ヨシフ・スターリン























































































































ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン

Иосиф Виссарионович Сталин (ロシア語)


იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი (グルジア語)



CroppedStalin1943.jpg
1943年・テヘラン会談におけるスターリン



Flag of the Soviet Union (1936–1955).svg ソビエト社会主義共和国連邦
連邦共産党書記長

任期
1922年4月3日 – 1953年3月5日
前任者
ヴャチェスラフ・モロトフ(筆頭書記)
後任者
ニキータ・フルシチョフ(第一書記)

Flag of the Soviet Union (1936–1955).svg ソビエト社会主義共和国連邦
人民委員会議議長
ソビエト連邦閣僚会議議長

任期
1941年5月6日 – 1953年3月5日
第一副首相
ニコライ・ヴォズネセンスキー
ヴャチェスラフ・モロトフ
前任者
ヴャチェスラフ・モロトフ
後任者
ゲオルギー・マレンコフ

Flag of the Soviet Union (1936–1955).svg ソビエト社会主義共和国連邦
国家防衛委員会議長

任期
1941年7月19日 – 1946年2月25日
総理
自身
前任者
セミョーン・チモシェンコ
後任者
ニコライ・ブルガーニン
ソ連共産党書記

任期
1922年4月3日 – 1953年3月5日
ソ連共産党政治局員

任期
1919年3月25日 – 1953年3月5日
ソ連共産党組織局員

任期
1919年1月16日 – 1953年3月5日
個人情報
生誕
(1878-12-18) 1878年12月18日
Flag of the Russian Empire (black-yellow-white).svg ロシア帝国
グルジア地方(現ジョージア国)、ゴリ
死没
1953年3月5日(1953-03-05)(74歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦内、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
モスクワ市、クンツェヴォ・ダーチャ
墓地
ロシアの旗 ロシア
モスクワ市、クレムリン共同埋葬地
市民権
グルジア系ロシア人
政党
ロシア社会民主労働党
→ボリシェビキ派
→ソビエト連邦共産党
配偶者
エカテリーナ・スワニーゼ (1906–1907)
ナジェージダ・アリルーエワ (1919–1932)
子供
ヤーコフ・ジュガシヴィリ
ワシーリー・ジュガシヴィリ
スヴェトラーナ・アリルーエワ
宗教
無神論(棄教者)
署名

兵役経験
所属組織
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
部門
ソビエト陸軍
軍歴
1943–1953
最終階級
元帥 (1943–1945)
大元帥 (1945–1953)
指揮
全軍指揮 (最高司令官)
戦闘
ロシア内戦
第二次世界大戦
冷戦
受賞
Hero of the USSR.pngHero of Socialist Labor medal.png





















































ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин, 1878年12月18日[1] – 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家、軍人(職業軍人ではない)。同国の第2代最高指導者。一般に広く知られている「スターリン」という姓は「鋼鉄の人」を意味する筆名であり、本姓はジュガシヴィリ(ロシア語: Джугашви́ли、グルジア語: ჯუღაშვილი)である。




目次






  • 1 人物概要


  • 2 生涯


    • 2.1 生い立ち


    • 2.2 政治活動


      • 2.2.1 革命家への転身


      • 2.2.2 非合法活動


      • 2.2.3 逮捕・流刑


      • 2.2.4 三度目の流刑


      • 2.2.5 ロシア革命


      • 2.2.6 ポーランド・ソビエト戦争




    • 2.3 権力の掌握


      • 2.3.1 書記長


      • 2.3.2 レーニンの死


      • 2.3.3 諜報部隊の補強


      • 2.3.4 大粛清


        • 2.3.4.1 セルゲイ・キーロフ暗殺


        • 2.3.4.2 人民の敵




      • 2.3.5 スターリン憲法


      • 2.3.6 強制移住




    • 2.4 第一次五ヵ年計画


      • 2.4.1 集団農場


      • 2.4.2 飢饉


      • 2.4.3 工業化


      • 2.4.4 社会事業




    • 2.5 第二次世界大戦


      • 2.5.1 前夜


      • 2.5.2 独ソ戦


      • 2.5.3 対日参戦


      • 2.5.4 領土の略奪




    • 2.6 冷戦


      • 2.6.1 ヨーロッパ


      • 2.6.2 アジア




    • 2.7 死去




  • 3 死後


  • 4 暗殺説


  • 5 復権への動き


    • 5.1 ソ連時代


    • 5.2 ソ連崩壊後




  • 6 人間性


    • 6.1 性格


    • 6.2 人間不信


    • 6.3 家族


    • 6.4 レーニンとスターリン


    • 6.5 臆病なる独裁者


    • 6.6 イヴァン4世への傾倒


    • 6.7 ヒトラーへの共感


    • 6.8 反ユダヤ感情


    • 6.9 他人からの印象


    • 6.10 論説・言い回し


    • 6.11 容貌


    • 6.12 名前


    • 6.13 生年月日


    • 6.14 宗教的信仰と方策


    • 6.15 趣味




  • 7 プロパガンダ


    • 7.1 個人崇拝




  • 8 逸話


    • 8.1 日常


    • 8.2 内通疑惑


    • 8.3 「スターリンノック」


    • 8.4 恩師


    • 8.5 家族・肉親


    • 8.6 政府要人・党幹部


    • 8.7 外国要人と




  • 9 著作物


    • 9.1 日本語訳




  • 10 スターリンが登場する作品


  • 11 脚注


  • 12 参考文献


  • 13 関連項目





人物概要


グルジア語名იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილიイオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ)としてロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア国)のゴリ市で誕生する。正教の神学校で教育を受ける[2]が、のちに棄教、無神論に転向[3]、15歳にしてマルクス主義に基づいた革命運動に参加する。


ウラジーミル・レーニンによるロシア社会民主労働党ボリシェビキ派(ロシア共産党)による十月革命に加わり、ソヴィエト連邦政府およびソヴィエト連邦共産党の成立に深く関与。1924年、レーニン死後に起きたレフ・トロツキーとの後継者争いを制すると、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会書記長に権限を集中させることで後継者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派粛清の大義名分としても用いられた。


以降、人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議議長 を1941年から1953年に死没するまで務めたほか、前述のソビエト連邦共産党中央委員会書記長などの要職を兼任、国家指導者としての立場を維持した[1][4]


1928年、干渉戦争に対応して行われた戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)を進めて合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済を有する基盤を作り出した[5]


一方で急速な経済構造の改革は飢饉などの形で国民に犠牲を強いることになり、反対派に対する厳しい弾圧も合わさって多数の犠牲者を出すことになった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、1932年から1933年の飢饉へと繋がった。後者に関してはグラーグ(収容所)に収監された者だけで100万名以上[6]、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた[6]。強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万名が処刑あるいは追放された[7]


1939年、ナチスドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化する中、マクシム・リトヴィノフに一任していた仏英ソ同盟の締結が不調に終わったこともあり[8]、反共主義・反スラブ主義を掲げていたアドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結し、秘密議定書に基づくポーランド侵攻は第二次世界大戦を起こすことになる。世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。ポーランド分割、バルト三国併合、東カレリア併合(冬戦争)などの軍事行動における背景になっただけでなく、外交交渉においてもそうであった。第一次世界大戦における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けてベッサラビアと北ブコビナを返還させている。アジア方面ではドイツと同じ枢軸国の日本とも日ソ中立条約を結んだ。


1941年、第二次世界大戦においても中立を維持していたソ連はイギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まった。同時にイギリスを中心とする連合国陣営にも参加、米国の連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされている。自身の大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだものの、従来通りの強権支配を維持して軍と政府の統制を維持し続けた。やがて戦争が長期化する中で態勢を建て直し、最後には反攻に転じてドイツの首都ベルリンを陥落させ、東欧を支配下に置いた。アジア方面ではソ連対日参戦でモンゴルの独裁者ホルローギーン・チョイバルサンとともに満州と内蒙古、日本の北方領土や朝鮮半島北部まで攻め落とした。


連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく[9][10]、国際連合安全保障理事会常任理事国となり、米国と並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた[11]。ヤルタ会談とポツダム会議では大戦後の欧州情勢についての協議を行って冷戦を始めて鉄のカーテンを築き、ファシズム打倒後の共産主義と資本主義の対立においては西欧諸国と北大西洋条約機構を結成した米国に対し、非同盟を掲げてスターリンと対立したヨシップ・ブロズ・チトー政権のユーゴスラビアを除く東欧諸国とワルシャワ条約機構が後に設立される。アジア情勢を巡っては国共内戦で中国共産党を支援して中国大陸に中華人民共和国を成立させ、第一次インドシナ戦争ではベトナム民主共和国、朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国を支援して竹のカーテンを築いて東側陣営を拡大していく。


1953年の死没まで国家指導者としての立場は続き、ソ連内の戦後復興でも主導的な役割にあったことはスターリン様式の建設物が今日でも多く残っていることからも理解できる。また科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、核武装や宇宙開発などに予算や費用が投じられており、前者は1949年のRDS-1で成功し、後者ものちに実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策たる自然改造計画であった。1953年に寝室で倒れ、病没した。


死後から程なくしてスターリン後の権力闘争が行われたが、その過程でニキータ・フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開され始めた。1956年、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、一転してスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき独裁者という評価へ変化した。この潮流は、反スターリン主義として各国の左派に影響を及ぼした。


その後もスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を非常に難しくしている。この流れはソ連の後裔国家の一にあたるロシア連邦においても踏襲され、スターリンを暴君とする意見[12]と、英雄と見なす意見とが混在する状態にある[13]。特にスターリン崇拝が強いのは隣国のベラルーシである。



生涯



生い立ち












父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ


父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ

父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ




1878年12月18日、ヨシフ・スターリンはロシア語名ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(ロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Джугашви́ли)として[1]、ロシア帝国支配下のグルジア(現在のジョージア国)のゴリ市に生まれた。父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリ[14]は靴職人、母ケテワン・ゲラーゼは農奴出身のカルトヴェリ人という貧しい家系であった[15]。両親の第3子であったが2人の兄は幼児で死没しているため、実質的には長男として育てられた[15]


彼の生まれ故郷は騒々しく暴力的で、治安の悪い地域であった[15]。父ヴィサリオンは地元でも評判の職人だったがアルコール依存症を患い、しばしば妻や子供に暴力を振るった[16]。家計は次第に傾いていき、幼少期だけで9回も転居を繰り返した[15]。7歳の時には天然痘に罹患する不幸にも遭い、助かったものの皮膚に目立つ痘痕を残した。また12歳の時までに2度に亘って馬車に撥ねられて大怪我を負い[17]、後遺症で左腕の機能に障害を抱えることになった。


ヨシフは10歳の時、グルジア正教会からの推薦を受け、教会が運営する聖職者養成の初等神学校に進む。信心深かった母は大いに喜んだが、父は息子に靴職人を継がせる望みが絶たれるのを恐れて学業に反対した。父ヴィッサリオンは母に「俺は靴職人だ。息子も靴職人になるさ」と言っていたという[18]。結局、父は別居という形で一家から離れていったが[15]、後に息子を無理やり連れ去って自分と一緒に働く道を選ばせようとしたり、養育費を打ち切るなど抵抗を続けていたという[15]


神学校でもグルジア系ロシア人は差別を受け、公用語であるロシア語の使用が強制されていた。ヨシフは度重なる父の反対や怪我を乗り越えつつ勉学に励み、この経歴から聖書を隅から隅まで読んだといえる唯一の独裁者である[19]。やがて優等生として認められるようになったが、マルクス主義に傾倒したことで神学に対する疑問を抱き始めていったとされている[20]。神学校の記録では、1896年、禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書の所持、1898年には、朝の祈祷の欠席や規律違反、反抗的態度などで、度々注意や処罰を受けており問題行動が目立っていた[21]。1899年、司祭叙任を目前にしながら授業料不足を理由に神学校を退校している[22]




政治活動



革命家への転身


司祭教育を放擲したヨシフは、トビリシの中央気象台にて気象局員の仕事に就く。給料は月に20ルーブルという比較的安月給であったが、仕事の負荷は軽かった。勤務の傍ら、ロシア社会民主労働党の地方組織に参加する。ヨシフはストライキを組織し、示威運動を指導してスピーチを行った。ほどなくしてヨシフは、ツァーリ秘密警察のオフラーナの注意を受けた[15]。この頃、オフラーナのファイル内の神学校時代の履歴を基に「ロシア側のスパイ活動を継続し随時報告」するようにとの指令の確認が行われた。このことを以ってスターリンの行動に当時の主流派と違ったスタンスのいわば反党的なバイアスを感じる同僚から二重スパイの感触が拭い去られ難く常にマークされていた。後年それを暴露され、公になることを怖れ、混乱下にある共産党内の粛清に至る、云々という心理的な背景を語る1970年代のスターリン研究書には書かれていた。


1901年4月3日の夜、オフラーナはトビリシにて、ロシア社会民主労働党の多くの指導者を逮捕したが、ヨシフは気象台でオフラーナの諜報員が待ち伏せしているのを見つけたことで捕獲を免れた。1901年に中央気象台を辞めたあとは、地下組織に潜って政治活動を行い、友人、支持者、そして党からの寄付金で生活した。ヨシフはバクーに本拠を置く過激な新聞社「Brdzola」で革命の記事を書き始めた[15]


同年10月、ヨシフはバトゥミに逃れ、精油所を所有しているロスチャイルド家で働く。その地で労働者を組織したヨシフは、1902年に精油所で起こった火事に巻き込まれた際に、経営者を騙して労働者に賞与を渡させることを目論んだ。しかしながら、経営者は放火を疑ったため、支払いを拒否した。これは、労働者を組織したヨシフの逮捕、そして街のコサックとの衝突という一連のストライキに至るのであった。刑務所内の仲間を脱獄させる試みの一つとしてコサックが介入したとき、スト参加者13人が殺された。ヨシフは、死者を殉教者のように描写した小冊子を配布した。1902年4月18日、当局はついに、密会の場でヨシフを逮捕した。裁判では、暴動を指揮したことについては証拠不十分として無罪となったが、トビリシでのヨシフの活動を当局が調査している間は拘留された。1903年、当局はヨシフをシベリアへ3年間追放することに決めた[15]



非合法活動


1903年12月9日、ヨシフはシベリアのイルクーツク州にあるノヴァヤ・ウダ (Novaya Uda) という街にいた。この間に、ロシア社会民主労働党内で、レーニン派のボリシェヴィキとユーリー・マルトフ派のメンシェヴィキという、対立する2つの派閥ができたことを聞いた。すでにレーニンの賞賛者であったヨシフは、レーニンの党派に加わることを決めたが、虚偽の書類をどうにか手に入れた直後、1904年1月17日に列車に乗ってシベリアから逃亡し、その10日後にトビリシに到着した[15]。なお、獄中にいる中、ヨシフは社会民主労働党の委員に選ばれている。


収入が無く、仲間との付き合いで生活していたヨシフは、仲間の1人から、のちにレーニンの死後にソ連の共同統治者となるレフ・カーメネフを紹介された。この頃のヨシフは、国際的に大多数のマルクス主義者同士での亀裂を引き起こしたグルジア社会民主党 (en:Georgian Social Democratic (Menshevik) Party) を支持していた。追放の危機に瀕していたヨシフは、「信条」を書くことを強制され、彼の書いた論文は破棄された(レーニンはこの論文を手元から遠く離し、ヨシフがソ連の統治者となった時、この「信条」の原稿を全部破り捨てようとした。これを読んだ人の多くは銃殺された)[15]。翌月、日本とロシアとの間で日露戦争が勃発した。結局ロシアの敗北に終わったこの戦争は、ロシア経済に厳しい重圧を、グルジア国内に多大な不安をもたらした。ヨシフは党のために、政治活動を行っているグルジアの向こう側に旅に出かけ、誹謗活動と陰謀を通して、メンシェヴィキ党員を弱体化させるために働いた。ヨシフの努力は、レーニンを初めて注目させた。


1905年1月22日、首都サンクトペテルブルクで血の日曜日事件が発生したとき、ヨシフはバクーにいた。この一連の出来事の一部は、ロシア革命勃発の引き金を引いた。暴動、小作農の反乱、民族虐殺はロシア国内に広まった。同年2月、少数民族のアゼルバイジャン人とアルメニア人が、バクーの街でお互いを虐殺していた。武装したボリシェヴィキの隊を指揮したヨシフは、党の資金調達のために保証金をゆすり取り、印刷機材を盗んだ。その後、ヨシフは西の方へ向かい、グルジアで圧倒的支持を受けていたメンシェヴィキ党員に対する活動を続けた。鉱山の街チアトゥラにて、ヨシフとメンシェヴィキ党員の両者は炭鉱労働者からの支持を争った。メンシェヴィキ党員たちの大胆な雄弁よりも、明白で簡潔な話し方をするヨシフを好んだ鉱夫たちは、後者を選んだ[15]。チアトゥラの街から、ヨシフはグルジア全域でボリシェヴィキの民兵を組織し、武装させたが、彼らと共に富裕層の間で保証金をゆすり取り、コサック、警官、そしてオフラーナに対してゲリラ戦を仕掛けた。




妻エカテリーナの遺体を見つめるスターリン(一番右)(1907年12月8日)


同年、ヨシフはトビリシにて、自身と同じグルジア系で、仕立て屋の娘だったエカテリーナ・スワニーゼ (en:Ekaterina Svanidze) と出会う。


1905年12月、ヨシフとほかの活動家2人は、フィンランドのタンペレにて開催されたボリシェヴィキ協議会で、カフカース代表に選出された。1906年1月7日、ヨシフはこの地で初めてレーニンと直接出会った。ヨシフはレーニンの人格と知性に感動したが、レーニンの言説に反駁することを恐れなかった[15]。ヨシフは、ドゥーマが最近作った選挙に参加するというレーニンの提案に反対した。ヨシフはレーニンに認められた。ヨシフはこの協議で、将来の指揮官エメリアン・ヤロスラフスキー (en:Emelian Yaroslavsky) や、ソロモン・ロゾフスキー(後に外務人民委員代理を歴任)と出会った。ヨシフは協議後に、ツァーリに反抗的な地域をコサック軍が再び抑えようとしているグルジアへ戻った。トビリシにて、ヨシフとメンシェヴィキ党員は将軍のフョードル・グリーアザノフ (Fyodor Griiazanov) の暗殺を目論み、1906年3月1日に実行に移した。ヨシフは金品強要、銀行強盗、金を強奪するなどの行為を通して、ボリシェヴィキのために金を集め続けた。


1906年4月、ヨシフはロシア社会民主労働党第4回大会に出席した。ヨシフはこの大会で、将来の国防人民委員および最初の元帥となるクリメント・ヴォロシーロフ、チェーカーを設立するフェリックス・ジェルジンスキー、そしてレーニンの死後に権力を共有するグリゴリー・ジノヴィエフと出会う。また同時期にボリシェヴィキの協議で、「銀行強盗禁止」が賛成多数で可決された。この決議は、資金集めの手段に銀行強盗を行っていたヨシフを動揺させた[15]


1906年7月28日、活動の傍らヨシフはエカテリーナ・スワニーゼと結婚する。1907年3月31日、エカテリーナはヨシフの最初の子供であるヤーコフ・ジュガシヴィリを出産するが、その数ヵ月後にチフスに罹患して12月5日に死亡した。ヨシフは深い悲しみに打ちひしがれ、妻の死は彼を一層に非情にした。彼は友人に「人間に対する私の最後の温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語った[15]。妻と入れ替わるようにして生まれた息子のヤーコフを疎み、生涯冷淡な態度で接した。





レフ・トロツキー


家庭的不幸の一方、政治面では立身を続けて1907年にロンドンで開かれたロシア社会民主労働党第5回大会にレーニンと共に出席する[23]。この大会では、レーニン派のボリシェヴィキの支配権の強化と、ロシアでの共産主義革命のための戦略について討議した。ヨシフはここで、レフ・トロツキーと初めて出会う。ヨシフはすぐにトロツキーを嫌うようになり、トロツキーを「美男子だが役に立たない」と評した[15]。大会後、ヨシフはメンシェヴィキによる支配と反目で満ちているグルジアを離れ、活動の中心地をロシアに変え始め、ロシア語を書き始めた。


トビリシに戻ったヨシフは、とてつもない銀行強盗の準備をした。銀行業務事業の仕事への接触を通じて、6月に、町の中心にある帝国銀行に大金が届くことをヨシフは耳にした。ボリシェヴィキ内で銀行強盗が禁止となったため、ヨシフは計画を一時的に断念していた。1907年6月26日、発砲と手製爆弾による轟音がエレバンスクエアで轟いたとき、ヨシフの仲間たちは武装した輸送隊を待ち伏せていた。およそ40人が死んだが、ヨシフと仲間たちは25万ルーブル(今日の価格でおよそ340万ドル)を持ってどうにか逃げ延びた[15]。その2日後、ヨシフは家族と共にトビリシから立ち去った。この国立銀行からの金塊強奪を成功させたことが、レーニンの信頼を得る契機となっている。[24]スターリンは計画全般を指揮したが、実行には参加していない。フィンランドからジュネーヴへ逃れたレーニンに、取り巻きが金を届けている。銀行強盗を禁止した(さらに略奪品の割り当てを得られなかった)メンシェヴィキは憤慨し、容疑者を調査した。事件は今後ヨシフに難儀をもたらすが、追放の危機は免れた。



逮捕・流刑


革命活動を再開したヨシフは、より多くのストライキと社会運動(扇動)を組織した。今度は、ムスリムのアゼルバイジャン人と、バクーに住むイラン人 (en:Iranian peoples) の労働者を重点的に取り扱った。ヨシフはイスラム社会民主党と呼ばれる、ムスリムのボリシェヴィキグループの設立を手伝った。さらに、人的資源と兵器によるイラン立憲革命を支持し、ペルシアを訪問した際にはパルチザンを組織している。ヨシフは、黒百人組(ツァーリを支持する右翼)の一員の殺害を命じ、バクーの石油王を誘拐して身代金をゆすり取った。ヨシフは贋金造りと強盗も行っていたが、メンシェヴィキ党員を妨害するために犯罪者一味の友になり、彼らを利用した。ヨシフと悪漢たちはボリシェヴィキの知識人たちをうろたえさせたが、ヨシフの影響力はあまりにも強かった[15]。オフラーナの追跡を受けたヨシフは、1908年4月7日に逮捕された。彼は7か月間投獄されたのち、2年間のシベリアへの流刑を宣告された。彼は1909年3月の初期にソリヴィチェゴドスクの村に到着した。流刑となって7か月後、ヨシフは女装してサンクトペテルブルク行きの電車に乗って逃亡し、7月後半にバクーへと戻った[15]


ボリシェヴィキは、帝国内の圧制や方々の知識人たちの間での内部抗争によって、崩壊寸前の状態にあった。自暴自棄になったヨシフは、メンシェヴィキとの和解を主張したが、レーニンはこれに反対した。ヨシフは帝国内部からロシア社会民主労働党のロシア・ビューローの創設を要求した。ヨシフはすぐに、ボリシェヴィキ内に帝政支持の間者がかなり潜入していることを悟った。ヨシフは、党内で多くの無秩序を引き起こした“「本物の裏切り者」の根絶やしに失敗した「裏切り者」”-オフラーナの記録によって明らかになった- を捜し始めた[15]


