ジョン・バーナード






ジョン・バーナード


ジョン・バーナードJohn Barnard、1946年9月26日 - )はイギリス・イングランド(ロンドン)出身のレーシングカーデザイナー。


F1における偉大な技術的先駆者として広く認知されており、車体後部の絞り込みコークボトルラインなどの新しいデザイン、セミオートマチック・ギアボックス、車体製作におけるカーボンファイバーなどを導入したとして評価されている。




目次






  • 1 初期の経歴


  • 2 1990年代


  • 3 その他


  • 4 脚注





初期の経歴


バーナードは1960年代にワトフォード工科大学を卒業したが、同期の人間とは違ってその後の長い学術生活を過ごすことなく、英国GECに入社した。


1968年、バーナードは英国ハンチンドンにあるローラ社に下級デザイナーとして採用され、フォーミュラ・ヴィーなど様々なスポーツカーを含む、多くの車体製作プロジェクトで働き始めた。この時期、バーナードは後にウィリアムズF1チームの創設に関わることになるパトリック・ヘッドにも紹介された。この2人のエンジニアは良き友人となり、ヘッドは1970年初期にバーナードが結婚した際には花婿付添人にもなった。


1972年、バーナードはマクラーレンに加入し、ゴードン・コパックとともに3年間働いた。この間、チャンピオンマシンとなったM23シャシーやインディカー用シャシーなど、マクラーレンの様々なプロジェクトの設計に携わった。


1975年までにはバーナードはパーネリ・ジョーンズに引き抜かれ、立ち上げたばかりのチームのためにF1マシンを製作することを求められたが、その後チームがインディカーに転向することを決めたために結局インディカー用シャシーを設計した。その後もインディカーの設計を続け、1980年にバーナードの設計したシャパラル製シャシーはジョニー・ラザフォードによってインディ500とチャンプカーの年間ドライバーズタイトルを獲得した。




1985年のマクラーレンMP4/2B


米国での成功によって、バーナードは新たにマクラーレンの総帥となったロン・デニスの興味を惹くこととなり、1980年には同チームに加入してF1初のカーボンファイバー・コンポジット製シャーシであるMP4/1の設計を始めた。MP4/1シャーシは米国のハーキュリーズ・エアロスペース社で製作され、その新次元の頑健さとドライバー保護の観点から、すぐさまF1の車体デザインに革命を起こすことになった。数ヶ月の間にデザインは多くのライバルたちにコピーされた。1983年にバーナードは、現在でも見られるようなサイドポッドのボトルネック形状(コカ・コーラのボトル形状に似ていることから、俗に「コークボトル」形状と呼ばれる)を初めて導入した。また、TAG・ポルシェのターボエンジン搭載に当たっては開発段階から仔細なリクエストを送り、シャーシとエンジンをトータルパッケージで開発する現在のトレンドを先取りした。


彼の在籍時にマクラーレンはF1におけるトップチームとなり、1984年、1985年、1986年と続けてドライバーズチャンピオンを獲得した。また、1984年と1985年にはコンストラクターズチャンピオンとなるが、1986年にはウィリアムズに敗れた。バーナードは1987年シーズンのためにMP4/3の設計を終えた後、マクラーレンを離れてフェラーリに移籍したが、結局彼がデザインした車はマクラーレンにグランプリ31勝を与えることになった。


1986年、デニスとの間に確執が生まれたため、バーナードは引退やBMWへの移籍を模索したが、結局同年末にはフェラーリの誘いに応じることになった。バーナードが加入する前の2シーズンで、フェラーリはグランプリ2勝しか挙げることが出来ていなかったため、彼は望みの条件を指定することができた。故郷イングランドにデザインオフィスを準備するための巨額の資金を得て、彼はフェラーリ・ギルドフォード・テクニカルオフィス(GTO)を設立し、フェラーリが再び常勝チームに返り咲くための活動を始めた。これは彼自身がイングランドを離れたくなかったことに加え、高度化するレース用部品を確保するためにはイングランドに技術的拠点を置くべきだという信念によるものである。GTOではグスタフ・ブルナーが残した1987年シーズン向けのF187シャシーを製作・改良する一方で、1988年シーズンを見越した自然吸気エンジン搭載のF188(639)の基礎開発も行われた。イタリアに送られたF187シャシーは、さらにハーベイ・ポスルスウェイトによる改良も加えられ、シーズン最後の2戦で優勝を飾った。


1988年にはバーナード加入の効果が現れると期待され、フェラーリの前評判は上々だった。しかし実際にはチーム内部が二分され、バーナードが推進していた自然吸気エンジン搭載車ではなく、ターボエンジン搭載のF187をポスルスウェイトが改良する形でシーズンを迎えることになった。しかし、バーナードの後任であったゴードン・マレーが設計したMP4/4シャシーによって、マクラーレンがシーズンを席巻した。7月にはポスルスウェイトがフェラーリを追われ、バーナードが現場をも含めた技術責任者となった。シーズンの終盤、フェラーリは9月のイタリアグランプリで幸運な勝利を挙げた。


1989年、バーナードは電子制御式ギアシフト機構(現在、セミオートマチック・ギアボックスとして知られる)をフェラーリ・640で初めて実戦導入した。これはステアリングホイールの裏にある2つのパドルで操作するものであった。この革新的なシステムはレースに使用するにはあまりにも脆弱であると考えられ、ほとんど期待されていなかったが、ナイジェル・マンセルはリオで行われた同年の開幕戦で優勝を遂げた。バーナードは2度目の技術革新を先導することとなり、1995年までにはすべてのチームがフェラーリのギアボックスをコピーした。1989年シーズンにさらに2勝を追加し、チームには勢いがあるように思われた。



