崩御
崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。
目次
1 解説
2 現在
2.1 外務省における用法
2.1.1 外国政府の使用例
3 その他の皇族・高位の者など
3.1 薨御
3.2 薨去
3.3 卒去
4 現代以降の皇室の崩御・薨去一覧
5 脚注
6 関連項目
解説
元々は中国起源の語であり、『礼記』曲礼下篇に「天子の死は崩(ほう)と曰(い)ひ、諸侯は薨(こう)と曰ひ、大夫(たいふ)は卒(そつ)と曰ひ、士は不禄(ふろく)と曰ひ、庶人は死と曰ふ」とある。中国歴代史書では、この死因の敬語はその人物の生前の功績を表すものとして重んじられ、
皇后や大夫の身分にあるものでも、不忠の臣であれば、庶人の礼として死を用いることもあった。例えば資治通鑑では晋の恵帝の皇后賈南風は生前淫乱で悪事をなしたということから、「賜賈后死于金墉城」(賈后に死を金墉城に賜う)[1]と表現している。新聞記事等では日本国外の君主の死亡にも使うことがあった。
日本の新聞では、一例として香淳皇后崩御の際に産経新聞などを除き「(ご)逝去」としたものが多かった。天皇の死以外には崩御の語を用いない場合もある。[2]
またお隠れになるとも表現する。この表現が天皇についてのみ用いられる理由としては、以下の2説がある(これに限らないかもしれないが未詳)。
日本神話において天皇は神の末裔であり、一般の人間とは異なる存在という思想背景があったためと解釈する説- 天皇が太陽神の子孫であるという思想、即ち「天皇の死亡=太陽が雲に隠れる」から来ている説
「雲隠れ」についても、現在では単に姿をくらますという意味合いで用いられるが、元々は2番目の説に由来する語である。
現在
皇室典範第四條
- 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。
天皇の崩御に際しては、「大喪儀」が行われその内一つに国の行事として「大喪の礼」(国事行為)が営まれる。天皇の崩御から追号が決められるまでの期間の天皇については、「大行天皇」と呼ばれる。
また、先帝祭は先帝崩御日に毎年斎行される大祭のことである。
なお、前述『礼記』が示す語義から、古代中国においては用いる語によって執筆者の正統観を表現するという筆法が見られる。具体的には、「崩御」と称せば「その人物が正統な天皇・皇帝であると認めた」ことを意味する、などである。たとえば西晋の陳寿は『三国志』を著した際、魏・蜀漢・呉のうち魏の君主のみに「崩」の語を用いることで、正統が魏にあることを示した。司馬光はそれを改めて、三国すべての君主の死を「殂」とした。[3]
外務省における用法
- 外国の国王[4]、退位した国王[5]及び三后[6]の死に用いる。
外国政府の使用例
2016年にタイ王国の国王ラーマ9世が「崩御」したときはタイ王室庁の文書の非公式日本語訳では「崩御」が、大使館のウェブサイトでは「ご逝去」が使用された。[7]
その他の皇族・高位の者など
律令制下においては、貴人の死を指し、「崩御」の他、皇太子や大臣などの死を意味する「薨御(こうぎょ)」、親王や三位以上の死を意味する「薨去(こうきょ)」、王や女王、四位・五位以上の死を意味する「卒去(しゅっきょ、そっきょ)」などの尊敬語が用いられた。
死に関する敬語としては他にも、「殂(そ)」・「殂落(そらく)」や「逝去(せいきょ)」などがある。「殂」「殂落」は崩御と同義の語だが、現代ではほとんど使われない[8]。
「逝去」も、本来は崩御や薨去に近い表現ではあるが、第二次世界大戦後、人を敬ってその死を表現する語として、この表現が広く一般に普及し定着したことから、今日の報道では皇族の死に対しても、便宜上こちらを使用している。貴人でない一般人の死に対する尊敬語・謙譲語である「死去」[9]や、単に死の概念のみを表す「死亡」は使われない。
薨御
皇太子や大臣の死については、「薨御(こうぎょ)」の語を用いる。
日本政府では、海外の王太子など、皇太子相当の身位の場合は、後述の「薨去」が用いられる場合がある。
薨去
皇族の内の皇太子妃や親王・親王妃や内親王、或いは、位階が三位(正三位・従三位)以上の者の死については、「薨去(こうきょ)」の語を用い、外国の皇太子等元首に近い者の死についても同様の表記を用いる場合がある。明治以降に皇室典範ですべての皇族の死に「薨去」を用いるようになったが、それ以前は親王宣下のない皇族の死は天皇の子といえども「御逝去」と表現された[10]。
また明治時代以降、現職の首相が死亡した際にも薨去が使われることがある[11][12]。1945年(昭和20年)の朝日新聞では、アドルフ・ヒトラーの訃報に「ヒ総統薨去」の見出しを用いた。
2016年(平成28年)現在の日本マスコミ上では、皇族が死んだ場合でも「ご逝去」などの表現が用いられることが多い。しかし公文書においては戦後も皇族や外国の王族に対して「薨去」を使用しており、2011年(平成23年)10月22日の「スルタン・サウジアラビア王国皇太子薨去に際しての弔意メッセージ[13]」は、玄葉光一郎外務大臣声明として薨去の語を用いている。
