平間寺
この項目「平間寺」は加筆依頼に出されており、内容をより充実させるために次の点に関する加筆が求められています。 加筆の要点 - 川崎大師なる通称は、いつ、誰が、何のためにつけたのか (貼付後はWikipedia:加筆依頼のページに依頼内容を記述してください。記述が無いとタグは除去されます) (2015年6月) |
平間寺 | |
---|---|
大本堂 | |
所在地 | 神奈川県川崎市川崎区大師町4-48 |
位置 | 北緯35度32分5.秒 東経139度43分46.秒座標: 北緯35度32分5.秒 東経139度43分46.秒 |
山号 | 金剛山 |
院号 | 金乗院 |
宗旨 | 新義真言宗 |
宗派 | 真言宗智山派 |
寺格 | 大本山 |
本尊 | 弘法大師 |
創建年 | 1128年(大治3年) |
開山 | 尊賢 |
開基 | 平間兼乗 |
正式名 | 金剛山金乗院平間寺[1] |
別称 | 厄除弘法大師または川崎大師[1] |
札所等 | 関東八十八箇所特別霊場 関東三十六不動7番 新四国東国八十八箇所1番 武相不動尊1番 京浜四大本山 |
地図 | |
法人番号 | 6020005007454 |
平間寺(へいけんじ)は、神奈川県川崎市川崎区にある、真言宗智山派の大本山[注釈 1]。1128年(大治3年)建立[2]。川崎大師(かわさきだいし)という通称がある[2]。山号は金剛山。院号は金乗院(きんじょういん)。尊賢(そんけん)を開山、平間兼乗(ひらまかねのり)を開基とする[注釈 2][注釈 3]。2008年(平成20年)時点の貫首は第45世・中興第2世藤田隆乗が務める。
目次
1 概要
2 諸堂・伽藍
3 主な年中行事
4 所在地
5 交通
6 別院
7 施設
8 歴世貫首
9 関連項目
10 脚注
10.1 注釈
10.2 出典
11 外部リンク
概要
平間兼乗は海中へ網を投げ入れたところ、弘法大師の木像を引き揚げた[注釈 4]。兼乗は木像を洗い清め、花を捧げて供養していた。やがて、近くに小堂を構えた[3]。諸国遊化の途中に訪れた高野山の尊賢上人は、弘法大師の木像に纏わる話を聞き、兼乗と力をあわせ、1128年(大治3年)平間寺を建立した。1813年(文化10年)徳川幕府第11代将軍、家斉が訪れた[注釈 5]。当寺への参詣客を輸送する目的で、1899年1月21日(初大師の縁日)に開業した大師電気鉄道は、現在の京浜急行電鉄の基となった。
毎年の正月には初詣の参拝客で大変な賑わいとなる。2012年初詣客は296万人となり、全国3位[4]、神奈川県1位を記録した。
諸堂・伽藍
- 大本堂
1964年(昭和39年)5月落慶。本尊厄除弘法大師を祭る。堂内には稚児大師、救世観音像、不動明王、愛染明王、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅を奉安。毎日、晨朝護摩供から始まり日中も護摩が行われ諸願成就が祈願される。また、勅願寺として大本堂大棟には菊花の紋章が許されている[注釈 6][注釈 7]。
- 大山門
1977年(昭和52年)11月落慶。開創850年記念事業。京都東寺の四天王像を模刻安置。上層部分は経庫になっており、同寺で行われる「写経会」で写経された経文や、奉納された写経が収められている。上層部分に安置されていた薬師如来像は、薬師殿落慶にともない、遷座された。(上層部分は非公開)
- 不動堂
1890年(明治23年)創建。現在の建物は1964年(昭和39年)に再建されたもの。本尊の不動明王は成田山新勝寺の本尊を勧請。関東三十六不動霊場第7番、武相不動霊場第1番札所。
- 不動門
- 戦後、第43世隆超和上により福島県の有縁の地より山門として移設された。現在の大山門建立に伴い不動門として移設。
薬師殿(旧 自動車交通安全祈祷殿)
