レバノン
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- レバノン共和国
- الجمهوريّة اللبنانيّة
(国旗)
国章
- 国の標語:不明
国歌:كلنـا للوطـن للعـلى للعـلم(アラビア語)
我等全ては我が国のため、我が栄光と国旗のため
公用語
アラビア語
首都
ベイルート
最大の都市
ベイルート
- 政府
大統領
ミシェル・アウン
首相
サアド・ハリーリー
- 面積
総計
10,400km2(161位)
水面積率
1.6%
- 人口
総計(2011年)
4,260,000人(123位)
人口密度
363人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年)
67兆8,663億[1]レバノン・ポンド
- GDP (MER)
合計(2013年)
450億[1]ドル(86位)
- GDP (PPP)
合計(2013年)
774億[1]ドル(84位)
1人あたり
17,326[1]ドル
独立
- 日付
フランスより
1943年11月22日
通貨
レバノン・ポンド (LBP)
時間帯
UTC +2(DST:+3)
ISO 3166-1
LB / LBN
ccTLD
.lb
国際電話番号
961
レバノンの歴史
- 古代レバノンの歴史
- 中世レバノンの歴史
- 近代レバノンの歴史
- 現代レバノンの歴史
- レバノン危機
- レバノン内戦
- 杉の革命
- レバノン侵攻 (2006年)
レバノン共和国(レバノンきょうわこく、アラビア語: الجمهوريّة اللبنانيّة)、通称レバノンは、西アジア・中東に位置する共和制国家。北から東にかけてシリアと、南にイスラエルと隣接し、西は地中海に面している。首都はベイルート。
目次
1 国名
2 歴史
2.1 古代オリエント世界
2.2 レバノンのアラブ化
2.3 OETA北
2.4 シリア王国の独立
2.5 フランス委任統治領時代
2.6 独立
2.7 内戦と戦争
2.8 現代のレバノン
3 政治
3.1 統治機構
3.2 1996年の国会議員選挙
3.3 1998年の地方選挙
3.4 2000年の国会議員選挙
3.5 政治潮流と政党
3.5.1 ハリーリー元首相暗殺事件まで
3.5.2 ハリーリー元首相暗殺事件後
3.5.3 シリア軍撤退後
3.5.4 2006年2月〜
3.5.5 2009年8月〜
4 軍事
5 地方行政区分
6 地理
7 経済
8 国民
8.1 言語
8.2 レバノン人離散
8.3 宗教
8.4 教育
8.5 シリアからの難民
9 文化
9.1 音楽
9.2 文学
9.3 美術
9.4 食文化
9.5 世界遺産
9.6 祝祭日
10 著名な出身者
11 脚注
11.1 注釈
11.2 出典
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
国名
正式名称は、アル=ジュムフーリーヤ・ッ=ルブナーニーヤ(アラビア語: الجمهوريّة البنانيّة、ラテン文字転写 Al-Jumhūrīyah al-Lubnānīyah)。通称ルブナーン(لبنان Lubnān)。
フランス語表記は、la République libanaise。通称、le Liban。
英語表記は、Lebanese Republic。通称、Lebanon。
日本語の表記は、レバノン共和国。通称、レバノン。漢字表記は、黎巴嫩。
レバンはフェニキア語で「白い」を意味し、レバノン山を指したが、オスマン帝国時代にこの地方を呼ぶ時に使ったことが今の国名の由来である。
歴史
古代オリエント世界
現在のレバノンに相当する地域は、古代はフェニキア人の故地であった。この地からフェニキア人は地中海を渡り、現チュニジアのカルタゴ[† 1]・バルセロナ・マルセイユ・リスボンなど各地に植民地を形成した。その後フェニキアの勢力は弱体化し、紀元前10世紀アッシリア帝国に飲み込まれた[† 2]。その後民族としてのフェニキア人は消滅したと言われている。アッシリアの後は、新バビロニアが代わってフェニキアを支配し、紀元前525年にはアレクサンドロス大王のマケドニア王国や、その後継のセレウコス朝シリアの一部となり、古代末期にはローマ帝国に征服され、7世紀には東ローマ帝国を破ったアラブ人に征服されてイスラム世界に組み込まれた。アラブ人の征服により、住民のアラブ化が進んだ。
レバノンのアラブ化
レバノンは歴史的にはシリア地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的少数者の避難場所となり、キリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)、イスラム教のドゥルーズ派の信徒らがレバノン山地に移住して、オスマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。19世紀頃からマロン派に影響力を持つローマ・カトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地ともなった。ただしレバノンのキリスト教徒はアラブ人ではなかった。