1910年4月5日、ヨシフは再びオフラーナに逮捕された。以前のソリヴィチェゴドスクへの流刑を完了させるためにコーカサスからの5年間の追放を宣告された。同年9月、ヨシフは同地に追放された。1911年の早期に同地から一時的に逃げ出しているが、金をどうしても必要としていた別の追放された人物が逃げ出したことで、ヨシフは同地に戻らざるを得なかった(1937年、ヨシフはこの人物を銃殺している)。ヨシフは、流刑中にマリア・クザーコヴァという女主人と不倫をしており、隠し子のコンスタンティン・クザコフを儲けている[25]。マリアがまだ妊娠中の1911年7月9日、ヨシフは流刑から解放された。同年の7月末期に、ヨシフは2か月間住むよう命ぜられたヴォログダに移住した[15]




スターリンについての情報カード。サンクトペテルブルクのツァーリ秘密警察のファイルより1911年[15]


1912年1月のプラハ党協議 (en:Prague Party Conference) で、ロシア社会民主労働党からボリシェヴィキを指導してきたレーニンは、分離したボリシェヴィキ党(のちのソビエト連邦共産党)を創立した。中央委員は選ばれたが、その内の一部の党員がロシアに戻ったときにオフラーナに逮捕され、中央委員会の党員に扮したオフラーナのスパイであるロマン・マリノフスキーによって密かに裏切られた。レーニンとジノヴィエフは空白状態を埋めるため、中央委員にヨシフを選出した[26]。ヨシフがこのことを知らされたのは、同年の2月末期にヴォログダを発ったときのことであった。


1912年4月、ヨシフは、ボリシェヴィキによる機関紙の発刊を管理する新聞社のズヴェズダがあるサンクトペテルブルクに移住したが、機関紙の発行を月刊から日刊に変え、「ズヴェズダ」を「プラウダ」へ改名することを決めた。最初の機関紙は、同年5月5日に発刊された。その後ほどなくして、ヨシフは再びオフラーナに逮捕され、1912年7月にシベリアへ3年間追放されることになった。今度はナルイム (en:Narym) の小さな村だった。到着後のわずか38日後にヨシフは逃亡した。これはヨシフが経験した流刑生活の中で最も短い期間である[15]。9月にはサンクトペテルブルクへ戻った。



三度目の流刑


ヨシフは共産主義運動の奮闘と救済を願って、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの調停のために努力した。発刊したプラウダの社説で両者の和解を主張し、密かにメンシェヴィキの指導者と何度も会った。これに激怒したレーニンは方策について議論するため、ヨシフを2度クラクフへ呼び出した。1912年の年末の2度目の訪問の際に、ヨシフはプラウダの編集者の職を解任されたが、ボリシェヴィキ党のロシア・ビューローの指導者となった。レーニンはヨシフに、少数派であるボリシェヴィキの立場について明らかにする論文を書くよう頼んだ。その後、ヨシフはレーニン、裕福なボリシェヴィキの夫婦とともに数週間過ごした。ヨシフはこの間に、将来のソ連政府の有力な政治家となるニコライ・ブハーリンと初めて出会う。2人は国籍(および民族)の問題について議論した。


1913年3月、ヨシフは『マルクス主義と民族問題』という表題の論文を完成させた。この論文は「K.スターリン」という筆名で発表された。この「スターリン」という筆名をヨシフが使ったのはこのときが最初である。これより、ヨシフは「鋼鉄の人」を意味する筆名「スターリン」を名乗り始めた。




流刑中のスターリン1915年


1913年2月、スターリンはサンクトペテルブルクへ戻った。この間に、ボリシェヴィキの党員(中央委員のほぼ全員)が、上位のボリシェヴィキ党員として、そして工作員として長い間諜報活動をしていたマリノフスキーの内通によってオフラーナに逮捕されていた。同月、マリノフスキーが「スパイ」であると暴露された記事が発表されたが、ボリシェヴィキはこれをメンシェヴィキによる「名誉毀損」として退けた。皮肉なことに、レーニンとスターリンはマリノフスキーの最大の擁護者であった。3月8日、マリノフスキーはスターリンに対して、オフラーナの襲撃を受けることになるボリシェヴィキの資金調達パーティーに出席するよう説得した。


スターリンは、遠く離れたシベリアのトゥルハンスク (en:Turukhansk) 州に追いやられた。彼は最終的に、レフ・カーメネフや追放されたほかのボリシェヴィキ党員たち数人と協力することになる。スターリンはエニセイ川のコスティノ (Kosutino) という小さな村落で半年間過ごした。スターリンが脱出計画を練っていること(彼は同志から金と食料を受け取っている)を知った当局は、彼を北極圏の端にあるKureikaという村落へ移させた。彼は同地で狩猟採集民のような生活を送り、釣りと狩猟を地元のシベリアの部族民から教わった。その間に、同地でリーディア・ペレプルイギナ (Lidia Pereprygina) という13歳の少女と2年間関係を持ち、2人の子供の父親にもなっているが、1人目は幼くして死亡。スターリンがシベリアを去ったあとの1917年4月、リーディアは2人目を産み、「アレクサンドル」と名付けた。


1916年の後半、スターリンは軍隊に召集された。彼は1917年2月にクラスノヤルスクに赴いたが、検視官がスターリンの損傷した左腕(子供時代の負傷)を見つけ、兵役は務まらないと判断した。スターリンはアチンスクの村で流刑生活の最後の4か月を過ごした。



ロシア革命





アレクサンドル・ケレンスキー


二月革命のあとに、スターリンは流刑から解放された。レーニンや、その他のボリシェヴィキ指導者がまだ追放中の間の3月25日、スターリンはボリシェヴィキの機関誌プラウダの編集員であるカーメネフ、en:Matvei Muranov、追放されたヴャチェスラフ・モロトフ、en:Alexander Shlyapnikovとともにサンクトペテルブルクへ戻る。スターリンと新しい編集局は、アレクサンドル・ケレンスキーのロシア臨時政府への支援に賛成の立場を取り(モロトフとShlyapnikovはこの臨時政府を打倒したがっていた)、臨時政府打倒について議論していたレーニンの記事の発表を拒否する事態にまでなった。しかしながら、1917年4月の党会議でレーニンは臨時政府打倒を呼びかける「四月テーゼ」を発表する。スターリンとプラウダの残余の局員たちはレーニンの考えに同意し、臨時政府の打倒を要求した。スターリンはこの会議で、党内で3番目に高い総票数を受けてボリシェヴィキ中央委員会に選出された。7月中旬、ボリシェヴィキの過激派が、ペトログラードの街頭で武装した暴徒による示威運動を先導し、陸軍士官と有産階級の市民を殺害した。ボリシェヴィキの指導者でもペトログラードソビエト (en:Petrograd Soviet) でもなく、権力を握ろうとしていた彼らは政府打倒を要求した。失望した暴徒たちが分散すると、ケレンスキーの臨時政府はボリシェヴィキに反撃を加えた。政府支持者の部隊は、プラウダを急襲してボリシェヴィキの本拠を包囲した。スターリンは、レーニンの捕獲と虐殺を避けるため、包囲されたボリシェヴィキに降伏するよう命じた[15]。レーニンが捕らえられれば殺されることを確信していたスターリンは、彼をフィンランドへ密航させた。レーニンが不在の間、スターリンはボリシェヴィキの指導者となった。ペトログラードで密かに開催されたボリシェヴィキ党第6回大会で、スターリンは党内の圧力で編集長および憲法制定議会議員に選ばれ、中央委員に再選された[15]





ラーヴル・コルニーロフ


1917年9月、ケレンスキーは、自分が新たに最高司令官に任命した将軍のラーヴル・コルニーロフがクーデターを起こす計画を練っていると疑い、彼を免職した。ケレンスキーがボリシェヴィキの言いなりになっていると信じたコルニーロフは、ペトログラードで自分の軍を行進させることを決めた。自暴自棄となったケレンスキーは、首都を守るために共に立ち上げたボリシェヴィキを解放するために、ペトログラードソビエトを利用した。しかしながら、解放されたボリシェヴィキが、スターリンの断固たる規制の下で再武装と新兵を増大している間に、首都のケレンスキーに忠実な部隊はわずかであった。レーニンはクーデターの時が来たと確信した。カーメネフとジノヴィエフはメンシェヴィキとの連立を提案したが、スターリンとトロツキーはレーニンの願いを支持した。10月、レーニンはペトログラードへ戻った。10月29日、中央委員会は反乱への賛成を10対2で可決した。反対票を投じたのは、カーメネフとジノヴィエフの2人であった[15]。11月6日の朝、ケレンスキーはプラウダ本部を急襲し、印刷機を破壊した。スターリンが印刷機を修理している間に、クーデターについての任務が発表された中央委員会の会合に出席し損ねた。代わりに、午後はボリシェヴィキの代理人への一時的な状況説明や、隠れていたレーニンとのやり取りに費やした[15]。クーデター(十月革命)当日である翌日早くに、スターリンはスモールヌイ修道院 (en:Smolny Institute) へ向かった。ケレンスキーはドイツの帝国部隊の再招集により、首都を離れた。11月8日未明、冬宮は襲撃され、ケレンスキーの閣僚は逮捕された。


ペトログラードを占拠したボリシェヴィキは、人民委員会議を組織した。スターリンは民族問題人民委員に任命された。彼の仕事は、旧ロシア帝国における非ロシア人の市民たちを味方に引き入れるための機関を設立することであった。スターリンは、彼の新しい任務に専念できるようにと、プラウダの編集者の地位を解任された[26]。1918年3月、メンシェヴィキの指導者ユーリー・マルトフは、ボリシェヴィキが革命前に犯罪を犯したということを暴露した記事を発表した。それには、スターリンが銀行強盗を組織し、そのために党から追いやられたということ(後半は虚偽)が記載されていた。スターリンはマルトフを名誉毀損で告訴し、勝訴した。


ペトログラードを占拠後のロシア内戦でロシア国内が崩壊すると、反ボリシェヴィキ軍による密接でない同盟部隊の白軍と、レーニンの赤軍との戦いが始まった。レーニンは、スターリンやトロツキーら党員を含むソ連共産党政治局を組織した。この間に、スターリンとトロツキーの2人は、約束なしでレーニンに会うことが許された。1918年5月、レーニンはスターリンをツァーリツィンへ派遣した。ヴォルガ川は、北カフカースの石油と穀物の主要な供給ルートであった。ロシアは重大な食物不足であったため、スターリンは、見つけたものは何でも調達するよう命ぜられた。


都市は白軍による陥落の危機に晒されていた。スターリンはここで、クリメント・ヴォロシーロフとセミョーン・ブジョーンヌイの友人となった。2人ともスターリンの軍内での支持者となる。新しい同盟軍を通じて、スターリンは軍に影響を与えた。7月、レーニンは地方での軍事行動の公式統御を承諾した[26]。スターリンはロシア内戦およびポーランド・ソビエト戦争中は赤軍の政治委員であった。


スターリンの最初の政府役職は、民族問題人民委員であり、続いてソ連共産党政治局員となる。現時点で共和国軍事革命会議長であり、それ故に軍事的優位に立っていたトロツキーの決定の多くに、スターリンは疑問を呈した。スターリンは赤軍内のかつての帝政支持者の殺害を命じた。中央委員会と意見が一致したトロツキーは、彼らの専門的知識を採用したが、スターリンは彼らを信用しなかった。これはスターリンとトロツキーとの間で大きな不和を引き起こした。スターリンはレーニンに対し、トロツキーの解任を求める手紙を書いている[26]。スターリンは、あらゆる反革命分子の処刑を命じた[27]。田園地方では、農民を脅かすために彼らに服従を強いて、食糧輸送への盗賊の急襲を阻止するために村を燃やした[26]


1919年の初期にモスクワへ戻ったスターリンは、長年の伴侶となるナジェージダ・アリルーエワと3月24日に結婚する。3月の第8回党大会で、レーニンは過度の犠牲者を出すに至った戦術を用いたとして、スターリンを批判した[26]。1919年5月、スターリンはペトログラード近くの西部戦線に派遣された。赤軍兵士の大規模な逃走と離反を止めるため、スターリンは脱走兵と反逆者を集めると、彼らを公然と「裏切り者」として処刑したのである[26]



ポーランド・ソビエト戦争


1919年後半のロシア内戦でボリシェヴィキが勝利すると、レーニンとその他多くの者たちは、革命をヨーロッパ西側へ拡大させたがっており、ウクライナとポーランドとで赤軍の戦いが始まった。ウクライナにいたスターリンは、これらの野心は非現実的だ、迷うと主張した。スターリンは1920年2月にカフカースへ短期間異動したが、軍の共同指揮を受け入れたところで5月にウクライナへ異動となった[26]。1920年7月前半、南西正面軍の政治委員となったスターリンは、ワルシャワにて軍事力の推進から引き離したスターリンの部隊を引き込んだレーニンとトロツキーによって規定された一般戦略と衝突した。8月中旬、最高司令官のセルゲイ・カーメネフは、ワルシャワでの攻撃の強化のため、スターリンの軍隊の転移を命じた。スターリンはこの命令の承認を拒否した[26]。結果的に、リヴィウとワルシャワでの両方の戦いでのスターリンの行動は、赤軍の敗北の一因となった。ただし、これに関しては補給を無視したミハイル・トゥハチェフスキーにも問題があり、一概にスターリンにのみ責任があるとはいえないという論調も存在する。



1920年8月、スターリンはモスクワへ戻った。選挙作戦を非難したソ連共産党政治局を前に、スターリンは自分自身を弁護した。戦術は成功したにもかかわらず、軍法委員会を辞任した[26]。9月22日の第9回党大会にて、トロツキーはスターリンの戦歴を率直に批判した。スターリンは、不服従、個人的野心、そして軍事的無能を非難された。これらの非難に疑問を抱く者は誰一人としておらず、スターリンは戦争そのものが間違いであった(誰もがこの点に同意した)という、自身の見解を一時的に再確認するだけであった[26]



権力の掌握





ゴールキのダーチャで病気療養中のレーニンを訪れたスターリン



書記長


1920年後半、トロツキーは産業部門における一党独裁を正式に行使することを主張した。これで労働組合を必要以上に動揺させられると信じたレーニンは、トロツキーに対する自らの支持基盤を築くようスターリンに求めた。レーニンの党派は、1921年3月の第10回党大会にて優位な立場を得た。しかしながら、自分の方針を押し通すにあたっての難儀に直面したレーニンは、自身の同盟者により権限を与えることを決めた[26]。カーメネフの助力を受けたレーニンは、1922年4月3日にスターリンをソビエト連邦共産党書記長の地位に任命した。レーニンは党内でまだ重要な役職 (en:Rabkrin, en:Orgburo) に就いており、作業負荷を自分の部下に移譲することに同意した。レーニンはこの権限で、自分の支持者を責任ある地位に就かせた[26]


反ソビエト (en:Anti-Sovietism) の兆候(1924年のen:August Uprising)は言うまでもなく、地元の共産党内(グルジア問題)の全ての反対への厳しい抑圧を含むグルジア・ソビエト社会主義共和国へ向けて中央集権主義の政策を強硬に採用したあとの、1921年の赤軍によるグルジア侵略 (en:Red Army invasion of Georgia) を巧みに処理したスターリンは決定的な役割を果たす[28]。スターリンが最初に役割を果たし始めたのは、グルジア問題であった[29]。しかしながら、全てのソビエト国家がロシアに併合されて従属国となるよりはむしろロシアと同等の地位にあるべきと信じていたスターリンのグルジアに対する政策をレーニンは嫌い[26]、国家の問題についてを、スターリンとその政策に対する強い批判とともにノートに書いている[30]


1918年8月のレーニン暗殺未遂事件以降、レーニンは自分の首に埋まっている弾丸摘出手術の回復を待つ間の1922年5月25日に脳梗塞で倒れた。ひどく衰弱したレーニンは半ば引退する形でモスクワ郊外のゴールキに移住した。スターリンはレーニンへの面会を監督する役職に就き、しばしばレーニンの下を訪問して外部との仲介者としての役目を果たした[26]。この間に、ソビエト連邦を構成する共和国を強化するための経済政策とその方法を巡って、両者は口論になった(グルジア問題)。ある日、スターリンは、レーニンとトロツキーらによる情報交換と政治を支援するという共産党政治局による命令に違反したことについて、レーニンの妻・ナデジダ・クルプスカヤを罵った[26]。レーニンとスターリンの関係は悪化し、レーニンは自身の遺書 (en:Lenin's Testament) の中で、スターリンをますます軽蔑する内容の口述をしている。レーニンはスターリンの不作法な態度、度を越した権力、野心、そして政治を批判し、スターリンを書記長の座から解任すべきであると提案した。レーニンの秘書の一人は、スターリンに精神的動揺をもたらす内容のメモを見せている[26]


1922年12月にはレーニンの政治活動への参加を巡って、スターリンはクルプスカヤを電話で、「ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)と仕事の話はするな、さもないと党統制委員会に引っ張り出すぞ」と激しく叱責[31]。このことはレーニンを激怒させた。レーニンは翌1923年3月5日に「私は自分へなされた仕打ちを忘れるつもりはない…発言を取り消すなり謝罪する用意があるか、それとも我々の関係を断ち切るかよく考えよ」と詰問する手紙を送った。それに対しスターリンは、クルプスカヤへの発言の真意はあくまでも医師たちの指示を守ってもらうためであって乱暴だとは思っていなかったと釈明し、「あなたが我々の『関係』を保持するために私の発言を撤回せよと言われるなら、そういたします。しかし、問題は何なのか、私の落ち度がどこにあるのか、人々が私に何を欲しているのかは推量したくありません」という『ずいぶん礼節を欠いた』[32]返事をしたためた。


スターリンの手紙が届く前に、レーニンは完全に体の自由が効かなくなった状態のまま、翌3月6日に脳卒中の発作で倒れた。スターリンは各地の党支部書記の任免権を利用し、その書記の推薦で立候補する中央委員を次第に自らの派閥で占めていった。レーニンが倒れて後継者問題が浮上すると、トロツキーが有力視された。レーニンが半ば引退した状態の間に、スターリンは政治局内でカーメネフ、ジノヴィエフと組んで反トロツキー同盟を結び、トロツキーの追い落としを画策する。1923年4月の第12回党大会では、彼らの同盟はレーニンの遺書が公開されるのを防いだ[26]。スターリンの権力と政治にはカーメネフらも当惑していたが、彼らはトロツキーへの対抗およびレーニンの有力後継のためにスターリンの力を借りる必要があった。



レーニンの死


1924年1月21日、レーニンは死去した。スターリンは、レーニンの葬儀を開く名誉を与えられた。レーニンの望みにより、葬儀は豪奢なものとなり、遺体は防腐処置を施されて展示されているかのような処理をされた。カーメネフとジノヴィエフの活動の結果、中央政治局はレーニンの遺書を公表すべきではないことを決定した。同年5月の党大会にて、レーニンの遺書は地方代表団の長にだけ読み聞かせられた。トロツキーは、スターリンの解任を要求する好機を掴むことができなかった[26]


レーニンの死後の5月22日の第13回党大会にて、クルプスカヤの希望によりレーニンの遺書が朗読される予定であった。彼女は大会が開催される前にその遺書のコピーを共産党政治局員全員に送っていた。遺書の内容は「スターリンはあまりに粗暴過ぎる。この欠点は、われわれ共産主義者の仲間うちやその交際の中では我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢ならないものとなる」「背信的なスターリンを指導者にしてはならない」というものであった。レーニンはスターリンを書記長の地位から外し、「より忍耐強く、より丁重で、より思いやりがあり、あまり気まぐれではない人物」を、そのポストに任命するよう提案していた[33]。レーニンはスターリンの性格を見抜いており、スターリン個人への権力集中にレーニンは警鐘を発し、スターリンを書記長の座から解任するよう遺書の中で要求したのである。しかし、レーニンの要求は、スターリンが自制することを条件に中央委員会のメンバーによって伏せられてしまった。


レーニンの死の数か月後、スターリンはカーメネフ、ジノヴィエフと議論した。スターリンは第13回党大会で共産党政治局に昇進したニコライ・ブハーリンと同盟を結んだ。1925年12月の14回党大会にて、スターリンはトロツキーの援助を要求することを公開したカーメネフとジノヴィエフを公然と非難した。スターリンは、革命を広げることよりもボリシェヴィキがすでに支配した国での共産主義の構築に集中すべきだと主張し始めた。これは党内の多くの同志たちや、スターリンのイデオロギーに反対していたトロツキー、カーメネフ、そして反スターリン同盟を結んでいたジノヴィエフをも引き込んだ。


スターリンは自身の政敵の評判を徐々に下げていった。トロツキーは革命前からボリシェヴィキにはいなかったことや、カーメネフとジノヴィエフが革命に反対票を投じていたことを指摘した。トロツキー、カーメネフ、そしてジノヴィエフは党内でますます孤立を深め、1927年11月には共産党中央委員会から追放された。11月14日、トロツキーとジノヴィエフは党からも追放され、続いて12月にはカーメネフも追放されるに至った[26]。カーメネフとジノヴィエフは謝罪の公開書簡を書き、約6か月後に復党となったが、トロツキーはソ連からも追放された。


スターリンは、より迅速な工業化と、レーニンによる新経済政策(ネップ)を嫌った多くの党員に共感を呼んだ経済の集中管理の促進を始めた。1927年末の穀物供給の危機的な不足は、スターリンに農業集団化の推進を促進させた。1928年1月、スターリンは、富農が秘蔵していた穀物の没収を監督したシベリアへ、個人的な旅に出掛けた。党員の多くは没収を支持したが、ブハーリンと首相のアレクセイ・ルイコフは憤慨した[27][26]。ブハーリンは、富農の財産の融資による迅速な工業化というスターリンの計画を批判し、ネップへの復帰を提唱した。スターリンはブハーリンを派閥主義的で資本主義的傾向であるとして非難し、その他の中央政治局の委員たちはスターリンに味方した。1929年11月、ブハーリンは政治局から追放された。


スターリンは、「貧民階級の味方」という聴衆への訴えによって人気を得た。スターリンは従来のボリシェヴィキの理論である「世界革命」路線を放棄して、一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を提唱した。ロシア人は世界大戦と内戦で疲れており、「一国社会主義構築への専念」は、戦争に対する楽観的な解毒役となった。自身の反対勢力ができあがるため、スターリンは党内の一派が党の指導者の方針に公然と反対することができない派閥主義の禁止を大きく利用した。1928年(五カ年計画の最初の年)まで、スターリンの指導者の地位は最上位にあった。この翌年、世界革命・永続革命を提唱していたトロツキーはスターリンに反対していたために追放された。ブハーリンによる党内右派のような反対勢力の裏をかき、コルホーズと工業化を主張・推進したスターリンは、党と国の両方を統制した。しかしながら、セルゲイ・キーロフのようなほかの指導者の人気が示したように、彼は1936年から1938年の間に行った「大粛清」まで、絶対的な権力を掌握することはできなかった。



