ズームイン!!朝!
ズームイン!!朝! | |
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『ズームイン!!朝!』の生放送が行われた 現在の初代マイスタジオ跡地 (撮影当時:日本テレビ麹町診療所) | |
ジャンル | 報道・情報番組(朝の情報番組) |
出演者 | 徳光和夫 福留功男 福澤朗 他 |
オープニング | 作曲:宮川泰 |
エンディング | 同上 |
製作 | |
制作 | 日本テレビ放送網 |
放送 | |
音声形式 | モノラル放送 |
放送国・地域 | 日本 |
放送期間 | 1979年3月5日 - 2001年9月28日 |
放送時間 | 平日 7:00 - 8:30 |
放送枠 | 日本テレビ系列朝の情報番組枠 |
放送分 | 90分 |
日本テレビ |
『ズームイン!!朝!』(ズームイン あさ)は、日本テレビ系列で1979年3月5日から2001年9月28日まで平日(月曜日から金曜日)に生放送されていた朝の情報番組。
略称は「ズーム」または「ズームイン!!」であり、これは後身『ズームイン!!SUPER』にも引き継がれた。
目次
1 概要
2 番組の歴史
2.1 徳光時代
2.1.1 ネット局関連
2.2 福留時代
2.2.1 ネット局関連
2.3 福澤時代
3 視聴率
4 番組テーマ曲
5 ネットしていた局
6 出演者
6.1 司会
6.2 アシスタント(末期のみ)
6.3 お天気キャスター
6.4 中継キャスター・アナウンサー
7 お天気コーナー
8 主なコーナー
9 シリーズ企画
10 歴代スタッフ
10.1 制作
10.2 総監督
10.3 チーフプロデューサー
10.4 プロデューサー
10.5 演出
11 脚注
12 関連項目
13 外部リンク
概要
東京都千代田区二番町(麹町)の日本テレビ本社(当時)内オープンスタジオ「マイスタジオ(通称:マイスタ)」を拠点に、国内外からの中継を基に構成。最新のニュースと気象、スポーツ情報から、番組の目玉である日本列島各所の中継、特集を放送した。その一方、芸能情報は番組開始時から晩年までほとんど扱うことがなかった。
番組の企画段階での仮タイトルは『今日、あなたは』。その後『ズームイン!!全国的に朝!』と変更されたが(1970年代初頭の谷岡ヤスジの漫画が元の流行語「全国的にアサー!」が元ネタ)、当時日本テレビ社長の小林與三次(1999年死去)に伺いを立てたところ「人の真似は良くない」とされた決裁により「全国的に」の部分だけが取れて『ズームイン!!朝!』(後身『ズームイン!!SUPER』も含め、一部の記事を除き以下『ズームイン!!』と記す)に落ち着いた[1]。
番組の開始を機に、当時新築された日テレ本社南本館1階に「マイスタジオ」を新設した。マイスタジオは本番組以外にも『ルンルンあさ6生情報』(1983年5月放送開始)や『タウン5』(後に本番組の2代目司会者となる福留功男が担当)、『日本テレビハイライト』などで使用されたほか、スタジオ特性(外部からの中継回線を通常のスタジオより多く受け入れられる設計であった)を生かし、外部からの中継番組を処理する「受けサブ(リモートサブ)」としても使用された。
日本テレビでの放送時間は7:00 - 8:30(JST)で開始以来不変だった。ただし、一部ネット局では放送時間が異なっていた事例もあった。
番組マスコットは「ズームくん」という人工衛星を擬人化したキャラクターで、テロップや番組ノベルティグッズ等に使用され、開始当初から1985年頃までのオープニングアニメーションや「プロ野球いれコミ情報」のオープニングCG、1995年から1998年までのオープニングCGにもその姿を確認することができる。しかし番組終了と共に姿を消し、『ズームイン!!SUPER』ではしばらくの間マスコットは使用されなかった。
2001年10月1日より、本番組をリニューアルする形で『ズームイン!!SUPER』がスタート。さらに、2011年4月1日より、『ZIP!』(「ZOOM IN! PEOPLE」=「ズームイン!ピープル」の頭文字を取ったもの)にリニューアルしたが、この番組内で「ズーム」および「ズームイン」の表示は一切登場しない(因みに『ズームイン!!SUPER』と『ZIP!』を含むと放送期間は2017年現在で38年となり、現在放送中の情報番組の中で1番長い記録となる)。
番組の歴史
徳光時代
- 1979年3月5日放送開始。初代司会者は徳光和夫。3月初頭という改編期前の中途半端な時期に放送開始した理由は「4月に開始だと改編期に当たるため、広報がPRに力を入れてくれない。3月なら広報も暇だからPRに協力してくれる」というプロデューサーの思惑が理由だとされている[要出典]。
- 初日最初のニュースは前日に起きたJRA騎手福永洋一の落馬事故であった。
- 開始当初からの企画としては、全国ニュースでは取り上げにくいローカル色の強いニュースを各局のアナウンサーが直接伝える「NSヘッドライン」、各局が地元球団を応援しながら伝える「プロ野球イレコミ情報」、街角からの中継で通りがかった一般の人と英会話を行う「Wickyさんのワンポイント英会話」、「朝の詩(ポエム)」などがあり、これらは長寿企画となった。
- 1980年に第17回ギャラクシー賞・選奨を受賞[2]。
- 1980年10月22日放送で司会の徳光が前日の長嶋茂雄監督解任に激怒し、視聴者に対し読売新聞・報知新聞(スポーツ報知)の購読打ち切りを行うよう呼びかけた(徳光は長嶋ファンである)。
- 1980年12月31日、日本テレビが制作担当であったこの年の『ゆく年くる年』は、本番組のスタッフが実働部隊となり、本番組のシステムで『ゆく年くる年』を制作・放送した。これには本番組並びにキャスターとしての徳光を全国的に売り出す狙いがあったとされ、そのために渡辺謙太郎(当時TBSアナウンサー)、露木茂(当時フジテレビアナウンサー)、溝口泰男(当時テレビ朝日専属キャスター)、金子勝彦(当時東京12チャンネルアナウンサー)といった各局の看板キャスターを集め、中心に徳光を置くといった演出も行われた。
ネット局関連
開始当時のネット局は日本テレビ、札幌テレビ、青森放送、テレビ岩手、ミヤギテレビ、山形放送、福島中央テレビ、山梨放送、北日本放送、福井放送、中京テレビ、よみうりテレビ、日本海テレビ(鳥取・島根)、広島テレビ、山口放送、西日本放送、高知放送、福岡放送、テレビ長崎の19局ネット。
このうち、山形放送、北日本放送、福井放送では1984年3月まで『ポーラテレビ小説』を放送していたため、8時10分飛び降りとなっていた。このとき、北日本放送はローカル番組『おはようKNBです』に内包する形をとり、番組後半はローカル編成を組んだ。このため番組欄では両番組名が併記となったほか、ローカル部分がのちにステレオ放送化されたため、新聞等の番組欄のタイトルにはステレオ放送のマークがついた。また山形放送では1987年9月までANN系全国ネットニュースも放送していたことに加え『YBC社説放送・けさの主張』があったため、7時30分からの飛び乗りとなっていた。
1979年4月から、当時日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日とのクロスネット局であったテレビ大分でのネットが開始した。ただし、開始当初はフジテレビの『ひらけ!ポンキッキ』も放送していたため、8時飛び降りとなっていた。同時に西日本放送の岡山・香川相互乗り入れにより岡山県での放送を開始。
同年7月2日(実質は6月25日のサービス放送から)、前日に開局した静岡第一テレビにて静岡県での放送を開始。それまで日本テレビとテレビ朝日とのクロスネット局であった静岡県民放送(静岡けんみんテレビ、現:静岡朝日テレビ)は前番組『NNNおはよう!ニュースワイド』はネットしていたものの、終了後はテレビ朝日系列の『オリンピックニュース』とアニメの再放送枠に充てていた。
