フランキー・フリッシュ



































































フランキー・フリッシュ
Frankie Frisch

FrankieFrischGoudeycard.jpg
基本情報
国籍
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地
ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区
生年月日
1898年9月9日
没年月日
(1973-03-12) 1973年3月12日(74歳没)
身長
体重

5' 11" =約180.3 cm
165 lb =約74.8 kg
選手情報
投球・打席
右投両打
ポジション
二塁手
プロ入り
1919年
初出場
1919年6月14日
最終出場
1937年8月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


選手歴



  • ニューヨーク・ジャイアンツ(1919 - 1926)


  • セントルイス・カージナルス(1927 - 1937)


監督・コーチ歴


  • セントルイス・カージナルス(1933 - 1938)


  • ピッツバーグ・パイレーツ (1940 - 1946)

  • ニューヨーク・ジャイアンツ (1949)


  • シカゴ・カブス (1949 - 1951)




アメリカ野球殿堂


Empty Star.svgEmpty Star.svgEmpty Star.svg殿堂表彰者Empty Star.svgEmpty Star.svgEmpty Star.svg

選出年
1947年
得票率
84.47%
選出方法
全米野球担当記者協会選出

フランキー・フリッシュ(Francis "Frankie" Frisch、1898年9月9日 - 1973年3月12日) は、1920年代 - 1930年代のMLBの選手、および監督。主なポジションは二塁手。アメリカ合衆国・ニューヨーク市ブロンクス区出身。右投両打。ニックネームは"The Fordham Flash"(フォーダム・フラッシュ)。これは彼がフォーダム大学の出身であることから来ている。




目次






  • 1 経歴


    • 1.1 現役時代


    • 1.2 監督として


    • 1.3 引退後




  • 2 詳細情報


    • 2.1 年度別打撃成績


    • 2.2 獲得タイトル・表彰・記録


    • 2.3 監督としての通算戦績




  • 3 出典・外部リンク





経歴



現役時代


1919年に、大学卒業後ニューヨーク・ジャイアンツに入団。マイナーリーグを経ることなくメジャーデビューを果たす。早くからチームのキャプテンに指名されたフリッシュは、3年目の1921年に49盗塁を記録して初の盗塁王となる。打率はこの年初めて3割を超え、それ以降11年間ずっと打率3割以上を維持していた。ジャイアンツ時代には1923年に最多安打、翌1924年にリーグ最多得点をマーク。1921年からは4年続けてワールドシリーズに出場した。


1926年、フリッシュはロジャース・ホーンスビーとのトレードでセントルイス・カージナルスに移籍する。翌1927年には、208安打、打率.337をマーク、自身二度目の盗塁王となるとともに、守備でも補殺、併殺数でリーグ最多を記録するなど、攻守で活躍を見せた。この年に記録した641補殺は、1シーズン補殺数(二塁手)のメジャーリーグ記録(2013年現在)である。


フリッシュは1930年代の「ガスハウス・ギャング」と呼ばれていたチームを牽引し、1928年以後4度ワールドシリーズに出場する。1933年以降は監督兼任選手となり、1934年のワールドシリーズ進出は自らの指揮によるものである。選手としては1937年まで出場、翌年からカージナルスの監督に専念するようになった。



監督として


フリッシュは1938年までカージナルスで監督を務めたが、この年はチームの成績が不振で、シーズン終盤で監督の座を退く。1940年からはピッツバーグ・パイレーツを率い、1944年に90勝をあげるもののリーグ制覇はできなかった。更に1949年からはシカゴ・カブスの監督をつとめたものの、在籍時のチームの順位は毎年7位から8位と全く振るわなかった。監督としてリーグ制覇を成し遂げたのは、結局兼任監督であった1934年の1度きりだった。



引退後


フリッシュはパイレーツの監督を退いた翌年の1947年、記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。球界を離れてからは、ラジオの実況放送を何年かつとめ、ジャイアンツのコーチもしていたが、1956年に心臓発作を起こしてから、それらの活動も制限するようになっていた。その後フリッシュは、アメリカ野球殿堂のベテランズ委員会の委員長職を勤めた。その影響力は大きく、特に彼のチームメイトだった選手たちの殿堂入り選考については、多くの批判があった。