諜報部隊の補強


スターリンは、秘密警察と情報機関の適用範囲と権力を大きく増大させた。彼の指導の下、ソ連の諜報部隊は、ドイツ(赤いオーケストラ)、イギリス、フランス、日本、そしてアメリカを含む世界の主要な国の大部分に諜報の網を構築し始めた。スターリンは、偵察、共産主義の政治的プロパガンダ、そして国が許可した暴力との違いが分からなかった。スターリンはこれらをNKVDによる仕事として統合し始めた。海外の共産党のソ連支持、スターリン支持の状態にするために諜報員を潜入させるコミンテルンの活用は大きな成果を上げた。秘密警察と海外での諜報活動を統合させたスターリンの手腕の最たる例の一つは、メキシコに亡命したトロツキーの暗殺の許可を秘密警察に与えたことである[34]




大粛清




セルゲイ・キーロフ暗殺

セルゲイ・キーロフは政治局員であり、党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする[35]。実際、一部の党員は、スターリンの後継者としてキーロフに対し秘密裏にアプローチを行っていた。1930年代のスターリンは、高まりつつあったキーロフの人気についてますます心配していた。1934年に開催された新しく中央委員会を決める投票で、スターリンは1108の反対票を受けた一方、キーロフはどの候補よりも少ない3の反対票を受けたのみであった[36]。この一件は、スターリンのキーロフに対する反感をますます強めたものと思われる。


1934年12月1日、キーロフはレニングラードにおいてレオニード・ニコラエフ (en:Leonid Nikolaev) という青年によって暗殺された。ニコラエフは当時のNKVD長官ゲンリフ・ヤゴーダと関係があり、スターリンがヤゴーダを通じてニコラエフをそそのかしキーロフを暗殺させたとする説は根強い[37]。キーロフの死はボリシェヴィキをぞっとさせたが、スターリンは暗殺の知らせを聞くと、レニングラードに向かい暗殺事件の真相を究明するため、異例の現地指揮を行った。


キーロフ暗殺に対するスターリンの公式の対応は、嫌疑のかかっているスパイと反革命分子を探し出すことで安全対策を強化するというものであった。しかし実質的には、スターリンは自身の指導体制を脅かすことになる可能性のある者たちを排除していったのだった。
スターリンは自身の生立ちから人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、異常なまでの権力欲と顕示欲の塊であり、その目的を達するためなら手段を全く選ばなかったのである。
この過程は、それから広範に亘る追放へと変移していった。キーロフの暗殺は、1936年から1938年まで続くことになる大粛清の前兆であった。



人民の敵

キーロフが暗殺されると、スターリンは、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフを含めた自身の反対勢力者たちを、陰謀に巻き込むための構想を抱いた[38]。調査と裁判は拡大していった[39]。1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった[35]。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺のあとに法律を改定する[35]。この党大会で選出された党中央委員会の委員および中央委員候補139人のうち、98人が逮捕・銃殺された。党大会の党員1,956人のうちの1,108人が、「人民の敵」(ロシア語враг народа, "vrag narodaヴラグ ナロ-ダ")(en:Enemy of the people) という烙印を貼られ、秘密裁判で死刑判決を受けると直ちに処刑された。スターリンは、裁判所に対して「人民の敵」と判断した者には死刑判決を下すこと、そして直ちに死刑を執行するよう命令していた。取り調べの際には「肉体的圧迫」、すなわち拷問を用いることを認め、罪を認めない者には拷問によって力ずくで「罪」を認めさせた。


スターリンは、起訴や弁護人による訴えなしによるわずか10日間の調査で刑を迅速に執行できるようにする『テロ組織とテロ行為』という新しい法案を可決した[40]。その後、モスクワ裁判として知られる複数の裁判が開かれたが、その手続きはソ連全土に亘って模倣された。反革命活動の禁止を記載した法律の第58条は、幅広くあらゆる態度・物腰に適用された[41]。根拠薄弱な口実として火事が起きただけで「破壊活動」と見なされ逮捕されるケースが存在した。もっとも、多くの場合は誰かに「人民の敵」(「人民のための党を裏切るのは、人民の敵である」)の烙印を押し付けるだけで十分であった。そして国民の迫害・虐待が始まり、死とまではいかなくとも、しばしば尋問、拷問、そして国外追放にまで及んだ。ロシア語のトロイカには、NKVDの下に置かれる3つの委員会によって裁判はすぐに単純化され、刑は24時間以内に執行される、という新たな意味が加わった[40]


共産党中央政治局の最高責任者の座に君臨していたスターリンは権力をほぼ絶対的なものまでに強化し、政治的反対者、自身のイデオロギーに反対する者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員たちを策略によって逮捕・追放した。スターリンは大粛清を、日和見主義者と反革命分子を追放する試みとして正当化した[42][43]。党による粛清の標的とされた者たちはNKVDトロイカによる公開裁判後に矯正労働キャンプ(グラグ)への収容あるいは処刑という、より厳しい措置が取られた[42][44][45]


軍事指導者たちの多くは反逆罪の判決を受け、赤軍の陸軍将校の大粛清に繋がっていく[46]。あまりにも多くの、かつて高い地位にいた革命家たちや党員への粛清はレオン・トロツキーをして「スターリン政権とレーニン政権とは『血の川』によって隔てられてしまった」と言わしめた[47]。トロツキーは「スターリンは反対者の意見にではなく、その頭蓋骨に攻撃を加える」との言葉も遺している[48]


1937年よりメキシコで亡命生活を送っていたトロツキーは、1940年8月、同地で登山家のスペイン人であったラモン・メルカデルにより暗殺された。メルカデルはトロツキー暗殺のために派遣された刺客と考えられている。これにより、かつての党指導者間の政敵の最後の生き残りを、スターリンは抹殺する形となった[49]。オールド・ボリシェヴィキは、スターリン、カリーニン、そしてモロトフの3人のみとなった。NKVDによる大規模な作戦 (en:Mass operations of the NKVD) は、ポーランド人、ドイツ民族、朝鮮人といった海外の様々な民族を標的とした。計350,000人(その内の144,000人がポーランド人)が逮捕され、247,157人が処刑された[27]。粛清と並行して、ソビエトの教科書とほかの宣伝材料の歴史を書き直させた。NKVDによって処刑された著名人は、初めから存在しなかったかのように教科書や写真から跡形もなく取り除かれた。革命の歴史は、徐々にレーニンとスターリンという主要の2人についての話のみに変わっていった。







Before

After
ヴォルガ川沿岸を歩く(左から)ヴォロシーロフ、モロトフ、スターリン、エジョフ。
この写真は1930年代に撮られたものだが、1940年2月4日にエジョフが銃殺されると、ソビエトの検閲官によって編集された[50]
このような写真修正は、スターリン治下のソ連においては一般的な出来事であった。


公開されたソビエトの公文書と公式のデータによれば1937年には353,074人、1938年には328,612人(歴史家はほぼ700,000人と見積もっている)[51]もの「普通の」ソビエト国民…労働者、農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金受給者、バレリーナ、乞食が処刑された[52][53]。一部の専門家は、公開されたソビエトの公文書は、数字が控えめか、不完全か、頼りにならないと考えている[54][55][56][57]。例えば、ロバート・コンクエストは大粛清で処刑された人数は681,692人ではなく、その約2.5倍であったと示している。彼は、名誉回復された犠牲者の死因と死んだ日付をKGBが偽造し、証拠隠滅したと考えている[58]。伝えられるところによれば、当時、銃殺された人々のリストを見直していたスターリンは、とくに誰かに呟くこともしなかったという[59]


スターリンは、NKVDの諜報部隊をモンゴル人民共和国に派遣してモンゴル人によるNKVDトロイカを設立し、数万人が「日本のスパイ」として処刑されたスターリン主義者によるモンゴルの弾圧 (en:Stalinist repressions in Mongolia) を誘発させた。モンゴルの統治者ホルローギーン・チョイバルサンは、スターリンの指導に密接に従った[60]


この時期にモスクワを訪問していた中国共産党のメンバーの一人に康生がいた。彼は中国共産党中央コミンテルン駐在代表団団長となった王明に従って4年ほど滞在したが、彼はこの間にNKVDによる容疑者への逮捕・拷問・処刑などを身近に体験したといわれる。また、自身も王明などの指示の下、中国共産党ソ連留学生をトロツキストとして攻撃し、彼等の迫害に関与した。1937年11月に帰国した後に延安に移り、翌1938年には共産党中央社会部長、情報部長となり、以後党内の「スパイ」摘発工作で辣腕を振るう。1942年から1943年頃には毛沢東と劉少奇の下で「整風運動」と称された粛清の実行に当たった。緊急措置をとり、拷問による自白を証拠として、多くの党員をスパイ、裏切り者、内通者として赤色テロを行った。これら一連の行為により、康生は「中国のジェルジンスキー、(あるいは)ベリヤ」と呼ばれるようになる。文革中に死去するが、その悪行により、党から死後に除名された。


ただし、37年と翌38年に集中的に発生した大粛清(銃殺刑はロシア連邦国立公文書館 (GARF) による資料によれば37年と翌年の合計が約78万人、対して前年の36年は1,118人)の原因、政治的な計画性、ならびにその過程におけるスターリンの関与の程度に関しては上述の説明とは異なる異論もある。ソ連崩壊後に公開された公的資料に基づく研究によれば、ノーメンクラトゥーラならびにモスクワが当時強引に進めていた農業集団化などの国家統制政策とそのもたらした混乱が一方にあり、他方でボリシェヴィキの伝統的な主意主義(「鉄の規律を誇る党」)的体質という「二つのモデルの混在」とそれに起因する矛盾が、社会全体を巻き込んだ政治的なヒステリー現象たる大粛清の社会構造的な原因であるとされている[61]


主な犠牲者としては、かつてスターリンと共にトロイカ体制を築いたジノヴィエフ、カーメネフの両名に始まり、グリゴリー・ソコリニコフ、チュバール、ゲオルギー・ピャタコフ、ニコライ・ブハーリン、ボロージン、アレクセイ・ルイコフ、カール・ラデック、ミハイル・トゥハチェフスキー、スタニスラフ・コシオール、レフ・カラハン、イオナ・ヤキール、などである。アドリフ・ヨッフェ、ミハイル・トムスキーは自殺した。第17回大会の中央委員140人のうち、無傷で残ったのはわずか15人であった。トゥハチェフスキーを初めとする赤軍の高級将校の大部分が含まれており、将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に銃殺されたとされる。


俳優で演出家のフセヴォロド・メイエルホリド、作家のマクシム・ゴーリキー、生物学者のニコライ・ヴァヴィロフのような、文化人や学者も犠牲となった。外国からコミンテルンに来ていた、ドイツ共産党員のヘルツ、ノイマン、ハンガリー共産党のクン・ベーラ、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員も処刑か強制収容所送りとなった。日本人では、日本共産党員の山本懸蔵、演出家の杉本良吉、ドイツ共産党員でソ連に移住していた元東京帝大医学部助教授の国崎定洞が行方不明となった(いずれも逮捕・処刑されたことがのちに判明する)。


また、後述のようにこの記事に掲載されているスターリン、レーニン、カリーニンの3人が写っている写真は集合写真からの切り抜きであるが、実際の写真は1919年に行われた党中央委員選出の際に撮られたものであり、素性が分からない人物1人(後列に立っているため顔が見えない)を含めて21人が写っている写真であった。この中で氏名が判明している20名(スターリンら3人を数えなければ17名)の内11名がスターリンに粛清され、他にも3名(上記のヨッフェとトムスキーの他にミハイル・ラシェヴィチ)がスターリンに抗議して自殺している[62]


粛清の実行者である秘密警察職員ですら例外ではなく、ゲンリフ・ヤゴーダからニコライ・エジョフ、ラヴレンチー・ベリヤへと長官が変わるなかでNKVD職員たちも何万人と粛清された。例えばエジョフの場合、NKVDを掌握した時点で前任者であるヤゴーダやメンジンスキーの息がかかった職員を大勢粛清して組織内での自分の立場を強化している。ほどなくヤゴーダ自身も粛清されることとなるが、エジョフも最終的にはヤゴーダと同じようにベリヤに取って代わられ、粛清されている[63]。ベリヤも権力を握った時点でエジョフと同じようにNKVD内のエジョフ派幹部らを粛清しているが、ベリヤ自身もスターリン死後の権力闘争で敗れて粛清されている。当然のように、この時もNKVD内の親ベリヤ派と目されていた側近達が新体制によってベリヤと共に粛清されている。


粛清される側になったNKVDの元トップらは、当然自分たちが今まで粛清してきた人々と同じ運命を辿ることになった。後述のように、今まで描かれていた絵画や写っていた写真から削除されたのである。ヤゴーダの場合、自分が建設した運河をスターリン、キーロフ、それにヴォローシロフらと船に乗って歓談している絵があったが、粛清後は削除され、代わりにヤゴーダのいた場所には手すりに掛けられたコートが追加された[64]。ベリヤの場合、粛清後はそれまでソビエト大百科事典に載っていたベリヤの項目が完全に削除され、すでに第2版を購入していた人々の下には「ベーリング海の新たな情報」なる4ページの記事が送付された。


「大粛清」の犠牲者数については諸説あるが、1930年代の弾圧による死亡者は200万人前後とされる(同書624頁)。この数字は、フルシチョフが1962年から63年に行った秘密調査における数字、ならびにゴルバチョフが1988年に行った再調査における数字とほぼ一致する(同書626頁)。




スターリン憲法


1936年、スターリンは1936年のソビエト社会主義共和国連邦憲法、いわゆる「スターリン憲法」を制定した。これは、プロレタリアート独裁に基づき、「労働者の代表であるソビエトに全ての権力を帰属させ、生産手段の私有を撤廃し、各人からはその能力に応じて、各人にはその労働に応じて」という社会主義の原則に立つもので、「ソ連邦における労働」とは、すなわち「“働かざる者、食うべからず”」の原則の下、働きうるすべてのソヴィエト市民の誇りある義務であり、また努めである」とさせた[65]。そして、「労働者の利益に従って」という条件の下、満18歳以上の国民すべてに選挙権が与えられ、普通・平等・直接・秘密選挙制を採用し、民族の平等権など、人民民主主義の理念が提唱されたもので、社会主義国家としては世界初だった。


だが、この憲法は国内よりも対外的な宣伝を意図して作られたものであり、候補者推薦制とソ連共産党による一党独裁制は変わらず、民族の平等や宗教の自由などは、実際にはまるで守られることはなかった。もっとも当時それ自体は珍しいことではないが、ソ連の場合、最初の選挙で議員の一人に19歳の少女が選ばれるなどエンターテイメント的な宣伝が行われ、有権者の千人に一人は候補者名を塗り潰し反ソ・反選挙的態度を見せるなどの国内の反感も受けていた(封筒に入れない、別の候補者名を書くなどの無効票を加えればもう少し増える)。スターリンの死後に一部が改正され、1977年にレオニード・ブレジネフによって新しい憲法が採択されたが、内容はこのスターリン憲法が基礎となっている。のちにミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカによって、1988年12月および1990年3月に改正された。後者の改正は、大統領制・複数政党制が導入されている。最終的に、1991年のソ連崩壊により、憲法は失効するに至った。



強制移住


独ソ戦の開戦後まもなく、スターリンはソビエトの地図に大きな影響を与えることになる膨大な規模に亘る民族の強制移動(en:Forced settlements in the Soviet Union)をNKVD長官のラヴレンチー・ベリヤに命じ、実行している。1941年から1949年までの間にソ連領内に住む少数民族約330万人がシベリアと中央アジアの共和国へ強制移送されたと推定されている[66]。特に標的とされたのは「敵性外国人」のドイツ系少数民族であった。分離主義、ソ連の支配に対する抵抗、侵攻してきたナチス・ドイツへの協力が、良かれ悪しかれ追放の表向きの理由として挙げられた。ドイツ人が占有する領域で過ごす人々の個々の事情は調べられることはなかった[67]。ナチスによる短期間のカフカース占領後、山岳民族とクリミア・タタール人の全住民 – 計100万人以上もの人々 – が、自分たちの財産没収の通知も機会も得ることなく追放された[67]。大半の人々が赤軍により一箇所に集められて行進させられたあとに、家畜同然に輸送列車に乗せられた。ベリヤはスターリンから輸送期間を厳守するよう言われていたため、子供、妊婦、老人、障害者など足手纏いになると見なされた者は射殺されたり、崖から突き落された。チェチェン共和国のハイバフ村では、輸送の期間に間に合わせる口実でNKVDが住民700人をコルホーズの馬屋に閉じ込めて火を放って焼き殺し、さらには耐え切れずに這いだしてきた村人を射殺する事件が起きている。


ある概算によると、移住させられた人間の43%が感染症と栄養失調で死んだという[68]


スターリンによる統治の間、以下の民族集団は徹底的にあるいは部分的に強制移住させられた。ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ソ連内の少数派のポーランド人 (en:Polish minority in Soviet Union)、朝鮮人、中国人、日本人、カザフ人、トルクメン人、コサック、ヴォルガ・ドイツ人(ドイツ人)、クリミア・タタール人、カルムイク人、チェチェン人、イングーシ人、オセット人、バルカル人、カラチャイ人、メスヘティア・トルコ人、フィンランド人、スウェーデン人、ノルウェー人、サーミ人、ブルガリア人、ギリシャ人、ラトビア人、リトアニア人、エストニア人、アゼルバイジャン人、アルメニア人、クルド人、ペルシア人(イラン人も含む)、アッシリア人、アバジン人、アヴァール人、ノガイ人、タヴリン人、ダルギン人、クムイク人、ダゲスタン人、モルダヴィア人、ルーマニア人、カバルド人、ヘムシン人、en:Karapapak、ラズ人、ラック人、ヤクート、ブリヤート人、エヴェンキ、ツングースそしてキリスト教信者、エホバの証人信者、ムスリム、ユダヤ人である。国籍を問わず、彼らの富農の多数がシベリアや中央アジアへ住まわされた。その途中で何十万人もの被追放者たちが死んでいき[66]、生き残った人々は強制収容所内で無報酬で働かされ、追放された者たちの多くは飢餓や別の状況によって死んでいった。


1956年2月、ニキータ・フルシチョフは「国外追放はレーニン主義に違反する」と非難し、無効にしたが、クリミア・タタール人、メスヘティア人、そしてヴォルガ・ドイツ人が「大挙して」祖国へ帰還するのは1991年まで許されなかった。追放は、ソ連国民に深刻な影響を及ぼした。追放の記憶は、ソ連崩壊から現在に至るバルト三国の分離、クリミア危機、チェチェン紛争などと深く関わっている。チェチェン人は、スターリンの死後に故郷への帰還を許されたが、ロシアへの不信感と憎悪は強まった。クリミア・タタール人はウズベキスタンに移住させられ、クリミア・タタール人が追われたあとにはロシア人が住み着いた。クリミア・タタール人帰還運動を行っていた自治組織メジュリスは、ソ連崩壊後もロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入に反対する運動や集会などを行っている[69][70][71][72]


また、中央アジアのイスラム教の民族が団結してソ連に立ち向かうことを恐れたスターリンは、中央アジアを、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンと、5つの国に分断させている。



第一次五ヵ年計画



集団農場


スターリン政権は強制的に集団農場に移行した。大規模に機械化された農場から農業による生産高を増やし、農民たちをより政治的支配下に置き、より効率的に徴税するためであった。集産化は、1861年の農奴制の廃止以来見られなかった、土地と農産物の制御からの疎外という急激な社会的変革を起こした。農業集団化の最初の年には、工業生産高が200%、農業生産高は50%増加するだろうと見積もられていた[73]が、達成されることはなかった。


ソ連時代のロシアは、アメリカから毎年大量の穀物を輸入していた。ロシア革命後のソ連は、「社会主義の優越性」(社会主義が何如に優れているか)を具現化させるため、工業化を重視した経済政策を推進するようになる。工業を重視したがために農作物の値段は安値に抑えられ、農民たちは農産物の出し惜しみに出た。スターリンはこれの打開のため、個々の農家がそれぞれの農業をさせるのを止めさせ、農民全員を集団農場に集めて労働させ、収穫できた農作物を国に納めさせることにした。集団農場が各地に作られ、個人で持っていた農家の土地は没収されて集団農場のものとなった。集産化は、数多くの農民たちの生活水準を急激に低下させたことで、農民たちは農産物を自分たちが生きられる最低限の生産高しか作らなくなった。個人の農家が持っていた家畜までもが取り上げられたため、それならば自分で家畜を殺してしまえ、という農家が続出、ついにはソ連全土で家畜を殺して食べる催しが行われた。さらにはコルホーズの役人が殺害されるなど、農民たちは激しく抵抗した。


スターリンは、農業集団化に反対したこの予期せぬ失敗者を「クラーク(富農)」と主張し、「農業がうまくいかないのは、農村に残った資本家である。すなわち富農が原因であり、富農を撲滅すべきである」と党大会で糾弾した(しかしながら、実際に「富農」と認定された農民は全農業人口のうちのわずか4%であった)。スターリンが対象としたのは、「ネップの時代に利益を手にした農民」であり、ゲーペーウーとコムソモールによる暴力の矢面に立たされ、それらは人口の60%であった。スターリンは農民たちを無理やり分けた。「貧農」と見なされた者は集団農場の労働者にされて働かされ、「富農」「富農の助力者」、そしてのちに「元富農」と公式に定義された人々は、銃殺されるか、グラグに収容されるか、国から遠く離れた辺鄙な地域へ国外追放となった。この「富農撲滅」政策によって、富農の追放 (en:Dekulakization) が起こった年である1930年の間に20,201人の人々が処刑されたことを記録データが示している[60]。農業集団化の第2段階 - スターリンによる高名な論説「Dizzy with success」[74]、「集団農場の同志たちに答える」[75]によって1年間中断となった - は、戦術的・政治的撤退という彼の手腕の最たる例に続いて、初期の戦略の強化が施された。


「富農」に分類された農民は、勤勉な農家であるケースが多かった。家を挙げて農業に取り組んだために、相対的に豊かな生活を送っていたが、スターリンの農業集団化政策によって彼らが弾圧されたことで農業に熱心に取り組む人間がいなくなるという皮肉な事態となった。集団農場における労働者は、政府により決められた穀物しか作れず、その生産した穀物も不当に低い価格でしか買い取って貰えなかった。このため、農民の労働意欲は低下しソ連の農産物の収穫高は大きく下がり、ソ連は豊富な穀倉地帯を所有しているにも関わらず食糧不足に陥った。「ロシアの穀倉地帯」と呼ばれたウクライナで飢饉が発生(後述)し、農民たちが次々と餓死していった。



飢饉


ロシアで発生した大飢饉は、ほかの地域にも影響を及ぼしている。


帝政末期

1892年の帝政ロシア末期では、穀物の不作によって37万5,000人から40万人が死亡した[76]


ソ連時代のウクライナ・ソビエト社会主義共和国


ソビエトウクライナにおける犠牲者の総数は、現在では220万人[77][78]〜1000万人に及ぶと試算されている[79][80][81]。当時のソ連は国際連盟への加盟をまだ認められていなかったが、国際連盟はソ連に飢饉への対応について勧告を行い、飢饉が収束したあとの1934年、加盟を認めた[82]