1963年(昭和38年)12月創建。1970年(昭和45年)11月、現在のインド風の堂宇になる。祈祷殿の中央大塔には法輪が掲げられている。弘法大師、不動明王、般若守護十六善神が奉安されていた。2006年4月29日、大師河原に新祈祷殿が完成移転し、2008年11月「薬師殿」として落慶。
- 中興塔(八角五重塔)
1984年(昭和59年)、弘法大師1150年御遠忌・大開帳記念として落慶。八角形が特徴の堂宇。毎月第一日曜日と21日の縁日に限り内部が拝観できる。二層に恵果和上像、弘法大師像、興教大師像、両界曼荼羅を安置。初層に真言八祖の図像、金剛界五智如来像、地下の大師地区慰霊堂には釈迦如来が奉安されている。
- 経蔵
2004年(平成16年)5月1日落慶。中国最後の木版代大蔵経といわれる、「乾隆版大蔵経」を収蔵、本尊は釈迦如来。天井には仏画家・染川英輔による「飛天」図が荘厳されている。また釈迦如来像正面には巨大な五鈷杵が安置されている。天井画は京浜急行電鉄、扁額と賽銭箱は川崎信用金庫が奉納した。- 経蔵の落慶により、川崎大師には七堂伽藍が整い、戦後復興が完了したとされている。
- 福徳稲荷堂
- 大本堂と不動堂の間に位置する。境内諸堂で唯一、太平洋戦争を潜り抜け残った堂宇。
- 聖徳太子堂
聖徳太子をまつる。
- 清瀧権現堂
- 京都・醍醐寺より勧請した清瀧権現をまつる。
- 鐘楼堂
- 大晦日の除夜法楽のほか、6月10日の時の記念日、8月6日の広島原爆忌、8月9日の長崎原爆忌、8月15日の終戦の日に梵鐘が打たれる。
- 大本坊
- 寺務所。廊下の途中には稚児大師が祀られており、一般信徒でも観ることができる。
- 信徒会館
- 一階ロビーは涅槃図、成道図などのステンドグラスと噴水が設置されている。通称「ステンドホール」と呼ばれる。
- 地下「大講堂」。300名収容のホール。大日如来像を奉安。
- 二階、三階は主に信徒接待等に利用される他、結婚式場がある。
- 中書院
1966年(昭和41年)5月落慶。南側「光聚庵」(崇仁親王妃百合子命名)と北側「心月庵」(茶道裏千家家元汎叟宗室(鵬雲斎)命名)、「静嘉軒」(立礼席)からなる。正月期間中などは、信徒接待にも使用される。
- 金剛閣
- 一階は正月期間中などに、護摩札渡し所となる。二階、三階は主に坊入・信徒接待に使用。
- 護持志納金受付所・お護摩受付所
- 一階ピロティ部分は、護摩札の申し込み受付、志納受付所。二階は篤信信徒接待等の応接に利用される。
- 清浄光院
- 檀徒菩提所。一般の信徒は立ち入りができない箇所となっている。
- 遍路大師像
弘法大師の立像。菅笠・錫杖という遊行・遍路姿をとる像の周囲に新四国八十八ヶ所札所の石柱が立ち、開設当時の貫首が四国遍路をした際の砂が埋納されている。
- 降魔成道釈迦如来像
釈迦如来の坐像。鶴の池に隣接する形でまつられている。降魔印という印相を結んでいる。胎内には印度大菩提会を通じて請来された「真身仏舎利」が奉安されている。
- 「祈りと平和」の像
- 像全体は金色。中央は富士山の上に光臨した観音をモチーフとした女神、周囲は鹿野苑で楽器を奏でる天女。中央の女神が「祈り」、周囲の天女が「平和」を表している。文化勲章受章者の円鍔勝三の作品。
主な年中行事
- 1月
- 1日 - 元朝大護摩供
- 第二月曜日-成人式法楽
- 21日 - 初大師
- 2月
- 3日 - 節分会・豆まき式、星まつり
- 3月
- 18日〜24日 - 御影供まつり
- 21日 - 正御影供
- 4月
- 21日 - 大般若経転読会
- 5月
- 10年に1度、大開帳奉修が行われ、赤札が授与される。前回は2014年(平成26年)5月に行われ、次は2024年の予定。(時期、期間は未定。)
- 7月
- 中旬 - 風鈴市 (20日 踊り練り込み 曲はやくよけ風鈴市音頭 風鈴市祝い唄)
- 8月
- 20日21日22日-夏期講座(信徒・著名人・教学研究所教授らが講師)
- 12月
- 8日 - 成道会
- 21日 - 納めの大師
- 大晦日 - 除夜法楽