OETA北
現代レバノン史は1918年のフランスの占領とともに始まった(OETA北)。
第一次世界大戦後の1919年、パリ講和会議でアメリカ・イギリスの関係者とマロン派大司教のグループや「シリア中央委員会」(海外レバノン人の団体)との間で主張が異なったが、サイクス・ピコ協定に基づきフランスの委任統治下に入れることが話し合われた。
シリア王国の独立
1920年3月8日、シリア・アラブ王国がハーシム家のファイサル1世を国王として独立。しかし、フランス・シリア戦争でフランス軍と衝突すると、1920年7月24日には四ヶ月あまりで瓦解した。
フランス委任統治領時代
キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地はシリアから切り離されて、大レバノンとすることになった。この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、正教会と、ローマ・カトリック、プロテスタントを合計したキリスト教徒の割合が40%を越え、シーア派、スンナ派などの他宗派に優越するようになった。現在でもフランスとの緊密な関係を維持している。9月1日、フランス占領下の独立国家大レバノン(仏: État du Grand Liban)が正式に布告された[† 3]。1922年までは知事を補佐する諮問委員会が設けられ、17名の委員はレバノンの各宗派から高等弁務官が任命した。
1923年9月29日に連合国の最高評議会はシリアとレバノンの委任統治をフランスに要請することを決めた(フランス委任統治領大レバノン、フランス委任統治領シリア)。
1925年7月に行われた選挙で代表評議会が構成され、代表評議会は第1期議会となった。1926年3月に大レバノン国家を共和国に変える憲法草案が提出され、同年レバノン共和国(仏: République libanaise)が誕生した。初代大統領としてレバノン民族主義者のシャルル・ダッバスが同年選ばれた。途中再選され、1932年まで務めた。[2]
独立
委任統治は第二次世界大戦中の1941年6月8日に、本土がドイツ軍の占領下にあり、亡命政府となった自由フランスの統治下にあったシリア、レバノンの独立宣言とともに終了した。1941年9月27日にシリアが、同年11月26日にレバノンが独立を布告した。連合国として自由フランスを支援していたイギリスは独立布告後すぐに独立を承認し、ドイツ軍の侵攻に備えて1942年初期に軍人を両国の公使に派遣し両国を支援した。
第二次世界大戦後のレバノンは金融や観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、ベイルートは中東のパリと評されるほど中東及び地中海有数の国際的リゾート地として、数多くのホテルが立ち並ぶなど大いにぎわっていた。
内戦と戦争
しかしアッシャフの流入によって微妙な宗教宗派間のバランスが崩れ、1975〜76年にかけて内戦が発生し、足かけ17年に及んだ(レバノン内戦)。
隣国シリアの軍が平和維持軍として進駐したが、1978年にはイスラエル軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する乱世となった。混乱の中で、周辺各国や米国や欧州、ソ連など大国の思惑も入り乱れて、内戦終結後も断続的に紛争が続いたため、国土は非常に荒廃した。また、シリアやイスラム革命を遂げたイランの支援を受けたヒズボラなど過激派が勢力を伸ばした。
1982年、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとしてイスラエル軍は南部から越境して再侵攻(レバノン戦争。ガリラヤの平和作戦とも)、西ベイルートを占領した(en:Siege of Beirut)。イスラエルはアッシャフ追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。この混乱を収めるために米英仏などの多国籍軍が進駐したが(en:Multinational Force in Lebanon)、イスラム勢力の自爆攻撃によって多数の兵士を失い(en:1983 United States embassy bombing)、一部でシリア軍と米軍の戦闘に発展した(ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件)。結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになった。
1990年にシリア軍が再侵攻(en:October 13 massacre)、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に置かれた。シリアの駐留は一応レバノンに安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認など、国際的な批判をうけた。シリアが撤退するまでの約15年間は「パックス・シリアナ(シリアによる平和)」とも呼ばれる。現在も政府高官を含めシリアの影響は強い。
