ヴァヒド・ハリルホジッチ
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アルジェリア代表監督時のハリルホジッチ(2014年) | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | Coach Vahid(ヴァイッド先生)、ワハ | |||||
ラテン文字 | Vahid Halilhodžić | |||||
セルビア語 | Вахид Халилхоџић | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ボスニア・ヘルツェゴビナ フランス | |||||
生年月日 | (1952-05-15) 1952年5月15日(66歳) | |||||
出身地 | ユーゴスラビア ボスニア・ヘルツェゴビナ ヘルツェゴビナ=ネレトヴァ県ヤブラニツァ | |||||
身長 | 182cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1968-1971 | ヴェレジュ・モスタル | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1971-1981 | ヴェレジュ・モスタル | 207 | (103) | |||
1971-1972 | → ネレトヴァ (loan) | 18 | (8) | |||
1981-1986 | ナント | 163 | (92) | |||
1986-1987 | パリ・サンジェルマン | 18 | (8) | |||
通算 | 406 | (211) | ||||
代表歴 | ||||||
1975-1978 | ユーゴスラビア U-21 | 12 | (12) | |||
1976-1985 | ユーゴスラビア | 15 | (8) | |||
監督歴 | ||||||
1990-1992 | ヴェレジュ・モスタル | |||||
1993-1994 | ボーヴェ | |||||
1997-1998 | ラジャ・カサブランカ | |||||
1998-2002 | リール | |||||
2002-2003 | レンヌ | |||||
2003-2005 | パリ・サンジェルマン | |||||
2005-2006 | トラブゾンスポル | |||||
2006 | アル・イテハド | |||||
2008-2010 | コートジボワール | |||||
2010-2011 | ディナモ・ザグレブ | |||||
2011-2014 | アルジェリア | |||||
2014 | トラブゾンスポル | |||||
2015-2018 | 日本 | |||||
2018- | ナント | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ヴァヒド・ハリルホジッチ[2](ローマ字:Vahid Halilhodžić, セルビア語キリル・アルファベットВахид Халилхоџић 1952年5月15日[3] - )は、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身の元・サッカー選手。サッカー指導者。リーグ・アン・FCナントの監督。元ユーゴスラビア代表(現在はボスニア・ヘルツェゴヴィナ国籍以外にフランス国籍も取得)。ディヴィジオン・アン(現リーグ・アン)、1982-83, 1984–85シーズン得点王2回。1976年欧州選手権、1982年ワールドカップに出場した。2015年3月から2018年4月7日まで日本代表監督を務めた(詳細は後述)。
目次
1 生い立ち
2 選手として
3 監督として
3.1 ラジャ・カサブランカ監督時代
3.2 LOSCリール・メトロポール監督時代
3.3 レンヌ監督時代
3.4 パリ・サンジェルマン監督時代
3.5 アル・イテハド監督時代
3.6 コートジボワール代表監督
3.7 ディナモ・ザグレブ監督時代
3.8 アルジェリア代表監督
3.9 トラブゾンスポル監督時代
3.10 日本代表監督就任
3.11 日本代表監督解任とその概要
3.12 日本代表監督解任後
3.13 FCナント監督時代
4 指導スタイル
5 エピソード
6 選手経歴
7 指導者経歴
8 監督成績
9 タイトル
10 栄典
11 主な出演
11.1 CM
12 関連書籍
13 脚注
14 外部リンク
生い立ち
6人兄弟の第4子として生まれ、名字の由来は「親友(ハリル)」「指導者の子孫(ホジッチ)」[4]。近所にあったサッカースタジアムが少年時代のヴァイッドの遊びの場となる。14歳時、将来エンジニアとしての電気工学修学目的でモスタルへと移住、両親の近くで生計を立てようかと考えていたが8歳年上だった実兄のサレムがプロとして成功し弟ヴァイッドをフットボールに誘い、地元フットボールクラブ「ジュニオール・ヴェレジュ・モスタル」に加入。18歳時、進路の決定を迫られFKヴェレジュ・モスタルの契約選手として報酬を得る道を選択。
選手として
選手時代のポジションはフォワード。FKヴェレジュ・モスタル、FCナント、パリ・サンジェルマンFCなどに在籍、ヴェレジュ・モスタル時代は11年間に渡りプレーを続け、通算207試合出場、103ゴールを挙げ、ナント時代には2度のディヴィジオン・アン得点王に輝いた。PSG時代、実母の死没と時を同じくしてプロ選手活動を終え、帰郷。