所在地
〒210-8521 神奈川県川崎市川崎区大師町4番48号
交通
京急大師線川崎大師駅から徒歩5分- 京急大師線東門前駅から徒歩10分
川崎鶴見臨港バス大師(川崎大師駅)から徒歩5分
- 初詣シーズンには、JR川崎駅より直行バスも運行
アクアライン高速バス川崎~木更津線は1月1日から1月21日まで産業道路上の川崎市バス・臨港バス日出町停留所に臨時停留所「川崎大師東口」を設置。
別院
薬研堀不動院 (東京別院・東京都中央区東日本橋)…目黒不動・目白不動とならび称される江戸三大不動の一つ。諸縁により現在は当院の別院となっている。- 笠原寺 (京都別院・京都市山科区大宅岩屋殿)
施設
- 川崎大師教学研究所
- 1972年(昭和47年)に設立。
- 川崎市川崎区東門前1-9-9。
- 自動車交通安全祈祷殿
2005年4月29日落慶。本尊弘法大師像は前日に遷座された。同様に不動明王、般若守護十六善神も遷座された。新たに金剛界・胎蔵界の両部曼荼羅が奉安された。国道409号線沿いにあり、駐車場が併設されている。建物の意匠は旧来のものを踏襲。大きさは約2.7倍。- 川崎市川崎区大師河原1-1-1
- 大師幼稚園
- 川崎市川崎区東門前1-4-9
歴世貫首
世 | 貫首 | 没年 |
---|---|---|
開山 | 尊賢[2] | 1143年(康治2年) |
第2世 | 賢忍 | 1146年(久安2年) |
第3世 | 尊賀 | 1186年(文治2年) |
第4世 | 尊祐 | 1206年(建永元年) |
第5世 | 祐賢 | 1234年(文暦元年) |
第6世 | 賢眞 | 1279年(弘安2年) |
第7世 | 實賢 | 1281年(弘安4年) |
第8世 | 尊順 | 1353年(文和2年) |
第9世 | 賢順 | 1318年(文保2年) |
第10世 | 尊如 | 1339年(暦応2年) |
第11世 | 賢如 | 1353年(文和2年) |
第12世 | 順俊 | 1377年(永和3年) |
第13世 | 俊如 | 1425年(応永3年) |
第14世 | 俊賢 | 1414年(応永21年) |
第15世 | 賢空 | 1423年(応永30年) |
第16世 | 空保 | 1461年(寛正2年) |
第17世 | 空尊 | 1470年(文明2年) |
第18世 | 尊慶 | 1517年(永正14年) |
第19世 | 尊乗 | 1530年(享禄3年) |
第20世 | 尊榮 | 1553年(天文22年) |
第21世 | 尊知 | 1564年(永禄7年) |
第22世 | 尊喜 | 1584年(天正12年) |
第23世 | 尊秀 | 1593年(文禄2年) |
第24世 | 秀賢 | 1614年(慶長19年) |
第25世 | 乗印 | 1709年(宝永6年) |
第26世 | 乗榮 | 1682年(天和2年) |
第27世 | 乗順 | 1703年(元禄16年) |
第28世 | 乗賢 | 1741年(寛保元年) |
第29世 | 如實 | 1763年(宝暦13年) |
第30世 | 實嚴 | 1769年(明和6年) |
第31世 | 普照 | 1772年(明和9年) |
第32世 | 辨隆 | 1789年(寛政元年) |
第33世 | 隆範 | 1810年(文化7年) |
第34世 | 隆圓 | 1813年(文化10年) |
第35世 | 鳥養隆盛 | 1865年(慶応元年) |
第36世 | 隆純 | 1847年(弘化4年) |
第37世 | 隆珊 | 1879年(明治12年) |
第38世・総本山44世 | 佐伯隆基 | 1897年(明治30年) |
第39世 | 深瀬隆健 | 1913年(大正2年) |
第40世 | 佐伯隆範 | 1905年(明治38年) |
第41世 | 佐伯隆運 | 1923年(大正12年) |
第42世 | 高橋隆中 | 1926年(大正15年) |