1996年にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行としたイスラエル軍はレバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦)。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃され、イスラエルは非難された。イスラエル軍は2000年に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行っている。
1992年10月末ヘラウィ大統領がラフィーク・ハリーリーの組閣を要請した。その後反シリア派のラフィーク・ハリーリーが首相としてレバノン経済を立て直した。経済復興の努力が始まり、国家緊急再建計画として主要インフラ整備の総費用30億ドルをとりまとめた。この計画は「ホワイトゾン2000」[† 4]と呼ばれ、1995年から2007年までの長期計画に引き継がれた。他方、イスラエルは南レバノンを占領を続け、ヒズポラへの報復攻撃として首都空爆を繰り返し、経済復興の兆しを破壊した。一方、国内での不安も高まり、福祉関連に対する社会的不安や一部の政治家や実業家が不当な利益を得ているのでないかとの疑惑も広がった。国の借金もハリーリが首相を退陣した2000年秋(9月9日)にはGDPの140%にも達していた。
2003年9月2日、国連安保理の公式会合において、米・仏・英・独の提案によるレバノンの領土保全、主権、政治的独立などに関する安保理決議1559号[† 5]が採択された。
ハリーリーが2005年2月14日に爆弾テロにより暗殺されると政情は悪化、政府と国民との軋轢も拡大し、「杉の革命」と呼ばれる抗議運動が始まった。その要因となった(そしてハリーリー暗殺の実行犯であると目される)シリア軍のレバノン駐留に対し、国際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は同年4月に撤退を余儀なくされた。結果、同年5月から6月に行われたレバノン総選挙では、シリアの威嚇も意に介さずハリーリーの盟友であり、その後継となったフアード・シニオラを旗頭とする反シリア派が勝利した。しかし、この新たな反シリア内閣も南部を中心に公然たる軍事力を行使する親シリア派を無視できず、結果としてヒズボラ等から六人の親シリア主義者閣僚を受け入れざるを得なかった。
2006年7月にヒズボラがイスラエル兵士2名を拉致、イスラエル軍は報復として7月12日に南部の発電所などを空爆した(参照:レバノン侵攻 (2006年))。続いて空爆は全土に拡大されてラフィク・ハリリ国際空港など公共施設が被災、ベイルートは海上封鎖された。7月22日には地上軍が侵攻し、南部の2村が占領された。しかしレバノン軍は基本的に中立を保った。7月27日、国連レバノン暫定軍の施設が空爆され、国連職員4人が死亡した。7月30日にカナが空爆され54人が死亡する。イスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間停止することに同意。8月2日空爆再開。8月7日レバノン政府がイスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。8月13日にイスラエル・レバノン両政府が停戦決議(国際連合安全保障理事会)受け入れを表明。8月14日停戦が発効し、10月1日にイスラエル軍が撤収した。
現代のレバノン
この一連の戦闘に伴い、レバノン国内でのヒズボラの政治的及び軍事的影響力は以前にも増して高まり、同2006年11月21日、反シリアグループの領袖の一人であるピエール・ジュマイエル産業相(マロン派)が暗殺されるなど、シリア情報部またはヒズボラなどの代理機関によるものと見られる反シリア派へのテロが増大した。さらにハリーリー暗殺の真相を解明するため、反シリア派が国際法廷を設置して親シリア派を裁く動きを進めていた事が両者間の対立に拍車を掛け、暗殺直前の12日には親シリア派閣僚が辞表を提出し、レバノン国内の分断は避けられない情勢となった。
こうした中、2007年11月にラフード大統領が任期満了で退任を迎えたが、親・反シリア両派の対立により大統領選出が行われなかった。対立構造の悪化は散発的な親シリア派によるテロによって加速され、シニオラ政権がヒズボラの有する軍事通信網の解体を宣言した事が親シリア派の決起を招き、2008年5月7日から両派間による大規模な武力衝突が継続している。
2008年8月13日にミシェル・スライマーン大統領とシリアのバッシャール・アル=アサド大統領が会談し、国交正常化に合意した。レバノン政府は2006年のイスラエル侵攻時の被害の修復を進めるとともに、地中海での天然ガス田探査計画を外国企業と進めるほか、観光移設の充実を図るなど経済的回復を進めている。
政治
統治機構
