ニカラグア
- ニカラグア共和国
- República de Nicaragua
(国旗)
(国章)
- 国の標語:En Dios Confiamos
(スペイン語: 我々は神に託す)
国歌:Nicaragua,Salve a tí
公用語
スペイン語
首都
マナグア
最大の都市
マナグア
- 政府
大統領
ダニエル・オルテガ
首相
なし
- 面積
総計
129,494km2(95位)
水面積率
7.1%
- 人口
総計(2016年)
6,080,000人(109位)
人口密度
41人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年)
1,230億[1]コルドバ・オロ(A$)
- GDP (MER)
合計(2008年)
63億[1]ドル(129位)
- GDP (PPP)
合計(2008年)
166億[1]ドル(123位)
1人あたり
2,688[1]ドル
独立
- 日付
スペインより
1821年9月15日
通貨
コルドバ・オロ(A$) (NIO)
時間帯
UTC -6(DST:なし)
ISO 3166-1
NI / NIC
ccTLD
.ni
国際電話番号
505
ニカラグア共和国(ニカラグアきょうわこく、スペイン語: República de Nicaragua)、通称ニカラグアは、中央アメリカ中部に位置するラテンアメリカの共和制国家である。北西にホンジュラス、南にコスタリカと国境を接し、東はカリブ海、南西は太平洋に面している。また、カリブ海にコーン諸島やミスキート諸島を領有している。首都はマナグア。
ニカラグアは狭義の中央アメリカで最も面積が広い国である。1936年から1979年まで続いたソモサ一家の独裁政治と、ソモサ独裁に対するニカラグア革命後の内戦のために開発は極めて歪な形でなされ、そのために国民所得や識字率などが中央アメリカでも未だに低い水準にある。
目次
1 国名
2 歴史
2.1 先コロンブス期
2.2 スペイン植民地時代
2.3 植民地から独立国へ
2.4 中央アメリカ連邦共和国(1823年 - 1839年)
2.5 再独立とニカラグア国民戦争
2.6 中央アメリカ大共和国(1896年 - 1898年)
2.7 アメリカ合衆国の進出 (1909 - 1933)
2.8 ソモサ王朝 (1936 - 1979)
2.9 ニカラグア革命とコントラ戦争
2.10 終戦、和平合意、その後のニカラグア
2.10.1 2018年の抗議デモ
2.11 略年表
3 政治
4 軍事
5 国際関係
6 地方行政区分
6.1 主要都市
7 地理
7.1 河川と湖
7.2 気候
8 経済
8.1 観光
8.2 産業
9 国民
9.1 人口
9.2 言語
9.3 宗教
9.4 教育
9.5 治安
10 文化
10.1 文学
10.2 音楽
10.3 スポーツ
10.4 世界遺産
10.5 祝祭日
11 著名な出身者
12 脚注
13 参考文献
14 関連項目
15 外部リンク
国名
正式名称はスペイン語で、República de Nicaragua([reˈpuβlika ðe nikaˈɾaɣwa] レプブリカ・デ・ニカラグア)。通称は、Nicaragua。
公式の英語表記は、Republic of Nicaragua (米:[rɪˈpʌblɪk əv ˌnɪkəˈrɑːɡwə], 英:[ˌnɪkəˈræɡjuə] リパブリック・オブ・ニカラーグア/ニカラギュア)。通称は、Nicaragua 。
日本語の表記は、ニカラグア共和国。通称、ニカラグア。ニカラグァ、ニカラグワと表記されることもある。
国名は現在のニカラグアの地に勢力を保っていた先住民の一つ、ニキラノ族の首長ニカラオがその由来となっているといわれている。
歴史
先コロンブス期
ヨーロッパ人の到達以前のこの地にはチブチャ系の諸族が居住していた。現在のニカラグアは北方からトルテカ族、アステカ族がやってくる中間点で、相互の影響により豊かな文化が形成され、美しい陶器や石像を今に残している。また、それゆえにアステカ帝国最南端の交易所があり、中米地峡の北と南を繋いでいた。
スペイン植民地時代
1492年にクリストーバル・コロンがアメリカ大陸を「発見」してからは、アメリカ大陸全域がヨーロッパ人の侵略に晒されたが、ニカラグアもその例外ではなかった。1502年にコロンに発見されたニカラグアでは、インディヘナが集団改宗する事件などもあった。
中央部のニカラオカリ(現在のリバス付近)を本拠とするインディヘナのニキラノ族の首長ニカラオが侵略に立ち向かった。それゆえ、この地域一帯を総称しニカラグア(ニカラオの地)と呼ぶようになった。しかし、このようなインディヘナたちの抵抗にもかかわらず、スペイン人征服者のフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ(コルドバは現行の通貨名となっている)に征服され、以後ニカラグアは、他の周辺地域と同様に、スペインによる過酷な支配下におかれることになった。