1973年、フロリダでのベテランズ委員会の会議から、車でロードアイランド州へ戻る途中に交通事故を起こし負傷、1か月後にデラウェア州ウィルミントンで死去した。74歳。



詳細情報



年度別打撃成績

























































































































































































































































































































































































































































































































































































































O
P
S

1919

NYG
54 197 190 21 43 3 2 2 56 24 15 - 3 - 4 - 0 14 - .226 .242 .295 .537

1920
110 473 440 57 123 10 10 4 165 77 34 11 13 - 20 - 0 18 - .280 .311 .375 .686

1921
153 687 618 121 211 31 17 8 300 100 49 13 26 - 42 - 1 28 - .341 .384 .485 .870

1922
132 582 514 101 168 16 13 5 225 51 31 17 18 - 47 - 3 13 - .327 .387 .438 .824

1923
151 703 641 116 223 32 10 12 311 111 29 12 11 - 46 - 4 12 - .348 .395 .485 .880

1924
145 675 603 121 198 33 15 7 282 69 22 9 14 - 56 - 2 24 - .328 .387 .468 .855

1925
120 542 502 89 166 26 6 11 237 48 21 12 5 - 32 - 3 14 - .331 .374 .472 .846

1926
135 589 545 75 171 29 4 5 223 44 23 - 11 - 33 - 0 16 - .314 .353 .409 .762

1927

STL
153 693 617 112 208 31 11 10 291 78 48 - 26 - 43 - 7 10 - .337 .387 .472 .858

1928
141 631 547 107 164 29 9 10 241 86 29 - 19 - 64 - 1 17 - .300 .374 .441 .815

1929
138 598 527 93 176 40 12 5 255 74 24 - 17 - 53 - 2 12 - .334 .397 .484 .881

1930
133 611 540 121 187 46 9 10 281 114 15 - 16 - 55 - 0 16 - .346 .407 .520 .927

1931
131 570 518 96 161 24 4 4 205 82 28 - 5 - 45 - 2 13 - .311 .368 .396 .764

1932
115 513 486 59 142 26 2 3 181 60 18 - 2 - 25 - 0 13 - .292 .327 .372 .699

1933
147 646 585 74 177 32 6 4 233 66 18 - 10 - 48 - 3 16 20 .303 .358 .398 .757

1934
140 605 550 74 168 30 6 3 219 75 11 - 10 - 45 - 1 10 17 .305 .359 .398 .757

1935
103 402 354 52 104 16 2 1 127 55 2 - 14 - 33 - 1 16 7 .294 .356 .359 .714

1936
93 348 303 40 83 10 0 1 96 26 2 - 8 - 36 - 1 10 9 .274 .353 .317 .670

1937
17 34 32 3 7 2 0 0 9 4 0 - 1 - 1 - 0 0 2 .219 .242 .281 .524
通算:19年
2311 10099 9112 1532 2880 466 138 105 3937 1244 419 *74 229 - 728 - 31 272 *55 .316 .369 .432 .801


  • 「-」は公式記録なし。

  • 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す。


  • 太字はリーグ1位。



獲得タイトル・表彰・記録



  • ナショナルリーグMVP:1931年


  • 最多安打:1回 (1923年)

  • 最多得点:1回 (1924年)


  • 盗塁王:3回 (1921年、1927年、1931年)


  • ワールドシリーズ出場:8回 (1921年 - 1924年、1928年、1930年、1931年、1934年)


  • オールスターゲーム出場:3年連続3回 (1933年 - 1935年)


  • MLBオールセンチュリー・チームにノミネート (1999年)



監督としての通算戦績


2246試合、1138勝1078敗、勝率.514、ワールドシリーズ出場:1回 (1934年)



出典・外部リンク






  • Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介



  • 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
















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