大統領を元首とする共和制国家であり、国会は大統領の選出、政府(内閣)の承認、法案、予算の承認を行う。任期は4年。現行の憲法により、宗派ごとに政治権力を分散する体制が取られており、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンナ派、国会議長はイスラム教シーア派から選出されるのが慣例となっている。国会議員数も各宗派の人口に応じて定められており、マロン派は34人、スンナ派とシーア派はそれぞれ27人などである。
この大統領・首相(行政の長)・国会議長のトロイカ体制は、内戦を終わらせた1990年のターイフ合意で規定されたが、今度は宗派間の3職を巡る抗争を宗派に無関係な、あるいは宗派および地域内での駆引きに発展させることとなった。しかしながら、これら政府要職や公式機関は名目的権力装置に過ぎず、実質的な内政・外交は「ザイーム」と呼ばれる有力者(あるいはその政党やブロック)間の連携・対立、シリア系の組織・機関(特に2005年のシリア軍撤退まで)の影響力が大きいとされる[5]。
総選挙は大選挙区完全連記制をとり、有権者は自らが属する宗派以外の立候補者を含む複数の候補者を選出する。
選挙の段階は選挙区改変(ゲリマンダリング)、候補者リスト作成の2段階を経る。前者に関しては、候補者(有力政治家・組織)は選挙法の規定を無視する形で選挙のたびに選挙区の改変を試みてきた。自らの地盤地域と選挙区を可能な限り一致させるためである。後者の段階では、同選挙区内の他の宗派に属する候補者と共同のリストを作成し、支持票を共有する。当選を確実にするには同一選挙区内の他の宗派の有権者に対しても投票を促す必要があるからである。
1996年の国会議員選挙
1996年6月の選挙法改正で、128の議席がベイルート地区19、ベッカー地区23、南部地区23、北地区28、山岳レバノン地区35に配分されることになった。1996年8月半ば山岳レバノンでの第1回目の選挙では、ハリーリ支持派が35議席中32を獲得した。8月末北部での2回目選挙では野党が勝利した。9月はじめのベイルートでの3回目の選挙ではハリーリ派は19議席中14を獲得した。9月上旬の南部にでの4回目の選挙ではアマル・ヒズポラ連合とその支持勢力が23議席すべてを獲得した。9月半ばのベッカー地区での5回目の選挙ではアマル・ヒズポラ連合が23議席中22議席を獲得した。以上5回の選挙での投票率は平均で45%に達し、1992年選挙の投票率32%と比べ大きく前進した[6]。
1998年の地方選挙
1998年5月と6月に地方選挙[† 6]が行われた。1回目の選挙は山岳レバノン地区で行われ、ベイルート南郊外地区でヒズポラが勝利した。2回目の選挙は北レバノン地区で行われ、トリポリではイスラム教徒23名に対しキリスト教徒1名が選ばれた。3回目の選挙はベイルート地区で行われ、ハリーリ、ベッリ連合が大勝利した。4回目の選挙はベッカー地区で行われ、ヒズポラが親シリア派に敗れた。
投票率はベイルート以外では平均70%であった。ベイルートではシーア派教徒の間で銃撃戦があった。しかし、レバノン全体では平穏に選挙が行われ、戦後のレバノンは正常化に向かい、民主主義が浸透しているものと評価された[7]。
2000年の国会議員選挙
2000年8月末山岳レバノンと北レバノンの両地区で、また、9月初めベイルート、ベッカー高原、ナバティーエ・南レバノンの4地区で2回に分けて行われた。1回目の選挙でハリーリ前首相の優勢が明らかになり、ラフード大統領とホッス現首相の劣勢が判明した。ハリーリとの同盟関係に立つワリード・ジュンブラートも山岳レバノンで圧勝した。また、アミーン・ジェマイエル元大統領の息子のピエール・ジェマイエルがメテン地区で当選した。2回目の選挙では、ベイルート地区でホッス現首相が落選した。19議席の内18をハリーリ派がおさえ、ハリーリは合計で23議席を獲得した。残り1議席はヒズボラ派がおさえた。ハリーリと同盟関係にあるジュンブラート派は16議席を獲得し、合計39議席をハリーリとその支持派が獲得した。南レバノン地区ではヒズボラとアマル連合が23議席を獲得、ベッカー地区ではヒズボラが圧勝した。ラフード大統領は選挙結果が確定してしばらく経ってもハリーリの首班指名が発表されなかった。10月23日になって、やっとラフード大統領はハリーリを新首相に任命した。10月末、ハリーリは30名からなる内閣の成立を発表した[8]。
政治潮流と政党
ハリーリー元首相暗殺事件まで
2004年のラッフード大統領任期延長以後、2005年のラフィーク・アル=ハリーリー元首相暗殺事件までは、(1)ル・ブリストル会合、(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派、(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流の3潮流が、親シリア派のエミール・ラッフード大統領の任期延長問題を中心に対立した。
(1)ル・ブリストル会合派(対シリア慎重派) 〔 〕内は代表・党首。
進歩社会主義党(PSP, 民主会合ブロック)〔ワリード・ジュンブラート〕- 民主刷新運動