こうして植民地になったニカラグアでは、金鉱山やカカオ栽培等にインディヘナが奴隷として過酷な労役に使役され、ヨーロッパから天然痘などの疫病が伝播すると、虐殺や奴隷化の対象となったインディヘナ人口は絶滅に近いほど激減した。インディヘナがほぼ絶滅すると、代わりにアフリカ大陸から黒人奴隷が投入されるのも、ラテンアメリカの他地域と同様であった。その後、ヌエバ・エスパーニャ副王領の下のグアテマラ総督領の一部として管理下におかれ、農業や牧畜業が営まれたが、ニカラグアは中米ではホンジュラスやコスタリカと並んで開発が立ち遅れた地域だった。また、植民地時代を通じて次第にメスティーソが増えていった。
スペインの影響力が発揮され続けた太平洋側とは異なり、植民地時代を通してカリブ海側はイギリス海賊の襲撃が相次ぎ、カリブ海側の先住民ミスキート族の王国、モスキート海岸はイギリス領ホンジュラス(現在のベリーズ)のようにイギリスの影響力が強まることになった。
植民地から独立国へ
19世紀前半にはインディアス植民地各地のクリオージョ達の間で独立の気運が高まった。1789年のフランス革命以来のヨーロッパの政治的混乱の中、ナポレオン戦争により1808年からスペイン本国では、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトがボルボン朝のフェルナンド7世を退位させ、兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させると、それに反発する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発した。インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。1811年から独立闘争が本格化し、1821年9月15日にグアテマラ総督領が独立すると、ニカラグアもスペイン支配から解放された。
中央アメリカ諸国は1821年9月16日に独立したアグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝の第一次メキシコ帝国に併合された。
中央アメリカ連邦共和国(1823年 - 1839年)
1823年のメキシコ帝国の崩壊に伴い旧グアテマラ総監領の五州は中央アメリカ連合州として独立。1824年には中央アメリカ連邦が成立した。エル・サルバドル出身のマヌエル・ホセ・アルセが中米連邦初代大統領となるが、独立後すぐに政治的混乱を起こした。フランシスコ・モラサンをはじめとする自由主義者のエル・サルバドル派と、 ラファエル・カレーラをはじめとする保守主義者のグアテマラ派の内戦のなかで、モラサン率いる政府軍がグアテマラの戦いで敗れると、1838年に中米連邦は崩壊した。
再独立とニカラグア国民戦争
中央アメリカ連邦が崩壊して再独立した後は、他のラテンアメリカ諸国と同じように自由党(PLN)と保守党(PC)の対立が先鋭化した。連邦崩壊後は自由主義派のレオンと保守主義派のグラナダの主導権争いが続き、両者が独自に大統領を擁立する中で中央政府はしばらく存在しなかったが、1853年にグラナダ出身の保守主義者フルート・チャモロが選挙によって大統領に就任すると、混乱はようやく収束したかに見えた。
しかし混乱は続き、1854年12月にアメリカ合衆国南部人で傭兵出身の冒険家ウィリアム・ウォーカーがニカラグア自由党の傭兵として上陸し、レオンの自由党とグラナダの保守党の内紛を利用して支配権を掌握した。ウォーカーは翌1856年6月、自らニカラグア大統領に就任した。アメリカ南部のテネシー州出身で環カリブ海帝国を建設しようとしていたウォーカーは、英語を公用語として強制し、既にニカラグアでは廃止されていた黒人奴隷制の復活を布告し、さらにはアメリカ合衆国人の土地取得を有利にする法律を制定した。中央アメリカ諸国はこの挙に対し一致団結して当たり、国民戦争が始まった。イギリスやバンダービルド財閥の支援を受けたコスタリカを主体とした中央アメリカ連合軍は、リバスの戦いでウォーカー軍を破り、1857年にウォーカーは打倒された。先の国民戦争でウォーカーを招き入れてしまったことが仇になり、以後の自由党は暫く勢力を失い、その後しばらく保守党政権が続いた。
中央アメリカ大共和国(1896年 - 1898年)
1893年、自由党のホセ・サントス・セラヤが政権を握り進出を始めたアメリカ合衆国資本の援助を受けて鉄道建設などを実行した。1894年、セラヤはイギリス領だった大西洋側のモスキート海岸を合衆国の支持の下に併合し、ニカラグアは太平洋と大西洋の両方に面した国家となった。