卒去
皇族の内の王や女王、或いは、位階が四位(正四位・従四位)・五位(正五位・従五位)以上の者の死については、「卒去(そっきょ、しゅっきょ)」の語を用いる。(律令制下)
現代以降の皇室の崩御・薨去一覧
名 | 日 | 没年齢 | 続柄 | 陵墓 | |
---|---|---|---|---|---|
貞明皇后 | 1951年(昭和26年)5月17日 | 満066歳11か月 | 1/大正天皇后 | 多摩東陵 | 土葬 |
秩父宮雍仁親王 | 1953年(昭和28年)1月4日 | 満050歳 | 1/大正天皇第2皇男子 | 豊島岡墓地 | 火葬 |
高松宮宣仁親王 | 1987年(昭和62年)2月3日 | 満082歳 | 1/大正天皇第3皇男子 | 豊島岡墓地 | 火葬 |
昭和天皇 | 1989年(昭和64年)1月7日 | 満087歳 | 1/大正天皇第1皇男子 | 武蔵野陵 | 土葬 |
雍仁親王妃勢津子 | 1995年(平成7年)8月25日 | 満085歳 | 秩父宮雍仁親王妃 | 豊島岡墓地 | 火葬 |
香淳皇后 | 2000年(平成12年)6月16日 | 満097歳 | 2/昭和天皇后 | 武蔵野東陵 | 土葬 |
高円宮憲仁親王 | 2002年(平成14年)11月21日 | 満047歳 | 三笠宮崇仁親王第3男子 | 豊島岡墓地 | 火葬 |
宣仁親王妃喜久子 | 2004年(平成16年)12月18日 | 満092歳 | 高松宮宣仁親王妃 | 豊島岡墓地 | 火葬 |
寬仁親王 | 2012年(平成24年)6月6日 | 満066歳05か月 | 三笠宮崇仁親王第1男子 | 豊島岡墓地 | 火葬 |
桂宮宜仁親王 | 2014年(平成26年)6月8日 | 満066歳04か月 | 三笠宮崇仁親王第2男子 | 豊島岡墓地 | 火葬 |
三笠宮崇仁親王 | 2016年(平成28年)10月27日 | 満100歳 | 1/大正天皇第4皇男子 | 豊島岡墓地 | 火葬 |
脚注
^ 司馬光、「資治通鑑」晋紀第83卷(晋紀五)「己亥,相国倫矯詔遣尚書劉弘齎金屑酒賜賈后死于金墉城。」
^ これは新聞各社の取り決めによるものと思われる。例えば、日本新聞協会の新聞懇話会で取り決めた用字規則を元とする、共同通信社の用字規則『皇室報道について』(記者ハンドブック所収)では、「皇室だけに用いられる特別な用語や敬語は、やさしい言葉に置き換える」としている。共同通信社編『記者ハンドブック』第9版、2002
^ 資治通鑑魏紀二。 「漢主(劉備)殂於永安、諡曰昭烈」、同じ巻に「帝(文帝曹丕)殂。」が見え、魏紀七に「呉主(孫権)殂。」が見える。胡三省の注釈では「通鑑の書法、天子にして四海を奄有する者は「崩」と書し、分治する者は「殂」と書す。惟れ東晉の諸帝,先に嘗て混一するを以って「崩」と書す。説文(解字)に曰く、殂とは、往き死ぬ也。」(司馬光は皇帝で全土を統一した正統王朝のものは「崩」とし、三国の君主のように一部を統治したものは「殂」としている。東晋のように、正統王朝を引き継いだものは「崩」とする。「殂」とは往き死ぬということだと説文解字に書いてある)とし、「崩」「殂」の使い分けを厳密に行っている。
^ “アブドッラー・サウジアラビア王国国王崩御に際しての皇太子殿下及び福田政府特派大使の弔問”. 外務省. 2015年2月8日閲覧。
^ “シハヌーク前国王の崩御に関する野田内閣総理大臣の談話”. 外務省. 2015年2月8日閲覧。
^ “マルグレーテ2世女王陛下略歴”. 外務省. 2015年2月8日閲覧。「なお、父君フレデリック9世国王は1972年に、母君イングリッド皇太后(元スウェーデン王女)は2000年に崩御あそばされている。」
^ タイ王国王室庁発表 プミポン・アドゥンヤデート国王陛下御逝去在京タイ王国大使館より「仏暦2559年(西暦2016年)10月13日15時52分,シリラート病院にてプミポン・アドゥンヤディード国王陛下は安らかに崩御されました。」
^ 「殂」の元々の出典は『孟子』や『書経』舜典などがあげられる(段玉裁『説文解字注』の説)。明治期には「殂」は他国の皇帝・元首の死の尊敬語として用いられていた。例えば森鴎外の「うたかたの記」には「バヮリア王ルウドヰヒ第二世は、湖水に溺れて殂せられしに」と見える。これは司馬光の用例を踏襲したものか。
^ 前述の共同通信社用語規則では皇族以外の著名人の死は、全て記事見本で「死去」とする。これは皇族以外の著名人には全て「さん」の敬称を付けるのと同じことである。
^ 羽倉敬尚『幕末の宮廷』(平凡社、1979年4月)p27
^ 『依願免本官 海軍大臣 大角岑生』 アジア歴史資料センター Ref.A03023467600
^ 大阪朝日新聞 1926.2.2(大正15)記事 - 神戸大学 電子図書館システム
^ 外務省 スルタン・サウジアラビア王国皇太子薨去に際しての弔意メッセージの発出
関連項目
- 諒闇
- 国忌
- 大喪の礼