イスタンブール













































































イスタンブール
İstanbul

イスタンブールの風景
イスタンブールの風景
位置

イスタンブールとイスタンブール県の位置の位置図
イスタンブールとイスタンブール県の位置

の位置図

座標 : 北緯41度0分44.06秒 東経28度58分33.66秒 / 北緯41.0122389度 東経28.9760167度 / 41.0122389; 28.9760167
行政



トルコの旗 トルコ
 県

イスタンブール県
 市

イスタンブール
市長
Kadir Topbaş
(公正発展党)
地理

面積
 
  市域
5,343 km2 (2,063 mi2)

標高
100 m (328 ft)
人口

人口
(2013年現在)
  市域
14,160,467[1]
    人口密度
  2,725人/km2
  備考
[2]
その他

等時帯

極東ヨーロッパ時間 (UTC+3)
郵便番号
34010 - 34850(ヨーロッパ側)
80000 - 81800(アジア側)
市外局番
(+90) 212(ヨーロッパ側)
(+90) 216(アジア側)
ナンバープレート
34

公式ウェブサイト : http://english.istanbul.gov.tr/(英文)

イスタンブール(トルコ語: İstanbul [isˈtanbul]、英語: Istanbul [ˌɪstænˈbuːl]、ラテン語: Constantinopolis コーンスタンティーノポリス、ギリシア語: Κωνσταντινούπολις コーンスタンティヌーポリス /現代ギリシア語 Κωνσταντινούπολι コンスタンディヌーポリ)は、トルコ最大の都市であり、経済・文化・歴史の中心地。トルコ語の発音に準じて「イスタンブル」と表記される場合もある。




目次






  • 1 概要


  • 2 呼称


    • 2.1 リゴス


    • 2.2 ビュザンティオン


    • 2.3 アウグスタ・アントニーナ


    • 2.4 新ローマ


    • 2.5 コンスタンティノープル


    • 2.6 他のビザンティンの名称


    • 2.7 イスタンブール・コスタンティニエ


    • 2.8 スタンボウル


    • 2.9 イスラームボル


    • 2.10 他のオスマンでの名称


    • 2.11 古ノルド語


    • 2.12 スラヴ諸語


    • 2.13 ペルシャ語・ウルドゥー語・アラビア語


    • 2.14 ヘブライ語




  • 3 歴史


    • 3.1 コンスタンティノープルの興亡


    • 3.2 オスマン朝の時代


    • 3.3 20世紀以降から現代




  • 4 地理


    • 4.1 気候




  • 5 都市景観


    • 5.1 建築物




  • 6 行政


  • 7 統計


    • 7.1 宗教・民族




  • 8 経済


    • 8.1 金融


    • 8.2 工業


    • 8.3 観光




  • 9 文化


    • 9.1 美術館・博物館


    • 9.2 映画


    • 9.3 イベント


    • 9.4 レジャー・エンターテイメント




  • 10 スポーツ


  • 11 メディア


    • 11.1 新聞


    • 11.2 ラジオ


    • 11.3 テレビ




  • 12 教育


  • 13 公共サービス


  • 14 交通


    • 14.1 道路


    • 14.2 公共交通


    • 14.3 水運


    • 14.4 鉄道


    • 14.5 長距離バス


    • 14.6 空港




  • 15 姉妹都市


  • 16 関連項目


  • 17 注釈


  • 18 脚注


    • 18.1 脚注関連文献




  • 19 外部リンク





概要


イスタンブールの人口は1,410万人を擁しバルカン半島では最大、ヨーロッパでも最大規模の都市圏 (enの一つで、イスタンブール市域の人口は世界の大都市の市域人口の上位に含まれている[2][3][4]
イスタンブールはトルコに16ある大都市自治体(英語版)[5](トルコ語: Büyükşehir, Anakent)の1つで 5,343km2 (2,063 sq mi) の広大なエリアはイスタンブール県と同一の広がりを持ち、イスタンブールは同県の県都である[注釈 1]。同都市はトルコ北西部に位置し、マルマラ海と黒海を結ぶ世界でも最も混雑する航路の一つであるボスポラス海峡を挟んで大陸間に跨った都市である。市域はボスポラス海峡を挟んで東のアジア(アナトリア半島)側と西のヨーロッパ(トラキア地方)側両方に拡がり、西側の市域は金角湾で南北に分かれる[6]。2大陸にまたがる大都市であり、アジアの最も西にある都市でもある[7]。商業や歴史の中心はヨーロッパ側に広がり、住民の3分の1はアジア側に居住している[8]