1980年10月1日、この日に開局したテレビ信州にて長野県での放送を開始。それ以前は長野県に日本テレビ系列局が無かった。
1981年4月1日(実質は3月25日のサービス放送から)、この日に開局したテレビ新潟にて新潟県での放送を開始[3]。開局当日は徳光が新潟に赴き、生放送を行った。同年4月6日、上記の『ゆく年くる年』の効果により、それまでフジテレビ系列の番組をネットしていた鹿児島テレビにて鹿児島県での放送を開始。
1982年4月1日(実質は3月29日のサービス放送から)、この日に開局した熊本県民テレビにて熊本県での放送を開始[4]。前年の新潟の時と同様に、徳光は熊本に赴き、生放送を行った。
福留時代
1988年3月4日、徳光が『NNNニュースプラス1』を担当することになり勇退(本番組を降板した同時期より徳光は日本テレビ退社・フリーアナウンサー転身を考えるようになり、その後1989年にフリーとなった)。3月7日より後任に福留功男が起用される。なお、福留は当時『全国高等学校クイズ選手権』(1983年 - )・『アメリカ横断ウルトラクイズ』(1977年 - 1990年)の司会を務めており、そのロケ期間(8月、9月から10月までの1ヶ月間程)は主に自局および系列基幹局の代理キャスターが担当していた。- 当初は福留ではなく当時読売テレビアナウンサーの辛坊治郎が2代目司会者の最有力候補に挙がっていた[5]。
- 福留は「(引き継いでからの最初の)1年間は味噌汁の味は変えない(=徳光時代の番組カラーはそのまま引き継ぐ)」「しかし1年経ったら、その後は自分の色でやる」として、実際に1年後にはスタッフを総入れ替えして報道・情報番組色を強めたという。その最初の1年間で、福留が中心となって、視聴者の朝の生活習慣を調査した。この調査によると、トイレ・歯磨きなどほとんどの行動が3分以内であることが判明。それを機に1回の中継時間を可能な限り3分以内とするリニューアルを実施した。同時に、それまで持ち回り制だった中継スケジュールを廃止。毎月全国の系列局のディレクターを集めて企画会議を行い、それを基に中継を実施した。また、「情報トレイン」に至っては会議で予めテーマを決め、各局が企画したテーマを持ち帰って取材を進め、中継を放送した。
- 1990年7月には8時台の「NSヘッドライン」を「情報トレイン」に変更。さらには「31分31秒」を「朝生リポート」に変更し、31分31秒に代わる企画「ズームインズーム」を登場させ、「ワンポイント英会話」の開始時間を7時20分から7時45分にする、プロ野球イレコミ情報の最後に時間切れの爆弾とGAME OVERの文字を表示させて「朝の詩」に移行するなどの大幅なリニューアルを行った。また情報番組としてスピーディーな進行を志向した福留の意向により、徳光時代以来長らく続いてきたが不確実性が高くアクシデントの主要因ともなっていたマイスタ前の一般開放を取りやめた(オープニングのみ、エンディングは継続したが来訪者にインタビューするなど絡むことはなくなった)。
1991年3月、福留は日本テレビを退社しフリーとなったが、本番組の司会はフリーの立場で継続した。福留はこの半年後、TBS系列『ブロードキャスター』の司会に就任、以後『ブロードキャスター』側の方針により、福留はそちらの番組が休止される場合、同時に本番組の放送週を休む形を採っていた。
1993年4月9日、番組放送開始15周年を記念して日本テレビ開局40周年記念特別番組『ズームイン!!夜!』をゴールデンタイムの夜7時から4時間に亘って放送。徳光と福留のダブル司会により朝と同じスタイルの番組を夜に展開する企画で、好評につき同年秋にも2回目(この時は夜7時からの2時間30分)の放送がなされた。- 1993年から1994年に掛けて、長寿企画である「朝の詩(ポエム)」や「ワンポイント英会話」のコーナーを終了、ニュース量・地方中継の量と質の向上などの第2のリニューアルを進め、スピーディーな番組進行の色合いが強まった。「朝の詩」は花王の一社提供コーナーであり、花王に了承を得てから終了となった。以後、花王は提供クレジットから降りてPT(パーティシペーション)扱いとしてCMを流した。
報道特別番組が放送されるような重大な事件・事故が起きた際、その翌朝にはメインキャスターである福留自らがマイスタを離れて事件現場に乗り込み(福留自身は報道記者の経験がある)、そこから生放送やリポートを行う手法を多用した。1993年7月12日の北海道南西沖地震発生の際には被災した奥尻島を翌朝の番組でヘリコプターからリポートしたほか、最も有名なのは1995年1月17日の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)発生の翌日に神戸に入り現地キャスターと被災地や被災者のリポートを行っている。
1996年4月6日、土曜日に姉妹番組として『ズームイン!!サタデー』を放送開始。通称『ズムサタ』。初代司会者は福澤朗。- 1998年4月1日、前半ネット部分のスポンサー体制が、それまでの隔日提供から曜日毎の提供に変更された。
ネット局関連
1990年4月2日(実質的にはサービス放送開始の3月26日から)、前日に開局したテレビ金沢にて石川県での放送を開始。それ以前は石川県に日本テレビ系列局が無かったため、北日本放送(主に金沢市・能登地方)と福井放送(主に加賀地方)が取材を行っていた。- 1991年4月1日、長崎県での放送がこの日に開局した長崎国際テレビに変更。テレビ長崎での放送はその半年前に打ち切りになっている。
1992年10月1日、愛媛県での伊予テレビ(現:あいテレビ)開局[6]を期にTBS系列の番組ネットの見直しが行われ、これまでTBSの平日朝7時の番組(最末期の番組は『ビッグモーニング』)を放送していた南海放送(愛媛)と秋田放送が番組ネットを開始。最大の28局ネットになる。- 1994年4月1日、鹿児島県での放送がこの日に開局した鹿児島読売テレビに変更。なお、それまで鹿児島県でのネット局であった鹿児島テレビは同日フジテレビが開始した『めざましテレビ』を本番組の後継番組扱いでネット開始した。
福澤時代
- 1998年8月31日の放送を最後に福留が勇退。代わって9月1日放送から『ズムサタ』のメインを担当していた福澤朗を3代目司会者に起用。福澤はこれ以前にも、『アメリカ横断ウルトラクイズ』(1991年 - 1992年)と『全国高等学校クイズ選手権』(1991年 - 2000年)において、福留に代わって司会を担当していた。福留は、1ヶ月後の10月1日から8年ぶりに『アメリカ横断ウルトラクイズ』(“今世紀最後”と題した復活版)のロケに出掛けている。
- 2000年1月5日、「ズバリ!!橋本五郎」放送中に当時内閣総理大臣の小渕恵三から突然電話がかかり、スタジオと数分間談話した。この日の前後にも複数の番組に電話をかけ、話題になった(前年の流行語大賞にも選ばれた「ブッチホン」の有名な一例である)。
2001年9月28日、最終回を迎えた。22年半の放送にピリオドを打ち、『ズームイン!!SUPER』にリニューアルされる。福澤は『SUPER』の初代司会者の1人として続投した。- なお、2000年秋には『スーパースペシャル2000』で本番組のスペシャルが放送され、歴代の司会者である徳光・福留の両名も福澤とともにマイスタから出演した。
視聴率