現代の多くの学者は、ソ連時代の飢饉はスターリン治下のソ連政府の方針によって引き起こされたものであることに同意している[83]。その他の歴史学者は、1931年と1932年の不十分な収穫高は飢饉がもたらしたさまざまな天災によって引き起こされ、1933年の豊作によって飢饉は終結したと考えている[84]。ソビエトおよびその他の歴史学者は、迅速な農業集団化が同じくソ連の迅速な工業化を達成させ、最終的に第二次世界大戦に勝利するために必要であったと主張する。


ウクライナで発生した大飢饉ホロドモールは、「ウクライナ人の大量殺人」と呼ばれることがある。この飢饉はソ連政府による企みであることを示唆しており、とくに政治的な要因と社会的な存在物としてウクライナ国家を破壊するためにウクライナ人が標的にされた[85]。一方の歴史家たちは26の国々が公式に認めたこの飢饉がジェノサイド条約に該当するホロドモールへと至る政策であろうとなかろうと、異議を唱え続けている。


歴史学者のアラン・ブロックによると、「ソビエト全体の穀物量は1931年時のそれほど悪くはない ...ウクライナ人500万人もの犠牲者を出した飢饉は、穀物の不作ではなく国家の需要過多であった」という。スターリンは飢饉を緩和することができたであろう多数の穀物の備蓄の解放を拒絶し、その一方で穀物の輸出を続けた。ウクライナの農民は穀物を隠しており、それに応じて過酷で新しい集団農場の窃盗法を厳重に施行した、とスターリンは確信した[86][87]


教授のマイケル・エルマンは、ウクライナ人は1932年から1933年における大量虐殺の犠牲者となった、と結論付けている。より緩和された定義によれば、その主張は大量虐殺研究の分野の一部の専門家から支持されている。エルマンはまた、この大量のウクライナ人の死がソビエトによる大量虐殺(例:Polish Operation of the NKVD)でなければ、大量の犠牲者に関する事柄に関しては最悪であると主張している[88]


レーニン時代にも飢餓に見舞われていたウクライナ人の間では、飢餓への怯えから反ソ感情が激増した。そのことから、1941年のナチス・ドイツとソ連の開戦のときには、スターリンの恐怖政治からの解放についての期待が高まることになった(NKVDはウクライナから退却する際に再び大量殺戮を行っている)。しかし、その後の独ソ戦ではウクライナも激戦地となり(ナチス・ドイツもまた、ウクライナ人にとっては過酷な占領者であった)、500万以上の死者を出した。


第二次世界大戦の直後

ソ連は、1946年から1948年におけるソ連国内の大規模な飢饉 (Famines in Russia and USSR) でおよそ100万〜150万人が犠牲となった経済政策と資格授与制度、ならびに繁殖力の低下による第2の人口減少を経験した[89]


現代への影響

2006年11月28日、ウクライナの議会は「ソビエト時代の強制的な飢饉はウクライナ人に対する大量虐殺である」という議案を通しており[90]、同国の大統領ヴィクトル・ユシチェンコ(当時)はホロドモールを非難している。これに対してロシア政府は「当時のソ連指導部の主要な敵は民族ではなく、富農などの階級が相手だった」「飢餓によりロシア人にも一定の死者が出ている」とし、ウクライナによる親西欧・反ロシア的な政治キャンペーンであると反発している[91][92]



工業化


ロシア内戦と戦時共産主義は、ロシア経済に壊滅的な影響を与えた。1922年の工業化による生産高は、1914年の13%であった。経済の回復は、社会主義の枠内においてある程度の市場の柔軟性を許した新経済政策「ネップ」の下でもたらされた。スターリンの指導の下、この政策は1920年代後半に「五カ年計画」に差し替えるよう命ぜられた。これらは国の指導による急激な工業化という非常に野心的な事業と農業集団化を要求した。貿易をほとんど行わなかった共産党員と、近代的でない経済基盤に対する国際的な反応のため、スターリンの政府は、資本を工業に、富農から財産を冷酷に搾り取ることで再投資に費やしたものを確保するため、一般のソビエト国民の消費を抑制することで両方とも工業化に出資した。


1933年の労働者の実収は、1926年の頃のおよそ10分の1にまで落ち込んだ。強制収容所内の囚人と政治犯は、無報酬での労働を強制された。共産党員とコムソモールのメンバーらは、さまざまな建設事業のためにしばしば「動員」された。彼ら労働者への指導と、製造工程改善のため、ソ連は海外の専門家(イギリスのエンジニア、スティーブン・アダムズやアメリカのアルバート・カーンなど)を利用した。初期の破綻と失敗にもかかわらず、最初の2つの五カ年計画は、非常に低い経済基盤から迅速な工業化を成し遂げた。通常、ソ連がスターリンの指導の下で経済成長を遂げたことに同意される間に、正確な成長率については論争がある。しかしながら、これらの成長が、数百万人もの人間の死の上で成し遂げられたということについては議論の余地はない。


ソ連の公式の目算は、年間成長率を13.9%と述べていた。ロシア人と西欧人は、5.8%、さらには2.9%という低い数字を示した。実際に、ある予測では、ソ連の経済成長率はスターリンの死後に一時的に非常に高くなっていた[93]。ロバート・ルイスによれば、前もって遡ると、ソ連経済を近代化するのに五カ年計画は大幅に役立ったという。


新製品が開発され、既存の生産の規模と効率は著しく増加した。一部の革新は、土着の技術開発や、導入された海外の技術に基づくものであった[94]



社会事業


ソ連政府の下、国民は社会的な自由化による利益と恩恵を受けた。少女は十分かつ平等な教育を施され、女性は就職においても平等な権利を得て[27]、自分と家族の生活を改善させた。スターリン時代の発展は、寿命と、典型的なソビエト国民の生活の質を上げたことで、健康管理の進歩に寄与した[27]。スターリンの方針は、健康管理と教育をソビエト国民なら誰でも関われるようにし、チフス、コレラ、マラリアへの感染の恐れが事実上無い第一世代を作り上げた[95]。これらの病気の発生は最低を記録し、寿命は10年単位で伸びた[95]。スターリン治下のソビエトの女性たちは、出産前の胎児の検診では病院の安全装置の下で出産可能な最初の世代であった[95]


教育は、経済発展後の生活水準の向上の例でもあった。スターリン治下に生まれた世代は、ほぼ例外なく読み書きができる世代であった。1930年代には、数百万の人間が、大規模な識字能力運動、そして労働者訓練制度による恩恵を受けた[96]。技師たちは、産業技術を学ぶため、海外に送られ、外国の技師数百人が契約によってロシアに連れてこられた[95]。輸送関連が改良され、新しい鉄道が多く造られた。彼らの割り当てがスタハノフ運動参加者のそれを超えた労働者は、その奨励金を受け取った[96]。彼らは、急速に拡大するソビエトの経済によって大量生産された商品を買う余裕があった。工業化による需要の増加と、第二次世界大戦による労働人口の減少に起因した抑制は、生存者、とくに女性専用の求人広告の大幅な拡大を引き起こした[96]



第二次世界大戦



前夜




リッベントロップ(右)と握手するスターリン(1939年8月23日)


第二次世界大戦開戦直前の1939年8月19日、スターリンは演説でドイツとの間に結ばれた独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)に基づく政策転換を表明した。これ以降、ソ連はイデオロギーの相違を超えて、反共産主義を掲げていたナチス党率いるドイツとの協力関係を結んでゆく。その手始めが同年9月17日のポーランド侵攻であった。ソ連とドイツは協定の秘密議定書に基づき、ポーランドを東西分割し、これを併合したのである。ドイツの侵攻で瀬死状態にあったポーランドは、これによってとどめを刺された。ソビエトの支配するポーランド東側の領土では、ドイツが支配するポーランド西側に勝るとも劣らない圧制が行われた。


ポーランド・ソビエト戦争の折に自身の面子を潰され、雪辱の機会を狙っていたスターリンはポーランド軍捕虜2万5千人を処分するよう命令した。これがカティンの森事件である。後にドイツ軍により捕虜の遺体が発見されるもスターリンは一貫してこの事件をドイツ軍の捏造であると主張した。



またバルト三国への赤軍進駐を実施し、翌1940年6月にはこれらの国々の首脳を半ば恫喝する形で調停に署名させ併合した。バルト諸国ではソ連の併合に対する反発が全土に波及した。しかし、赤軍やNKVDは進駐初日の24時間以内に反ソ的な思想を持つ住民への大規模な粛清を実施し、13万人が逮捕され貨物列車により強制収容所に輸送された。その中には、後にイスラエル第7代首相となるメナヘム・ベギンも含まれている。バルト諸国には代わりにロシア人が多数入植し、現在でも禍根を残すことになる「ロシア化」が始まる。



スターリンはドイツと米英仏が戦争で疲弊した後ドイツを滅ぼせば一気にヨーロッパを共産化できるものと考え、ドイツにヴェルサイユ条約が禁止する航空機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用やイギリス空爆のためのレーダー技術の提供などを行い、さらにソ連に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーの侵攻を擁護した。


不可侵条約締結後のカクテルパーティーでドイツの外務大臣のリッベントロップに対し「名誉にかけてソ連はパートナーを騙すようなことはしない」と誓ったスターリンだが、ドイツとの蜜月が長くは続かないとも考えていた[97]。上記のバルト諸国やポーランド東部占領で領土を広め首都モスクワと距離を広げ、ドイツと接する国境付近の兵力は増強され続けた。また、防衛上の観点からフィンランドにカナリア湾の譲歩を要求したが、これにはフィンランド側が反発し冬戦争が勃発。フィンランド軍の力を見誤っていた赤軍は手痛い敗北を喫した。



一方でスターリンは西部戦線におけるドイツの快進撃を見て恐怖し、1940年11月にモロトフをベルリンに派遣した。ヒトラーはイギリス侵攻作戦を準備中だと説明し、スターリン達を安心させた[98]。実際には、イギリス上陸作戦は既に中止されていた。さらに、スターリンは日独伊三国同盟にソ連を交えた「日独伊ソ四国同盟」をモロトフを通じてフリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シュレンブルク(ドイツ語版)駐ソ大使に提示した[99]。その中には、北サハリンにおける日本権益の放棄という条件が入っていた。しかしソ連侵攻を考えていたヒトラーはスターリンの提案を無視した。スターリンは、ドイツ軍のソ連国境集結を四国同盟締結時の交渉材料だと見ていたし[100]、ソ連侵攻はドイツ軍参謀本部の主張であり、ヒトラーはドイツ軍将軍達を押さえ込んでいるのだと判断した[101]。その後、次第に独ソ間の対立が深まったことから1941年5月、スターリンは人民委員会議議長(首相)を兼任し、党と政府の統一的な指導の下、一刻も早い防衛体制の確立を目指した。6月19日、スターリンは『タス通信』を通じ、「ドイツに条約破棄とソ連攻撃開始の意図ありとする噂は、まったく根拠なきものと考える」との声明を発表した[101]。ドイツ大使館職員の家族がモスクワを去り、ドイツ汽船がソ連の港を去っても、スターリンは四国同盟締結の希望を捨てていなかった[102]。6月21日、ベルリンのソ連大使はモスクワから「至急リッベントロップに会ってドイツの不満原因を聞け」との電報を受取った[103]



独ソ戦





ソ連邦元帥に昇格したスターリン



しかし1941年6月22日、ヒトラーの命を受けたドイツ軍は協定を破棄してソ連に侵入した(バルバロッサ作戦)。スターリンは各大使館や諜報網(ゾルゲを含む)が掴んだ情報を事前に入手していたが、ソ連は戦争に耐えうる状況ではなく、誤情報であると頑なに信じようとしていた[104]。そのため、ソ連はドイツ軍の侵入に対する準備が全くできていなかった。スターリンは開戦のニュースを、側近達と執務室で聞いた[105]。スターリンは攻撃開始後も事実を認めることに気が進まないように思われ、やっと反撃命令に署名すると、開戦演説をモロトフに任せて執務室を去った。そしてクンチェボの別荘に1週間引きこもった[105]。これは、対独戦に対する自軍の備えが十分できておらずドイツ軍の侵攻はまだ先に延びるであろうという甘美な期待と共に、「同盟者であるヒトラーが密約を破り対ソ戦を仕掛けてくる筈がない」というスターリン自身のヒトラーへの過度な期待があったとされる。さらにソ連は「日独伊ソ四国同盟」が締結直前だと信じており、スターリン以下首脳陣のほとんどがドイツから戦争をしかけてくるとは思っていなかった[103]


ドイツ軍は開戦初期にソ連領内に大きく進出し、何百万ものソ連兵を殺害もしくは捕虜にした。スターリン自身が行った赤軍将校の大量粛清はソ連の防衛力を著しく衰弱させていた。その結果スターリンは彼の30年間の統治下で2度国内への演説を行った。最初は1941年7月2日、2度目は11月6日である。2度目の演説で彼は35万の兵士がドイツの攻撃によって戦死したが、ドイツ軍は450万人の兵士を失い(この数字に根拠はなく、不合理な過剰評価であった)ソ連の勝利は目前だと話した。スターリンは戦時体制であると強調し、「対独協力者」や「反体制分子」への摘発には平時よりも厳格な態度で臨んだ。バルト諸国やウクライナ、ポーランドはドイツ軍により初期に「解放」させられたが、ドイツ軍は其処で強制収容所の跡地からおびただしい数の遺体を発見した。それは、平時に拘束・収容されていた政治犯をNKVDがドイツ軍の侵攻が迫った地域から順に、銃器等で処刑し撤退した証しだと考えられている[106]


日本に潜伏していたソ連のスパイであるリヒャルト・ゾルゲによる諜報活動、東方に配備していたシベリア軍の対独戦線への投入、ヒトラーの度重なる目標変更、米英による援助物資の到着、そして氷点下50度に達した冬将軍の到来もあってモスクワ前面でドイツ軍の侵攻を停止させ、1942年12月のスターリングラード攻防戦においてドイツ第6軍を包囲し、降伏させた。


しかしスターリンの戦略家としての欠点が、緒戦におけるソ連の壊滅的な敗北と多くの市民の死に繋がったとされる。彼はヴォルガ川の東へソ連の工業生産を移動させることによって赤軍の戦争遂行能力を保持したとされる。1942年7月27日のスターリンによる有名な死守命令「ソ連国防人民委員令第227号」は、彼が軍隊の規律を保持するために発揮した無情さを例証している。同指令によると、命令なしで自らの位置を離れた者は銃撃され、敵に降伏した兵士の家族はNKVDによって逮捕され、前線では兵士を後退させないため後ろに督戦隊の機関銃が設置された[107]


スターリングラード防衛戦ではこの命令により1万4千人余りの兵士が自軍によって銃殺されたとされている。真実であるとすれば、実に一個師団分の兵士が丸々味方によって殺されたことを意味する。また、当時市内には約60万人の市民が住んでいたがスターリンは「兵士の士気を上げる」という名目で市民の疎開を禁じたため、ドイツ軍の空襲により最初の一週間だけで4万人の市民が死亡したと言われる。スターリンは戦闘終結後の1943年に廃墟と化したスターリングラードを視察するが、その中で最初に復興させたのは内務人民委員部の建物であった。


戦争初期には、退却する赤軍がドイツ軍に利用されないためにと、インフラと食糧供給施設を破壊する焦土作戦を行った。後にドイツ軍も撤退時に同様の戦術を行い、かつ赤軍の兵力増強を避けるために住民をともに撤退させた。このために両軍が撤退した後には荒廃した土地のみが残る結果となった。


スターリンは、ドイツ軍と直面したほかのヨーロッパの軍隊が完全に能力を失ったことに気付いていた。スターリングラードの戦い以降、ドイツ軍は守勢に立たされ東欧諸国は赤軍により解放された。1944年8月、赤軍の進行が近付いたポーランドのワルシャワではドイツ軍の支配に不満を持つ民衆がレジスタンスを結成していたが、赤軍は蜂起の好機と宣伝し、ワルシャワ市民に武装闘争を指令した。呼びかけに応じた市民は一斉にドイツ軍に立ち上がった。ところが直後に、赤軍はワルシャワ市の目前にして進撃を停止してしまう。公式には「補給の遅れ」が原因であるとされている。しかし、反ソ感情が根強いポーランドの共産党を潰し、親ソ的な共産党政権を樹立したいスターリンの陰謀であったという説も根強く、未だ真相は不明である。ソ連の支援を得られなかったレジスタンス側はドイツ軍の反撃により壊滅し、多数の犠牲者を出す結果となった。赤軍は1945年に入った1月12日、ようやく進撃を再開。1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領した。その後、赤軍はレジスタンス幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取った。





ベルリンのウンター・デン・リンデンに掲示されたスターリンの肖像。1945年7月3日


ジューコフは回顧録の中で、総司令官としてのスターリンを次のように描写している。


「私は上司としてのスターリンを徹底的に観察した。すべての重要な決定にはスターリンの決裁が必要であった。スターリンはいつも完全で明確な報告を要求し、不完全や憶測に基づく報告は許さなかった。そして、判断することは自分自身で行った。書類の間違いを見つけることには特殊な才能があり、不備を見つけると容赦しなかった。そのため、我々はスターリンに提出する書類はこれ以上ないというくらい綿密に準備した・・」そして「スターリンは、われわれのような専門家の意見を率直に聞く耳を持っていた。彼のこうした長所を認めないのは誤りだ」と結論している。このジューコフの回顧録が出版されたのはすでにブレジネフ時代で、スターリンを称揚することは時流に逆らう行為であった。


スターリンは独ソ戦勃発により、「敵の敵は味方」の理屈で米英と共に手を組み、連合国共同宣言に署名した。ソ連の戦争貢献の大きいことによりテヘラン会談に出席し、スターリンのソ連は米英ソ中で構成される「四人の警察官構想」の一員になったが、アメリカと近い関係にある蒋介石率いる中華民国の参加に対して否定的であった。


大戦の末期、1945年になるとスターリンはヤルタ会談に出席、同年ポツダム会談にも出席し、アメリカ、イギリスと戦後の処理について話し合った。



対日参戦


戦前より日ソ中立条約を結んでいたが、スターリンは極東への野望を捨てていなかった。1943年10月30日夕刻、第3回モスクワ会談に参加したコーデル・ハル国務長官に対し、スターリンはドイツ戦終了と同時に対日参戦することをソ連の意思として伝えた[108]。1945年8月、アメリカが日本の広島に原爆を投下した直後に、スターリンは、ヤルタ会談での他の連合国との密約(ヤルタ協約)を基に日ソ中立条約を一方的に破棄し、攻撃開始の直前に駐ソ日本大使に対して形だけの対日宣戦布告をし、日本および満州国に対して参戦した(8月の嵐作戦)。


その後英米ソなどの連合国に対して1国で戦っていた日本政府はポツダム宣言の受諾の意思を提示し、8月15日正午の昭和天皇による玉音放送(終戦の詔勅)をもってポツダム宣言の受諾を表明し、日本軍の全ての戦闘行為は停止された。



領土の略奪


しかし、日本の領土を少しでも多く略奪することを画策していたスターリンはその後も停戦を無視し、日本の同盟国の満州国と蒙古聯合自治政府への攻撃のみならず、南樺太と千島への攻撃を継続させたことにより、その後の北方領土問題を引き起こす原因を作ることになった。スターリン自身は問題を感じておらず、別荘の居間に新しい世界地図を貼り、新国境線をパイプでなぞりながら「クリル諸島、サハリン全土、旅順、大連、全てわれわれの所有物だ。何とすばらしい!」と悦に浸っていた[109]。また、スターリンは南樺太や千島列島に加えて、北海道北部(留萌市 - 釧路市を結ぶ線から北東側全域。留萌市・釧路市については分割せずソ連が占領)をも併合しようとする案をトルーマンに申し入れていた(これに対し、トルーマンはこの提案を拒否した)。


さらに日本軍の捕虜や民間人をシベリアに抑留し強制労働に就かせたほか、日本企業の生産設備などをソ連国内に違法に運び去った。その上に英米軍を中心とした連合国軍最高司令官総司令部に対し、北海道全体と東北一帯の分割占領を提案したものの、これは即座に英米から拒否された。


このような国際法さえ無視した蛮行により、ソ連は第二次世界大戦によって領土が大幅に拡大した。しかし、スターリンの領土に対する欲は収まらず、コーカサス地方の国境線に対して気に入らず、イラン進駐によって赤軍とイギリス軍が占領していたペルシア回廊でイギリス軍は撤収したのに対し、赤軍はイラン北西部からの撤兵を拒んで、1945年頃にイラン領アゼルバイジャンにアゼルバイジャン自治共和国とクルド共和国という親ソビエト傀儡国家設立の反乱を支援し併合しようとした(しかし、1946年5月、両国とソビエト連邦で石油採掘契約が締結され後にソビエト連邦軍(同年2月に赤軍から改称)が撤兵すると両共和国はすぐに倒され、石油採掘権は取り消された)。また、スターリンは死ぬまで、かつてのロシア帝国がトルコに割譲した領土の返還とかつて存在したアルメニア第一共和国の領土の併合をトルコに執拗に要求していた。


ソ連は、第二次世界大戦における民間および軍事的損害の矢面に立った。2100万から2800万の国民が死に、その多くは若い男性だった。そのため1921年、1922年に生まれた若い男性の生き残りは、戦争が終わった時点で5%以下で、全員に勲章が与えられた。現在ロシア、ベラルーシおよび旧ソ連の国々では、5月9日は大祖国戦争の戦勝記念日として人々の間で非常に鮮明に記憶され、ロシアはじめ旧ソ連圏における最も大きな祝日のうちの一つである。




冷戦




第二次世界大戦後共産主義化によるソ連の衛星国となった東欧諸国。図の赤い部分が該当する




スターリンの生誕70年を祝う式典にて、毛沢東、ブルガーニン、ツェデンバル(モンゴル)、ウルブリヒト(東ドイツ)と共に


「共産主義ブロック」の動きは、東欧諸国が西側に友好的であり共産勢力に対する緩衝地域を形成するだろうという西側諸国の希望と正反対となり、ソ連の共産勢力拡大に対する恐れで西側の結束を強固にした。ソ連と第二次大戦における同盟国だった西側との関係は急速に悪化し、冷戦による東西対立が引き起こされた。



ヨーロッパ


第二次世界大戦後、赤軍は枢軸国の領域の多くを占領した。ドイツ、オーストリア国内にはソ連の占領地帯があった。また、チェコスロバキアとポーランドは後者が形式的に連合国だったという事実にもかかわらず両国とも実質的にソ連占領下にあった。親ソ連政権がルーマニア、ブルガリア、ハンガリーにおいて樹立し、ユーゴスラビアとアルバニアでは独自の共産政権が権力を掌握した。