サライブルヌ(英語版)の岬に紀元前660年にビュザンティオンとして創建され、現在では歴史上最も重要な都市の一つとしてイスタンブールは知られている。330年にコンスタンティノープルとして再建されて以降およそ16世紀の間、ローマ帝国(330年 - 395年)、ビザンティン(395年 - 1204年、1261年 - 1453年)、ラテン帝国(1204年 - 1261年)、オスマン帝国(1453年 - 1922年) と4つの帝国の首都であった[9][10]。1453年にオスマン帝国により都市が征服されコンスタンティノープルの陥落が起こる以前のローマやビザンティンの時代はキリスト教発展の要であったが、征服後はイスラームの中心やオスマンのカリフの中心に変わった[11]。1923年にトルコ共和国がアンカラを新しい首都に制定したが、宮殿や帝国のモスクは今でもイスタンブールの丘に見ることが出来、イスタンブールの以前の中心的な役割を想起させる遺産となっている。イスタンブールは歴史上重要なシルクロードに沿った戦略的な場所に位置する[12]。ヨーロッパ=アナトリア間の鉄道網(オリエンタル鉄道・トルコ国鉄)と黒海・地中海を結ぶ唯一の航路がイスタンブールで交わっている。アナトリア中から移住者がイスタンブールやその周辺に集まって居住地が広まり、1950年代以来人口は10倍に増加している[13][14]。20世紀後半には芸術祭が確立し、その間にインフラが改善され複合的な交通網が整備されていった。


欧州文化首都であった2010年にはイスタンブールに約700万人の海外からの観光客が訪れ、世界で10番目に最もポピュラーな観光地であった[15]。イスタンブールの最大の呼び物は今でも残されている歴史の中心で、部分的にユネスコの世界遺産に登録されているが、文化やエンタテインメントの中心は市内の天然の良港であるベイオール(英語版)地区の金角湾周辺に見られる。イスタンブールは世界都市と見なされ[16]、多くのトルコの企業やメディアの拠点があり、トルコの国内総生産の4分の1以上を占めている[17]
アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界25位の都市と評価された[18]。新しい活力と急速な経済成長にオリンピックを利用することを希望しイスタンブールは2020年夏季オリンピックの招致活動 (enを行っていた[19]



呼称


古代のビュザンティオン(ビザンティオン)、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と同じ街である[20]。最初に知られている都市の名称はビュザンティオン(ギリシア語 Byzántion)またはビザンティウム(ラテン語 Byzantium)でこの名称は紀元前660年頃に植民都市を創建したビザス(英語版)の名が元になっている[注釈 2][26]。コンスタンティヌス1世の後、新しいローマ帝国の東の首都を330年に創建し都市は「コンスタンティヌスの都市」を意味するコンスタンティノポリス Constantinopolis(コンスタンティノープル Constantinople)と名付けられ、広く知られる名称となった。ギリシア語では現在、Κωνσταντινούπολη (コンスタンディヌーポリ)と呼ばれている。ラテン語由来の名であるコンスタンティノポリスに基くが、綴りに若干の変化があり、読みも現代ギリシャ語のものとなっている。コンスタンティヌスは「新ローマ」を意味する Nea Roma の名称を広めようとしたが、これは広く使われることはなかった[27]


コンスタンティノープルの名称は西洋ではトルコ共和国が建国されるまで最も広く使われた名称で、オスマン語ではコスタンティニイェ Kostantiniyye (قسطنطينيه) といい、オスマン支配期に主に使われた名称である。それにも関わらずオスマン時代の都市を言い表す時、コンスタンティノープル Constantinople を使うことは今では歴史的には間違っていなくても政治的には正しくないとトルコ人により見なされている[28]。19世紀には都市の名称は外国人やトルコ人のいずれかによりいくつかのものが使われていた。ヨーロッパ人はコンスタンティノープルを市内全てを対象として言い表すのに使っていたが、スタンブール Stamboul の名はトルコ人により使われており、金角湾とマルマラ海の間の城壁で囲まれた半島を言い表していた[28]。ペラ Pera(ギリシャ語では「横切って」などの意味)は金角湾とボスポラス海峡の間を言い表すのに使われていたがトルコ人はベイオール(英語版)を使っており今日でも使われている[29]
「イスラムの街」や「イスラムで満たされた」を意味するイスラムボル Islambol は時折イスタンブールを表す口語として使われオスマンが硬貨の一部にも刻印されているが[30]、これが現代の名称であるイスタンブールの前の名称であることは誤りで、イスラムボルの以前から存在しており、オスマンやムスリムにより都市が攻略される以前から用いられていた[26]
イスタンブール İstanbulトルコ語発音: [isˈtanbuɫ] 口語では [ɯsˈtambuɫ])の語源は一説に中世ギリシャ語(英語版)の表現である "εἰς τὴν Πόλιν"(発音 [is tin ˈpolin])からで「都市で」や「都市に」を意味する[9]。これは当時、イスタンブール周辺部では唯一の大都市の地位を反映し、現代の人々が近くの都市の中心を「都心」"the City"と称するのと同じである。他のものではコンスタンティノープル Constantinople から進化し第一音節と第三音節が省略されたと言う見方もある[26]


