中曽根康弘







































































































日本の旗 日本の政治家
中曽根 康弘
なかそね やすひろ


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1983年1月21日、アンドルーズ空軍基地にて(64歳)

生年月日
(1918-05-27) 1918年5月27日(100歳)
出生地
日本の旗 日本 群馬県高崎市
出身校
東京帝国大学法学部政治学科卒業
前職
内務省官僚
拓殖大学総長・理事長
現職
世界平和研究所会長
拓殖大学名誉総長
所属政党
(民主党→)
(国民民主党→)
(改進党→)
(日本民主党→)
(自由民主党→)
(無所属→)
自由民主党
称号
従六位
大勲位菊花大綬章
衆議院名誉議員有資格者
法学士(東京帝国大学・1941年)
フランス共和国ルイ・パスツール大学名誉博士
中華人民共和国上海交通大学名誉教授
群馬県名誉県民
正論大賞特別賞
配偶者
妻・中曽根蔦子
親族
長男・中曽根弘文
孫・中曽根康隆
サイン
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日本の旗 第71-73代 内閣総理大臣

内閣
第1次中曽根内閣
第2次中曽根内閣
第2次中曽根第1次改造内閣
第2次中曽根第2次改造内閣
第3次中曽根内閣
在任期間
1982年11月27日 - 1987年11月6日
天皇
昭和天皇




日本の旗 第45代 行政管理庁長官

内閣
鈴木善幸内閣
鈴木善幸改造内閣
在任期間
1980年7月17日 - 1982年11月27日




日本の旗 第34-35代 通商産業大臣

内閣
第1次田中角栄内閣
第2次田中角栄内閣
第2次田中角栄第1次改造内閣
第2次田中角栄第2次改造内閣
在任期間
1972年7月7日 - 1974年12月9日




日本の旗 第25代 科学技術庁長官

内閣
第1次田中角栄内閣
在任期間
1972年7月7日 - 1972年12月22日




日本の旗 第25代 防衛庁長官

内閣
第3次佐藤内閣
在任期間
1970年1月14日 - 1971年7月5日



その他の職歴


日本の旗第38代 運輸大臣
(第2次佐藤第1次改造内閣)
(1967年11月25日 - 1968年11月30日)

日本の旗第7代 科学技術庁長官
(第2次岸改造内閣)
(1959年6月18日 - 1960年7月19日)

日本の旗衆議院議員
(1947年4月26日 - 2003年10月10日)
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中曽根 康弘(なかそね やすひろ、1918年(大正7年)5月27日 - )は、日本の政治家。位階は従六位。勲等は大勲位。公益財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長。新憲法制定議員同盟会長。


衆議院議員連続20回当選(1947年 - 2003年)、科学技術庁長官(第7・25代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第34・35代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第71・72・73代)、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第11代)などを歴任した[1]。対米関係上の愛称は「ヤス」。


群馬県出身。東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省に入省する。海軍短期現役制度で戦時中に海軍主計士官に転じるも、終戦後には内務省に再勤する。退官後、衆議院議員に当選。以来、中曽根派を形成するなど自由民主党内で頭角を現し、科学技術庁長官をはじめとして運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、行政管理庁長官などの閣僚経験を経て、1982年(昭和57年)から1987年(昭和62年)にかけて内閣総理大臣を務める[1]。国鉄、電電公社、専売公社、日本航空の民営化を達成した事績が特に知られる。またアメリカのロナルド・レーガン大統領と「ロン・ヤス」関係と呼ばれる信頼関係を構築して日米安全保障体制の強化にも努めた。


2004年(平成16年)7月19日に鈴木善幸が亡くなったことにより最年長の首相経験者となり、昭和時代の歴代総理大臣の中で最後の存命者となった。歴代総理大臣の中では東久邇宮稔彦王(死去時102歳48日)に次ぐ長寿の首相経験者であり、現行憲法下で首相就任を果たした人物としては最高齢である。2018年(平成30年)5月27日には満100歳を迎えた。これも首相経験者としては東久邇宮稔彦王に続く2人目、現行憲法下で首相就任を果たした人物としては初となる。


公称の身長は178cmであり、歴代の内閣総理大臣では大隈重信の公称180cmに次ぐ第2位の長身といわれている。




目次






  • 1 略歴


  • 2 来歴・人物


    • 2.1 内務省入省まで


    • 2.2 海軍時代


    • 2.3 政治家への転身


    • 2.4 三角大福中


    • 2.5 総理大臣就任


    • 2.6 外交


      • 2.6.1 日米・日韓関係


      • 2.6.2 不沈空母発言


      • 2.6.3 ウィリアムズバーグ・サミット


      • 2.6.4 クレムリンの機密文書


      • 2.6.5 日中関係




    • 2.7 民営化推進


    • 2.8 退任


    • 2.9 リクルート事件


    • 2.10 その後


    • 2.11 政界引退後


    • 2.12 大連立構想を仲介


    • 2.13 ライフワーク




  • 3 政治姿勢


    • 3.1 憲法改正


    • 3.2 核武装


    • 3.3 小泉内閣への評価


    • 3.4 保守意識


    • 3.5 戦後政治の生き証人




  • 4 交友関係


  • 5 宗教関連


  • 6 渾名


  • 7 栄典


  • 8 家族・親族


    • 8.1 系譜




  • 9 選挙歴


  • 10 主な著作


    • 10.1 著書


    • 10.2 共著




  • 11 脚注


    • 11.1 注釈


    • 11.2 出典




  • 12 論文


  • 13 参考文献


  • 14 関連項目


  • 15 関連人物


  • 16 外部リンク





略歴




  • 1918年(大正7年)5月27日 - 群馬県高崎市末広町に生まれる。


  • 1935年(昭和10年) - 旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)4年修了。


  • 1938年(昭和13年) - 静岡高等学校(現・静岡大学)文科丙類卒業。


  • 1941年(昭和16年) - 東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、内務省に入るが、海軍短期現役制度により海軍主計中尉に任官[2]。呉鎮守府に配属され、第二設営隊の主計長に任命される。終戦時は海軍主計少佐。終戦後、内務省に復帰。


  • 1946年(昭和21年) - 内務省を依願退職。


  • 1947年(昭和22年) - 第23回衆議院議員総選挙で立候補、初当選。


  • 1953年(昭和28年) - ハーバード大学の夏期セミナーに留学。大学院生だったキッシンジャーなどと人脈を築いた。


  • 1954年(昭和29年)- 3月、当時、日本学術会議を飛び越して、日本で初めて超党派の政治家らと「原子力予算[3]」を国会に提出し成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。2人で政界における日本の原子力政策推進の両軸となる。


  • 1959年(昭和34年) - 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。


  • 1966年(昭和41年) - 旧河野派が分裂し、中曽根派が結成される。


  • 1967年(昭和42年) - 第2次佐藤内閣第1次改造内閣の運輸大臣に就任。 第12代拓殖大学総長に就任(1971年より名誉総長)。


  • 1968年(昭和43年) - プロスポーツ団体の連合体である日本プロスポーツ会議創立に伴い初代会長。


  • 1970年(昭和45年) - 第3次佐藤内閣で防衛庁長官となる。


  • 1971年(昭和46年) - 第3次佐藤内閣改造内閣で自民党総務会長に就任。


  • 1972年(昭和47年) - 第1次田中角栄内閣の通商産業大臣に就任(科学技術庁長官兼務)。第2次田中角栄内閣では通産大臣専任となる。


  • 1974年(昭和49年) - 三木内閣で幹事長に就任。


  • 1977年(昭和52年) - 福田赳夫内閣改造内閣でまた総務会長となる。


  • 1978年(昭和53年) - 自由民主党総裁選挙に初出馬する。


  • 1979年(昭和54年) - 総選挙の敗北を受けた「四十日抗争」時には大平正芳首相に対して退陣を要求する。


  • 1980年(昭和55年) - 鈴木善幸内閣の行政管理庁長官に就任。


  • 1982年(昭和57年) - 第71代内閣総理大臣に就任。第1次中曽根内閣を発足。国鉄、電電公社、専売公社の民営化を行う。外務大臣に安倍晋太郎を起用。


  • 1983年(昭和58年) - 第2次中曽根内閣発足。内閣官房長官に藤波孝生、文部大臣に森喜朗を任命。


  • 1984年(昭和59年) - 第2次中曽根内閣第1次改造内閣発足。内閣官房副長官に山崎拓を抜擢した。


  • 1985年(昭和60年) - プラザ合意により、円高を容認。12月には内閣改造を行う(第2次中曽根内閣第2次改造内閣)。農林水産大臣に羽田孜を、自治大臣に小沢一郎を起用する。


  • 1986年(昭和61年) - 衆参同日選で大勝。第3次中曽根内閣発足。大蔵大臣に宮澤喜一を、運輸大臣に橋本龍太郎を任命。


  • 1987年(昭和62年) - 売上税の導入失敗が原因で支持率が急降下するが、やがて人気を取り復した。竹下登を後継総裁に指名して退陣。


  • 1989年(平成元年) - リクルート事件に関与して自民党から離党。


  • 1990年(平成2年) - 派閥を渡辺美智雄に譲る。


  • 1991年(平成3年) - 自民党に復党。


  • 1996年(平成8年) - 自民党の比例北関東ブロックにおける終身一位を保証される。


  • 1997年(平成9年) - 大勲位菊花大綬章を受章。


  • 1999年(平成11年) - 江藤隆美、中尾栄一、与謝野馨、村上正邦、佐藤静雄らで構成する中曽根派と亀井静香率いる亀井グループが合併し「志帥会」を結成。中曽根は最高顧問に就任。


  • 2001年(平成13年) - 森首相退陣後の総裁選に出馬した亀井静香に総裁選辞退を進言し、亀井はこれを受諾する。


  • 2003年(平成15年) - 小泉純一郎首相から定年制導入のために引退を要請され、当初は反対するも最終的には政界から引退。


  • 2018年(平成30年) - 首相経験者として2人目となる満100歳を迎えた。



来歴・人物



内務省入省まで




1919年、1歳の中曽根


群馬県高崎市に材木商・中曽根松五郎の二男として生まれた。生家は関東有数の材木問屋「古久松」である。敷地は3ヘクタールもあって、そこに住居と工場があり、働いている職人が中曽根の学生時代には150人、住み込みの女中が20人ぐらいは常時いたという[4]