カターイブ改革運動
レバノン軍団(LF)〔サミール・ジャアジャア〕- 民主フォーラム
- 国民ブロック党
など計9政党・ブロック
(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派(親シリア派)
アマル運動(抵抗開発ブロック)〔ナビーフ・ビッリー国会議長〕
ヒズブッラー(抵抗への忠誠ブロック)〔ハサン・ナスルッラー〕- マトン・ブロック
- トリポリ・ブロック
- バアス党
- レバノン民主党
- ターシュナーク党
- シリア民族社会党
- ナセル人民機構
- レバノン・カターイブ党
など計15政党・ブロック
(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流(中立派)
ムスタクバル潮流(ベイルート決定ブロック)〔ラフィーク・アル=ハリーリー(当時)〕
自由国民潮流〔ミシェル・アウン(当時仏に亡命中)〕
ハリーリー元首相暗殺事件後
2005年のハリーリー元首相暗殺事件を受けて、(1)ル・ブリストル会合派は同事件にシリア政府が関わっていると主張。2005年2月、ベイルートで数十万人規模の示威行動を起こした。後にこのデモは「独立インティファーダ」と呼ばれるようになる。
内閣総辞職など劣勢を強いられた(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派は2005年3月8日に巻き返しを図るべく、ヒズブッラーの指導のもと数十万人規模のデモを同じくベイルート市内で行った。
さらにこれを受けた(1)ル・ブリストル会合派は2005年3月14日に100万人以上の民衆を動員してハリーリー元首相の追悼集会を開いた。
こうした背景や、(3)ベイルート決定ブロックと自由国民潮流が(1)ル・ブリストル会合派に合流したことにより、対立軸は「親シリア」と「反シリア」に移った。
- (1)「3月14日勢力」(ル・ブリストル会合派)
上の9政党・ブロック+ムスタクバル潮流・自由国民潮流
- (2)「3月8日勢力」(アイン・アッ=ティーナ国民会合派)
シリア軍撤退後
2005年4月、米国の主導するシリア・バッシングやレバノンでの反シリア気運の高まりを受けて、シリア軍がレバノンから完全撤退した。
シリア軍完全撤退直後に行われた第17期国民議会選挙では、ムスタクバル潮流が(1)「3月14日勢力」を主導してきた進歩社会主義党、(2)「3月8日勢力」の中心であるアマル運動・ヒズボラと「四者同盟」を結び、全国で選挙協力を行った。
一方、これに対抗し自由国民潮流は「変化改革リスト」を作成した。
つまり、「親シリア」「反シリア」を超えた「談合政治」が行われたのである。
結局、(3)「四者同盟」対(4)「変化改革リスト」の与野党と(1)「3月8日勢力」対(2)「3月14日勢力」の2つの対立軸が交錯することとなった。
(3)「四者同盟」を中心とする「与党」
ムスタクバル潮流((1)3月14日)
進歩社会主義党((1)3月14日)
レバノン・カターイブ党((1)3月14日)
レバノン軍団((1)3月14日)
アマル運動((2)3月8日)
ヒズボラ((2)3月8日)
など
(4)「変化改革ブロック」を中心とする「野党」
自由国民潮流((1)3月14日)- 人民ブロック((2)3月8日)
- マトン・ブロック((2)3月8日)
バアス党((2)3月8日)
ナセル人民機構((2)3月8日)
シリア民族社会党((2)3月8日)
など
2006年2月〜
シリア軍の完全撤退により「実質的権力装置」であったシリア軍・シリア系諸機関を失ったレバノン内政は、2005年12月から2度に渡り麻痺に陥った。
1度目は2005年12月のジュブラーン・トゥワイニー議員暗殺事件を契機に(2)「3月8日勢力」の閣僚が、2度目は(1)「3月14日勢力」の閣僚が閣議をボイコットした。
このような中、2006年2月、(2)「3月8日勢力」の中心であるヒズブッラーと(4)「変化改革ブロック」の自由国民潮流((1)3月14日勢力であり当時反シリア派の急先鋒)が共同文書を発表し歩み寄った。
その結果、「変化改革ブロック」は(2)「3月8日勢力」に合流し、自由国民潮流も親シリア派勢力に転じた。
(1)「3月14日勢力」(対シリア慎重派)
- ムスタクバル潮流
- 進歩社会主義党
- 民主刷新運動
- レバノン・カターイブ党
レバノン軍団(LF)- 民主フォーラム
- 国民ブロック党
など計12政党・ブロック
(2)「3月8日勢力」(親シリア派)
アマル運動- ヒズブッラー
自由国民潮流((4)変化改革ブロック)- マトン・ブロック((4)変化改革ブロック)
- トリポリ・ブロック((4)変化改革ブロック)
- バアス党
- レバノン民主党
- ターシュナーク党
- シリア民族社会党
- ナセル人民機構
など計12政党・ブロック
※以上の分析は青山弘之・末近浩太著『現代シリア・レバノンの政治構造』 (岩波書店〈アジア経済研究所叢書5〉、2009年。ISBN 978-4-00-009974-5) によった[要ページ番号]。
2009年8月〜