1978年、この年から開始したUEFA U-21欧州選手権に旧ユーゴスラビア代表として出場(ハリルホジッチは26歳だったが当時は2名までのオーバーエイジ選手が認められていた)し、決勝戦では旧東ドイツ代表を相手に2試合合計で4得点を挙げる活躍を見せた。この大会では6得点を記録し得点王となり、チームを同大会の初代優勝へと導いた。また、初代最優秀選手賞を受賞した[5]。
ユーゴスラビア代表には1976年から1985年まで招集され、15試合に出場して8ゴール[6]を挙げた。1976年欧州選手権、1982年ワールドカップに出場した。
横浜F・マリノスの前監督、エリク・モンバエルツとは、パリ・サンジェルマン時代での選手・指導者という間柄で、現在も交流があるという。
監督として
選手時代の蓄えを元手に母国にて飲食店、衣料品店などの事業に出資するも、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にて資産が消滅。その後、古巣のヴェレジュ・モスタルで初めて監督となる。しかし、紛争が激化した影響でサッカーどころではなくなり、フランスへ移住。自宅の前で起きた銃撃戦に巻き込まれ重傷を負った事もあったという[4]。1995年にフランス国籍を取得している。
ラジャ・カサブランカ監督時代
1997年から1998年まで監督を務めたモロッコのラジャ・カサブランカでは、国内リーグを2連覇、1997年のCAFチャンピオンズカップを制しアフリカチャンピオンに導いた。
LOSCリール・メトロポール監督時代
1998年から2002年まで監督を務めたフランスのLOSCリール・メトロポールでは、1999-00シーズンに2部リーグ優勝、2000-01シーズンはリーグ・アン昇格1年目ながら3位に食い込み、その手腕が評価され同年の年間最優秀監督に選ばれた。
レンヌ監督時代
フランス1部レンヌ監督に就任するも編成方針をめぐってクラブ幹部と対立し、1シーズンでチームを去った。[7]
パリ・サンジェルマン監督時代
1年目にはフランスカップ優勝とリーグ2位という成績を残すも、2年目に入ると選手たちやクラブとの関係は悪化し2005年2月に解任。開幕スタートダッシュに失敗したそのシーズン、彼は主力選手の内紛もあって思うような成績を残せず、すっかり選手からの求心力を失っていた。しかもチーム復調の障害となったのは、他ならぬ彼の厳しい指導スタイルだった[8]
アル・イテハド監督時代
2006年6月、サウジアラビア1部アルイテハドではクラブ幹部の介入や生活環境が気に入らず、半年も持たずに辞任。[7]
コートジボワール代表監督
2008年5月、ウリ・シュティーリケの後任として就任。同年5月24日、キリンカップサッカー2008で日本代表(監督・岡田武史)と対戦[9]。当時、日本でリハビリ中だったサッカー日本代表前任監督イビチャ・オシムが試合観戦に訪れ会話を交わす。2009年10月にはアフリカ最終予選で2010 FIFAワールドカップの出場権を獲得した。2010年2月27日、アフリカネイションズカップ2010準々決勝敗退の責任をとる形で代表監督解任[10]。
ディナモ・ザグレブ監督時代
2010年8月から指揮したクロアチアリーグ1部ディナモ・ザグレブでリーグ優勝するも、またもやクラブとの間に亀裂が生じて退任。[7]
アルジェリア代表監督
2011年6月、アルジェリア代表監督に就任。アフリカで重要視されているアフリカネイションズカップ(アフリカ代表王者を決める大陸選手権)では、2012年大会予選D組4チーム中3位で予選敗退で本大会出場できず、2013年大会は予選は突破したものの本大会グループリーグD組で最下位で敗退と同大会で立て続けに結果を残せず、解任危機に陥った[11]。同時期に並行して行われていた2014年ブラジルW杯アフリカ2次予選H組は首位で快進撃を続けていたので辛うじて解任されなかった。
2013年11月19日、2014年ブラジルW杯アフリカ最終予選最終戦で予選突破を決め、2014年ブラジルW杯出場を決めた。ブラジルW杯本大会メンバーは、アフリカ最終予選最終戦メンバーから当時19歳のMFナビル・ベンタレブ、イングランド2部リーグのレスター所属の当時無名の攻撃的MFリヤド・マフレズなど5名を抜擢し、入れ替えた[11]。約1年半前の2013年アフリカネーションズカップメンバーからでは、約半数の12名の選手が入れ替わっていた[11]。ブラジルW杯グループリーグH組では、初戦でベルギーに1-2で逆転負けしたものの、第2戦は韓国に4-2で勝利し、第3戦のロシアと1-1で引き分けてグループリーグを2位で突破し、アルジェリア史上初のベスト16入りを果たした。続く決勝トーナメント1回戦では優勝候補で実際にこの大会で優勝したドイツと対戦し、堅守と縦への鋭い攻撃で、ドイツを苦しめた。正規の90分では0-0で決着がつかず、延長戦に突入した。延長戦では2失点し、最後まで諦めることなく1点を返したものの、1-2で敗れた[11]。ハリルホジッチは、この時点でも高く評価されていたが、ドイツが優勝した後は、そのドイツを最も苦しめたのが、アルジェリア代表であったことから、世界的にさらに高い評価を受けるようになった[11]。
帰国したアルジェリア代表をアルジェリアの首相が出迎え、同国首都アルジェで凱旋パレードが行われた[12]。同代表監督継続を示されたが、固辞した。以降、アルジェリア国民は、ハリルホジッチを英雄視し、アルジェリア代表が苦境に陥る度に、ハリル待望論が出るようになった{実際に、サポーターが代表戦中にハリルホジッチの名前を称えながら連呼したり[13]、同監督の日本代表監督解任後にオファーを出したりしている(日本代表監督解任後の項で後述)}。