またセラヤはニカラグアをグアテマラに代わって中央アメリカの指導的な国家にするために手を尽くし、エル・サルバドル、ホンジュラスと共に1896年には中央アメリカ大共和国を樹立するが、1898年にはこの国家は崩壊してしまった。セラヤはその後独裁者として長期政権を維持するが1909年、アメリカ政府を激怒させてしまい失脚することになった。
アメリカ合衆国の進出 (1909 - 1933)
セラヤ失脚後は様々な政権が入れ替わり立ち替わりし、ブライアン・チャモロ協定が結ばれるとようやく建国当時からパナマ案と並んでの候補だった、中米地峡運河建設のニカラグア案が正式に放棄されることになった。
1927年、自由党のホセ・マリア・モンカーダらが保守党のアドルフォ・ディアス政権に対しての内戦を始めた。この内戦はすぐに停戦してしまったが、停戦後再びアメリカ海兵隊が上陸してくると自由党軍のアウグスト・セサル・サンディーノ将軍だけは停戦に応じず、選挙監視を行うために駐留していたアメリカ海兵隊(占領軍)をニカラグア国民主権防衛軍で攻撃した(サンディーノ戦争)。サンディーノ戦争はラテンアメリカ諸国の支援を受けての、世界初の近代的なゲリラ戦争となった。アメリカ海兵隊は被害を恐れ、国家警備隊を養成し、海兵隊と共に国家警備隊がサンディーノ軍とジャングルの中でゲリラ戦を行うことになった。しかし、お互い決め手に欠けたまま時間だけが経ち、遂に選挙監視の任務が終わったこと、世界恐慌の影響でニカラグアに駐留する費用も惜しくなったことなどを原因に1933年、アメリカ海兵隊が撤退してサンディーノ戦争は終結した。
しかし翌1934年、サンディーノは国家警備隊隊長アナスタシオ・ソモサ・ガルシアに暗殺され、1936年にソモサはクーデターを起こして大統領となった。こうして以降のニカラグアは1936年から1979年まで43年に及ぶソモサ王朝の支配が続くことになった。
なお、日本とは、1935年に堀義貴初代駐ニカラグア日本公使が着任し、正式に外交関係が成立した[2]。
ソモサ王朝 (1936 - 1979)
1937年に大統領に就任したアナスタシオ・ソモサ・ガルシア(タチョ)は、傀儡大統領を据えて政治と国家を私物化し、国家警備隊を利用した純然たる力の政治が行われた。第二次世界大戦の間には「敵性国民」であることを理由にドイツ系地主の財産を没収し、私財にするなどの一方で、大戦後には隣国のコスタリカと二度、ホンジュラスと一度紛争を起こすなど、中央アメリカにおけるニカラグアの影響力を拡大することに余念がなかった。
タチョが詩人に暗殺されると、長男のルイス・ソモサ・デバイレが後継者として実権を掌握した。ルイスは自由党(PLN)をコントロールして言論の自由の一部解禁や福祉の拡充を行うなど、形だけでもメキシコの制度的革命党(PRI)のような、PLNによる一党独裁体制の体裁をとっていたが、1963年に病死した。
後を継いだタチョの次男のアナスタシオ・ソモサ・デバイレ(タチート)は純然たる力の政治を目指し、国家警備隊による暴力を政権基盤として独裁を行った。1972年にマナグア大地震により、首都マナグアが壊滅すると世界中からニカラグアへの義捐物資が送られたが、タチートはこれを全てソモサ一家とその関連企業の間で着服し、国民の不満は一層高まることになった。
ニカラグア革命とコントラ戦争
1936年から続いていたソモサ家独裁への反対は1972年のマナグア大地震へのソモサ政府の暴力的な対応により拡大を続けていったが、1978年1月に反体制派新聞「ラ・プレンサ」社長のペドロ・ホアキン・チャモロが政府によって暗殺されたことにより、国民の独裁政権への不満は頂点に達した。武装蜂起したサンディニスタ民族解放戦線 (FSLN。組織名は「サンディーノ主義」の意) は中道・左派の幅広い結集を受け、ラテンアメリカ諸国と国際社会を味方につけ、1979年7月19日アナスタシオ・ソモサ・デバイレ大統領は合衆国のマイアミに亡命し(第一次ニカラグア内戦)、43年間におよぶソモサ王朝は終焉した。
ニカラグア革命はニカラグア固有の条件に起因した独自の革命であり、社会正義を実現するために遅れた部分を改革するというところから始まったものであった。このため、当初は非同盟政策、混合経済、複数政党制などの国造りを目標にして、キューバやソビエト連邦などの東側諸国から一線を画するつもりでいたが、次第にアメリカ合衆国やソ連やサンディニスタや国内保守派の思惑が入り乱れ、これが第二次ニカラグア内戦へと繋がっていった。
「人権外交」を掲げたジミー・カーター合衆国大統領とは違って革命を敵視したロナルド・レーガン合衆国大統領は“自由で民主的な政権を作る”という名目の下、「エル・サルバドル死守」を掲げて中央アメリカに介入を始めた。また、 オリバー・ノースがアメリカ政府とは独立した支援活動を繰り広げるなど、水面下でのさまざまな暗躍が噂された。アメリカ合衆国は経済援助を停止し、CIAなどさまざまな組織を通じて、旧ソモサ軍の兵士や、エデン・パストラをはじめとするサンディニスタの反主流派、カリブ海のモスキート海岸の先住民、ミスキート族などを反政府勢力コントラに組織し、ニカラグアに第二次ニカラグア内戦を強いた。
