朝香宮鳩彦王
朝香宮鳩彦王 | |
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身位 | 王 → 皇籍離脱 |
敬称 | 殿下 → 皇籍離脱 |
出生 | 1887年10月20日 |
死去 | 1981年4月12日(満93歳没) |
配偶者 | 王妃允子内親王(富美宮允子内親王) |
子女 | 鍋島紀久子(紀久子女王) 朝香孚彦(孚彦王) 音羽正彦(正彦王) 大給湛子(湛子女王) |
父親 | 久邇宮朝彦親王 |
母親 | 角田須賀子 |
役職 | 陸軍大将、貴族院議員、大日本傷痍軍人会総裁 |
朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年(明治20年)10月20日 - 1981年(昭和56年)4月12日)は日本の旧皇族。陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第8王子。朝香宮初代当主。1947年(昭和22年)10月14日の皇籍離脱以降の名は朝香鳩彦。
最終階級は陸軍大将。勲等は大勲位功一級。第125代今上天皇の大叔父にあたる[1]。
陸軍大将であったため、朝香大将宮殿下(あさかたいしょうのみやでんか)とも呼ばれた[2]。
日本以外の国々では南京大虐殺に関わった戦犯として知られているが、今日における日本では当案件に触れること自体をタブーとする風潮があり諸外国から問題視されている。[3][4]
目次
1 生涯
2 軍歴
3 栄典
4 血縁
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
生涯
1887年(明治20年)10月、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、1906年(明治39年)3月に朝香宮家を創設。「朝香」の名は明治天皇より賜ったもので、父・朝彦親王が伊勢神宮祭主を務めていたことにちなみ、伊勢国朝香山から採られた宮号である。1910年(明治43年)には明治天皇皇女允子内親王と結婚する。
皇族男子は陸海軍いずれかで奉職するしきたりがあったため、鳩彦王は学習院、東京陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て1908年(明治41年)5月27日に陸軍士官学校(20期、兵科・歩兵)を卒業。同年12月25日に、陸軍歩兵少尉任官、近衛歩兵第2連隊附を命ぜられる。
鳩彦王は他の皇族たる陸軍軍人(賀陽宮恒憲王・閑院宮春仁王・朝香宮孚彦王・北白川宮永久王・竹田宮恒徳王等)がそうであったように、軍服は大正末・昭和期当時の陸軍青年将校の間で大流行していた、瀟洒なものを仕立て着用していた。中でも鳩彦王は、昭和初期に大流行する以前の大正初期には既に派手な軍装品を誂えていた。
1914年(大正3年)11月には陸軍大学校(26期)を卒業し歩兵第61連隊中隊長となる。その後、陸軍少将・陸軍中将と昇級し歩兵第1旅団長、近衛師団長、軍事参議官を歴任する。1937年(昭和12年)12月2日、上海派遣軍司令官を拝命し、直後の南京攻略戦に参加、1939年(昭和14年)8月には陸軍大将に昇った。後の太平洋戦争終盤においては、主戦論者として本土決戦に備えた陸海軍統合(統帥一元化)を主張・力説していた。また、小磯内閣当時には杉山元陸軍大臣の更迭を求めて運動したこともあった。
1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職[5]。1947年(昭和22年)、GHQの命令により同年10月14日に皇籍離脱。公職追放を受けた[6]。また、朝香宮邸を外務省に貸し出し、これは外務大臣公邸 として一時期事実上の総理大臣公邸の役割を担っており、「目黒公邸」とも呼称された。東京裁判や南京裁判などで、上海派遣軍司令官として南京大虐殺で「捕虜の殺害命令」に関与した疑いでGHQから戦犯に指名される可能性があったが、高松宮のロビー活動が功を奏し戦犯指定を免れた。[7]
完成当時の朝香宮邸
旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)
陸軍中将当時の朝香宮鳩彦王(礼装として正衣を着用)
陸軍中将(上海派遣軍司令官)当時の朝香宮鳩彦王
軍歴
1908年(明治41年)5月27日 陸軍士官学校卒業(20期)
1908年(明治41年)12月25日 陸軍歩兵少尉・近衛歩兵第2連隊付
1910年(明治43年)12月 陸軍歩兵中尉
1913年(大正2年)8月 陸軍歩兵大尉
1914年(大正3年)11月 陸軍大学校卒業(26期)
1914年(大正3年)12月 歩兵第61連隊中隊長
1915年(大正4年)12月 近衛歩兵第3連隊付
1916年(大正5年)11月 参謀本部付
1918年(大正7年)7月 陸軍歩兵少佐・歩兵第1連隊大隊長
1920年(大正9年)1月 陸軍大学校附
1922年(大正11年)8月 陸軍歩兵中佐
1925年(大正14年)8月 陸軍歩兵大佐
1926年(大正15年)6月 陸軍大学校教官
