ローリング・ストーンズ
The Rolling Stones | |
---|---|
ミック・ジャガー、キース・リチャーズ ロン・ウッド、チャーリー・ワッツ | |
基本情報 | |
別名 | ストーンズ |
出身地 | イングランド ロンドン |
ジャンル | ロック ブルース ブルースロック リズム・アンド・ブルース サイケデリック・ロック ロックンロール ロカビリー |
活動期間 | 1962年 - |
レーベル | デッカ, ロンドン, ローリング・ストーンズ, ヴァージン, アブコ, インタースコープ, ポリドール |
公式サイト | www.rollingstones.com/ |
メンバー | ミック・ジャガー(ボーカル) キース・リチャーズ(ギター) ロン・ウッド(ギター) チャーリー・ワッツ(ドラムス) |
旧メンバー | ブライアン・ジョーンズ(ギター) イアン・スチュワート(キーボード) トニー・チャップマン ディック・テイラー ビル・ワイマン(ベース) ミック・テイラー(ギター) |
ザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) は、イギリスのロックバンド。1962年4月のロンドンで、ブライアン・ジョーンズ(ギター、ハーモニカ)、イアン・スチュワート(ピアノ)、ミック・ジャガー(リードヴォーカル、ハーモニカ)、キース・リチャーズ(ギター、ボーカル)によって結成、その後間もなくベーシストのビル・ワイマンとドラマーのチャーリー・ワッツが参加した。
結成当初のリーダーはジョーンズであったが、後にジャガーとリチャーズがコンビで作曲を行い、グループをリードするようになった。1969年、ジョーンズは体調不良と法律問題のためバンドへの貢献が減少しツアーへの参加もできなくなり、バンドを脱退、その3週間後にプールで溺死した。ジョーンズの後任としてミック・テイラーが加入、1974年に脱退するまで活動を続けた。その後、ロン・ウッドが加入する。ワイマンは、1993年にバンドを脱退、後任としてダリル・ジョーンズがベースを担当するようになるが、正式メンバーとしては加入していない。スチュワートは、1963年に公式メンバーから外されるが、バンドのロードマネージャーを続け、1985年に死去するまでピアニストとしてツアーやレコーディングに参加した。1982年以降は、チャック・リーヴェルがバンドのキーボードを担当している。
1960年代前半から現在まで半世紀以上、1度も解散することなく第一線で活躍を続ける、ロック界の最高峰に君臨するバンドである。エアロスミスやプライマル・スクリーム、日本の萩原健一とテンプターズやRCサクセションなど、ローリング・ストーンズに影響を受けたアーティストは数多く存在する。ストーンズは労働者バンドというイメージが強いが、実際は違う。ミック・ジャガーとブライアン・ジョーンズは中流階級の出身である[1]。
ストーンズは当初ヨーロッパでの人気が高まり、間もなくブリティッシュ・インヴェイジョンの一波として北米での成功を収めた。イギリスでは22作のスタジオアルバム(アメリカでは24作)、11枚のライブアルバム(アメリカでは12作)、多くのコンピレーションをリリースし、現在までの全世界での売り上げは2億枚を超える[2]。『スティッキー・フィンガーズ』(1971年)はその後アメリカで8連続No1となるアルバム群の最初の1枚であった。最新作の『ア・ビガー・バン』は2005年にリリースされた。1989年にロックの殿堂入りした。
ストーンズの出現は、最初のアーバンブルースの世界的な人気の高まりの象徴の一つであった。バンド名はシカゴブルースの巨匠、マディ・ウォーターズの"Rollin' Stone"にちなんで、当時リーダーであったジョーンズが命名した[3]。ストーンズの活動継続と関連に関して評論家のロバート・パーマーは、彼らは「より短命なポップ・ファッションが現れたり消えたりしている」間、「リズム・アンド・ブルースとソウル・ミュージックの中で伝統的な真実に根ざしている」ことによると語っている[4]。初期のレパートリーではリズム・アンド・ブルースとブルースのカヴァーが多くを占めていたが、その中にはいつもロックンロールが含まれていた。
代表曲として「サティスファクション」「一人ぼっちの世界」「黒くぬれ!」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」「ルビー・チューズデイ」「夜をぶっとばせ」「悪魔を憐れむ歌」「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「ホンキー・トンク・ウィメン」「ブラウン・シュガー」「ダイスをころがせ」「悲しみのアンジー」「ミス・ユー」「スタート・ミー・アップ」など、数多くのヒット曲がある。
目次
1 歴史
1.1 初期
1.2 1962-1964
1.3 1965-1969
1.4 1970-1974
1.5 1975-1982
1.6 1983-1991
1.7 1992-2004
1.8 2005-2011
1.9 2012年・結成50周年
2 メンバー
3 音楽上の特色
4 作品
5 来日公演
6 出典
7 参考文献
8 外部リンク
歴史
初期
1950年代初め、キース・リチャーズとミック・ジャガーは幼なじみであり、双方の一家が引っ越すまでダートフォードのウェントワース・プライマリースクールでの級友であった[5]。1960年、シドカップ・アートカレッジの学生であったリチャーズとロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの学生であったミックがダートフォード駅で再会する。ミックが持っていたチャック・ベリーとマディ・ウォーターズのレコードで、お互いの興味が明らかになって友情が復活し、ディック・テイラー(後にプリティ・シングスのメンバーとなる)を加えてのバンド「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」結成につながる[6][7]。3人はアーリング・ジャズクラブでアレクシス・コーナーの「ブルース・インコーポレイテッド」のステージにゲスト出演していたブライアン・ジョーンズのスライドギターを目の当たりにして衝撃を受ける。ブルース・インコーポレイテッドには、後にストーンズのメンバーとなるイアン・スチュワートとチャーリー・ワッツも参加していた[8]。
イアンは練習場所を見つけ、ブライアンと共に加入し、バンドはシカゴ・ブルースを演奏するようになった。名前も決定していないバンドはミック、ブライアン、イアンに加え、ミックが強要して加えたキースと共に最初のリハーサルを行った。リハーサルには、ギタリストのジェフ・ブラッドフォードとヴォーカリストのブライアン・ナイトも参加したが、2人はミックとキースが好むチャック・ベリーやボ・ディドリーの曲を演奏することに異論を述べ、バンドへの加入を拒否した[9]。1962年6月のラインアップはミック、ブライアン、キース、イアン、ディック、及びドラマーのトニー・チャップマンであった。キース曰く、ブライアンが「ジャズ・ニュース」紙との電話の間にバンド名を決定したという。バンドの名前を尋ねられたブライアンは、床にあったマディ・ウォーターズのレコードを見て、その中の1曲「ローリン・ストーン」をバンド名にした[10][11][12]。
1962-1964
1962年7月12日、バンド名はマーキー・クラブそのままに「ザ・ローリン・ストーンズ The Rollin' Stones」として最初のギグを行った[13]。ラインナップはミック、キース、ブライアン、ピアノにイアン、ベースにディック、ドラマーはミック・エイヴォリー(後にキンクスに加入)であった。ブライアンとイアンはシカゴ・ブルースを演奏したがったが、ミックとキースが好むチャック・ベリーやボ・ディドリーの演奏にも同意した[14]。ビル・ワイマンは1962年12月に加入し、チャーリー・ワッツは翌月の1963年1月に説得されて加入、バンドのリズム体が確定した[6][15]。ビルがメンバーに引き込まれた理由が、「当時、大出力のベースアンプを所有していたから」という、ジョーク交じりの他メンバーのインタビューもあった。当時のマネージャーであったジョルジオ・ゴメルスキーは、クロウダディ・クラブに日曜日の午後のステージを固定した。ゴメルスキーはクロウダディ・クラブが「ブルースの国際的なルネッサンス」の引き金となったと語った。マージー・ビーツ・ブームの到来と共に、ゴメルスキーはクロウダディでのショーを「スウィンギン・ロンドン」の到来の有力な側面と記した[16]。
ビートルズのパブリシストであったアンドリュー・ルーグ・オールダムがバンドのマネージャーに就任したが、彼は19歳とバンドのメンバーより若く、エージェントのライセンスを取得するのが不可能であった。従って、アンドリューの母が息子に代わってサインをし、オールダムとベテランのブッキング・エージェントであるエリック・イーストンの間の協力関係が築かれた[17][18][19][20]。ゴメルスキーはバンドとの契約書を交わしておらず、オールダムがマネージャーになることは相談されなかった[21]。オールダムはバンド名の綴りを "The Rollin' Stones" から "The Rolling Stones" へ変え、リチャーズの姓も「もっとポップに見えるから」と「リチャード」と変えさせた[22][23]。スチュワートはオールダムの構想に合わず、ワイマンによれば「かわいくてやせっぽちの長髪の少年は1963年5月にメンバーから外されロードマネージャーとなり、1985年に死ぬまでバンドのピアニストを担当した。」[24][25]とのことであった。
彼らは新しい演奏、作曲とレコーディングの完全なコントロール、マスターテープの所有権に対するロイヤリティとして当時の典型に対して三倍の額を得ることができた[26][27]。またデッカとの契約でオールダムはデッカのスタジオでは無くリージェント・サウンド・スタジオを使わせることにした。リージェントはモノラルの設備で、音響処置のため天井は卵ケースが貼り付けられ、都合の良いスタジオとなった[28][29][30]。オールダムはレコーディング経験はほとんど無かったがストーンズのプロデューサーとなり、リージェントについて「音が漏れ出て、楽器から楽器へ、正しい方法で」音楽が作り出される「雑音の壁」と言った[27][31]。リージェントの使用料は低額で、バンドは当時一般的であった3時間分を予約する代わりに、長期間にわたってレコーディングや練習を続けることができた。イギリスでのファーストアルバムでは全ての曲がリージェントで録音された[32][33]。
オールダムはストーンズが独立スタジオを使用していることを音楽雑誌に宣伝し、EMIに管理されたビートルズよりも「独立」した存在であることをアピールした。オールダムは「普通の人たち...スタジオでは男たちのために汗をかく。」と語っている[34]。オールダムはイギリスのファーストアルバムでは微笑まないメンバーの写真を使い、「あなたの娘をストーンズと結婚させたいか?」[35]という挑発的な見出しを載せ、結局ビートルズの不快な対照としてバンドを宣伝することを止めた。オールダムはバンドに同じスーツを用意したが、メンバーは公式の場にカジュアルな服装で現れるのに戻った[36]。ビルによれば、「俺たちの評判とイメージが悪ガキだってのは後からやってきた。それは完全に偶然で、アンドリューが仕込んだ物じゃない。彼は単にそれを徹底的に利用しただけさ。」と語っている[37]。
デビューシングル、チャック・ベリーのカバーである「カム・オン」は1963年6月7日にリリースされた。ストーンズは同曲をライブで演奏するのを拒否し[38]、デッカは宣伝の広告看板を1枚だけ買い上げた。オールダムの指示でファンクラブの会員がシングルを購入し[39]、「カム・オン」はイギリスのシングルチャートで21位に上昇した[40]。シングルがチャートインしたことでバンドはロンドンの外で演奏する機会が与えられ、7月13日にミドルズブラのアウトルック・クラブでホリーズと共演することとなる[41]。その年の後半にオールダムとイーストンは、ボ・ディドリー、リトル・リチャード、エヴァリー・ブラザースといったアメリカのミュージシャン達をサポートする初のUKツアーを計画した。この1963年秋のツアーは経験の少ないバンドにとってステージの「トレーニンググラウンド」となった[27][42][43]。
このツアーの間にストーンズはセカンドシングル、「彼氏になりたい」を録音した。この曲はレノン・マッカートニーによるもので、イギリスで12位を達成した。3枚目のシングル、バディ・ホリーの「ノット・フェイド・アウェイ」は、1964年2月にリリースされ、3位を記録した。
オールダムの提案でミックとキースは共同で曲を作り始めた。最初の曲を彼は「めそめそした模倣」と評した[44]。曲作りのペースが進まなかったため、ファーストアルバム『ザ・ローリング・ストーンズ』(アメリカでは『イングランズ・ニューエスト・ヒットメーカーズ』)の収録曲はカバーが大半で、ジャガー・リチャーズのオリジナルは「テル・ミー」のみであった。また、2曲のクレジットは「ナンカー・フェルジ」と記載された。これはバンド全員のペンネームであった[45]。
1964年6月に行われた最初のUSツアーは、ビル・ワイマンによれば「災害」であった。「俺たちが到着したとき、俺たちにはそこでのヒットレコードもその他の物も持っていなかった。[46]」ツアーはそのほとんどがガラガラという状況であったが、ストーンズは積極的にメディアへの露出・ライヴ活動を行った。ディーン・マーティンのバラエティショー「ザ・ハリウッド・パレス」では、マーティンはバンドの演奏と髪型をからかった[47]。このツアーの間にバンドはシカゴのチェス・スタジオで2日間のレコーディングを行い、マディ・ウォーターズを含む多くのミュージシャンから大きな影響を受けている[48][49]。これらのセッションで録音された曲には、初のイギリスナンバー1となったボビー・ウーマックのカバー、「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」も含まれた[50]。アメリカでの成功が本格化していない頃、本国イギリスならびにヨーロッパではすでに人気が高まっており、イギリスではファーストアルバムが12週連続No.1に輝いている。