1984年から1985年にかけて、革命政権「国家再建会議」から民政移管する形式がとられ、選挙によってサンディニスタ党首で再建会議議長のダニエル・オルテガが大統領となった。このオルテガ第一次政権は、ニカラグア国内の鉄道を撤収し、大規模な私有財産の接収を行った。また、反対者を秘密警察を通じて誘拐・拷問・幽閉などの徹底的な弾圧を行ったので、多くの知識人・富裕層がアメリカのマイアミやロサンゼルスに亡命した。この結果、ソモサ以前は中米一の繁栄を誇っていたニカラグア経済は完全に破壊されてしまう(第一次オルテガ政権が幕を閉じた時には、GDPはソモサ末期の1979年の30%以下にまで低下していた)[要出典]。
1986年6月、国際司法裁判所は、アメリカの主張を全面的に退け「機雷封鎖、コントラ支援を含むニカラグアへの攻撃は、国連憲章をふくむ国際法に違反」とする判決を下すが(ニカラグア事件)、アメリカはコントラ支援をますますエスカレートさせる。11月、アメリカ合衆国のイランへの武器売却代金がニカラグアのコントラ・グループに流れていた事が発覚(イラン・コントラ事件)。この時アメリカ合衆国の手先となって支援資金の洗浄をしていたのは、アフガニスタンなどで反米武力闘争を行なっていたウサーマ・ビン・ラーディンの兄サーレム・ビン・ラーディンであった。
終戦、和平合意、その後のニカラグア
1987年の中米和平条約(Acuerdo de Esquipulas)の合意に沿って、1988年3月、政府と反政府勢力問の暫定停戦合意が成立した。1990年2月、国連による国際監視のもとで大統領選挙を実施した。オルテガをはじめとするサンディニスタ幹部はこの選挙での勝利を予想していたが、サンディニスタは僅差で敗れ、国民野党連合 (UNO) のビオレータ・チャモロ候補が初の女性大統領に選出された。4月にチャモロ政権が発足。6月にはコントラが武装解除・解体完了を宣言する一方、国軍(それまで革命前の反政府武装勢力時代からの名称「サンディニスタ人民軍」を用いていたが、「ニカラグア軍」と改称した)が8万人から1万5千人に削減され、内戦は実質的に終結した。サンディニスタ内ではクーデターを起こして政権を確保しようとする動きもあったが、オルテガ大統領はこれを制し、無事民主的な政権交代が実施された。その一方でダニエルの弟ウンベルト・オルテガが国軍の最高司令官に留任するなど、サンディニスタと野党のお互いの妥協が認められた形となった。
1996年10月20日に、大統領等選挙が行われ、自由同盟(AL、中道右派連合)[3]から元ソモサの部下だったアルノルド・アレマン候補が当選した。1997年1月10日、アレマン新政権が発足する。同時にダニエル・オルテガの養女へのセクハラなど、FSLN幹部の汚職がスキャンダル化し、サンディニスタ革新運動(MRS)が分裂した。
2001年11月4日に行われた総選挙で、エンリケ・ボラーニョス前副大統領が選出、2002年1月10日にボラーニョス政権発足。前アレマン大統領の在任時の汚職疑惑が社会問題化する。2006年11月5日に行われた大統領選挙で、カトリック教会を味方につけ貧困撲滅を訴えた、FSLNのダニエル・オルテガ元大統領が16年ぶりに当選した[4]。2007年1月10日にオルテガは大統領に就任した。
2011年11月6日、大統領選挙でオルテガ現大統領が再選された(ニカラグア中央選管が7日に発表した。開票率86%の段階で左派政党・サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)のオルテガは約63%を獲得した。次点の右派政党・独立自由党(PLI)のファビオ・ガデア候補は約32%)。
2018年の抗議デモ
2018年4月18日、オルテガ大統領が憲法上の手続を経ていない社会保険法改正を実施。これに対し、市民が反発、大学生中心の抗議デモが各地で発生。多数の死傷者が発生する暴動に発展。4月22日に社会保険法改正令が取り消され、事態は一旦沈静化したものの、5月中旬以降、反政府派の大学生への弾圧を機に、暴動が再燃。NGOによると、暴動による累計死者数は少なくとも285名となった[5]。
略年表
1502年9月:クリストーバル・コロン、第4次航海でホンジュラスからニカラグア東海岸のココ川の河口に上陸
1520年頃:スペイン人による植民地化が活発になる
1573年:グアテマラ総督領に編入
1770年:スペインの植民地としてグアテマラ総領事領に併合された。
1811年:レオン・グラナダで反乱。独立運動が急速に発展