地元の小学校へ進学後、旧制高崎中学、旧制静岡高校を経て東京帝国大学法学部政治学科へ進む。


同大学を卒業後、内務省に入省。同期入省組に早川崇や小沢辰男、大村襄治らがいた[注釈 1]



海軍時代




海軍時代の中曽根


短期現役制度(第六期二年現役主計科士官)に応募し、海軍経理学校にて初任教育を受け、1941年(昭和16年)4月18日附で海軍主計中尉に任官[2]。同年8月11日附で青葉型重巡洋艦1番艦「青葉」(第一艦隊、第六戦隊所属)に配属される[5]。高知県の土佐湾沖の太平洋で訓練を受けた。


同年11月20日、第二設営班班員に補職[6]
。11月26日に広島県呉市の呉鎮守府(司令長官豊田副武大将、参謀長中島寅彦少将)に到着[7]。同鎮守府参謀長より第二設営隊の主計長に任命され、工員3000名と海軍陸戦隊の糧食・弾薬・資材、零戦・一式陸上攻撃機の武器・燃料を調達して輸送船団に積み込むよう命令される[7]。11月29日に出港するまで、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかったという[7]


11月29日、輸送船団は出発[8]。中曽根は「台東丸」に乗船した。この船にはかなりの刑余者(前科のある者)がおり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曽根は一計を案じ、全員を甲板に集めた[8]。この中から一番凄そうな親分肌の者を選んで班長にすると、古田と名乗る前科八犯の男と酒を呑み交わし、親分(中曽根)・子分(古田)の関係となって人心掌握に努めた[8][9]


同年12月8日の太平洋戦争開戦以後、輸送船団はアメリカ領フィリピンのミンダナオ島のダバオに上陸する[9]。上陸後、飛行場の設営がはじまるとアメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の爆撃を受けた[9]


次にボルネオ島のバリクパパンに向かうのだが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される。日本軍輸送船団約20隻がバリクパパンの湾に進入したところ、湾内にオランダとイギリスの駆逐艦および潜水艦が突入してくる[10]。こちらには軽巡洋艦「神通」がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曽根が乗船している前後左右の4隻は轟沈、さらに接近してきた敵駆逐艦から副砲や機関銃で攻撃され、輸送船も炎上する[10][11]。中曽根が情況を確認すると、船倉は阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、多数の重傷者を出していた[10]。班長も脚部ほぼ切断の重傷であり、中曽根は軍医長に託したものの、班長は部下の治療を優先させているうちに戦死した[11]。この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの海岸で、荼毘(火葬)に付した[11]。中曽根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる[注釈 2]








友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜

夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ




当時の経験を振り返り、中曽根はこう語った。


彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。『私の体の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです。 [12]

1月24日の本海戦はバリクパパン沖海戦と呼称され、護衛艦隊旗艦は「神通」(第二水雷戦隊旗艦)ではなく同型艦の軽巡洋艦「那珂」(第四水雷戦隊司令官西村祥治少将)、泊地に突入してきた敵艦はオランダ・イギリスの艦艇ではなくアメリカ海軍の駆逐艦4隻(ジョン・D・フォード、ポープ、パロット、ポール・ジョーンズ)、沈没艦は潜水艦により輸送船1隻、米海軍駆逐艦により輸送船3隻と哨戒艇1隻で、船尾に被弾した輸送船は「朝日山丸」(死傷者約50名)、マカッサル海峡で沈んだ輸送船は空襲による「南阿丸」1隻である[13]
中曽根はその後も主計科士官として従軍。1943年(昭和18年)8月18日附で、中曽根主計大尉は高雄海軍施設部部員(高雄警備府)に任命される[14]
1944年(昭和19年)11月1日、中曽根は横須賀鎮守府附となる[15]
終戦時の階級は海軍主計少佐であった。


首相就任後、戦争に関しては1985年10月29日衆議院予算委員会での東中光雄委員との質疑応答において、皇国史観には賛成しない、東京裁判史観は正当ではない、対米英と対中対アジアで認識が異なる、国民の大多数は祖国防衛のために戦い、一部は反植民地主義、アジア解放のために戦ったと4点を挙げた。さらに中国、アジアに対しては侵略戦争だったが、アメリカ、イギリスとは普通の戦争だった、中国、アジアには侵略、韓国には併合という帝国主義的行為を行ったので反省し詫びるべきと答えた[16][17]



政治家への転身


戦後、内務省に復帰し 内務大臣官房事務官、香川県警務課長、警視庁警視・監察官を務める。その後退官し、1947年衆議院議員選挙に当選。以後1955年の保守合同までの所属政党は、民主党、国民民主党、改進党、日本民主党。この間、反吉田茂勢力として、自主憲法制定や再軍備を標榜し、長く野党議員として過ごしている。


1954年3月2日、一議員でありながら原子力研究開発のための予算を上程、これを通した(具体的には科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金が2億3500万円、ウラニウム資源調査費が1500万円、計2億5000万円。これが現在に至るまでの自民党の原子力是認につながっている)。1955年の保守合同に際しては、長らく行動を共にした北村徳太郎が旧鳩山派である河野一派に合流したことから、河野派に属した。第2次岸改造内閣において、渡邊恒雄を介して大野伴睦の支持を受け、科学技術庁長官として初入閣。党内で頭角を現し、河野派分裂後は中曽根派を形成し一派を率いた。


1956年には「憲法改正の歌」を発表するなど、改憲派として活発に行動し、マスコミからは「青年将校」と呼ばれた。同年11月27日の日ソ共同宣言を批准した衆議院本会議において、自由民主党を代表して同宣言賛成討論を行ったが、内容はソ連に対する厳しい批判だったり「涙を呑んで渋々賛成。」等と述べたため、社会党や共産党が抗議、その結果、約50分間の演説全文が衆議院議事録から削除される異例の出来事もあった[18]


初当選した選挙で白塗りの自転車に日の丸を立てて運動をしたことはよく知られているが、若い頃から総理大臣を目指すことを公言し、憲法改正や首相公選論の主張など大胆な発言やパフォーマンスを好んだことや、同世代の日本人としては大柄な体躯や端正な風貌もあって、早くから存在感を示していた。なお、既に1965年には福井県の九頭竜ダム建設を巡る落札偽計事件(九頭竜川ダム汚職事件)に名前が挙がるなど、疑惑とも無縁でなかった。日本共産党の機関誌『しんぶん赤旗』は、行政管理庁長官時代の1980年に行われた総選挙においても、富士通や日本製作所から違法献金を受け取ったと報じた[19]



三角大福中


第2次佐藤内閣第1次改造内閣で運輸大臣、第3次佐藤内閣で防衛庁長官を歴任する。運輸大臣として入閣した際には、それまで佐藤栄作を「右翼片肺内閣」と批判していたのにもかかわらず入閣したため風見鶏と揶揄され、以後これが中曽根の代名詞になった。


運輸大臣時代は成田空港問題にかかわり、1968年4月6日に友納武人千葉県知事とともに新東京国際空港公団と条件賛成派の「用地売り渡しに関する覚書」取り交わしに立ち会っている。「札束を積めば農家なんてすぐ土地を売る」と反対派の訴えに耳を貸さない政治家が多い中、同年8月9日には自宅にアポなしで訪れた戸村一作ら反対同盟と面会している[20]。また、これに先立って空港公団幹部によるアポなし訪問を受け、中曽根は買い取り単価を引き上げて畑1反あたり一律110万円にすることにその場で同意しており、そのことが上述の覚書締結に貢献したとされる[21]


防衛庁長官時代、防衛庁の事務方で権勢を振るっていた海原治が国防会議事務局長として新聞記者との懇談会で防衛計画について批判したことが1970年3月7日の衆議院予算委員会で取り上げられた際、中曽根は「(海原は)事務屋なので政策論を述べる地位ではない。事務局長というのは庶務課長、極端にいえば文書を集め、文書を発送するお茶汲みに過ぎない」という趣旨を同席する本人を前に言い放ち、議場を騒然とさせた(「お茶汲み」の箇所は議事録から削除されている[22])。三島事件を批判する声明を防衛庁長官として出したが、三島に近い一部保守系団体や民族派勢力右翼団体などから強く批判された(中曽根は自著の中で「三島と親しいように思われていたが深い付き合いがあったわけではない」と釈明している)。1972年の殖産住宅事件では、株取得で証人喚問される[要出典]。翌年に脱税容疑で逮捕された殖産住宅相互の東郷民安社長は旧制静岡高校時代からの友人であったため、親友も見殺しにすると囁かれた[要出典]


こうして要職を経験する中で、いわゆる「三角大福中」(三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫、そして中曽根)の一角として、ポスト佐藤の一人とみなされるようになっていった。佐藤後継を巡る1972年の総裁選に際しては、野田武夫ら派内の中堅、ベテラン議員や福田支持派から出馬要請を受けるが、日中問題で福田の姿勢に不満を抱いていた派内の河野洋平を始めとする若手議員が田中角栄支持に傾いていたことなどから、自らの出馬を取り止め、田中支持に回った。このことは田中が福田に勝利するにあたり決定的な役割を果たしたが、田中の買収などと後に週刊誌で憶測を呼ぶことにもなった。


第1次田中角栄内閣の通商産業大臣兼科学技術庁長官となり、第2次内閣では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣に専任となる。三木内閣時代、自由民主党幹事長となり、福田赳夫内閣の総務会長を務めるなど党内の要職も務める。三木おろしの際には、三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。


1976年、ロッキード事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。ここでも悪運の強さが幸いしたとされる。後に“(刑務所の)塀の上を歩いて内側に落ちたのが田中角栄、外側に落ち勲章までもらったのが中曽根”と揶揄された。同年の衆院選では事件との関係から落選すら囁かれたが、辛うじて最下位で当選した。1978年に「明治時代生まれのお年寄りがやるべき時代ではない」と世代交代を訴える形で総裁選挙に名乗りをあげるが落選し、第1次大平内閣では幹事長ポストを要求するも、逆に蔵相を提示され拒否した[注釈 3]。非主流派としていわゆる四十日抗争でも反大平連合に属したが、ハプニング解散の際には派内の強硬論に耳を貸さず、早くから本会議での造反に反対するなど、三木・福田とは温度差があった。そのため大平後継では本命の一人だったが、当時は田中角栄の信頼を勝ち得ておらず、総裁の座を逃した。