関東地区における初回視聴率は、2.4%(最低視聴率は開始年のゴールデンウィーク期間中に記録した1.5%)。- 開始当初はNHK総合テレビの報道番組(当初は『NHKニュース』と『スタジオ102』、後に『NHKニュースワイド』)と『連続テレビ小説』が強く1%台も記録し苦戦続きだったが、それは当時の地方局のほとんどが県に2、3局しかなかったために、他系列の番組を放送していたためである。ところが1979年7月に静岡県で静岡第一テレビが開局したのを機に、基幹地域以外にも民放地方局第3局・第4局が開局。番組確保の必要性から日本テレビ系(即ち本番組)を選択する局が出てくることでネット局が飛躍的に増加したことがまずあり、その上で「幅広い世代が一緒に見ることができる内容」、「時計代わりに使える番組構成」、当時としては画期的な「言葉で時間を告知すること」などの要因により徐々に向上し、1年後には8%を記録する日も現れた。
1987年4月には当時、視聴率で民放1位だったTBS『朝のホットライン』を追い抜いた。- 1992年4月には1日だけではあるが、NHK総合テレビ『NHKモーニングワイド』の視聴率を民放史上初めて上回り、1994年4月には平均視聴率でもNHK総合テレビ『NHKニュースおはよう日本』(上記『モーニングワイド』の後継番組)を上回った。さらに2年後の1996年6月には平均視聴率20%を記録し、放送開始17年目にして完全に日本の朝番組の頂点に立った。同年7月には番組最高視聴率である22.8%を記録した。
1990年代中盤の勢いは福留時代末期から、『おはよう日本』の復調やフジテレビ『めざましテレビ』の躍進により、視聴率が頭打ちとなった。そのため、司会者の若返り・天気リレーの短縮・芸能情報の導入を取り入れるなどテコ入れを図ったが、2000年までは16%前後と他番組とは圧倒的な差をつけていた(『めざましテレビ』は関東地区ではまだ10%に達していなかった)。- 2001年になると『おはよう日本』の視聴率上昇の影響を受けて、月平均視聴率が13 - 15%前後となる。同年6月に『進め!電波少年』のプロデューサーであった土屋敏男が編成部長に就任した際、最初に着手したのが早朝時間帯の大改革の断行であり、本番組・『ジパングあさ6』・『あさ天5』の3番組を統合する形で、『ズームイン!!SUPER』が始まることとなる。最終回の視聴率は13%であった。
番組テーマ曲
テーマ曲は宮川泰の作曲による番組オリジナルで、オープニング、エンディングとも同じ曲である。原曲は3分00秒の曲だが、番組オープニング部分が長時間のため番組では原曲を継ぎ接ぎして長くし、使用しており(スポーツ行進曲のように、何度でも繰り返しできるように構成されていた)、エンディングでは応用として、元日などネット局の飛び降りが発生する際に、飛び降りポイントで曲が終わるかのように、かつ引き続きネットする局では続けて流されたこともあった。なお、司会が福澤になってからは宮川が改めてアレンジしたものを使用した[7]。
オリジナル音源は長らくCD化されなかったが、番組の終了および宮川の没後である2018年8月29日発売の「宮川泰 テレビテーマ・ワールド」にアレンジ版も含めて収録された。同CDには、『SUPER』と『ジパングあさ6』のテーマ曲も収録されている[8]。
ネットしていた局
- 系列はネット終了時のもの。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 |
---|---|---|---|
関東広域圏 | 日本テレビ(NTV) | 日本テレビ系列 | 制作局 |
北海道 | 札幌テレビ(STV) | ||
青森県 | 青森放送(RAB) | 1991年9月まではテレビ朝日系とのクロスネット局 | |
岩手県 | テレビ岩手(TVI) | 1980年3月まではテレビ朝日系とのクロスネット局 | |
宮城県 | ミヤギテレビ(MMT) | ||
秋田県 | 秋田放送(ABS) | 1992年10月1日からネット開始 | |
山形県 | 山形放送(YBC) | 1980年4月から1993年3月まではテレビ朝日系とのクロスネット局 | |
福島県 | 福島中央テレビ(FCT) | 1981年9月まではテレビ朝日系とのクロスネット局 | |
山梨県 | 山梨放送(YBS) | ||
新潟県 | テレビ新潟(TeNY)[9] | 1981年4月1日開局から | |
長野県 | テレビ信州(TSB) | 1980年10月1日開局から 1991年3月まではテレビ朝日系とのクロスネット局(NNS非加盟) | |
静岡県 | 静岡第一テレビ(SDT) | 1979年7月2日からネット開始 | |
富山県 | 北日本放送(KNB) | ||
石川県 | テレビ金沢(KTK) | 1990年4月2日から | |
福井県 | 福井放送(FBC) | 日本テレビ系列/テレビ朝日系列 | 1989年3月までは日本テレビ系単独加盟局 |
中京広域圏 | 中京テレビ(CTV) | 日本テレビ系列 | |
近畿広域圏 | 読売テレビ(YTV) | ||
鳥取県・島根県 | 日本海テレビ(NKT) | 1989年9月まではテレビ朝日系とのクロスネット局 | |
広島県 | 広島テレビ(HTV) | ||
山口県 | 山口放送(KRY) | 1993年9月まではテレビ朝日系とのクロスネット局 | |
香川県→香川県・岡山県 | 西日本放送(RNC) | 1979年までの放送エリアは香川県のみ 1979年4月から電波相互乗り入れに伴い岡山県でも放送 | |
愛媛県 | 南海放送(RNB) | 1992年10月1日からネット開始 | |
高知県 | 高知放送(RKC) | ||
福岡県 | 福岡放送(FBS) | ||
長崎県 | テレビ長崎(KTN) | 日本テレビ系列[10]/フジテレビ系列 | 1990年9月28日打ち切り |
長崎国際テレビ(NIB) | 日本テレビ系列 | 1991年4月1日開局から | |
熊本県 | くまもと県民テレビ(KKT)[11] | 1982年4月1日開局から | |
大分県 | テレビ大分(TOS) | 日本テレビ系列/フジテレビ系列 | 1979年4月2日から 1993年9月まではテレビ朝日系とのトリプルネット局 |
鹿児島県 | 鹿児島テレビ(KTS) | 1981年4月6日から1994年3月31日まで 1982年9月まではテレビ朝日系とのトリプルネット局[12] | |
鹿児島読売テレビ(KYT) | 日本テレビ系列 | 1994年4月1日開局から |
出演者
司会
徳光和夫(1979年3月5日 - 1988年3月7日)
福留功男(1988年3月8日 - 1998年8月31日)
福澤朗(1998年9月1日 - 2001年9月28日)
歴代の司会者はその当時の日テレの看板アナウンサーが務めていたが、いずれも後にフリーに転身しており(後身の『ズームイン!!SUPER』司会の羽鳥慎一・西尾由佳理も)、「ズームイン!!朝!(SUPER)の司会者は“フリーへの道”である」とも言われた。
また、司会の3人はそれぞれ『アメリカ横断ウルトラクイズ』と『全国高等学校クイズ選手権』に関係している。現在(2011年 - )の『高校生クイズ』の司会は『ZIP!』の司会の桝太一である。また『ズームイン!!SUPER』の司会の羽鳥は『高校生クイズ』の司会を担当せずに彼の後輩である鈴木崇司(ラルフ鈴木)が担当していた。
司会が休暇の場合は日テレのアナウンサーやネット局のアナウンサーが東京に派遣されての代理司会を務めた。徳光の休養時は福留など、福留の休養時は福澤など、そして福澤の休養時は堀敏彦や藤井貴彦などが司会を務めたことがある(福留時代には代理で徳光の司会が復活したこともあった)。番組末期はほとんど札幌テレビの森中慎也が東京での代理司会に定着していた。
マイスタを基点とせず、日本各地の中継先からの司会を行う場合もあった。
アシスタント(末期のみ)
松本志のぶ(月 - 水)
鈴木君枝(木・金)
お天気キャスター
- 和田より子(現:山岡依子・フリーアナウンサー)