1821年:独立宣言。その後メキシコ帝国に編入される
1823年:中米諸州連合結成
1838年:中米連邦分裂。完全独立
1855年:アメリカ人ウィリアム・ウォーカーが自らをニカラグア大統領と宣言
1927年-1933年:サンディーノ戦争
1934年:サンディーノ暗殺
1936年:アナスタシオ・ソモサ・ガルシア将軍政権掌握
1974年:民族解放戦線、「サンディニスタ民族解放戦線」に名称変更
1972年:マナグア大地震。首都壊滅。全世界からの援助をアナスタシオ・ソモサ・デバイレ(ソモサ家次男、大統領)が着服。
1979年:サンディニスタ革命
1981年:アメリカのレーガン大統領が援助停止
1984年:総選挙でサンディニスタ政権が圧倒的支持を集める
1985年:大統領選挙に基づくオルテガ政権の継続。アメリカのレーガン大統領はコントラを“自由の戦士”と表現して賞賛、経済制裁を開始
1990年2月:大統領選挙
1990年4月:チャモロ政権発足
1997年1月:アレマン政権発足
2002年1月:ボラーニョス政権発足
2007年1月:ダニエル・オルテガ政権発足
2018年4月:社会保障制度改革に反対するデモが発生[6]
政治
政体は大統領を元首とする共和制国家であり、大統領は行政権を行使する。大統領候補は、副大統領候補と共に立候補し、国民(満16歳以上の男女)による直接選挙によって選ばれる。任期は5年。
大統領の連続再選は従来禁止されていたが、2011年に現職のダニエル・オルテガ大統領が再選を果たした。憲法裁判所が「憲法が保障する法の下の平等に反する」として再選禁止規定を違憲としたため、オルテガの立候補と再選が可能となった。2014年には国会が大統領の再選禁止規定を撤廃する憲法改正案を可決し、施行された[7]。
内戦中は解放の神学の神父が閣僚を務めたこともあった。現行憲法は1987年憲法である。
立法権は複数政党制の一院制議会によって担われており、議員は92人で、任期は5年である[7]。
司法権は最高裁判所によって担われている。
主な政党はサンディニスタ民族解放戦線、自由連合、サンディニスタ革新運動など。
軍事
1927年にアメリカ合衆国によってそれまであった国軍は解体され、新たにアメリカ海兵隊の指導を受けた国家警備隊が設立された。国家警備隊はソモサ一家によるニカラグア支配を支える重要な装置となったが、国家警備隊も1979年のニカラグア革命によって解体された。その後革命政権によって新たに設立されたサンディニスタ人民軍と反革命傭兵軍コントラとの内戦が1980年代を通じて続けられ、内戦による兵力不足を補うために徴兵制も施行されたが、1988年の停戦合意後にサンディニスタ人民軍は大幅に削減され、1990年に名称もニカラグア軍に改名された。
ビオレタ・チャモロ政権時に徴兵制は廃止され、現在は志願兵制となっている。
国際関係
2007年のFSLN政権の樹立後、反米を標榜するキューバやベネズエラのウーゴ・チャベス政権、エクアドルのラファエル・コレア政権、ボリビアのエボ・モラレス政権との友好関係が強化され、同年中に米州ボリバル代替統合構想(ALBA)に加盟している。2008年9月には、ロシア連邦に続いてアブハジアと南オセチアの独立を承認した。
ニカラグアはパレスチナを承認しており、1985年に一時は国交を樹立した中華人民共和国と1990年に断交してから中華民国(台湾)を承認している[8]。
地方行政区分
ニカラグアは15県 (departamento) と、大西洋側の先住民ミスキート族による2自治地域 (region autonomista)に分かれる。15の県は153のムニシピオ(municipios)によって分割される。北アトランティコ自治地域と南アトランティコ自治地域は、かつて単一のセラヤ県だったものが、1985年のサンディニスタ政権とミスキート族との和平成立により現在のように分割された自治区なった。
ボアコ県(ボアコ)
カラソ県(ヒノテペ)
チナンデガ県(チナンデガ)
チョンタレス県(フイガルパ)
エステリ県(エステリ)
グラナダ県 (グラナダ)
ヒノテガ県(ヒノテガ)
レオン県(レオン)
マドリス県(ソモト)
マナグア県(マナグア、首都)
マサヤ県(マサヤ)
マタガルパ県(マタガルパ)
ヌエバ・セゴビア県(オコタル)
リバス県(リバス)
リオ・サン・フアン県(サン・カルロス)
北アトランティコ自治地域(プエルト・カベサス)
南アトランティコ自治地域(ブルーフィールズ)
主要都市
主要な都市はマナグア(首都)、レオンがある。
地理
地勢面ではモモトンボ火山が属する山岳地帯の標高は1,700m台、北部のホンジュラスとの国境の山岳地帯でも2,100m台に留まり、東西の海岸地帯は熱帯平野となっている。東海岸の中央部に湿地帯が広がり、一方、西海岸の中部はニカラグア湖が近い。カリブ海にはコーン諸島とミスキート諸島がある。