1964年8月にはオランダのスヘフェニンゲンでコンサートを行うが、観客が乱闘を始めたため約15分で中止となった。
1964年にリリースされた『T.A.M.I.ショー』ではジェームス・ブラウン & ザ・フェイマス・フレームスに続いて収録された。ミックは2003年に「俺たちは実際にはジェームス・ブラウンの後には演奏していないよ。なぜならそれぞれのセクションの撮影の間には1時間の間があったからなんだ。それにもかかわらず、彼はそのことにすごくイライラしていた...」と語っている[51]。10月25日にバンドは「エド・サリヴァン・ショー」に出演した。その際に巻き起こした騒動で、サリヴァンは以降彼らの出演を禁止した[52]が、後に再び出演している[8]。アメリカでのセカンドアルバム『12×5』はこのツアーの間にリリースされている[53]。本作もファーストアルバム同様に大半の曲がカバーであったが、オリジナル曲も増加した。
イギリスでの5枚目のシングル、ウィリー・ディクスンのカバー「リトル・レッド・ルースター」は1964年11月にリリースされ、2枚目のイギリスNo.1となる。これはブルース曲として初のNo.1であった。アメリカでのディストリビューターであるロンドン・レコードは「リトル・レッド・ルースター」のシングルリリースを拒否した。ロンドンは1964年12月にジャガー・リチャーズのオリジナル曲「ハート・オブ・ストーン c/w ホワット・ア・シェイム」をリリースした。「ハート・オブ・ストーン」はアメリカで19位となった[54]。
1965-1969
セカンドアルバム『ザ・ローリング・ストーンズ No.2』は1965年1月にリリースされチャート1位となり、アメリカ盤は2月に『ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!』がリリース、チャート5位となる。アルバムはシカゴのチェス・スタジオおよびロサンゼルスのRCAスタジオで録音された[55]。1965年の1月から2月にかけてバンドはオーストラリアとニュージーランドで34回のショーを行い、100,000人が動員された[56]。
ジャガー/リチャード名義で作曲した曲で(当時、キース・リチャーズはファミリー・ネームをリチャードと名乗っていて、1970年代後半にリチャーズに戻した)、最初にイギリスのシングルチャート1位になったのは「ラスト・タイム」(1965年2月)であり、同曲はアメリカでは9位であった。キースは後にこの曲を「ストーンズにとって作曲について考える橋渡しとなった曲だ。それは俺たちに信用のレベルを与え、どのようにやっていくかの小道となった。」との認識を語った[57]。バンドにとっての初の世界的ナンバー1ヒットは「サティスファクション」であり、同曲は1965年5月、3回目の北米ツアーの間に録音された。ファズで歪ませた特徴的なギターリフで始まり、キースはホーンセクションをガイドにしようと思い描いた。オールダムは意見を異にし、ホーンをオーバーダブせずに「サティスファクション」をリリースした。「サティスファクション」は1965年6月にアメリカでリリースされ、全米で4週連続No.1となる。以後、このソングライターチームによって何曲もの大ヒットナンバーを生んでいる[57][58]。
アメリカ版『アウト・オブ・アワ・ヘッズ』(1965年7月)もチャートNo.1となる。同作には7曲のオリジナル(ジャガー・リチャーズ名義が3曲、ナンカー・フェルジ名義が4曲)収録された[59]。ストーンズの世界的No.1となった2番目の曲「一人ぼっちの世界」は1965年秋にリリースされ[8]、続いてアメリカで『ディッセンバーズ・チルドレン』がリリースされた[53]。
1966年4月(アメリカは6月)にリリースされた『アフターマス』(イギリス1位;アメリカ2位)は、ストーンズにとって全曲がオリジナルとなった初のアルバムであった。このアルバムでブライアンはギターとハーモニカばかりでなく多くの貢献を果たした。中東からの影響を色濃くした「黒くぬれ!」ではシタールを演奏し、バラードの「レディ・ジェーン」ではダルシマーを演奏した。また、「アンダー・マイ・サム」ではマリンバを演奏した。そして、12分にも及ぶ「ゴーイン・ホーム」はトップセラーのロックアルバムに収録された初のジャムセッションとして注目された。
ストーンズのイギリスおよびアメリカにおけるシングルチャートでの成功は1966年にピークに達した。「19回目の神経衰弱」(1966年2月、イギリス2位;アメリカ2位)の後には最初の英米ナンバー1の「黒くぬれ!」が続いた。「マザーズ・リトル・ヘルパー」(1966年6月)はアメリカでのみシングルリリースされ、8位となった。同曲は麻薬乱用問題に言及した初のポップソングの一つであった。この曲でミックは通常使うアメリカ南部のアクセントよりも自身の自然なロンドン訛りで歌っている。
1966年9月の「マザー・イン・シャドウ」(イギリス5位;アメリカ9位)はいくつかの点で注目に値した。ストーンズの曲で初めてブラスセクションを取り入れ、ジャケット裏の写真は女装したメンバーの物であった。また、ピーター・ホワイトヘッドによって初のプロモーションフィルムが作られた。
1967年1月、『ビトウィーン・ザ・バトンズ』(イギリス3位;アメリカ2位)がリリースされる。本作はアンドリュー・オールダムがプロデューサーとして関わった最後のアルバムであった(バンドマネージャーとしての役割は1965年にアラン・クレインに引き継がれていた)。アメリカ版では両A面シングルの「夜をぶっとばせ c/w ルビー・チューズデイ」が収録され、アメリカでは1位、イギリスでは3位となった。バンドはニューヨークで「エド・サリヴァン・ショー」に出演、「夜をぶっとばせ」を演奏したが、歌詞を「let's spend some time together」に変えるよう要請された[6][60]。
1967年の前半、ミック、キース、ブライアンは気晴らしで始めた麻薬に対して「ニュース・オブ・ザ・ワールド」紙が「Pop Stars and Drugs: Facts That Will Shock You」と題した3部構成の記事を発表した後、当局による摘発を受ける。記事ではザ・フーのピート・タウンゼントやクリームのジンジャー・ベイカーらが参加したムーディー・ブルースが主催したLSDパーティについて述べ、トップスター達が薬物を使用していることを暴露した。最初の記事ではドノヴァンがターゲットにされ(すぐ後に摘発され罰金刑を受ける)、第2回(2月5日発行)でストーンズがターゲットにされた[61]。
記事の提供者はロンドンの高級クラブ、ブレーズで一晩を過ごしたが、そこでストーンズのメンバーは数個のベンゼドリンの錠剤を所持し、ハシシのかけらを示し、彼の住居に仲間を誘ってそれを吸ったとされた。記事ではこれはミック・ジャガーのことであるとしたが、これは間違いであったとされた。事実提供者はこれはブライアン・ジョーンズのことであるとした。記事が発表された夜、ミックはエイモン・アンドリュースのトークショーに出演、同紙を名誉毀損で訴えると発表した[61]。
1週間後の2月12日日曜日、サセックス警察はキースの運転手からの内通を受けて[62]、レッドランズのキースの自宅で行われていたパーティを捜査した。逮捕者はいなかったものの、警察は麻薬容疑の証拠品を押収、後にミックとキースおよび友人の画商ロバート・フレーザーが告発された。キースは2003年に「レッドランズで警察に捕まったとき、俺たちはこれが全体の異なったボールゲームであり、楽しみが止まったんだと突然分かったのさ。その時までそれは、まるでロンドンが自分が欲しいときにできた美しい空間に存在しているかのようだったんだ。[63]」警察の捜査責任者は後に加えた。「私がそれを聞いたとき、彼は2度と同じように歩かなかった。[62]」
警察の捜査の結果を待っている間の1967年3月、ミック、キース、ブライアンは、マリアンヌ・フェイスフル、ブライアンのガールフレンドのアニタ・パレンバーグなどの友人と一緒にモロッコへの短期旅行を行った。この旅行の間にブライアンとアニタの関係は悪化し、アニタはキースと共にモロッコを離れた[64]。キースは後に「そいつは俺とブライアンとの棺の最後の釘だった。奴は俺を決して許さないだろうし、俺は奴を責める気は無いが、最悪の出来事が起こった。[65]」と語っている。キースとアニタはその後12年間を共に過ごした。この様にメンバー間の関係は複雑だったにも関わらず、ストーンズは1967年3月から4月にかけてヨーロッパツアーを行った。このツアーでは、ポーランド、ギリシャ、イタリアでの初のコンサートも含まれた[66]。
1967年5月10日、ミック、キースとフレーザーはレッドランドでの一件に関連して逮捕された。同日ブライアンの自宅が警察によって捜査され、大麻所持の容疑でブライアンも逮捕された[6]。メンバー5人の内3人が麻薬容疑で逮捕されることとなり、ミックとキースは6月末に起訴された。6月29日、ミックはアンフェタミン錠剤4錠の所持容疑で3ヶ月の禁固刑を宣告された。キースは自宅の敷地内で大麻の喫煙を許したことで懲役1年の有罪判決を受けた[67][68]。ミックとキースはその時点で投獄されたが、翌日には上訴を保留して保釈された[69]。タイムズ紙は「牛刀を以て鶏を割くのは誰だ? -Who breaks a butterfly on a wheel?-」と題したウィリアム・リーズ=モッグによる擁護記事を掲載した。記事はミックが「純粋に匿名の若者」よりもマイナーな最初の犯罪ではるかに厳しい扱いを受けていたことを指摘している[70]。
上告の判決を待っている間、バンドはファンが示す忠誠心への感謝の気持ちとして、ニューシングル「この世界に愛を」を録音した。それは刑務所のドアが閉まる音で始まり、プロモーションフィルムにはオスカー・ワイルドの裁判の暗示が含まれていた[71]。7月31日に控訴裁判所はキースの判決を覆し、ミックの判決は条件付き釈放に至った[72]。ブライアンの裁判は1967年11月に行われた。最初の求刑を控訴した後の12月にブライアンは1000ポンドの罰金を科せられ、3年間の保護観察と専門的な治療を受けるよう命じられた[73]。
1967年12月、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』リリース直後に『サタニック・マジェスティーズ』(イギリス3位;アメリカ2位)がリリースされた[6][74]。『サタニック・マジェスティーズ』はミック、キース、ブライアンが訴訟問題を抱えるという難しい状況の下でレコーディングが行われた。バンドはこのセッション中にプロデューサーのアンドリュー・オールダムと袂を分かった。この分裂は少なくとも公的には友好的であったが[75]、ミックは2003年に「アンドリューが去った理由は、彼は俺たちが集中していないと考え、俺たちは幼稚であると思ったからだ。本当に最悪な瞬間だった。そして俺はアンドリューにとっても最悪な瞬間だったろうと思ったよ。そこには気を散らすようなことがたくさんあって、その時点で集中させる必要があった。それはアンドリューの仕事だった。」と語っている[6]。
このように、『サタニック・マジェスティーズ』はストーンズが自らプロデュースした最初のアルバムとなった。そのサイケデリックなサウンドはカバーアートで補完され、マイケル・クーパーによる3D写真が貼り付けられた。クーパーは『サージェント・ペパー』のカバー写真も担当していた。ビル・ワイマンの「イン・アナザー・ランド」はシングルカットもされたが、これはミックがリードを歌わなかった初の曲となった[76]。
バンドは1968年前半の数ヶ月間、次のアルバムの素材に取り組んだ。このセッションから5月にシングルとして「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」がリリースされた。この曲とアルバム『ベガーズ・バンケット』(イギリス3位;アメリカ5位)は、カントリーソングとブルースからインスパイアされた曲を網羅し、バンドのルーツへの回帰を示し、プロデューサーのジミー・ミラーとのコラボレーションの始まりとなった。本作には「ストリート・ファイティング・マン」(1968年5月の政治的な騒乱に影響を受けた)と「悪魔を憐れむ歌」も収められた[77][78]。「悪魔を憐れむ歌」は、「歌詞が神を冒涜している」という宗教団体からの抗議が起こり、このアルバムが大量に燃やされるという事件があった。この曲のレコーディング風景は、ジャン=リュック・ゴダール監督による音楽映画『ワン・プラス・ワン』として記録されている。
『ベガーズ・バンケット』はリリース直後、好意的に評価された。キースはこの頃からリズムパート(しばしばカポと一緒に)にオープン・チューニングを使い始めた。1968年にはオープンEまたはオープンDチューニングが最も顕著だった。1969年になるとしばしば5弦のオープンGチューニング(6弦は取り外した)を使うようになり、1969年のシングル「ホンキー・トンク・ウィメン」、 「ブラウン・シュガー」(『スティッキー・フィンガーズ』1971年)、 「ダイスを転がせ」(カポIV)、「ハッピー」(カポIV)(『メインストリートのならず者』1972年)、「スタート・ミー・アップ」(『刺青の男』1981年)などで聴かれるようになった[79]。
1968年末には『ロックンロール・サーカス』の撮影が行われた。同作にはジョン・レノン、オノ・ヨーコ、ザ・ダーティ・マック、ザ・フー、ジェスロ・タル、マリアンヌ・フェイスフル、タジ・マハールらが出演した。映像は28年間にわたって公開されなかったが、最終的に1996年に正式にリリースされた[80]。2004年10月にはDVD版がリリースされた[81]。
