ユニバーサルデザイン
ユニバーサルデザイン(Universal Design/UD)とは、文化・言語・国籍や年齢・性別などの違い、障害の有無や能力差などを問わずに利用できることを目指した建築(設備)・製品・情報などの設計(デザイン)のことである。
目次
1 概説
2 ユニバーサルデザインの7原則
3 ユニバーサルデザインの具体例
4 日本におけるユニバーサルデザイン
4.1 流行のきっかけとなったグッドデザイン賞
4.2 アメリカとユニバーサルデザイン
5 ユニバーサルデザインの問題点
5.1 学校教育とユニバーサルデザイン
5.2 ユニバーサルデザインから、ヒューマン・センタード・デザインへ
6 ユニバーサルデザインとの関連
6.1 理論や手法
6.2 関係する用語
6.3 資格等
7 脚注
8 関連項目
概説
世界初のユニバーサルデザインの提唱は、米ノースカロライナ州立大学デザイン学部・デザイン学研究科(College of Design)のロナルド・メイスによるものである。カリフォルニアにあるユニバーサルデザインセンターの長でもあった彼が1985年に公式に提唱した概念[1]とされる。
「できるだけ多くの人が利用可能であるようなデザインにすること」が基本コンセプトである。デザイン対象を障害者に限定していない点が「バリアフリー」とは異なる。これは、バリアフリーが「障害者のための特別扱い」という新たな心理的障壁を生んでいると考えたロナルド・メイス自身の批判的態度が反映されたことによっている。しかしながら、日本国内においては「バリアフリー」と「ユニバーサルデザイン」はしばしば混同されており、ロナルド・メイスの思想は必ずしも正しく理解されていない。
ユニバーサルデザインの7原則
The Center for Universal Design, NC State University による。
- どんな人でも公平に使えること。(公平な利用)
Equitable use
- 使う上での柔軟性があること。(利用における柔軟性)
Flexibility in use
- 使い方が簡単で自明であること。(単純で直感的な利用)
Simple and intuitive
- 必要な情報がすぐに分かること。(認知できる情報)
Perceptible information
- うっかりミスを許容できること。(失敗に対する寛大さ)
Tolerance for error
- 身体への過度な負担を必要としないこと。(少ない身体的な努力)
Low physical effort
- アクセスや利用のための十分な大きさと空間が確保されていること(接近や利用のためのサイズと空間)
Size and space for approach and use
ユニバーサルデザインの具体例
- 車イス利用者でも、健常者でも、誰もが心地よく、余裕を持って通過することのできる幅の広い改札。
- 障害者向けに計画されたが、多くの人が心地よいと感じたために普及したシャワートイレ。
- 緩やかな傾斜でデザインされた身体的負担の少ないスロープ。
- 絵文字(ピクトグラム)による視覚的・直感的な情報伝達。
- ユーザーが自由に選択できる、多様な入力および出力装置(キーボード、マウス、トラックパッド、ジェスチャー、音声など)。
- 視認性やユーザーの感情に与える効果に配慮した配色計画。
- マニュアルを熟読することなく、直感的に使い方をアフォードできる製品のデザイン。
- 頭を洗っているときは目が見えないので、シャンプーのボトルに印をつけ、リンスやその他のボトルと区別する。
ユニバーサルデザインの市場規模は、2008年現在で3兆3千億円を超えている[2]。
2003年4月には静岡県浜松市で日本国内で初めて「ユニバーサルデザイン条例」が施行された。
日本におけるユニバーサルデザイン
流行のきっかけとなったグッドデザイン賞
1997年のグッドデザイン賞(Gマーク)において「ユニバーサルデザイン賞」が設置されたのを契機に、日本国内において流行語化した。
グッドデザイン賞において審査委員長を務めた川崎和男氏は、「ハートビル法、ノーマライゼーション、バリアフリーなどの呼称は、少数派といわれてきた領域を、デザインの対象にしているようだが、実は、デザインそのものの本質を語り直しただけにすぎない。デザインの本質を浮かび上がらせるという点においては、確かに行政から市場経済に対して、一般的な認識を促すことができた。しかし、流行語となったことで、以降、現在に至るまで、その本質は見失われてしまった。[3]」と日本国内におけるユニバーサルデザインの状況を批判している。