トラブゾンスポル監督時代
ブラジルW杯後、トルコ1部のトラブゾンスポルの監督に就任したが、わずか3か月で契約解除[14]。
日本代表監督就任
2015年3月12日、日本サッカー協会の要請を受諾して日本代表監督に年俸200万ドル(約2億7000万円)で就任[15][16][17]。代表監督への就任は3ヵ国目、公用語がフランス語ではない国は初めてとなった。2017年8月にはアジア最終予選を1位で通過、2018 FIFAワールドカップの出場権を獲得した。
日本代表監督解任とその概要
ハリルはパスを繫ぐより、縦に速い戦術を求め当初は成果が出たが、相手に研究されると迷走、打開策を示すことができなかった。そこでベテランの本田、香川、岡崎らが戦術の見直しをハリルに直談判。すると、彼らの出場時間は減り、代表に呼ばれなくなった。選手は『意見を言えば外される』という思いに至った[18]。本田は2017年6月、2時間以上語り合うも、トップ下の定位置を奪われ、左サイドに追われた。岡崎は呼ばれることがなくなった[19]。
2017年EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ(旧称東アジアカップ・東アジア選手権)で、宿敵・韓国に完敗[20]。にもかかわらず、開き直ったように「韓国の方が格上だ。試合前から日本より強いと分かっていた」と言い放った指揮官の采配と態度を問題視。解任の可能性を探ったが協会幹部の方向性がまとまらず、消極的続投となった[21]
2017年11月の欧州遠征で大敗したブラジル戦後にも話し合いの場を持っている。ただ選手全員ではなく、小さなグループ単位だった。この時も選手は全員での選手ミーティング開催を申し入れたが、拒否されていた。(それまでは許されていた)[22]。
2018年3月、ベルギー遠征では常連とみられた酒井高、乾が外れており(後に、酒井高は追加招集)、2人は前年11月の活動で、指揮官と戦い方を巡り意見を戦わせていた。周囲は“粛清”と受け止めた[23]。
2018年3月23日のマリ戦(1-1)は不完全燃焼に終わり、試合後にはハリルチルドレンと言える選手たちも含め様々な選手たちから意見が噴出。「縦に速い攻撃だけじゃ……」「監督と選手にイメージのギャップ? それは見ていてわかると思います」「ずっと前に蹴れ、蹴れと言っているが、そんなに全部は蹴れない」「今日の試合内容ではW杯で勝つのは厳しい」「(相手が)来ていないのに前の人に預ける必要はないと思います」など監督批判が並んだ[24][25]。なおこの試合後に選手たちはミーティングを開こうとハリルに持ちかけたが禁じられた[26]。なおこの試合後に戦術に否定的なコメントを出したハリルホジッチの主軸選手には翌ウクライナ戦で出場機会がなかった[27][28]。
27日の国際親善試合ウクライナ戦に向けた前日会見の場で、ハリル監督は「何か問題があれば内部で解決するもの。外部に対する発言はあまり良くない」と箝口令をしいたが、長谷部も「実際、僕も誰の発言かは分からないからクリアじゃない」としながらも、「普通に考えて、チームの中で共有するものと、こういうところで喋るものは選手個々の裁量はある」。もっとも「僕の感覚として、そんなに(外部に意見が)出ている感じは受けない」との意見を述べた[29]。監督への不満が、これだけ報道陣に漏れることは前代未聞と事を重くみた当時の西野朗技術委員長が、選手から聞き取り調査をおこなった。結果、選手の総意として主将から『現体制では難しい』との意見を聞くことになる。こうして日本人選手で唯一信用している選手としていた選手からも批判を受けることとなった。中間管理職的な立場になっていた長谷部のもとに不満が集まり、監督と選手の板挟みに悩むようになった。選手の不満は理解できる。だが、それを受け入れてくれるとは到底思えなかった。海外遠征で、長谷部は選手がホテルに缶詰め状態になっていたことから、『朝の散歩がしたい』と訴えたことがあった。だが答えは『NO』。それでも長谷部が食い下がると、『ならばチーム全員でしよう。俺も参加する』となった。これに選手は、プライベートまで監視するのかと激怒した。長谷部は監督と選手の潤滑油になろうと努力したが溝は深まる一方で、上記のような批判が外に漏れる事態となった[30]。しかしながら2018年4月14付のクロアチア紙でハリルは「選手が不満を持っているとは感じず理由が全くわからない」と述べている[31]。
2018年4月7日、フランスを訪れた日本サッカー協会(JFA)会長の田嶋幸三により日本代表監督の契約を解除することを通達された[32]。
4月9日、JFAの会見によりハリルホジッチの解任が発表された[33]。ワールドカップ出場決定後の監督交代は日本史上初[34]。自身としてはコートジボワール代表以来2度目となった。
日本サッカー協会側は「選手たちとのコミュニケーションや信頼関係が薄れていた」と解任理由を語った[35]。実際に母国語ではないフランス語を使うことによる問題はあった[36]。
そんな中、日刊スポーツの直撃取材を受けたハリルホジッチは、ハリルホジッチは「日本では、すべてが金とビジネスによってひっくり返ってしまった」と解任に不満を示し、日本での会見も行われることとなった[37]。
