島安次郎
島 安次郎(しま やすじろう、明治3年8月7日(1870年9月2日) - 昭和21年(1946年)2月17日)は、日本の鉄道技術者。日本機械学会会長(1918年・1923年 - 1924年)。
鉄道技術者で新幹線の開発に携わった島秀雄は長男。台湾新幹線に携わった島隆は孫。
目次
1 経歴
2 栄典
3 脚注
4 参考文献
5 演じた俳優
6 関連項目
7 外部リンク
経歴
和歌山県和歌山市出身。実家は代々続く「島喜」という薬問屋。東京帝国大学機械工学科(現:東京大学工学部)を卒業し1894年に関西鉄道に入社。関西鉄道では、高性能機関車「早風(はやかぜ)」を投入しスピードアップに成功すると共に、客車への等級別色帯の導入や夜間車内照明の導入などの旅客サービスの改善を進め、汽車課長にまで出世する。
1907年に関西鉄道が国有化されると鉄道院に入省し鉄道作業局工作課長。技術幹部として蒸気機関車等の開発に手腕をふるいつつ、当時鉄道院総裁だった後藤新平の指示で国鉄の広軌化(広軌改築。現代的に言えば標準軌化)計画に策定。この時共に広軌化計画に関与していた若手官僚の中に後に日本国有鉄道の総裁となる十河信二がいる。しかし、当時の政界は「建主改従」・「我田引鉄」という言葉に代表される利権重視の地方ローカル線延伸を優先し、幹線の改軌による輸送力向上という安次郎らの「改主建従」主張は受け入れられなかった。原敬内閣が狭軌の採用を決定したため辞職し渡満した。
その後、南満州鉄道株式会社(満鉄)筆頭理事・社長代理などを経て1925年に汽車製造(汽車会社)の社長に就任[1]。1939年に鉄道大臣の諮問機関として「鉄道幹線調査会」が発足すると、特別委員長に選任され「弾丸列車計画」を推進する。しかし戦局の悪化で弾丸列車計画は頓挫し、またしても広軌改築計画は実現しなかった。日の目を見ないまま1946年に没。計画は息子・秀雄によって新幹線として結実した。
長男秀雄を始め、島の子供達は皆、技術者として功を成している。四男の文雄は海軍飛行設計士から新幹線開発を経てYS-11の設計に携わっている。
栄典
1916年(大正5年)1月19日 - 旭日小綬章[2]
1917年(大正6年)12月24日 - 勲三等瑞宝章[3]
1918年(大正7年)5月20日 - 従四位[4]
1931年(昭和6年)4月11日 - 勲二等瑞宝章[5]
脚注
^ 「あじあ」用車両の設計に関与したとされるが、ドイツ流の設計手法を身につけた島安次郎が、吉野信太郎など米国流の設計手法を身に着けて米国流の鉄道を作ってきた人々をさしおいて米国流のパシナ・米国のスムースサイドに範を取った客車の設計にどう関与できたのか不明である。
^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
^ 『官報』第1620号「叙任及辞令」1917年12月25日。
^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
^ 『官報』第1284号「叙任及辞令」1931年4月14日。
参考文献
橋本克彦『日本鉄道物語』(講談社、1989年) ISBN 4062032244
朝倉希一「島安次郎先生の事業」
- 社団法人日本機械学会『日本機械学會誌』昭和23年1月 第51巻第352号 p20~p23
- 「プレミアム8 トライ・エイジ」(NHK 2011年2月)
演じた俳優
緒形直人 - 『プレミアム8』(2011年2月3日・NHK BS)=トライ・エイジ~三世代の挑戦~「第一回 島家三代の物語」。
加藤剛 - 『プレミアム8』(2011年2月3日・NHK BS)=トライ・エイジ~三世代の挑戦~「第一回 島家三代の物語」。晩年を演じた。
関連項目
エンジニール〜鉄道に挑んだ男たち〜 - 島を主人公とする作品。- 日本の改軌論争
- 島秀雄
- 十河信二
- 島隆 (鉄道技術者)
外部リンク
「我国の鉄道を広軌に改めよ」1922年6月16日付満州日日新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
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