河川と湖
ニカラグア湖は中米最大の湖であり、独立当初からニカラグア湖と東西海岸部を結んで パナマ運河のようにカリブ海と太平洋を結ぶニカラグア運河を建設する構想があり、香港資金を利用する計画を政府が承認し始動したが現在中断中とみられる。面積は8029km²、最大深度70m(湖面標高32m)である。首都マナグアの北西にはマナグア湖が位置する。マナグア湖は工業化による環境汚染が酷くなっているが、マナグア湖から流れ出すティピタパ川がニカラグア湖に流れ込む。ニカラグア湖南東部からサン・フアン川がはじまり、カリブ海に河口が開く。ニカラグア湖には多数の火山性の島がおり、湖内最大の島はオメテペ島である。
気候
ニカラグアは全土が熱帯性の気候に属するが、標高や地域によって差がある。ケッペンの気候区分によれば、西海岸はサバナ気候、東海岸は乾季の無い熱帯雨林気候に属する。また、国土中央の山岳部は温暖湿潤気候に属する。
西海岸では、雨季は5月から10月、乾季は11月から4月であり、高温多湿な気候である。一方で、北部山岳地帯では年間を通して過ごしやすい気候が続く。
首都マナグアの年間平均降水量は1,358mmであり、特に雨季は高温多湿となっている。
経済
労働人口の40%以上が第一次産業に従事しており、主要産業はコーヒー、バナナ、サトウキビ、牛肉、葉巻など。北部山岳地帯のマタガルパ県、ヒノテガ県でコーヒー栽培が盛んである。近年は日本にも豆の輸出があるものの、コスタリカ産、グアテマラ産のそれには及ばない。北西部ではサトウキビの栽培やエビの養殖が行われている。嗜好品であるが、ニカラグア産の葉巻とラム酒"Flor de Can-a"はキューバ産の物に劣らない程の高級品である。
南西部の太平洋岸では観光業やリゾート不動産業の進展が著しい。
観光
ニカラグアの観光産業は近年急速に発展している。ニカラグアにはメキシコ、グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ベリーズのようなマヤ文明の遺跡は存在しないが、代表的な観光地としてはマナグア、レオン、グラナダ、オメテペ島、サン・フアン・デル・スール、コーン諸島などが挙げられ、近年はエコツアーも発展している。首都マナグアのルベン・ダリオ劇場、文化宮殿、サンディーノのトタンで出来た黒い像などが観光名所として有名であり、毎年4月にカルナバルが行われる。
産業
発電の76%が火力発電によっており、その原料となる石油は輸入頼みであるため、発電コストの上昇が課題となっている。2013年の円借款などにより水力発電、CFLへの転換を進める。また、電力価格の上昇により、省エネ製品への関心が高いという[9]。
国民
人種構成は、メスティーソ69%、白人17%、黒人9%、インディヘナ諸部族が5%となっている。
アフリカ系ニカラグア人とインディヘナはカリブ海側に集中しており、アフリカ系の先祖にはジャマイカから労働者として流入した者もいる。インディヘナの主な部族としては、ミスキート族、スモ族、ラマ族、ガリフナ族などが挙げられる。
19世紀から20世紀にかけてニカラグアにはヨーロッパから移民が流入した。ドイツ人、イタリア人、スペイン人、フランス人、ベルギー人移民などがヒノテガやエステリなどの太平洋側諸県に流入し、その地でコーヒーや砂糖、出版に携わった。その他にも中東からシリア人、レバノン人、パレスチナ人(パレスチナ系ニカラグア人)、ユダヤ人が流入し、東アジアからも中国人(華人)や台湾人、日本人の移民もあった。
内戦中に多くのニカラグア人が国外に流出した。
人口
2004年の人口は約535万人であり、人口の80%以上が西部太平洋側のマナグア、レオン、グラナダ、マサヤ等に集中している。カリブ海側は人口密度が薄い。
言語
第二次ニカラグア内戦中に憲法が改正され、先住民族は母語で教育を受ける権利を有する。スペイン語が公用語であるが、カリブ海側の旧英領の影響を受けたモスキート海岸ではミスキート族の話す英語(クレオール英語)とミスキート語も話されている。ニカラグアのスペイン語はトゥセオ(tuseo)よりもボセオ(voseo)を用いる。その他に、移民によって中国語やアラビア語、ドイツ語、イタリア語なども話されている。
宗教
宗教は、カトリックが58.5%、他には福音派 プロテスタント 23.2%、末日聖徒イエス・キリスト教会 1.9%、その他2.6%。15.7%が宗教を持っていない。 (国勢調査2005)
教育
内戦中に革命政権がキューバ政府の支援や、ブラジルのパウロ・フレイレの理論を取り入れて[10]行った識字運動により、ソモサ王朝時代までは50%程だった識字率は80%を越えるまでに改善したものの、内戦の混乱や経済の崩壊の中で再び公教育も大きな打撃を受け、2003年の推計によれば15歳以上の国民の識字率は67.5%である[11]。
