竹田恒徳
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竹田宮恒徳王 | |
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陸軍少佐(比島派遣軍参謀)当時の竹田宮恒徳王 | |
続柄 | 竹田宮恒久王第一王子 |
身位 | 王 |
敬称 | 殿下 His Imperial Highness |
出生 | 1909年3月4日 日本 東京府 |
死去 | (1992-05-11) 1992年5月11日(83歳没) |
配偶者 | 三条光子 |
子女 | 恒正王 素子女王 紀子女王 恒治王 恒和 |
父親 | 竹田宮恒久王 |
母親 | 恒久王妃昌子内親王 |
役職 | 陸軍軍人(陸軍中佐)、繊維会社経営、日本オリンピック委員会委員長、国際オリンピック委員会理事、国際オリンピック委員会名誉委員、日本馬術連盟会長、日本スケート連盟会長、全国ラジオ体操協会会長、日本体育協会専務理事 など |
竹田 恒徳(たけだ つねよし、1909年(明治42年)3月4日 - 1992年(平成4年)5月11日)は、日本の旧皇族(竹田宮第2代)、陸軍軍人。1947年(昭和22年)10月に皇籍離脱し、竹田恒徳と名乗る。皇籍離脱前は竹田宮恒徳王(たけだのみや つねよしおう)。陸軍少将竹田宮恒久王の第1王子で、母は明治天皇の第6皇女常宮昌子内親王、昭和天皇の従弟にあたる。最終階級は陸軍中佐。勲等は大勲位。
妹の禮子女王は佐野常光に嫁す。
目次
1 生涯
2 子女
3 系図
4 年表
5 栄典
6 著書
7 脚注
8 外部リンク
生涯
明治天皇の初の外孫として誕生する。両親の愛情を一身に受け、また従弟で隣に住む北白川宮永久王とは兄弟のように育つ。永久王は早世したため、恒徳王は後年まで、「永久王が生きていたら…」と語っていたと言う。
父・恒久王が帝国陸軍の騎兵将校であったことから陸軍軍人を志し、学習院から陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科へと進み、1930年(昭和5年)7月に陸軍士官学校本科(42期、兵科・騎兵)を卒業。朝鮮公族の李鍵公とは同期生であり、兵科と最終階級も同じである。恒徳王は他の皇族たる陸軍軍人(朝香宮鳩彦王・賀陽宮恒憲王・閑院宮春仁王・朝香宮孚彦王・北白川宮永久王等)がそうであったように、軍服は大正末・昭和期当時の陸軍青年将校の間で大流行していた、瀟洒なものを仕立て着用していた。
恒徳王は馬術を得意とし、陸軍騎兵学校教官を務めた他、1938年(昭和13年)5月30日には陸軍大学校(50期)を卒業。前年に勃発していた日中戦争(支那事変)の前線行きを志願したが実現せず、満州ハイラルの騎兵第14連隊第3中隊長を拝命。その後、14Kが戦地へ動員される際、皇族である恒徳王を内地へ戻そうとする動きがあったが、王は陸軍省人事局長に電話で直談判した末、ようやく念願の戦地行きが叶った。この時初めて戦場に立ったが、「自分に向かって弾が飛んでくるのは気持ちの良いものではなかった」と語っている。
1940年(昭和15年)、皇紀二千六百年を祝う大観艦式には、昭和天皇に供奉してお召し艦「比叡」に乗艦した。行事終了後、横浜で下艦した際、長男誕生の報告を受けている。
太平洋戦争(大東亜戦争)には大本営参謀として、フィリピン攻略戦、ガダルカナルの戦いに参画する。参謀としての秘匿名は「宮田参謀」であった。しばしば前線視察を希望し、危険が多いラバウル視察を強行するなど、周囲をはらはらさせていた。1943年(昭和18年)3月、陸軍中佐に昇進、8月に関東軍参謀に転出した。新京では満州国皇帝溥儀と交流を持ち、親しくしていたという。1945年(昭和20年)7月、第1総軍参謀として内地へ戻り、間もなく終戦を迎えた。因みにこの時、王の後任として入れ替わりに関東軍参謀となったのが瀬島龍三陸軍中佐である。終戦時には天皇特使として再び満州に赴き、関東軍に停戦の大命を伝えて武装解除を厳命した。
1947年(昭和22年)10月14日、皇籍離脱を行う。以前から皇族が多いことに問題を感じていたため、あまり抵抗は無かったと言う。さらに「“竹田”と言う名は他の宮家と違い、ポピュラーで気に入っている」とも語った。皇籍離脱に伴い一時金が与えられ、この金を目当てに近寄るものが後を絶たなかったが、全てを丁重に断った。皇籍離脱直後に公職追放となる[1]。1950年(昭和25年)に日本スケート連盟の会長就任を要請されたのをきっかけに、スポーツ界での活動を開始する。もともとスポーツ、特に馬術を好み騎兵将校であったことからオリンピック出場を目指していた程であった。また、1936年(昭和11年)の第11回ベルリンオリンピックで団体6位入賞の結果をもたらした「ファーレーズ号」の馬主でもあった。
戦後は繊維会社の経営に携わる傍ら、日本体育協会専務理事、日本オリンピック委員会委員長、国際オリンピック委員会理事、同名誉委員、日本馬術連盟会長、日本スケート連盟会長、全国ラジオ体操協会会長など、複数のスポーツ関連団体の役職を歴任し、同時に15団体の役員を兼ねている時もあったと言う。また、1964年東京・1972年札幌両オリンピックの招致に尽力し、体育の日制定にも携わった。
戦前まで暮らした竹田宮邸は、西武グループに売却されて高輪プリンスホテル(現・グランドプリンスホテル高輪)となり、邸宅本体は同ホテル貴賓館として活用されている。
子女
三条公輝公爵の次女光子を妃とし、3男2女をもうける。
恒正王(1940年 - ) - 竹田家現当主
素子女王(1942年 - )
紀子女王(1943年 - )
恒治王(1944年 - )
恒和(1947年 - )