2018年4月27日、ハリルホジッチは記者が集まる中で記者会見を行った[38]。ハリルホジッチは、選手とのコミュニケーション不足との理由で解任されたのは初めてだと語り[39]、「確かに西野とのコミュニケーションは少なかったかもしれない。彼に意見を求めたりもしたが、あまり多くを語らない人だった。すべてのトレーニングに参加してくれたが、いつも『良かった』と言ってくれた」「会長には解雇権があるので、解雇は問題ない。ただ、私がショックを受けたのは、前もって情報を教えてくれなかったことだ。何の相談もなかった」「西野にしても田嶋にしても、『ハリル、問題があるぞ』となぜ言ってくれなかったのか。一度も言われたことはなかった」「私の得意分野である『最後の詰め』という仕事をさせてもらえなかった。ここからだというところで仕事ができなかった」と述べた。「最後に私は日本の永遠のサポーター」だと述べ会見を占めくくった[40]。
ハリルホジッチは「日本が大好きなので、このまま終わりにすることはできない。裁判できちんと事実を明らかにしたい」としており、2018年5月24日に日本サッカー協会(JFA)に対し名誉毀損による慰謝料1円と謝罪広告の掲載を求めて東京地裁に提訴した[41]。
2018年6月19日に行われたW杯初戦のコロンビア戦を2-1で勝利し、下馬評を覆すサプライズを披露しそれについてハリルホジッチはコメントを求められると「私が何かをコメントすることは意味がないよ。私は試合を見ていない」と述べ、大好きな日本の試合を見ていないとし、具体的な言及を避けた[42]。
2018年7月21日放送の週刊フジテレビ批評に出演した田嶋幸三が「2017年EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ(旧東アジアカップ)(12月16日の韓国戦で1-4で大敗)で監督交代の議論が出たが、修正を期待していた。ところが、2018年3月のベルギー遠征でも(内容も良くなく、結果も出ず)修正できなかった。以前も言ったようにW杯で1%でも勝つ確率を上げるため、監督交代に踏み切った。西野(当時JFA技術委員長)をはじめ多くの人と相談したが、最終的に自分自身で(ハリルホジッチ解任を)決断した」と番組内で解任理由を述べた[43]。
こうして自身の監督経歴では4年率いたリールに続いて2番目の長期政権を終えた。[44]
日本代表監督解任後
2018年7月8日、アルジェリア代表監督への復帰で合意したと報じられた[45]が、同年7月20日にアルジェリアサッカー連盟会長が同監督との契約交渉が破談したことを認めた[46]。名誉毀損と謝罪広告を求める訴訟の弁論準備手続きが9月25日、東京地裁で行われた[47]。
FCナント監督時代
2018年10月2日、現役時代プレーヤーとして所属経験もあったリーグ・アン所属のFCナントの監督に就任する事が発表された。契約期間は2020年6月まで。またこれと同時にこれまでチームを率いていたミゲル・カルドソとは双方合意のもと契約が解除された[48]。リーグアンでの指揮は13年ぶりとなった。
指導スタイル
- 2008年から率いたコートジボワール代表では史上稀に見る攻撃的なチームを作り上げたが、大本命とされたアフリカネイションズカップ2010で準々決勝敗退となり、解任された。アルジェリア代表では、北アフリカのチームらしく綺麗にパスをつなぐスタイルだったチームにタイトな守備と鋭い速攻を植え付け、W杯ベスト16となった。対戦相手に応じてシステムを変えながら、機能させる手腕をもつ。同胞の大先輩である元日本代表監督イビチャ・オシムとも親交が深く[49]、オシムとの関係については「親友」と述べている[50]。
2014 FIFAワールドカップでアルジェリア代表では「4-2-3-1」、「4-3-3」、「5-4-1」などを使い分けた。- 「ルール、規律、練習」をモットーとし、ロナウジーニョやディディエ・ドログバといったスター選手だろうと妥協を許さぬスタイルとされる[51][52]。自分のやりたいサッカーを選手に対してミーティングを通じてはっきり示して指導するタイプ[53]であり、結果的にビデオも交えたミーティングの回数は多く長くなりがちになるため、選手を代表した長谷部誠から時間短縮を求められたことがある[54]。
- 日本代表で主将を務めた長谷部誠からは「ひと言で言うと、すべて正直に、すべてをストレートに話しますね」「個人面談だけではなく、『記者会見が長い』と言われますけど、ミーティングの回数も多く、時間も長い。プロになって20人、30人ぐらいの監督と一緒に仕事をしてきましたけど、一番長いくらいです」と語られている[55]。
- 日本代表監督就任から3ヶ月程度は帰国なしで国内組視察を行う[56]。本田圭佑[57]や香川真司[58]はハリルホジッチについて「覚えてない。印象も全然ない」「イメージがない」などと述べているが、岡崎慎司は「印象に残っていたチームを率いていた監督が日本に来る。すごい偶然」と好印象を語った[59]。
- チームの全責任は監督にあるという信念を持ち、日本滞在時は日本サッカー協会に常駐する[60]、記者会見などではより多くの質問に答えようとする[61]など、積極的にスタッフやメディアとの交流を持とうとしている。一方、合宿中の選手取材に対しては従来よりも厳しい規制をかけた[62]。
- 己の意見を貫き、協調することはなく、ピッチ内だけではなくピッチ外でも厳しいルールを設ける厳格さを貫いている[63]。
エピソード