2009年6月の国民議会選挙後に生じた「3月14日勢力」と「3月8日勢力」の国民議会議長選出に関する対立は、両陣営が参加する挙国一内閣の組閣人事にも影響を与えた。両陣営の閣僚配分を巡る対立は7月下旬には一応の収束を見たが、直後の8月1日に進歩社会主義党のワリード・ジュンブラート党首が「3月14日勢力」からの離反を突如として宣言した(ジュンブラートの変)。また、8月中旬にはレバノン・カターイブ党も「3月14日勢力」への参加を凍結した。多極対立の発生によりレバノン政治はさらなる麻痺状態に陥った。
[9]
「3月14日勢力」(対シリア慎重派)
- ムスタクバル潮流
- ハンチャク党
- 民主左派運動
- ラームガヴァーン党
レバノン軍団(LF)- 心のザフレブロック
- 国民合意ブロック
など
「3月8日勢力」(親シリア派)
アマル運動- ヒズブッラー
- 自由国民潮流
- バアス党
- レバノン民主党
- マラダ潮流
- 団結党
- ターシュナーク党
- シリア民族社会党
など
無所属
- 進歩社会主義党
- レバノン・カターイブ党
- 団結ブロック
軍事
レバノン国軍以外の準軍事組織としては、内務省所属の治安部隊、税関が存在する。
民兵組織としてはシーア派のヒズボラが存在する。それ以外のほとんどの民兵組織は、内戦終結時にシリア軍及び国軍によって武装解除・解散させられた。南レバノン軍は政府の武装解除要求を拒否し、内戦終結後も南部の占有を続けていたが、ヒズボラとの闘争に敗れ、イスラエルの支援も途絶えたため、2000年に壊滅した。
ただし、民兵の武装解除は主力装備のみに留まったといわれており、現在でも多くは自動小銃など軽火器を保有しており[10]、訓練や動員も行われている。また、内戦の影響から多くの市民は小銃や拳銃を所持している。
駐留外国兵力としては、南部に国連レバノン暫定駐留軍が駐留している。また、イランのイスラム革命防衛隊がヒズボラの支援のために駐留している。内戦以降長くシリア軍も駐留していたが、2005年に撤退している。
地方行政区分
レバノンは6つの県 (muhafaza) に分かれる。
ベイルート県(ベイルート)
山岳レバノン県(バアブダー)
北レバノン県(トリポリ)
ベッカー県(ザーレ)
ナバティーエ県(ナバティーエ)
南レバノン県(サイダ)
- その他の主要都市
ジュバイル(ビブロス)- バールベック
- ザハレ
サイダ(シドン)
ティール(ティルス)- カナ
地理
西に地中海、南はイスラエルと接し、その他はシリアに囲まれている。その形状は南北217キロメートル、東西の幅32〜56キロメートルという帯状を成している。面積は約10,400km2[† 7]。イスラエルとは79km、シリアとは375kmにわたって国境を接している。
西部にはレバノン山脈が、東部のシリア国境周辺にはアンチレバノン山脈が走り、その間にベッカー高原が存在する。国内最大の河川はリタニ川である。
ケッペンの気候区分によれば、ほぼ全土が地中海性気候である。
経済
IMFの推計によると、レバノンの2013年のGDPは450億ドルである。一人当たりのGDPは10,077ドルであり、世界平均とほぼ同水準である。[1]
19世紀以降、産業として興隆したのが養蚕業、すなわち生糸生産である。レバノンはまず農業国として成立したが、第二次世界大戦以降は第三次産業が活況を呈した。またレバノン人は投資家、商人として南米や独立間もないアフリカ諸国に渡航し、現地に地歩を築いており、在外レバノン人の投資家、商人からの送金が国の財政を支えている。
第二次世界大戦以降、レバノン政府は他国と異なる経済政策、すなわち保護貿易ではなく自由経済体制を採った。このため、石油取引に由来する膨大な資金が流入し、中東地域における金融セクターとしての地位を確立した。航空路のハブとなったことから観光業も発達した。このため、ベイルートは「中東のパリ」とも呼ばれた。しかし1975年に勃発した内戦によって金融セクター、主要交通路としての地位が失われた。
現在レバノン政府は内戦やイスラエル侵攻時の被害の修復を進めるとともに、地中海での天然ガス田探査計画を外国企業と進めるほか、観光施設の充実を図るなど経済的回復を進めている。
国民
言語
公用語はアラビア語で、話し言葉(アーンミーヤ)はレバノン方言である。人口の約95パーセントがアラブ人でアラビア語を話す。フランス統治時代に広まったフランス語は教育やメディア、ビジネス等で日常的に使用され準公用語的な地位を占めておりフランス語圏に分類される。他にアルメニア語、ギリシャ語、クルド語なども話されている。また、英語を流暢に話す国民も多い[11]。
レバノン人離散
遥か昔から多くのレバノン人が紛争などの理由でアメリカ大陸、ヨーロッパ、アフリカなど世界中に離散しており(レバノン人のディアスポラ)、各地で影響をあたえている。特にブラジルにはレバノンの総人口より多くのレバノン系ブラジル人が住んでいる。
宗教