フィンランドは独立を保持したが、ソ連に経済的に依存することとなった(フィンランド化)。ギリシャ、イタリアおよびフランスは、モスクワと緊密に連携した共産党の強い影響下にあった。スターリンは、ヨーロッパのアメリカ軍の撤退がヨーロッパ大陸におけるソ連の覇権に結び付くと考えた。しかしながらギリシャ内戦中の反共勢力へのアメリカの支援は、状況を変えた。東ドイツは1949年に独立した国家と宣言された。さらにスターリンは、中央ヨーロッパの衛星国を直接コントロールする決定を下した。全ての国々は、ソ連の形式を踏襲した各国共産党によって統治されることとなった。


これらの決定は1948年にポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアおよびブルガリアの共産政権の路線変更に導かれた。これらはのちに「共産主義ブロック」と呼ばれた。共産主義のアルバニアは同盟国のままだった。しかし、ヨシップ・ブロズ・チトー指導下のユーゴスラビアはコミンフォルムの追放を以てソ連との国交を断絶した。



アジア


第二次世界大戦後、赤軍はアジアで満州国・蒙古聯合自治政府の領域や朝鮮半島北部、日本の北方領土を占領した。


中華民国とは、ソ連とモンゴルが占領地域の満州で中国共産党に便宜を図っていた東北問題やかねてからスターリンが関与[110]してた新疆の問題があり、1945年に中ソ友好同盟条約を結んでこれらの内政干渉を表向き取り下げた。しかし、1947年にはソ連が支援するモンゴルが中華民国と武力衝突した北塔山事件が起きるなど依然対立は続いていた。国共内戦においては蒋介石率いる中国国民党と、毛沢東率いる中国共産党の両者に当初は中立的だったが、蒋介石と緊密だったルーズベルトの死後トルーマン政権が蒋介石への軍事援助を事実上打ち切ったために、赤化の好機と見るや中国国民党との関係を解消して中国共産党への支援を強化し、その結果、第二次世界大戦の終結に伴う日本軍の撤退後になされた第二次国共内戦において、中国共産党が勝利を収め蒋介石と中華民国政府は台湾島へ撤退することとなった。1949年に中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国が成立したことにより、スターリンは同国と中ソ友好同盟相互援助条約を結んで東側陣営に置き、毛沢東も「向ソ一辺倒」としてソ連に従った国家建設を掲げ、スターリン死後の中ソ対立まで技術交流などを積極的に行った。


さらに日本が統治していたが、第二次世界大戦終結後に軍民ともに撤退し連合国軍が分割占領していた朝鮮半島については連合軍軍政期の当初はモスクワ三国外相会議で合意したアメリカ・ソ連・イギリス・中国の4か国による信託統治を目指すも、米ソ共同委員会の決裂で連合国管理下の国政選挙を待たず、北部に朝鮮民主主義人民共和国を樹立し、自身の傀儡となりうる金日成を指導者に据え、38度線を境にアメリカやアメリカの指導下で成立した大韓民国と対峙させ、ソ連軍を朝鮮半島から撤退させた(軍事顧問団を除く)。朝鮮戦争の前にスターリンは金日成に中国の毛沢東の賛同を得ることを条件に韓国侵攻への許可を与えた。ソ連軍の高麗人将兵と中国人民解放軍の朝鮮族将兵が編入されて韓国軍に対して量的アドバンテージを得た金日成の朝鮮人民軍は一時は朝鮮半島のほぼ全土を手中にしたが、その後アメリカ軍を中心とする国連軍の反攻により、逆に中国国境近くまで追い詰められた北朝鮮はスターリンにソ連軍の参戦を要請した。しかし、スターリンは前年にソ連初の核実験を成功させたばかりで核戦争にも発展しかねないアメリカとの正面衝突を避けるために拒否し、中ソ友好同盟相互援助条約に基づいて中国を介してMiG-15など近代的な武器を与え、ソ連のパイロットも中国軍に偽装して代理戦争を徹底した。スターリンの意向を受けて毛沢東は参戦を決定するも、中国の領土にまで影響が及ぶ米中全面衝突を避けるために人民解放軍ではなくて義勇兵という名目で中国人民志願軍を派遣して北朝鮮を直接支援することになった。





死去


1953年3月1日、ラヴレンチー・ベリヤ、ゲオルギー・マレンコフ、ニコライ・ブルガーニン、ニキータ・フルシチョフとの徹夜の夕食の後、スターリンは寝室で脳卒中の発作で倒れた。暗殺を恐れていたスターリンは、同じ形の寝室を複数作り、どの部屋を使うかを就寝直前に決めていた。寝室は鋼鉄の箱のような構造になっており、扉は内側から施錠すると、外から開けるには警備責任者が持つただ1本の鍵を用いるしかなかった。翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンの指示がないことに警備責任者は不審を覚えたが、眠りを妨げられたスターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もしなかった。このために発見が遅れ、容態を重篤にしたと言われている。


発作は右半身を麻痺させ、昏睡状態が続いた。一時は意識を回復するも、重い障害のために意思の疎通ができなかった。4日後の1953年3月5日、スターリンは危篤に陥り死亡した。74歳没。



死後




アメリカ大使館から撮影されたスターリンの葬列


その死因は脳内出血として公式発表された。遺体は1961年10月31日までレーニン廟で保存されていたが、フルシチョフによるスターリン批判の煽りを受け撤去、燃やされた後クレムリンの壁に埋葬された。


スターリンの死去はソ連を初めとする社会主義陣営各国に大きな衝撃を与えたが、体制を異にする日本の経済にも影響を与えた。スターリンの重篤が日本で報じられた3月5日、日経平均株価は、前日比37円80銭安の344円41銭と10%もの下落を記録し、「スターリン暴落」と呼ばれた。これは、スターリンが没することによりソ連が政策転換を図り平和が訪れるのではと予想されたため、軍需株を中心に大暴落したのである[111]。朝鮮戦争の終結が早まり、当時日本経済の急速な復興を支えた朝鮮特需が終結することが懸念されたことが原因であった。


スターリンの死にあたり、築地本願寺にてスターリン国民追悼集会が行われ、本願寺側の熱心な申し出により、荘厳な法要が行われた。また、1954年にはスターリンの死去1周年を記念した詩集『スターリン讃歌』が刊行された。



暗殺説




スターリンの死を報じる新聞記事


スターリンの死に関して、彼が謀殺されたという確実な証拠は存在しないが、謀殺説は根強く存在している。1993年に公表された、元外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフの政治回顧録によると、秘密警察長官でスターリンの右腕だったベリヤが、彼を毒殺したことをモロトフに自慢したとの記述があり暗殺説を匂わせている。


2003年、ロシアとアメリカの歴史研究家の共同グループが、スターリンはワルファリンを使用されたとの見解を発表した(ただし計画的な暗殺か偶発的な暗殺かについては触れられていない。また、ワルファリンについては脳梗塞系の脳卒中と診断された場合は治療に使用されることもある)。スターリンの娘であるスヴェトラーナ・アリルーエワは、スターリンが脳卒中で倒れたときにフルシチョフらがいたにもかかわらず、医者を呼ばずに放置したことが死に繋がったとの見殺し説を指摘している。なお、フルシチョフの回想録では、スヴェトラーナの証言とは正反対の内容の記述がなされている。


2006年には、ロシアの週刊誌にて、ロシア公文書館で暗殺説を裏付ける有力な証拠が発見されたと報じられた。その文書記録によると、内容は、倒れたスターリンに対する治療が毒物接種時に施されるもので、当初言われていた症状での治療法では絶対にあり得ない治療法を施していたことなどが記されていた。


また、スターリンが医師団陰謀事件(英語版)を利用しモロトフ、ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフら首脳陣を粛清する計画を練っていて、それを阻止するために上記の部下たちがベリヤを使ってスターリンを殺害し、その後ベリヤは、口封じのために殺されたという説がある。実際に粛清する計画があったかどうかはともかく、スターリンは部下を使い捨てにすることで有名だったため首脳部の面々が常に戦々恐々としていたのは確かであろう。


スターリンの謀殺説には計画的な暗殺説以外にも、脳卒中で倒れ昏睡状態の間に死を確実にするために毒を投与したとする偶発的な暗殺説、発作で倒れたのを意図的に放置し死に追いやった見殺し説など諸説あるが、いずれにしても殆どの当事者がすでに死亡しているため確たる真相は不明であり、一部の研究者やメディアでは根強く支持されているものの、ロシアでの公式見解は一貫して脳卒中による病死説である。



復権への動き




スターリンの銅像




ジョージアのゴリにあるスターリンの記念碑


1964年のフルシチョフ失脚後、スターリンに対する名誉回復の動きが始まった。またこれが止んだ後、ソ連崩壊後にも同じような動きがみられた。



ソ連時代


レオニード・ブレジネフは、1969年に「スターリン生誕90周年」を記念した大規模な式典を企画した。モスクワに「スターリン博物館」を建設することが検討され、マルクス・レーニン主義研究所には記念集会を開催するよう通達があった。さらに、スターリンについての論説が『プラウダ』を初め諸外国の共産党機関紙に掲載されることになっていた。


これらの計画を知ったポーランドとハンガリーの共産党が激しく抗議した結果、党政治局は式典の2日前の12月19日、大部分の式典を中止することを決定した。この時、スターリンの胸像製作は中止され、印刷されていた肖像画はことごとく廃棄された。また党中央委員会は、あらゆる新聞に対してスターリンに関する一切の論説を掲載しないよう指示を出し[112]、『プラウダ』にはスターリンの過失と個人崇拝に関する小さな記事が掲載されるにとどまった[112]


これは「生誕100周年」においても踏襲され、スターリンは「肯定面・否定面を合わせ持つ、非常に複雑で矛盾に満ちた指導者」として扱われた。モスクワにおける1979年12月21日(公式の誕生日)の行事は控えめに行われ、コムソモールの代表がスターリンの墓に花輪を捧げるなどしている[112]。一方、スターリンの故郷であるジョージアのゴリ市では数千人が通りをパレードし、各所で音楽演奏が行われるなど、誕生日を盛大に祝っている[112][113]



ソ連崩壊後


ソ連崩壊後のロシアでは、スターリンの再評価が進んでいる。これはロシア連邦共産党のみならず、現政権与党の統一ロシアや極右のロシア自由民主党などの各派にもその傾向がみられる[114]。デモにおいてスターリンの肖像画があることは決して珍しいものではなくなった。ソ連が崩壊したことで富を得たのはごく少数の者だけであり、多くの市民はソ連時代以下の経済水準と社会保障、ソ連時代に比べて悪化した治安事情の中で生きている。そのような現在の状況に対する絶望感が、良くも悪くも強い指導力を持ったソ連の中興の祖である「鋼鉄の人」スターリンの再評価に繋がっているという。最近行われた世論調査の一つによれば、今日スターリンが生きていたら彼に投票すると答えた人は、35%を越えたという[115]。2017年のロシアのレバダ・センターの世論調査でもウラジミール・プーチンやアレクサンドル・プーシキンを凌いで「ロシア史上最も偉大な人物」に選ばれている[116]。また、クラスノヤルスクでは観光客などを誘致すると言う理由があるにせよ、一度は破壊されたスターリンの記念碑を再建することを決定した[117]。この記念碑は、フルシチョフのスターリン批判を受けて1961年に一度閉鎖されている。中央に据え付けられたスターリンの銅像も、1980年代後半にグラスノスチのためか町の近くを流れる川の中に放り込まれている。


これは地方に限ったことではなく、2005年にはモスクワでもスターリンの銅像が新たに建設されている[118]。2009年にはモスクワの地下鉄クルスカヤ駅構内の装飾の柱にスターリンを讃える1944年版ソ連国歌の一節が刻まれた。2011年7月20日には、スターリンの胸像がロシア中部ペンザのロシア連邦共産党支部の建物の敷地内に建てられた[119]


2008年には、ロシアの新しい学習指導要綱「ロシアの歴史1900-1945」で、スターリンの恐怖政治を「誰が寝返って襲撃してくるかも分からない状況下ではやむを得なかった」とし、彼と対立するグループや彼の思想に反する運動を悉く弾圧していったと記している。要綱では「スターリンの行動は歴史的難局に直面してのものであることを示すことが重要である」とし、彼の行動は「工業立国建設に向けた一貫した意志に基づき、体制を守るために全くもって合理的なものであった」と強調している。この要綱は大手教科書出版社「Prosveshenije」が作成したものだが、同社は ソ連時代には教科書作成を独占していた政府公認の会社であった[120]


スターリンの故郷であるジョージアのゴリ市のスターリン博物館は今なお健在[121]である。博物館ではスターリンが死ぬまで愛用したパイプやコートなど日用品や手紙や写真を展示し、ソ連を超大国に押し上げた指導者の足跡をたどる展示品がある[122]。ただし未曾有の犠牲を出した大粛清に関する展示は皆無である。スターリンは現在でも「強い指導者」として肯定的に捉えられ、銅像や肖像画が掲げられているなど英雄視されている。ゴリ市の中心街には旧ソ連邦諸国で唯一スターリン像が残存していたが、2010年6月25日未明に撤去された。取材に駆けつけたマスコミは警官に暴行されるなどして排除され、人目につかないよう隠密に行われた。2008年のグルジア紛争での犠牲者の追悼記念碑を代わりに設置するとしている[123]。2003年に発生したバラ革命ではミハイル・サアカシュヴィリがエドゥアルド・シェワルナゼ政権に対するデモ行進をこの像の前から行うなど、現在でもグルジア人の愛国主義・ナショナリズムの象徴でもあった[124][125]


2013年1月末、ヴォルゴグラード市議会が年間6日のみ、旧名「スターリングラード」の名称を復活させることを決定した。退役軍人などからの要請によるものである。ただ、こうした一連のスターリン復権の動きに関しては、「戦死者への侮辱」(ウラジーミル・ルキンロシア連邦人権委員会代表)と批判する声もある[126]



人間性



性格




スターリンが冬季に着用していた軍服のコートとブーツ、制帽


スターリンは、帝政時代において少数民族であり一般のロシア人より格下と認識されていたグルジア人である。貧困層出身で身長が低く、加えて自身がグルジア人であるというコンプレックスは相当に強く、劣等感の強い人物であった。人一倍コンプレックスを強く感じる故、スターリンは異常なまでの権力欲、顕示欲の塊であり、その目的を達するためには全く手段を選ばなかった。裏切り者を絶対に許さない不寛容さと、人間を殺すことをなんとも思わない冷酷な性格の持ち主であった。アブバジアの「冷たい地」という地域の別荘で寝ていた深夜に犬の遠吠えで目が覚めたスターリンは、「私を眠らせないのはだれの犬だ?」と護衛に尋ねた。近所の犬であることを聞かされ、「犬を見つけて撃ってしまえ」と命令した。翌朝目が覚めたスターリンが、犬は死んだのかどうかを護衛に聞くと、「あの犬は盲導犬であり、追い払いました」と答えた。するとスターリンは「ではその犬を連れてこい」とわめき、連れてこられた盲導犬を自らの手で射殺した。そして「今度命令に背いたら、お前もこうなる」と告げた[127]。ほかには、粛清した政敵の写真を見て悦に入りながら、故郷のグルジアワインを愛飲していたという[35]


一方で特異なユーモアのセンスを持っていた。政治管理局局長メフリスが、愛人をたくさん抱えている元帥のことを報告すると、スターリンはしばらく沈黙した。メフリスが言わなければよかったと後悔すると、スターリンは子供のように笑いを浮かべて「なんともうらやましい限りだ」と言った[127]。別の元帥に対しては、「君はなぜ1937年に逮捕されなかったのか?」と何度もいじめた。元帥の妻は夫がシベリア送りになることを覚悟する。やがて戦争が終わると、元帥達を前にして「我々は苦難と勝利の喜びを共に味わったが、冗談を言う余裕もあった。そうだろう、元帥殿」と笑った[127]


1942年8月15日、第二回モスクワ会談でスターリンとチャーチルが会談した。スターリンは「神のご加護がありますように」と言い、チャーチルは「もちろん、神は我々の方についていますとも」と頷いた。するとスターリンは「当然ながら、悪魔は私の方についていますから。我々が力をあわせれば、共通の敵を打ち倒せるでしょう」と笑った[128]。チャーチルの演説を引用したのである。


軍隊の最高司令官となったスターリンは、さらに冷酷無比な存在として恐れられた。スターリンとの電話の際、将軍たちはたとえスターリンが目の前にいなくても誰もが直立不動、「気をつけ」の姿勢になったとされる。独ソ戦では、敵前逃亡兵は銃殺し、戦車で轢き殺し、あるいは懲罰大隊に入れ地雷原を歩かせる酷薄な命令を出している。さらに、逃亡兵の家族はシベリア送りにされた。帝政時代に兵士を自ら看護したロマノフ家皇女のオリガ、タチアナとは正反対で、自国の兵士を駒としか見ていなかった。


また、一度でも敵の捕虜になっていた兵士をスターリンは「スパイの可能性がある」として決して信用せず、帰還しても彼らは強制収容所へ送られた。晩年の猜疑心が強かった時期には、はるか以前の第一次世界大戦時に捕虜になった者を処刑するほど疑い深かった。独ソ戦中、ドイツ軍はロシア人の捕虜に対して過酷な待遇をしたが、スターリンは自国民の捕虜に対する赤十字の調査も拒否し続け、挙句の果てにはロシア人の捕虜が収容された収容所を爆撃させている。爆撃機からばら撒かれたビラには「祖国を裏切った者たちへ」と書いてあった。


身近な部下には配慮を示した。通訳のベレズホフが仕上げた電文を見て気に入らないと「君は何を聞いていたのだ!」と怒った。しかしただ突き放すのではなく、重要な部分を口述して修正させた[129]


スターリンの権力は絶大であり、他人に対して残忍に振る舞うことも平気であった。スターリンに対しては、誰一人として自分の意思を表明できない状態が生まれた。スターリンの下に友人として招かれた人間がスターリンと一緒に座っていると、そのあとにどこに連れて行かれるのか、すなわち自宅に帰れるのか、投獄されるのか、見当もつかない、ということがあったという。「人民の敵」と見なされた共産党のある幹部は、自分がいかなる陰謀にも犯罪にも加担したことはないが、取調官からひたすら拷問を受け続けた。その幹部は、党の正しさを信じつつ死んでゆくつもりだ、と言い残し、2日後に銃殺された。



人間不信


スターリンは元々人間不信だったのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちな人間不信が追加されることにより、猜疑心が極限までに加速する。特にスターリンは第一次五カ年計画とそれに次ぐ大粛清を行ったことによる死者とそれに伴う犠牲者の恨みを忘れることができず、この結果、パラノイアに冒され、自分は常に命を狙われていると思い込むようになった。日常生活では毒殺を極度に恐れたため、彼が口にする飲食物は全てNKVDの管理下にある専用の農場や養魚場で採取され、専門家により入念に検査された。フルシチョフは、スターリンが「どこでも、誰に対しても、あらゆる事柄に関しても、敵・スパイ・裏切者の姿を見出した」と述べている。晩年にはベリヤ、フルシチョフなど有力な部下達の忠誠心を疑い、彼らの部屋を全員秘密警察に盗聴させている。



家族


スターリンは、妻子などの近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えた。1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、長男のヤーコフをもうけるも、エカテリーナは25歳で病没した。


スターリンは息子のヤーコフに対し厳しく接したため、ヤーコフは拳銃自殺を試みたが失敗した。それを知ったスターリンは「やつは拳銃を真っ直ぐに撃つことすらできない」と言った。また、独ソ戦で長男のヤーコフがドイツ軍の捕虜になったとき、スターリングラード攻防戦での戦いで降伏したドイツの陸軍元帥フリードリヒ・パウルスと、ヤーコフの解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して、スターリンは「中尉と元帥を交換する馬鹿が何処にいるのかね」「ナチスに寝返った息子などいない」と返答して申し込みを拒絶し、「私の息子ヤーコフの命はあなたの手中にある。あなたが捕虜数百万人全員を解放するか、あるいは私の息子は彼らと運命をともにするだろう」と述べ、人質交換には一切応じなかった[130][131]。実質的に自分の父親に見捨てられる形となったヤーコフはこの事実を宣伝放送で聞いて衝撃を受け、ひどく落胆したと伝えられている。それから暫くして、ヤーコフは自身が収容されたザクセンハウゼン強制収容所内で死亡した。死因や経緯については不明瞭な部分が多く、鉄条網に向かって射殺されたとも[132]、収容所内の電気柵に突進して自ら命を絶ったとも伝えられている[133]。一説として、ヤーコフは収容所で他の捕虜と行進させられていたとき、突然看守の制止を振り切り鉄条網に突進し自身を「撃て!」と叫び、射殺されたという逸話が知られている。後に部下から息子の最期を聞いたスターリンは、塞ぎ込んだまま食事に手をつけなかったという。


2人目の妻であるナジェージダ・アリルーエワとの間には、次男のワシーリー・スターリンと娘のスヴェトラーナが生まれた。ナジェージダは1932年に亡くなり、公式には「虫垂炎による病死」と発表された。彼女はスターリンとの口論の後に遺書を残して拳銃自殺を遂げた。娘のスヴェトラーナによれば、その遺書は「一部は個人的、一部は政治的」なものだったという[134]。テレビ局のA&Eによると、一部のロシア人はスターリン自身が夕食の席で起こった口論の後にナジェージダを殺害したと信じている。歴史家は、最終的に彼女の死が「スターリンの現実との繋がりを断ち切った」と主張している[135]


次男のワシーリーも異母兄ヤーコフ同様にスターリンから冷遇されたが、要領の良さと周囲が気遣ったこともあって空軍中将まで昇進した。しかし、スターリン死後に失脚して身を持ち崩した。さらに、極度の酒好きがたたり、1962年にアルコール依存症で死んだ。娘のスヴェトラーナは可愛がられたこともあり、スターリンの自宅で行われたチャーチルとの私的な会談にも同席した[136]。だが彼女にしても、最初の恋人を「イギリスのスパイ」とみなされてシベリアに追放されている。のちにほかの男性とのあいだに子供をもうけた際には祝福の手紙を貰ったが、結局彼女はソ連を捨てて1967年にアメリカに亡命している。彼女は亡命先のアメリカで回顧録を出版し、その中で「父はいたるところに敵をみた。孤独感と絶望感からくる弾圧マニアだった」と述べている。


スターリンは3人目の妻としてラーザリ・カガノーヴィチの姉妹であるローザ・カガノーヴィチと結婚したと見られている[137]。シベリアに追放されていた時期にスターリンは不倫関係にあった女性との間に非嫡出子のコンスタンティン・クザコフをもうけたとされる。2001年3月、ロシアの民放テレビ局「NTV」は、ノヴォクズネツクに住む、それまで知られていなかったスターリンの孫ユーリー・ダヴィドフにインタビューを試みた。彼は、父親が自分たちの血統について話したと述べたが、スターリンへの個人崇拝に反する運動であるので黙っているとも話した。


