モブツ・セセ・セコ
モブツ・セセ・セコ Mobutu Sese Seko Kuku Ngbendu wa za Banga | |
1983年8月5日にペンタゴンにて。モブツ・セセ・セコ | |
ザイール共和国 第2代大統領 | |
任期 | 1965年11月24日 – 1997年6月17日 |
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出生 | (1930-10-14) 1930年10月14日 ベルギー領コンゴ リサラ |
死去 | (1997-09-07) 1997年9月7日(66歳没) モロッコ ラバト |
政党 | 革命人民運動 |
配偶者 | マリー・アントワネット・モブツ |
モブツ・セセ・セコ・クク・ンベンドゥ・ワ・ザ・バンガ(Mobutu Sese Seko Kuku Ngbendu wa za Banga 1930年10月14日 - 1997年9月7日)は、ザイール(現コンゴ民主共和国)の軍人、政治家。同国の第2代大統領(在任期間1965年から1997年)。第6代アフリカ統一機構議長。
目次
1 生い立ち
2 コンゴ独立
3 大統領就任
4 内戦激化
5 亡命・死後
6 出典
7 関連項目
8 外部リンク
生い立ち
モブツは1930年10月14日、ベルギー領コンゴのリサラでンバンディ族のカトリックの家庭に生まれた。当時の名前はジョゼフ=デジレ・モブツ (Joseph-Désiré Mobutu) であった。父親は宣教師館の料理人で母親は掃除婦だった。落ち着きがなく放浪癖があったため、1949年に学校を退学となり7年間軍隊に入れられた。その後、首都で会計兼タイピストの主任や公安軍機関紙の編集者となったが、1956年に宗教色のないリベラルな日刊紙に時事ニュースの編集者として採用され、パトリス・ルムンバと知り合った。1958年、ルムンバが創設したコンゴ国民運動に加入し、ブリュッセルでの独立交渉に参加した。
コンゴ独立
1960年6月にベルギーからコンゴ共和国が独立すると大臣補佐に指名され、ルムンバの抜擢でコンゴ民主共和国軍の参謀総長に就任した。その後、カタンガ国が分離した後のコンゴの状況の悪化に伴い、1960年9月コンゴ動乱初期のクーデターで実権を掌握する。のちにジョセフ・カサブブ大統領と手を結び、パトリス・ルムンバ首相を逮捕したことでアメリカと関係が深くなった。1961年、政権を文民に移譲する。
大統領就任
1965年11月24日に再度クーデターを実行し、大統領に就任して憲法を無効化させ、野党を非合法化して革命人民運動 (MPR) の一党独裁制を確立した。これの導入過程でモブツは反対派を弾圧をもって応じ、かつてコンゴ動乱の最中にカタンガ分離運動を主導し一時的に首相も経験したモイーズ・チョンベは、亡命中の1967年に欠席裁判で死刑を宣告された。同年6月、チョンベの乗っていた飛行機がモブツの手下の工作員にハイジャックされアルジェリアの基地に強制着陸させられた後、彼はそのまま同地に軟禁状態に置かれた。1969年にチョンベは死去するが、自然死とも暗殺とも言われている。また、モブツ政権下での待遇に不満を感じる約800人のカタンガ憲兵隊やかつてチョンベに従っていた元外人傭兵部隊も関与した反乱が起きたが、最終的に鎮圧された(キサンガニの反乱)。さらにカタンガの鉱業権を独占していたコンゴ国内のユニオン・ミニエールをジェカミンとして国有化する資源ナショナリズムを行った[1]。
対外的には、東西冷戦を利用し、アフリカにおける親米反共陣営として西側先進国からの支援金を一手に引き受けて、そのほとんどを着服した。またその権力基盤は、鉱山会社の利益に支えられていたが、それはスイス、ケイマン諸島、キプロスといった国々の秘密銀行口座が容易にした。それに加えて、世界銀行やIMFの資金もモブツを支える事になり、その融資や援助は貧困層への助けにならず、対外債務の泥沼化に拍車をかけた[2]。モブツの不正蓄財は総額およそ50億ドルといわれ、西欧諸国、西アフリカ、モロッコ、ブラジルなどに、豪華別荘や古城・豪邸を保有し、隠し銀行口座を設けた。モブツに私物化された政権を揶揄する言葉として、「モブツの個人資産は、ザイール共和国の対外債務に等しい」といわれた。国内では、中央アフリカとの北部国境付近のバドリテ高原に自家用飛行場つきの巨大な宮殿を建設した。この宮殿は「ジャングルのヴェルサイユ宮殿」と呼ばれ、後年モブツが失脚間際に逃げ込むことになる。また、カウェレにも豪華な中国庭園と住宅を所有していた[3]。TIMEからは「アフリカの独裁者の典型」と評されている[4]。