第43世 | 高橋隆超 | 1948年(昭和23年) |
第44世・中興第1世 | 髙橋隆天 | 2006年(平成18年) |
[注釈 8]
関連項目
- 厄年
夜光 - 祀られている弘法大師像が発見された場所。
北の湖敏満 - 大相撲力士(第55代横綱、第9・12代日本相撲協会理事長)。平間寺に墓所がある[5]。
脚注
注釈
^ 多摩川下流六郷川の右岸に位置し、地名を大師河原といった。創建の頃、木像大師の出現した土地を世人が称した。『厄除大師平間寺縁起』(平間寺出版部、1934年、p.1、p.7)
^ 尊賢は、京都の生まれ。新義真言宗の開祖興教大師と同学。弟の娘は中納言藤原長実に仕え、また美福門院の乳母であった。1128年(大治3年)4月、平間兼乗宅に宿泊した際、木像引き揚げの因縁を耳にし、一寺を創立するにいたった。『厄除大師平間寺縁起』(平間寺出版部、1934年、p.7)
^ 源義家配下の武士平間兼豊、兼乗父子は、後三年の役に功のあった武勇の人であったが、讒訴にあい尾張にあった領地を失い諸州を流浪し漁業で生計を立てていた。兼豊没後、兼乗はなおも漁業を続けた。寺創建ののち、1134年(長承3年)冤罪を晴らし、尾張の本領を回復した。帰任するに当り、与えられた俸禄の半分をさいて寺封として残した。『厄除大師平間寺縁起』(平間寺出版部、1934年、pp.2-4、pp.7-8)
^ 齢42歳の頃であった。兼乗が漁をする海上に、夜な夜な光明を放つ場所があった。或る夜兼乗の夢に一人の高僧が現れ、「私は日本国真言開宗の大師である。むかし大唐に暮らしていたとき、厄除けの自像を刻んで海中に流し、末代有縁の衆生を救おうという大誓願を起こした。今おまえは三宝を篤く信念している。だから、海上の光明があるあたりに投網して、その像を引き揚げて家に安置し、さらに信仰を怠らなければ、おまえの今の厄は速やかに消滅し、来世にはきっと兜率天に往生することだろう。おまえはこの像に宿縁があるのだ。ゆめゆめ疑ってはならない。」と告げた。夜明け前舟を出し、像を引き揚げた。『厄除大師平間寺縁起』(平間寺出版部、1934年、pp.4-6)
^ 『新編武蔵風土記稿』(昌平坂学問所地理局、1830年)や『平間寺史』(平間寺出版部、1934年)には、(六郷筋への)御成にあたって御膳所(休憩所)となったとのみ記されている。
^ 尊賢上人は、平間寺を勅願寺に選んでもらおうと思い立ち上京。じきに美福門院に謁見を許された。美福門院はのちに近衛天皇となる皇子を出産したあと、鳥羽上皇に奏上しこれにより平間寺は勅願寺に列せられた。『厄除大師平間寺縁起』(平間寺出版部、1934年、pp.8-9)
^ 第33世隆範阿闍梨が貫首であった時に寺格を改め、醍醐三宝院宮の院家を兼帯して、菊桐の紋章を佩びることを許された。『厄除大師平間寺縁起』(平間寺出版部、1934年、pp.9-10)
^ 各没年は、『平間寺史』(平間寺出版部、1934年、pp.10-13)掲載の「法系相承」を参照。
出典
- ^ ab“川崎大師について”. 川崎大師平間寺. 2015年12月6日閲覧。
- ^ abc“かわさき区の宝物シート 川崎大師平間寺 (PDF)”. 川崎区. 2015年12月6日閲覧。
^ 『厄除大師平間寺縁起』(平間寺出版部、1934年、p.6)
^
“おすすめ初詣スポット”. Shobunsha Publications, Inc.. 2013年11月20日閲覧。
^ “北の湖前理事長一周忌、10月2日に川崎大師で 三回忌には銅像建立も”. スポーツ報知. 報知新聞社. (2016年9月8日). http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20160908-OHT1T50026.html 2016年11月4日閲覧。
外部リンク
- 真言宗智山派大本山金剛山金乗院平間寺 川崎大師
- 川崎大師ナビゲーション
- 子供と行く川崎大師ガイド
|