- 小池由紀子
- 秋山沙織
山王丸和恵(1993年 - 1996年)
古市幸子(1996年 - 1998年)
延友陽子(1998年 - 2000年)
斉藤まりあ(2000年 - 番組終了まで)
中継キャスター・アナウンサー
中継時(コーナーの担当時)、画面右上に中継地と放送局名が常に表示されていた。
当初は中継地にあたる箇所には、中継先を問わず局舎所在地が入っていたが、後に「東京・日本テレビ」・「北海道・札幌テレビ」・「静岡・静岡第一テレビ」・「愛知・中京テレビ」・「大阪・よみうりテレビ」・「福岡・福岡放送」というように、中継地の都道府県名と放送局名へと変更された。このような表示は、全国各地の中継を目玉とするこの番組の大きな特徴であった。この方式は、24時間テレビ 「愛は地球を救う」初期の各局リレー中継でも踏襲された。
通常は中継地と放送局のエリアは一致するのだが、ごくまれに放送局のエリア外を担当することもあった[13]。なお、当番組の中継キャスターのなかには、同じ日本テレビ制作の、『ザ・トップテン→歌のトップテン』の中継リポーターも兼任していたキャスターもいた。(例:青森放送・大友寿郎、広島テレビ・脇田義信、西日本放送・植松おさみ等)
『ズームイン!!SUPER』に出演のキャスターについては当該項目を参照。
※印のキャスターは『ズムサタ』にも出演。
札幌テレビ(STV)[14]- (男性アナ)笹原嘉弘→吉住秀和→春日和彦→木村洋二→※森中慎也、萩原隆雄
- (女性アナ)権田裕子→石田久美子→橋本登代子→今中麻貴(現:フリー)→※内山佳子
- (男性アナ)笹原嘉弘→吉住秀和→春日和彦→木村洋二→※森中慎也、萩原隆雄
青森放送(RAB)
鈴木伸夫→米澤章子→浜舘明→窪寺美穂子→大友寿郎→青山良平→秋山博子
テレビ岩手(TVI)
高橋佳代子(現:フリー)→柴柳二郎→平井直子→藤村恵一
ミヤギテレビ(MMT)
賈穆琳→加賀谷牧子→日高充(現:テレビ東京)→小松久美恵→盛朋子→水本豊
秋田放送(ABS)
井関裕貴→原志保→村野涼子→柳本雪絵
山形放送(YBC)
芳賀道也→佐伯敏光→門田和弘
福島中央テレビ(FCT)
佐貫洋一(現:テレビ埼玉)→上野孝志→佐貫・遠藤美智恵→宗方和子→菅佐原隆幸→小柳たまゆ→三富健也→中川久美→徳光雅英
- 日本テレビ(NTV)
- ※魁三太郎、戸澤真帆(元:テレビ宮崎)、※伊藤奈穂子(元:テレビ新潟)、堀敏彦(現:テレビ新潟)、伊藤克信、藤井恒久、戸川健司、高野美緒、和田より子(現:山岡依子フリー)
山梨放送(YBS)[15]
伊藤英敏→小田切めぐみ→平賀正友→大柴堅志[16]→細野俊晴(現:静岡第一テレビ)→佐藤和子→櫻井和明→村瀬寛美(現:名古屋テレビ)
テレビ新潟(TeNY、1997年12月まではTNN)
小林美樹(元歌手)→小幡章→峰剛一(現:フリー)→須山司→小紫真由美(現:フリー)→鈴木えーもん
テレビ信州(TSB)
今村正大→新見宏司→今村満里→伊東かなえ→伊東陽司→杉江奏子
静岡第一テレビ(SDT)[17][18]
若月雄介→北嶋興→※森きく子・山本貴久子→橋本恵子→竹内朱実→秋元啓二
北日本放送(KNB)
鞍田朝夫→川崎光子→相本芳彦・小野原里佳→数家直樹・湊晃(金沢情報)→金田亜由美→村上由美→陸田陽子→小林淳子
テレビ金沢(KTK)
塚田誉(元:テレビ宮崎)→平体好孝
福井放送(FBC)
小林逸雄→清田精二→森本茂樹→伊藤裕樹
中京テレビ(CTV)[19][20]
西山幸子(一般の主婦)→きくち教児→きくち・肥後まゆみ→きくち・田中千寿江[21]→きくち・佐藤啓→佐藤・※大藤晋司(現:テレビ北海道)→佐藤・大藤・※本田恵美→佐藤・本田・板谷学(現:制作部)→佐藤・本田
よみうりテレビ(YTV)[22]
小林大作→小林・辛坊治郎→辛坊・森武史→森・萩原章嘉→森・脇浜紀子・三浦隆志→脇浜・三浦・野村明大→脇浜・野村→※村上順子・※国木田かっぱ・中元綾子・鳥羽美音子(イレコミ情報)→三浦・村上・国木田
日本海テレビ(NKT)[23]
宮川敬学(天徳寺住職)→尾崎真美→福浜隆宏→朝倉浩之
広島テレビ(HTV)
脇田義信・長藤光成→脇田・安井万美子(現:フリー)→脇田・田坂るり・藤村直己→田坂・藤村→田坂・長野正実・※井ノ口あさ子→田坂・井ノ口
山口放送(KRY)
勝津正男→藤井達也→水田薫→瀬川嘉→高島由美→高橋裕
四国放送(JRT)
保岡栄二[24]
西日本放送(RNC)[25]
植松おさみ(香川担当、現:フリー)・広田恭子→植松・佐々井栄子(岡山担当)→山崎達也(現:岡山本社報道部記者)→日野真→山崎(香川担当)・岸猛(岡山担当)→山崎・山口喜久一郎(現:テレビ西日本(こちらはフジテレビ系))
南海放送(RNB)
山下泰則[26]→寺尾英子
高知放送(RKC)
浜田容助→石田佳世
福岡放送(FBS)[27]
安田栗之助→古賀ゆきひと[28]→古賀・堤信子(現・フリー)→※舘恭子・今泉清保(フリーを経て現:青森テレビ)→舘・今泉・加茂川里美(現:フリー)→舘・今泉・中村明美→舘・今泉・浜崎正樹→舘・浜崎・※奥田美香子→浜崎・奥田
テレビ長崎(KTN) ⇒ 長崎国際テレビ(NIB)[29]
橋口泰介→浦里和弘→松永友幸[30] ⇒ 藤村幸司(現:フリー)→島田啓子
くまもと県民テレビ(KKT)
沼川浩子[31]→中村真弓→本橋馨→高橋久美子→佐藤良諭→久保里美→吉永真樹
テレビ大分(TOS)
柴田岸雄→後藤真弓→畠山のりえ→小笠原正典
鹿児島テレビ(KTS) ⇒ 鹿児島読売テレビ(KYT)
小澤一彦(現:テレビ静岡)→加茂川里美[32]→崎島誠 ⇒ 長島崇彦→糸永直美(現:広島テレビ)→今井智久→近藤久美子
沖縄[33]- ※川満聡
- ※川満聡
ニューヨーク
- イエーガー(杉山)由美子→山本智寿子→上地ゆり子→松尾直子→今井晶子
- イエーガー(杉山)由美子→山本智寿子→上地ゆり子→松尾直子→今井晶子
ロサンゼルス
- 浜田ふみ子
香港
田野中陽子→佐保暢子
台湾
- 石田麻美
お天気コーナー
天気予報のコーナーは当初、徳光の歌う「天気予報の歌」に合わせて天気予報を放送していたが、放送開始から2〜3年した頃、アメリカでは天気予報がウェザーショーとしてショーアップしてきている事に着眼したプロデューサー(仁科俊介)とディレクター(斉藤太朗)がコーナーを一新し、以下の項目に重点を絞った天気予報コーナーを作った。
- 視覚的にわかりやすい巨大な温度計を使用(視聴者が一番知りたい寒暖などの情報を一瞬で伝える)し、全国各地の中継先から天気予報の概要を伝え、それをリレー形式でつなげる。
- 東京においてもマイスタから外に出る(天気予報をスタジオの外から送る)。
なお、番組中使用していた大型温度計はあくまでも演出上の物であり、計測機能のない単なる「温度表示板」であった(温度表示はあらかじめ手動で決めていた)。番組中にその事を明言することは無かったが、強風で温度計が倒れてしまった際に温度がずれてしまったハプニングで、福留が放送中に堂々と手で温度を直している様子が映されたことがあった。
従来の天気予報は、各地の気象観測所を中心とした予報であったが、気象協会から送られてくる情報に加工を施しアバウトな形で伝えることに特化した。日本列島を極めて簡略的に表示した上で主要地のみに天気マークを配置した「きょうの天気」テロップを番組冒頭で用いたり、日本列島上の晴れや雨の場所を大雑把に色分けする形でCGで表示し、それを日中と夕方以降の2パターン用意することで予報推移の概況を伝えた。関東ローカルの天気でも大雑把な天気予報は同じで、関東地方の場合は関東7都県の地図の上に大雑把な色分けの天気分布と同時に関東7都県の降水確率と東京の最高気温が表示される。
主なコーナー
- オープニング・天気リレー