1990年代


1990年、フェラーリのお気に入りであったゲルハルト・ベルガーとの事実上の交換トレードの形で、アラン・プロストが加入した。すべてがうまく動いているように見え、またバーナードがデザインした640を元に、スティーブ・ニコルズらが改良した641/2シャシーはプロストに5勝をもたらしたものの、ドライバーズ・コンストラクターズの両タイトルはまたしてもマクラーレンに奪わた。バーナードは、当初認められていたイングランドでの作業ではなく、レースへの帯同やイタリアを拠点とした活動を求められたこともあり、1989年シーズン閉幕を待たずにフェラーリを離れてベネトンに加入した。


バーナードの設計したB191は、ネルソン・ピケの手によってわずか1勝を挙げるに留まったが、彼はまたしても新たな革新をもたらすことになった。1991年のベネトンは、吊り下げ型ハイノーズを導入した最初のF1マシンであったのだ(ハイノーズを初めて採用したのは、前述の内紛で先にフェラーリを放出されたポスルスウェイトによる1990年のティレル・019であり、吊り下げ型フロントウィングはB191が初となる)。セミオートマチック・ギアボックスやカーボンファイバーに比べると緩やかではあったが、1996年までにはすべてのF1マシンがハイノーズデザインを採用した。しかしバーナードはチーム監督であったフラビオ・ブリアトーレとの間で金銭面の論争を起こして、1991年半ばにベネトンを去ることとなった。


日の目を見なかった(最初の)トヨタF1プロジェクト(正確にはトムスによるプロジェクト。詳しくはプロスト・グランプリを参照)で短期間働いた後、バーナードは1992年中ごろにフェラーリに戻った。当時、フェラーリは再びスランプに陥っていて、彼が一旦去ってから2年の間に1勝さえ挙げることができていなかった。バーナードは再び望む条件を示し、英国サリーに新たなテクニカルオフィスであるフェラーリ・デザイン・アンド・デベロップメント(FDD)を設立した。このオフィスにおいてバーナードは、かつてフェラーリお抱えドライバーであったゲルハルト・ベルガーによってついにフェラーリを表彰台の中央に戻すこととなる、412T1シャシーの設計を始めた。(なお、ベルガーが優勝したマシンは412T1Bでグスタフ・ブルナーによって改良され、シーズン途中のフランスGPから投入されたマシンである)




1995年のフェラーリ412T2


バーナードは4シーズンにわたって、フェラーリのF1マシンのデザインを続けた。しかし、90年代中盤からはエアロダイナミクスが重視されるようになった時代であり、バーナードは時代についていけなくなりつつあった。ジャン・アレジが唯一の勝利を挙げ、またグランプリにおいて最後に勝利したローノーズマシン(ウィリアムズ・ベネトンはハイノーズであり、トレンドに反していた)、412T2シャシーも含まれている。1996年には、フェラーリ内部で大きな変化が起きつつあった。ベルガーとアレジを解雇し、現役チャンピオンであったミハエル・シューマッハをファースト・ドライバーとして引き入れ、さらにチームマネージャのジャン・トッドはマラネロにデザインオフィスの建設を始めた。しかも、1996年のマシンF310は、他のチームがハイノーズの中、アリクイ型のローノーズ、失敗作F92のようなサイドの形状、巨大なヘッドウォールなど空力に大きなハンデを抱え、信頼性も欠如していたことからシーズン当初から不振が続き、グスタフ・ブルナーによる大幅な改造が施された。3勝を挙げたがシューマッハとチーム戦略によるものであり、シーズン終了後、シューマッハは「見るのも嫌なマシンだった」と述べている。イタリアへの転居を望まなかったため、1997年のF310Bがバーナードのフェラーリにおける最後の仕事となり、ロリー・バーンが後任に就いた。1997年夏にはFDDをフェラーリから買収してB3テクノロジーズと名称変更し、これでバーナードとフェラーリの関係は終わりを告げた。もはやチームの一員ではなかったにせよ、バーナードの設計したF310Bシャシーはミハエル・シューマッハによってチャンピオンの座にじわじわと近づく活躍を見せ、同年の日本グランプリにおける勝利がバーナードの設計したシャシーによる最後の勝利となった。一方で同年途中にアロウズF1チームへ加入・開幕戦あわや予選落ちの危機にさえあったマシンを改良し、デイモン・ヒルがハンガリーGPであと一歩で優勝の2位になるほどの開発力を見せた。


1998年、B3テクノロジーズはアロウズF1チームの仕事を開始したが、プロストチームもまた研究開発を同社に委託する契約を結んでいたため、議論が勃発した。結局、バーナードは2002年にプロストチームが消滅するまで技術コンサルタントとして働いた。その後、彼はオートバイレースの分野に転向し、モトGPに参戦するケニー・ロバーツ率いるチームプロトンKRのテクニカル・ディレクターに就任。しかしKRチームが資金面の問題でモトGPからの撤退を余儀なくされたため、以後はレースの実戦の場からは離れている。


現在はイギリスとスイスを往復しながらの隠居生活に入っている[1]



その他



  • フェラーリに加入時、チームのイタリア式のワインでのんびり昼食を目にした際に「負けているのにいい加減にせい!」と口走ってしまったという。

  • 1989年の開幕戦でナイジェル・マンセルがピットインでステアリングを交換した際に、川井一仁はバーナードにコメントを求めたところ、無言で睨まれたという。「どうやらステアリング部品トラブルであり、完璧主義者であったバーナードにとってはこれが物凄く恥かしいことだっだと思う。」と書き記している。



脚注


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  1. ^ 「ジョン・バーナードインタビュー」、『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 53頁。










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