スターリンはほかに愛人も作ったが、彼女らがスターリンの女性関係の派手さや残忍さを見かねて批判すると、彼女らはいつの間にか姿を消したり、不審な死を遂げたという。




レーニンとスターリン


レーニンは自身の晩年にスターリンと激しく対立している。とくにグルジア問題をめぐってスターリンの「大ロシア主義」を批判、スターリンの書記長職からの解任を提案するに至った。しかし、スターリンの独裁政治はレーニンの独裁政治と類似点が見られるという指摘がある。例えばレーニンは反革命派を「害虫」と呼んで弾圧し、さらに農民から食料を強制徴発し飢餓による殺戮、帝政派を根絶させるためにクラークやコサックへの大量虐殺を行ったが、スターリンはこの2つの特徴を引き継いだ。スターリンは大粛清では赤軍の将校を一掃し、さらにはウクライナにおけるホロドモールによって数多くの死者を出すなど、徹底した恐怖政治を敷いた。さらに秘密警察による罪状のでっち上げや強制収容所への収容も共通している。ゴルバチョフはスターリンだけでなくその元凶のレーニンも批判した。



臆病なる独裁者


権力の絶頂期の頃のスターリンは、部下に対して常に粛清をちらつかせながら接するようになった。スターリンの質問に「No」の返事を言うと、意見を言っても、曖昧な返事でも、返事を即答できなくとも、反乱を真剣に疑われ即粛清(死刑を含む)であった。


スターリンがいた神学校に、ドミトリー・ハフタシヴィリという教師がいた。生徒たちは座って、前の机の上に両手を置いたまま身動きをしてはならず、教師の目をまっすぐに見ていなければならなかった。誰かが体を動かして目をそらすと、すぐに定規で指を叩かれた。この教師は「目が動くのは、よくないことを考えている証拠だ」という言葉を繰り返した[138]。スターリンはこれを忠実に覚えており、スターリンとの会話の際、目を逸らした者は粛清の対象となった[139]。このため、共産党員や軍将校がスターリンと会話するときは必死に彼の目を見たという。しかし、逆に部下と話すときは恐怖に怯えた顔で会話をしていたという。会議中に停電が起こり、電気がつくと、スターリンの姿が見えず、探してみると机の下で小便を流しながらブルブル震えていたという臆病さを表す逸話[139]もあるなど、臆病な一面もあった。常に2人のボディーガードがつきそい、腹心モロトフとの会見にも同席した[140]。一方で執務室に入るためのボディーチェックは存在せず、入室手続きも行われなかった[141]。デスクにはブロンズ製のカップが置かれ、太い青エンピツと赤エンピツが入っていた。重要外交書類に青エンピツで署名すると、全行政機関が即座に行動を開始した[142]


この性向は晩年に近づくほど強まり、「自分の周りにいる人間は全て敵である」という妄想に悩まされていた。あまりの恐怖に人前に出ることはほとんどなくなり、部屋から出ることは稀になっていった(ちなみに被害妄想の典型的な症状である)。さらに、晩年には認知症も入り、スターリンの住居には厳重な警備が敷かれるようになった。軍隊が攻めてきても、2週間持つほどの重装備であったという。スターリンの部屋は複数に分かれており、どこに泊まるのか誰にも知らされず、スターリンしか持っていない鍵を、部屋に何重にも施していた。フルシチョフの回想によると、同志との会話で、スターリンの部屋へ行くとまた鍵が増えているのだろう、と話していた。無論、勝手に入ろうものならば容赦なく粛清された。ちなみに、スターリンが部屋に入ってからまずやることは、ランプを持って部屋を隅々まで検査することであった。


スターリンの元通訳は、信じていたヒトラーに裏切られた屈辱と恐怖から、元々強かった猜疑心が病的になったのではないかと述べている[140]



イヴァン4世への傾倒


スターリンは、帝政ロシア時代最大の暴君、イヴァン雷帝を信奉していた。スターリンはイヴァン雷帝の政策を高く評価し[143]、自らの師と崇めていたが[144]、その粛清した人数はイヴァン雷帝のそれを遥かに凌駕するものだった。また、セルゲイ・エイゼンシュテインに雷帝の生涯を描かせた映画の製作を命じた。スターリンは雷帝の英雄としての側面が強調された第1部を絶賛した[145]が、第2部における雷帝やオプリーチニキの描写には強い不満をいだき、イヴァン雷帝を演じた俳優ニコライ・チェルカーソフとエイゼンシュテインをクレムリンに呼びつけ、夜を徹して議論したという。一方で、スターリンはイヴァン雷帝の粛清の詰めの甘さを批判している[146][143]



ヒトラーへの共感


スターリンは宿敵であるヒトラーを高く評価し、親近感を抱いていたと言われている。イギリスの外務大臣(当時)アンソニー・イーデンと会談した時、スターリンはヒトラーを賞賛するような発言をした。しかしイーデンが唖然としているのに気が付いたスターリンは慌てて、「ヒトラーは欲望の限界を知らないが、自分は満足というものを知っている」と発言し、西ヨーロッパへの野心がないことを表明したという。1934年、ヒトラーがエルンスト・レームを抹殺した事を知ったスターリンは「ヒトラーとは実にたいした奴だ!政敵を片付けるには一番良い方法だ」とミコヤンに語った[147]


1940年11月12日、モロトフとウラジーミル・デカノゾフソ連大使、通訳2人がヒトラーの執務室を訪れた際、ヒトラーはモロトフと握手をかわし「スターリン閣下は歴史的人物であり、私もそうなるでしょう。是非閣下と会談したい」と述べた[148]。帰国したモロトフが伝えると、スターリンは有頂天になったという[147]


なお、ヒトラーもスターリンを自分に唯一匹敵する指導者として評価していた。独ソ戦中の1942年には「スターリンは我々の無条件の尊敬に値する。彼は彼なりに並々ならぬ人物であり、半ば野獣、半ば巨人である」と言明した[149]。また「ロシアをあの男にまかせるのも悪くない。もちろん我が国の管理下でだが。彼はロシア人を取り扱う方法を心得ているからな」と夕食会で述べた[105]。ベルリン陥落寸前の1945年にも、アルベルト・シュペーアの前でスターリンを賞賛していた。ヒトラーは頑固な反共主義者として知られるが、一方でボリシェヴィキの政策に影響を受け、一党独裁制、統制経済、秘密警察、強制収容所、宣伝手法をソ連を参考に創設したと言われる(ベニート・ムッソリーニのイタリアにはスターリン時代のソ連やナチスの様な大規模な収容所や秘密警察の組織は存在しなかった)。さらに、トゥハチェフスキーやエルンスト・レームのような政敵の排除のやり方を、ヒトラーとスターリンはともに参考・利用した説も存在する。


ヒトラーとスターリン、両者と握手をしたことがあるワレンチン・M.ベレズホフ(Valentin M. Berezhkov モロトフ、スターリン元通訳)によれば、2人の握手は「そっけなく、冷淡」である点でよく似ていたという[150]。ベレズホフによれば、スターリンは敗者ヒトラーに寛大であろうとし、わざとヒトラーの遺体は見つからなかったと宣伝した[151]。彼は一連のスターリンとヒトラーの交流を「残酷なロマンス」と評した。



反ユダヤ感情


スターリンは、少年時代からユダヤ人に対する嫌悪感を薄らながらも抱いていたが、ヒトラーのような強迫観念とは異なり、帝政時代のロシアではごくありふれた偏見の域を出ないものであった。「額に汗して働かぬ人々」というのが、長年スターリンが持っていたユダヤ人観であった。指導者になってからも、党・政府の役職にラーザリ・カガノーヴィチやマクシム・リトヴィノフなどユダヤ人などを重用し、反ユダヤ主義は犯罪であるとして糾弾する[152]
など、公式には自身の反ユダヤ感情に触れることを避けていた[153]が、私生活の場では、連日催されていた深夜の酒宴などにおいて、仲間たちとともにユダヤ人に対するエスニックジョークを話題にしては楽しんでいた。また、ロシアにおける反ユダヤ主義はスターリンの支配下で大幅に高まったことが指摘されている[152][154]。第二次世界大戦中には娘スヴェトラーナの最初の恋人、アレクセイ・カプレル (Aleksei Kapler) がユダヤ人であったことから、彼を逮捕してヴォログダ収容所での重労働刑を宣告している[155]


スターリンは当初、ダヴィド・ベン=グリオンが社会主義者だったことやキブツとソ連の農業集団化政策の類似点から、国連でのパレスチナ分割決議への支持や米国に次いでのイスラエル国家承認、チェコスロバキアを通じた武器援助を行うなどイスラエルに対する支援を行ったが[156]、冷戦が進行するとともにイスラエルは西側陣営につき、ソ連は反シオニズムを掲げることになり、スターリンはユダヤ人(特にシオニスト)に対する強迫観念に取り付かれるようになり、ソビエト体制の転覆を企むシオニズムの手先・破壊分子としてソ連国内のユダヤ人を危険視するようになった[152][157]。その代表例が医師団陰謀事件である。なお、スターリンは最晩年の1953年、「ユダヤ人問題の最終的解決」と称してソ連国内のユダヤ人全員をシベリアおよびカザフスタンに強制収容する計画を実行する予定であったといわれるが、スターリンの死によってこの計画は中止となり、後継者のベリヤにより逮捕されていたユダヤ人も全員釈放されたことで実現はしなかった[152][157]


カフカースには元々極端な反ユダヤ主義はなかった。昔から多くの民族が隣り合って住んでいた地域であり、ユダヤ人もその民族の一つに過ぎなかった。グルジアに住むユダヤ人は、その多くが仕立て屋、貸金業者、靴職人などであり、いずれも裕福であったためか、靴作りの技術が優れていたためか、スターリンの父親である靴職人ヴィッサリオンは彼らを憎悪(嫉妬から)し、幼い息子に対してユダヤ人に対する憎悪を教え込んだ[158]ことも、スターリンの反ユダヤ感情の一因である。



他人からの印象


残虐極まりなく、悪の帝王そのもののような印象を受けるが、外部からの訪問者と話すときは常に口元に微笑を浮かべ、謙虚であり、他人を持ち上げるなどして、好感を持たれた男性であった。話相手を魅了する力があり、酒席ではその力が倍増した[159]。日本の松岡洋右外務大臣は、スターリンとモロトフの接待で泥酔し、抱えられてクレムリンを退出した[159]。1939年8月23日、独ソ不可侵条約締結後のカクテルパーティーにおいて、訪ソと同時にドイツより運搬してきた「新第三帝国首都模型」を披露したヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相はスターリンと大いに意気統合した[160]。帰国後、ヒトラーに「スターリンとモロトフは実に気持ちの良い連中です。懐かしい党友に囲まれているようでした」と報告したとされる。1941年12月、イギリス外相アンソニー・イーデンに独ソ戦勝利を断言してイーデンを安心させる一方、腹心達には「レーニンが築いたものを失った、破局だ」と弱音をはいた[127]


レーニンの『大会への手紙』の存在を知ったとき、スターリンは書記長の辞任を表明したが、その表明は断固たるものではなかった。スターリンは、1920年代にも辞任を2度表明しており、第15回党大会のあとにはより断固たる形で辞任を表明している。トロツキーとジノヴィエフの合同反対派は敗北し、大会はこれを組織的に手続きした。この大会後の第1回中央委員会総会にて、スターリンは中央委員たちに対して「最近までこういう事情があったと思う。つまり、反対派にたいしてある程度対抗してきた多少とも峻厳な人間として、党は私を書記長のポストに置く必要があったことだ。反対派は現在、粉砕されただけでなく、党から追放された。ところが、われわれにはレーニンの指示があり、私の考えでは、これを実現しなければならないと思う。したがって私は、書記長のポストからの解任を総会に要請する。同志のみなさん、党はこれによって得するばかりで損はないと、私はみなさんに請け合う」と要請した。しかし、この頃のスターリンの権威は増大しており、党内では団結を目指して闘い、さまざまな分派たちに容赦なく反論を加える体現者となった。書記長の辞任は再び思いとどまるよう説得されたが、スターリンは慰留されることを確信していた。解任要請も、自分の立場を強化するためであった[161]


トロツキーとの権力闘争の時、トロツキーがレーニンの遺書を公表し、遺書通りにトロツキーらがスターリンに書記長の座を降りるよう要求した際、スターリンは一切反論せずに反省の弁を述べ、書記長の座を降りることを明言している。しかし、この時スターリンは、「私はしがない事務屋ですが、あなたたちのお力になりたいのです」などと持ち上げてカーメネフたちに接触していた。既に地盤を固めていたスターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフらの反対によって、書記長の座に留まったのである。その後カーメネフらがトロツキーの権力を殺ごうと人民委員の座を降りるよう提案した時、スターリンはトロツキーを擁護し、提案に反対している(のちに解任し、追放した)。これはほかの党員に自身の寛容さを見せるためであった。しかし、政敵を超える権力を持ち始める頃からスターリンはその本性を現し始め、ほかの党員が気付いたときには、もはやどうにもできないほどの絶大な権力を握っていた。スターリンは腹に一物も二物も持ち、本性を全く相手に感じさせず、仮面を被ることに長けていた。このため、スターリンが本性を現すまで、古参党員の多くは彼のことを取るに足らない小物と考えていた。


大抵は粗野で、傲慢で、虐待的であったスターリンであったが、主に政治家への訪問者に対しては魅力的で礼儀正しくありえた[162][163]



論説・言い回し


スターリンは、誰かと一対一で話し合うのは極めてまれであった。スターリンは孤独であり、心を通じ合える相手、説得すべき相手、弁明すべき相手もいなかった。スターリンは人前で演説するのを好まなかった。演説は率直で分かりやすかったが、思考の飛躍、警句、迫力に欠けていた。グルジア訛りが強く、覚えたロシア語もぎこちなく、単調であったため、表現力に乏しかった。集会、会議、デモ行進で演説した回数が、レーニンの側近の中で最も少なかったのがスターリンであった。スターリンは、指示や指令を出し、論文や記事を書き、色々な政治的出来事について新聞に評論を発表する方を好んだ。凡庸な社会政治評論家であったスターリンの結論の出し方はいつも断定的であった。スターリンの新聞論調は黒白がはっきりしており、第3の意見は認めなかった。ラテン的な明確さが、スターリンの単純明快な魅力であった[164]



容貌




スターリン(1942年)


写真や肖像画でのスターリンは、大柄で威厳のある人物として描かれている。これはプロパガンダ用の写真や絵(ロシア貴族風に描かれている)の影響であって、実際には大きく異なる。グルジア人である彼の目と眉毛は釣り上がっており、「アジア人」という渾名を付けられていた。スターリンを「正しく」表現しなかった一部の画家による描写[162]では、スターリンの身長は5フィート4インチ(約163cm)であったという[162]。口髭を生やした彼の顔は、肥えていて、凸凹があり、黒髪はのちに灰色となって減った。少年時代に馬車に轢かれた後遺症から、左腕は右腕より短く、左手は服の袖にしばしば隠れるようになった[162]。年を取るにつれて歯科衛生も悪化し、死んだ時の彼自身の歯は3つしか残っていなかった[165]。スターリンが描かれた多くの絵では、左腕をわずかに曲げてパイプを持っている姿が描かれている。このパイプはスターリンの姿の一部となったが、これは自身の曲がった左腕を隠すためのものであった。1917年、妻のナジェージダに対して「子供の頃に軽馬車に轢かれ、医者にかかる金がなかったので腕が曲がったままになってしまったのだ」と説明している。挫傷が化膿して腕にひきつりができたと推測されるが、曲がった左腕については非合法活動に従事していた青年時代の怪我によるものとの説もある[166]


スターリンに会ったことがある国連大使[誰?]が言うには、「スターリンの顔は醜い痘痕顔であり、片手(左手)に麻痺がある風采のあがらない小男」であったという。片手の麻痺は少年時代の病気(後述の天然痘とも、それとは別の病気とも言われている)によるもので、ポツダム会談などでの映像をよく見ると、左手はまるで義手を装着しているかのようにほとんど動かない。つまり、拍手をしている写真や左手を動かしている写真は写真修正が施されている(もしくは影武者とされる別の人物が被写体)。左腕は右腕に比べて短く、このことで1916年に徴兵を免除されている[167]。ソ連時代、スターリンを意味する「腕の短い奴」という隠語があった。また、スターリンの片方の足は、指の一部がくっついていた[168]


スターリンの下で働いた通訳ベレズホフは、初めて恐るべき上司に会った瞬間、イメージとあまりにも違っていてショックを受けたという[169]。「背が低くげっそりし、天然痘の瘢痕で覆われた顔は疲れて土気色、軍隊服が貧弱な肉体を締まりなく包んでいる」と表現している[169]。片方の腕が袖口に隠れていることも言及している。もっともモスクワ攻防戦の最中で、スターリンにとって最も厳しい時期だった。


また、スターリンは自身の身長を非常に気にしていたため、軍長靴や踵の高い靴を履いており、写真で写るときは遠近法で大きく見せるために必ず前の椅子で座っていた。『レーニンをミイラにした男』[170]によると、スターリンの遺体防腐処理を担当したデボフというが男性が言うには、スターリンの顔は天然痘によってできるあばたと茶色のシミでいっぱいで、プロパガンダ用の写真や絵とは大きくかけはなれており、衝撃を受けたと述べている。憲兵の報告書では、「あばた」がスターリンのあだ名になったほどであるという[166]


なおヤルタ会談での映像を見ると頭頂部にハゲ(てっぺんはげ)があるのが確認できる。ただし、こうした会談に出てくるのは影武者だという説もある。


スターリンが天然痘に冒されたのは少年時代のことであるが、写真では確認できないものの、白黒の動いているスターリンのビデオをよくよく見てみると、顔がすだれているのが確認できる。しかし、レーニンの隣に遺体を展示されているときは、プロパガンダのためにエンバーミングされ、がっしりした体つきであばたも無くなっていた。


映画では1930年代後半からミハイル・ゲロヴァニ(英語版)がスターリン役として定着していたが、風貌はあくまでプロパガンダのスターリン像に基づくものであった。実際のスターリンの容貌は、1970年代より配役が多かったヤコヴ・トリポーリスキィ(ロシア語版)の方が近い。



名前


スターリンのファーストネームは"Iosif(ヨシフ)と音訳され、名字はჯუღაშვილი(グルジア語)、"Jugashvili" あるいは "Jughashvili"(ジュガシヴィリ)と音訳される。ロシア語による音訳は"Джугашвили"、英語では"Dzhugashvili" あるいは "Djugashvili"と音訳される。-შვილი "-shvili"はグルジア語の接尾辞で、「子供」または「息子」を意味する。


ჯუღაjugha;ジュガ)のという言葉には複数の語源がある。1つには、グルジアの東Kakhetiにあるジュガアニという村に由来する[171]。反ユダヤ主義プロパガンダの一部に「ジュガシヴィリ」を「ユダヤ人の息子」の意とする情報が存在するが、グルジア語でユダヤ人は"ebraeli" (ებრაელი) であり、したがってこの情報は誤りである(Stalin before the Revolutionを参照)。



生年月日


スターリンの生年月日は、長い間改竄されてきた[1]。スターリンの生年月日について発表された複数の情報源には矛盾があるが、ゴリにある生神女就寝教会にて、「1878年12月18日(ユリウス暦:12月6日)生まれ」という記録が発見されている。この出生日付は、学校の退学証明書、彼が23歳になる1902年4月18日からの広範な帝政支持者、ロシア秘密警察の記録、逮捕の記録、その他以前の革命活動の記録に至るまでそのままの状態で保存されている。1921年になってようやく、スターリン自身が手書きの履歴書にて「1878年12月18日」と記載している。しかしながら、1922年に権力を握ったのち、スターリンは自身の誕生日を「1879年12月21日(ユリウス暦:12月9日)」に変えた。その日は彼の誕生日としてソ連国内で祝われた[172]



宗教的信仰と方策


スターリンは、ソビエト連邦内の宗教法人と複雑な関係にあった[173]。スターリンは、グルジアの神学校で勉強していたころに隠れた無神論者となっている[174]。スターリンが無神論者になったという話は、スターリンが数年以上は信心深く、敬虔なままであったことを含むいくつかの明白な根拠を提示するのに失敗している[175]。根拠の一つとして、スターリンによる第二次世界大戦中の教会に対する禁止令は、彼が天から受けたと信じた指令であるという[176]



趣味


モスクワの自宅の温室には熱帯や温帯の植物が植えられ、スターリンはその世話をするのが趣味であった。大戦後はレモンの栽培に凝り出し、来客に次々とレモンを食べさせ「私が育てたんだ。それもモスクワでだぞ!」と自慢した[177]


スターリンの趣味の一つとして、映画鑑賞があった。格調高い映画を好んだレーニンとは対照的に、スターリンは大衆的な娯楽映画を好み、アメリカ映画をよく取り寄せさせていた[178]。ジョン・フォード監督の『肉弾鬼中隊』を観た際には、勇敢な兵士達の戦闘シーンに感銘を受け、同様の映画の制作を部下に指示した[178]。その結果作られた映画がミハイル・ロンム監督による『十三人』である[178]。『十三人』はシナリオと演出で好評を博し、アメリカで『サハラ戦車隊』『廃墟の守備隊』に再翻案された[178]


かなりの読書家であった。2万冊以上の蔵書を持ち、このうち5500冊には「スターリン蔵書」の印が押されていた。ジャンルはマルクス、エンゲルス、カウツキー、レーニンなどの社会主義関係、カント、フィヒテ、ヘーゲルなどの哲学書、文学書、歴史書、百科事典、外国語辞書、軍事書、雑誌、パンフレットから、ジノビエフやラデックなどの粛清した政敵の著書、ヒトラーの『我が闘争』、マキャヴェッリの『君主論』、毛沢東の著作など多歧に渡り、クレムリンの住居や別荘にきちんと分類されて置かれていた。彼は寸暇を惜しんで読みふけり、多くの色鉛筆でアンダーラインを引いたり余白に書き込むのを楽しみとし、気に入った本は息子の誕生日プレゼントとして送った。訪問客には机上の新刊の包みを指さして「私の読書のノルマは毎日500頁です。」と公言していた。死後、蔵書は散逸して、書き込みが残されている書物は391冊しか見当たらない[179]



プロパガンダ


国内では、スターリンは自らを「大祖国戦争」においてドイツに対する勝利ヘ導いた偉大な戦時指導者として宣伝し、その結果、1940年代の終了までに、強力なプロパガンダ活動によってソ連のナショナリズムは増加した。多くの科学的な発見は、ソ連の研究者によって「取り戻された」。例として、




  • ジェームズ・ワットの蒸気機関はチェレパノフ親子による発明


  • トーマス・エジソンの白熱電球はヤブロクコフとロディジンによる発明


  • グリエルモ・マルコーニの無線通信はポポフによるもの


  • ライト兄弟の飛行機はモジャイスキーによる発明


とされた。また、第二次世界大戦前から戦後にかけて、スターリンを偉大な戦時指導者として、また、多民族国家であるソ連の指導者として賞賛する多数の映画とポスターが製作された。実際スターリンとレーニンはそう親密ではなかったのだが、親密であったように見せかけるために多くの写真が改竄され(例として、上記のスターリン、レーニン、カリーニンの3人が映っている写真は、集合写真から切り出されたものである)、多くの絵画や彫刻が作成された。それらはどれも、「偉大なる同志レーニンを補佐する偉大なる指導者スターリン」といった調子のものであり、「レーニンと親しげに談笑するスターリン」や「同志レーニンに内戦の状況を報告するスターリン」など、実際にはありえない題材ばかりであった。前述のように、革命直後の彼はグルジアなどに派遣されており、レーニンに「状況報告」できるような立場にはいなかった。それどころか、スターリンはポーランド・ソビエト戦争の時自分の戦功を優先してトゥハチェフスキーを適切に支援しなかったとレーニンに糾弾され、革命軍事会議議員から罷免されてすらいる。当然、これらの事柄は完全に無視され、隠蔽された。