国民の約40%がキリスト教、約55.7%がドゥルーズ教徒以外のイスラム教の信者。キリスト教の内訳はマロン派(マロン典礼カトリック教会)が多数派だが、正教会、プロテスタント、ローマ・カトリック(ラテン典礼)なども存在する。正教会信者はパレスチナやシリアなど他のアラブ諸国にも多数存在していた事から、内戦時には左派としてマロン派と対峙した。
アルメニア人は少数派としては比較的大きなコミュニティを形成し(アルメニア人街に入るとアラビア語が通じないケースも多い)、アルメニアカトリック、アルメニア使徒教会、アルメニア福音教会を擁し、婚姻などで改宗したごく少数の例を除きキリスト教徒である。政治的にはほぼ他のキリスト教政党と同調している(内戦時には中立を維持、と主張、事実ファランジストなどとは距離をおいていた)。
また、「イスラム教」にはスンナ派、シーア派、アラウィー派、ドルーズ教などを含む。アラウィー派とドルーズ教が「イスラム教」の枠に入るものかどうかは、宗教的には議論が分かれるところであるが、レバノンの政治上はイスラム枠に分類されている。
アラウィー派はレバノン独立時にはレバノンの政治構成要素ではなく、ほとんどのレバノン人は同派に対して身内意識、同胞意識を有していない。アラウィー派はシリアの地中海沿岸部、つまりレバノンの北部国境を越えた山岳・丘陵地帯に主に居住しており、フランスから独立したあとのシリアにおいて権力を掌握した集団である。アラウィー派は、シリアがレバノンの政治に介入し始めた1970年代から、レバノン北部の町トリポリ郊外を中心に集団移住をしてきた。しかし、それでもレバノン国内で国会の議席を新規に割り当てられることはなかった。シリア主導のレバノン平定を取り決めた1989年のターイフ合意とその流れを汲む憲法改正、選挙法改正を経て、アラウィー派に2議席があてがわれた。
少数であるがユダヤ教徒の議席も設けられている。
教育
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.4%(男性93.1%、女性82.2%)である[12]。
主な高等教育機関としてはベイルート・アメリカン大学(1866年)、レバノン大学(1951年)などが挙げられる。
ベイルートのような国際都市では、宗教・宗派別の学校群が存在し、これに加えて外国人向けの学校も出現となる。アメリカン・スクール、ブリティッシュ・スクール、フランス系ミッションスクール、イタリアン・スクール、ジャーマン・スクール、トルコ系スクール等々で、これらの学校では自国の子弟だけでなく、門戸を広く開放している[13]。
シリアからの難民
国民ではないが、隣国シリアでの騒乱から逃れてきた総勢100万人とも言われる難民の一部が、レバノンに大量に流入している。これらの難民の流入によって、レバノンの人口は10%も増加した[14]。
文化
音楽
レバノンは中東音楽の伝統を守りつつ、フランスとの繋がりから西欧の音楽の影響も受けた独自の音楽シーンを形成している。
中東の歌姫として名高いファイルーズを始め、作曲家にしてウードの演奏家であるレバノン人でありながらパレスチナを主題とした音楽を多く発表し、「パレスチナ人の中のパレスチナ人」と言われユネスコのArtist for Peaceを受賞したマルセル・ハリーファなどが有名である。その他の傑出したアーティストとしてはジュリア・ブトロス、マジダ・エル・ルウミ、サバー、ワディー・エル・サフィー、修道女であり歌手であるマリー・ケイルーズ、ナンシー・アジュラムなどの名が挙げれる。
他のアーティストが西洋の音楽との融合を図る中、ナジワ・カラームやアッシ・エル・ヘラーニのようなレバノンのアーティストは、'jabali'(「山より来る」)として知られるような伝統的な形式の音楽に忠誠を尽くしている。
近年では、欧米のプログレッシヴ・ロックの影響を受けたギタリスト Amadeus Awad の作品が国外でも発売されている。
文学
20世紀に入るまでに、ベイルートは多くの新聞、雑誌、文学社会などにより、近代アラブ思想の中心としての地位をカイロと争っていた。
文学においては、ブシャッリに生まれたハリール・ジブラーンは特に『預言者』で知られ、この本は20以上の言語に翻訳された[15]。さらにその他の国際的な成功を達成したレバノンの作家としては、エリアス・フーリー、アミン・マアルーフ、ハナン・アル=シェイクなどの名が挙げられる。
美術
美術においては、ムスタファ・ファルークが20世紀レバノンのもっとも傑出した画家の一人である。ローマとパリで学び、芸術家としての生涯を通してパリやニューヨークやベイルートで個展を開いた。彼の作品はレバノンにおける真の生活、国の姿、人々、習慣を表現しているたことにより喝采を浴びた。ファルークはレバノンが政治的独立を主張していた時に国民主義的なレバノン人画家だとみなされた。彼の芸術はレバノンの人々の気質と個性を捉え、彼は同世代の中で突出した画家だと見なされた。彼は五冊本を書き、ベイルート・アメリカン大学で芸術を教えた。
食文化
地中海世界の食文化のひとつであるレバノン料理は、野菜やハーブ、オリーブ油を多用した料理が多いことに特色がある。世界的に有名なフンムスやファラーフェル、ケバーブ料理はレバノンでも人気が高い。
レバノンワインも古代オリエントがワイン発祥の地と言われるだけあって、多数のワイナリーを抱え、世界的にも評価が高い。