第1王子の恒正は根津コンツェルン総帥・東武鉄道会長根津嘉一郎の三女恭子と結婚し、恒徳王の後を継いで竹田家当主となった。二男恒治は三越社長岡田茂の娘幾美子と結婚する。三男恒和は日本オリンピック委員会会長、日本馬術連盟副会長を務めている。
系図
竹田宮系図
能久親王 (北白川宮2) | |||||||||||||||||||||||||||||||
恒久王 (竹田宮1) | |||||||||||||||||||||||||||||||
恒徳王 (竹田宮2) (皇籍離脱) | 禮子女王 (臣籍降下) | ||||||||||||||||||||||||||||||
恒正王 (皇籍離脱) | 素子女王 (皇籍離脱) | 紀子女王 (皇籍離脱) | 恒治王 (皇籍離脱) | 竹田恆和 | |||||||||||||||||||||||||||
明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大正天皇 | 竹田宮恒久王 | 昌子内親王 | 北白川宮成久王 | 房子内親王 | 朝香宮鳩彦王 | 允子内親王 | 東久邇宮稔彦王 | 聡子内親王 | 昭和天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和天皇 | 竹田恒徳 | 永久王 | 朝香孚彦 | 盛厚王 | 成子内親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今上天皇 | 竹田恒正 | 北白川道久 | 朝香誠彦 | 東久邇信彦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現皇族 | 竹田家 | 北白川家 | 朝香家 | 東久邇家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年表
1909年(明治42年)3月4日 - 誕生
1919年(大正8年)8月23日 - 竹田宮継承
1929年(昭和4年)3月 - 貴族院議員(皇族議員)
1930年(昭和5年)7月 - 陸軍士官学校卒業(42期)
1938年(昭和13年) - 陸軍大学校卒業(50期)
1940年(昭和15年)8月 - 陸軍少佐
1940年(昭和15年)11月3日 - 大勲位菊花大綬章受章
1940年(昭和15年)12月 - 参謀本部第1部作戦課員
1943年(昭和18年)3月 - 任陸軍中佐
1943年(昭和18年)8月 - 関東軍作戦参謀
1945年(昭和20年)7月 - 第1総軍防衛主任参謀
1946年(昭和21年)5月23日 - 免貴族院議員[2]
1947年(昭和22年)10月14日 - 皇籍離脱し竹田恒徳
1947年(昭和22年)10月15日 - 公職追放
1957年(昭和32年) - 社団法人日本動物福祉協会名誉会長
1962年(昭和37年)10月15日 - 日本オリンピック委員長
1965年(昭和40年)1月5日 - 賜・銀杯一組(菊紋)
1967年(昭和42年)5月8日 - 国際オリンピック委員会委員就任
1969年(昭和44年) - 日本ビリヤード協会会長
1976年(昭和51年) - 国際ロータリー理事
1981年(昭和56年)1月1日 - 偕行社会長
1982年(昭和57年)9月 - 特攻隊慰霊顕彰会会長(後の財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会)
1989年(平成元年)12月31日 - 偕行社会長を退任する
1990年(平成2年) - 日本ビリヤード協会会長を退任し坪内嘉雄に交代する。総裁には寛仁親王が就任。
1992年(平成4年)5月11日 - 薨去
栄典
1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章[3]
1930年(昭和5年)10月25日 - 勲一等旭日桐花大綬章[4]
1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[5]
1940年(昭和15年)11月3日 - 大勲位菊花大綬章[6]
著書
- 『菊と星と五輪』 ベースボールマガジン社、1977年4月、ISBN 4-583-01757-X
- 『私の肖像画 皇族からスポーツ大使へ』 恒文社、1985年7月、ISBN 4-7704-0613-4
- 『雲の上、下思い出話 元皇族の歩んだ明治・大正・昭和』 東京新聞出版局、1987年10月、ISBN 4-8083-0254-3
- 『馬よもやま話』 ベースボール・マガジン社、1989年6月、ISBN 4-583-02765-6
脚注
^ 『朝日新聞』1947年10月17日二面。
^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
^ 『官報』第849号「叙任及辞令」1929年10月28日。p.672
^ 『官報』第1149号「叙任及辞令」1930年10月27日。p.642
^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
^ 『官報』第4150号「叙任及辞令」1940年11月5日。p.167
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、竹田恒徳に関するカテゴリがあります。
- 『親王・諸王略傳』恒[恒德]
- 竹田宮家御家族の写真アルバム
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竹田宮恒徳王に関するカテゴリ:
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