鈴木内閣では主流派となるとともに、行政管理庁長官として行政改革に精力を注ぎ、鈴木善幸首相の信頼を得る。中曽根自身は蔵相ポストを希望していたものの、派の後輩の渡辺美智雄にその座を奪われるという屈辱を味わう[注釈 4]。しかし、財政再建の手段として行政改革にスポットライトが当たる中、行政管理庁長官として職務に励み、首相就任後分割民営化などの答申をすることになる土光敏夫の信頼も得ることになった。



総理大臣就任


1982年11月の自民党総裁選で、盟友の渡邉恒雄は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた[23]。早坂と、中曽根の秘書の小林克己は渡邉と同じ元日本共産党党員という繋がりがあった。田中派の支持も得た中曽根は、党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、1982年11月に鈴木善幸の後を受けて第71代内閣総理大臣に就任する。行政改革の推進と「戦後政治の総決算」を掲げ[注釈 5]1987年まで一国の総理の座にあり、日本歴代第7位(戦後5位・昭和時代では3位)の長期政権となった。従来の官僚頼みの調整型政治を打破し私的諮問機関を多数設け、首相というより大統領型のトップダウンを標榜した政治姿勢は注目され、「大統領型首相」とも呼ばれた。


ただし政権発足初期は、総裁派閥から出すのが常識だと思われていた内閣官房長官に田中派の後藤田正晴を起用し、党幹事長に同じく二階堂進[注釈 6] を据え、その他田中派閣僚を7人も採用するなど、田中角栄の影響力の強さを批判され「田中曽根内閣」「角影内閣」さらには「直角内閣」などと揶揄された。これは1983年10月に田中がロッキード事件の一審判決で実刑判決を受け、中曽根が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を出した後に行われた同年12月の総選挙(田中判決選挙)での自民党過半数割れへとつながり、中曽根は新自由クラブとの統一会派結成により第2次中曽根内閣を形成し、自分とは政治信条が合わない田川誠一を自治大臣兼国家公安委員会委員長として迎える苦渋を味わった。1984年には福田赳夫元首相に野党の公明党や民社党まで加わった「二階堂擁立構想」まで持ち出されたが、1985年2月に田中が脳梗塞で倒れて政治生命を事実上失うと、官房長官として留まった後藤田の協力もあって、政権運営の主導権は中曽根の手に移った。中曽根は自民党単独政権の回復に執念を見せ、「死んだふり解散」とも呼ばれながら衆参同日選挙を強行した1986年7月の衆院選と参院選で自民党を圧勝させた。衆院選での公認候補300議席は当時単独政党では戦後最多であり、これに追加公認4人、さらに開票直後に解党した新自由クラブからの合流5人などが加わった。参院選での72人当選(追加公認2人)、非改選議員と合わせた所属議員数145人も自民党史上最多であった。中曽根は党規約改正による総裁任期1年延長という実利を得た上、「保守回帰」と呼ばれた1980年代後半の政治潮流の創設者として歴史に名前を残した。なお、この選挙期間中の街頭演説で、「大型間接税は導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と発言した。1985年8月の日航機墜落事故において「真実は墓場まで持って行く」と発言した[要出典]


一方で改憲こそ首相在任中は明言しなかったが、“戦後政治の総決算”を掲げ、教育基本法や“戦後歴史教育”の見直し、靖国神社公式参拝、防衛費1%枠撤廃等、強い復古調姿勢により左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」「軍国主義者」「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」などといった激しい批判を浴びた。教育改革については、文部省と日教組の二項対立の教育改革に終止符を打つため1984年に自身の私的諮問機関として臨時教育審議会(臨教審)を設置した。その後臨教審の答申は受け継がれ、1988年に内閣の主導による学習指導要領改訂を成し遂げた。これが日教組の歴史的分裂の契機となった。政府税制調査会の会長として税収の「直間比率」是正[注釈 7] の観点から売上税導入を唱えた加藤寛をはじめ、石川忠雄、勝田吉太郎、香山健一、小堀桂一郎、西義之、佐藤誠三郎[注釈 8] など、自らの主張に近い意見を持つ学識経験者を各諮問機関の中心人物に起用し、迅速な決定によるトップダウン型の政策展開に活用した。これは自民党内の非主流派や野党などからは「御用学者の重用」と批判され、選挙を経た国会議員によって構成される国会の委員会より、中曽根が任意で選任できる諮問機関での審議の方が重要と見られて報道される事態も招いた。


1986年に発生した伊豆大島の三原山噴火では、首相権限で海上保安庁所属の巡視船や南極観測船を出動させ、滞在者も含めた島民全員の救出に成功した。頭越しに決定を下された国土庁の官僚や野党などからは独断専行を非難されたものの、当時の内閣安全保障室長であった佐々淳行らは、後年の阪神・淡路大震災発生時における村山内閣の初動対応の遅れと比較して、その決断力と実行力を高く評価している。また、三里塚闘争が今だ継続する中であったが、成田空港二期工事着工を決断した[24]


一方、広島市の原爆病院視察の際の「病は気から」発言や「黒人は知的水準が低い」「日本に差別されている少数民族はいない」、その発言について中曽根事務所が出した謝罪文に関しての質問に、女性蔑視と取られるような「まあ女の子が書いた文章だから。」などの失言で物議を醸すことも多かった(これら一連の事象については知的水準発言を参照)。


首相在任中2度あった総選挙(1983年と1986年)では、現職首相でありながらトップ当選できなかった(当時は中選挙区制であり、2位当選している)。これは戦後の首相では中曽根だけである。トップ当選したのはいずれも福田赳夫元首相で、首相経験者同士が同じ選挙区(旧群馬3区)で対決したことになる。中選挙区時代の旧群馬3区は、福田のほかに同じく首相を務めた小渕恵三や社会党書記長などを務めた山口鶴男といった大物がそろった、日本でも有数の激戦区でもあった(上州戦争を参照)。なお、日本において現職首相が選挙で落選したことは過去に一度もない(首相経験者が落選した例は片山哲や石橋湛山、海部俊樹の例がある)。


ハイテク景気やバブル景気といった好景気を演出し、支持率も高水準を維持して自民党も単独で史上最多の議席を獲得するとともに、任期後半には上記の通り田中の影響を脱した。好調すぎる高付加価値製品の対米輸出によって貿易摩擦問題も浮上したが、プラザ合意で円高路線が合意された後の内需拡大政策として民活(民間活力の意)と称し、国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道清算事業団が大規模に行った旧国鉄用地売却[注釈 9] を含んだ国有地の払い下げ等を行った。これにより、大都市圏やリゾート開発地をはじめとして日本全国で地価が高騰したが、それに対する金融引締め政策を行わなかったためバブル経済を引き起こしたという批判も根強い。また、このバブルにおいて横行した各種のマネーゲームからは、やがて発覚したリクルート事件や、田川に次いで新自由クラブから労働大臣として中曽根政権に入閣し、1986年の自民党復党後は中曽根派に所属していた山口敏夫の失脚・収監など、政治家とカネを巡る問題が再び取りざたされるようになった。



外交



日米・日韓関係





1983年11月11日、日の出山荘にてアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン(左)と





1986年4月13日、キャンプ・デービッドにてアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン(左)と


1982年11月当時、日米関係は最悪と呼べる状態だった[注釈 10]。時代背景は、ソ連が大陸間弾道ミサイルSS20をヨーロッパに配備して、それに対抗する形でアメリカはパーシングIIを配備しようと計画しており、東西冷戦構造が一段と厳しさを増し、一触即発の事態にもなりかねない核の脅威の中で、西側の首脳達は厳しい外交の舵取りを行っていた。そんな中、アメリカのロナルド・レーガン大統領は、アジアが全く無防備であることを念頭において、日米共同宣言の中で「日米で価値観を一体にして防衛にあたる」とした。


1981年5月、当時の首相である鈴木善幸は、初めて『シーレーン千海里防衛術』を公表するが、渡米の帰りの機中で「日米安保条約には軍事的協力は含まれない」と発言し、帰国後には「日米同盟に軍事的側面はない」と語って、共同声明に対する不満を表明してしまい、アメリカの世論を怒らせた。


そして参議院本会議では、鈴木首相・宮澤喜一内閣官房長官と伊東正義外務大臣が日米同盟の解釈を巡って対立し、伊東外相が辞任するという前代未聞の事態にまで発展してしまう。これに武器技術供与の問題が重なることとなる。大村襄治防衛庁長官がワシントンでワインバーガー国防長官と会談した際に、アメリカ側から武器技術供与は同盟国に対しては「武器輸出三原則」の枠外にしてほしいと頼まれていたのに、鈴木首相はこれに対応しなかった。


おまけに伊東の後任である園田直外務大臣が、韓国との関係を損なう事件を起こす。事の経緯は、韓国が、防衛および安全保障に絡み、5年間で60億ドルの政府借款を要請したことに対して、園田は経済協力の切り離しを要求して40億ドル以下に削減、その上「資金をもらう方が出す方に向かって、ビタ一文安くすることはまかりならんと言うのは筋違いだ」というような発言をして、韓国の反発を招いたものである。中曽根は総理になる前から、最初にこれらの問題を解決してしまおうと密かに計画する。


1983年1月の訪米にあたって、直前に韓国を訪ね、急ぎ日韓関係の修復を図り、アメリカが執心していた防衛費の増加と対米武器技術供与の問題は、中曽根の判断で反対する大蔵省主計局と内閣法制局を押し切って問題を決着させた。これらの成果を手土産に、中曽根は首相になって初めての訪米の途についたのである。


訪米中に中曽根が語ったとされる「日米は運命共同体」発言、「日本列島不沈空母化」および「三海峡(千島・津軽・対馬)封鎖発言」により、アメリカとの信頼関係を取り戻し、ロナルド・レーガン大統領との間に愛称で呼び合うほどの“個人的に親密な”関係(「ロン・ヤス」関係)を築くことにも成功して日米安全保障体制を強化した[注釈 11]。一連の防衛力強化政策の仕上げとなったのは、中曽根政権が最後に編成した1987年(昭和62年)度予算での「防衛費1%枠」撤廃だった。ブレーンの一人だった高坂正堯の意見を採用し、防衛費の予算計上額を日本の国民総生産 (GNP) の1%以内にとどめる三木内閣以来の方針を放棄し、長期計画による防衛費の総額明示方式に切り換えて急速な軍備拡張への新たな歯止めとした。この決定により、日本政府はより積極的な防衛政策の立案が可能となり、米軍との協力関係はさらに緊密となった。これは米国への隷従の強化と取る向きもあり、また、“ヤスはロンの使い走り”(Messenger boy) と批判されることもある。


