荒木貞夫
































荒木 貞夫

Araki Sadao.jpg
生誕
1877年5月26日
日本の旗 日本 東京府多摩郡(現:東京都 狛江市)
死没
(1966-11-22) 1966年11月22日(89歳没)
日本の旗 日本 奈良県 吉野郡十津川村
所属組織
War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大日本帝国陸軍
軍歴
1898 - 1936年
最終階級
陸軍大将
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荒木 貞夫(あらき さだお、1877年(明治10年)5月26日 - 1966年(昭和41年)11月2日)は、日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。


真崎甚三郎と共に皇道派の重鎮。




目次






  • 1 略歴


    • 1.1 生い立ち


    • 1.2 皇道派のシンボル


    • 1.3 皇道教育の推進


    • 1.4 戦後




  • 2 家庭


  • 3 人物像


  • 4 年譜


  • 5 栄典


  • 6 脚注


    • 6.1 注釈


    • 6.2 出典




  • 7 関連項目


  • 8 外部リンク





略歴



生い立ち


東京都狛江市(出生当時は東京府多摩郡)出身。小学校校長で、旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。誕生日は木戸孝允の命日でもある。日本中学中退を経て、1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校卒業(第9期)。近衛歩兵第1連隊に配属され、第16代連隊旗手をつとめる[1]。日露戦争中は、近衛後備混成旅団の副官として、梅沢道治少将に仕えた。旅団司令部には参謀の配置がないために、事実上の参謀役を務める。梅沢少将が無類の戦上手で、その旅団も「花の梅沢旅団」と称えられたために、荒木副官の名前も陸軍部内で注目を集めるようになった。1907年(明治40年)11月、陸軍大学校を首席で卒業(「恩賜の軍刀」拝受)。


第一次世界大戦中はロシア従軍武官。シベリア出兵では特務機関長にて参加。その後、憲兵司令官等を歴任。



皇道派のシンボル


1929年(昭和4年)、陸軍首脳は「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、第1師団長であった真崎甚三郎を台湾軍司令官として追いやったが、そのときに荒木も左遷される予定であった。しかし、教育総監の武藤信義が「せめて荒木は助けてやってくれ」と詫びを入れる形で、荒木は第6師団長から教育総監部本部長に栄転し東京に残った。武藤はどちらかというと「反宇垣一成」で皇道派の庇護者であったため、統制派の独裁を嫌い、特に荒木を可愛がったらしい。この頃の荒木の人気というのは大変なもので、東京駅のホームは出迎えの青年将校で溢れ、さながら凱旋将軍のようであったという。


1924年(大正13年)、平沼騏一郎が司法官僚や陸海軍の高級軍人を集め組織化した国粋主義団体・国本社で、荒木貞夫は宇垣一成と共に理事をしており、平沼に心酔していた[2]。1931年(昭和6年)7月16日の原田熊雄の『原田日記』によれば、その頃荒木は平沼を天皇の側近にするための宮中入り運動をしていたが、西園寺公望によって阻止されている[3]。憲兵司令官時代から大川周明や平沼騏一郎・北一輝・井上日召といった右翼方面の人物と交流を持っていたことから、1931年(昭和6年)の十月事件においては、橋本欣五郎から首相候補として担がれたが、荒木自身の反対や意見の非統一から計画は頓挫した。


満州事変真っ只中の同年12月に荒木は教育総監部本部長から、荒木の盛り立てを目的とする一夕会の永田鉄山や鈴木貞一[4]らの働きかけで犬養内閣の陸相に就任した。参謀総長には閑院宮元帥を担ぎ出してロボット化を謀り、参謀本部の実質トップとなる参謀次長には真崎を台湾軍司令官から呼び戻して就任させた。荒木の人事は、自分の閥で要職を固め、過激思想の青年将校を東京の第1師団に集めた。この後、荒木・真崎の取り巻き連を皇道派と呼び、それに対抗する勢力を統制派と呼ぶようになった。荒木人事の凄まじさに、「清盛の専横」とか「驕る平氏も久しからず」という恨みの言葉がささやかれるほどであった。しかし、過激青年将校や下士官に自重を求める荒木の人気は下降し、次第に四面楚歌に追いやられるようになった。自分で育て、利用してきた過激青年将校たちを、制御できなくなったのである。1934年(昭和9年)1月、ついに荒木は病気を理由に陸相を辞任する。荒木は後任の陸相に腹心の真崎を希望したが、自らが擁立したはずの閑院宮にも反対され、挫折した。


