小出吉親




































































 

凡例
小出 吉親

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小出吉親像(徳雲寺蔵)

時代
江戸時代前期
生誕
天正18年 (1590年)
死没
寛文8年3月11日(1668年4月22日)
別名
通称:助九郎
戒名
福源院松渓玄秀
墓所
谷広徳寺、戸倉山山頂(小出氏廟所)
官位
従五位下加賀守、信濃守、対馬守、伊勢守
幕府
江戸幕府
主君
豊臣秀吉→徳川家康→秀忠→家光→家綱

出石藩 → 園部藩
氏族
小出氏
父母
父:小出吉政、母:伊東治明の娘
兄弟
女(加藤貞泰室)、吉英、吉親、吉景、吉成、女(松平忠明室)、俊定

正室:本多正重の娘
側室:某氏

青龍院(一柳直頼正室)、次女(杉原重長正室)、三女(加藤直泰正室)、英知、四女(板倉重矩正室)、一柳直次、五女(半井成忠室)、六女(井上正義正室)、七女(小出吉明室)、八女(井上正義継室)、某[1]、九女(小出重治室)、十女(金森七之助[2]室)
養子:吉直 [3]吉忠 [4]

小出 吉親(こいで よしちか、天正18年(1590年) - 寛文8年3月11日(1668年4月22日))は、江戸時代前期の大名。但馬出石藩3代藩主、のち丹波園部藩初代藩主。吉親系小出氏初代。



略歴


天正18年 (1590年)、小出吉政の次男として大坂で生まれた。母は伊東治明の娘。


慶長3年(1598年)、太閤豊臣秀吉の命により従五位下加賀守に叙任された。慶長8年(1603年)、信濃守に改められ、江戸に至って徳川家康に拝謁。


慶長10年(1605年)、徳川秀忠の上洛に随従し、4月26日の参内に供奉した。


慶長15年(1610年)、上野国甘楽郡に2,000石の知行を与えられた。


慶長18年(1613年)に父吉政が没すると、兄吉英が家督を継いで和泉国岸和田藩の遺領に移ったため、吉親は兄の出石城と父の所領の一部を継承し、但馬国出石郡、気多郡、美含郡、養父郡から、2万7,700石を領することとなり、併せて2万9,700石(約3万石)の大名となった。


慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、兄と共に天王寺口の攻撃に参加した。大坂夏の陣の際には落城時に大鍬兼保(薄田兼相の弟)や大野一族らの三百余を討ち取った。また兄と同じく堺浦の警備にあたり、豊臣方の捕縛を行った。両役で吉親は67の首級を上げた。


元和5年(1619年)に兄が出石に再封されて戻って来ることになったため、吉親は新たに丹波国園部に移封され、丹波国船井郡、桑田郡、何鹿郡、上野国甘楽郡[5]の4郡で併せて2万8,000石を領し、園部藩を立藩した。そして同地に園部城を築城した。


元和7年(1621年)、有馬豊氏の移封に伴い、一時的に福知山城に入ってこれを守った。寛永元年(1624年)の大坂城普請に参加。


寛永3年(1626年)、徳川家光の上洛に従い、後水尾天皇の二条城に行幸の際に供奉に列した。この時、対馬守に改めた。寛永19年(1642年)、上方の郡奉行となり、伊勢守に改める。


寛文2年(1662年)、養子の吉直 [3]に3千石を分知する。


寛文7年(1667年)、家督を長男の英知に譲って隠居し、所領より養老料として5千石をあてられる。


寛文8年(1668年)、園部にて死去した。享年79。下谷広徳寺に葬られた。法名は福源院松渓玄秀。



脚注


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  1. ^ 愛宕山威徳寺住持。


  2. ^ 加賀藩家臣。

  3. ^ ab一柳直頼の次男。


  4. ^ 一柳直次の三男。


  5. ^ 後年に上野国の領地は丹波国の領地と交換された。




参考文献



  • 堀田正敦 国立国会図書館デジタルコレクション 『寛政重脩諸家譜. 第5輯』 國民圖書、1923年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/445 国立国会図書館デジタルコレクション 





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