また、日本からの輸出の増加により日米間の通商、経済摩擦が深刻化したことから、アメリカの貿易赤字が増加したことに対処するために、日本国民に外国製品の購入(特にアメリカ製品を最低100ドル分、当時の為替レートで1万3千円相当)を呼びかけるなどの点でも、中曽根はアメリカからの要求へ積極的に応えた。この時の広告は「輸入品を買って、文化的な生活を送ろう」だった。


ただし、中曽根自身が引き起こした日米間の懸案として、1986年9月に自民党の全国研修会の講演で「アメリカの知的水準は非常に低い」と発言したことから「知的水準発言問題」が起きた。黒人(アフリカ系アメリカ人)やヒスパニック系の議員連盟によってアメリカ下院に提出された中曽根非難決議案は本人の謝罪により採択が見合わされたが、その釈明に際して「日本は単一民族国家」と発言したことは北海道ウタリ協会からの新たな抗議を呼び、北海道旧土人保護法などが存続していたアイヌ民族に関する内政問題へと転化していった[注釈 12]



不沈空母発言


ワシントン・ポストの外交記者ドン・オーバードーファーによれば、1983年1月にワシントン・ポスト会長キャサリーン・グラハム会長宅で行われた朝食会にて、オーバードーファーの質問に対し中曽根が「日本の防衛のコンセプトの中には海峡やシーレーンの防衛問題もあるが、基本は日本列島の上空をカバーしてソ連のバックファイアー爆撃機の侵入を許さないことだと考えている。バックファイアーの性能は強力であり、もしこれが有事の際に日本列島や太平洋上で威力を発揮すれば日米の防衛協力体勢はかなりの打撃を受けることを想定せざるを得ない。したがって、万一有事の際は、日本列島を敵性外国航空機の侵入を許さないように周辺に高い壁を持った船のようにする」と答えたものを、通訳が「unsinkable aircraft carrier」つまり「不沈空母」と意訳した[注釈 13]。同様の内容を中曽根も後年のインタビューで語っている[25]


後日オーバードーファーから、中曽根の秘書官に電話が入り、録音テープを調べ直したが「不沈空母」なる言葉はなかった、用いた言葉は「大きな船」であり、正確な内容をもう一度記載すると言ってきたが、中曽根は即座に訂正の必要はない、と答えさせた。[要出典]


しかし2017年1月12日に日本の外務省が公開した外交文書によれば、冒頭の1983年のインタビューにて、中曽根が確かに日本列島について「不沈空母のように強力に防衛する」と述べていたことが明らかとなっている[25]



ウィリアムズバーグ・サミット





1983年、第9回先進国首脳会議にて(右から3人目)


中曽根は、1983年5月に開かれたウィリアムズバーグ・サミットに出席している。議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがMGM-31 パーシングII準中距離弾道ミサイルを配備すべきか否か、であった。


だが、前向きな姿勢なのはアメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相のみで、フランスのミッテラン大統領、西ドイツのコール首相、カナダのトルドー首相などは消極的な姿勢をとり、会議は今にも決裂しそうな気配を見せていた。


そうした状況の中、中曽根は敢然と発言する。「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法と非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示すことであり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示すことだ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」これを聞いたみなは沈黙してしまったが、間髪入れずにレーガン大統領が阿吽の呼吸で「とにかく声明の案文を作ってみる」と提案して机上のベルを押すと、すぐさまシュルツ国務長官がレーガンの元に飛んできて、案文の作成を命じられた。


そして政治声明は、ソ連との間でINF(中距離核戦力)削減交渉が合意に達しない場合は1983年末までに西ヨーロッパにパーシングIIを配備する、またそのために、サミット構成国、ECに不退転の決意があることが謳われ、経済宣告も当然採択され、インフレなき成長のための10項目からなる共同指針が示された。



クレムリンの機密文書


ソ連が崩壊し、クレムリンの機密文書が出て来た際、ウィリアムズバーグ・サミット直後の1983年5月31日に開かれたソ連指導部の政治局秘密会議での速記録には、ショックの大きさが色濃く反映された記述があり、当時のグロムイコ外相は「領土問題などで、日本に対し多少融和的に出る必要がある」と主張しており、アンドロポフ書記長も「日本との関係で何らかに妥協を図らねばならない。たとえば、戦略的意味を持たない小さな島々の共同開発はどうか」などと発言した記録があった。


このソ連政治局の対日政策の再検討発言は、ウィリアムズバーグ・サミットでの中曽根の発言が、ソ連に深刻な打撃を与えたことを物語っているといえよう[誰によって?]



日中関係


以前より総理大臣の靖国神社参拝は恒例であったが、中曽根内閣の際に靖国神社参拝問題が持ち上がり、また日米同盟と防衛力の強化に努めた。この問題が対中関係として際立った印象を与えているのは、中曽根が首相として初めて8月15日に公式参拝をしたこと(8月15日に公式参拝をしたのは中曽根だけである。小泉純一郎は首相在任中の2006年8月15日に参拝しているが、公私の別を明らかにしていない)、当時中国共産党指導部の胡耀邦総書記ら親日傾向を持つグループとその反対勢力との権力争いがあり、その中で靖国参拝が問題として浮上、中華人民共和国からの抗議が激しくなっただけであるという見方もある。自身の著書の中で中曽根は「親日派の立場が悪くなることを懸念し靖国参拝を中止した」としている。胡耀邦と鄧小平は、当時日米同盟や日本の防衛力強化を歓迎すらしていた[26][27]。東京裁判史観は否定しつつアメリカではなく、中華人民共和国には過去の歴史を謝罪すべきとする独自の歴史観を持っていた[16][17]


角福対立時代には一貫して日中国交正常化支持の立場をとっていることから、中曽根の姿勢は中華人民共和国を親日化することが目的であったといえる[誰によって?]。第二次対中円借款の実施、「新日中友好21世紀委員会」の設立、中華人民共和国からの留学生の多数受け入れと日本人青年の中華人民共和国訪問事業もその一環であり、中曽根内閣当時の1984年から中華人民共和国での沿海都市の経済特区指定と円高圧力も重なったこともあって日本の対中投資は本格化した。総理退任後は六四天安門事件での対中制裁の解除を鈴木善幸・竹下登とともに政府に働きかけを行ったり[28]、訪中した際は江沢民[29] や胡錦濤[30] にも歓待され、習近平が訪日した際の天皇特例会見でも関与が取り沙汰される[31] など中国共産党政府と強いパイプを持ち、上海交通大学の名誉教授を贈られている。



民営化推進



中曽根内閣は戦後の自民党で最も新保守主義・新自由主義色が濃い内閣であった。日本専売公社、日本国有鉄道および日本電信電話公社の三公社を民営化させた。これによって総評および総評を支持母体とする社会党を切り崩す意図があった[要出典]。また、長年半官半民であったフラッグキャリアの日本航空の完全民営化を推進させた。


次第に国民からの支持も安定し、1986年の衆参同日選挙(死んだふり解散)では衆参ともに自民党史上最多獲得議席となる圧勝となり、その功により総裁任期が1年延長された。しかし、経済政策ではアメリカの貿易赤字解消のためプラザ合意による円高ドル安政策を採り、これが結果的に日本をバブル経済に突入させたこともあり、批判の声も少なくない[要出典]



退任


同日選大勝後、中曽根にとって最悪の状態となった。藤尾正行文部大臣が中曽根の自虐史観転換を批判する発言を雑誌に行い罷免され、中曽根自身も「黒人は知的水準が低い」「日本は単一民族」「女の子が書いた文章だから」などの失言が問題化し、さらに選挙中に「大型間接税は導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と宣言していた売上税を導入しようとしたことから「公約違反」と追及され、支持率が一時的に急落する。


1987年4月の統一地方選で敗北し、翌月に売上税は撤回を表明することになるが、選挙の敗北から18日後に行われた日米首脳会談でも準国賓待遇とは裏腹に、下院本会議は貿易相手国に黒字減らしを強要する包括貿易法案を290対137の大差で可決した。さらに、内需拡大と公定歩合の引き下げによるドル支えを露骨に強要した。このためNBCは「中曽根首相は『特別なあいさつ』を受けた」と皮肉っている。しかし、夏を越すと支持率が復活し、同年11月に余力を持ったまま退任する。ニューリーダーと呼ばれた竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一のうちから、事実上の後継者指名権を得て(中曽根裁定)竹下を後継に指名した。


中曽根自身の回顧によれば、後継候補に必要な条件として、自身が断念した売上税(消費税)の導入について党内をまとめられる人物、当時容態が悪化していた昭和天皇の不慮に備え、「大喪の礼」を滞りなく行える人物、の2件があり、竹下が最もふさわしいと判断したという。首相在任1,806日は歴代7位(戦後5位)、中曽根内閣は3次4年11ヶ月に及ぶ20世紀最後の長期政権となった。



リクルート事件


1989年、自身が関与していた戦後最大の汚職事件といわれるリクルート事件が直撃した。野党は予算審議と引き換えに中曽根の証人喚問を要求したが、中曽根はこれを拒否し、竹下政権は竹下自身の不始末も手伝って瓦解した。その後、リクルート事件の責任を取って党を離れるものの復党し、1994年の首班指名選挙では村山富市首班に反発し、小沢一郎と共に海部俊樹を担ぐが失敗する。しかし、党からは貢献度を重視して不処分であった。


鳩山由紀夫は事件を機に、政官財の癒着の解明を目指してユートピア政治研究会を党内で立ち上げ、中曽根らを糾弾した。その後、鳩山が新党さきがけを経て、1996年に「友愛」を掲げて旧民主党を創設した際、中曽根は「政治は友愛だの何だのと綺麗ごとを言うが中身がなく薄っぺらい。ソフトクリームのようにすぐ解けてしまうだろう。」と嘲笑したが、鳩山は「夏にはおいしい」と切り返し、政治理念を守り通して「友愛」がその年の流行語大賞となった[32]。自身は薩長連合になぞらえて保保連合を一貫して主張した。