現代のトルコ語ではイスタンブールの表記は İstanbul でドットが付いたİが使われ、トルコ語のアルファベット(英語版)ではドットの有無が区別される。また英語では第一音節の (Is) に強勢が置かれるが、トルコ語では第二音節の (tan) に置かれる[31]
イスタンブール İstanbul は単独の都市の名称として1930年に公式に採用された[32][33]。イスタンブール出身者は İstanbullu(複数では İstanbullular)だが英語ではイスタンブライト Istanbulite が使われている[34]



リゴス


ガイウス・プリニウス・セクンドゥスによれば、ビュザンティオンの最初の名称はリゴス Lygos であったとされる[35]。これはおそらく、半島近くの後に都市となる場所に位置したトラキア人の集落の名称かもしれない。(サライブルヌ(英語版)[36]



ビュザンティオン



ビュザンティオン Byzantion (Βυζάντιον)、ラテン語化された名称ではビザンティウム Byzantium は紀元前667年にメガラからの入植者により創建された。名称自体はトラキア人かイリュリア人に由来すると考えられ、ギリシャ人の入植よりも前に遡る[36]。おそらく、トラキア人かイリュリア人の個人名であったビュザス(英語版)Byzasから来ており[37]:352ff、古代ギリシャの伝説ではメガラの入植者のリーダーで都市の名称の由来で創建者である伝説上の王を示している。ずっと後にはビュザンティオン Byzantium の名称は、西洋ではその首都であった東ローマ帝国を言い表す名称として一般化した。この使い方を取り入れたのはドイツ人の歴史家ヒエロニュムス・ウルフ(英語版)で帝国が消滅した1世紀後のことである。帝国が存在した期間、ビュザンティオンの使われ方は帝国そのものよりも街自体に限られていた。



アウグスタ・アントニーナ


アウグスタ・アントニーナ Augusta Antonina の名称は3世紀の短期間、街の名称として使われていた。この名称はローマ皇帝セプティミウス・セウェルス(統治:193年 - 211年)により、息子(次代皇帝)のマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサル(カラカラ)に因んで命名されている[38]



新ローマ


コンスタンティヌス1世は330年5月11日に新しいローマ帝国の東の首都を創建する前に、ローマを部分的に手本とし街を根本的に建て直すとてつもないスケールの大きな建設計画を着手した。この期間の名称には新や第二のローマを意味する ἡ Νέα, δευτέρα Ῥώμη[39]やローマを愛するAlma Roma  Ἄλμα Ῥώμα, Βυζαντιάς Ῥώμη, ἑῴα Ῥώμη、東のローマ、ローマ・コンスタンティノポリターナなどがあった[37]:354


新ローマの用法はギリシャ人の作家により使われた時には元のローマとのライバル関係を強調する特に東西教会の分裂の文脈に向いて行った。新ローマは今でも公式にコンスタンディヌーポリ総主教庁の肩書きの一部である[40]



コンスタンティノープル



コンスタンティノープル Constantinople(コンスタンティヌスの都市)の名称はコンスタンティヌス1世の名誉からすぐにより広く知られるようになった。ギリシャ語の語形では Κωνσταντινούπολις、ラテン語の語形では Constantinopolis であった。最初に公式に使われたのはテオドシウス2世(統治:408年 - 450年)統治下であったことが実証されている[38]。主要な公式名称としてビザンティン時代を通して残り、20世紀初期まで西洋では一般的な名称として使われていた。コスタンティニエ Kostantiniyye の異なった形も含めオスマン帝国でもトルコ共和国の出現まで使われていた[41]



他のビザンティンの名称


コンスタンティノープル Constantinople の他にもビザンティンは幅広い名誉ある名称で呼ばれ、「都市の女王」(Βασιλὶς τῶν πόλεων) と呼ばれることもあった。しかし、一般的な話し言葉では最も広く使われる言い方は単に都市や都会を意味するポリス ἡ Πόλις(現代のギリシャ語ではη Πόλη)である。この使われ方は今日でも口語のギリシャ語やアルメニア語(Պոլիս、西アルメニア方言でボリス)の語法で後のトルコ名であるイスタンブールの元の一つでもある。