『ベガーズ・バンケット』のリリース後、ブライアン・ジョーンズはますますトラブルを起こし、バンドへの貢献は散発的なものとなっていた。ミックはブライアンが「この生き方には心理的に適していない」と述べている[82]。彼の薬物使用は障害になっており、彼はアメリカ合衆国のビザを取得することができなかった。キースは、ブライアンの家で6月に行われたミック、キース、チャーリーの話し合いでブライアンは「再びロードに出る」ことができないと認め、「俺は辞める。そしてもし俺がそうしたければ俺は戻ってくることができる。」と言ってバンドを脱退した、と伝える[83]。脱退から1ヶ月足らずの1969年7月3日、ブライアンはハートフィールドにあるコットフォード・ファームの自宅のプールで、不思議な状況の下に溺死しているところを発見された[84][85]。ちなみにブライアン邸は、以前『クマのプーさん』の作者として有名なA・A・ミルンが住んでいた家でもある。
。
ストーンズはブライアンの死から2日後となる7月5日に、ロンドンのハイド・パークにあるブラックヒル・エンタープライズの無料コンサートで演奏を行う予定だった。彼らはブライアンの追悼としてコンサートを行うことに決めた。ブライアンの後任となる新ギタリストはジョン・メイオールズ・ブルースブレイカーズ出身のミック・テイラーに決定し、テイラーとの最初のコンサートは、推定250,000人のファンの前で行われた[6]。演奏はグラナダテレビの制作チームによって撮影され、イギリスでは『ストーンズ・イン・ザ・パーク』として放映された。ミックはパーシー・ビッシュ・シェリーが友人ジョン・キーツの死を悼んで書いた詩「アドナイス」からの一節を朗読した。彼らはブライアンの記憶の中で何千匹もの蝶を放った[6]。ショーのオープニングではジョニー・ウィンターの「アイム・ユアーズ・アンド・アイム・ハーズ」が演奏された[86]。
また、次回作の『レット・イット・ブリード』(1969年12月)からの未発表曲「ミッドナイト・ランブラー」「むなしき愛」および『メインストリートのならず者』(1972年5月)からの「ギブ・ミー・ア・ドリンク」も演奏された。このコンサートはリリースされたばかりの「ホンキー・トンク・ウィメン」の初演でもあった。ブラックヒル・エンタープライズのステージ・マネージャー、サム・カトラーは彼らを「世界最大のロック・アンド・バンド[87][86]」として紹介した。カトラーはその後ストーンズのロードマネージャーとなり、69年アメリカツアーでは前述の紹介を繰り返した[88][89]。
『レット・イット・ブリード』(イギリス1位;アメリカ3位)は12月にリリースされた。60年代の最後のアルバムである本作には「ギミー・シェルター」が収録された。この曲では女性ヴォーカリストとしてメリー・クレイトン(リトル・フィートのメンバーであるサム・クレイトンの姉)が起用され、有名なソロ部分を歌っている[90]。
その他には「無情の世界」(ロンドン・バッハ合唱団はコーラスで参加したが、他の収録曲の内容から「恐れ」たためクレジットの削除を要求した。しかしその後この要求を撤回した。)、「ミッドナイト・ランブラー」、ロバート・ジョンソンのカヴァーである「むなしき愛」が含まれた。ブライアンとテイラーはそれぞれ2曲に参加している。
ストーンズはアメリカツアーの直後、サンフランシスコから東に約50マイル離れたオルタモント・スピードウェイで行われたオルタモント・フリーコンサートに出演した。このコンサートでは暴走族ヘルズ・エンジェルスが警備に雇われたが、観客の黒人青年メレディス・ハンターが武器を持っていたとして彼を刺殺するという、いわゆる「オルタモントの悲劇」が起こった[91]。ツアーの一部とオルタモント・コンサートの様子はメイスルズ兄弟の手によって『ギミー・シェルター』に収められた。また、ブートレグが広く出回るようになったため(本ツアーの様子は「Live'r Than You'll Ever Be」としてリリースされた)、その対応として『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト(イギリス1位;アメリカ6位)』が1970年にリリースされた。評論家のレスター・バングは史上最高のライブアルバムと評している[92]。
この年の大晦日には60年代のヒット曲を特集したBBC製作の番組「Pop Go The Sixties」に出演し、ストーンズは「ギミー・シェルター」を演奏している。
1970-1974
1970年、バンドはアラン・クレインおよびデッカ・レコードとの契約を終了した。クレインとの契約紛争の間に、バンドは自らのレーベル、「ローリング・ストーンズ・レコード」 (Promotone BV) を設立した。同レーベルからの第1弾作品として『スティッキー・フィンガーズ』(イギリス1位;アメリカ1位)を1971年3月にリリースした。アルバムジャケットはアンディ・ウォーホルがデザインした[93]。同作には「ブラウン・シュガー」「ワイルド・ホース」が収められたが、これらは1969年のアメリカン・ツアー中にアラバマ州のマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで録音されたものであった。アルバムはブルースの影響を強く受けた前2作の路線を引き継いでいた。その特徴として「ルーズで、今にも崩れそうな雰囲気[94]」を持ったアルバムであり、また、ミック・テイラーが完全参加した初のアルバムでもあった。ストーンズのデッカでの作品権利はクレインのアブコレーベルが所有している。
『スティッキー・フィンガーズ』のリリース後、バンドは金融面での勧告を受ける。高率課税に辟易したミックとキース、ビルの3人はフランス南部へ移住。バンドは移住直前にイギリスで「フェアウェル」ツアーを行った。キースはヴィルフランシュ=シュル=メールに家を借り、メンバーや友人達と生活した。バンドはモービル・ユニットを使い、地下室でレコーディングを行った。そのマテリアルは最終的にロサンゼルスのサンセット・スタジオで編集が行われ、2枚組アルバム(CDでは1枚)『メイン・ストリートのならず者』(イギリス1位;アメリカ1位)として1972年5月にリリースした。評論家ロバート・クリストゴーはこのアルバムをA+と評価し[95]、レスター・バングズはこのアルバムに低評価を与えたが、数ヶ月の内にその評価を一転させ、『ならず者』はストーンズの最高傑作の一つであると認めている[96]。アルバム発表後、3年ぶりの全米ツアーを行った。その頃に撮影された映画『コックサッカー・ブルース』(未公開)と『レディース・アンド・ジェントルメン』(1974年)はツアーのドキュメンタリーであり、テリー・サザーンも出演している。
1972年11月、バンドはジャマイカのキングストンでセッションを始める。『山羊の頭のスープ』(イギリス1位;アメリカ1位)は1973年にリリースされた。シングル「悲しみのアンジー」は世界的なヒットとなり商業的には成功したが、生ぬるく容認された最初のアルバムであった[97]。本作のセッションでは数多くのアウトテイクが生じ、例えば「友を待つ」の初期バージョンも録音されていた。同曲は8年後に『刺青の男』で発表された。
レコーディングはドラッグに関する別の法廷闘争で中断された。それはフランス滞在当時までさかのぼり、キースの逮捕令状も発行され、他のメンバーは証言のためフランスに戻らなければならなかった[98]。これと平行してミックのドラッグに関する裁判(1967年および70年[99])が行われ、73年初めに予定されていたパシフィック・ツアーの計画を複雑な物とした。日本公演は前年に発表されていたが、メンバーの麻薬所持による逮捕歴や、ビートルズ来日の時のような混乱を避けるためという理由により、入国許可が下りず、チケットが完売していたにも関わらず、公演が直前になって中止に。その後、1990年の初来日までストーンズのライヴは夢のまた夢といわれていた。キースは6月にイギリスで逮捕された[100]。その後3年ぶりのヨーロッパ・ツアーはフランスを迂回して、9月から10月にかけて行われた。
バンドはミュンヘンのミュージックランド・スタジオで次回作のレコーディングを行う。アルバム『イッツ・オンリー・ロックンロール』(イギリス2位;アメリカ1位)は1974年にリリースされたが、ジミー・ミラーは麻薬の問題もありプロデューサーを降りていた。代わってミックとキースが「グリマー・ツインズ」としてプロデュースを行った。アルバムのタイトルナンバー「イッツ・オンリー・ロックンロール」は名義こそジャガー/リチャーズになっているものの、実際にはロン・ウッドが作曲し、ミックが詞をつけるという意外な形で完成された。これは、同曲が元々ロン・ウッドがソロアルバムのレコーディングのために曲を作っていたため。“たかがロックンロール、でも俺はそれが好きなんだ”というストーンズの意気地ともいえる歌詞は、ロン・ウッドの自宅にきて酒を飲み交わしていた際にミックとフェイセズのメンバーであるケニー・ジョーンズとの口論から生まれたという。これが原因なのか定かではないが、同曲のヴォーカルはミックとケニーの二人がとっている。これは結果的に、後のメンバー昇格する要因の一つだったと思われる(ジャガー/リチャーズ/ウッドという共同名義で作曲をしているものがある)。
1974年の終わり頃になると、テイラーはメンバーとして我慢がならなくなっていた[101]。バンドの状況は複雑な物になっており、互いに異なった国に住み、法的な問題が正常なツアーを制限するようになっていた。加えて、キースは薬物使用が進み、そしてテイラーは自身の創造的な貢献が認められていないと感じていた[102]。年末、ミュンヘンでのセッションの間にテイラーはストーンズを脱退した[103]。1980年に彼は「僕は少しうんざりするようになっていた。僕は自分のギタリストとしての範囲を広げて、他に何かしたかった。...僕は当時、本当は歌を書いたり作ったりしていなかった。僕はちょうど書き始めていたんだ。そして、それは僕の決定に影響した。...頂きから頂きへとずっと渡っていける何人かの人がいる。彼らは他の誰かの成功に沿って乗ることができる。そして、それが十分でない何人かの人々もいる。僕は本当にそれが十分でなかった。」と語っている[104]。
1975-1982
1975年、テイラーの後任ギタリストを探すため、ミュンヘンで後に「グレイト・ギタリスト・ハント」と呼ばれるオーディションを行った。このセッションに招待されたのは、後にメンバーとなるロン・ウッドの他、ハンブル・パイのリード・ギタリストであったピーター・フランプトン、ジェフ・ベック、ロリー・ギャラガー、ウエイン・パーキンス、ハービィ・マンデルなどがいた(ジェフとロリーは当初、オーディションだったことを知らなかったと語っている。また、彼らは決して加入に同意しなかったろうとも語っている)。シュギー・オーティスもこのセッションに参加したが、加入には至らなかった。パーキンスとマンデルのプレイは、『ブラック・アンド・ブルー』(イギリス2位;アメリカ1位)に収められた。しかしながらキースとミックは、ストーンズを純粋なブリティッシュバンドのままにしておきたかった。ロンがオーディションを受けると、満場一致で決まった[105]。
ロンとキースは、すでにレコーディングやライヴで共演しており、「イッツ・オンリー・ロックンロール」の作曲およびレコーディングに貢献していた。彼は、ミックのオファーをフェイセズとの絆を理由に断っており、「それは本当に俺にとって重要だった」と語っている[106]。ロンは、ストーンズの75年北米ツアーへの参加を公約したが、それはロッド・スチュワートがフェイセズを正式脱退し解散したことを受けてであって、諸説はありながらもこの時点を「ロンのローリング・ストーンズの加入」とする説が一般的である。他のストーンズのメンバーとは異なり、およそ20年後にビルが脱退するまでバンドからサラリーを受ける立場であった。ビルの脱退後、ロンはバンドの収益面でもストーンズの正式メンバーとなった。
1975年北米ツアーはニューヨークのブロードウェイにおいて行われたトレーラーのステージ上でのライブで始まった。サポート・メンバーとしてロン(ギター)、ビリー・プレストン(キーボード)、オリー・ブラウン(パーカッション)などが参加した。公演によっては、イアン・スチュワート(ピアノ)が参加している。ステージには巨大なファルスとロープが現れ、ミックは聴衆の上でそれを揺り動かした。ミックはトロントのエル・モカンボ・クラブでのライブレコーディングを設定し、その様子はバンド久々のライブ盤となった『ラヴ・ユー・ライヴ』(イギリス3位;アメリカ5位)に収められた。
1976年3月に、ロンのストーンズへの正式加入が発表され、同時にツアーも発表された。4月、前年のメンバーのままヨーロッパ・ツアーを行うと同時に、ロン正式加入後初のアルバム『ブラック・アンド・ブルー』がリリースされた。
しかしツアー中のキースは、ヘロインによる依存症状がかなり悪化し、公演中に居眠りや、ホテルでは禁断症状が出て心臓が停止しかけるなど、アクシデントが後を絶たなかった。それを見ていたロンは、警察をごまかしてわざわざヘロインを調達して来たというエピソードがある。ストーンズはツアーの締めとしてネブワース・ロック・フェスティバルに出演し、25万人を超える聴衆の前で演奏した。
1977年2月、キースはトロントへの到着が遅れた。他のメンバーはすでにトロント入りし彼を待っており、キースに対してどこにいるのかと尋ねる電報を送っている。2月24日、アニタ・パレンバーグと共にトロントに到着したキースは税関によって足止めされた。荷物の中からカナビス10グラムとヘロインの形跡が発見されたためであった。アニタは逮捕されたが、出廷を約束し釈放された。その3日後、アニタの逮捕状を持った王立カナダ騎馬警察がキースの部屋を訪れ、22グラムのヘロインを発見した[107]。キースは麻薬密輸の罪で告発される[108]。後に検察官は、キースがカナダ到着後にヘロインを入手したと認めた[109]。バンドはエル・モカンボ・クラブという小さなクラブでの2回のライヴのためにカナダを訪問し、その際に起こった事件だった。ライヴの様子はアルバム『ラヴ・ユー・ライヴ』に収録された。同時にこのカナダ訪問では、当時の首相ピエール・トルドーの夫人、マーガレット・トルドーとのスキャンダルがあり、マーガレットがショーの後にバンドとのプライベート・パーティに出席したことが判明するとより多くの論争が巻き起こった。バンドが行った2回のライヴは公には告知されず、エル・モカンボはその週全部をカナダのバンド、エイプリル・ワインのレコーディングで予約されているとしていた。ローカルラジオ局の1050 CHUMが、エイプリル・ワインの無料ライヴチケットをラジオ番組のコンテストの当選者に配布していた。当選者達は金曜日と土曜日に行われたライヴで、ローリング・ストーンズがステージに現れたのを見て驚いていた[110]。
