ウァレリウス氏族
ウァレリウス氏族(ラテン語: Gens Valeria)は、古代ローマの氏族のひとつ。共和政ローマ初期からその名が記録に残っており、プブリウス・ウァレリウス・プブリコラを祖とするパトリキ系と、少数ながらプレブス系も存在する。共和政を通じて執政官を輩出し、属州出身ながら306年には西方正帝フラウィウス・ウァレリウス・セウェルスも出している。
目次
1 パトリキ系
1.1 ウォルスス家
1.2 コルウス家
1.3 フラックス家
1.4 ラエウィヌス家
1.5 メッサラ家
1.6 ファルト家
1.7 その他
2 プレブス系
2.1 アンティアス家
2.2 タッポ家
3 皇帝
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
パトリキ系
ウォルスス家
- ウァレリウス・ウォルスス
プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ, 紀元前509年の補充執政官。共和政樹立の立役者の一人。508,507,504年の執政官[1]
プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ, 紀元前475年, 460年の執政官[2]
ルキウス・ウァレリウス・ポティトゥス, 紀元前449年の執政官[3]
ルキウス・ウァレリウス・ポティトゥス, 紀元前393年, 392年の執政官。前414, 406, 403, 401, 398年の執政武官[4]
ガイウス・ウァレリウス・ポティトゥス, 紀元前331年の執政官[5]
- ウァレリア, プブリコラの妹。紀元前488年頃グナエウス・マルキウス・コリオラヌスの乱時に活躍[6]
マルクス・ウァレリウス・ウォルスス, 紀元前505年の執政官[7]- マニウス・ウァレリウス, 紀元前501年の独裁官とする記録がある[8]
ルキウス・ウァレリウス・ポティトゥス, 紀元前483年, 470年の執政官[9]
- マニウス・ウァレリウス, 紀元前501年の独裁官とする記録がある[8]
マニウス・ウァレリウス・マクシムス, 紀元前494年の独裁官[10]
マルクス・ウァレリウス・マクシムス・ラクトゥカ, 紀元前456年の執政官[11]
マルクス・ウァレリウス・ラクトゥカ・マクシムス, 紀元前437年の執政官[12]
マルクス・ウァレリウス・ラクトゥキヌス・マクシムス, 紀元前398年, 395年の執政武官[13]
- ウォルスス
- ルキウス (紀元前483年の執政官?)
ガイウス・ウァレリウス・ポティトゥス・ウォルスス, 紀元前410年の執政官。前415, 407, 404年の執政武官[14]
- ルキウス (紀元前483年の執政官?)
- ルキウス
- ルキウス (紀元前393年の執政官?)
ルキウス・ウァレリウス・プブリコラ, 紀元前394年, 389, 387, 383, 380年の執政武官[15]
マルクス・ウァレリウス・プブリコラ, 紀元前355年, 353年の執政官[16]
プブリウス・ウァレリウス・ポティトゥス・プブリコラ, 紀元前386年, 384, 380, 377, 370, 367年の執政武官[17]
プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ, 紀元前352年の執政官[18]
- ルキウス (紀元前393年の執政官?)
