良弁
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良辨 | |
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持統天皇3年 - 宝亀4年閏11月24日 (689年 - 774年1月10日) | |
尊称 | 金鐘行者 |
宗派 | 華厳宗 |
寺院 | 東大寺 |
師 | 義淵 |
良辨(ろうべん、りょうべん[1]、持統天皇3年(689年) - 宝亀4年閏11月24日(774年1月10日))[2]は、奈良時代の華厳宗の僧。東大寺の開山[3]。通称を金鐘行者といった。
目次
1 生涯
2 脚注
3 関連作品
4 関連文献
生涯
持統3年(689年)、相模国の柒部氏の出身である。鎌倉生まれと言われ、義淵に師事した[2]。別伝によれば、近江国の百済氏の出身、又は、福井県小浜市下根来生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われる[2][4]。東大寺の前身に当たる金鐘寺に住み[2]、後に全国を探し歩いた母と30年後、再会したとの伝承もある。しかし現在では別人ではないかとされているなど、史実であるかは定かでない。ただし、幼少より義淵に師事して法相唯識を学んだのは事実である。
さらに慈訓について学び、華厳宗の奥義を受ける[1]。東山 (奈良県生駒市)に隠棲し、自ら彫刻した執金剛神像を安置して、日々鍛錬して修行にはげみ、金鐘行者の異名をえたところ、聖武天皇の耳にとまり、羂索院を賜り、これがのちに改名されて金鐘寺となった[1]。
天平12年(740年)、『華厳経 』の講師として金鐘寺に審祥を招いた。聖武天皇の勅により、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定。天平17年(745年)に律師となる[1]。天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績[3][2]により東大寺の初代別当となった[5]。天平勝宝8年(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる。その後、天平宝字4年(760年)8月に仏教界の粛正のために、慈訓、法進とともに、僧階(三色十三階制)を改めるよう奏上した。聖武天皇の看病禅師も務めている。[6]
近江志賀の石山寺の建立に関わったことも『石山寺縁起絵巻』や[7]、『元亨釈書』にくわしい[8]。
宝亀4年(773年)には、 僧正に任命され、その年の閏11月24日没[2]。東大寺開山堂には「良弁僧正坐像」(国宝)が安置されている。伊勢原市の大山寺の開基とも言われる。
脚注
- ^ abcd日置, 昌一 (しょういち) 『日本歴史人名辞典』 講談社、1990年。ISBN 4-06-158323-9。, p.969 「良辨(りゃうべん)」の項
- ^ abcdef東大寺 良弁僧正坐像と開山堂
- ^ ab淑徳大学 豊島区・豊島新聞社共催 奈良遷都1300年に寄せて-良弁と東大寺-
^ 相模国(神奈川県)鎌倉地方には、父親を染屋時忠をする伝承がある。染屋時忠にはまた、娘が大鷲にさらわれた伝承がある。
^ 東京国立博物館 光明皇后1250年御遠忌記念 特別展「東大寺大仏―天平の至宝―」
^ 図解仏教成美堂出版128頁
^ 薗田, 稔、橋本, 政宣 『神道史大辞典』(snippet) 吉川弘文館、2004年。, p.494
^ 相馬, 大 (だい) 『近江33ヵ所』(preview) 保育社、1982年。ISBN 9784586505814。, p.8-9
関連作品
- 良辨杉由来 人形浄瑠璃・歌舞伎の作品。作者不詳、初演:明治20年2月 大阪彦六座。
火の鳥 鳳凰編 手塚治虫の漫画作品。
二月堂良弁杉 奈良の昔話。奈良市の市民劇団がミュージカルや紙芝居で上演している。
関連文献
- 『論集 東大寺創建前後』 東大寺、ザ・グレイトブッダ・シンポジウム論集 第2号、2004年