと弦楽合奏のための) op.133(1952年、未完)
ヴァイオリン協奏曲
ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 op.19(1917年)
ヴァイオリン協奏曲第2番 ト短調 op.63(1935年)
チェロ協奏曲
チェロ協奏曲第1番ホ短調 op.58(1938年)
チェロと管弦楽のための交響的協奏曲ホ短調(チェロ協奏曲第2番)op.125(1951年)
- 第1番の改作。
- チェロと管弦楽のための小協奏曲(コンチェルティーノ)ト短調 op.132(1952年着手、未完)
ロストロポーヴィチとカバレフスキーの補筆により1959年に完成。アルフレート・シュニトケとウラジーミル・ブローク(Vladimir Blok)による補筆版もある。
室内楽曲
弦楽四重奏曲
弦楽四重奏曲第1番 ロ短調 op.50(1930年)
弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調(カバルダの主題による) op.92(1941年)
ヴァイオリンソナタ
ヴァイオリンソナタ第1番 ヘ短調 op.80(1946年)
ヴァイオリンソナタ第2番 ニ長調 op.94bis(1944年)
- フルートソナタ op.94 の改作。
- 2つのヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 op.56(1932年)
無伴奏ヴァイオリンソナタ ニ長調 op.115(1947年) [ヴァイオリンのユニゾンまたはソロ]
その他の室内楽曲
ヘブライの主題による序曲 ハ短調 op.34(1919年) [クラリネット、弦楽四重奏、ピアノ]
- 1934年に管弦楽編曲(op.34bis)
- ヴァイオリンとピアノのための5つのメロディー op.35bis(1925年)
- 5つの歌詞のない歌 op.35の編曲。
- 五重奏曲 ト長調 op.39(1924年) [オーボエ、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス]
フルートソナタ ニ長調 op.94(1943年)
チェロソナタ ハ長調 op.119(1949年)- 無伴奏チェロソナタ 嬰ハ短調 op.134(1952年、未完)
ロストロポーヴィチ、ブロークにより補完。
ピアノ曲
ピアノ・ソナタ
ピアノ・ソナタ第1番 ヘ短調 op.1(1909年)
ピアノ・ソナタ第2番 ニ短調 op.14(1912年)
ピアノ・ソナタ第3番 イ短調 op.28「古い手帳から」(1917年)
ピアノ・ソナタ第4番 ハ短調 op.29「古い手帳から」(1917年)
ピアノ・ソナタ第5番 ハ長調 op.38(第1版:1923年)、op.135(第2版:1953年)
ピアノ・ソナタ第6番 イ長調 op.82(1940年)
ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調 op.83(1942年)
ピアノ・ソナタ第8番 変ロ長調 op.84(1944年)
- 第6番~第8番の3曲はいずれも第二次世界大戦中に完成されたため、「戦争ソナタ」の通称で呼ばれることがある。
ピアノ・ソナタ第9番 ハ長調 op.103(1947年)
ピアノ・ソナタ第10番 ホ短調 op.137(1953年、未完)
その他のピアノ曲
- 4つの練習曲 op.2(1909年)
- ニ短調 / op.2-1
- ホ短調 / op.2-2
- ハ短調 / op.2-3
- ハ短調 / op.2-4
- 4つの小品 op.4(全4曲)(1908年)
- 思い出
- 躍動
- 失望
- 悪魔的暗示
トッカータ op.11(1912年)- サルカズム(風刺) op.17(全5曲)(1914年)
束の間の幻影 op.22(全20曲)(1917年)- 年とった祖母の物語 op.31(全4曲)(1918年)
- 4つの小品 op.32(1918年)
- 舞曲
- メヌエット
- ガヴォット
- ワルツ
- 物自体 op.45(全2曲)(1928年)
- 2つのソナチネ op.54(1931年-1932年)
- 第1番 ホ短調
- 第2番 ト長調
- 3つの小品 op.59(1933年-1934年)
- 散歩
- 風景
- 田園風ソナチネ
- 思考 op.62(1933年-1934年)
- アダージョ・ペンシエローソとモデラート
- レント
- アンダンテ
- 子供の音楽 op.65(全12曲)(1935年)
- バレエ「ロメオとジュリエット」からの10の小品 op.75(1937年)
合唱曲
- 2つの詩 op.7(1909年-1910年)
カンタータ「彼らは7人」 op.30(1917年-1918年)- 十月革命20周年のためのカンタータ op.74(1936年-1937年)
- 組曲「われらの時代の歌」 op.76(1937年)
カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」 op.78(1939年)- 「祝杯」 op.85(1939年)
カンタータ「名もない少年のバラード」 op.93(1942年-1943年)- 十月革命30周年のためのカンタータ「栄えよ、力強き国土」 op.114(1947年)
オラトリオ「平和の守り」 op.124(1950年)
歌曲
- 「みにくいあひるの子」 op.18(1914年)
- 5つの詩 op.23(1915年)
- 屋根の下で
- 灰色の服
- 信じて
- 私の庭で
- 魔法使い
- 5つの詩 op.27(1916年)
- 太陽は私の部屋にいっぱい
- 真の愛情
- 太陽の思い出に
- おはよう
- 灰色の目の王様
- 5つの歌詞のない歌 op.35(1920年)
- 後にヴァイオリンとピアノのための5つのメロディー op.35bisに編曲、珍しくペンタトニックがそのままでる。
- 5つの詩 op.36(1921年)
- 火と水の呪い
- 鳥の声
- 蝶々
- 私をおもえ
- 御影石
著書
- 『プロコフィエフ自伝・評論』(園部四郎、西牟田久雄共訳/音楽之友社/1964)
- 『プロコフィエフ: 自伝/随想集』(田代薫訳/音楽之友社/2010)
- 『プロコフィエフ短編集』(サブリナ・エレオノーラ、豊田菜穂子訳/群像社ライブラリー/2010)
関連文献
- Autobiography and diaries
- Prokofiev, Sergei (1979). David H. Appel, ed. Prokofiev by Prokofiev: A Composer's Memoir. Guy Daniels (translator). New York: Doubleday & Co. ISBN 0-385-09960-6.