アメリカとユニバーサルデザイン
アメリカでユニバーサルデザインが誕生した社会的背景として、公民権運動の流れから施行されたADA(アメリカン・ディザビリティーズ・アクト)という法律の存在がある。ロナルド・メイスは、この法律の限界を踏まえたうえで、あらゆる人が快適に暮らすことができるデザインとしてユニバーサルデザインを提唱した。一方、傷痍軍人や障害者といった人々の自立と雇用を促進し、納税者へと変えることによって低コストな社会を実現して国力低下を防ぎたいアメリカの思惑とも合致したことが、アメリカ社会においてユニバーサルデザインが受け入れられていく土壌ともなった。
また、川崎和男氏は「彼(ロナルド・メイス)による7原則論が基本と考えられているが、それは米国中心の考え方にすぎない。日本では、1989年の世界デザイン会議で、NASAのデザイナーであった、故マイケル・カリルが初めて提唱している。元々は、WHOの国際障害者年(1980年)のための、メイスンのレポート「バリアフリーをめざして」(1970年)で登場した言葉といわれているが、一方では、カリルによる、先進国家特有の消費経済主義に偏った訴訟社会批判の意味を持った言葉であり、メイスンにも影響を与えたと私は考えている。[3]」と、ユニバーサルデザインが生まれた背景について解説している。
いずれにせよユニバーサルデザインは、良くも悪くもアメリカ社会の要請によって形づくられている。この点を深く理解せずに日本国内で用いることには少なからず問題を孕む可能性があり、検証が必要である。
ユニバーサルデザインの問題点
バウハウス以来、デザインは人々の暮らしをある種の「規格」にあてはめることによって、合理主義・機能主義的で、大量生産を前提とした工業化社会と芸術のあり方を示し、自由で豊かな生活を実現してきた。反面、デザイン(とその思想を前提とした社会)は人間の持つ多様性を容認せず、規格(モジュール)に縛りつけてしまうという逆説的かつ重大な欠陥を抱えることになった。このことは、「自分の体型に合った服を既成品に見つけることが難しい」といった日常的な体験に置き換えて考えると理解しやすいだろう。こういったデザインの理想主義的な側面は、ユニバーサルデザインにおける「誰もが使いやすい」という実現不可能な幻想へとつながっている。このことを踏まえ、川崎和男氏は日本におけるユニバーサルデザインの問題点を次のように指摘する。
「日本では、高齢化社会を迎えるにあたって、商業的・行政的に最もふさわしい言葉として重宝されている。「誰もが使いやすいモノやコトのデザイン」という定義が一般化してしまったことは、この言葉の本質を訴求するうえでは、大きな誤用であったと指摘しておきたい。(中略)『誰もが使えるモノ』などあるわけがなく、高齢者や幼児、障害者すべてに対するデザインが、いわゆるユニバーサルデザインそのものの本質において、デザインの理想主義の確信を強調させた意味を持っているだけである。[3]」
学校教育とユニバーサルデザイン
文部科学省は、インクルーシブな教育環境を実現するための手立てとしてユニバーサルデザインの考え方を積極的に取り入れている[4]。しかしながら、デザインについての専門的知識を持たない学校教員が安易にユニバーサルデザインの発想を用いることによって、本来は一人ひとりの児童・生徒を見つめて、それぞれに合った指導を行うことが求められている学校教育の姿勢や態度に反し、教員が恣意的に想定した「広範な児童・生徒像」に目の前の子どもたちをあてはめて扱うようになる危険性が生じる可能性もある。また、実際の学校現場においては表層的なメソッドだけが独り歩きして流布し、ユニバーサルデザインの「誤用」をさらに拡散する原因ともなりかねない。他方で、教育環境を整備する行政側にとって、ユニバーサルデザインは予算確保の大義名分として社会にアピールしやすい言葉であるが、行政という次元ではユニバーサルデザインの本質を認識すること自体が難しくなる。