その後


1991年の湾岸戦争では中東特使に任じられ、当時のイラク大統領サッダーム・フセインと会談して日本人の人質全員解放を成功させた。1996年には小選挙区比例代表並立制導入の際、小選挙区での出馬を他の候補に譲る代わりに、比例北関東ブロックでの終身1位の保証を受ける。1997年2月に憲政史上4人目の議員在職50周年を迎え、同年4月に大勲位菊花大綬章を生前受章する。同年、第2次橋本内閣改造内閣で腹心の佐藤孝行の入閣を希望したが、ロッキード事件で有罪が確定したことを批判されて佐藤は短期間で辞任に追い込まれ、橋本内閣も支持率急低下で大打撃を受け、第18回参議院議員通常選挙では自民党派が大敗し橋本龍太郎は総理を辞任した[33]。中曽根派が山崎拓率いる近未来政治研究会と分裂した後、1999年に亀井静香や平沼赳夫率いる亀井グループと合併し志帥会となり、最高顧問に就任する。



政界引退後


2003年の自民党の比例区における73歳定年制導入により、2003年の総選挙では自民党の比例北関東ブロックからの立候補ができず、立候補を断念し衆議院議員から引退した(なお、比例名簿で終身比例名簿1位から退いたことで、比例当選最下位順位の早川忠孝が復活当選している)。


中曽根は中選挙区制から小選挙区制への移行に際し、比例北関東ブロックにおける終身1位を約束されていた。しかし「特例をもうけていいのか」と全国の県連などから批判が上がり(群馬県連でも世代交代を求める声があった)、小泉純一郎総裁は中曽根と宮澤の両長老に引退を勧告した。一度、党執行部が約束したことを小泉が一方的に破棄して中曽根に引退勧告したことは、一部で「きわめて非礼なものである」との批判も呼び、中曽根は「政治的テロだ」と強く反発し、立候補断念の記者会見でも「引退はしない」と公言した(詳細は上州戦争を参照)。なお、73歳定年制そのものは2000年の総選挙から導入されており、原健三郎・櫻内義雄の両元衆議院議長がこれにより引退しているが、中曽根と宮澤はこの時は特例により比例区定年制対象外となっている。


個人事務所を世界平和研究所内に置く(旧個人事務所を2009年まで43年間砂防会館内に置いた)。財団法人世界平和研究所で会長を務め、中曽根康弘賞を創設し、世界の平和・安全保障に関する研究業績を表彰する。


2005年10月28日、党新憲法起草委員会が新憲法草案を発表した。中曽根が前文小委員長として前文をまとめたが、発表された草案では内容が変更されていた(中曽根原文より大幅に簡略化された内容となる)。


2007年3月23日午後(ブルームバーグ)における日本外国特派員協会での記者会見で、慰安婦問題について質問され、「日本軍による慰安婦の強制動員事件について、個人的に知っていることは何もない。新聞で読んだことがすべてだ」と語った。また、自身の回顧録で海軍将校だった時に『三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。しかしこれら民衆も、悲劇のクライマックスでは、古田班長のように、あるいは、従兵の佐々木のように、人間の尊厳をまざまざと見せつけてくれる尊い存在であったのである。』[11] と言及した「慰安所」とは兵隊相手の慰安婦による売春が行われていたものではないかとの質問には「徴用した工員たちのための娯楽施設を設営した」、「慰安所は軍人らが碁を打つなど、休憩所の目的で設置した」と説明した[34][35][36]。なお、2011年に日本共産党の機関誌『しんぶん赤旗』は、高知市の市民団体が現地女性を集めて慰安所を設置したことを示す資料を見付けたと報じた[37]


2008年9月3日付の『読売新聞』朝刊に、9月1日に首相辞任の会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿している。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べている。


2008年12月7日に自宅で転倒し、右肩を骨折して入院したが順調に快復し、2009年3月7日に開かれた鳩山一郎没後50年の会合でも演説するなど、活動を続けている。また同年10月、急逝した中川昭一元財務大臣の告別式に出席した際は、介添えを必要とせず自力で席を立って焼香をするなど、90歳を過ぎても矍鑠とした姿が見られる。


2013年12月4日夜、国会近くにある東京・紀尾井町のホテルニューオータニで、5月に95歳を迎えた中曽根の祝賀会が行われたが、企画者とされる山口敏夫元労相以外にも、山崎拓元幹事長、伊吹文明衆院議長、石破茂自民党幹事長、石原伸晃環境相、古屋圭司国家公安委員長、島村宣伸元農相、二階俊博衆院予算委員長、亀井静香元国民新党代表、渡辺喜美みんなの党代表らが出席した。海外訪問中の村上正邦元労相や体調を崩している与謝野馨元官房長官を除けば、旧中曽根派の主だった人物が結集しており、旧中曽根派の同窓会のようだったと報道された[38]


2015年5月には97歳の誕生日を迎えたが、同年8月7日の読売新聞に戦後七十年にあたっての長文の寄稿を行うなど健在ぶりを示している。


2017年5月には99歳の誕生日を迎えた。尾崎行雄記念財団は公式フェイスブックで「2003年の自民党の比例区における73歳定年制導入がなければ、中曽根元総理は恐らく尾崎の連続当選25回、在職連続63年の記録を塗り替えていただろう」というコメントを残している(計算上は、2003年以降も北関東ブロック比例1位の処遇が継続していて中曽根本人が辞退していなければ、2011年に在職連続64年となる。連続当選は2017年に26回となる。)。


2018年5月、日本の総理大臣経験者では史上2人目の100歳の誕生日を迎えた(前述)。関係者の話によれば、近年足腰が衰えたものの、都内の事務所を週2回程度訪れ、書類整理や来客との面会をこなしているという[39]



大連立構想を仲介



自民党と民主党の大連立を裏で仲介していたと報道されている。



ライフワーク


「自主憲法制定」をライフワークとしており、防衛力増強や「国労つぶし」を行った。また、小泉総裁との関係が悪化したことから、自民党の新憲法起草委員会では前文小委員長であった中曽根が作成した憲法前文の試案は使用されなかった。このため、左派や護憲派だけでなく、右派や改憲派からも中曽根への批判がある。



政治姿勢



憲法改正


前述のように改憲をライフワークとしている。議員引退後の現在もなお新憲法制定議員同盟会長を務めている。



核武装


日米同盟が破棄された時に備えて、日本は核武装の準備をするべきと主張している。



小泉内閣への評価


小泉内閣の最大の功績として「アフガニスタン、イラクでの国際貢献を目的とした自衛隊の海外派遣」を挙げる(中曽根も第3次内閣でイラン・イラク戦争での掃海艇派遣を検討していた)。また最大の失政として「憲政の常道に反し、参議院で否決された郵政民営化法案を成立させようと衆議院を解散したこと」(郵政解散)を指摘した。「小泉内閣は、私がやったような政治の本道―たとえば財政とか行革とか、教育―ではなくて、道路と郵政をやっただけだ。どちらかと言えばはじっこのことだ。それを劇場政治として面白くやったんだな。俺に言わせれば印象派の政治だ(笑)」とインタビューに答えている[40]



保守意識


中曽根派が三木派と並んで保守傍流扱いされることに反発していた。なお保守本流は、吉田自由党系の池田派・佐藤派の系列を指すのが通常で、佐藤派・保利系と合同した福田派まで含めることまではあっても、通常中曽根派は含まない。



戦後政治の生き証人


松村謙三から「緋縅の鎧を着けた若武者」と賞賛された新人議員時代や、いち早く一派を率いた時代から平成の世まで保守政界の一方の核にあった。保守合同以前は野党、自民党においても反主流時代が長く、保守本流の嫡流ともいえる宮澤喜一(2007年死去)とは別の意味で、国会や内閣、派閥取引の裏事情を知る生き証人として知られ、本人も長い政治生活を背景とした過去との比較などの発言をたびたび行う。


とりわけ、保守合同の立役者であり、自民党史上最高の軍師として鳴る三木武吉を比喩として使い、その時代の参謀型・調整型政治家を持ち上げる手段としていた。鈴木内閣時の金丸信に対しては、「三木武吉以来の人材だ!」とおだて上げ、加藤の乱鎮圧後の野中広務には、「三木武吉を超えましたなあ」と褒め上げている。



交友関係





1986年4月13日、キャンプ・デービッドにてロナルド・ナンシー夫妻に携帯テレビを贈呈





2004年6月11日、ロナルド・レーガンの葬儀にてミハイル・ゴルバチョフ、マーガレット・サッチャー、ブライアン・マルルーニーらと



ロナルド・レーガン

レーガンとは互いに「ロン」「ヤス」と呼び合うほどの親密な仲を築き、自著の中でも「たぐい稀な人間的魅力」と評している。

1983年1月16日、ブッシュ副大統領の晩餐会に招待された席上で、中曽根はこう述べた。
「今回の渡米に同行している次女の美恵子は、小学生だった11歳の時、インディアナ州ミシガンシティのモルト・ウィンスキー氏のお宅にホームスティしたのです。高校時代には互いに1年間、交換留学させました。ウィンスキー家とは20年近い交流が続いてます。今回の渡米に際しても、一家をあげてわざわざワシントンまで駆けつけてくれて、一同抱き合って再会を喜び合ったばかりです。かつて11歳の娘の美恵子をアメリカに送り出すとき、家内と『いつか総理大臣なって渡米する時が来たら、その時は美恵子が通訳をやってくれるといいなあ』と夢見たものですが、その後二十数年、政治家として家族とともに幾山河を越え風雪に耐えて、ここワシントンを訪れ、それが今、現実になって感無量です。国と国との関係も、ウィンスキー家と私の家とのように友情と信頼で築き上げたい」


この話の途中で中曽根は感情がこみあげ、言葉を詰まらせてしまう。これを聞いていたブッシュ副大統領、シュルツ国務長官、ワインバーガー国防長官、ブロック通商部代表、ボールドリッジ商務長官など、並んでいた閣僚がハンカチを取り出して目頭を押さえる一幕があった。翌朝シュルツから前夜の話を聞いたレーガン夫妻も目に涙を浮かべたという。