世界遺産
レバノン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が5件存在する。詳細は、レバノンの世界遺産を参照。
アンジャル - (1984年)
バールベック - (1984年)
ビブロス - (1984年)
ティルス - (1984年)
カディーシャ渓谷と神の杉の森 - (1998年)
祝祭日
日付 | 日本語表記 |
---|---|
5月1日 | メーデー |
5月6日 | 殉教者の日 |
8月1日 | 軍隊記念日 |
11月22日 | レバノン独立記念日(1943年11月22日) |
1977年1月1日の閣議で、それまでは一年に25日もあった国民の祝祭日を一挙に14日まで減らして、国民の勤労意欲を掻き立てることを決定した[16]。
著名な出身者
脚注
注釈
^ 紀元前814年建国、ローマの伝承では紀元前753年の建国になっている。
^ 紀元前875年から紀元前625年までの150年もの間アッシリアに占領された。
^ レバノンの領土は拡大されたが、海岸の都市やベッカー地域のスンニ派、シーア派のイスラム教徒たちは、アラブのイスラム世界から永遠に切り離されるのではないかと心配した。
^ 13年間に飛行場、道路、住宅、保健医療のプロジェクトを対象に、180億ドルの公共投資と420億ドルの民間投資を目指し、また、平均7.8%の経済成長を図り、この期間に一人当たりの実質所得を2倍にすることを目標にした。1993年から1994年にかけてレバノンの信頼が増し、1996年時点で外国からの資金は27億ドルに達し、経済成長率も伸びを見せた[3]。
^ 同決議は、レバノンの主権、領土保全、政治的独立などの尊重を求め、レバノンに駐留する全外国軍に対し、レバノンから撤退を要請し、また、レバノン人、非レバノン人の武装勢力の解散と武装解除を求め、さらに来るレバノン大統領選挙での公正・自由な選挙プロセスの支持を宣言するものであった[4]。
^ 1963年以来35年ぶり。
^ 日本でいえば岐阜県ほどの小国である。
出典
- ^ abcde“World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年11月9日閲覧。
^ 堀口 (2005), pp. 79-82.
^ 堀口 (2005), pp. 232-234.
^ 堀口 (2005), pp. 273.
^ 青山 & 末近 (2009) [要ページ番号]
^ 堀口 (2005), pp. 239-240.
^ 堀口 (2005), pp. 241-242.
^ 堀口 (2005) pp. 266-267.
^ 青山「レバノン-宗派主義制度下の武力紛争-」(2010)
^ アラブのキリスト教徒 2016年6月19日閲覧。
^ 各国・地域情勢 > 中東 | 国名:レバノン共和国(Republic of Lebanon) 外務省、2010年4月現在。
^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/le.html 2009年5月23日閲覧
^ 小山 (1977), pp. 77-78.
^ “シリア難民、100万人に達する 国連”. CNN. (2013年3月7日). http://www.cnn.co.jp/world/35029195.html 2013年3月7日閲覧。
^ The Hindu (5 January 2003). "Called by life";. Retrieved 8 January 2007.
^ 小山 (1977), p. 78.
参考文献
- 青山弘之、末近浩太 『現代シリア・レバノンの政治構造』 岩波書店〈アジア経済研究所叢書 5〉、2009年2月。ISBN 978-4-00-009974-5。
- 小山茂樹 『レバノン アラブ世界を映す鏡』 中央公論社〈中公新書 474〉、1977年7月。ISBN 978-4-12-100474-1。
- 堀口松城 『レバノンの歴史 -フェニキア人の時代からハリーリ暗殺まで-』 明石書店〈世界歴史叢書〉、2005年11月。ISBN 978-4-7503-2231-5。
- 安武塔馬 『レバノン -混迷のモザイク国家-』 長崎出版、2011年7月。ISBN 978-4-86095-463-5。
関連項目
- レバノン関係記事の一覧
- レバノン杉
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 - 2006年2月にベイルートにて中東研究日本センター (JaCMES) を開設した。
外部リンク
- 政府
レバノン大統領府 (英語)
- 日本政府
日本外務省 - レバノン (日本語)
在レバノン日本国大使館 (日本語)
- その他
地域大国に挟まれた国:レバノン(GNV)(日本語)
レバノン観光省 (アラビア語)(英語)
- JCCME - レバノン
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