また、大粛清などで粛清された人物が載っているポスターや写真も改竄された(壇上で演説するレーニンの写真においては、引き続き階段で待機していたトロツキーを削除している[180])。これらのポスターや写真を持っている個人は、粛清された人物の顔を切り抜くか、黒く塗り潰すよう求められた[181]。塗り潰されていない写真を持っていること自体が犯罪であるとされ、もし秘密警察に見つかればそれだけで処刑される可能性すらあった。


ほかにも、スターリンを誹謗中傷するような言動は厳禁とされ、家族や友人の間での些細な冗談であっても、密告によって逮捕・粛清される危険があったため、国民は細心の注意を払わねばならなかった。



個人崇拝


スターリンは、ソ連周辺にてレーニンと自身の個人崇拝を作り上げた。レーニン廟の創設者によるエンバーミングは、レーニンの未亡人であるナデジダ・クルプスカヤの異議に反して実行された。自らの思想をマルクス・レーニン主義として定式化し、レーニンをマルクスの正統な後継者と位置付けた。


スターリンは大いなる敬愛と崇拝の対象となった。歴史上の多くの個人崇拝が、彼のそれとたびたび比較された。数多くの街、村、都市はソビエトの指導者の名前から取られ、多くの都市がスターリンの名前を含むように改名し(それらの都市や地名のリスト)、多くの賞がスターリンの名前を冠するようになった。例えばスターリン国家賞やノーベル平和賞のソビエト版と言われるスターリン平和賞などである。政権の推移に伴って名称がしばしば変更されており、いずれもソビエト連邦の崩壊とともに廃止された。


また、スターリン(もしくはスターリンとレーニン)の彫像が大量に作成され、ありとあらゆる場所に設置されたが、当然これらもスターリンを称賛するプロパガンダの一環として建設されたため、下記の容貌の部分に書かれてあるような欠点は全て「修正」されていた。また、彫像のようなものだけではなく、文学や音楽、さらに詩集にもスターリンを神の如く賛美するものに満ち溢れていた。それらの作品の中には、第二次世界大戦を1人で終結させたといった荒唐無稽な内容のものが多い。また、1944年発表のソビエト連邦国歌にスターリンの名前が現れるほどの凄まじい個人崇拝がまかり通っていた。1948年には『スターリン小伝』という本が出版され、「最も偉大な統領」といった美辞麗句が大量に散りばめられた本であるが、この中にスターリン自ら書き加えた箇所がある、とフルシチョフは暴露している。その文章は「スターリンは、党と人民の統領としての課題を立派に果たし、全ソヴィエト人民の支持を完全に獲得していたが、反面、自分の活動の中に、自慢、高慢、うぬぼれなどの影が少しでも見えるのを許さなかった」という。


しかし、これらの事物はスターリンの実像を大きく歪めた。数多くの記念碑や像によって、スターリンがかつてのロシア皇帝アレクサンドル3世とは異なり、長身で頑強な男性であると仮定することは容易である。また、これらの作品を書いたり作ったりした人物全員が、例えばヴァノ・ムラデリに代表される筋金入りのスターリン崇拝者でない限りは、スターリンに心酔していたということをすぐには意味しない。そのように心酔しているふりをしなければならないという、一種の強迫観念と社会環境に囚われていた可能性は否定できない(スターリンが気に入らない者は容赦なく粛清されるため)。



逸話







日常


スターリンは昼頃に起床し、午後から仕事を始めていた。そのため仕事が終わるのは午前1〜3時の間が多く、さらに、仕事が終わってから部下を呼び出しパーティを開くということを頻繁に行っていた。側近は普通に仕事をしていたので、仕事が終わってからスターリンの呼び出しをくらい、朝まで付き合わされるということがしばしばあり、寝不足な部下が多かった。さらに、スターリンは部下が酒に酔い潰れるのを見て楽しんだため、部下は酒を浴びるほど飲むことを命ぜられた。この行為には部下の忠誠度をチェックする目的もあったとされ、スターリンは部下たちを泥酔させながら、自身は水を飲んで酒に酔っているふりをしていたこともあったといわれる。そのためスターリンの側近は全員、腎臓や肝臓を患った。


1942年8月、第二回モスクワ会談のためチャーチルがスターリンの下を訪れた。スターリンは多彩なオードブル、キャビア、グルジア料理、ロシア料理、フランス料理、最高の食器とワインで出迎えた。モスクワでは飢餓が進んでいると思っていたチャーチルは、ロンドンからサンドイッチを持ってきていた[182]。一方のチャーチルは、1942年春にモロトフをロンドンに迎えた際、オートミールと代用コーヒーを出した。スターリンは「それが民主主義の安っぽい芝居なのだよ」と忠告した[182]


権力の絶頂期、よく側近を呼んでパーティーを開いていたが、食事は、最初に採るということは絶対にせず、部下に毒見をさせてからその料理を食していた。パーティーは明け方まで続くことが多く、睡魔に襲われてうとうとする出席者がいるとスターリンはトマトを投げつけたという。


車で移動するときは先頭車両を必ず取り、装甲車並みの車を自分で運転して、目的地に着くまでにランダムに迂回していた。


スターリンが赤の広場など公衆の面前に姿を現す時は、徹底的に秘密警察により観客の身体検査が行われた。さらに、観客の両側を青い帽子を被った秘密警察の隊員らが観客の様子を終始監視したという。また、式を見下ろすことができる建物の窓は全て占拠され、狙撃手が配備された。立ち入り禁止区域にうかつに入った人間は即座に射殺されたと言われる。その一方で、執務室に入る人間に対して身体検査は行われなかった。


またスターリンは、自分のプライベートやその時間を邪魔されることを極度に恐れ、障害となるものを徹底して排除しにかかっていた。アブハジア地域の別荘で就寝していた深夜の時間、犬の遠吠えで目が覚めたスターリンは「私を眠らせないのは誰の犬だ?」と護衛に尋ねたという。護衛から近所の犬であることを伝えられた彼は「ならその犬を見つけて撃ってしまえ」と命令したという。
翌朝、目を覚ましたスターリンが犬は死んだのかどうかを護衛に訊ねると、護衛は「あの犬は盲導犬であり、追い払いました」と答えた。するとスターリンは「ではその犬を連れてこい」と喚き、護衛によって連れてこられた盲導犬を自らの手で射殺したという。そして直後に「今度命令に背いたら、お前もこうなるのだ」とその場に立ち合った護衛に告げたとされている。


他に、粛清した政敵の写真を見て悦に入りながら、自身の故郷のグルジアワインを愛飲するという残虐な一面を見せていたことも語られている。



内通疑惑


一部のボリシェヴィキ党員は、スターリンを「オフラーナの工作員」として訴えたことがある[183]。帝政支持者による迫害からの逃亡は、スターリンにとっては容易なことで、刑罰も非常に軽かったため、スターリンがオフラーナの工作員であるという噂も立った。裏切り者を探し出すという彼の取り組み(1909年)は、党内で多くの対立を引き起こした。スターリンはオフラーナの命令で故意に争いを引き起こしたとして、一部の党員が彼を訴えようともした。メンシェヴィキ党員のen:Razhden Arsenidzeは、スターリンが同志を裏切った、と述べた。


1916年、ボリシェヴィキ党員のステパン・シャウミャンは、スターリンを「オフラーナの工作員」であるとして直接訴えた。彼の個人秘書であるオルガ・シャトゥノフスカヤによると、これらの意見はスタニスラフ・コシオール、イオナ・ヤキール、その他著名なボリシェヴィキ党員らの意見を共有させたものという[184]。噂は、流刑からの脱出の際にオフラーナのバッジを使ったことをスターリンから伝えられたDomenty Vadachkoryという人物による回顧録がソ連国内で出版されたことで補強された[185]。刑務所からの複数回の逃亡と亡命をスターリンが軽視していたことも、疑惑を増大させる原因となった[186][184][187]。スターリンがオフラーナに協力していたという確かな証拠はいまだ見つかってはおらず、メディアが出版したオフラーナによる嫌疑がかかっているスターリンに関する2、3の報告書は、捏造されたものと見られている[185]


ロシアの作家エドワード・ラジンスキーの本『スターリン』では、情報提供者がレーニンによって選ばれ、スターリンがロマン・マリノフスキーと同様にオフラーナのために働くふりをする二重スパイであったかもしれないと示唆している[184]。別の歴史家サイモン・セバーグ・モンテフィオーリは、残存しているオフラーナの全ての記録から、スターリンは革命家であり、決してスパイではないことが分かったと述べている[15]。1967年にスターリンの伝記を書いたエドワード・エリス・スミスは、スターリンがオフラーナの捜査網から逃れられるには疑わしく、旅行を妨げられず、収入源なしで民衆を煽り立ていたとして、スターリンはオフラーナのスパイであると唱えた。その一例として、1901年4月3日に発生したトビリシのグルジア社会民主党の主要な党員のほとんどが(スターリンを除いて)逮捕された急襲事件がある。このときのスターリンは麗らかな春の陽気を味わい、「革命なぞ糞喰らえ」と真剣に考えていた[183]



「スターリンノック」


共産党員以外の一般の国民たちも、スターリンによる犠牲者であった。大粛清の時代、早朝のまだ空が薄暗い時間帯に自宅のドアをノックする音が聞こえ、住人が何事かと出てみるとNKVD(内務人民委員部)の人間が立っていた。住人はその瞬間、何が起きたか悟った。NKVDは、家の中を片っ端からひっくり返して「証拠」を探すのである。住人は「黒いカラス」とよばれる囚人護送車に乗せられ、ルビヤンカに連行させられた。そこで、NKVDの人間から詰問され、容疑者が罪を自白するとその自白を基に調書が作られた。容疑者が容易に自白しなければ、拷問も含めた厳しい尋問が行われた。


これがいわゆる「深夜のスターリンノック」である。スターリン時代のソ連ではこれが日常茶飯事であり、一説に36〜38年の大粛清期に100万人が銃殺され、数百万人がグラーグなどの強制収容所における過酷な労働の末、死亡したと言われる。


スターリンはもともと人間不信であったことが知られていたのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちな周辺人物への疑いと不信の意識が加わることにより、国民に対しても猜疑心が極限まで加速していたのである。



恩師


スターリンがいた神学校では生徒たちは厳しく教育されたが例外もあった。ベリャーエフという善良で柔和な視学官がいたが、生徒たちは彼のことを恐れず、それゆえに尊敬もしなかった。ある日、ベリャーエフは生徒たちを洞窟の史跡に連れて行った。途中に濁った広い川が流れており、生徒たちは飛び越えたが、ベリャーエフは肥っていたために飛び越えることができなかった。生徒の1人が川に入って教師に背中を差し出し、ベリャーエフはそれを踏み石代わりにしてようやく川を越えることができた。これを見たヨシフ少年は小声で「ロバかい、おまえは?おれなら神さまにも背中を差し出したりしねえよ」と言い、それがみんなに聞こえた。「スターリンは病的なまでに自尊心が強く、さんざん卑しめられた者によくあることである」とエドワード・ラジンスキーは述べている[188]



家族・肉親


スターリンは、帝政時代において少数民族であり一般のロシア人より格下と認識されていたグルジア人であったことや貧困層の出という身の上から幼少期からの交流は少なかった。加えて自身の身長が低かったことなど体格に恵まれない面から、抱えるコンプレックスは相当なものでひたすら劣等感の強い人物であった。


彼は、妻子などの配偶・近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えている。1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、長男のヤーコフをもうけるも、エカテリーナは25歳で病没した。
また、ヤーコフに対しては厳しく接したため、その苦しみからヤーコフは拳銃自殺を試みたが失敗した。それを知ったスターリンは「やつは拳銃を真っ直ぐに撃つことすらできない」と呟いたという。


独ソ戦でヤーコフがドイツ軍の捕虜となったときは「捕虜見殺し命令」を出したあとであった。スターリングラード攻防戦での戦いで降伏したドイツの陸軍元帥フリードリヒ・パウルスと、ヤーコフの解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して、スターリンは「ナチスに寝返った息子などいない」と返答して申し込みを拒絶した。彼は、息子が自分を困らせるためにわざと敵に捕まったのだと考えていたのである。スターリンは父親としての愛情を微塵も見せず、「男なら堂々と死ねばよいのに」と怒る傍らで、「私の息子ヤーコフの命はあなた(パウルス)の手中にある。あなたが捕虜数百万人全員を解放するか、あるいは私の息子は彼らと運命をともにするだろう」と述べ、捕虜交換による釈放には一切応じなかった。


しかし、のちにゲオルギー・ジューコフがヤーコフの安否を聞いたとき、スターリンは「あいつは死を選ぶだろう」と沈痛な面持ちで話し、食事に手をつけなかった。その一言通りヤーコフは、自身が収容されたザクセンハウゼン強制収容所内の電気柵に突進して自殺したと言われている。


自分の肉親にも冷酷なスターリンであったが、母親のエカテリーナには頭が上がらなかった。彼女は息子の計らいでカフカースの宮殿に住んだが、小さく粗末な一室で質素な生活を続け、グルジアのジャムや果実を毎年のように息子に送り、息子と息子の妻に手紙をよく書いていた。1935年、死が近付いた母に会いにスターリンがカフカースを訪問した際、エカテリーナは「ヨシフ、お前はどんな人になったの?」と聞くと、スターリンは「お母さん、僕はツァーリみたいな仕事をしてるんだよ」と答えた。これに対してエカテリーナは、「司祭になってもらいたかったのにねえ」と嘆息した。エカテリーナのこの言葉に国中が沸いたという。さらにスターリンが「どうしてお母さんは僕をあんなにぶったの?」と聞くと、エカテリーナは「そのお陰でお前はこんなにいい人になったんだよ」と返答した[189]


その一方で、少年時代に父親から受けた虐待を忘れることはできなかった。晩年のエカテリーナを診た医師、N・キパシーゼは、彼女から「ある時、酔った父が幼い息子のヨシフを持ち上げて、力任せに床に叩き付けた。そのために幼子は何日か血尿が止まらなかった」という話を聞いた。夫が酔って暴れ始めると、エカテリーナは怯えきっている幼子を抱きかかえて近所へ逃げた。だが、苦しい労働に鍛えられたエカテリーナは力が強くなり、夫との掴み合いの喧嘩を恐れなくなった[190]。ヴィッサリオンがトビリシに去ってから、家の主人となったエカテリーナは、拳骨を息子への躾に向けた。言うことを聞かなければ、息子を容赦なくぶった。晩年の母を見舞ったスターリンが、「どうしてお母さんは僕をあんなにぶったのですか?」と尋ねたのはこのためである。この「ぶつ」という言葉は「育成」を意味した。グルジア系ユダヤ人のハナ・モシアシヴィリは、少年のスターリンを「おぞましい家庭生活が、彼の心を冷酷にした。彼は図々しく、乱暴で、強情な、どうにも我慢のならない子だった」と述べている[191]


「ヨシフ・スターリン」という名の、スターリンの曾孫が生存しており、2007年にトビリシ・シンフォニー・オーケストラと共にコンサートを行った[192]



政府要人・党幹部


スターリンの猜疑心は、年とともに強まった。70歳の誕生日の祝いにベリヤが立派な別荘を贈呈し、スターリンはその別荘を見にいった。しかし、美しい樹木に囲まれているのが気に入らず、「これは何かの囮かな?」と言うなりさっさと帰っていった。その後、スターリンがその別荘に行くことは二度となかった。


1945年6月24日、モスクワにて対ドイツ戦の戦勝パレードが行われた。ロシアの慣習では、勝利した司令官が騎乗することになっていて誰もがスターリンにその栄誉が与えられると思っていた。だがその1週間前、スターリンは、「私は年をとったので乗れんよ」と断り、ジューコフ元帥を指名した。翌日、ジューコフの下にスターリンの次男ワシーリーが来て、「ここだけの話ですが、昨日父は乗馬の稽古中に落馬して肩と頭を打ってしまった。父は忌々しげにつばを吐いてジューコフにさせろと言ったのです。その馬に乗るのです」と耳打ちした。ジューコフは感謝し、スターリンを振り落とした馬で練習を行い、本番で見事に乗り回した[193]


1938年3月15日、スターリンの盟友ブハーリンが処刑された。ブハーリンは死の直前、スターリンに最後のメッセージを送っていた。「コーバ。なぜ私の死が必要か?」の出だしで始まるこのメッセージは、スターリンが自身の机の抽斗に入れたまま、スターリンの死後まで公開されなかった。


1936年、大粛清の真っ只中、軍司令官のイオナ・ヤキールが、処刑される直前にスターリン宛に冤罪を訴えるメッセージを送った。スターリンはそれに「悪党」、さらに「淫売」と書き込んだ。それに続けて、スターリンの部下たちも彼を罵倒する言葉を次々と書き込んだ。のちに彼が、「スターリン万歳」と叫んで銃殺されたことを聞いたスターリンは、ヤキールを「偽善者めが!」と罵った。また、彼の境遇を哀れんで処刑時に不意に涙を流したと言われる銃殺隊長も、のちに処刑された。


1939年の冬戦争で赤軍は大した作戦も立てずに侵攻した結果、ゲリラ戦を取るフィンランド軍に敗北した。スターリンは、旧友であり元帥でもあるヴォロシーロフに全ての責任を擦り付け、夕食会の席上、衆人の前で彼を口汚く罵った。しかし、それまで一度もスターリンに歯向かったことが無かったヴォロシーロフもこのときの侮辱には我慢できず、「(敗戦の責任は)あなたの粛清によって、多くの優秀な軍人たちが殺されたからではないですか!」と反論し、さらに食事がつけられている大皿をテーブルの上にひっくり返した。スターリンはすぐさまヴォロシーロフを罷免したが、さすがに反省し、追放されていた軍人たちを急遽呼び戻した。ヴォロシーロフはその後もクレムリンで生き残り、ソビエト最高会議幹部会議長になっている。




クリメント・ヴォロシーロフ(右)と(1935年12月)


独ソ戦の最中、スターリンは将官を呼びつけて無理難題を強いた。そのときの返事次第では、スターリンの顔色が青ざめて残酷な目つきになった。とくに瞳が黄色を帯びると、相手はどう返事してよいか分からなかったという[194]


1944年6月、連合国はノルマンディー上陸作戦を開始した。その作戦名が「オーバーロード」と聞かされたスターリンは「それはどういう意味かね?」とモロトフに尋ねた。モロトフが「大君主あるいは支配者の意味です」と答えると、スターリンは気分を害した。「支配者は西からではなく、東からドイツを攻めるべき」と考えていたためであった。



外国要人と




1949年12月、毛沢東、ブルガーニン、ウルブリヒト、ツェデンバルらとスターリン




イギリスの首相ウィンストン・チャーチル(写真中央)と


猜疑心の強いスターリンはホー・チ・ミンと初めて出会ったとき、スパイと疑っていた。ホー・チ・ミンはスターリンに会えた感激の余り、スターリンにサインを求めた。スターリンはこれに不承不承に応じた。しかし、部下に命じてホー・チ・ミンの留守中にサインを強奪して取り戻し、ホー・チ・ミンが、サインがないことに気付いて慌てていた様子を聞いて喜んでいたという。


1941年の日ソ中立条約調印後のレセプションの場で、スターリンは外務大臣(当時)の松岡洋右に「プロフェッサー・コニシをご存知かな。是非お会いしたいのですが」と尋ねた。「コニシ」とは、京都大学の教授であった小西増太郎 (1861 - 1940) のことで、留学中にモスクワの下宿で若き日のスターリンと部屋が隣であり、親交を結んでいた。1940年の暮、小西は近衛文麿の密命を帯びてスターリンと面談するためロシアに渡ることに決まっていたが、その直前に急逝していた。スターリンはそのことを知らなかったようである。


毛沢東を小物扱いしており、革命の熱気が高まればすぐ溶けるという意味合いで「マーガリン共産主義者」などと呼んでいた。1949年12月の初対面では、毛を冷遇し、政治的な意見の対立もあって両者は打ち解けなかった。それでも、二人は、長時間の間、料理とワインを味わいながら両国間の懸案事項、東洋の思想について話し合った。特に毛が国家建設のたとえとして中国の伝説である「愚公山を移す」を話すと、スターリンは興味を持ち、「私たちが力を合わしたら山を掘り崩すどころではありますまい。」と同意を示したこともあった[195]。翌年2月、毛は市内のメトロポールホテルにてお別れの宴会を催し、スターリンは差し入れをもって出席した。クレムリンか別荘の宴会にしか出席しないスターリンにとっては異例のことであったが、スピーチで「チトーのように勝手な真似をすると惨めなことになりますよ」と脅迫めいたことを述べて毛を牽制した。





ヨシップ・ブロズ・チトー(右端の人物)


ウィンストン・チャーチルは本来反共主義者であるが、「ヒトラーを倒すためなら私は悪魔とでも手を組むだろう」と発言した。この「悪魔」というのはソ連=スターリンを指す。一方のスターリンは、同じ連合軍としてともにドイツと戦い抜いたチャーチルを好意的に捉えていたようである。第二回モスクワ会談では、「私には悪魔がついていますから」とチャーチルの発言を冗談にして笑い話にした。さらにチャーチルを自宅に招き、モロトフや娘だけの夕食会を開いた[136]。1944年10月、ルーマニアやギリシャの分割についてチャーチルと話し合い、スターリンはチャーチルが持参した紙切れに青鉛筆でチェックを入れた。長い沈黙が続いた後、スターリンは「数百万人の運命に関わるこれらの問題を、このような無造作なやり方で処理してしまった。ずいぶん利己的だと思われないでしょうか?この紙は焼いてしまいましょう」と提案した[196]。チャーチルとの会談では、「私は心の中で保守党が勝利するものと確信しています」と告げた。チャーチルが弱気になると、イギリス国民は貴方を支持するだろうと励ました[197]。ポツダム会談の途上でチャーチルが選挙に敗北したため、後継のクレメント・アトリーが来訪した際に「西側の民主主義とはちっぽけなものよ。偉大なチャーチルを、小物のアトリーと交代できないものか」と嘆いたとされる。


ユーゴスラビア連邦人民共和国のヨシップ・ブロズ・チトーは第二次世界大戦中にスターリンの支援を受けていたが、大戦後はソ連の支配から自立する動きを見せた。これに対し、スターリンは軍事顧問団および民間専門家の引き上げの通告で応えた。さらにスターリンは、ユーゴスラビア内の親ソ派を使って政権転覆を目論んだ。チトーも負けずに親ソ派の粛清に乗り出した。その後、コミンフォルム大会においてユーゴスラビアは「殺人者とテロリストが支配する国家」と激しく非難されコミンフォルムを除名された。スターリンはチトーを暗殺するために刺客を送り込むが、チトーは逆に自身の秘密警察に暗殺団を全員検挙させた。チトーは直後にモスクワのスターリンへ電話をかけ、「どうしても考えを改めないつもりなら一人の男をモスクワに送る。それで全て解決するだろう」と話した。スターリンはユーゴスラビアを支配下に置くことを諦めた。


朝鮮戦争の際、毛沢東は「中共軍の装備は貧弱であり、数個師団では米軍に対抗できない」と考え、また、アメリカ、中華人民共和国、ソ連をも巻き込んだ全面戦争への発展を恐れて、参戦をためらった。しかしスターリンは次のような手紙を毛沢東に送った。「私としては(アメリカとの全面対決を)恐れるべきではないと考える。我々はアメリカ、イギリスよりも強いからだ。もし戦争が不可避ならば、今戦争になった方がよいだろう。アメリカの同盟者として日本軍国主義が復活し、アメリカと日本にとって李承晩の朝鮮(韓国)が大陸における彼らの前線基地となる数年後よりも、今がいいのである」。


第二次世界大戦中、スターリンはモスクワ郊外の別荘にポーランド共産党書記長ヴワディスワフ・ゴムウカとボレスワフ・ビェルト(のちのポーランド人民共和国初代大統領)を呼び寄せた。彼らを迎えたスターリンは酒を飲んでいたのか、しこたま酔った口調で外相のモロトフと2人でビエルトを別室に連れ込んだ。すると、別室でスターリンが突然「おまえ、この野郎、ポーランドで何をやっているんだ!おまえはどんな共産主義者なんだ!農業改革のペースも遅いし、敵への態度も穏健すぎる。国内政策で革命的手段が足らんぞ、この野郎!」と怒鳴り上げた。ビエルトはスターリンが酒に酔った勢いで何か冗談を言っているのかと勘違いして笑っていたが、今度は近くにいたモロトフが、「この馬鹿、何故笑っているんだ。これは冗談ではない」とたたみかけた。ビエルトの顔からたちまち笑気が消え失せ、恐怖におののいたビエルトは、「不満があるなら政治局員を辞める用意がある」と述べた。これに怒ったスターリンは、再びビエルトに罵声を浴びせたという[198]


イラクの元大統領サッダーム・フセインはスターリンに関する本を持っており、スターリンの政治手法を興味を持っていた。ただ、フセイン自身は反共主義者でスターリンを「無神論者」と嫌っていた。また、ベラルーシの大統領アレクサンドル・ルカシェンコは、スターリンとヒトラーの両方が好きだという。





著作物



  • 『無政府主義か社会主義か』

  • 『十月革命への道』

  • 『レーニン主義の基礎』スターリン全集刊行会翻訳 大月書店 1952年 ISBN 4272820109

  • 『レーニン主義の諸問題によせて』

  • 『民族問題とレーニン主義』

  • 『わが党内の社会民主主義的偏向について』

  • 『中国革命の見通しについて』

  • 『トロツキー主義かレーニン主義か?』

  • 『弁証法的唯物論と史的唯物論』

  • 『マルクス主義と民族問題』

  • 『ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争』

  • 『マルクス主義と言語学の諸問題』

  • 『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』


全集は大月書店より刊行された。全集に収録されなかった著作には、大月書店『スターリン戦後著作集』に収められている文献もある。



日本語訳



  • 似而非レニン主義の克服 益田豊彦訳. 共生閣, 1927.