1983年1月17日、『ワシントン・ポスト』紙の社主だったキャサリン・グラハムの朝食会に招かれ、その席上で「日本は不沈空母である」「日米は運命共同体である」と発言したと『ワシントン・ポスト』は大きく取り上げた。この会食の翌日にレーガンがホワイトハウスの私的な住居で朝食に招き、その時レーガンから「今後はお互いファーストネームで呼び合おう」と言われたという。


ヘンリー・キッシンジャーは「もし政治が可能性の芸術であるならば、レーガンは掛け値なしに一流の芸術家」と発言し、中曽根もこれに同意している。



マーガレット・サッチャー

大英帝国伝統の血を引いた現代宰相で卓抜な能力を備え、強気ながらも一方で女性らしい非常にきめ細やかな繊細さを持っていると中曽根は評した[注釈 14]



竹村健一

中曽根は竹村を畏友と評し、竹村とは中曽根がまだ、総理・総裁候補だった頃からの付き合いであった。その当時から「体の中に国家を持っている」政治家として、竹村は中曽根を敬愛し続けているという。「竹村会」という勉強会の1月の全国大会では、毎年中曽根が基調講演を行っている。



渡邉恒雄


読売新聞会長の渡邉恒雄は初入閣や総理就任にも貢献した盟友であり、同じ憲法改正論者でもある一方で小泉純一郎の推し進めた郵政民営化や靖国神社参拝などには異議を唱えた。



田中角栄

永遠の競争相手として認めており、代議士会では論戦に明け暮れた仲である一方で総理就任の際は田中の影響力を利用した。同じ1918年5月生まれでもある。



胡耀邦

『三国志演義』の登場人物のようで、英雄的要素を持ち、度量も視野も広かったと評し、兄弟のような付き合いをした仲だという。

1984年9月、「日中友好二十一世紀委員会」が発足した。これは胡耀邦と中曽根が「これからの日中関係は、外交辞令ではなく、本音で話し合えるチャンネルを作っておく必要がある」という意図の元に作られたという[誰によって?]



全斗煥

中曽根首相の就任から間髪を入れない訪韓は、教科書問題が沸騰した直後にという微妙な時期であったが、晩餐会での韓国語でのスピーチ[注釈 15] や全斗煥大統領のカラオケで韓国語の歌を披露するといったパフォーマンスも奏功してか、学生など少数の左翼過激派を除く韓国人一般に好意的に受け止められた。この訪日の前に全斗煥大統領は既に中国と国交を持った日本政府に協力を要請して胡耀邦総書記と親しい中曽根首相を仲介役に中華人民共和国が韓国を国家承認すれば抱き合わせで中国と中朝同盟を結ぶ北朝鮮を日本に国家承認させるとする計画を決定し[41]、1986年に訪中した中曽根首相は胡耀邦に「全斗煥から『中国との国交、それに至らぬとしても、交流を拡大するよう望むと伝えてほしい』と言われた。1つはLT貿易事務所のようなものか通商代表部を中韓間で設置、もう1つはソウルオリンピックで協力してほしいということだった」[42] と述べて中韓が通商代表部を設置すれば日朝間でも貿易を行う用意があると提案した[43]。後にソウル五輪への中国参加や中韓国交正常化は実現するも、胡耀邦総書記は韓国の対中姿勢を評価しつつ北朝鮮の態度を理由に日朝貿易や韓米中朝4カ国協議には否定的だった[43]。日韓関係はその後、紆余曲折を経ることとなり、全大統領も部下だった盧泰愚が大統領となるや政治力を奪われ、金泳三政権の下で冷遇された。そうした中で中曽根が、全の来日の際には必ず付き添うなど、過去の盟友に対しての一貫した友情は、日韓併合時代も経験した保守的な韓国人高齢者の間でも好意的に受け止められている。



不破哲三

『サンデー毎日』2009年7月19日号において対談を行い、互いに一定の評価をし合った[44][45]



宗教関連



靖国神社


1985年に内閣総理大臣として公式参拝した。翌1986年は後藤田官房長官の圧力に屈し、さらに胡耀邦の中国共産党内での立場に配慮し、参拝を中止した。1988年3月11日、赤報隊から脅迫状が送りつけられる(赤報隊事件)。国会議員勇退後にはA級戦犯分祀推進[46] や小泉総理の靖国参拝反対など大きく主張を転換した。


島村宜伸は、中曽根の依頼を受けて靖国神社に対しA級戦犯の分祀を求めたことがあった旨を、2005年に述べている[47]


天皇の参拝実現を要望している。2004年に「遺族が一番考えているのは天皇陛下がいつ参拝してくれるかだ。首相ではなく、天皇陛下が参拝できるようにするのが首相の大きな仕事だ」と発言している[46]




自著において宗教観を語っており、どの宗教も心の底から信じられないとするが、座禅だけは好んで行っている[12]。また雑誌の読書特集のインタビューで道元『正法眼蔵』を座右の書としていると語った。



世界基督教統一神霊協会

世界基督教統一神霊協会(統一教会)・国際勝共連合との関係について以下の指摘がある。


1992年3月、出入国管理及び難民認定法の規定で日本に入国できなかった統一教会の教祖、文鮮明が特例措置で14年ぶりに日本に入国した際、文鮮明と会談した[48]


1992年9月、統一教会発行「中和新聞」 によると、桜田淳子や山崎浩子が参加したことで注目を浴びた1992年の統一教会の合同結婚式に中曽根は元総理の名で祝辞を送ったとされている。


1994年8月 勝共連合の幹部の誘いで文鮮明の側近である朴普煕と会談、1991年の文鮮明と金日成の会談の報告を受ける。金丸信が(「東京佐川急便事件」で)失脚したので、北朝鮮と日本を結ぶパイプ役をお願いしたとされる[49]

2006年3月21日、千葉県の幕張メッセで開催された統一教会系列の「天宙平和連合 (UPF)日本大会」にその活動趣旨に深い理解を示し、祝電を送ったという[50]



渾名



  • 「政界の風見鶏」

  • 「薮枯らし」

  • 「緋縅の鎧を着けた若武者」

  • 「青年将校」

  • 「中曽根大勲位」

  • 「大勲位閣下」

  • 「ヤス」(ロン・ヤスとして、ロナルド・レーガンと並べて呼称される)

  • 「ヤストラダムス[注釈 16]



栄典


戦後、生存者叙勲の復活が閣議決定された直後には「戦前の勲章の復活などは、いまの憲法にふさわしくない。第一、いまどき勲章をもらったって、いつ、どんな服につけるのかね」[51] と語っていたが、1997年4月29日、大勲位菊花大綬章を受章した。日本国憲法施行後、皇族・外国人以外で大勲位菊花大綬章を生前受勲したのは、吉田茂、佐藤栄作に次いで3人目である。その他の栄典としては、大日本帝国海軍の軍人であったとき、海軍主計少佐として従六位に叙されている。


また、フランスからレジオンドヌール勲章(グラントフィシエ)、ドイツ共和国から功績勲章大十字章をそれぞれ受章した。


称号は、名誉博士(ルイ・パスツール大学)、名誉博士(高麗大学校)、名誉博士(タンマサート大学、政治学)の名誉学位を受けている。その他、1997年(平成9年)には国会議員在職50年表彰を受けた(史上4人目)。



家族・親族





1983年1月21日、アンドルーズ空軍基地にて妻の蔦子(左)と



  • 生家[注釈 17]

    • 父・松五郎(材木商)

    • 母・ゆく

    • 兄・吉太郎

    • 弟・良介、昌吉



  • 自家

    • 妻・蔦子(元明治大学教授小林儀一郎の三女)

    • 長男・弘文(政治家・外務大臣(麻生内閣))[注釈 18]
      • 孫・康隆(弘文の長男。政治家・衆議院議員)


    • 長女・美智子(双川文吾(弁護士双川喜文の長男、元明治大学専務理事双川喜一の孫)の妻)
      • 孫(長女・美智子と双川文吾の息子)の双川正文はフジテレビに入社し、現在はバラエティ制作センター勤務のサラリーマンである[注釈 19]


    • 二女・美恵子(渥美直紀(元鹿島建設名誉会長渥美健夫の長男、元大阪商船取締役[52]渥美育郎の孫、兵庫県士族渥美遂[53] の曾孫)の妻、元NHKアナウンサー[注釈 20]。)



  • 他家


      • 光子(元東京大学教授平山信の孫川上冽の妻)

      • 八重子(斉藤知三郎(元・大昭和製紙(現・日本製紙)名誉会長斉藤了英の三男、大昭和製紙(現・日本製紙)の創業者斉藤知一郎の孫)の妻)






系譜


中曽根家(群馬県高崎市)

  • 系図1

































































































































































































































平山信
 
 
 
 
 
 
 
中曽根
松五郎
 
 
 
 
 
 
 
斉藤知一郎
 
 
 
 
 
豊田喜一郎
 
 
 
三井高長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千枝
 
川上寿一
 
中曽根
吉太郎
 
中曽根康弘
 
 
 
斉藤了英
 
斉藤滋与史
 
和可子
 
豊田章一郎
 
博子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
川上冽
 
光子
 
八重子
 
斉藤知三郎
 
斉藤斗志二
 
斉藤公紀
 
 
 
 
 
 
 
豊田章男
 
 
 
 

  • 系図2

































































































































































































































































































































































































































































































































































































































 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鹿島岩蔵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いと
 
鹿島精一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
初代中曽根
松五郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稲山嘉寛
 
 
 
梁瀬次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
卯女
 
鹿島守之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渥美育郎
 
 
 
小林儀一郎
 
 
 
 
 
2代中曽根
松五郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稲山孝英
 
弘子
 
公子
 
鹿島昭一
 
よし子
 
石川六郎
 
三枝子
 
平泉渉
 
伊都子
 
渥美健夫
 
小林義治
 
蔦子
 
中曽根康弘
 
中曽根
吉太郎
 
前川昭一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渥美雅也
 
渥美直紀
 
美恵子
 
美智子
 
双川文吾
 
中曽根弘文
 
真理子
 
 
 


選挙歴
































































































































































































































































当落 選挙 施行日 選挙区 政党 得票数 得票率 得票順位
/候補者数
比例区
比例順位
/候補者数

第23回衆議院議員総選挙 1947年4月25日 群馬県第3区 民主党 65,484 '

1/10
- -
第24回衆議院議員総選挙 1949年1月23日 群馬県第3区 民主党 45,261 '