主な高等教育機関としてはニカラグア国立自治大学(1812年)、中米大学(1961年)、ニカラグア工科大学(1967年)などが挙げられる。
治安
街角で警察官やガードマンが機関銃や散弾銃を持って警備している状況が日常的であり、治安は深刻である。2014年上半期の犯罪は、殺人593件、強盗・恐喝2312件、強姦・強制わいせつ1836件で、発生件数は前年同期比で横ばいとなっているが、薬物犯罪は前年同期比15.2%増と増加傾向にある[12]。
全体の犯罪発生件数の4割強が首都マナグアで発生しており、次にマタガルパ県、ヒノテガ県、南大西洋自治区の順になっている。ホンジュラスとの国境沿いの山岳地帯では麻薬組織と警察・軍隊の銃撃戦が多発する他、山賊が現れるという。また、パンディージャ(Pandilla)と呼ばれる少年犯罪集団による犯罪も横行している[13]。
文化
ニカラグアの文化は基本的にインディヘナの文化とスペインの文化の融合によって成立しているが、カリブ海側のミスキート族など、英語を話すアフリカ系の人々の文化的な影響も大きい。
文学
ニカラグアの文学は先住民の口承文学に根を持っていたが、スペイン人の征服後はスペイン語によって表現されることになった。
ニカラグア文学においては詩が大きな存在感を持ち、決して欠かせない存在として、19世紀のラテンアメリカ文学全体に大きな影響を与えたモデルニスモを代表する大詩人にして、スペイン語圏最高峰の詩人として知られるルベン・ダリオが挙げられる。
その他の詩人としては、フランシスコ・キニョネス・スンジン、パブロ・アントニオ・クアドラ、エルネスト・カルデナルなどが、小説家としてはセルヒオ・ラミレスが挙げられる。
音楽
パロ・デ・マーヨなどのフォルクローレがあり、民俗音楽においてはアフリカ伝来のマリンバが用いられる。カリブ海側にはガリフナ族のコミュニティもあり、彼等の音楽はプンタと呼ばれている。ニューヨーク生まれのサルサも人気である。
著名な音楽家としては、フォルクローレのカルロス・メヒア=ゴドイ、ルイス・エンリケ・メヒア=ゴドイのメヒア=ゴドイ兄弟、ノルマ・エレーナ・ガデア、サルバドール・カルデナルらが、ニカラグアにおけるヌエバ・カンシオンの担い手として挙げられ、また、サルサにおいてはマイアミで活躍するルイス・エンリケ・メヒア・ロペスが挙げられる。
スポーツ
アメリカ合衆国の影響を受けて野球が最も盛んであり、キューバやドミニカ共和国、ベネズエラなどと同様に、デニス・マルティネスのようなメジャー・リーグの選手を輩出している。オリンピックは正式競技となってからはアトランタ大会1回に出場したのみであるが4位と健闘した。しかしワールド・ベースボール・クラシック参加国には2009年までの2大会は選ばれておらず、2013年大会と2017年大会は予選にエントリーするものの本大会に進めず。
二番目に人気のスポーツはボクシングであり、こちらもアレクシス・アルゲリョのような、多くの選手を輩出している。
2012年にはバスケットボールニカラグア代表が中米選手権初出場を果たした。
世界遺産
ニカラグア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件存在する。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Año nuevo | |
2月1日 | 空軍記念日 | Día de la Aviacion Militar | |
3月から4月 | 聖週間 | Semana Santa | |
4月11日 | リバス戦勝記念日 | Día de Juan Santamaría | |
5月1日 | メーデー | Día de los trabajadores | |
5月27日 | 陸軍記念日 | Día del Ejército | |
7月19日 | 革命記念日 | Día de la Revolución | |
8月15日 | 母の日 | Día de la Madre | |
8月1日から8月10日 | サント・ドミンゴ(マナグアのみ) | Santo Domingo | |
9月14日 | サン・ハシント戦勝記念日 | Día de la Btalla de San Jacinto | |
9月15日 | 独立記念日 | Dia de la Independencia | |
10月12日 | インディヘナの抵抗の日 | Día de la Resistencia Indígena | |
11月8日 | 死者の日 | Día de los Muertos | |
12月8日 | 無原罪の聖母 | Inmaculada Concepción | |
12月25日 | クリスマス | Día de la familia | |
12月31日 | 大晦日 | Fin de año |