AI(人工知能)など、コンピューターの技術革新によって2030年には約49%の仕事が自動化されるリスクが指摘されている[5]。こういった社会で生き抜くために、資質・能力を着実に育む学校教育への転換が求められている[6]。そのひとつの例として、教師による教師のための「研究授業」から、学習主体である児童・生徒、保護者や地域の人々等と共に考える「授業改善」へと転換を進める学校も現れはじめ、児童・生徒が主役の、言い換えれば「ユーザー中心」の授業のリデザインが進められている(※「社会に開かれた教育課程」「カリキュラム・マネジメント」等の観点に基づく[7])。教育環境においても、学習主体である児童・生徒、保護者や地域の人々等と共に創り上げていく発想や設計思想が重要であり、「教育環境のユニバーサルデザイン」は「誰もが使いやすい」ではなく、学習主体である児童・生徒中心のデザインとして、その本質を再確認していく必要があるだろう。
ユニバーサルデザインから、ヒューマン・センタード・デザインへ
障害種や障害の程度は多様であり、「障害者」とひとくくりで捉えられない実態がある。そもそも「健常者」と呼ばれる人々も含め、人間は多種多様である。その多様性を認め、一人ひとりの個性と向き合うことができる人権意識の高い社会の実現が求められている。原理的に実現不可能である「誰もが使いやすいデザイン」としてのユニバーサルデザインは、生来的に持つ合理主義的な性質(最適解を導き出すことによって大量生産を可能とし、低コストで多くの人々が恩恵を享受できるようにしようと志向する性質)によって新たな規格や秩序を人々に強要することとなり、こういった社会とは相反した結果を招くことが考えられる[8]。また、こういった批判を回避するために、いくつかの解決策を併置したり、バリエーションを増やしたりすることによって公平性や自由度を担保しようとするが、それはもはやデザインによる課題解決とは言い難い代物となる。したがって、ユニバーサルデザインの本質は、「誰かひとりのためであっても、人生を見つめて、真剣に考えられたデザイン」として、現代の社会に合わせて再検討する必要がある。
「必要なのは、この流行語を、「ヒューマン・センタード・デザイン」という言葉による再定義によって、その本質をもっと訴求することである。[3]」
- マツダのクルマづくり 〜人間中心の設計思想〜
ユニバーサルデザインとの関連
理論や手法
- アフォーダンス
- HCD
関係する用語
- ユニバーサルサービス
- カラーユニバーサルデザイン
- ユニバーサルサウンドデザイン
資格等
- ユニバーサルデザインコーディネーター資格
脚注
^ UDCユニバーサルデザイン・コンソーシアム
^ 障がい者制度改革推進会議 ヒアリング項目に対する意見書 第20回(H22.9.27)
- ^ abcd“Kazuo KAWASAKI” (日本語). www.kazuokawasaki.jp. 2018年8月27日閲覧。
^ “3.障害のある子どもが十分に教育を受けられるための合理的配慮及びその基礎となる環境整備:文部科学省” (日本語). www.mext.go.jp. 2018年8月27日閲覧。
^ “日本の労働人口の49%が人工知能やロボット等で代替可能に | 野村総合研究所(NRI)” (日本語). www.nri.com. 2018年8月29日閲覧。
^ “1.2030年の社会と子供たちの未来:文部科学省” (日本語). www.mext.go.jp. 2018年8月29日閲覧。
^ “4.学習指導要領等の理念を実現するために必要な方策:文部科学省” (日本語). www.mext.go.jp. 2018年8月29日閲覧。
^ ユニバーサルデザインの誤解をひとつひとつ丁寧にほぐしてゆくと、「デザイン」の本来的な理想や使命と役割を再確認し、強調しているだけに過ぎないことに気づく。この自己言及性こそが、ユニバーサルデザインの問題点の起点となっている。したがって、ことさらにユニバーサルデザインの正しさを主張する団体や企業は、それ自体がユニバーサルデザインの本質をわかりにくくしているのである。
関連項目
- バリアフリー
- ノーマライゼーション
- ピクトグラム
- 障害のある人の権利に関する条約
- 高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律
- 坂本鐵司
- 人間工学
- イネーブルウェア
- ユビキタス
- ゆびスポットボトル
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