口羽通平















































 

凡例
口羽通平
時代
戦国時代 - 安土桃山時代
生誕
永禄4年(1561年)
死没
文禄2年3月9日(1593年4月10日)
別名
善九郎、新左衛門尉(通称)
墓所
口羽家墓所(島根県邑智郡邑南町下口羽)
官位
刑部大輔
主君
毛利輝元
氏族
大江姓毛利氏庶流口羽氏
父母
父:口羽広通

元通

口羽 通平(くちば みちひら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の重臣・口羽通良の長男である口羽広通の嫡男。



生涯


永禄4年(1561年)、毛利氏の重臣である口羽通良の長男・口羽広通の子として生まれ、毛利輝元に仕える。


父・広通は天正6年(1578年)の4月から7月にかけて行われた上月城の戦いの最中である4月24日に死去し、その後を継いだ。


天正13年(1585年)の四国征伐においては小早川隆景の軍に加わり、伊予国へ出陣した。同年7月15日、金子元宅の守る高尾城攻撃において児玉元言が真鍋家綱を討ち取る武功を立てたことに対し、通平は10月4日に元言に書状を送り賞賛している。


天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役では、叔父・春良と共に毛利輝元に従って朝鮮へ渡海した。しかし、朝鮮では豊臣秀勝をはじめとして慣れない朝鮮の風土から病にかかる者が続出し、輝元や春良も病により開寧に留まることとなる。この事態に対して曲直瀬玄朔が京都から派遣されて豊臣秀勝や輝元らの治療にあたった。曲直瀬玄朔の診療と、開寧に留まっての養生によって輝元の病は幾分快方へと向かったが、春良は同年10月11日に開寧の陣中で病没。翌文禄2年(1593年)3月9日には通平も死去し、子の元通が通平の後を継いだ。


子の元通は関ヶ原の敗北後の慶長5年(1600年)の毛利氏の防長移封に従って長門国萩へ移住し、後に江戸詰めとなった。慶長19年(1614年)に江戸で夭折した。若くして死去したため子は無く、その所領は口羽春良次男の元智に引き継がれた。



参考文献



  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利輝元卿伝』(マツノ書店、1982年)

  • 『萩藩閥閲録』巻32「口羽衛士」