イスタンブール・コスタンティニエ


現代のトルコ語の名称はイスタンブール İstanbul発音 [isˈtanbuɫ])であるが、これは10世紀以来のものでトルコの典拠によれば表現の幅があるが最初にアルメニア語やアラビア語で実証されている。これはギリシャ語の語形 "εις την Πόλιν" または "στην Πόλη" [istimbolin]「街へ」、「街で」[42]、"εἰς τὴν Πόλιν", "(eis) stin poli"(エス・テン・ポリン「都市に、町へ」)から取られ[9]、それ故これを基本にギリシャ語の用法では単に「都市」や「街」と呼んでいる。冠詞の一部分や他の接辞のギリシャ語の地名への結合はオスマン期以前では一般的なもので、ナヴァリノの代わりにアヴァリノ[43]、サティネスの代わりアティネスなどがある[44]
似たような例には現代のトルコの地名でギリシャ語由来のものにはイズミットなどがあり、初期にはイズニクミット İznikmit でニコメディアから、イズニクはギリシャのニカエア Nicaea、サムスン (s'Amison = "se + Amisos")、İstanköy はギリシャの島コス島などがある。語頭のiの起こりはこれらの名称の古いギリシャ語の語形の一部を is- と一緒に反映しているか、部分的に第二の音挿入により、トルコ語の音素配列構造を成している。İstanbul は1453年の征服前でさえ普通の話し言葉では一般的な名称であったが、オスマンの当局はコスタンティニエ Kostantiniyye など他の名称の公式の使用を特定の状況で好んでいた。故に Kostantiniyye は硬貨の鋳造に17世紀後半使われ、19世紀に再び使われている。


コスタンティニエ Kostantiniyye(アラビア語: القسطنطينيةal-Qusṭanṭiniyah クスタンティニーヤ、オスマン語: قسطنطينيه Kostantiniyye コスタンティニエ)の名称はイスラム世界で知られるようになった名称である。トルコ人に先立ってコンスタンティノポリスに接触したイスラム教徒たちの書いた史料では、9世紀にはこの街の名称であった。これは、アラビア語のコンスタンティノープル Constantinople の語形の翻訳借用でギリシャ語要素の -polis の代わりにアラビア語で「-の場所」を意味する語を最後に当てている。オスマンにより攻略された1453年以降、オスマン帝国では一番使われた公式名称で[45]、帝国が崩壊する1923年までのほとんどの期間使われていた。しかしながら、いくつかの時期にオスマンの権力者は他の名称を好んだ。オスマンの役所や裁判所では Kostantiniyyebe-Makam-ı Darü's-Saltanat-ı Kostantiniyyetü'l-Mahrusâtü'l-Mahmiyye のような正式な文書で元の場所を表現する複雑なやり方の一部として使っていた[46]。19世紀、トルコの本の印刷では外国でコンスタンティノープルを使うのとは対照的に使われていたが、同時期にイスタンブールは公用語の一部としてオスマンの軍隊の高官 (İstanbul ağası) や都市の身分の高い行政官 (İstanbul efendisi) の肩書きの一部に使われていた[47]
イスタンブール İstanbul や同じ名称の他のいくつかの異なった表現の名称も幅広くオスマンの文学や詩で使われた[38]


1923年のトルコ共和国の建国後はイスタンブール以外の別の名称はトルコ語では使われなくなり、1930年3月28日のトルコの郵便法ではトルコ当局は外国人に公式にこれまでの伝統的なトルコ語以外での名称(コンスタンティノープルやツァーリグラードなど)で街を言い表すの止める他、自分たちの言語でもイスタンブールを唯一の都市の名称として取り入れるよう求めた[48]。手紙や小包をイスタンブール "Istanbul" ではなくコンスタンティノープル "Constantinople" で送るとトルコの郵便当局により配達されることはなく、このことは世界的に新しい名称の施策が広まることに貢献した。



スタンボウル


スタンボウル Stamboul やスタンブル Stambul はイスタンブール İstanbul の語形の変わった種類で、イスタンブールのようにそれ自体の語形の頭に i- は無く、中世初期には最初に10世紀のアラビア語の典拠に実証され[49]、アルメニア語では12世紀にはそうであった。いくつかの初期の典拠にはギリシャ語の Poli (n) を元に同様な Bulin の短い表現も単独で前述の文が無く実証されている[50]。この表現は現代のアルメニア語でも生きている。


スタンボウル Stamboul は西洋の言葉でイスタンブールと同様に1930年代の新しいトルコの語形に置き換わるまで使われていた。19世紀から20世紀初期、西ヨーロッパやアメリカの典拠では良くコンスタンティノープル Constantinople は大都市全体を言い表すのに使われていたが、スタンボウル Stamboul は中心部の歴史的な半島部分を言い表すのに用いられ、ビザンティン時代の城壁の内側 (Theodosian) を指していた[51][52]



イスラームボル


イスラームボル Islambol(多くのイスラム)やイスラムブル Islambul(イスラムの発見)はイスタンブール Istanbul へオスマンが1453年に攻略し新しいイスラムのオスマン帝国の首都しての役割を表現するため作られた民間語源の適応であった。イスラーム・ブール(「イスラムの地」という意味)を語源に想定する説もある[53]。最初に実証されたのは攻略直後で、現代の一部の作家たちはメフメト2世自身が付けたものとしている[38]。いくつかの17世紀のオスマンの典拠では、最も目立つものでエヴリヤ・チェレビが、当時の一般的なトルコでの名称として表現している。17世紀から18世紀、これは公式に使われていた。最初に使われた語は "Islambol" でアフメト3世の時代の1703年、貨幣の鋳造に使われた。