1971年から国名を「コンゴ」から「ザイール」に、首都のフランス語の呼び名の「レオポルドヴィル」を「キンシャサ」に改称するなど民族主義的な「ザイール化政策」を推進する。1972年に名前も「モブツ・セセ・セコ」に改名。1972年に台湾(中華民国)と国交断絶してモブツは中華人民共和国を訪問して毛沢東に接近し始め[5]、第一次シャバ紛争やアンゴラ内戦などで共通敵はソ連とする利害の一致から西側諸国寄りのアフリカ諸国を支援するサファリ・クラブだけでなく、中ソ対立を起こしていた中国からも戦車や装甲車などの軍事援助を受け[6][7]、中国庭園はもちろんザイールの議事堂であるキンシャサ人民宮殿や国立競技場のスタッド・デ・マルティールなども中国の援助で建設された[8][9][10][11][12]。また、日本の援助でコンゴ川に唯一架かるマタディ橋も建設された。同時期に西洋的なスーツとネクタイを禁止し、アバコストと呼ばれる中国の人民服のような折襟の服装をザイール国民に強制し始める[13]。アフリカの酋長を象徴する杖や虎柄の帽子も愛用した。同じくアフリカの代表的な独裁者であるリビアのカダフィ大佐をソ連に支援されていたことからモブツはライバル視し[14]、チャド・リビア紛争ではリビアとザイールの代理戦争の様相も呈してアフリカ統一機構の平和維持部隊として先陣を切って派兵[15][16]したザイール軍などによるインター・アフリカ軍はリビアを追い出すことを狙ってイッセン・ハブレに加担してるとグクーニ・ウェディから批判[17]された。
内戦激化
1996年8月に前立腺癌を患ってスイスの病院に入院したあたりから事態は変化していく。ザイール国内の不安定要因であった東部国境付近のフツとツチの民族紛争は、遂にザイール領内のツチ系最大勢力「バニャムレンゲ」の大蜂起に発展した。10月にはそれに乗じて人民革命党のローラン・カビラが反政府勢力を結集してコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) を結成、ツチ人の軍事力を背景にキンシャサに向かって進撃を開始した。
武装蜂起当時、モブツは南フランスで静養中で1997年5月まで帰国せず、AFDL軍は、ザイール全土の約4分の3を制圧した。AFDLがキンシャサに迫ったので自国民の保護を念頭にアメリカ、フランス、イギリスや国連などが調停工作に乗り出す。
亡命・死後
1997年5月7日から8日にガボンで、ザイール情勢を協議するため「中部アフリカ仏語諸国7ヶ国首脳会議」が開催され、モブツも出席した。モブツは、本会議で健康上の理由で次期大統領選挙には出馬しないことを確認する声明を発表した。
5月16日、キンシャサに戻ったモブツは突然北部のバドリテにある宮殿に逃れ、国会議長モンセングォ司教率いる内閣に権力が移譲され、モブツは一切国政に関与しない旨の発表をした。5月17日AFDL軍はキンシャサに入城し、カビラ議長はルブンバシから「コンゴ民主共和国」の樹立と国家元首就任を宣言した。
5月18日にモブツはモロッコのラバトへ向けて出国し、9月7日に亡命先のモロッコで死去した。
全体主義、権威主義と民族主義の性格を併せ持つモブツの思想はモブツ主義と呼ばれ、モブツと敵対したルムンバのルムンバ主義と対比され、ブラックパンサー党の指導者であるヒューイ・P・ニュートンや歴史家のE・H・カーらはモブツをファシストと看做すも、今日のコンゴでもモブツの息子ンザンガ・モブツの結成したモブツ主義民主連合は議席を獲得するなど一定の支持を集めてンザンガはジョゼフ・カビラ政権に入閣[18]して一時与党の一つにもなった。
出典
^ Young, Crawford; Turner, Thomas Edwin (2013). The Rise and Decline of the Zairian State (illustrated, reprint ed.). Madison: University of Wisconsin Press. ISBN 9780299101138. p. 290.