極東国際軍事裁判(東京裁判)における岡田啓介の証言によれば、陸相時代には天皇を退位させて、生後間もない皇太子を即位させる計画を持っていたという。また「熊沢天皇」こと熊沢寛道とのつながりも指摘されている。


1933年(昭和8年)、大阪でゴーストップ事件が発生。陸相であった荒木は「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」と憤慨し、内務省と対立した[5]。1933年10月には外国人記者団との記者会見において、「竹槍三百万本あれば列強恐るるに足らず」と口にして座を呆然とさせた(竹槍三百万論)。さらに来日中のジョージ・バーナード・ショーとの会談において日本人は地震によって強靭な精神を鍛えたのだと主張した(地震論)。


1936年(昭和11年)の二・二六事件の際には、皇道派の首領として青年将校達を裏で支えていたのでは、という疑惑が持ち上がったが、軍の主要人物の中では、一番明確に反乱将校に原隊復帰を呼びかけていた。しかし、荒木はこの事件後の粛軍によって予備役に退かされ、軍人としての第一線からは消えていった。


石原莞爾は荒木のことを徹底的に嫌っていた。石原は皇道派ではなかったが、皇道派と対立する統制派でもなく、思想的理由で荒木を嫌っていたのではなく、荒木の無責任と無能ぶりが我慢ならなかったようである。二・二六事件の只中、陸軍省で荒木と遭遇した石原(当時陸軍大佐)は荒木に向かって「ばか!お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と罵倒した。荒木が「なにを無礼な!上官に向かってばかとは軍規上許せん!」と言い返すと石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ」と猛然と言い返し、両者はあやうく乱闘になりかけたが、その場にいた安井藤治東京警備軍参謀長が二人をおさえて何とか事なきを得た[6]。石原は真崎のことも嫌悪しており、真崎の差し出した握手を無視したこともあったという。



皇道教育の推進




文部大臣当時の荒木


1938年(昭和13年)5月26日に、第1次近衛内閣の文部大臣に就任すると同時に、「皇道教育」の強化を前面に打ち出した。国民精神総動員の委員長も務め、思想面の戦時体制作りといったプロパガンダを推し進めた。この頃から、軍部の大学・学園への弾圧が始まり、人民戦線事件や平賀粛学に代表されるような思想弾圧が行われるようになった。


戦後の極東国際軍事裁判においては、文相時代の事柄にも重点が置かれることとなった。裁判の法廷において、証人として出廷した大内兵衛は、検事の尋問に応じて宣誓口供書を提出したうえで、弁護団の反対尋問で、軍事教育を通じて、軍部による学園弾圧が強化されていった過程を「1938年、荒木貞夫文相の時、各大学における軍事教育が一層強制的となり、軍部の学校支配が強化された」「軍事教練は、荒木さんが陸相当時、東大で採用するよう要求があった。この時東大は拒絶したが、1938年に荒木さんが文相になった時、軍事訓練は強制的となった」と証言している。


上記のようなことから、極東国際軍事裁判においても、検事から「荒木は侵略思想を宣伝し、教育・鼓吹した」と指摘されたが、荒木の弁護人である菅原裕は「荒木の宣伝したのは、侵略ではなく皇道であって、侵略思想とは正反対の日本古来の精神主義である」と全面的に否定している。



戦後


戦後はA級戦犯指名されて逮捕され、巣鴨プリズンに拘置された。極東国際軍事裁判ではのらりくらりとしながらもその堂々とした態度が他の被告人らを奮い立たせたとも言われ、非常に饒舌で罪状認否で起訴状の内容に対し無罪を主張して熱弁を振るい、ウィリアム・ウェブ裁判長から注意されたこともあった。判決時にはモーニング姿で被告席に現れた。一方で、重光葵の証言によれば、巣鴨プリズン内のアメリカ人憲兵の不遜な態度に反発するあまりに、親ソ的な言動をとるようになった。当初アメリカ人憲兵は荒木らA級戦犯に対し、非常に大らかな規律・姿勢で対応していたが、彼らの態度が日増しに尊大になっていくことを問題視し、一転して厳格な態度で接するようになったという[要出典]