2/14
- -
第25回衆議院議員総選挙 1952年10月1日 群馬県第3区 改進党 71,967 '

1/10
- -
第26回衆議院議員総選挙 1953年4月19日 群馬県第3区 改進党 65,878 '

1/7
- -
第27回衆議院議員総選挙 1955年2月27日 群馬県第3区 日本民主党 83,399 '

1/6
- -
第28回衆議院議員総選挙 1958年5月22日 群馬県第3区 自由民主党 70,852 22.0
2/7
- -
第29回衆議院議員総選挙 1960年11月20日 群馬県第3区 自由民主党 76,274 24.2
2/7
- -
第30回衆議院議員総選挙 1963年11月21日 群馬県第3区 自由民主党 84,504 26.2
2/6
- -
第31回衆議院議員総選挙 1967年1月29日 群馬県第3区 自由民主党 72,731 21.5
2/6
- -
第32回衆議院議員総選挙 1969年12月27日 群馬県第3区 自由民主党 106,823 29.4
1/7
- -
第33回衆議院議員総選挙 1972年12月10日 群馬県第3区 自由民主党 93,879 24.3
2/5
- -
第34回衆議院議員総選挙 1976年12月5日 群馬県第3区 自由民主党 56,454 13.8
4/6
- -
第35回衆議院議員総選挙 1979年10月7日 群馬県第3区 自由民主党 95,961 23.7
2/6
- -
第36回衆議院議員総選挙 1980年6月22日 群馬県第3区 自由民主党 96,930 23.8
2/6
- -
第37回衆議院議員総選挙 1983年12月18日 群馬県第3区 自由民主党 117,970 30.1
2/5
- -
第38回衆議院議員総選挙 1986年7月6日 群馬県第3区 自由民主党 115,381 28.1
2/5
- -
第39回衆議院議員総選挙 1990年2月18日 群馬県第3区 無所属 86,552 19.9
3/7
- -
第40回衆議院議員総選挙 1993年7月18日 群馬県第3区 自由民主党 64,387 16.4
4/7
- -
第41回衆議院議員総選挙 1996年10月20日 比例北関東 自由民主党 '
'
'
- 単独1位
第42回衆議院議員総選挙 2000年6月25日 比例北関東 自由民主党 '
'
'
- 単独1位
当選回数20回 (衆議院議員20)


主な著作



著書



  • 『青年の理想』(一洋社、1947年)

  • 『日本の主張』(経済往来社、1954年)

  • 『南極』(弘文堂、1963年)

  • 『日本のフロンティア』(恒文社、1966年)

  • 『新しい保守の論理』(講談社、1978年)

  • 『心のふれあう都市-21世紀への提言-』(サンケイ出版、1980年)

  • 『政治と人生-中曽根康弘回顧録』(講談社、1992年)

  • 『天地有情-五十年の戦後政治を語る』(文藝春秋、1996年)

  • 『二十一世紀日本の国家戦略』(PHP研究所、2000年)

  • 『自省録-歴史法廷の被告として』(新潮社、2004年)

  • 『日本の総理学』(PHP新書、2004年)

  • 『保守の遺言』(角川書店[角川oneテーマ21新書]、2010年)

  • 『わたしがリーダーシップについて語るなら』(ポプラ社、2010年)

  • 『中曽根康弘が語る戦後日本外交』(新潮社、2012年)



共著



  • (竹村健一編)『内閣総理大臣中曽根康弘、防衛・憲法を語る-亡国の非武装中立論を撃つ』(山手書房、1984年)

  • (佐藤誠三郎・村上泰亮・西部邁)『共同研究「冷戦以後」』(文藝春秋、1992年)

  • (梅原猛)『政治と哲学 日本人の新たなる使命を求めて』(PHP研究所、1996年)

  • (宮沢喜一)『対論改憲・護憲』(朝日新聞社、1997年)
    • 『憲法大論争 改憲vs.護憲』(朝日文庫、2000年)


  • (石原慎太郎)『永遠なれ、日本 元総理と都知事の語り合い』(PHP研究所、2001年/PHP文庫、2003年)

  • (竹村健一)『命の限り蝉しぐれ-日本政治に戦略的展開を-』(徳間書店、2003年)

  • (木下義昭編)『戦後60年日本の針路を問う-世界日報30年の視点-』(世界日報社、2005年)

  • (聞き手:松本健一)『政治は文化に奉仕する これからの政治と日本』(シアテレ新書、2010年7月)- DHCシアターの番組での対話集

  • (梅原猛)『リーダーの力量 日本を再び、存在感のある国にするために』(PHP研究所、2010年11月)



脚注



注釈





  1. ^ なお、後に中曽根政権で官房長官に迎えた後藤田正晴は内務官僚としての先輩に当たる。


  2. ^ 『終わりなき海軍』97ページでは「大きな波 黙祷の列の 足に来ぬ/戦友(とも)を焼く 鉄板をかつぎ 浜に出ぬ」


  3. ^ 実際幹事長に就任したのは斎藤邦吉で、蔵相に就任したのは金子一平。


  4. ^ 河野一郎の没後に河野派を中曽根が引き継ぐことを進言したのは、当時1年生議員の渡辺である。


  5. ^ これはのち安倍晋三に、「戦後レジームからの脱却」「美しい国」志向として引き継がれる。


  6. ^ 二階堂はロッキード事件との関与が濃いとされながらも訴追されなかった「灰色高官」の一人とされ、金権政治批判を受けやすい立場にあった。


  7. ^ 所得税や法人税などの直接税と比較すると酒税・たばこ税・揮発油税などの間接税の税収額が低いため、大型消費税の導入と所得税・法人税の減税などを組み合わせて直接税と間接税の税収額を同じにしようという政策。


  8. ^ 佐藤誠三郎の妻の佐藤欣子は1989年の参院選で中曽根派の支援を受けて自民党から立候補したが、落選した。


  9. ^ ただし、これは地価高騰抑制などの理由により、当初の債務返済計画通りには進まなかった。詳しくは該当項目参照のこと。


  10. ^ 一方で、「総理就任時、日米関係は最悪と呼べる状態だった」「自分(中曽根)が外交関係を改善した」という認識を強く持ち、公式発言でもたびたび重ねたことが、鈴木善幸をはじめとする宏池会の逆鱗に触れ、(鈴木内閣と鈴木善幸本人への非難・皮肉とも受け取れた)二階堂擁立構想を生む原因となる。


  11. ^ これ以後、日本国内閣総理大臣から、同様の関係を築くことが流行した。後任・竹下登の「ロン・ノブ」、ブッシュと小泉純一郎の「ジョージ・ジュン」など。


  12. ^ こうした背景やレーガンの歴史認識・過去の記憶を基に、「ロン・ヤス」は実態の無い関係であったと指摘されることも多く、これは同じくアメリカのプードル時代といわれた後年の「ジョージ・ジュン」の関係と比較しても歴然とした差が存在した。


  13. ^ ドン・オーバードーファー「ナカソネは『不沈空母』とは言わなかった---ワシントン・ポスト外交記者を辞めるに当たって」『THIS IS 読売』1993年8月号


  14. ^ サッチャーの愛国心はかなりのもので、トルコのダーダネルス海峡に架ける橋の工事を日本企業が請け負った際には、サミットの開会前に中曾根の元に来て、英国の勢力圏の仕事を日本が持っていくのはひどいと抗議している。


  15. ^ 中曽根首相は1983年1月、韓国を訪れた。日程を順調に消化し、最大のヤマ場となる大統領官邸の大広間での晩餐会が始まった。大勢の来賓が招かれた中、全斗煥大統領の歓迎スピーチが終わり、次は中曽根首相の挨拶になった。来賓は、中曽根首相が日本の韓国統治についてどういう言葉で謝罪するのかに注目し、会場は水を打ったように静まり返った。首相はポケットから挨拶文を取り出し、ゆっくりと広げた。「ヨロブン、アンニョン ハシムニカ(ご来賓の皆さん、今晩は、여러분, 안녕하십니까)…」会場は大きくどよめいたという。スピーチの中ほどで日本語になり、韓国語の通訳が入った。そして最後。「オヌルン、テダニ カムサハムニダ(本日は誠にありがとうございました、오늘은 대단히 감사합니다)」会場は割れんばかりの拍手に包まれたという。帰国後、中曽根首相は「隣に座っていた全斗煥大統領は涙を浮かべていた」と語ったという。客席の中にもハンカチで涙を拭いていた人もいたようだ。中曽根首相の謝罪の言葉は脇に押しのけられた格好になった。(町田貢 『日韓インテリジェンス戦争』 文藝春秋 2011年)


  16. ^ 「報道2001」において中曾根が語る先見性を予言者ノストラダムスに見立てて名づけられた。


  17. ^ 神一行著『閨閥 改訂新版』176頁によれば、「母の名前はゆく。その実家は安中市の名家で素封家であった。中曽根は女一人、男四人の二男。そのうち三男・良介は戦死、四男・昌吉は病死している。」という。


  18. ^ 神一行著『閨閥 改訂新版』178頁によれば、「その妻・真理子は、前川商事や前川産業、あるいは朝霧高原の開発などで有名な前川昭一の長女である。」という。


  19. ^ 「めちゃ×2イケてるッ!」のコーナー「フジTV警察24時」でもフジテレビの二世社員として紹介され、目の前で本庁からの助っ人だったはなわに“中曽根の孫もフジ、オンエアできるのか?”と歌われた。また、インディーズのお笑い芸人としても活躍している


  20. ^ 1973年入局。同期には池上彰(報道記者)、大塚範一・宮本隆治(アナウンサー)などがいる[54]




出典




  1. ^ ab日外アソシエーツ編『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(日外アソシエーツ、2003年) 436頁、437頁、日外アソシエーツ編『新訂現代政治家事典―中央・地方の政治家4000人』(日外アソシエーツ、2005年) 377頁、378頁参照。

  2. ^ ab『昭和16年4月18日(発令4月18日付)海軍辞令公報(部内限)第623号 p.31(原本304上段、任海軍主計中尉)、p.34(原本307上段、海軍経理学校補修学生被仰付)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072080800 


  3. ^ 2億3500万円。ウランの質量235に因む。


  4. ^ 新総理 中曾根康弘の研究』139頁


  5. ^ 『昭和16年8月11日(発令8月11日付)海軍辞令公報(部内限)第687号 p.18(原本610下段)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072081700 