他のオスマンでの名称


オスマンと同時代の外国の人々は特に外交書簡でオスマン帝国の政府を特定の敬語で表現し、以下のようなものが含まれていた。




  • Dersaadetدر سعادت『歓喜の門』)


  • Derâliyeدر عاليه『崇高な戸』)Der はペルシャ語で戸に当たる語。


  • Bâb-ı Âlîباب العالی『荘厳な朝廷』)Bab はアラビア語で戸に当たる語。


  • Pâyitahtپایتخت『王座の中心』)ペルシャ語で首都。


  • Asitaneآستانه)ペルシャ語からでスルタンの宮居又はオスマン帝国の中心の意味。(アラビア語: الأستانة)Āstāne-ye Sa‘ādat/Asitane-i Saadet(「幸福の宮居」)


歓喜の門、崇高な戸、荘厳な朝廷は文字通りオスマンのスルタン宮殿であったトプカプ宮殿でそこに位置した朝廷、それ故イギリスのホワイトホールや日本の霞ヶ関のようなオスマン帝国中枢を表す換喩であった。
ビザンティン帝国近隣の多くの人々は「大都市」や「皇帝の都市」、「ローマの首都」と言った概念の表現を使っていた。10世紀から12世紀の間、コンスタンティノープルは世界ではバグダードと並ぶ2つの大都市のうちの1つであった。



古ノルド語


中世のヴァイキングは東ヨーロッパでの拡大を通してヴァリャーグなどでビザンティン帝国との接点があり、古ノルド語ではミクラガルズ Miklagarðrmikill は「大きな」や「偉大な」、garðr は「街」)、後にミクラガード Miklagard を使っていた。今日でもこの語はアイスランド語のミクリガルドゥール Mikligarður やフェロー語のミクラガルドゥール Miklagarður の語に残っている。



スラヴ諸語


スラヴ語派 では皇帝の都を意味するツァリグラド TsarigradCarigrad の名称で呼ばれ、スラヴ語派の単語 tsar はカエサルや君主(王)と grad(都市)から来ている。キリル文字では Царьград で、これはおそらくギリシャ語の「皇帝の街」を意味する Βασιλέως Πόλις (Vasileos Polis) などからの翻訳借用である。この言い方は今でも時折、ブルガリア語で使われ一方でセルビア・クロアチア語やロシア語、マケドニア語では懐古的である。セルビア・クロアチア語ではビザンティンやオスマン帝国の歴史的な首都を言う場合は今でも使われている。スロベニア語では Carigrad が現代の都市の別の名称で使われている。チェコ語など西スラヴ語群ではツァーリフラッド Cařihrad が19世紀まで使われていたが今では稀である。また、スラヴ語派からルーマニア語にツァリグラード Ţarigrad で借用されたが、コンスタンティノープルの方がはるかに広く使われた。



ペルシャ語・ウルドゥー語・アラビア語


クスタンティニーヤ Kustantiniyyah に並んで、ペルシャ語やウルドゥー語、アラビア語など以外にも他のイスラム世界の言語での呼称は Cesar(皇帝)を元にしたものが使われ、ペルシャ語やウルドゥー語では Kayser-i Zemin やアラビア語では民族名のRum(ローマ人)が、「ローマ人の大きな都市」Rūmiyyat al-kubra、「ローマ人の王座」Takht-e Rumがペルシャ語やウルドゥー語では使われたりする[50]



ヘブライ語


ヘブライ語では時折、クシュタンディナ קושטנדינה やクシュタンディナ・ラバティ קושטנדינה רבתי と呼ばれ、文字通り大きなクシュタンディナでまたは略してクシュタ קושטא とも呼ばれ、コンスタンティニエが変化したものである。この使われ方は20世紀初期までユダヤ人の間で一般的であったが現代のイスラエルではこの使われ方はほとんど見られず、ヘブライ語でもトルコ語のイスタンブール איסטנבול が転写されている。



歴史




A stout cylindrical column in a courtyard in front of palatial arches of Islamic style


ビザンティオンのアクロポリスで発見された今でも残っているビザンティオンの円柱。現在はトプカプ宮殿の敷地にある。


21世紀初めに考古学者により発見された紀元前7000年に遡る新石器時代の遺物は、イスタンブールの歴史的な半島には以前考えられていたよりも前のボスポラス海峡が形成される以前から人が住んでいたことを示している[54]
遺物の発見以前はフリギア人を含めトラキア人の部族がサイライブルヌに紀元前6000年後半から住み始めたと言うのが従来の考えである[25]。アジア側の遺物は紀元前4000年に遡る物とされ、カディキョイ地区のフィキルテペ Fikirtepe で発見されている[55]。同じ場所は紀元前1000年初めにはフェニキアの交易地点で、同様に紀元前660年頃に設立されたカルケドンの町があった[注釈 2]