3月4日、アニタは空港での一件に関して罰金を命じられた[110]。キースに対する裁判は1年以上長引くこととなった。結局は執行猶予を受け、オシャワで2回のチャリティ・コンサートを行うよう命じられた[109]。2つのコンサートは共にローリング・ストーンズとニュー・バーバリアンズ(ロニーが最新のソロアルバムをプロモートするために結成したバンドにキースが加わったグループ)の共演で行われた。この一件でキースはヘロインの使用を止めようと固く決心することとなった[6]。また、3番目の子ども(タラ)の死以来張り詰めていたアニタとの関係の終焉にも大きく影響した。さらにアニタはキースがヘロインを止めようと努力していた際も、ヘロインに耽溺するのを止めることはできなかった[111]。キースが法的および個人的な問題を解決しようとしていた間、ミックは飛び回る生活を続けていた。彼はニューヨークのディスコクラブ、スタジオ54の常連で、しばしばモデルのジェリー・ホールと訪れていた。ビアンカとの結婚生活は長年の別居の後1977年に終了した[112]。
ストーンズは70年代前半からの人気を維持していたが、評論家達はバンドの勢いが衰えたと言い、レコードの売り上げも期待外れになった[8]。70年代後半にパンク・ムーブメントが生じると、その支持者はストーンズを年老いた金持ちの音楽であり[6]、停滞して無意味であると批判した[113]。これは1978年になると一変した。アルバム『女たち』(イギリス2位; アメリカ1位)がリリースされ、「ミス・ユー」「ファーラウェイ・アイズ」「ビースト・オブ・バーデン」「シャッタード」がシングルカットされた。これらはパンク・ムーブメントでの批判に対する返答とされ、大半がテンポの速い単純なギタードライヴのロックンロールであった[113]。アルバムの成功は若年層の人気回復に貢献した。アルバム発表と同時に全米ツアーが始まり、バンドはプロモーションとして「サタデー・ナイト・ライブ」に出演した。バンドは翌年のヨーロッパツアーは行わず、1967年以来3年ごとに行っていたツアーのルーチンは破られた。
1979年4月、裁判所の命令に従ってチャリティ・コンサートをオシャワ・ホールで開く。ニュー・バーバリアンズはよくキースがリーダーだと誤解されているが、実際はロンであり、メディアがこぞってキースに注目したためと思われる。バーバリアンズは、5月いっぱいまで全米ツアーを行った。メンバーはロン(ヴォーカル&ギター)、キース(ギター&ヴォーカル)、イアン・マクレガン(キーボード&ピアノ)、スタンリー・クラーク(ベース)、ジョセフ・モデリステ(ドラムス)、ボビー・キーズ(サックス)。このツアーの模様は、ロンが設立したレコード会社よりライヴ・アルバム(L.A.公演のもの)として、2006年になってようやく日の目を見た。またロンは、来日公演も考えたという。
ストーンズは79年、80年ごろにははっきりスランプに陥っていた。これをずばり指摘したのはDJ小林克也ぐらいである。『女たち』の成功に続いて、ストーンズは1980年中頃に『エモーショナル・レスキュー』(イギリス1位; アメリカ1位)を発表した[114]が、このアルバムの録音は、ミックとキースの関係が悪化したことと、音楽的スランプのため、混乱に陥ったとされている[114]。キースは未だにヘロインを使用していたとイアン・マクレガンは語った[115]。キースはまたアルバムのプロモーションとして80年の夏か秋にツアーを行いたがったが、ミックはこれを拒否した[114]。『エモーショナル・レスキュー』はアメリカとヨーロッパで共に1位となり、シングル「エモーショナル・レスキュー」はアメリカで3位となった[114]。
1981年初めにバンドは再結集し、その年に全米ツアーを行うことを決定した。その年前半の僅かな時間でアルバムを作成し、ツアーのリハーサルを行った。『刺青の男』(イギリス2位; アメリカ1位)は8月31日にリリースされ、このアルバムより先行シングルで、ミックに「80年代の代表曲」といわしめた「スタート・ミー・アップ」がリリースされ、アメリカで2位、ビルボードのその年のチャートでは22位を記録した。2つの曲、「友を待つ」(アメリカ13位)「トップス」ではミック・テイラーがギターをプレイした。一方「奴隷」と「友を待つ」ではソニー・ロリンズがサックスをプレイした。また、「ハング・ファイヤー」もビルボードのチャートで20位を記録した。3年ぶりとなる全米ツアーは公演の規模が70年代のツアーとは破格の規模であり、9月25日から12月19日まで行われた。ツアーそのものは非常にエネルギッシュで、それまでと比べると(麻薬の影響もあっただろうが)かなり新鮮味のあるツアーとなっていた。同ツアーはその年の最高を売り上げたツアーとなり、いくつかのショーは録音された。その模様は翌年にライヴ・アルバム『スティル・ライフ』(イギリス4位; アメリカ5位)として発表された。また、1983年にはハル・アシュビーによって映画『レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー』として公開された。この映画にはアリゾナ州テンピのサン・デヴィル・スタジアム、ニュージャージー州メドウランズのブレンダン・バーン・アリーナでの公演が収録された。
1982年中頃、バンド結成20周年を記念するため、6年振りとなるヨーロッパ・ツアーを開始。前年の全米ツアーを踏襲した物であった。このツアーで、元オールマン・ブラザーズ・バンドのチャック・リーヴェルがサポート・メンバーとして加わる。このヨーロッパ・ツアーを最後に、ストーンズは1989年までライヴ活動を休止することとなる。年末までにバンドは新しいレーベル、CBSと4作のアルバムのリリースを2,800万ドルで契約した。
1983-1991
アトランティックとの契約を終える前の1983年後半に、ストーンズは『アンダーカヴァー』(イギリス3位; アメリカ4位)をリリースした。好意的なレビューとタイトルトラックのトップ10入りにもかかわらず、アルバムの売り上げは期待に外れ、サポートのツアーも行われなかった。新たなレーベル、CBSレコードがアトランティックの旧譜を引き継いだ。
このアルバムのセッションの頃から徐々にメンバー内の人間関係が悪化(81~82年のツアー中にもそれはミックとキースとの間に現れ始めているが)し始め、ミックはCBSとソロ契約を結び、キースはこれに対して驚きを感じていた。そして、ミックは最初のソロアルバムのために1984年の大半を費やすこととなった。また、彼はストーンズの枠組みの中で無意味にされると感じていたと述べている[116]。1985年までにミックはソロレコーディングに多くの時間を費やし、ストーンズの1986年のアルバム『ダーティ・ワーク』(イギリス4位; アメリカ4位)では多くの曲がキース作の物であり、以前のアルバムよりロンが多くの貢献をした。本作はパリで録音され、キースがレコーディングを続けて先に進めたのに対しミックは休みがちであった[117]。
1985年6月、ミックはデヴィッド・ボウイと共に「ダンシング・イン・ザ・ストリート」を録音、プロモーションビデオを撮影した。これはライヴエイドのチャリティ・ムーブメントの一環として行われた物であった[118]。これはミックの最初のソロ・パフォーマンスの一つで、同シングルはイギリスで1位、アメリカで7位を獲得した[119][120]。1985年12月、バンドの共同設立者でありキーボードを担当していたイアン・スチュアートが心臓発作により死去した。47歳であった。バンドは1986年2月、グラミー賞、ライフタイム・アチーブメント賞を受賞する2日前にロンドンの100クラブでプライベートの追悼コンサートを行った[30]。
ミックのソロ活動、チャーリーのアルコールやドラッグ依存で人間関係がギクシャクしていた中、キースがうまくとりまとめ製作した『ダーティ・ワーク』は1986年3月にリリースされた。同作はアメリカでのトップ5ヒットとなった「ハーレム・シャッフル」が収録されていたにもかかわらず賛否両論の評価を受けた。また、前年に死去したイアン・スチュアートの短いピアノが最後に収録されている。キースとミックの関係は最悪で、ミックはアルバムプロモーションのためのツアーを拒否し、代わりにストーンズナンバーを含んだ自身のソロツアーを行った[121][122]。キースはこの期間のミックとの関係を「第三次世界大戦」[123]と呼んだ。バンド内のギクシャクした人間関係の結果、ストーンズはほぼ解散状態であった[121]。ミックのソロ『シーズ・ザ・ボス』(1985年、イギリス6位; アメリカ13位)と『プリミティヴ・クール』(1987年、イギリス26位; アメリカ41位)はある程度の成功を得た。そしてストーンズが不活発なままの1988年にメンバーの中で唯一ソロ活動をしていなかったキースがついに自身のバンド、エクスペンシヴ・ワイノーズを結成し、ソロ活動を開始、最初のソロアルバム『トーク・イズ・チープ』(イギリス37位; アメリカ24位)を発表した。同作はファンと評論家から好意的に受け入れられ、アメリカではゴールドアルバムを獲得した[124]。
1989年前半、ロックの殿堂入りした[125]。ミックとキースは憎しみを超えてニューアルバムの製作を働きかけた。実に3年ぶりとなるアルバム『スティール・ホイールズ』(イギリス2位; アメリカ3位)はストーンズの氷河期の終わりを告げるものだった。シングルは「ミックスト・エモーションズ」(アメリカ5位[126])、「ロック・アンド・ア・ハード・プレイス」(アメリカ23位[126])、「オールモスト・ヒア・ユー・サイ」(アメリカ50位[126])がリリースされた。中でも「ミックスト・エモーションズ」はメンバーの和解を象徴するナンバーであり、人間関係の悪化より停滞していたバンド活動の停止に終止符を打つこととなった。また、「コンチネンタル・ドリフト」は1989年にモロッコのタンジールで録音され、マスター・ミュージシャン・オブ・ジャジューカが加わった。コーディネートはトニー・キングとシェリー・ナッティングが行い、BBCのドキュメンタリー「ザ・ローリング・ストーンズ・イン・モロッコ」がナイジェル・フィンチによって製作された。
アルバムのリリースに続き、8年ぶりとなる全米ツアー、日本・ヨーロッパなどを含むワールド・ツアー(北米及び日本では「スティール・ホイールズ・ツアー」、ヨーロッパでは「アーバン・ジャングル・ツアー」と銘打たれた)を開始。ツアーの実施告知がイベント化したのもこの頃からである。前座はリヴィング・カラーとガンズ・アンド・ローゼズなどが担当し、バンドにはホーンセクション、バックアップシンガーのリサ・フィッシャー、バーナード・ファウラーが加わった。同ツアーからのライブアルバム『フラッシュポイント』(イギリス6位; アメリカ16位)がリリースされた。同作には新曲2曲「ハイワイアー」「セックス・ドライヴ」が含まれた。また、同ツアーからIMAX仕様のライブフィルム「アット・ザ・マックス」が1991年に公開された。加えて同ツアーでは東京ドームでの初来日公演が実現した。麻薬常習などを理由に、以前は日本政府から許可が降りなかったもので、その後も何度か来日を果たすこととなる。
このツアーはビル・ワイマンにとって最後のツアーとなった。ビルはストーンズを脱退したが、1993年1月まで脱退を公式に発表しなかった[127]。彼はその後バンドの歴史を綴った「ストーン・アローン」を出版した。数年後にはリズム・キングスを結成し、再びレコーディングとコンサートツアーを始めた。
1992-2004
スティール・ホイールズ / アーバン・ジャングルツアーの成功後に、バンドは休息を取った。チャーリー・ワッツは2枚のジャズアルバムをリリースした。ロニー・ウッドは11年ぶりに5枚目のソロ・アルバム『スライド・オン・ディス』をリリースした。キース・リチャーズは1992年後半に2枚目のソロ・アルバム『メイン・オフェンダー〜主犯〜』(イギリス45位; アメリカ99位)をリリースして、スペインとアルゼンチンでの大規模コンサートを含む小ツアーを行った。ミック・ジャガーは3枚目のソロ・アルバム『ワンダーリング・スピリット』(イギリス12位; アメリカ11位)をリリースし、セールスの成功と高評価を得た。同作は世界中で200万枚以上のセールスを記録し、アメリカではゴールドアルバムを獲得した[124]。
1993年1月のワイマン脱退後、ストーンズはヴァージン・レコードと契約し、ライブアルバム3枚を除く『スティッキー・フィンガーズ』から『スティール・ホィールズ』までの旧譜をリマスターの上再発、コンピレーション『ジャンプ・バック』(イギリス16位; アメリカ30位)をリリースした。1993年までにストーンズは次のスタジオアルバムの製作に入った。マイルス・デイヴィスおよびスティングのサイドマンを務めたダリル・ジョーンズがワイマンの代わりとしてチャーリー・ワッツによって選ばれ、『ヴードゥー・ラウンジ』のレコーディングに参加した。同アルバムはイギリスで1位、アメリカで2位を獲得し、高評価および高売り上げを達成、アメリカでダブル・プラチナを獲得した。ワイマンが脱退した反動からか、ベースを中心とした低音重視の音作りをしており、曲調も新人バンドに戻ったような瑞々しさのある曲が多く、評論家はアルバムの「トラディショナリスト」な音に注目した。これは新たなプロデューサーのドン・ウォズに依るところが大きかった[128]。同作は1995年のグラミー賞ベストロックアルバムを獲得した。
アルバムの発売に伴い、1994年から95年にかけてヴードゥー・ラウンジ・ツアーが実施された。様々なコンサートおよびリハーサルからの録音(多くはアコースティックナンバー)が編集され、『ストリップド』(イギリス9位; アメリカ9位)がリリースされた。同作ではボブ・ディランのカヴァー「ライク・ア・ローリング・ストーン」がフィーチャーされ、それまでライブではあまり演奏されなかった「シャイン・ア・ライト」、「スウィート・バージニア」、「クモとハエ」といった曲が収められた。1994年9月8日、ストーンズはニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールでMTVビデオ・ミュージック・アワーズに出演、「ラヴ・イズ・ストロング」と「スタート・ミー・アップ」を演奏した[129]。バンドは授賞式でライフタイム・アーカイヴメント賞を受賞した[129]。