- Prokofiev, Sergei (1991). Soviet Diary 1927 and Other Writings. London: Faber and Faber.
- Prokofiev, Sergei (2000) [1960]. S. Shlifstein, ed. Sergei Prokofiev: Autobiography, Articles, Reminiscences. Rose Prokofieva (translator). The Minerva Group, Inc. ISBN 0-89875-149-7.
- Prokofiev, Sergei (2006). Anthony Phillips (translator), ed. Diaries 1907–1914: Prodigious Youth. London/Ithaca: Faber and Faber/Cornell University Press. ISBN 978-0-8014-4540-8.
- Prokofiev, Sergei (2008). Anthony Phillips (translator), ed. Diaries 1915–1923: Behind the Mask. London / Ithaca: Faber and Faber/Cornell University Press. ISBN 978-0-571-22630-6.
- Prokofiev, Sergei (2012). Anthony Phillips (translator), ed. Diaries 1924–1933: Prodigal Son. London/ Ithaca: Faber and Faber/Cornell University Press. ISBN 978-0-571-23405-9.
- Prokofiev, Sergei (2002). Dnyevnik 1907–1933 (3 vols, in Russian). Paris. ISBN 2-9518138-0-5. ISBN 2-9518138-1-3, ISBN 2-9518138-2-1
- Memoirs, essays, etc.[edit]
- Sats, Natalia (1979). Sketches From My Life. Sergei Syrovatkin (translator). Moscow: Raduga Publishers. ISBN 5-05-001099-3.
- Shlifstein (ed.), Semyon (1956). Prokofiev: Autobiography, Articles, Reminiscences. Rose Prokofieva (translator). Moscow: Foreign Languages Publishing House.
- Biographies
- Dorigné, Michel (1994). Serge Prokofiev. Paris.
- Jaffé, Daniel (1998). Sergey Prokofiev (2008 ed.). London.
- Morrison, Simon (2009). The People's Artist: Prokofiev's Soviet Years. Oxford.
- Morrison, Simon (2013). The Love & Wars of Lina Prokofiev. London.
- Nestyev, Israel (1946). Prokofiev, his Musical Life. New York.
- Nestyev, Israel (1961). Prokofiev. Florence Jonas (translator). Stanford: Stanford University Press.
- Nice, David (2003). Prokofiev: From Russia to the West 1891–1935. London.
- Rakhmanova, Marina Pavlovna, ed. (1991). Сергей Прокофьев: к 110-летию со дня рождения: письма, воспоминания, статьи [Sergei Prokofiev on the 110th anniversary of his birth: letters, reminiscences and articles] (in Russian). Moscow. ISBN 5-201-14607-4.
- Samuel, Claude (1971). Prokofiev. London. ISBN 0-7145-0490-4.
- Seroff, Victor (1968). Sergei Prokofiev: A Soviet Tragedy. New York.
- Vishnevetskiy, Igor (2009). Sergei Prokofiev (in Russian). Moscow. ISBN 978-5-235-03212-5.
- Other monographs
- Ezrahi, Christina (2012). Swans of the Kremlin: Ballet and Power in Soviet Russia. Pittsburgh. ISBN 978-1-85273-158-8.
- Tomoff, Kiril (2006). Creative Union: The Professional Organization of Soviet Composers, 1939–1953. Ithaca. ISBN 978-0-8014-4411-1.
- Dictionary articles
- Slonimsky, Nicolas (ed).The Concise Edition of Baker's Biographical Dictionary of Musicians, 8th ed. New York, Schirmer Books, 1993. ISBN 0-02-872416-X
- Taruskin, Richard. "Prokofiev, Sergei" in The New Grove Dictionary of Opera, ed. Stanley Sadie (London, 1992) ISBN 0-333-73432-7
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出典
^ The Classic Collection 第105号より
^ Rita McAllister 一柳富美子訳 (1996). “プロコーフィエフ,セルゲイ(・セルゲエヴィチ)”. ニューグローヴ世界音楽大事典. 15. 柴田南雄, 遠山一行 総監修. 音楽之友社. pp. 548-555.
^ Redepenning, Dorothea (2001). “Prokofiev, Sergey”. In Sadie, Stanley. The New Grove Dictionary of Music and Musicians. 20 (Second ed.). Macmillan. p. 413.
^ The Classic Collection 第105号
^ フランシス・マース (2006). ロシア音楽史:《カマーリンスカヤ》から《バービイ・ヤール》まで. 森田稔、梅津紀雄、中田朱美 訳. 春秋社. p. 510.
^ The Classic Collection 第105号
^ Rappaport, Helen (1999). Joseph Stalin: A Biographical Companion. ABC-CLIO. p. 214.
^ セルゲイ・プロコフィエフ (2010). プロコフィエフ: 自伝/随想集. 田代薫 訳. 音楽之友社. pp. 51-52.
外部リンク
セルゲイ・プロコフィエフの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト。PDFとして無料で入手可能。- The Prokofiev Page
- プロコフィエフの日本滞在日記