カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年9月) |
カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン(Prinz Karl Alexander von Lothringen und Bar, 1712年12月12日 - 1780年7月4日)は、ロートリンゲン公(ロレーヌ公)レオポルトの息子で神聖ローマ皇帝フランツ1世の弟。オーストリアで軍司令官、およびネーデルラント総督を務めた。またドイツ騎士団総長でもあった。フランス語名はシャルル・アレクサンドル・ド・ロレーヌ(Charles Alexandre de Lorraine)。日本ではカール公子と呼ばれることもある。
概要
オーストリア継承戦争の際にはオーストリア軍の主要な指揮官の一人だったが、1742年のホトゥジツェの戦いや1745年のホーエンフリートベルクの戦いでプロイセン王フリードリヒ2世に、1746年のロクールの戦いでフランスの将軍モーリス・ド・サックスに敗れている。
七年戦争の際にもオーストリア軍を指揮したが、1757年のプラハの戦いで再びプロイセン軍に敗れた。その後、ブレスラウの戦いで小さな勝利を収めたが、ロイテンの戦いでもまたプロイセン軍に敗れた。以後、ダウン伯に軍の指揮を委ね、自らは軍務から手を引いた。
1744年1月7日、カールは神聖ローマ皇帝カール6世の次女で兄嫁マリア・テレジアの妹であるマリア・アンナと結婚した。2人は間もなく、ともにオーストリア領ネーデルラントの総督に任じられてブリュッセルに赴いたが、マリア・アンナは同年12月16日に死産によって急死してしまう。カールはその後もネーデルラントに留まり、1780年に自身が死去するまでの約35年間、総督を務めた。
軍事ではさしたる才がなかったが、内政や領地経営に関しては兄フランツ1世に勝るとも劣らぬ、極めて高い手腕を持っていた。特に総督として赴任していたネーデルラントでは現地の慣習を重んじ、マリア・テレジアが本国で進めていた改革を性急に押しつけず穏健に改革を進めており、このことからネーデルラントでの人気は高かった。
妻マリア・アンナとの死別以降は再婚せず、最期まで独身を貫いた。2人の間に子はなかった。
脚註
関連項目
- 南ネーデルラント
- マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1718-1744)
|
|
|
|
|
|