- 番組開始当初は天気リレーがなく、7時の時報とともに番組テーマ曲とオープニング映像のアニメーション[34]を流し、アニメーションの終了とともに総合司会にカメラが切り替わり、朝の挨拶及び話題の後、最初の提供クレジットの直前に「ズームイン!!」の掛け声を行っていた。なおOPには右下に日付が10秒間表示されていた。表示字幕は変わらず使用され、司会者が「おはようございます!」と挨拶をしたところでいれられるようになる。
- 番組開始から数ヵ月後に「ズームイン!!」の掛け声の前に「全国の朝」と題した全国リレーを行っていた(但し中継局キャスターへ呼びかけは総合司会の徳光だった)。
- その後、前述したようにオープニングのスタイルを変更。いわゆるアバンタイトルを取り入れて、7時の時報とともに総合司会の朝の挨拶及び話題の後、カメラに向かって「朝一番は○○(最初の中継地)に向かってズームイン!!」とカメラに向かって指をさし、同時にカメラが総合司会に向けてズームされつつ最初の中継地に画面が切り替わり、最初の中継地の映像とともに番組のタイトルロゴ及びテーマ曲が流れて番組がスタートする形式となった。各中継局は番組テーマ曲に乗せて中継地の様子、天気、番組オリジナル温度計で気温を伝え、次の中継局キャスターへ呼びかけて順次中継をつなぎ、最後は東京(マイスタ前)に戻りお天気キャスターが全国の天気を伝える。その後は再び総合司会にカメラが切り替わり、改めて「ズームイン!!」の掛け声を行い、最初の提供クレジットが入る。総合司会が福留・福澤に代わってもこのスタイルを踏襲、番組の看板コーナーのひとつとなったが、福留時代の途中からは最後に総合司会へ戻さなくなり、全国の天気の最後にお天気キャスターが次のコーナー名を読み上げた後(例:「コマーシャルの後は、『N.S.ヘッドライン』です」)、そのまま最初の提供クレジットに入るようになった。
- 福留時代末期から福澤時代は、最初にヘッドラインニュースを2 - 3本伝えてから挨拶が始まっていた。これは『ジパングあさ6』終了後にステーションブレイクレスで本番組がスタートするようになり(一部地域を除く)『ジパングあさ6』出演者撤収のための時間が必要となったためで、その時間をヘッドラインニュースに充てていた。ただし、大型事件や大災害により番組内容を大幅に変更する際は、オープニングはマイスタ内あるいは現地からの中継となり、アニメーションも廃止、BGMも流さず番組タイトルの表示のみとする。
- タイトルアニメーション・CG
- 1979年 - 1985年
- アニメーション。夜から朝への移り変わりをイメージしたものとなっている。
- 1985年 - 1988年
- ここからアバンタイトルとなり、最初の中継先の映像を背景に「朝」の青文字がズームアップし、次に右下にズームダウン。それと同時に右上から「ズームイン!!」(赤色)と「朝」(紫色)の右側に付帯する「!」(黄色)が表示され、最後にロゴ全体がズームアップされ見切れる。
- 1988年 - 1990年
- 画面左下から「朝」(紫色)の文字が跳ねるように登場し、次に「ズームイン!!」(赤色)と「!」(黄色)が一文字ずつ右上から表示され、最後にロゴ全体がズームアップされ見切れる。
- 1990年 - 1991年
- 「ズームイン!!」(青色)の文字が一字ずつバラバラに表示され集結していき、続いて画面中央右下からズームアップして「朝」(赤色)が表示されたのちに「!」(黄色)が表示、ロゴの色がテーマ曲のメロディに合わせ変化し、最後にロゴ全体がズームアップされ見切れる。
- 1991年 - 1995年
- 画面内にシャボン玉のグラフィックが表示され、それらが一字ずつタイトルロゴに変化する。最後にそれらが1つの大きなシャボン玉となり割れる。ロゴマークとなった際に縁どりがされた時期もある。初期はシャボン玉の色彩が薄かったが、のちに濃くされている。
- 1995年 - 1998年
- 四角形、円形、三角形、太陽、カモメ、波、蜃気楼をイメージしたグラフィックを順に写したのち、タイトルロゴ(「朝」の時計の部分がマスコットである「ズームくん」の顔となっている)が赤色(グラデーションがあり変化し続けている)で集結されるように表示、直後に「ズームイン!!」の部分が横方向に一回転し画面外左側へに飛び出し、右側から元の位置に戻る(飛び出す際にロゴが反転するケースとしないケースの二種類あった。またその際に「朝」が元の時計を模したものに戻る)。最後にロゴを形成していた赤色がそのまま四散し消える。
- 1998年 - 2001年
- 虹をイメージしたグラフィックが画面左右から表示され、それらが輪を形成し右下へ回転しながら泡を表示させつつ消え、その泡がさらに左下から表示された山並みをイメージしたグラフィックと合わさる形で朝焼けとなり、太陽が表示される、その太陽が「朝」のロゴの一部になる午前7時を示すアナログ時計に分針を動かしながら変化し、さらにそれが反転して「朝」のロゴとなり、そして画面左下から「ズームイン!!」、右上から「!」が表示(いずれもオレンジがかった赤色)、最後はロゴの赤色が中央に集結し泡状に四散して消える。
- 1979年 - 1985年
- NSヘッドライン
- 開始当初は報道番組との区切りがあったので『ニュース』という言葉が使えず、その結果このタイトルにした。ニュース映像を使用できない時期もあり、新聞記事を紹介していたこともある。
- 全国各地のローカルニュースを繋ぎあわせて報道した。それらはマイスタでは全く読まず[35]、放送局名または地方名を東京で告げた直後に中継先(事件・事故現場とは限らない)から各放送局のアナウンサーが直接伝える点[36]が番組で最も特徴的な部分であった。
- 福留時代に顕著だった傾向として、項目1つあたりにかける時間が短く、矢継ぎ早に次の項目に移るということがあった。その結果項目数も多く、短時間で情報量の非常に濃いコーナーとなっていた。
- ニュース映像は当初映像素材に番組で使うテロップを付けて流していた。末期になると前夜の『きょうの出来事』や『ニュースプラス1』、約1時間前に放送された『ニュースジパング』からのニュース映像を使い回して放送していたため音声・BGM部分はカットしてキャスター読みにしていた。
- ズバリ!!橋本五郎
- 読売新聞編集委員(当時)の橋本五郎が主に一般紙朝刊紙面を紹介、解説するコーナー。福澤が司会となって登場。
- 橋本が2001年2月に健康面の理由で休業(復帰したのは次番組の為、実質降板となった)後は、日本テレビ報道局の呉文彦が引き継いだ。
- プロ野球いれコミ情報
- コーナータイトルはタカラ(現・タカラトミー)から発売されていた人形型玩具の『プロ野球人形イレコミ君』が由来。コーナー中でもチーム応援用の小道具として必ず使われていた。
- 各局の中継キャスターが全国の局でそれぞれ応援している地元球団のハッピやジャンパーを着て、試合結果などを伝えていた。総合司会が巨人、よみうりテレビが阪神、中京テレビが中日、広島テレビが広島を担当し、関東エリア担当のリポーターである伊藤克信がヤクルトを、魁三太郎が横浜(大洋)の応援役として登場した。回によっては福岡放送がパ・リーグ代表としてダイエー[37]、札幌テレビが巨人(札幌シリーズ時)の結果を伝えることもあった。山口放送の勝津正男リポーターが下関発祥の大洋(横浜)の応援役となったこともあった。
- リポーターと共に各局専属のプロ野球解説者も参加しており、日本テレビからは青田昇、平田翼、須藤豊、吉村禎章、読売テレビからは川藤幸三、掛布雅之、長崎慶一、中京テレビからは富田勝、三沢淳、高橋三千丈、川又米利、広島テレビからは池谷公二郎、小林誠二、福岡放送からは今井雄太郎などが出演していた。
- 胸にはその放送日時点のチームの順位が書かれた名札をつけており、Aクラスのチームは赤色[38]、Bクラスのチームは黒色と分けられていた。