- 2015年8月24日、東京都千代田区内にて乗用車を運転中にタクシーと接触事故を起こした。双方の運転手に怪我はなく、互いの車体も擦れた程度で大きな損壊はなかった[64]。2017年6月15日にも東京都文京区内にて乗用車を運転中に接触事故を起こした。双方の車に傷やへこみができたが、運転手に怪我はなかった[65]。
- 2016年5月5日、熊本地震の被災地を訪問した際に、現地の状況をボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時の「銃を向けられた」「自宅が破壊された」等の経験を踏まえて語っている[66]。
選手経歴
FKヴェレジュ・モスタル 1971-1981
- → ネレトヴァ 1971-1972 (loan)
FCナント 1981-1986
パリ・サンジェルマンFC 1986-1987
指導者経歴
FKヴェレジュ・モスタル 1990-1992
ASボーヴェ 1993-1994
ラジャ・カサブランカ 1997-1998
LOSCリール・メトロポール 1998-2002
スタッド・レンヌ 2002-2003
パリ・サンジェルマンFC 2003-2005
トラブゾンスポル 2005-2006
アル・イテハド 2006
コートジボワール代表 2008-2010
GNKディナモ・ザグレブ 2010-2011
アルジェリア代表 2011-2014,2018-
トラブゾンスポル 2014
日本代表 2015-2018
FCナント 2018-
監督成績
- 2018年10月1日現在
チーム名 | 就任 | 退任 | 記録 | ||||||||
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試合 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 % | |||||||
ラジャ・カサブランカ | 1997年6月 | 1998年10月 | 7001450000000000000♠45 | 7001280000000000000♠28 | 7001140000000000000♠14 | 7000300000000000000♠3 | 07001622200000000000♠62.22 | ||||
リール | 1998年10月 | 2002年6月 | 7002159000000000000♠159 | 7001790000000000000♠79 | 7001440000000000000♠44 | 7001360000000000000♠36 | 07001496900000000000♠49.69 | ||||
レンヌ | 2002年11月 | 2003年7月 | 7001430000000000000♠43 | 7001150000000000000♠15 | 7001100000000000000♠10 | 7001180000000000000♠18 | 07001348800000000000♠34.88 | ||||
パリ・サンジェルマン | 2003年7月 | 2005年2月 | 7001630000000000000♠63 | 7001280000000000000♠28 | 7001210000000000000♠21 | 7001140000000000000♠14 | 07001444400000000000♠44.44 | ||||
トラブゾンスポル | 2005年10月 | 2006年6月 | 7001260000000000000♠26 | 7001120000000000000♠12 | 7000500000000000000♠5 | 7000900000000000000♠9 | 07001461500000000000♠46.15 | ||||
アル・イテハド | 2006年6月 | 2006年8月 | 7001100000000000000♠10 | 7000700000000000000♠7 | 7000100000000000000♠1 | 7000200000000000000♠2 | 07001700000000000000♠70.00 | ||||
コートジボワール | 2008年5月 | 2010年1月 | 7001220000000000000♠22 | 7001120000000000000♠12 | 7000900000000000000♠9 | 7000100000000000000♠1 | 07001545500000000000♠54.55 | ||||
ディナモ・ザグレブ | 2010年8月 | 2011年5月 | 7001320000000000000♠32 | 7001240000000000000♠24 | 7000400000000000000♠4 | 7000400000000000000♠4 | 07001750000000000000♠75.00 | ||||
アルジェリア | 2011年6月 | 2014年7月 | 7001310000000000000♠31 | 7001190000000000000♠19 | 7000500000000000000♠5 | 7000700000000000000♠7 | 07001612900000000000♠61.29 | ||||
トラブゾンスポル | 2014年7月 | 2014年11月 | 7001140000000000000♠14 | 7000400000000000000♠4 | 7000800000000000000♠8 | 7000200000000000000♠2 | 07001285700000000000♠28.57 | ||||
