オリバー・ハザード・ペリー




























オリバー・ハザード・ペリー
Oliver Hazard Perry

Captain Oliver Hazard Perry, Portrait in oils by Edward L. Mooney.jpg
生誕
1785年8月23日
ロードアイランド州 ニューポート
死没
(1819-08-23) 1819年8月23日(34歳没)
ベネズエラ オリノコ川
所属組織
Seal of the United States Department of the Navy.svgアメリカ海軍
軍歴
1799 -1819
最終階級
海軍代将
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オリバー・ハザード・ペリーOliver Hazard Perry, 1785年8月23日 - 1819年8月23日)はアメリカ海軍の軍人。米英戦争に従軍し、エリー湖の戦いにおいてアメリカ海軍に決定的な勝利をもたらし「エリー湖の英雄」と呼ばれた。




目次






  • 1 経歴


  • 2 栄誉


  • 3 脚注


  • 4 外部リンク





経歴


ペリーは海軍軍人であるクリストファー・レイモンド・ペリー(1760年12月4日 - 1818年6月8日)とサラ・ウォーレス・アレグサンダー(1764年 - 1830年12月4日)の息子であり、末弟は日本の開国をもたらしたマシュー・カルブレース・ペリーである。


ペリーはロードアイランド州ニューポートで育ち、1799年4月7日に海軍兵学校に入学、卒業後は父親のフリゲート、ジェネラル・グリーンに配属となる。彼の初めての戦闘経験は1800年2月9日のハイチであった。


米英戦争中の1813年9月に発生したエリー湖の戦いでは、敵艦を沈めることなく全部拿捕して勝利をおさめ、有名になった。


1819年のベネズエラ遠征で、土着の昆虫による疾病により死去した。


孫に画家ジョン・ラファージの妻マーガレット[1]、その弟に文芸評論家で教師のトーマス ・ サージ ェント ・ ペリー(en:Thomas Sergeant Perry)[2]。トーマスは1898年に慶応義塾大学の英文学教師として来日し、妻で画家のリラ・キャボット・ペリー(en:Lilla Cabot Perry)と3人の娘とともに3年間日本に滞在した[2]。娘のうち三女のアリスは駐日米国大使のジョセフ・グルーの妻として1932年に再来日した[2]



栄誉


アメリカ海軍は、次の艦艇に、彼の名に由来する命名をした。




  • ペリー (ブリッグ) - 1843年建造のブリッグ


  • ペリー (DD-11) - ベインブリッジ級駆逐艦11番艦


  • ペリー (DD-340) - クレムソン級駆逐艦149番艦


  • ペリー (DD-844) - ギアリング級駆逐艦65番艦


  • オリバー・ハザード・ペリー (フリゲート) - オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート1番艦


次に掲げる郡は、彼の名にちなんで命名された。



  • ペンシルベニア州ペリー郡 - 1820年成立

兄弟で海軍提督を務めたにもかかわらず、フリゲートを除いてフルネームでの命名がされていない理由は、オリバーのエリー湖の戦いでの活躍がアメリカの小学校の自国の歴史の教科書に載って一般人にまで広く知られた著名な人物であるのに対し、弟のマシューは鎖国の日本との開国交渉を成功させた実績はあるものの、オリバーのような派手で決定的な功績もなく、オリバーのおまけ程度にしか認識されていなかったためである。アメリカの一般人の会話で単に「ペリー提督」と言う場合のほとんどはオリバーのことである。



脚注


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  1. ^ Margaret Mason LaFargeGeni

  2. ^ abcリラ・キャボット・ペリー 明治の日本を描いた印象派の画家大野順子ロスウェル




外部リンク


  • www.nps.gov



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