ストーンズはインターネット上でコンサートを中継放送した最初のメジャーアーティストであった。1994年11月18日に20分間のビデオがMboneを使用して、1秒間当たり10フレームで放送された。放送はThinking Picturesが技術を担当し、サン・マイクロシステムズが出資して行われた。この放送はストリーミング・ビデオの最初のデモンストレーションの1つであり、本当のネット配信ではなかったが、多くの技術が紹介された[130]。
ストーンズの90年代を締めくくった『ブリッジズ・トゥ・バビロン』(イギリス6位; アメリカ3位)は1997年にリリースされ、賛否両論の評価を得た。シングルカットされた「エニバディ・シーン・マイ・ベイビー? 」 のプロモーションビデオにはアンジェリーナ・ジョリーがゲスト出演し、MTVとVH1で何度も放送された。また、同年11月にリリースされたB.B.キングのアルバム『デューシズ・ワイルド』に収録された「ペイング・ザ・コスト・トゥ・ビー・ザ・ボス」のレコーディングには、ストーンズのメンバー全4人とサポート・メンバーのダリル・ジョーンズが参加した[131]。
アルバム『ブリッジズ・トゥ・バビロン』の売り上げは前作とほぼ同様(アメリカで約120万枚)となり、続いて行われたブリッジズ・トゥ・バビロン・ツアーはヨーロッパを横断、北米を回ってその他の地域でも行われ、バンドが未だ強力なライブパフォーマンスを行えることを証明した。再びライブアルバム『ノー・セキュリティ』(イギリス67位; アメリカ34位)が本ツアーから編集されたが、収録曲は「リヴ・ウィズ・ミー」と「ザ・ラスト・タイム」以外はライブとしては未発表の曲ばかりであった。1999年にはアメリカでノー・セキュリティ・ツアーを開始し、ヨーロッパではブリッジズ・トゥ・バビロン・ツアーを継続した。ノー・セキュリティ・ツアーは近年の花火や巨大ステージのツアーとは対照的に簡素なステージで行われた。
ミック・ジャガーは2001年後半に4枚目のソロ・アルバム『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ』(イギリス44位; アメリカ39位)をリリースしたが、賛否両論の批評を受けた[132]。アメリカ同時多発テロ事件の一ヶ月後、ミックとキースは「ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ」に出演、バックバンドと共に「地の塩」と「ミス・ユー」を演奏した。
2002年、バンドは結成40周年を記念した2枚組のベスト・アルバム『フォーティ・リックス』(イギリス2位; アメリカ2位)をリリースした。同作には新曲4曲が収録され、世界中で700万枚以上を売り上げた。同年、Q誌の「死ぬ前に見るべき50のバンド」の一つに選出された[133]。また、2002年から2003年にかけてフォーティ・リックス・ツアーが行われ、人々は死ぬ前に見るチャンスが与えられた。このツアーは小劇場やアリーナ、スタジアムでのコンサートが行われた。カナダのトロントでは「to help the city」と掲げたコンサートがモルソン・カナディアン・ロックス・フォー・トロントで行われ、SARSの流行で打撃を受けた都市に対する支援となった。バンドがトロントでコンサートを行ったのはスティール・ホイールズ・ツアーのリハーサル以来であった。コンサートは約49万人が動員された。
2003年11月9日、バンドは香港ハーバーフェストの一環として香港における最初のコンサートを行った。同月に4枚組DVDセット『フォー・フリックス』をリリース。バンドはこれを独占的に販売する権利をベスト・バイに与え、それを受けていくつかのカナダとアメリカにおける小売店(HMVカナダとサーキット・シティー・ストアーズを含む)ではストーンズのCDとグッズが棚から撤去され、事情を説明する札が掲示された[134]。12月12日、ミックはバッキンガム宮殿においてチャールズ皇太子からナイトの称号を授与された。2004年にはリックス・ツアーの模様を収めた2枚組アルバム『ライヴ・リックス』(イギリス38位; アメリカ50位)がリリースされ、アメリカでゴールドアルバムを獲得した[124]。2004年11月にはイギリス音楽の殿堂入りの候補となった[135]。
2005-2011
2005年7月26日、ミックの誕生日にバンドは8年ぶりのニューアルバムのタイトルを『ア・ビガー・バン』と発表した。『ア・ビガー・バン』は9月6日にリリースされ、ローリング・ストーン誌を始めとして熱烈なレビューが行われた[136]。シングル「ストリーツ・オブ・ラヴ」はイギリスとヨーロッパでトップ15のヒットとなった。
収録曲「スウィート・ネオ・コン」は、ミックによるアメリカのネオコンに対する批判が含まれた[137]。伝えられるところによると、同曲はキースの反対によりアルバムから削除されるところであった。彼はイラク戦争批判のために論争に巻き込まれたディクシー・チックスのようになるのを恐れたのかと尋ねられ、アルバムが来るのが先だと答え、「俺はすこしの政治的な『コップの中の嵐』によって脇に逸らされたくない。」と発言した[138]。
アルバム発表に伴った「ア・ビガー・バン・ツアー」は2005年8月に始まり、北米、南米、東アジアで行われた。2006年2月、バンドはミシガン州デトロイトで行われた第40回スーパーボウルのハーフタイムでライブを行った。2005年末までにツアーの収益は1億6200万ドルを記録し、ストーンズ自身が1994年に記録した北米における最高収益を更新した。2006年2月18日にはリオデジャネイロのコパカバーナ・ビーチで無料コンサートを行い、150万人の観客動員となった。
2006年3月から4月にかけて日本、中国、オーストラリア、ニュージーランドでの公演を行い、ストーンズはヨーロッパ・ツアー前の休暇に入った。この間にキースはフィジーで木から落下、7.5メートル下の砂浜に叩きつけられニュージーランドの病院に入院した[139][140][141]。この事故によりヨーロッパ・ツアーは開始が6週間遅れることとなった[142][143]。2006年6月、ロン・ウッドがアルコール依存症の治療を続けていることが伝えられた[144][145]。しかしながら、再編成されたヨーロッパ・ツアーの日程に影響を与えることは無かった。2006年7月から9月まで21公演が予定されたが、その内2公演はミックの咽喉の問題によりキャンセルされた[146]。
2006年、北朝鮮の金正日の息子・金正哲(クラプトンのファン)が韓国と共同で招請したエリック・クラプトンコンサートの平壌開催が実現しなかったため、代わりとして韓国側からローリングストーンズの平壌公演が打診され、メンバーも開催に肯定的だったとされた。しかし、北朝鮮側から逆に「退廃的すぎる」とされて実現しなかったと伝えられた[147]。
2006年9月から北米ツアーのセカンド・レグが始まり、2007年6月5日からヨーロッパツアーのセカンド・レグが始まった。2006年11月までにツアーは4億3700万ドルの収益を上げ、当時の最高額を記録したツアーとなった。北米ツアーは1億3850万ドルの収益を上げ、ストーンズ自身が2005年のツアーで達成した1億6200万ドル、同年のU2のツアーが達成した1億3890万ドルに次いで史上3位を記録した[148]。
マーティン・スコセッシが2006年10月29日と11月1日のニューヨーク、ビーコン・シアターでのライブを撮影し、ドキュメンタリー映画「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」として公開された。同作にはゲストとしてバディ・ガイ、ジャック・ホワイト、クリスティーナ・アギレラが出演している[149]。映画のサントラ盤『シャイン・ア・ライト』は2008年4月にリリースされ、イギリスで2位、アメリカで11位を達成した。これはストーンズのライブ盤として、1970年の『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト』以来の高順位であった。ビーコン・シアターでのショーではアトランティック・レコード元会長のアーメット・アーティガンがステージ裏で転倒、頭部を強打し2週間後に死亡した[150][151]。
2007年3月24日にバンドはヨーロッパ・ツアー「ビガー・バン2007」を発表した。2007年6月12日に4枚組DVD『ザ・ビッゲスト・バン』がリリースされた。同作は7時間に及ぶドキュメンタリーで、オースティン、リオデジャネイロ、埼玉、上海、ブエノスアイレスでのコンサートが収められた。6月10日にバンドはワイト島でのコンサートを行い、65,000人を動員した。8月26日、ツアー最終公演がロンドンのO2アリーナで行われた。ストーンズはツアー全体で5億5800万ドルの収益を上げ、ギネス世界記録に申請したことが発表された[152]。
ミック・ジャガーは2007年10月2日に未発表3曲を含むソロ・コンピレーション『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』(イギリス57位、アメリカ77位)を発表した。11月12日にアブコは2枚組CD『ロールド・ゴールド~ヴェリー・ベスト・オブ・ザ・ローリング・ストーンズ』をリリースした。これは1975年のコンピレーション『ロールド・ゴールド』の再編集盤であり、イギリスで26位を獲得した。
ツアーからおよそ2年後の2007年のインタビューでミック・ジャガーは、バンドの引退時期を語るのを拒否した。「僕はローリング・ストーンズがより多くのこと、より多くのレコード、そしてより多くのツアーを行えると確信している。僕たちはそのいずれも止める計画は無い。僕の考えとしては、僕たちが続けられると確信している。[153]」2008年3月にキース・リチャーズは『シャイン・ア・ライト』のプレミアでのインタビューで新しいスタジオ・アルバムを用意しているかもしれないという噂を引き起こした。「俺は俺たちが別のアルバムを作るかもしれないと思うよ。この映画のプロモーションをする上で俺たちはもう一度やるよ。」チャーリー・ワッツは仕事を中断したときはいつも体調不良のためだったと述べた[154]。2008年7月、ローリング・ストーンズはEMIとの契約を終了し、ユニバーサル ミュージックと契約したと発表した。『スティッキー・フィンガーズ』以降のアルバムはユニバーサル傘下のポリドール・レコードから再発された[155]。アメリカにおける1994年以前の作品の権利はマーキュリー・レコードが有し、1994年以降の作品の権利はインタースコープ・レコードが所有する。ユニバーサル ミュージックは『スティッキー・フィンガーズ』以前の作品の権利を有するアブコのディストリビューターでもある。
秋の間にミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ミック・テイラーは、プロデューサーのドン・ウォズと共に『メイン・ストリートのならず者』セッションにおける未完成曲へ新たなヴォーカルとギターのパートを録音した。
2010年4月17日、バンドは限定版の7インチアナログ・シングル、未発表曲の「プランダード・マイ・ソウル」をレコード・ストア・デイに因んで発表した。これは『メイン・ストリートのならず者』リイシュー盤に収録された1曲で、B面は「オール・ダウン・ザ・ライン」であった[156]。
4月23日、バンドはカンヌ国際映画祭に「ストーンズ・イン・エグザイル~「メイン・ストリートのならず者」の真実」(スティーヴン・キジャック監督[157])のプレミアで参加すると発表した。同作は『メイン・ストリートのならず者』レコーディング時のドキュメンタリー映画であった[158]。
2010年5月23日、『メイン・ストリートのならず者』がリマスター盤として再発された。イギリスでは1位を達成し、これは同作が発表されて以来38年ぶりの記録であった。ストーンズは過去に発表した作品が再び1位を獲得した初のバンドとなった[159]。アメリカでは発売第1週で76,000枚を売り上げ、チャートでは2位を記録した。未発表曲10曲を加えた2CD版の『メイン・ストリートのならず者』の他に、未発表曲のみの『メイン・ストリートのならず者(レアリティーズ・エディション)』もリリースされ、27位を記録した[160]。
2010年10月11日、「レディース&ジェントルメン」が公開され、後にDVDでリリースされた。デジタル・リマスターが行われ、アメリカ国内では特別の映画館で公開された。本作はザ・ローリング・ストーンズ・アメリカン・ツアー1972でのフォートワースとヒューストンでの4つのショーを編集したものであり、『メイン・ストリートのならず者』がフィーチャーされている。当初は1974年に公開されたが、その後はビデオなどでのリリースは行われず、数多くの海賊版として流通していた[161]。
2011年4月19日、ストーンズとも交流のある英国ピアニストのベン・ウォーターズが発起し制作されたイアン・スチュワートへのトリビュートアルバムにメンバー全員が参加し、脱退したビル・ワイマンがレコーディングに、ミックー・テイラーが記念コンサートに参加した。
2011年10月4日、ストーンズは「サム・ガールズ・ライヴ・イン・テキサス'78」を公開した。本作もデジタル・リマスターが行われ、アメリカ国内では特別の映画館で公開された。内容は『女たち』リリース後のUSツアー1978におけるフォートワースでのショーを収録したもので、11月15日にはブルーレイ/DVDがリリースされた[162]。
2011年10月18日、オフィシャルブートレグシリーズのデジタルダウンロード販売を、グーグル・ミュージック及びストーンズ公式通販サイト「STONES ARCHIVE」上で開始。第一弾として、1973年ヨーロッパツアーの模様を収めた非公式ライブアルバム「ブリュッセルズ・アフェア」を、ボブ・クリアマウンテンのリミックスを経て公式の下にリリース。以後も1年間に亘り、1981年アメリカツアー、1975年アメリカツアー、1990年ジャパンツアー、2005年カナダシークレットギグ、1982年ヨーロッパツアーが順次リリースされた。