- 各局が情報を伝える時は中継がその局に切り替わっていた。切り替わるとその応援球団に因んだBGM[39]が流れ、試合結果や喜びの声、ぼやき(敗者の主張)などが繰り広げられた。切り替わる際に「ワリコミ情報!」と声が上がることもある。
- 伊藤や魁が乱入し、またネット局からの応援合戦が白熱したところで画面右上に15秒からのカウンターが表示され、0になると「GAME OVER」と表示されコーナーは終了[40]。喧騒の後は一転しておだやかな「朝の詩」が始まる(1994年まで)。
- 東京の総合司会が巨人を応援するので巨人の情報に偏りがちになっていた。なお、総合司会の休養時には日テレの金子茂アナ[41]が巨人を担当していたことが多かったほか、札幌テレビの森中アナ(滋賀県出身で、大の阪神ファン)が代理の場合、読売テレビと共に阪神ニュースを読んでいた。
- 阪神が低迷していた1987年には、負け試合を伝える場合に「なんぎやなぁ」[42]というフレーズを言うのが恒例となり、1987年の流行語大賞銀賞を獲得した[43]。視聴者プレゼントのための「なんぎやなぁステッカー」も作られた。また辛坊治郎・森武史の両アナウンサーは阪神の応援ソング「負ける気せんね」をCD出版し、阪神のコーナー中は森が当番でかつ前日の試合で阪神が勝利した場合にBGMに「負ける気せんね」[44]を、阪神が負けた場合はカップリングの「ハイハイ敗」を流し、それ以外の時は「六甲おろし(立川清登歌唱バージョン)」のインストゥメンタルを流していた。
- 中継リポーターの伊藤と魁をはじめ、中継先から伝えることも多い[45]。
- 巨人以外の球団を担当するリポーター(と解説者)が試合の開催地まで出張することもある。対巨人戦(巨人のホームゲーム)の際に東京のマイスタジオに出張した場合、前日の試合で巨人に勝った場合は巨人担当の総合司会(と巨人担当解説者)をスタジオの隅に追いやって(または追い出して)進行した。ただし、前日に巨人に負けた場合は逆に隅に追いやられるか追い出される[46]。
- 福岡放送のホークス情報はもともと放送時間・曜日がほとんど確保されていなかった。また、セ・リーグの情報に時間を割いた[47]ため、パ・リーグの結果は字幕のみで終了する日が大部分になっていた。
- 魁は大洋時代、「ヒゲクジラ」と称してマスクマン姿でこのコーナーに登場していた[48]が、ヒゲクジラになる前には福留と一緒に巨人の法被を着て応援していた時期も存在した。
- コーナー最後のカウントダウン表示は『ズームイン!!サタデー』の「プロ野球熱ケツ情報」に受け継がれている。この方法は他局にも影響を与えた。
- 時には野球と関係ないことでも「ワリコミ○○情報」として乱入することもあった。その例として1997年10月1日の放送ではこの日、一部が先行開業した北陸新幹線の特集にちなみ、イレコミ情報の最中に堀敏彦アナが、下り始発が軽井沢駅に到着するシーンを「ワリコミ新幹線情報」と叫んで割り込んだことがあった[49]。被害を受けたのは阪神の情報を途中で切られた読売テレビであったほか、その後の中京テレビでは佐藤が「新幹線はあさま、ドラゴンズは山本昌」と便乗しながら叫んで割り込んだ。
- 1993年ごろから「いれコミ感動大賞!」と称して、番組独自の月間MVPをチームごとに選出し、受賞選手にトロフィーを贈呈していた。選考基準は記録よりも目に見えない活躍をするなど、ファンに感動を与えたかどうかが重要視された。当時「感動大賞」のフレーズは斬新だったため、他のスペシャル番組などがタイトルに「○○感動大賞」と銘打つなど影響を与えた。
- 番宣などで芸能人らがマイスタから出演するときは、ひいきチームの応援役として登場することもあった。
- コーナー開始時のテーマ曲で最も長く使われたのは、テレビアニメ「マシンロボ クロノスの大逆襲」の挿入歌「戦え!バイカンフー!」である(前奏~曲の最後の部分につなぐアレンジが施されていた)。
- Jリーグおまかせ情報
- プロ野球イレコミ情報とは異なり中継は結ばず、東京のマイスタから試合結果を伝えた。
- 集英社の雑誌です
- 当日もしくはその週に発売される集英社の雑誌を告知する生コマーシャル。あくまでもコマーシャルなので、番組のコーナーではない。
- 集英社の提供エリアが全国ではなく基幹地域やそれに準ずる一部地域のみだったことから、この枠は(集英社が提供していたエリア以外では)PT枠扱いとされ、該当するエリアではローカルなど別スポンサーのコマーシャルに差し替えられていた。
- 初期の頃は井出ひろし(現:井手らっきょ)や、大川興業などが担当していた。
声優(小粥よう子(現:日比野朱里)、矢尾一樹、関俊彦)やグラビアアイドル、フリーアナウンサーの小野厚徳なども出演した。- 末期の「りぼん」のコマーシャルでは、同誌連載作品で他系列局でアニメとなったものが(『神風怪盗ジャンヌ』『GALS!』)そのまま流れていた。
- 当初はスタジオ内やスタジオ前での生コマーシャルであったが、後に生コマーシャルの形態を用いつつも事前収録されたものや、通常のコマーシャル形態で放送されるものも増えていた。
- 後番組の『ズームイン!!SUPER』でも2001年12月まで集英社は同じ時間帯のスポンサーを継続していた(全国ではなく、基幹地域やそれに準ずる一部地域のみ)。
- Wickyさんのワンポイント英会話
- ウィッキーさん(アントン・ウィッキー)が街角で、通りがかった一般の人と英会話を行うコーナー。通勤途中で時間がなかったり、テレビに映るのを嫌う人が多いため、通りがかりの人を追いかけながら英会話することが多かった。『元気が出るテレビ』の企画にて、ビートたけしが高田純次と一緒に乱入(1988年7月22日放送分)した際は、終始ウィッキーさんの邪魔をしたまま、コーナーの時間切れで「朝の詩」に移ってしまった事もある。
- 朝の詩(ポエム)(1979年3月 - 1994年9月)
花王が提供[50]。番組開始当時は朝の番組に固定スポンサーがつくことはめずらしかったため、ネット局開拓の際にはこのコーナーの存在が大きなセールスポイントになったという。なおこのコーナーは後に名前を変えて放送番組センター供給の番組となった[51]。- 花王自体は当時の前半30分の全国スポンサー枠の筆頭扱いとなっていたが[52]、花王のCMは全てこのコーナーの後に集中させていた。
- テーマ音楽の作曲は、広瀬量平(廣瀬量平)。
- 31分31秒(1985年4月3日 - [53][54]/ズームインズーム/おもしろ発見
- 各局が持ち回りで担当する特集枠。読売テレビのみ地元ローカル枠差し替えの関係上、金曜日しかコーナーを担当できなかった時期がある。
- ニュースチェック⇒ズームイン!!チェック
- 8時前後に放送していたニュースコーナー。末期にはバンヅケと併せて放送。北日本放送で『おはようKNBです』を放送していた頃は、ここで、ローカル枠に飛び降りていた。
- 情報トレイン
- 数ある中継の中心企画。共通のテーマで各局から中継を行う。企画を考えた放送局がホスト局を務め、進行を担当する。当初は8時ジャストにスタートしていたが、時々前後した。天気リレーとともに番組の看板コーナーとなった。
- 『ポーラテレビ小説』をネットしていた系列局は、1984年3月まで8時10分で飛び降りていた。
- エンディング
- 天気リレーのあと、日本テレビの正面玄関前から総合司会が締めくくる。学園祭の告知などでやってきた観客とともにその日の放送が終了する。
- 福澤時代の途中からは天気リレーを廃止かつ観客を原則として入れなくなり、総合司会とお天気キャスターのみで締めることが多くなった。
- この他のコーナー
- 今朝のキーワード
- 朝生リポート⇒きょうの現場
- なるほどエブリデイ
- 見て聞いてホント!