日本 | 2015年2月 | 2018年4月 | 7001380000000000000♠38 | 7001210000000000000♠21 | 7000900000000000000♠9 | 7000800000000000000♠8 | 07001552600000000000♠55.26 | ||||
ナント | 2018年10月1日 | 5000000000000000000♠0 | 5000000000000000000♠0 | 5000000000000000000♠0 | 5000000000000000000♠0 | !— | |||||
合計 | 7002484000000000000♠484 | 7002249000000000000♠249 | 7002132000000000000♠132 | 7002103000000000000♠103 | 7001514500000000000♠51.45 |
タイトル
- 選手
UEFA U-21欧州選手権:1978(ユーゴスラビア代表)※オーバーエイジ枠での出場- ユーゴスラビアカップ:1981(ヴェレジュ・モスタル)
クープ・ドゥ・フランス:1983(ナント)
フランスリーグ得点王:1982-83、1984-85(ナント)[67]
- 最優秀外国人選手:1984、1985(ナント)[68]
- 指導者
CAFチャンピオンズリーグ:1997(ラジャ・カサブランカ)
ボトラ(モロッコリーグ):1997、1998(ラジャ・カサブランカ)- クープ・ドゥ・フランス:2004(パリ・サンジェルマン)
リーグ・ドゥ(2部)年間最優秀監督:1999(リール)[68]
リーグ・アン年間最優秀監督:2001(リール)[68]
栄典
リール市民栄誉賞【フランス、2002年】[69]
レジオンドヌール勲章 騎士(シュヴァリエ)【フランス、2004年】[69]
モスタル市民栄誉賞【ボスニア・ヘルツェゴビナ、2011年】[69]
ヤブラニツァ市民栄誉賞【ボスニア・ヘルツェゴビナ、2011年】[69]
主な出演
CM
WOWOW「UEFA EURO 2016 マルシェ」(2016年)[70]
関連書籍
- 『ハリルホジッチ思考 成功をもたらす指揮官の流儀』 東邦出版、2015年4月。ISBN 978-4809413209。
- 『ハリルホジッチと日本サッカーの未来 その指針と論点』 ベースボールマガジン社、2015年5月。ISBN 978-4583108629。
- ローラン・ジャウィ、リオネル・ロッソ 『ハリルホジッチ 勝利のスパイラル』 楜澤美香訳、日本文芸社、2015年7月。ISBN 978-4537261226。
- 五百蔵容 『ハリルホジッチ・プラン サッカー後進国日本 逆転の戦術論』 星海社、2018年4月。ISBN 978-4065116357。
脚注
^ 日本サッカー協会による表記はこれで統一されている。
^ ForvoでのVahid Halilhodžićの発音例
^ “PROFILE”. ヴァイッド・ハリルホジッチ 公式ウェブサイト. 2017年5月15日閲覧。
^ 知ってた?ハリルホジッチ監督、「あの大会」の初代MVPだった qoly 2015年6月18日
^ ハリルホジッチ日本代表新監督の人物像――頭脳明晰な激情家サッカーダイジェストWeb 2015年3月12日
- ^ abc“大丈夫?激情家ハリル氏の途中退団癖” (日本語). 東スポWeb - 東京スポーツ新聞社. https://www.tokyo-sports.co.jp/sports/soccer/375166/ 2018年7月30日閲覧。
^ “諸刃の剣!? ハリルホジッチ監督の3つの不安材料|サッカー代表|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva” (日本語). 集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva. https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jfootball/2015/03/20/post_886/index_3.php 2018年7月30日閲覧。
^ なお、この時に「日本にもコートジボワール人選手がいた」という理由で、当時は柏レイソルからJリーグ2部の徳島ヴォルティスにレンタル移籍中だったドゥンビア・セイドゥを緊急追加招集し、日本戦に起用した。当時20歳のドゥンビアは代表初招集で、当時は日本向けのファンサービスという見方もあったが、同年6月にスイスリーグのBSCヤングボーイズに移籍したドゥンビアは同リーグで2年連続得点王になり、代表でもW杯南アフリカ大会出場やアフリカネイションズカップ2015優勝などを果たすなどの成長を見せた。詳しくは同選手の項目を参照。
^ 【ハリル新監督独占激白3】独裁者のイメージ、私じゃないからねスポニチ 2015年3月13日
- ^ abcdeW杯までの半年が勝負。前回大会のアルジェリアに見る、ハリル流強化プランとは?LEGENDS STADIUM、2018年1月30日
^ W杯ベスト16のアルジェリア代表が凱旋パレードafpbbニュース、2014年7月3日
^ アルジェリア国民が“ハリル待望論” 親善試合に敗戦し大合唱「最も偉大である!」Football ZONE WEB、2018年6月3日