  • 支那革命の現段階 ブハーリン共著 蔵原惟人訳. 希望閣, 1927.

  • 支那革命の諸問題 高山洋吉譯. 叢文閣, 1927.9.

  • 資本主義安定の諸問題 ジヤン・ステン,ロゾヴスキー共著 広島定吉訳. 白揚社, 1927.4.

  • 新ロシア問答 益田豊彦訳. 希望閣, 1927.5. レニン主義の諸問題

  • ソヴェート聯邦の内外政策 山内封介譯. 白揚社, 1927.

  • トロツキーズムとレーニズム 荒井眞次譯. 共生閣, 1927. レーニズム叢書

  • レエーニニズムの基礎 河合勝三訳. プレブス出版社, 1927.7. イスクラ・パンフレット

  • レニニーズム 千葉太郎譯. 白揚社, 1927.

  • レニン主義と民族問題 松本篤一譯. 希望閣, 1927. レニン主義の諸問題

  • 資本主義安定の最新現象と國際状勢について ブハーリン共著 岡田, 鳥海共譯. 南宋書院, 1928.

  • 十月革命への道 佐野学,西雅雄訳編 白揚社, 1928. スターリン・ブハーリン著作集;第7巻

  • 世界資本主義の安定より危機へ ブハーリン共著 広島定吉訳編. マルクス書房, 1928.6.

  • 人間レニン クルプスカヤ共著 瓜生信夫訳. 希望閣, 1928.

  • プロレタリア政治学 近藤栄蔵訳. 無産社, 1928.12.

  • レーニン主義序論 高山洋吉譯. 希望閣, 1928. マルクス主義文庫

  • レーニン主義の基礎 佐野學,西雅雄 編輯. スターリン・ブハーリン著作集刊行會, 1928.

  • レーニン主義の爲の鬪爭 佐野學,西雅雄編輯. スターリン・ブハーリン著作集刊行會, 1928. スターリン・ブハーリン著作集 第12卷

  • ロシア共産党第十五回報告演説 秋田篤訳. 希望閣,1928.6.

  • 我党と反対派 島田元麿訳. 平野書房, 1928.

  • 國際無産階級運動 ブハーリン 佐野學,西雅雄 編輯. 白揚社, 1929. スターリン・ブハーリン著作集 第16卷

  • 社會主義建設の爲の鬪爭 ブハーリン 佐野學,西雅雄 編輯. 白揚社, 1929. スターリン・ブハーリン著作集 第10卷

  • 報告と討論の結語 ブハーリン共著 佐野学,西雅雄共編. 白揚社, 1929.6. スターリン・ブハーリン著作集 第11巻

  • マルキシズム的指導に對する二文献 ブハーリン共著 和田英二譯. 希望閣, 1929. マルクス主義文庫

  • マルクス主義入門 ブハーリン共著 佐野学, 西雅雄訳編. 白揚社, 1929. スターリン・ブハーリン著作集 第1巻

  • 労働者に答ふ ブハーリンスターリンより ブハーリン共著 滝口徹治訳. 希望閣, 1929.7.

  • ロシアに於ける階級闘争と革命 ブハーリン共著 佐野学,西雅雄共編 スターリン・ブハーリン著作集刊行会, 1929

  • 共産主義序説 レーニン共著 高山洋吉訳. 白揚社, 1930. 「マルクス主義の旗の下に」文庫

  • 最近の問題 入江武一訳 白揚社, 1930.

  • サヴェート農村の社会主義的建設 山口信次訳. 希望閣, 1930.

  • サヴエート国家の現勢 茂森唯士訳. 戦旗社, 1930.

  • 社会主義建設の勝利的躍進 全ソヴエート同盟第十六回党大会報告並ニ決議 大井三智夫訳 マルクス書房 1930.

  • 世界資本主義の現段階 ブハーリン共著 佐野学,西雅雄共編. 白揚社, 1930.2. スターリン・ブハーリン著作集 第15巻

  • レーニン主義の基礎 高木孝作訳 1930.6. 共生閣文庫

  • レーニン主義の基礎 田畑三四郎譯. 白揚社, 1930.

  • レーニン主義の基礎. 續 入江武一譯. 白揚社, 1930.

  • レーニン主義とは何ぞや 北輝夫訳 1932.4. 共生閣文庫

  • レーニン主義の基礎 野沢孝平訳 1933. 改造文庫

  • レーニン主義の諸問題 白井転訳. 白揚社, 1932-33 スターリン著作集

  • 支那革命論・民族問題 ブハーリン共著 有村俊雄等訳. 白揚社, 1936.

  • 十月革命への道 佐伯嶺三訳. 民主評論社, 1946.

  • ソヴェト民族政策論 米村正一訳. ナウカ社, 1946.

  • ソ聯憲法とソ聯民主主義 園部四郎訳. 人民社, 1946.

  • プロレタリアートの戰略と戰術 スターリンの二論文 青野季吉譯. 社會書房, 1946.8.

  • 弁証法的唯物論と史的唯物論 石山正三訳. 社会主義著作刊行会, 1946. 社会主義著作集

  • レーニン主義の基礎 北輝夫訳. 彰考書院, 1946.

  • レーニン主義の基礎 秋山憲夫訳. 人民社, 1946.

  • レーニン主義の諸問題 秋山憲夫訳. 人民社, 1946.

  • レーニン主義の諸問題 第1 (レーニン主義の基礎) 広島定吉 訳. ナウカ社, 1946.

  • レーニン小傳 ジノビエフ共著 船形書院, 1946.10.

  • 十月革命論 高山洋吉訳. 鮎沢書店, 1947.

  • レーニン主義の諸問題 外国語図書出版所 訳. 外国語図書出版所, 1948.

  • スターリン全集. 第15巻 (ソヴェート同盟共産党史) 中城竜雄訳. 真理社, 1950.

  • スターリン全集. 別巻 (レーニン主義の諸問題) 中城竜雄訳. 真理社, 1950.

  • スターリン著作集 真理社 訳. 真理社, 1950.

  • スターリン著作集. 第6,7 高山洋吉 訳. 第三書房, 1950.

  • スターリンは答える アメリカ各界代表との会談を中心に 高山洋吉編. 五月書房, 1950.

  • 無政府主義か社会主義か 片山サトシ訳編. 暁明社, 1950.

  • スターリン著作集. 第8 (党内闘争論) 高山洋吉訳. 第三書房, 1951.

  • 世界はひとつ 高山洋吉 訳編. 五月書房, 1951.

  • 哲学論文集 真理社 訳編. 真理社, 1951.

  • 民族問題 箕浦義文訳. 五月書房, 1951.

  • レーニン主義の諸問題 補集 高山洋吉訳. 第三書房, 1951.

  • レーニン・スターリン中国論 解放社編集部編 平沢三郎,松本滋,小林信訳 五月書房, 1951.

  • 作家への手紙 除村吉太郎編. ハト書房, 1952.

  • スターリン全集 第1-13巻 スターリン全集刊行会 訳. 大月書店, 1952-53.

  • ソ同盟における社会主義の経済的諸問題 日ソ親善協会 訳. 日ソ親善協会, 1952.

  • レーニン主義の基礎について 平沢三郎訳 1952. 国民文庫

  • レーニン主義の諸問題によせて 他三篇 田中順二訳 1952. 国民文庫

  • 十月革命論 スターリン全集刊行会 訳 1953. 国民文庫

  • スターリン 新村猛,松岡達也編訳 1953. 青木文庫

  • ソ同盟における社会主義の経済的諸問題 民主主義科学者協会訳編 1953. 青木文庫

  • ソ同盟における社会主義の経済的諸問題 他一篇 飯田貫一訳 1953. 国民文庫

  • ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争 清水邦生訳 1953. 国民文庫

  • 第十四回協議会と大会の報告 萩原秀夫訳 1953. 国民文庫

  • 中国革命論 平沢三郎,松本滋共訳 1953. 国民文庫

  • 弁証法的唯物論と史的唯物論 他二篇 石堂清倫訳 1953. 国民文庫

  • ボリシェヴィキ党の建設 スターリン全集刊行会訳 1953. 国民文庫

  • マルクス主義と民族問題 他十篇 平沢三郎等訳 1953. 国民文庫

  • レーニン・スターリン社会主義経済建設論 中共幹部必読文献編集委員会編 石堂清倫訳. 五月書房, 1953.

  • レーニンについて スターリン全集刊行会訳 1953. 国民文庫

  • スターリン戦後著作集 スターリン全集刊行会訳. 大月書店, 1954.

  • ソ同盟共産党大会政治報告. 第15回 スターリン全集刊行会訳 1954. 国民文庫

  • ソ同盟共産党大会政治報告. 第16回 スターリン全集刊行会訳 1954. 国民文庫

  • 民族問題とレーニン主義 他十篇 スターリン全集刊行会訳 1954. 国民文庫

  • 平和的共存 スターリン全集刊行会訳 1955. 国民文庫

  • レーニン=スターリン青年論 自由ドイツ青年団中央委員会編 松本滋訳 1955. 国民文庫

  • スターリン極秘書簡 モロトフあて・1925年-1936年 ラーズ・リーほか編 岡田良之助,萩原直訳. 大月書店, 1996.12.



スターリンが登場する作品


映画


  • 10月のレーニン(1937年、ソ連)

  • 大いなる黎明(1938年、ソ連)

  • 1918年のレーニン(1939年、ソ連)

  • ウィボルグ地区 (1939年、ソ連)

  • 銃を持った人(1939年、ソ連)

  • 誓い(1946年、ソ連)

  • 第三の打撃(1948年、ソ連)

  • スターリングラード戦(1949年、ソ連)


  • ベルリン陥落(1949年、ソ連)


  • ヨーロッパの解放(1970年、ソ連)


  • 映写技師は見ていた(1991年、アメリカ)


  • 独裁/スターリン (1992年、アメリカ、スターリン:ロバート・デュバル)


  • 革命の子供たち(1996年、オーストラリア)


  • フルスタリョフ、車を! (1998年、ロシア)


  • スパイ・ゾルゲ(2003年、日本)


  • 遥かなる勝利へ(2011年、ロシア)


  • スターリンの葬送狂騒曲(2017年、イギリス)



脚注




  1. ^ abcdAlthough there is an inconsistency among published sources about Stalin's year and date of birth, Iosif Dzhugashvili is found in the records of the Uspensky Church in Gori, Georgia as born on December 18 (Old Style:December 6) 1878. This birth date is maintained in his School Leaving Certificate, his extensive tsarist Russia police file, a police arrest record from April 18, 1902 which gave his age as 23 years, and all other surviving pre-Revolution documents. As late as 1921, Stalin himself listed his birthday as December 18, 1878 in a curriculum vitae in his own handwriting. However, after his coming to power in 1922, Stalin changed the date to 1879年December 21(ユリウス暦 December 9). That became the day his birthday was celebrated in the Soviet Union.“Prominent figures”. State and Power in Russia. 2008年7月19日閲覧。


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  63. ^ 1938年12月8日に内務委員の職を罷免されてベリヤに取って代わられ、翌1939年の4月10日に逮捕され、1940年2月4日に銃殺刑となった。


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  82. ^ なお日本は1933年の斉藤内閣期に、国際連盟を脱退していた。ドイツも同様である。


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  107. ^ しかしこの時期に赤軍はスターリングラード前面で大規模な戦術的後退を実施しており、同指令と明らかに矛盾する。主眼は大祖国戦争の意義の強調であり、独諜報機関へのかく乱工作の側面もあったものとされている。


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  153. ^ 大粛清では、カーメネフ、ジノヴィエフ、ラデックらがユダヤ人である点には触れられなかった。トロツキーについても、『プラウダ』などの風刺画で、額にハーケンクロイツを付けた姿など「ナチスの手先」として描かれることが多く、ユダヤ人であることには言及されなかった。


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  180. ^ 外部リンクのボリシェビキを再発見するを参照、1枚目の写真では写っているトロツキーが巧妙に消されているのが分かる。トロツキー失脚後はこちらの写真しか使われなかった。


  181. ^ ロシアのニュースを参照。トロツキーの顔が2枚目の写真では削り取られている。

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参考文献



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  • スターリン時代 クリヴィッキー 根岸隆夫訳. みすず書房, 1962.

  • 暴虐の人スターリン B.ハットン 北見一郎訳. 新潮社, 1962.

  • スターリン ドイッチャー 上原和夫訳. みすず書房, 1963-64.

  • トリアッティの証言 ドキュメント・スターリンの粛清 レナート・ミエーリ 大石敏雄訳. 弘文堂, 1965.

  • スターリン トロッキー 著 マルミュス編 武藤一羊,佐野健治訳. 合同出版, 1967

  • スベトラーナ回想録 父スターリンの国を逃れて スベトラーナ・アリルーエワ 江川卓訳. 新潮社, 1967

  • スターリン主義に抗して あるアメリカ共産党員の回想 ジョン・ゲーツ 雪山慶正,西田勲共訳. 合同出版, 1968.

  • スターリンとの対話 ミロヴァン・ジラス 新庄哲夫訳. 雪華社, 1968.

  • スターリンの肖像 ヴィクトール・セルジュ 吉田八重子訳. 新人物往来社, 1971.

  • スターリンの死 ジョルジュ・ボルトリ 杉辺利英訳. 早川書房, 1975 のち文庫


  • ロバート・コンクウェスト『スターリンの恐怖政治』片山さとし訳 三一書房 1976年

  • 『スターリン批判 フルシチョフ秘密報告』志水速雄訳・解説、講談社学術文庫、1977年

  • スターリン現象の歴史 J.エレンステン 大津真作訳. 大月書店, 1978.10.

  • スターリン主義を語る G.ボッファ, G.マルチネ 佐藤紘毅訳 1978.2. 岩波新書

  • クレムリンとのわが闘争 私はスターリンに裏切られた ミロヴァン・ジラス 新庄哲夫訳. 学習研究社, 1980.12.

  • スターリンとスターリン主義 ロイ・メドヴェーデフ 石堂清倫訳. 三一書房, 1980.9.

  • スターリン主義とはなにか ジュゼッペ・ボッファ 坂井信義訳. 大月書店, 1983.8.

  • デービッド・シプラー『ロシア 崩れた偶像・厳粛な夢』川崎隆司監訳、時事通信社 1984年

  • ニコライ・トルストイ 『スターリン その謀略の内幕』 読売新聞社、1984年

  • 大粛清・スターリン神話 アイザック・ドイッチャー 大島かおり,菊地昌典訳 ティビーエス・ブリタニカ 1985.4

  • 評伝スターリン アルド・アゴスティ 坂井信義訳. 大月書店, 1985.4.

  • スターリンと闘った人々 オールド・ボリシェヴィキの回想録 水谷驍,E.マンデル著 井上隆太,鎌倉良訳 柘植書房, 1987.11.

  • バーナード・ハットン『スターリン その秘められた生涯』木村浩訳、講談社学術文庫 1989年

  • アブドゥラフマン・アフトルハノフ『スターリン謀殺―スターリンの死の謎 ベリヤの陰謀』田辺稔訳、中央アート出版社 1991年

  • ドミトリー・ヴォルコゴーノフ 『勝利と悲劇 スターリンの政治的肖像』 朝日新聞社、1992年

  • クリストファー・アンドルー、オレク・ゴルジエフスキー共著『KGBの内幕』福島正光訳、文藝春秋 1993年

  • ロバート・コンクエスト著『スターリン ユーラシアの亡霊』佐野真訳、時事通信社 1994年

  • ワレンチン・M・ベレズホフ、栗山洋児訳 『私は、スターリンの通訳だった。:第二次世界大戦秘話』 同朋舎出版、1995年。ISBN 4810422283。

  • King, David The Comissar Vanishes, Metropolitan Books, 1997, ISBN 0-8050-5294-1

  • イリヤ・ズバルスキー/サミュエル・ハッチンソン共著『レーニンをミイラにした男』赤根洋子訳、文春文庫、2000年

  • ルドルフ・シュトレビンガー『赤軍大粛清』守屋純訳 学習研究社 1996年/学研M文庫、2001年

  • アンソニー・リード、デーヴィッド・フィッシャー共著 『ヒトラーとスターリン 死の抱擁の瞬間』根岸隆夫訳、みすず書房、2001年


  • アラン・ブロック『対比列伝 ヒトラーとスターリン』鈴木主税訳、草思社 2003年

  • ジョレス&ロイ・メドヴェージェフ『知られざるスターリン』久保英雄訳、現代思潮新社 2003年

  • ステファヌ・クルトワ/ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書(ソ連篇)』外山継男訳、恵雅堂出版、2006年

  • エドワード・ラジンスキー 『赤いツァーリ:スターリン、封印された生涯』 日本放送出版協会、1996年

  • ユーリイ・ボーレフ『スターリンという神話』亀山郁夫訳、岩波書店 1997年

  • サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』染谷徹訳、白水社、2010年

  • サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 青春と革命の時代』松本幸重訳、白水社、2010年


  • Applebaum, Anne (2003). Gulag:A History. Doubleday. ISBN 0-7679-0056-1. 


  • Brackman, Roman (2001). The Secret File of Joseph Stalin:A Hidden Life. Frank Cass Publishers. ISBN 0-7146-5050-1. 


  • Overy, R. J. (2004). The Dictators:Hitler's Germany and Stalin's Russia. W. W. Norton & Company. ISBN 0-393-02030-4. 


  • Tucker, Robert C. (1992). Stalin in Power:The Revolution from Above, 1928–1941. W. W. Norton & Company. ISBN 0-393-30869-3. 


日本人の著作


  • 革命の挫折 スターリン主義の歴史 1913-60年 佐久間元 論争社, 1961. 論争叢書

  • スターリン主義の解剖 勝部元編. 合同出版社, 1963.

  • 異端の哲学史 スターリン主義への葬送曲 山田宗睦 弘文堂, 1966.

  • マルクス主義とスターリン主義 対馬忠行 現代思潮社, 1966.

  • 歴史としてのスターリン時代 菊地昌典 盛田書店, 1966

  • スターリン批判以後 黒田寛一 現代思潮社, 1969.

  • スターリン 鋼鉄の巨人 人物現代史 大森実 講談社、1978

  • スターリン 木村武雄 土屋書店, 1978.12.

  • スターリン暗殺計画 ドキュメンタル・ミステリィ 桧山良昭 徳間書店, 1978.10.

  • スターリンと大国主義 不破哲三 1982.3. 新日本新書


  • 福田ますみ『スターリン 家族の肖像』文藝春秋 2002年 ISBN 416358160X

  • 亀山郁夫『大審問官スターリン』小学館 2006年 ISBN 4093875278


  • 斎藤勉『スターリン秘録』産経新聞社、2001年 のち扶桑社文庫

  • 横手慎二『中公新書 2274 スターリン「非道の独裁者」の実像』2014年 中央公論社 ISBN 978-4-12-102274-5



関連項目
























先代:

ウラジーミル・レーニン



ソビエト連邦の旗最高指導者


1927年 - 1953年


次代:

ゲオルギー・マレンコフ







先代:

ヴャチェスラフ・モロトフ



ソビエト連邦の旗人民委員会議議長(首相)


1941年 - 1946年


次代:

閣僚会議議長へ移行







先代:

人民委員会議議長より移行



ソビエト連邦の旗閣僚会議議長(首相)


1946年 - 1953年


次代:

ゲオルギー・マレンコフ







先代:

セミョーン・チモシェンコ



ソビエト連邦の旗国防人民委員(国防大臣)


1941年 - 1946年


次代:

軍事大臣へ移行







先代:

国防人民委員より移行



ソビエト連邦の旗軍事大臣


1946年 - 1947年


次代:

ニコライ・ブルガーニン







先代:

設置


ソビエト連邦共産党書記長


1922年 - 1953年


次代:


ゲオルギー・マレンコフ
(書記局筆頭書記)










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