2012年・結成50周年
ストーンズは2012年夏に結成50周年を祝って、ハードカバーの写真集「50」をリリースした[163]。バンドの象徴的なイメージである唇のロゴも新しいバージョンが使用された。
メンバーは2012年か2013年にワールドツアーを行う用意があると広く報じられた。7月にはキースがリハーサルを行ったことを認め、ミックも2012年の秋には再びステージでパフォーマンスを行うだろうと語った[164][165]。
7月13日から8月27日までロンドンのサマセット・ハウスで無料の写真展も開催された。
9月にはブレット・モーガンが監督するHBOのドキュメンタリーが公開されることとなった[166]。このプロジェクトは2012年3月にローリング・ストーン誌で告知された。このドキュメンタリーでは「バンドがクラブで演奏していた時代から世界最大のバンドに達するまで」を記録すると言われている[167]。約50時間におよぶインタビューが行われ、その中には元メンバーのビル・ワイマンやミック・テイラーへのものも含まれた。監督のモーガンは「彼らが今までに行った中で最も大規模なグループインタビュー」であると語った[168]。これは1988年に結成25周年を記念して作られた『25x5』以来のドキュメンタリーとなる。
2012年8月30日、新たなドキュメンタリーのタイトルが『クロスファイア・ハリケーン』になることが明らかにされた。これは1968年のヒットシングル「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」の歌詞の一節から採られたものである。イギリスでは10月に劇場公開、年末にはBBC Twoで放送されるが、アメリカではHBOのプレミアだけが行われる。同作は2012年11月に全世界で劇場公開される[169]。
2012年8月30日、バンドが11月にロンドンのO2アリーナおよびブルックリンズ・バークレイズ・センターでライヴを行うという噂が立ちこめるようになった[170]。
2012年9月4日、ストーンズは新しいコンピレーション・アルバム『GRRR!』を11月12日にリリースすると発表した。このアルバムは4つの異なったフォーマットでリリースされ、新曲が2曲収められる。「Doom And Gloom 」「One Last Shot」の2曲はパリのウィリアム・テル・スタジオで8月の数週間で録音された[171][172]。
2012年9月7日、バンドは『クロスファイア・ハリケーン』のロンドン、レスター・スクウェアにおける10月18日のプレミアに出席することが発表された[173]。
2012年11月より、『50&Couning Tour』をスタート。各公演にゲストを招いており、ビル・ワイマン、ミック・テイラー、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ブルース・スプリングスティーン、ジョン・メイヤー、デイヴ・グロール、ウィン・バトラー、フローレンス・ウェルチ、レディー・ガガらが参加している。
2013年6月、客演としてはバンド史上初となるロックフェスティバルでのステージに立つ(グラストンベリー・フェスティバル)。更に2013年7月には1969年以来44年ぶりとなるロンドン・ハイドパークでの公演を2度行い、ライブ音源のダウンロード発売を伴ってツアーを終了した。
メンバー
ブライアン・ジョーンズ(Louis Brian Hopkin Jones、1942年 - 1969年)- レコードデビュー時から在籍で、バンドにおける当初のリーダーだった。1969年急逝。中流階級出身。
- 担当:ギター、ハーモニカ(他にダルシマー、マリンバ、シタールなど多くの楽器を演奏。一部の曲でバッキング・ボーカル)。
- 死因については自殺説や事故説、他殺説がある。
ミック・ジャガー(Sir Michael Phillip Jagger、1943年 - )- レコード・デビュー時から在籍。中流階級出身。
- 担当:リードボーカル、ハーモニカ(曲によってギター、キーボードなどを担当することもある)。
2003年12月12日、英国においてナイトの称号を授与される。
キース・リチャーズ(Keith Richards、1943年 - )- レコードデビュー時から在籍。
- 担当:ギター、バッキング・ボーカル(一部の曲でベースギター、リードボーカルを担当)。
チャーリー・ワッツ(Charles Robert Watts、1941年 - )- レコード・デビュー時から在籍。
- 担当:ドラムス。デビュー前からジャズ・ドラマーのキャリアがある。メンバーの中で唯一初婚を貫いている。
ビル・ワイマン(Williams Parks、1936年 - )- レコード・デビュー時から在籍。1991年脱退。
- 担当:ベースギター("In Another Land" 1曲のみリードボーカル)。
- ビル・ワイマン脱退後のベースギターは、ダリル・ジョーンズがサポート・メンバーとして担当。
ミック・テイラー(Michael Kevin Taylor、1948年 - )- 1969年、ブライアン・ジョーンズの後任として加入。1974年脱退。
- 担当:ギター(一部の曲でベースギター)。
ロン・ウッド(Ronald David Wood、1947年 - )
1975年にミック・テイラーの後任として正式加入。- 担当:ギター、バッキング・ボーカル(一部の曲でベースギター他)。
正式メンバーではないが、キーボーディストのイアン・スチュワート(1938年 - 1985年)がいる。彼は、オリジナル・メンバーであったにも関わらず、正式デビュー直前にマネージャーのアンドリュー・オールダムから「顔つきがロックバンドとして相応しくない」との理由で正式メンバーから外され、ストーンズのメジャーデビュー後は、ロードマネージャーとしてバンドに関わった。そのピアノやキーボードの腕前から、レコーディングやツアーには必ず参加しており、1960年代は「6人目のメンバー」扱いだった。1970年代以降は頻度はやや減ったが、『ダーティ・ワーク』までのアルバムに参加している。
他にもごく一時期に参加したメンバーや、長期に渡ってレコーディング・コンサートのサポートを務めているメンバーも存在するが、ローリング・ストーンズとしてロックの殿堂入りを果たしたのは以上の8人である。
音楽上の特色
ローリング・ストーンズの音楽的ルーツは、黒人音楽のブルースにある。デビュー曲の「カム・オン」はチャック・ベリーのカバーである。彼らがデビューした1960年代初期、アメリカにおいてはまだまだ黒人に対する差別が根強く、「ブルースのレコード・ジャケットには、黒人の顔写真を載せてはならない(黒人ミュージシャン本人の顔写真を含む)」という慣習のある州さえ多かった。こうした時代にイギリス出身の白人のグループでありながら、黒人の音楽であるブルースを心から尊敬し、影響を受け、黒人になりきって歌や演奏に表現しようとしたバンドがローリング・ストーンズである。彼らは更にブルースだけでなく、モータウンやスタックスといったレコード会社に代表される、同時代の黒人音楽も吸収した。
ローリング・ストーンズの活躍は、黒人音楽にルーツをもつ、他の白人ミュージシャンが1960年代後半から1970年代初頭にかけて、米英などで多数登場するきっかけとなったともいえる。
ローリング・ストーンズのサウンドの欠かせない特徴として、その独特のリズムがある。本来バンドであればドラムとベースの絡みが重要といわれているが、ストーンズは違う。そのリズムの核となるのは、チャーリー・ワッツのドラムス、キース・リチャーズが弾き出すリズム・ギターにある。この2人が絡むことで、その独特のリズムが生まれている。ギターがドラムと絡み合うことで、当然ベースも独特な演奏をしていて、サウンドの核となるキースのギター・ラインと、そのギターに絡もうとする他の楽器パートの隙間を、まるで縫い合わせていくように弾いていることに特徴がある。キースのギターが中心となってバンドの音を引っ張っていっていると言ってもいいそのサウンドは、まさに唯一無二である。しかし、1993年にビル・ワイマンが脱退して以来、そのリズムが変わって、サポート・メンバーであるダリル・ジョーンズの弾くベースはより安定したものながらも、それに古くからのファンは「不満」があるようである。
ローリング・ストーンズは、様々な流行の音楽をも取り入れ、一部のメンバーの交替や、様々なアクシデントを乗り越えつつ成長し、デビュー40周年を超えた21世紀に至ってもなお、ブルース(リズム・アンド・ブルース)ルーツのロックンロールという音楽で、第一線で現役を貫き通している。
作品
来日公演
- 1973年:公演中止
- 前年11月に公演決定、日程は1月28日,29日,30日,31日,2月1日の計5回、日本武道館で行われる予定であった。12月1日に前売りが開始され、前日からの徹夜組が4,000人も出たことが話題となった。しかしながら1973年1月8日に外務省が過去の大麻所持を理由に入国拒否を発表。1月19日にプロモーターから来日公演の正式中止が発表された。西郷輝彦がこの公演中止をモチーフとした「ローリング・ストーンズは来なかった」を発表している。
- 1990年:2月14日,16日,17日,19日,20日,21日,23日,24日,26日,27日・東京ドーム
- アルバム『スティール・ホイールズ』のリリースと共に行われたワールドツアーの一環として初来日。大物バンドの初来日ということで、チケット争奪戦が繰り広げられた結果、チケットは完売、19日に追加公演も行われた。日本テレビが主催、大塚製薬がツアースポンサーとなり、ストーンズロゴ入りパックのポカリスエットが販売された。同ツアーの初日、2月14日の公演はFM東京系27局で3月10日に放送された。26日のステージは、4月29日に日本テレビ系列で放送されたが、一部の局では数曲が差し替えられた。また、それ以来ワールド・ツアーの興行収益のギネス記録を、ツアーの度に塗り替え続けている。
- 1995年:3月6日,8日,9日,12日,14日,16日,17日・東京ドーム、3月22日,23日・福岡ドーム
- アルバム『ヴードゥー・ラウンジ』ツアーの一環。
- 1998年:3月12日,14日,16日,17日・東京ドーム、3月20日,21日・大阪ドーム
- アルバム『ブリッジズ・トゥ・バビロン』ツアーの一環。
- 2003年:3月10日・日本武道館、3月12日・横浜アリーナ、3月15日,16日・東京ドーム、3月20日,21日・大阪ドーム
- アルバム『フォーティ・リックス』リリース後のリックス・ツアーの一環。ツアースポンサーは、サントリー。1973年の初来日が中止になり、それから30年目にしてようやく武道館での公演が実現する。武道館、横浜公演のSS席チケットは22,000円であり、他のドーム公演もS席は13,200円と、それまでの公演に比べ料金が上昇した。
- 2006年:3月22日,24日・東京ドーム、3月29日・札幌ドーム、4月2日・さいたまスーパーアリーナ、4月5日・ナゴヤドーム
- アルバム『ア・ビガー・バン』リリース後のア・ビガー・バン・ツアーの一環として行われた。主催はWOWOW、後援がマイクロソフト。前回にもまして料金が上昇し、ゴールデン・サークル席(65,000円、55,000円)が設定された。その他S席(17,500円 - 35,000円)以下の料金も上昇した。バンドサイドから高額のギャランティを要求されたことに比例してチケット価格も高騰したことから、それまでの招聘元であったウドー音楽事務所が手を引き、JECインターナショナルに招聘元が移った。8階建てのステージと相変わらずパワフルなパフォーマンスはファンに絶賛された。4月2日のステージは、WOWOWで放送された。
- 2014年:2月26日,3月4日,6日・東京ドーム
- アルバム『GRRR!』リリース後の14オン・ファイヤー・ツアーの一環として行われた。[2]主催はキョードー東京ほか。チケットは14,000円 - 18,000円と前回から大きく変わらなかったが、ゴールデン・サークル席は80,000円という高額になったにも関わらず完売した。公演回数の減少、平日のみの開催と悪条件が重なったにも関わらず全公演チケット完売のため、ステージが一部見えない「参加席」(10,000円)も販売された[3][4]。
出典
^ http://www.theguardian.com/music/musicblog/2007/.../post17
^ Holton, Kate (2008年1月17日). “Rolling Stones sign Universal album deal”. Reuters. http://www.reuters.com/article/entertainmentNews/idUSL1767761020080117 2010年9月6日閲覧。
^ “Podcast: Faking It with Yuval Taylor”. http://www.maximumfun.org/shows/sound-young-america (Podcast). http://www.maximumfun.org/..+(9 April 2007). http://www.bbc.co.uk/programmes/b00kc752 2010年8月29日閲覧。
^ “Podcast: Faking It with Yuval Taylor”. http://www.nytimes.com. http://www.nytimes.com/.+2011年5月4日閲覧。
^ “Biography of the Stones”. Stonesplanet.com. 2010年9月6日閲覧。
- ^ abcdefghij“The Rolling Stones Biography”. Rolling Stone. Rolling Stone magazine. 2008年8月2日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2006年6月6日閲覧。