極東国際軍事裁判において、終身禁固刑の判決を受け、服役する。木戸幸一・大島浩・嶋田繁太郎と並んで11人中5人が死刑賛成、といったわずか1票差で死刑を免れて終身刑の判決を受ける[7]。1955年(昭和30年)に病気のため仮出所し、その後釈放。間もなく健康を回復。以後日本全国を回り、講演や近現代史研究のための史料調査などを行い、積極的に活動した。


1966年(昭和41年)10月末、奈良県吉野郡十津川村の招待で同村を訪問し、同村ゆかりの天誅組・十津川郷士関係の諸史料の調査と講演を行ったが、同年11月1日、宿泊先の「十津川荘」において心臓発作を起こす。当時の佐藤栄作首相へ「日本の未来像は、維新の五箇条の御誓文を主とし、つまらぬ事を付け加えずに、これを達成すること」といった遺言を口述し、翌日死去した。89歳没。墓所は多磨霊園。


1967年(昭和42年)11月、一周忌に際し、十津川村は「荒木貞夫終焉之地碑」を建立。碑文は佐藤栄作の揮毫によるものである。十津川村の厚情に対し、遺族は貞夫の遺品となった「恩賜の軍刀」を村に寄贈。軍刀は現在十津川村歴史民俗資料館に展示されている。



家庭


妻の錦子は日本赤十字社篤志看護婦人会幹事、大日本国防婦人会副会長、陸海軍将校婦人会幹事長、東洋婦人教育会理事、柏葉婦人会評議員等を歴任。1909年(明治42年)、荒木は錦子との間に長男の貞發を儲けた。貞發は幼少時、父がロシア従軍武官となった際、父に連れられシベリアに同行している。その後貞發はロンドン大学を卒業し、日産自動車に勤務した。



人物像




荒木貞夫



  • 青年将校たちとは友達感覚で接し、自宅に彼らを年中たむろさせ、明け方まで痛飲することも多かったことで知られていた。少尉に任官したばかりの20歳前後の者が、真夜中に「荒木はいるか!」と大声で叫びながら遊びにやってくるようなこともあり、青年将校たちは、面と向かって大将である荒木を呼び捨てにし、荒木も怒るどころかニコニコしながら「若い者は元気があって良いのお」と上機嫌であったという。そのため、他の将校たちから顰蹙を買うことも多く、陸軍内で問題視された「下克上」の風潮も、荒木による一連の言動が最も大きい要因の一つだったと言われている。

  • 口癖は「非常時」「皇国精神」「皇軍」だった。それまで「国軍」という言い方が普通であった日本陸軍を、「皇軍」と称したのは荒木がはじめと言われる。そのため、荒木のあだ名は「慢性非常時男」「精神家」(精神科とのシャレ)、あまりにも長いだらだらとしたスピーチも有名なため「牛のよだれ」などであった。

  • 1935年(昭和10年)、荒木は男爵に列せられ華族となったが、大邸宅などは構えず、一家で東京・幡ケ谷の2階建て小家屋に住み続けた。ただ叙爵直後、宴席で芸者たちに「これからは男爵様と呼びなさい」と言うなど、新華族(成り上がり華族)特有のエピソードも残っている[8]



年譜



  • 1897年(明治30年)11月 - 陸軍士官学校卒業(9期)

  • 1898年(明治31年)6月 - 少尉に進級。近衛歩兵第1連隊附。

  • 1900年(明治33年)11月 - 中尉に進級。

  • 1901年(明治34年)3月 - 陸軍中央幼年学校生徒隊附

  • 1904年(明治37年)

    • 2月 - 近衛後備歩兵第1連隊中隊長

    • 5月 - 近衛後備混成旅団副官

    • 8月 - 大尉に進級。



  • 1905年(明治38年)12月 - 近衛歩兵第1連隊附

  • 1907年(明治40年)11月 - 陸軍大学校卒業(19期恩賜)。参謀本部出仕(ロシア駐在)。

  • 1908年(明治41年)4月 - 参謀本部員

  • 1909年(明治42年)

    • 11月 - 少佐に進級。

    • 12月 - ロシア駐在。



  • 1912年(明治45年)5月 - ロシア公使館付武官補佐官

  • 1913年(大正2年)4月 - 参謀本部員

  • 1914年(大正3年)

    • 3月 - 陸軍省副官

    • 8月 - 陸軍大学校教官。



  • 1915年(大正4年)

    • 4月 - ロシア出張。

    • 6月 - ロシア軍に従軍( - 1918年(大正7年)4月)