しかしながら、イスタンブールの歴史は一般的に紀元前660年頃[注釈 2]ビザス(英語版)王の下メガラからの入植者が、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に植民都市ビザンティオンを創建した時代に遡る。入植者は金角湾に隣接した初期のトラキア人の居住地であった場所にアクロポリスの建設を進め、生まれたばかりの都市の経済に勢いを与えた[56]。ビザンティオンは紀元前5世紀の変わり目に短期間アケメネス朝の支配を経験するが、ギリシャ人はペルシア戦争で取り戻している[57]。都市の開祖はギリシア神話の海神ポセイドンとケロエッサの間に生まれた子ビザス(英語版)であり、彼は太陽神アポロンの協力を得て彼の名を冠した「ビュザンティオン」を建設したとされ、トラキア人の王による侵略から町を守り、妻ペイダレイアもスキタイの侵攻を防いだとも言われる[6]。ビザンティオンは デロス同盟とその後の第二アテナイ連合(英語版)の一部であったが、紀元前355年についには独立を得ている[58]。長いローマとの同盟関係の後、ビザンティオンは73年に公式にローマ帝国の一部となった[59]。ビザンティオンのローマ皇帝セプティミウス・セウェルスに対抗する敵対者 (enペスケンニウス・ニゲルの支持は大きな代償となり、2年にわたる包囲は都市を荒廃させた。195年に降伏している[60]


それにも関わらず、セウェルスは5年後にビザンティオンの再建を始め都市は回復し多くの取引はそれ以前の繁栄を上回った[61]



コンスタンティノープルの興亡





東ローマ帝国時代のヴァレンス水道橋


コンスタンティヌス1世は324年9月に実質的なローマ帝国全体の皇帝になった[62]。コンスタンティヌスは2ヶ月後に新しいキリスト教の都市にビザンティオンを置き換えるための都市計画を打ち出した。帝国の東の首都として都市は新ローマを意味するネア・ローマ(英語版)Nea Roma と名付けられたが、一番単純なコンスタンティノープルの名称が20世紀まで続いた[63]。6年後の330年5月11日にコンスタンティノープルはついにビザンティン帝国や東ローマ帝国の名称で知られる帝国の首都として宣言された[64]


この遷都にはいくつかの伝説があり、当初コンスタンティヌス1世はトロイに遷都しようと考えていたが夢で神の啓示を受けて変更した、カルケドンを予定し建設工事に取り掛かったが鷲が道具を咥えてビュザンティオンに飛び去った、また夢に現れた老婆が美しい女性に変貌し、このように古い町ビュザンティオンを新生するよう求められたという[65]。また新都の城壁建設にも伝説があり、コンスタンティヌスが自ら槍を手に地面に線を引いて城壁の位置を指示したが、余りにも長く続くので従者が聞くと、コンスタンティヌスは「私の前を歩く御方がお止まりになるまでだ」と答えたという[65]



A crudely drawn map depicting a walled city on a peninsula with a park, a network of roads, and a scattering of buildings

1422年にクリストフォロ・ブオンデルモンティ(英語版)により作られた最古の現存するコンスタンティノープルの地図


コンスタンティノープルの創建はコンスタンティヌスの最も永続的な成果として、ローマの力の東進や街をギリシャ文化やキリスト教の中心にしたことにある[64][66]。多くの教会が街中に建てられ、その中にはアヤソフィアも含まれ、1000年の間世界最大の大聖堂であり続けた[67]
コンスタンティヌスにより着手された他の街の改良にはコンスタンティノープル競馬場の大改修や拡張が含まれ、何万もの観衆を収容し競馬場は市民生活の中心となり、5世紀や6世紀にはニカの乱を含め社会不安の出来事の中心であった[68][69]


コンスタンティノープルの位置はまたその存在が時の試練に耐えることを確実とした。多くの世紀、城壁や海岸により東やイスラムの進軍する侵略者からヨーロッパを守っていた[66]。中世の大部分の間とビザンティン時代の後半、コンスタンティノープルはヨーロッパ大陸最大で最も裕福な都市で、当時の世界最大の都市であった[70][71]
第4回十字軍の後、コンスタンティノープルの衰退が始まり第4回十字軍の間に略奪や占領があった[72]。コンスタンティノープルは後に正教会のビザンティン帝国を置き換えるために、カトリックの十字軍によって作られたラテン帝国の中心となった[73]。しかしながら、ラテン帝国は短命でビザンティン帝国は弱体化しながらも1261年に復活した[74]。コンスタンティノープルの教会や防衛力、基本的な公益事業は荒廃しており[75]、人口は8世紀の50万人から10万人へ減少していた[注釈 3]