  6. ^ 『昭和16年11月20日(発令11月20日付)海軍辞令公報(部内限)第752号 p.24(原本1249)上段』 アジア歴史資料センター Ref.C13072083200 

  7. ^ abc終わりなき海軍90-93頁『喜びは任務遂行の瞬間にある』

  8. ^ abc終わりなき海軍92-93頁『民衆の一人として生きぬけ!』

  9. ^ abc終わりなき海軍94-95頁

  10. ^ abc終わりなき海軍95-96頁

  11. ^ abcd終わりなき海軍96-98頁

  12. ^ ab中曾根康弘『自省録-歴史法廷の被告として-』(新潮社 2004年6月) ISBN:4-10-468701-4


  13. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 朝雲新聞社、1969年5月、198-203頁。


  14. ^ 『昭和18年8月21日(発令8月18日付)海軍辞令公報(部内限)第1195号 p.40(原本1624上段)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072092500 


  15. ^ 『昭和19年11月6日(発令11月1日付)海軍辞令公報(甲)第1636号 p.25(原本2526一段)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072101800 

  16. ^ ab「中曽根康弘」語録: 哲人政治家の素顔 71〜75

  17. ^ ab第百三回国会衆議院予算委員会議録第二号(昭和60年10月29日)pp.26-28


  18. ^ “第025回国会 本会議 第7号”. 国会会議録検索システム. 2018年12月17日閲覧。


  19. ^ 長崎県知事選の違法献金事件 自民党に衝撃 特定寄付の禁止 「政治資金」で届けても違法 選挙の集金構造にメス 2002年12月31日 しんぶん赤旗


  20. ^ 原口和久 (2002). 成田 あの1年. 崙書房. pp. 37-40. 


  21. ^ 佐藤文生 (1985). 日本の航空戦略 - 21世紀のエアポート. サイマル出版会. pp. 118-119. 


  22. ^ “第063回国会 予算委員会 第12号”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2018年12月19日閲覧。


  23. ^ 魚住昭 『渡邉恒雄 メディアと権力』p. 132-134, 355-360, 講談社、2000年。ISBN 4-06-209819-9


  24. ^ 原口和久 (2002). 成田 あの一年. 崙書房. p. 140. 

  25. ^ ab“訪米時の中曽根康弘元首相「不沈空母」発言を記録”. 産経新聞. (2017年1月12日). http://www.sankei.com/world/news/170112/wor1701120029-n1.html 2017年1月13日閲覧。 


  26. ^ “中国 日本の自衛力増強に理解 83年の首脳会談で”. NHK. (2017年1月12日). http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170112/k10010836861000.html 2017年1月15日閲覧。 [リンク切れ]


  27. ^ 中国から見た日米同盟体制 - 防衛省防衛研究所


  28. ^ “Japan May Go Its Own Way on Economic Aid to China : Sanctions: Tokyo argues that Beijing should not be isolated from the world community. Kaifu will see Bush on Saturday.”. ロサンゼルス・タイムズ (1990年7月6日). 2017年4月21日閲覧。


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  31. ^ “「特例会見」仕掛けたのは中曽根氏? 前原発言で「ドロドロ」戦争”. J-CAST. (2009年12月16日). https://www.j-cast.com/2009/12/16056359.html 2017年4月21日閲覧。 


  32. ^ http://singo.jiyu.co.jp/nendo/1996.html


  33. ^ 文藝春秋2018年二月号、~竹下から安倍まで~ 総理17人のベスト3 御厨貴/後藤謙次、169頁


  34. ^ 旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない(Bloomberg.co.jp)


  35. ^ 慰安婦:中曽根元首相、強制動員を否認(Chosun Online 『朝鮮日報』)[リンク切れ]


  36. ^ 自著『二十三歳で三千人の総指揮官』、関連書『終わりなき海軍』松浦敬紀著、『いま明かす戦後秘史に詳しい』鹿内信隆著


  37. ^ 「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表 2011年10月28日 しんぶん赤旗


  38. ^ 「旧中曽根派同窓会」出席でささやかれる二階俊博・衆院予算委員長の〝野心〟 現代ビジネス 2013年12月7日


  39. ^ 中曽根元首相きょう100歳=改憲へ意欲衰えず - 時事ドットコム 2018年5月27日


  40. ^ R25ロングインタビューVol.202


  41. ^ “全斗煥元大統領、訪日前に日本に圧力…天皇、初めて過去の歴史に遺憾表明”. 中央日報. (2015年3月31日). http://japanese.joins.com/article/296/198296.html 2017年12月20日閲覧。 


  42. ^ “中曽根氏、中韓を仲介 外交文書で判明「希望伝えてと」”. 朝日新聞. (2017年12月26日). https://www.asahi.com/articles/ASKDN2G9XKDNUHBI002.html 2017年12月27日閲覧。 

  43. ^ ab“日朝貿易へ「用意ある」 中曽根首相、中国に提起 韓国の国交樹立要望伝達 86年会談、外交文書”. 日本経済新聞. (2017年12月20日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24847300Q7A221C1EAF000/ 2017年12月20日閲覧。 


  44. ^ 「サンデー毎日誌上の不破と中曽根対談」考


  45. ^ 中曽根 康弘著『青山常運歩 中曽根康弘対談集』(毎日新聞社)

  46. ^ ab“天皇陛下の靖国参拝実現を 86歳の誕生会で中曽根氏”. 共同通信社. 47NEWS. (2004年5月27日). http://www.47news.jp/CN/200405/CN2004052701003959.html 2015年3月4日閲覧。 


  47. ^ “中曽根氏依頼で分祀求める 島村農相が靖国神社に”. 共同通信社. 47NEWS. (2005年6月7日). http://www.47news.jp/CN/200506/CN2005060701000874.html 2015年3月4日閲覧。 


  48. ^ 第123回国会 参議院 予算委員会 第3号 平成4年(1992年)4月8日


  49. ^ 有田芳生 『「神の国」の崩壊 統一教会報道全記録』 教育史料出版会 1997年


  50. ^ 光文社 『FLASH』 2006年7月4日号


  51. ^ 朝日新聞1963年11月3日


  52. ^ 神一行著『閨閥 改訂新版』169頁


  53. ^ 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)ア九二頁より


  54. ^ 同期っていいね! 中村こずえのひとりごと 2012年3月25日




論文



  • Ciniiに登録されている論文 国立情報学研究所、2010-05-12閲覧。


参考文献



  • 松浦敬紀編著 「衆議院議員中曽根康弘(海軍主計大尉)“二十三歳で三千人の総指揮官”」『若い世代へ伝えたい残したい 終りなき海軍』 文化社、1978年6月。

  • 編者 - 週刊ブックス特別取材班『新総理 中曾根康弘の研究』 1982年

  • 日外アソシエーツ編『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(日外アソシエーツ、2003年) ISBN 4816918051

  • 日外アソシエーツ編『新訂現代政治家事典―中央・地方の政治家4000人』(日外アソシエーツ、2005年) ISBN 4816918922


  • 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 149-152頁


  • 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 2000年 156、172、190、210、342頁


  • 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店 2002年 166-180頁、290-291頁

  • 中曽根康弘『天地有情』


  • 本澤二郎 『平成の妖怪中曽根康弘の大野望』

  • 『中曽根康弘悪の構図』



関連項目



  • 原子力基本法

  • 将官・佐官出身の国会議員の一覧

  • 名誉議員

  • 群馬県名誉県民

  • 日の出山荘


  • 総理大臣官邸:旧官邸からの建て替えを中曽根内閣で閣議決定

  • 親米保守

  • ロッキード事件

  • KSD事件

  • リクルート事件

  • ダグラス・グラマン事件

  • バブル景気



関連人物




  • 長嶋茂雄 - 一時期中曽根は長嶋所有の家に住んでいた


  • 石原慎太郎 - 回顧録では批判しているがその後は共著がある

  • 佐々淳行


  • 与謝野馨 - 元秘書


  • 五島昇 - 東京急行電鉄元会長・社長。生前親交を深めており、東急グループ内の1社を譲渡している。

  • 藤波孝生


  • 江田島平八 - 宮下あきらの漫画「魁!!男塾」に登場する架空の人物。中曽根とは学生時代の友人という設定で、江田島は彼を「中ちゃん」と呼ぶ。



外部リンク










  • 公益財団法人 中曽根康弘世界平和研究所














































































公職
先代:
鈴木善幸

日本の旗 内閣総理大臣
第71・72・73代:1982年 - 1987年
次代:
竹下登
先代:
宇野宗佑

日本の旗 行政管理庁長官
第45代:1980年 - 1982年
次代:
斎藤邦吉
先代:
田中角榮

日本の旗 通商産業大臣
第34・35代:1972年 - 1974年
次代:
河本敏夫
先代:
高碕達之助
荒木萬壽夫

日本の旗 科学技術庁長官
第7代:1959年 - 1960年
第25代:1972年
次代:
木内四郎
前田佳都男
先代:
高碕達之助
荒木萬壽夫

日本の旗 原子力委員会委員長
第7代:1959年 - 1960年
第25代:1972年
次代:
木内四郎
前田佳都男
先代:
有田喜一

日本の旗 防衛庁長官
第25代:1970年 - 1971年
次代:
増原恵吉
先代:
大橋武夫

日本の旗 運輸大臣
第38代:1967年 - 1968年
次代:
原田憲
党職
先代:
鈴木善幸

自由民主党総裁
第11代:1982年 - 1987年
次代:
竹下登
先代:
二階堂進

自由民主党幹事長
第15代:1974年 - 1976年
次代:
内田常雄
先代:
鈴木善幸
江崎真澄

自由民主党総務会長
第16代:1971年 - 1972年
第21代:1977年 - 1978年
次代:
鈴木善幸
倉石忠雄
先代:
集団指導体制より移行

新政同志会会長
初代:1968年 - 1978年
次代:
改称
先代:
改称

政策科学研究所会長
初代:1978年 - 1990年
次代:
渡辺美智雄
学職
先代:
安東義良

拓殖大学総長
第12代:1967年 - 1971年
次代:
豊田悌助
外交職
先代:
ヘルムート・コール
西ドイツ

先進国首脳会議議長
1986年
次代:
アミントレ・ファンファーニ
イタリア

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