ガイウス・ウァレリウス・ポティトゥス, 紀元前370年の執政武官[19]
コルウス家
- マルクス
- マルクス
マルクス・ウァレリウス・コルウス, 紀元前348年, 346, 343, 335, 300, 299年の執政官[20]
マルクス・ウァレリウス・マクシムス・コルウィヌス, 紀元前312年, 289年の執政官[21]
- マルクス
フラックス家
- ルキウス・ウァレリウス(・フラックス?), 紀元前331年のマギステル・エクィトゥム?[5]
- ルキウス・ウァレリウス(・フラックス), 紀元前282年の海軍二人官。タレントゥムを攻撃[22]
- ルキウス
- マルクス
ルキウス・ウァレリウス・フラックス, 紀元前261年の執政官[23]
プブリウス・ウァレリウス・フラックス, 紀元前227年の執政官[24]
ルキウス・ウァレリウス・フラックス, 紀元前195年の執政官[25]
ルキウス・ウァレリウス・フラックス, 紀元前152年の執政官[26]
ルキウス・ウァレリウス・フラックス, 紀元前131年の執政官[27]
ルキウス・ウァレリウス・フラックス, 紀元前100年の執政官[28]
- マルクス
- ガイウス・ウァレリウス・フラックス, 紀元前183年のプラエトル[29]
- ルキウス・ウァレリウス・フラックス, 紀元前117年のプラエトルもしくはプロコンスル。クァエストルのマルクス・アウレリウス・スカウルスに起訴されそうになった[30]
ラエウィヌス家
- マニウス・ウァレリウス・ラエウィヌス, 紀元前486年に処刑されたとする記録がある[31]
プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌス, 紀元前280年の執政官[22]- プブリウス
マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌス, 紀元前220年, 210年の執政官[32]- マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌス, 紀元前182年のプラエトル[33]
ガイウス・ウァレリウス・ラエウィヌス, 紀元前176年の補充執政官[34]
- マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌス, 紀元前182年のプラエトル[33]
- プブリウス
メッサラ家
- マルクス
- マルクス
マニウス・ウァレリウス・マクシムス・メッサッラ, 紀元前263年の執政官[35]
マルクス・ウァレリウス・マクシムス・メッサッラ, 紀元前226年の執政官[24]
マルクス・ウァレリウス・メッサッラ, 紀元前188年の執政官[36]
マルクス・ウァレリウス・メッサッラ, 紀元前161年の執政官[37]
- マルクス
ファルト家
- プブリウス
- クィントゥス
クィントゥス・ウァレリウス・ファルト, 紀元前239年の執政官[38]
プブリウス・ウァレリウス・ファルト, 紀元前238年の執政官[38]
- クィントゥス
- マルクス・ウァレリウス・ファルト, 紀元前201年のプラエトル、ブルティウム担当。翌年プロプラエトルとしてサルディニア担当[39]
その他
- マルクス・ウァレリウス, 紀元前340年にプブリウス・デキウス・ムスが自軍の勝利のため生贄となった際の神祇官[40]
プレブス系
アンティアス家
- ルキウス・ウァレリウス・アンティアス, 紀元前215年にハンニバルとピリッポス5世との密約文書が発見された際にローマへ護送した[41]
ウァレリウス・アンティアス, 紀元前1世紀のマイナーな歴史家
タッポ家
- ガイウス
- ルキウス・ウァレリウス・タッポ, 紀元前192年のプラエトル、シキリア担当[42]
- ルキウス・ウァレリウス・タッポ, 紀元前192年のプラエトル、シキリア担当[42]
- ガイウス・ウァレリウス・タッポ, 紀元前188年の護民官、いくつかのムニキピアに参政権を付与する法案を提出[43]
皇帝
フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス, 306年のローマ帝国西方正帝
脚注
^ Broughton, p.2.
^ Broughton, p.27.
^ Broughton, p.47.
^ Broughton, p.91.
- ^ abBroughton, p.143.
^ Broughton, p.19.
^ Broughton, p.7.
^ Broughton, p.9.
^ Broughton, p.22.
^ Broughton, p.14.
^ Broughton, p.41.
^ Broughton, p.59.
^ Broughton, p.85.
^ Broughton, p.77.
^ Broughton, p.90.
^ Broughton, p.124.
^ Broughton, p.100.
^ Broughton, p.125.
^ Broughton, p.110.
^ Broughton, p.129.
^ Broughton, p.159.
- ^ abBroughton, p.190.
^ Broughton, p.204.
- ^ abBroughton, p.229.
^ Broughton, p.339.
^ Broughton, p.453.
^ Broughton, p.500.
^ Broughton, p.574.
^ Broughton, p.379.
^ Broughton, p.529.
^ Broughton, p.21.
^ Broughton, p.235.
^ Broughton, p.382.
^ Broughton, p.400.
^ Broughton, p.203.
^ Broughton, p.365.
^ Broughton, p.443.
- ^ abBroughton, p.221.
^ Broughton, p.320, 324.
^ Broughton, p.137.
^ Broughton, p.257.
^ Broughton, p.350.
^ Broughton, p.366.
参考文献
T. R. S. Broughton (1951, 1986). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association.
関連項目
ヴァレリー(曖昧さ回避)- ウァレリウス法