^ Greenfield, Robert (1981). The Rolling Stone Interviews - Keith Richards. New York: St. Martin's Press/Rolling Stone Press. ISBN 0-312-68954-3.
- ^ abcd“The Rolling Stones Biography”. Rock and Roll Hall of Fame and Museum. 2006年6月1日閲覧。
^ Jagger, Mick; Richards, Keith; Watts, Charlie; Wood, Ronnie (editors: Loewenstein, Dora & Dodd, Philip) (2003). According to he Rolling Stones. Chronicle Books. p. 40. ISBN 0-8118-4060-3.
^ Jagger, Richards, Watts, Wood 2003. p. 42
^ “Rolling Stones Biography”. オールミュージック. All Media Guide. 2012年7月13日閲覧。
^ “Muddy Waters:Rollin' Stone”. Rolling Stone.com. 2006年5月9日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2006年12月21日閲覧。
^ Wyman, Bill (2002). Rolling With the Stones. DK Publishing. pp. 36-37. ISBN 0-7894-9998-3.
^ Bockris, Victor (1992). Keith Richards - The Biography. Poseidon Press. pp. 42-43. ISBN 0-671-70061-8.
^ Wyman 2002. pp. 40-41, pp. 44-45
^ Jagger, Richards, Watts, Wood 2003. p. 50-51
^ Wyman, Bill. (1990). Stone Alone: The Story of a Rock 'n' Roll Band. Da Capo Press. p. 123. ISBN 0-670-82894-7.
^ Oldham 2000. p. 223
^ page 16, MojoClassic Vol 1 No. 12
^ Wyman 2002. pp. 56-57
^ Wyman 1990. pp. 135-136
^ Bockris 1992. p. 63
^ Oldham 2000. p. 222
^ Oldham 2000. pp. 222-225
^ Jagger, Mick; Richards, Keith; Watts, Charlie; Wood, Ronnie (2003). According to the Rolling Stones. Chronicle Books. p. 62. ISBN 0-8118-4060-3.
^ Oldham 2000. p. 205, 212
- ^ abcJagger, Richards, Watts, Wood 2003. p. 68
^ Oldham 2000. pp. 209-210, 212
^ Hinckley, David; Rodman, Debra and Coral, Gus (1995). The Rolling Stones: Black & White Blues. Turner Publishing Inc.. ISBN 1-57036-150-9.
- ^ abZentgraf, Nico. “The Complete Works of The Rolling Stones 1962-2008”. 2008年2月23日閲覧。
^ Oldham 2000. p. 252-3
^ Oldham 2000. p. 2133
^ Ian McPherson. “Jack Nitzche " I'd just been doing sessions, 3 hours to get the tunes down. Working with the Stones made sense right away. Booked studio time for 24 hours a day for two weeks and if you didn't get it, fuck it."”. Timeisonourside.com. 2011年4月4日閲覧。
^ Oldham 2000. p. 205
^ “The Rolling Stones | Rolling Stone Music | News and Reviews”. Rolling Stone. 2008年8月2日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年9月6日閲覧。
^ Wyman 1990. p. 136
^ Wyman 1990. p. 133
^ Bill Wyman, interviewed on the Gary Crowley Show, BBC Radio London, 6 March 2010
^ Oldham 2000. p. 221
^ “This Day in Music Spotlight: Rolling Stones Riot on Ed Sullivan”. gibson.com. 2010年11月4日閲覧。
^ Outlook Club Advertisement - picturestockton Archived 2011年10月8日, at the Wayback Machine.
^ Wyman 2002. pp. 80-83
^ “アーカイブされたコピー”. 2008年4月5日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2008年4月2日閲覧。
^ Oldham 2000. p. 256-7
^ Jagger, Richards, Watts, Wood 2003. p. 84
^ Wyman 2002. p. 126
^ "The Hollywood Palace"TV.com. Retrieved 1 June 2007.
^ Wyman 2002. pp. 128-129
^ Wyman 2002. p. 158
^ Wyman 2002. p. 137
^ Jagger, Richards, Watts, Wood 2003. p. 88
^ Wyman 2002. p. 154
- ^ abMcPherson, Ian. “The Rolling Stones' Complete Discography”. 2008年3月30日閲覧。
^ Wyman 2002. p. 159
^ Wyman 2002. pp. 164-165, p. 171
^ Wyman 2002. p. 166
- ^ abJagger, Richards, Watts, Wood 2003. p. 95
^ Wyman 2002. p. 187
^ Wyman 2002. p. 195
^ Wyman 2002. p. 256
- ^ abMark Paytress: 'The Rolling Stones: Off The Record' (Omnibus Press, 2003), p.116
- ^ abMeltzer, Tom (Monday 18 October 2010 18.40 BST). “Keith Richards: the Keef facts”. The Guardian (London/Manchester). http://www.guardian.co.uk/music/2010/oct/18/keith-richards-keef-autobiography 2010年10月19日閲覧。
^ Jagger, Richards, Watts, Wood 2003. p. 112
^ Wyman 2002, pp. 264-265.
^ Jagger et al. 2003, p. 113.
^ Wyman 2002, p. 268.
^ “Police raid Keith Richard's "Redlands" home in Sussex for drugs”. The History of Rock Music. 2015年6月25日閲覧。
^ Booth 2000, p. 276.
^ Wyman 2002, pp. 278-282.
^ Booth, Stanley (2000). The True Adventures of the Rolling Stones (2nd edition). A Capella Books. pp. 271-278. ISBN 1-55652-400-5.
^ Janovitz, Bill. “We Love You - song review”. Allmusic. 2013年7月14日閲覧。
^ Wyman 2002, p. 286.
^ Wyman 2002, pp. 292-293; 299.
^ Gilliland 1969, show 46.
^ Wyman 2002, p. 290.
^ Wyman 2002, pp. 296-298.
^ DeCurtis, Anthony (1997年6月17日). “Review: Beggars Banquet”. Rolling Stone (New York). オリジナルの2002年1月31日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20020131191122/http://www.rollingstone.com/recordings/review.asp?aid=49080&cf=422 2013年7月9日閲覧。.
^ “Beggars Banquet”. Rolling Stone (2003年1月). 2014年11月22日閲覧。
^ Chris Gill (1995). "Guitar legends: the definitive guide to the world's greatest guitar players". p. 108. HarperPerennial,
^ Maslin, Janet (1996年10月12日). “Taking a Trip Back in Time To the Sleek Young Stones”. The New York Times. 2012年8月23日閲覧。
^ Farley, Christopher John (2004年10月18日). “Starry Circus”. Time. 2012年8月23日閲覧。
^ Jagger et al. 2003, p. 128.
^ Greenfield 1981.
^ Bill Wyman, Richard Havers. (2002). Rolling With The Stones, p. 329
^ “Being Brian Jones's son is the greatest thing that never happened to me”. Mail Online. 2014年9月25日閲覧。
- ^ abThe Rolling Stones (1969年). The Stones in the Park (DVD released 2006). Network Studios.
^ "Rolling Stones: are they really the world’s greatest rock ’n’ roll band?". The Telegraph. Retrieved 2 July 2015
^ “The Rolling Stones were never bad boys, says former manager Sam Cutler”. Sydney Morning Herald. 2014年11月22日閲覧。
^ “The Rolling Stones: Still The World's Greatest Rock And Roll Band?”. Grammy.com. 2015年7月2日閲覧。
^ Marcus, Greil (1969年12月27日). “Let It Bleed - album review”. Rolling Stone. 2012年12月7日閲覧。
^ Burks, John (1970年2月7日). “Rock & Roll's Worst Day: The Aftermath of Altamont”. Rolling Stone. 2007年11月1日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2007年4月18日閲覧。
^ Bangs, Lester (1970年11月12日). “Get Yer Ya-Ya's Out - album review”. Rolling Stone. 2013年7月14日閲覧。
^ Goldstein, Mike. “UnCovered Interview - The Rolling Stones Lips & Tongue logo, with designs by Ernie Cefalu”. RockPoP Gallery. RockPoP Gallery. 2014年11月22日閲覧。
^ "Sticky Fingers" allmusic. Retrieved 2013-03-02.
^ "Reviews - The Rolling Stones" Robert Christgau. Retrieved 30 August 2007.
^ "Exile on Main St." AMG, 2007. Retrieved 2013-03-02.
^ Erlewine, Stephen Thomas. The Rolling Stones "Goats Head Soup". allmusic. 2007 . Retrieved 17 June 2007.