^ スティグリッツの経済教室 p-99
^ 中国風の庭にジャンプ台付きプール、今は亡き独裁者の「栄華」の跡 コンゴ民主共和国(AFP.BB.News.2010年12月28日)
^ Tharoor, Ishaan (20 October 2011). "Mobutu Sese Seko". Top 15 Toppled Dictators. Time Magazine. Retrieved 30 April 2013.
^ Et Mobutu rencontra Mao - MBOKAMOSIKA
^ Zaire - Army - Country Data
^ “Zaire: Relations with the Communist World”. Library of Congress Country Studies (1993年12月). 2017年7月19日閲覧。
^ Mianzenza, Aimé D. (2007年10月10日). “Percée Tonituante de la Chine en République Démocratique du Congo: 6 milliards de US$ de prêt qui rend nerveux les Europeens” [Thunderous Breakthrough of China in the Democratic Republic of Congo: US $6 billion dollar loan makes Europeans nervous] (French). Centre d'études stratégiques du bassin du Congo. 2017年7月19日閲覧。
^ Rowe, Peter G.; Kuan, Seng (2004). Architectural Encounters with Essence and Form in Modern China. MIT Press. p. 229. ISBN 026268151X. https://books.google.com/books?id=9irZf11s4NkC&pg=PA229&lpg=PA229.
^ “Points d’intérêt” [Points of Interest] (French). Tourisme RDC Congo. 2017年7月19日閲覧。
^ Oliver, Guy (2006). Almanack of World Football 2007:The definitive guide featuring all the facts and figures from the FIFA World Cup. Headline Book Publishing. p. 59. ISBN 0755315065. https://books.google.com/?id=x5na1WdCYywC&q=Martyrs%27+Stadium.
^ “Evaluating China's FOCAC commitments to Africa and mapping the way ahead”. Centre for Chinese Studies, University of Stellenbosch. p. 43 (2010年). 2017年7月19日閲覧。
^ The Tragic State of the Congo: From Decolonization to Dictatorship, Jeanne M. Haskin, Algora Publishing, 2005, page 44
^ Zaire: A Country Study, Relations with North Africa
^ 小田英郎「リビア・チャド合邦問題とOAU」慶應義塾大学法学研究会1990年
^ “Muammar Qaddafi's War in Chad”. New Republic (2011年3月22日). 2017年7月20日閲覧。
^ Mays, Terry M. (2002). Africa's First Peacekeeping operation: The OAU in Chad. Greenwood. ISBN 978-0-275-97606-4. p. 139
^ Rich Ngapi, "Présidentielle 2011 - Mobutu Nzanga dépose sa candidature à la CENI", Le Potentiel, 7 September 2011.
関連項目
- 植民地
- アルバート湖
- モハメド・アリ
- ジョージ・フォアマン
- インガ・ダム
- ドン・キング
- イディ・アミン
- ジョン・ムウェテ・ムルアカ
外部リンク
- モブツ物語
公職 | ||
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先代: ジョセフ・カサブブ コンゴ民主共和国大統領 | ザイール共和国大統領 1971年以前はコンゴ民主共和国 第2代:1965 - 1997 | 次代: ローラン・カビラ コンゴ民主共和国大統領 |
外交職 | ||
先代: ハイレ・セラシエ1世 | アフリカ統一機構議長 第6代:1967 - 1968 | 次代: フアリ・ブメディエン (en) |
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