アンドロニコス2世によって始められた様々な経済や軍事力の削減などの軍事の政策は、帝国を弱体化させ攻撃に対してより脆弱なままにした[76]


14世紀半ばオスマン朝 (enは小さな町や都市を攻略し、コンスタンティノープルへの供給路を断ちゆっくりと締め付ける戦略を始めた[77]。1453年5月29日に8週間にわたる包囲の後、ついにスルターンのメフメト2世はコンスタンティノープルの陥落[78]の勝者になりオスマン帝国の新しい首都として宣言された。この間、ビザンティン帝国最後の皇帝であったコンスタンティノス11世は殺されている。その後、スルターンはアヤソフィアへ赴きイマームにシャハーダを命じ、壮大な大聖堂は帝国のモスクへと変わった[79]。(トルコやイスラム世界では「イスタンブールの開拓」または「イスタンブールの征服」İstanbul'un Fethi と呼ばれている。)預言者ムハンマドのハディース(言葉)で「コンスタンティンの町」を征服する司令官やその兵士たちが褒められているという伝説があり、歴代のイスラム教司令官がイスタンブールの征服を試みた。674年から678年に、ウマイヤ朝初代のカリフ、ムアーウィヤ時代から[80]1453年にオスマン帝国のメフメト2世までの間、イスラム教司令官により計15回の包囲が行われた。1453年にこの町を征服したオスマン帝国のメフメト2世はただちにエディルネから遷都し、イスタンブールは引き続き東地中海を支配する帝国の首都となった。



オスマン朝の時代




ドルマバフチェ宮殿



A lithograph depicting a building with a complex set of domes, arches, and towers on a deserted street.


スレイマニエ・モスクはミマール・スィナンが携わったイスタンブールのモスクのうちの一つ。


コンスタンティノープルの陥落後、メフメト2世は直ちに街を復興するために試みた。モスクと病院、学校などを組み合わせた複合施設群を設立し、ローマ帝国の引いた水道(ローマ水道)を補修し、後のグランドバザールの前身となる屋根付きバザールを始めとする商業施設を建設して都市インフラを再興した。また、王宮としてトプカプ宮殿の建造を開始している[81]。この宮殿はその後も歴代スルタンによって増築が進められ、19世紀半ばまで王宮として帝国政治の中心となっていた。包囲の間都市から逃れていた人々の帰還を促し、ユダヤ教徒や被征服者のキリスト教徒にズィンミー(公認された異教徒)として一定程度の人権を保障して新都にそのまま住まわせる一方、アナトリア半島の諸都市からムスリム(イスラム教徒)の富裕者を強制的に移住させる政策をとったため、15世紀後半の50年間にイスタンブールは東ローマ帝国の末期には激減していた人口を大きく上回る大都市となった。また、スルターンはヨーロッパ中から首都に人々を招き入れ、オスマン期に持続した国際的な社会を築いている[82]


オスマン朝は急速に街をキリスト教の牙城からイスラーム文化の象徴に変化させた。ワクフは壮大な帝国のモスク、また度々隣接した学校や病院、ハンマムなどの公衆浴場の建設などに資金を供給するため設立された[81]。各街区には君主や大臣などの有力者が設立したモスクが造られ、イスラム都市の伝統に則ったモスクと公共施設が整備された。また、イスラーム教徒による差別と抑圧はあったものの東方正教やアルメニア使徒教会の教会、ユダヤ教のシナゴーグも数多く維持され、ムスリムのトルコ人のみならず、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人、そして西ヨーロッパ諸国からやってきた商人・使節など、様々な人々が住む多文化都市、東西交易の中心都市でもあった。1517年にオスマン家はイスラム帝国の地位を宣言し、イスタンブールは4世紀にわたりオスマンのカリフ(英語版)の首都として続いた[11]
1520-1566年のスレイマン1世の治世の時代、特に偉大な芸術と建築的偉業の時代であった。主要な建築家であったミマール・スィナンは市内のいくつかの象徴的な建築物に携わり、この間オスマンの芸術や陶器、イスラームの書法、オスマンの細密画(英語版)が栄えた[83]。イスタンブールの全人口は18世紀までに57万人に達した[84]。19世紀初めの反乱の時代は進歩的な皇帝であったマフムト2世の高まりに導かれ、政治改革が生じ新しい技術の街への導入が認められ[85] この時代に金角湾に橋が架けられた[86]。1880年代にイスタンブールはヨーロッパの鉄道網と結ばれ[87]、1883年に運行を開始したオリエント急行は、スエズ運河の自由航行に関する条約が締結された1888年にイスタンブールへの直接乗り入れを開始している。これにより、西ヨーロッパとイスタンブールは直接結ばれることとなった[88]。近代的な水道・電気・電話・路面電車などが、オスマン債務管理局を通した公共事業により導入されていった[89]