著名な出身者
ビアンカ・ペレス・モラ・マシアス – イギリスのロックバンド ローリング・ストーンズのボーカル、サー・ミック・ジャガーの最初の妻。
アレクシス・アルゲリョ(WBA世界フェザー級、WBC世界スーパーフェザー級、WBCライト級) – ニカラグア初のボクシング世界王者。世界タイトル戦の多くをアメリカを主戦場としてリングに上がり、非常にスリムで端正な容姿から繰り出される強打で、“ニカラグアの貴公子”または“痩せっぽちの破壊者”(El Flaco Explosivo)として人気を博した。80年代前半には、コントラに参加した時期もある。
脚注
- ^ abcdIMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
^ 「堀義貴公使の中米5ヶ国着任(1935年)」外務省
^ 2005年に成立したニカラグア自由同盟(ALN)とは異なる組織。
^ 選挙期間中、最有力候補であったMRSのエルティ・レウィテスが心臓病で急逝するという事件があった。重い心臓病を患った人間が一国の大統領選挙に出馬する事が非現実的であり、レウィテス夫人が死体解剖を拒否するという不自然さから、国民の一部からオルテガ候補に毒殺されたのではないかという疑問の声が上がっている。
^ “ニカラグアの暴動、深い憂慮を表明”. Qnewニュース. (2018年7月3日). https://qnew-news.net/news/2018-7/2018070305.html 2018年7月10日閲覧。
^ デモ隊と治安部隊が衝突、28人死亡 中米ニカラグア - 朝日新聞デジタル、2018年4月23日
- ^ ab「ニカラグア共和国」『世界年鑑2016』(共同通信社、2016年)346頁。
^ “Taiwan President to Stop in US”. ワシントン・ポスト. (2007年1月5日). http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/01/05/AR2007010502229.html 2017年6月19日閲覧。
^ 大城, 麻木乃 (2013年6月20日). “ニカラグアに円借款”. 日刊工業新聞 (東京): p. 3
^ 小坂法美(国際協力機構)「ニカラグア小学校教師の自己認識による教授的力量の変容 ライフヒストリー法による分析」『国際教育協力論集』 広島大学教育開発国際協力研究センター第11 巻 第2号 2008 pp.61-pp.74
^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/nu.html 2009年3月30日閲覧
^ http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure.asp?id=254 2014年12月21日閲覧
^ http://www.anzen.mofa.go.jp/manual/nicaragua.html 2014年12月21日閲覧
参考文献
- エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳 『収奪された大地──ラテンアメリカ五百年』 新評論、東京、1986年9月。
- 後藤政子 『新現代のラテンアメリカ』 時事通信社、東京、1993年4月。ISBN 4-7887-9308-3。
- 高橋均 『サンディーノ戦記』 弘文堂、東京、1988年12月。
- 滝本道生 『中米ゲリラ戦争』 毎日新聞社、東京、1988年10月。ISBN 4-620-30653-3。
- 田中高編著 『エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアを知るための45章』 明石書店〈エリア・スタディーズ〉、東京、2004年8月。ISBN 4-7503-1962-7。
- 二村久則、野田隆、牛田千鶴、志柿光浩 『ラテンアメリカ現代史III』 山川出版社〈世界現代史35〉、東京、2006年4月。ISBN 4-634-42350-2。
関連項目
- ニカラグア関係記事の一覧
- ニカラグア運河
- ニカラグア手話
- ニカラグアのイスラム教
- ニカラグアにおけるコーヒー生産
外部リンク
- 政府
ニカラグア共和国大統領府 (スペイン語)
- 日本政府
日本外務省 - ニカラグア (日本語)
在ニカラグア日本国大使館 (日本語)
- 観光
ニカラグア政府観光局 (スペイン語)(英語)
ニカラグア情報 (日本語)
- その他
ニカラグアのウィキメディア地図
ウィキボヤージュには、ニカラグア(スペイン語)に関する旅行情報があります。
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