- こだわりの逸品
- 名物・日本の味
- 衛星中継世界は今![55]
- あどべんちゃあレディ[56]
- おはよう新婚さん[57]
- 日本一
細川隆一郎の健康一番!⇒千秋実の健康第一- 花とおじさん[58]
- 日本列島・聞いたら答えて![59]
- 紳助・竜介のOSAKAあっちゃこっちゃ[60]
- 深夜の出来事[61]
シリーズ企画
- 毎年1月1日の元旦は時間を拡大して『新春・ズームイン!!朝!』として放送し、全国の名産品をお年玉として視聴者へプレゼントしていた。なお、クロスネット局や非マストバイ局では途中(大方は8時30分)で飛び降りていた。
- フルネット局でも広島テレビが飛び降りを行う場合があったが、ネット枠の後のCM終了とともに自社の中継地点に切り替えて独自のエンディングの挨拶を行う形を取っていた。
- 1月2日・3日は休止し、曜日配列によって異なるものの、4日以降から年始の放送を本格開始していた。この体制は、現在の「ZIP!」にも引き継がれている。
- 毎年7月1日には富士山の山開きに合わせ、富士山頂からの生中継を特集にして放送した。これは『ズームイン!!SUPER』においても数年間は引き継がれた。
- 毎年8月6日には「8・6特集」として、広島テレビとの二元中継で放送時間すべてを原爆についての特集にあてていた。なお8時からは「NNN報道特別番組」として広島平和記念式典を生中継していたので、厳密には本番組としての放送時間は1時間である。
- 小学生チャレンジランキング大会(通称:チャレラン)
- 年数回、祝日(特に体育の日)などに行われた全国各地の小学校対抗の運動大会。空き缶積み・背中渡り競争・靴とばし・ぞうきんがけリレー・9人10脚等の競技で順位を争い、優勝校を決定した。その日は90分間の放送がまるまる利用され、通常のコーナーを休止して(NSヘッドライン、あるいはプロ野球イレコミ情報だけは放送)大々的に開催された。ネット局同士の連携が高技術の同番組ならではの企画だった。後年、この企画は他局の企画(フジテレビ『FNSの日』や、テレビ朝日『小学生クラス対抗30人31脚』)にも影響を与えたとされる。
- 投稿ビデオ大賞
- 「チャレラン」に代わる企画として登場。視聴者から面白いビデオ募集して、大賞や個人賞等を決定した。審査委員長は鈴木清順(鈴木の代役として村川透が出演したこともある)が務め、『ジパングあさ6』放送終了後居残っていた永井美奈子などが審査員として加わっていた。この企画は『SUPER』やゴールデンタイム枠のスペシャル番組として『SUPER』が終了するまで年数回放送されていた。
- 全国妙なモノ図鑑
- 中京テレビの企画制作で不定期に放送されていた。街で見かける妙な道路標識・看板・建造物などをノンストップで紹介していくもので、テレビ版のVOWのような企画だった。一部の局の担当では事前に収録したものを放送した。
- 路線別鉄道唱歌の旅
- 「情報トレイン」の中で特に人気が高く、後にCD・DVD化されたシリーズであった。初登場は1997年10月14日(鉄道の日)の「鉄道唱歌東海道編」であり、その後各主要路線ごとに放送された。各放送局のアナウンサーが受け持ちエリア別(一例として「東海道編」では新橋からスタートし熱海で日テレからSDT、豊橋でCTV、米原でYTVと沿線の系列各局でリレーされた)に電車に乗って鉄道唱歌にちなんだ場所を巡る。
歴代スタッフ
この節の加筆が望まれています。 |
制作
この節の加筆が望まれています。 |
総監督
斎藤太朗、渥美光三、澤田隆治(東阪企画)、佐藤一
チーフプロデューサー
- 篠崎安雄→室川治久→城朋子
プロデューサー
この節の加筆が望まれています。 |
演出
この節の加筆が望まれています。 |
- 横山正悟、
脚注
^ 『テレビ夢50年』番組編・3(1971 - 1980 日本テレビ50年史編集室 編)p.62
^ “第17回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2014年11月14日閲覧。
^ 1981年3月迄NNSに加盟していた新潟総合テレビは本番組は未ネット。
^ 1982年3月迄NNSに加盟していたテレビ熊本は本番組は未ネット。
^ 「ズームイン」2代目は福留ではなかった…徳光が明かす,デイリースポーツ,2017年3月19日…同日、関西ローカルで放送された『八方★陣内★方正の黄金列伝!』(ゲスト:辛坊、森たけし)より、証言ゲストとしてVTR出演した徳光談。
^ 秋田県では同日にテレビ朝日系列の秋田朝日放送が開局
^ (2018年) 宮川泰『宮川泰 テレビテーマ・ワールド』のアルバム・ノーツ [Booklet]. 日本コロムビア (COCX-40353).