^ Wyman 2002. p. 408
^ Wyman 2002. p. 361
^ Wyman 2002. p. 412
^ "Mick Taylor Biography" allmusic. Retrieved 25 June 2007.
^ James, Gary. “Gary James' Interview With Mick Taylor of the Rolling Stones”. 2008年2月21日閲覧。
^ Smith, Curtis. "Why Mick Taylor Quit the Stones" micktaylor.net. Retrieved 25 June 2007.
^ Obrecht, Jas: "Mick Taylor: Ex-Rolling Stones On His Own", page 20. Guitar World, February 1980
^ Jagger, Richards, Watts, Wood 2003. p. 174.
^ The Rolling Stones - Off The Record by Mark Paytress, Omnibus Press, 2005, page 239. ISBN 1-84449-641-4
^ Greenspan, Edward (editor), Regina v. Richards 49 C.C.C. (2d), Canadian Criminal Cases (1980), Canada Law Book. p. 518
^ Sandford, Christopher. Keith Richards: Satisfaction, Caroll & Graf: New York, 2003, p. 225
- ^ abGreenspan, Edward (editor), Regina v. Richards 49 C.C.C. (2d), Canadian Criminal Cases (1980), Canada Law Book. p. 517-27
- ^ abSandford, Christopher. Keith Richards: Satisfaction, Caroll & Graf: New York, 2003, p. 227
^ Sandford, Christopher. Keith Richards: Satisfaction, Caroll & Graf: New York, 2003, p. 232-3, 248-250
^ “Seventies and Eighties”. Telegraph (London). (2003年8月1日). http://www.telegraph.co.uk/news/1400291/Seventies-and-Eighties.html 2010年8月2日閲覧。
- ^ abErlewine, Stephen Thomas. “Some Girls”. オールミュージック. All Media Guide. 2006年6月1日閲覧。
- ^ abcdMurry R. Nelson (2010) The Rolling Stones: A Musical Biography p.93. Retrieved 15 December 2011
^ McLagan, Ian (2000). All the Rage: A Riotous Romp Through Rock and Roll History. St. Martin's Press. ISBN ISBN 0-8230-7842-6, 9780823078424.
^ 25x5 - The Continuing Adventures of the Rolling Stones
^ Keith Richards. (2010). "Life" Hachette UK, 2010.
^ Bowie/Jagger Vidclip Heads for Movie Screens p.1. Billboard (24 Aug 1985).
^ Sir Mick Jagger returns to UK singles chart BBC. Retrieved 12 March 2012
^ Whitburn, Joel (2006). The Billboard Book of Top 40 Hits. Billboard Books
- ^ abMick Jagger Tours Solo With Joe Satriani Rolling Stone. Retrieved 4 December 2011
^ Christopher Sandford (1999). "Mick Jagger: primitive cool". p.268. Cooper Square Press, Retrieved 4 December 2011
^ Jagger, Richards, Watts, Wood 2003. p. 247
- ^ abcRIAA Gold & Platinum database. RIAA. Retrieved 4 December 2011
^ The Rolling Stones: inducted in 1989 The Rock and Roll Hall of Fame and Museum. Retrieved 4 December 2011
- ^ abcSteel Wheels - The Rolling Stones | Awards | AllMusic
^ McPherson, Ian. “The Rolling Stones Chronicle: 1993”. 2011年3月21日閲覧。
^ "Voodoo Lounge" AMG, 2007. Retrieved 2012-07-13.
- ^ ab1994 MTV Video Music Awards MTV.com. Retrieved 4 December 2011
^ Rolling Stones Live on Internet: Both a Big Deal and a Little Deal. The New York Times, 22 November 1994.
^ B.B. King - Deuces Wild (CD, Album) at Discogs
^ Nigel Williamson (2003年12月5日). “Alive and kicking”. London: Arts.guardian.co.uk. http://arts.guardian.co.uk/fridayreview/story/0,,1099640,00.html 2010年9月6日閲覧。
^ "Q - 50 Bands You Must See Before You Die" rocklist.neyt, September 2002. Retrieved 7 June 2007.
^ "Some US retailers join Stones boycott" CNN, November 2003. Retrieved 14 June 2007.
^ More names join UK Music Hall Of Fame NME. Retrieved 4 December 2011
^ "A Bigger Bang: Review" Rolling Stone, 22 September 2005. Retrieved 14 June 2007.
^ "Stones 'slate Bush' in album song" BBC News, 2005. Retrieved 16 October 2007.
^ “アーカイブされたコピー”. 2013年7月21日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年5月19日閲覧。 CNN News, 2005. Retrieved 27 November 2007.
^ キース・リチャーズ、ココナッツの木から落下
^ キース、落ちたのは「ココナッツの木からじゃない」
^ 豪ツアー後、キース・リチャーズ、ヤシの木から落ちて大怪我
^ "Keith Richards and the Fiji fall: The mystery deepens" Uncut. Retrieved 5 October 2007.
^ “Kiwi Doctor Rolls with the Stones”. Sunday Star Times (2008年2月10日). 2008年3月5日閲覧。
^ DPA (2006年6月14日). “After the tree... it's rehab”. The Sydney Morning Herald. http://www.smh.com.au/articles/2006/06/14/1149964607303.html 2007年5月17日閲覧。
^ Larkin, Adrian (2006年6月20日). “Rolling Stones gig latest”. BBC 6. 2007年5月18日閲覧。
^ “The Rolling Stones Europe 2006”. The Rolling Stones Fan Club of Europe. 2006年8月15日閲覧。
^ 金正哲氏がソウル公演に? クラプトンが懸念(下)
^ "Stones Roll Over U2 To Claim Highest Grossing Concert Tour" All Headline News, 29 November 2006
^ "Shine A Light"Internet Movie Database, 16 January 2007
^ “Ahmet Ertegun, Music Executive, Dies at 83”. nytimes.com. 2012年3月20日閲覧。
^ アトランティック・レコードの創設者アーメット・アーティガン死去 - 米国
^ “Rolling Stones' Tour Breaks Attendance Records”. Huliq.com. 2011年4月4日閲覧。
^ “2010: Who Will Tour?”. Melodic Rock Concerts. 2009年11月6日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年9月6日閲覧。
^ "Stones Planning 23rd Album" Contact Music, 28 March 2008
^ "Stones Roll to Universal in New Deal"[リンク切れ]Yahoo! News, 25 July 2008. Retrieved 25 July 2008.
^ “The Rolling Stones to release "Plundered My Soul" for Record Store Day at independent.co,uk”. The Independent (UK). (2010年4月10日). http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/the-rolling-stones-to-release-ldquoplundered-my-soulrdquo-for-record-store-day-1940947.html 2010年9月6日閲覧。
^ Chagollan, Steve (2010年5月15日). “Re-issue of Stones album spawns Cannes docu”. Variety. http://www.variety.com/article/VR1118019350.html?categoryid=16&cs=1
^ El Universal Spanish [1] "Rolling Stones se uniran a las estrellas en la meca del cine europeo"
^ “Archive Chart”. Theofficialcharts.com (2010年5月29日). 2012年5月31日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年9月6日閲覧。
^ Up for Discussion Jump to Forums (2009年9月14日). “'Glee' Stops the Show at No. 1, Stones Come in Second On Billboard 200”. Billboard. 2010年5月30日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年9月6日閲覧。
^ Rambler, Midnight (2010年8月12日). “Ladies and Gentlemen to Hit Cinemas across the Globe”. Rollingstones.com. 2010年8月15日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年9月6日閲覧。
^ “The Rolling Stones - Some Girls, Live in Texas '78”. 2011年12月3日閲覧。
^ The Rolling Stones 50: Win a signed copy of the official book celebrating the Stones' 50th anniversary - Daily Mirror
^ Keith Richards: Rolling Stones are rehearsing - BBC News Online
^ Mick Jagger: Rolling Stones to perform later this year - Rollingtimes.org
^ The Rolling Stones announce documentary chronicling their 50 year career - rollingstones.com
^ Bill Wyman in Rolling Stones HBO programme - billwyman.com
^ Rolling Stones Documentary Coming to HBO in Fall - rollingstone.com
^ Crossfire Hurricane - A New Film From The Rolling Stones - rollingstones.com
^ Rolling Stones to Play London and Brooklyn in November - rollingtimes.org
^ The Rolling Stones announce a 50th anniversary greatest hits album, 'GRRR!' - rollingtimes.org
^ GRRR! The Rolling Stones announce greatest hits album - rollingstones.com
^ The Rolling Stones to attend London premiere of Crossfire Hurricane - rollingstones.com
参考文献
Egan, Sean (2006), The Rough Guide to the Rolling Stones, London: Penguin, ISBN 1843537192, http://www.amazon.com/Rough-Guide-Rolling-Stones-Reference/dp/1843537192
Paytress, Mark (2003), Rolling Stones : off the record, London ; New York: Omnibus, ISBN 0711988692, http://books.google.ca/books?id=toSbe1xQxToC&lpg=PP1&dq=The%20Rolling%20Stones&lr&client=firefox-a&pg=PP1#v=onepage&q&f=true
Forget, Thomas (2003), The Rolling Stones, New York, NY: Rosen Central, ISBN 0823936449, http://books.google.ca/books?id=k27BVJZzIwoC&lpg=PP1&dq=The%20Rolling%20Stones&lr&client=firefox-a&pg=PP1#v=onepage&q&f=true
Sanchez, Tony (1996), Up and down with the Rolling Stones, New York: Da Capo, ISBN 0306807114, http://books.google.ca/books?id=GFbmlEEPkG4C&lpg=PP1&dq=The%20Rolling%20Stones&lr&client=firefox-a&pg=PP1#v=onepage&q&f=true
Miller, Jim (1980), The Rolling Stone illustrated history of rock & roll : the definitive history of the most important artists and their music, New York: Random House, ISBN 0679737286, http://books.google.ca/books?id=W2a27GxUe-sC&lpg=RA1-PA1&dq=The%20Rolling%20Stones&lr&client=firefox-a&pg=PA1931#v=onepage&q&f=true
Hector, James (1995), The complete guide to the music of the Rolling Stones, London: Omnibus, ISBN 0711943036, http://books.google.ca/books?id=b2b3HmK4bOoC&lpg=PP1&dq=The%20Rolling%20Stones&lr&client=firefox-a&pg=PP1#v=onepage&q&f=true
Gered Mankowitz: The Rolling Stones - Out of Their Heads. Photographs 1965-67 and 1982, ISBN 3-89602-664-X
Booth, Stanley, The True Adventures of the Rolling Stones, Chicago Review Press (2000), ISBN 1-55652-400-5 (also published as Dance with the Devil: The Rolling Stones and Their Times, Random House (1984), ISBN 0-394-53488-3)- Stanley Booth, Keith: Standing in the Shadows, St. Martin's Press (1995), ISBN 0-312-11841-4
- Wyman, Bill, Rolling with the Stones, DK Publishing (2002), ISBN 0-7894-9998-3
Carr, Roy, The Rolling Stones: An Illustrated Record, Harmony Books (1976), ISBN 0-517-52641-7
- Robert Greenfield, S.T.P.: A Journey Through America with the Rolling Stones (1974), Reissued Da Capo Press, 2002. ISBN 0-306-81199-5
- James Phelge, Nankering with the Stones 2000. ISBN 1-55652-373-4
- The Rolling Stones, According to the Rolling Stones, Chronicle Books (2003), ISBN 0-8118-4060-3
Oldham, Andrew Loog, Stoned, St. Martin's Griffin (2000), ISBN 0-312-27094-1
- Chet Flippo, On the Road With the Rolling Stones, Doubleday/Dolphin (1985), ISBN 0-385-19374-2
Marcus, Greil, "Myth and Misquotation", The Dustbin Of History, Harvard University Press (1997), ISBN 0-674-21858-2
"The Ecstasy and the Irony: The Evolution of a Rhythm & Blues Band" Ian McPherson (2000)
Lazar, Zachary, Sway, Little, Brown (2008), ISBN 0-316-11309-3
Richards, Keith; Fox, James (2010). Life. Weidenfeld & Nicolson. ISBN 9780297854395.
Marc Spitz, Jagger: Rebel, Rock Star, Rambler, Rogue, Gotham Books (2011), ISBN 978-1592406555
- 『ザ・ローリング・ストーンズ楽器大名鑑 Rolling Stones Gear』アンディ・バビアック&グレッグ・プレヴォスト DU BOOKS(2015)ISBN 978-4-907583-04-0
外部リンク
- 公式ウェブサイト
THE ROLLING STONES | ローリング ストーンズ - Universal Music Japan
The Rolling Stones - Allmusic
ローリング・ストーンズ - インターネット・ムービー・データベース(英語)
The Rolling Stonesの作品 - MusicBrainz(英語)
|