    • 8月 - 中佐に進級。参謀本部附仰付(ハルピン特務機関)。



  • 1918年(大正7年)

    • 7月24日 - 大佐に進級。関東都督府附。

    • 11月1日 - ウラジオストク派遣軍参謀



  • 1919年(大正8年)7月25日 - 歩兵第23連隊長

  • 1921年(大正10年)4月1日 - 参謀本部欧米課長

  • 1923年(大正12年)3月17日 - 少将に進級。歩兵第8旅団長。

  • 1924年(大正13年)

    • 1月9日 - 憲兵司令官

    • 5月 - 国本社理事



  • 1925年(大正14年)5月1日 - 参謀本部第1部長

  • 1927年(昭和2年)7月26日 - 中将に進級。

  • 1928年(昭和3年)8月10日 - 陸軍大学校校長

  • 1929年(昭和4年)8月2日 - 第6師団長

  • 1931年(昭和6年)

    • 8月1日 - 教育総監部本部長

    • 12月13日 - 犬養内閣で陸軍大臣( - 1934年(昭和9年)1月23日)



  • 1932年(昭和7年)2月11日 - 『昭和日本の使命』発行 社會教育教會

  • 1933年(昭和8年)10月20日 - 大将に進級。同年、法政大学顧問に就任[9]

  • 1934年(昭和9年)1月23日 - 軍事参議官

  • 1935年(昭和10年)12月26日 - 男爵

  • 1936年(昭和11年)3月10日 - 予備役編入

  • 1937年(昭和12年)10月15日 - 内閣参議

  • 1938年(昭和13年)5月26日 - 1939年(昭和14年)8月30日まで第1次近衛内閣・平沼内閣の文相として国民の軍国化教育に邁進した。

  • 1940年(昭和15年)1月20日 - 内閣参議( - 7月22日)。



栄典




  • 1932年(昭和7年)1月15日 - 勲一等瑞宝章[10]


  • 1933年(昭和8年)2月15日 - 正三位[11]


  • 1935年(昭和10年)12月26日 - 男爵[12]


  • 1939年(昭和14年)3月15日 - 従二位[13]


外国勲章佩用允許


  • 1933年(昭和8年)7月25日 - ペルーソレイユ勲章グランクロア[14]


脚注



注釈


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出典


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  1. ^ ノーベル書房編集部編『陸軍郷土歩兵聯隊写真集 わが聯隊』 ノーベル書房、1979年。p92


  2. ^ 橋川文二『昭和維新試論』p180~p189


  3. ^ 橋川文二『昭和維新試論』p202~p204


  4. ^ 川田稔『満州事変と政党政治』


  5. ^ 『大阪日日新聞』 2008/03/29 「なにわ人物伝 -光彩を放つ-ゴーストップの人たち(2)」


  6. ^ 『岡田啓介回顧録』(中公文庫、1987年)p.182


  7. ^ 取れなかった原稿2 (大島浩さん) 岡崎満義 『文壇こぼれ話5』全日本漢詩連盟、2007年1月1日


  8. ^ 保阪正康『華族たちの昭和史』(毎日新聞社)


  9. ^ 『法政大学校友名鑑』(1941)p23、飯田泰三「図書館通史 第6章」(法政大学図書館、2006年)p127


  10. ^ 『官報』第1511号「叙任及辞令」1932年1月16日。


  11. ^ 『官報』第2093号「叙任及辞令」1933年12月21日。


  12. ^ 『官報』第2696号「叙任及辞令」1935年12月27日。


  13. ^ 『官報』第3734号「叙任及辞令」1939年6月19日。


  14. ^ 『官報』第1972号「叙任及辞令」1933年7月28日。




関連項目



  • 科学研究費助成事業

  • 真崎甚三郎

  • 小松慶也

  • 竹槍三百万論

  • フィンガーボウル



外部リンク



  • 国立国会図書館 憲政資料室 荒木貞夫関係文書


  • 「非常時は続く」(1933年の演説レコード)

  • 1933年の演説映像























日本の爵位
先代:
叙爵

男爵
荒木(貞夫)家初代
1935年 - 1947年
次代:
華族制度廃止
公職
先代:
南次郎

陸軍大臣
1931年 - 1934年
次代:
林銑十郎
先代:
木戸幸一

文部大臣
第53代:1938年 - 1939年
次代:
河原田稼吉












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