^ 宮川泰 テレビテーマ・ワールド 商品情報 日本コロムビアオフィシャルサイト日本コロムビア、2018年8月27日閲覧。
^ 1981年3月迄NNNに加盟していたNSTは未ネット。
^ 正式にはニュース系列(NNN)のみ(NNSは非加盟)
^ 1982年3月迄NNNに加盟していたTKUは未ネット。
^ 出典、1981年4月6日付南日本新聞。
^ 末期にはあったネット局も開始当時~中期にかけて非ネットだった場合は隣接するネット局が担当していた。石川県における北日本放送や愛媛における西日本放送がそれにあたる。特集企画などで特別に裏送りで中継参加した非ネット局も同様に局名表示があった(例:宮崎・テレビ宮崎)一方、福岡放送や静岡第一テレビのように局全体の不祥事により日本テレビ系列を一旦除名(番組供給関係のNNSのみ除名され、報道関係のNNNには残留)された局は中継担当も外され、福岡の場合は近隣ネット局(熊本県民テレビなど)が、静岡の場合は日本テレビが中継を担当した。報道関連の中継はこれまで通りだがその際の右上のテロップは「福岡」「静岡」となっていた。
^ プロデューサーを工藤浩などが務めた。
^ 日本テレビが中継を担当したこともあり、その時の発局スーパーは「山梨・日本テレビ」
^ 後に参議院選挙に出馬
^ 1999年 - 2001年4月は、CM間引き問題によりNNS除名処分を受け、日本テレビが中継を担当
^ 発局スーパーは「静岡・日本テレビ」。ニュース中継に関してはSDTが担当したが、発局スーパーは「静岡」のみ
^ 番組開始のころは発局スーパーは「名古屋・中京テレビ」、その後は「(中継地の県名)・中京テレビ」となる。
^ 番組初期に板東英二が毎週月曜日に出演し、きくち教児と共に中日ドラゴンズの情報を全国に伝えた。
^ 1990年4月から1991年3月まで1年間出演。後にテレビ西日本のアナウンサーとして『めざましテレビ』の中継コーナー担当を歴任。
^ 番組開始のころは発局スーパーは「大阪・よみうりテレビ」だったが、後に大阪府以外の近畿地方各府県から中継の場合は「(中継地の府県名)・よみうりテレビ」と表示される。
^ 番組開始のころは発局スーパーは「山陰・日本海テレビ」、その後は「(中継地の県名)・日本海テレビ」となる。
^ 番組は終始ネットせず、番組中期より裏送りにて参加。詳しくは『おはようとくしま』参照
^ 初期は番組をネットしていない徳島・愛媛地区の取材も担当。
^ 1992年9月30日(最後の担当は1992年9月17日)まではTBS系『ビッグモーニング』の中継リポーターを務めていた。
^ 佐賀県の取材も担当。
^ NIB開局初日とKYT開局初日の中継リポーターとしても出演。
^ 1990年10月から1991年3月まではFBSが取材を担当。
^ ネット移動後の1998年10月から2001年10月11日まで、フジテレビ系『めざましテレビ』の中継リポーターを担当。
^ KKT退職3日前、実家の火災が原因で死亡。訃報は番組の当日ラストで伝えられた
^ のちにFBSに移籍、東京でフリーアナウンサーとして活動、現在は、KTSに復帰。
^ 日本テレビ那覇支局が中継担当のため当初の発局スーパーは「沖縄・日本テレビ」だったが、後に「沖縄」のみとなる
^ アニメーションは『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』『カリキュラマシーン』のキャラクターデザインを担当した木下蓮三が手がけた
^ ただし経済ニュースや海外ニュース、また著名人の訃報など東京発信となるものが加わる場合があり、それらはマイスタから徳光や福留らが伝えた。
^ 2県に跨るニュースの場合は別々に中継を振る場合と中心となった地域に一括する場合とあった。ただし、重大事件・事故の場合はアナウンサーではなく報道記者が現場から中継したり、その地域のニュースがあっても中継がない場合は東京のキャスターが読む形をとった。
^ 1989年以降。パ・リーグの優勝争いが佳境に入るころや日本シリーズ開催時には出演機会が多かった
^ 途中から首位のみ金色
^ ヤクルト⇒東京音頭、阪神⇒六甲おろし、など
^ GAME OVERの表記と効果音が挿入されたのは福留時代以降。ののしり合いになった場合は、福留がかならず「おにぎやかで恐縮でございました」というフレーズでコーナーをしめていた
^ 代理司会に代わってニュースのみ担当
^ 右手を頭部の後ろに回して左耳をつまむという、財津一郎の「キビシーッ!」と同じポーズを取って言っていた。2011年8月21日の『24時間テレビ』(徳光和夫がマラソンランナーを務めた)で7時過ぎの列島リレーでは久々に森と辛坊が、24年ぶりに「なんぎやなぁ」と言った。
^ “新語・流行語大賞 1987年”. ユーキャン. 2015年3月13日閲覧。
^ 同局を歌った森と辛坊は2010年春改編より読売テレビの朝ワイド番組『朝生ワイドす・またん!』の進行をしている。
^ 中でも伊藤は北関東、魁は南関東のエリアが比較的多かった
^ 読売テレビの場合は関西ローカルパートとのからみから、担当曜日でない方のリポーターが東京出張していた
^ 当時のパ・リーグ球団は関東・関西両圏に集中しており福岡以外の地方局は出番がなかったため。札幌や仙台へのチーム移転は本番組が終了した後である。
^ 1993年からチーム名が「横浜ベイスターズ」に変わった際にもとの名義に戻った。
^ この日の放送は福留が夏休みであったため、堀をメイン司会に長野駅から生放送した
^ 1985年9月までは花王石鹸。花王の社名変更に伴い、同年7月からの3か月間は月のマーク+漢字の花王ロゴがアップで写されていた
^ 後述。コーナー制作はベテランナレーターの羽佐間道夫などが所属しているムーブマンが担当していた
^ 以降の時間はローカルセールスあるいはオールスポット枠
^ 1985年4月3日付け東奥日報・RAB、TVI、STVテレビ欄から。同欄に「新企画31分31秒」と記載ある。
^ 全国を結び、ひとつのテーマに関して掘り下げて特集するコーナー。毎回、1秒前の7時31分30秒にマイスタの副調整室の時計がアップになり、1秒後の「7時31分31秒」になったと同時にコーナータイトルを読んで始まっていた。
^ オープニングでは徳光が、飛んできた地球儀の球をキャッチし、中継地点を指し示していた
^ 一般主婦による海外旅行記
^ 毎回笑福亭仁鶴が京王プラザホテル(地方収録の時もあり)の一室で新婚夫婦とトークを交わしていた。日テレアナウンサーだった松永二三男が夫人と共に出演したこともある
^ キャスターの定位置の横に置いてある、花瓶に飾られた花の特徴を紹介するミニコーナー。もちろん紹介される花は日替わりである
^ 時事問題に関して各地の街頭で、一般の人に直接マイクを向けて意見を聞くコーナー。生放送だった
^ 紳助・竜介が大阪の名所や話題のスポットを紹介。他に「TOKYOあっちゃこっちゃ」「KYOTOあっちゃこっちゃ」もあった
^ 最終版ニュース(当時は『NNNきょうの出来事』)終了から当番組放送までに起きた都内の事件・事故を当時新人だった羽鳥と藤井が担当。
関連項目
アメリカ横断ウルトラクイズ - 『ズームイン!!朝!』の歴代司会者である徳光、福留、福澤が出演(徳光はリポーター、福留と福澤は司会を担当)。
全国高等学校クイズ選手権 - 『ズームイン!!』の歴代司会者である福留、福澤、桝が司会として出演。『ズームイン』担当前の羽鳥も福澤のアシスタントとして番組に携わった。
素人ばかうけビデオ祭り - 素人投稿ビデオ番組で、「投稿ビデオ大賞」審査委員長の鈴木清順も審査員の一人として出演。
オジサンズ11 - 福澤、大桃、西尾を除く『ズームイン!!(ZIP!を除く)』の歴代司会者である徳光、福留、羽鳥が出演(徳光、福留は出演者、羽鳥は司会を担当)。
未来創造堂 - 福留、大桃を除く『ズームイン!!(ZIP!を除く)』の歴代司会者である徳光、福澤、羽鳥、西尾が出演(徳光、福澤、羽鳥はゲストとして出演、西尾は司会を担当)。
人生が変わる1分間の深イイ話 - 2011年12月19日の放送で平日の歴代『ズームイン!!』の歴代男性司会者が出演(徳光、福留、福澤、桝はゲストとして出演、羽鳥は司会を担当)。
横山由依 - 本番組の特集を映画作品にした『夢は牛のお医者さん』(2014年公開)でナレーションを担当。
24時間テレビ 「愛は地球を救う」 - 『ズームイン!!』の歴代司会者である徳光、福留、西尾、羽鳥が総合司会を担当。桝も番組に出演しているほか、ズームインをベースにした全国リレーなどを日曜の朝に行うのが恒例となっている。2017年の第40回・2018年の第41回では歴代男性司会者が生放送で揃って出演した。
外部リンク
- 日本テレビ(日テレ・ホームページ)
日本テレビ系列 平日朝7時台の情報番組枠 | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
NNNおはよう!ニュースワイド | ズームイン!!朝! (1979年3月 - 2001年9月) | ズームイン!!SUPER (2001年10月 - 2011年3月) |
日本テレビ系列 平日朝7:00 - 8:30枠 | ||
NNNおはよう!ニュースワイド ※6:45 - 7:30 おはよう!こどもショー ※7:30 - 8:30 【平日放送廃止、土・日は継続】 | ズームイン!!朝! (1979年3月 - 2001年9月) | ズームイン!!SUPER ※5:30 - 8:30 ↓ 5:30 - 8:00 ↓ 5:20 - 8:00 |
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