^ “大丈夫?激情家ハリル氏の途中退団癖” (日本語). 東スポWeb - 東京スポーツ新聞社. https://www.tokyo-sports.co.jp/sports/soccer/375166/ 2018年7月30日閲覧。
^ ハリルホジッチ氏の日本代表監督就任が正式決定、コーチ2人も内定ゲキサカ 2015年3月12日
^ SAMURAI BLUE(日本代表) 新監督にヴァイッド・ハリルホジッチ氏を招聘日本サッカー協会発表、2015年3月12日付
^ ハリルホジッチ体制誕生で改めて振り返る日本代表監督の待遇サッカーダイジェストWeb、2015年3月24日
^ “ハリル解任!長谷部誠が背負った「中間管理職」の重苦 | Smart FLASH[光文社週刊誌スマフラ/スマートフラッシュ”] (日本語). Smart FLASH[光文社週刊誌]スマフラ/スマートフラッシュ. (2018年4月17日). https://smart-flash.jp/sports/38592 2018年10月16日閲覧。
^ “「ハリル電撃解任」で本田・岡崎・香川が死の淵から蘇生(2)避けたかったカズの二の舞 | アサ芸プラス” (日本語). アサ芸プラス. 2018年10月16日閲覧。
^ “EAFF E-1 サッカー選手権 2017 決勝大会” (日本語). JFA|公益財団法人日本サッカー協会. http://www.jfa.jp/match/EAFF_E1_Football_Championship_2017/m/match_page/m6.html#page-title 2018年10月16日閲覧。
^ “長谷部が現体制では厳しい…協会極秘で聞き取り調査 - フットボールの真実 - サッカーコラム : 日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com. https://www.nikkansports.com/soccer/column/truth/news/201804100000084.html 2018年10月16日閲覧。
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^ “日本vsマリ スタメン発表 | ゲキサカ” (日本語). ゲキサカ. 2018年10月16日閲覧。
^ “ハリル監督が選手の“内部意見”発信に苦言 主将の長谷部も同調「一つ言えるのは…」” (日本語). ニコニコニュース. https://news.nicovideo.jp/watch/nw3388095 2018年10月16日閲覧。
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^ “田嶋会長、解任理由は「選手との信頼関係薄れた」ハリル氏は不満「なぜこの時期に」”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2018年4月9日). http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2018/04/09/kiji/20180409s00002014205000c.html 2017年4月9日閲覧。
^ SAMURAI BLUE(日本代表) ヴァイッド・ハリルホジッチ監督との契約を解除日本サッカー協会、2018年4月9日
^ “日本代表 ハリル監督解任 田嶋会長が明らかに…W杯出場決定後初の交代劇”. スポーツニッポン (2018年4月9日). 2018年4月14日閲覧。
^ ハリル解任、背景に本田圭佑ら5人からの「直訴メール」デイリー新潮 2018年4月11日
^ 株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部. “ハリル監督「コミュニケーション不足」に陥った2つの要因 仏語、コーチとの関係 - スポニチ Sponichi Annex サッカー” (日本語). スポニチ Sponichi Annex. https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2018/04/10/kiji/20180410s00002014016000c.html 2018年10月16日閲覧。
^ ハリル氏、衝撃の解任推測「すべてが金とビジネスでひっくり返った」sanspo 2018年4月11日
^ ハリル氏、27日“反論会見”…報道陣は大谷MLB挑戦会見の250人超えへsanspo 2018年4月27日
^ (コミュニケーション不足で解任されたのは)初めてのこと。スポーツナビ サッカー編集部 2018年4月27日
^ / “「問題があるとなぜ言ってくれなかった」ハリルホジッチ前監督 解任後の会見”. スポーツナビ. (2018年4月27日). https://russia2018.yahoo.co.jp/column/detail/201804270003-spnavi /
^ “ハリル氏 24日に提訴、慰謝料1円と謝罪広告の掲載求める”. スポーツニッポン. 2018年7月9日閲覧。
^ “前日本代表指揮官ハリル氏、“金星”のコロンビア戦「見ていない」/W杯” (日本語). SANSPO.COM. https://www.sanspo.com/soccer/news/20180621/jpn18062112470019-n1.html 2018年10月16日閲覧。