1929年(昭和4年)12月 陸軍少将
1932年(昭和7年)2月 歩兵第1旅団長
1933年(昭和8年)8月1日 陸軍中将・近衛師団長
1935年(昭和10年)12月2日 軍事参議官
1937年(昭和12年)12月2日 上海派遣軍司令官
1938年(昭和13年)3月14日 軍事参議官
1939年(昭和14年)8月1日 陸軍大将
1942年(昭和17年)4月4日 功一級金鵄勲章
1945年(昭和20年)8月15日 終戦- 1945年(昭和20年)11月30日 予備役
1947年(昭和22年)10月14日 皇籍を離脱する
栄典
1917年(大正6年)10月31日 - 大勲位菊花大綬章[8]
1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[9]
血縁
- 父:久邇宮朝彦親王
- 母:角田須賀子
- 兄弟:男子 - 賀陽宮邦憲王 - 久邇宮邦彦王 - 梨本宮守正王 - 多嘉王 - 暢王 - 男子 - 鳩彦王 - 東久邇宮稔彦王
- 兄弟:女子- 智當宮 - 栄子女王 - 安喜子女王 - 飛呂子女王 - 絢子女王 - 素子女王 - 懐子女王 - 篶子女王 - 純子女王
- 妻:允子内親王(1891年 - 1933年)
第1王女:紀久子女王(1911年 - 1989年) - 鍋島直泰夫人- 第1王子:孚彦(たかひこ)王(1912年 - 1994年)
- 第2王子:正彦(ただひこ)王(1914年 - 1944年)) - 臣籍降下し音羽侯爵家を創設、音羽正彦と名乗る。
第2王女:湛子(きよこ)女王(1919年 - ) - 大給義龍夫人
明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大正天皇 | 竹田宮恒久王 | 昌子内親王 | 北白川宮成久王 | 房子内親王 | 朝香宮鳩彦王 | 允子内親王 | 東久邇宮稔彦王 | 聡子内親王 | 昭和天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和天皇 | 竹田恒徳 | 永久王 | 朝香孚彦 | 盛厚王 | 成子内親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今上天皇 | 竹田恒正 | 北白川道久 | 朝香誠彦 | 東久邇信彦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現皇族 | 竹田家 | 北白川家 | 朝香家 | 東久邇家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
^ 小田部雄次 『皇族』 中央公論新社〈中公新書〉、2011年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
ISBN 978-4-12-102011-6。
^ 「紀元二千六百年記念観兵式」を伝えるニュースで、「…諸兵指揮官朝香大将宮殿下、御指揮の5万の精鋭、林のごとく整列…」と伝えられている。
^ Knowing Better (2018-07-08), Playing the Victim | Historical Revisionism and Japan, https://www.youtube.com/watch?v=lnAC-Y9p_sY&feature=youtu.be 2019年2月18日閲覧。
^ “「ジョン・ラーベ」が日本で上映禁止、出演俳優には批判の声も_ニュース_China.org.cn”. japanese.china.org.cn. 2019年2月18日閲覧。
^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
^ 『朝日新聞』1947年10月17日二面。
^ 1905-1987., Takamatsu no Miya Nobuhito, Prince, son of Taishō, Emperor of Japan,; 1905-1987., 高松宮宣仁, Prince, son of Taishō, Emperor of Japan, (1995-1997). Takamatsu no Miya nikki. Hosokawa, Morisada, 1912-2005., 細川護貞, 1912-2005. (Shohan ed.). Tōkyō: Chūō Koronsha. ISBN 4124033915. OCLC 34168867. https://www.worldcat.org/oclc/34168867.
^ 『官報』第1575号「叙任及辞令」1917年11月1日。p.6
^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
関連項目
- キャンプ・ドレイク
外部リンク
- 朝香宮家御家族の写真アルバム
- 港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (朝香宮鳩彦王)