^ サッカー協会・田嶋幸三会長、ハリル監督解任は「最終的には自分自身で決めた。批判は覚悟の上だった」スポーツ報知、 2018年7月21日
^ 恭行, 長束. “ハリルホジッチがいつも「短命政権」に終わる理由――クロアチア人記者が語る | 文春オンライン” (日本語). 文春オンライン. http://bunshun.jp/articles/-/7056 2018年10月24日閲覧。
^ “ハリル氏 アルジェリア代表監督復帰!数日中に正式契約へ”. スポーツニッポン. 2018年7月9日閲覧。
^ ハリル氏、アルジェリア復帰は消滅。連盟会長が交渉破談を認めるフットボールチャンネル、 2018年7月21日
^ 株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部. “ハリル氏訴訟、田嶋会長への反論書面提出 次回は11月20日 - スポニチ Sponichi Annex サッカー” (日本語). スポニチ Sponichi Annex. https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2018/09/26/kiji/20180925s00002014287000c.html 2018年10月24日閲覧。
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元日本代表監督のハリル氏がナント指揮官に就任! 現役以来32年ぶりの古巣復帰 サッカーキング (2018年10月2日)
^ 【識者の眼】代表監督に推したい気鋭の名将ハリルホジッチ。多彩な戦術を持つ情熱家。W杯の実績も十分フットボールチャンネル 2015年2月8日
^ オシム氏は「親友」…ハリルホジッチ監督「日本に来て試合を見てほしい」 サッカーキング 2015年3月14日
^ 最後の救世主となるか?/名将ハリルホジッチ、ディナモ新監督に就任sportsnavi 2010年8月19日
^ 【ハリル新監督独占激白1】本田も特別扱いなし「ベンチ置くの恐れない」スポニチ 2015年3月13日
^ 長谷部も感じたハリル監督の自信「ミーティングも短め」デイリースポーツ(2017年8月30日)2017年9月3日閲覧
^ UAE戦の調整法でミスを認めたハリル監督 選手側から長谷部を介して指揮官に要望 Football Zone Web (2016年10月6日)2017年9月3日閲覧
^ 長谷部誠が語る「ハリルホジッチ監督」…独占インタビュー動画 サッカーキング 2016年8月22日
^ ハリル新監督無休J視察 帰省封印3カ月ベッタリ日刊スポーツ 2015年3月15日
^ 本田 W杯ハリル氏VSドイツ戦「覚えてない。印象も全然ない」スポニチ 2015年3月1日
^ 香川、ハリルホジッチ新監督には「全くイメージない」フットボールチャンネル 2015年3月15日
^ 岡崎、“ハリルサッカー”印象的「全員が精根尽きるまで走り切っていた」サンスポ 2015年3月16日
^
ハリル監督が接触事故!JFAに運転中タクシーと日刊スポーツ 2015年8月24日
^ 東アジア杯メンバー発表、ハリルホジッチ監督会見要旨ゲキサカ 2015年7月23日
^ ハリル監督 選手への規制を強化東京スポーツ 2015年6月9日
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^ ハリルホジッチ監督が接触事故 今後は運転手を付けることも検討 東スポWeb 2015年8月24日
^ サッカー日本代表・ハリル監督が交通事故 協会は「運転に注意を」と指導 東スポWeb 2017年6月15日
^ ハリル監督が熊本訪れ約束「みなさんのためW杯へ」 日刊スポーツ(2016年5月6日)2018年1月3日閲覧
^ “France - Topscorers”. RSSSF. 2007年9月24日閲覧。
- ^ abc“France - Footballer of the Year”. RSSSF. 2007年9月24日閲覧。
- ^ abcdヴァイッド・ハリルホジッチ氏、ロシアW杯に向かう日本代表監督に決定! Legends Stadium 2015年3月12日閲覧
^ “日本代表ハリルホジッチ監督がCM初出演 華麗なリフティングを披露”. ORICON STYLE. (2016年4月28日). http://www.oricon.co.jp/news/2070932/full/ 2016年4月28日閲覧。
外部リンク
オフィシャルウェブサイト(日本語)
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タイトル・受賞歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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ユーゴスラビア代表 - 出場大会 | ||||||||||||||
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監督歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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