ガラタ塔の展望台から望むイスタンブール市街の風景。1890年のオスマン帝国末期の写真




20世紀以降から現代


20世紀初め、青年トルコ人革命により廃位されたアブデュルハミト2世や一連の戦争は病んでいる帝国の首都を悩ませた[90]。これらの第一次世界大戦の終わりはイギリスやフランス、イタリアによるコンスタンティノープルの占領(英語版)の結果となった。遂にはオスマン帝国最後の皇帝であったメフメト6世が1922年11月に亡命し、翌年ローザンヌ条約によりコンスタンティノープルの占領は終わり、アンカラのトルコ大国民議会でムスタファ・ケマル・アタテュルクはトルコ共和国の建国を宣言し[91]共和国が認められた[92]。共和国の初期の頃、オスマンの歴史から新しい世俗的な国を遠ざけるためイスタンブールはトルコの首都の選択から外されアンカラが支持された[93]。しかしながら、1940年代後半から1950年代初めにイスタンブールは大きな構造変化を経験し、新しい公共広場や大通り、道路が市内中で建設され、時には歴史的な建築物が犠牲となった[94]。アナトリアの人々が膨張するイスタンブールの郊外に建設された新しい工場の雇用を見付けるため市内に移住したため、1970年代に急増が始まった。都市のこの突然の人口の増大は大規模な住宅開発の需要の要因となり、以前の中心部から離れた村や森はイスタンブールの大都市圏に飲み込まれた[95]



地理




イスタンブール市街の衛星写真。左がヨーロッパ、右がアジアで、両者の間を隔てるのがボスポラス海峡。海峡の南がマルマラ海で、北が黒海。マルマラ海の北岸、ヨーロッパ側に見える三角形の半島がイスタンブール旧市街で、海峡から旧市街に切れ込んだ海が金角湾。この写真から、旧市街から城壁や海を越えて市街地が拡大していることがよく分かる。


イスタンブールはトルコ北西部マルマラ地方に位置し、5,343km2 (2,063 sq mi) の範囲を占めている[注釈 1]。ボスポラス海峡はマルマラ海と黒海を結び市街を歴史や経済の中心であるヨーロッパのトラキア側とアジアのアナトリア側に分けている。さらに市街は金角湾により分けられ、以前のビザンティンやコンスタンティノープルが創建された半島は天然の港に囲まれている。マルマラ海やボスポラス海峡、金角湾の交わる辺りが今日のイスタンブールの中心で数千年の間攻撃から街を守って来ており、まだ街の景観の特徴として良く残されている[66]



A high concentration of fault lines in northwestern Turkey, where the Eurasian and African plates meet; a small number of faults and ridges also appear under the Mediterranean

トルコ西部の断層は丁度、イスタンブールの南西に集中しマルマラ海とエーゲ海の下を通っている。


イスタンブールの市章のモデルにもなっているローマの七丘をモデルとしたイスタンブールの七丘(英語版)は歴史的な半島を特徴付け、それぞれの頂上には帝国のモスクがある。これらの丘の最も東のものはサライブルヌの上のトプカプ宮殿の場所である[100]。金角湾の反対側から上がると、別の円錐の丘で近代的なベイオール地区が位置している。地形のためにベイオールの建物はかつて斜面を保った擁壁の助けを借りて建てられ、道は階段の形で配置された[101]。アジア側に位置するユスキュダルでは地形が徐々にボスポラス海峡沿岸の下方に延びるとともに、同じような丘陵地の特性を示すが、シェムシパシャ Şemsipaşa やアヤズマ Ayazma では景色がより急峻な岬に似ている。イスタンブールで一番海抜が高いのはチャムジャの丘(英語版)Büyük Çamlıca Tepesi で 288meters (945 ft) である[101]


イスタンブールは北アナトリア断層の近くに位置し、アフリカプレートやユーラシアプレートの境界に近い。この断層地帯は北アナトリアからマルマラ海にかけて走り、これは都市の歴史を通していくつかの甚大な震災と関連している。甚大な震災の中には1509年イスタンブール地震(英語版)が含まれこの地震による津波は城壁を超え市街を破壊し、10,000人が犠牲になった。より最近ではイズミット近くを震源とする1999年のイズミット地震で18,000人が犠牲となり、イスタンブール郊外の1,000人も含まれている。イスタンブールの人々はイスタンブールの急速な人口増加に対応するために最近建設された数千の住宅が正しく建設されていない可能性があり、さらに壊滅的な震災が都市で発生することを危惧している[102]。地震学者は2030年までにマグニチュード(モーメントマグニチュード)7.6かより大きな地震がイスタンブールで起こる可能性が60%以上であると言っている[103][104]



気候


イスタンブールの気候は改訂されたケッペンの気候区分によれば地中海性気候 (Csa) と温暖湿潤気候 (Cfa) の境界にあたり、夏の2ヶ月間だけ40mm以下の降水量のため亜熱帯か地中海性の気候か単独で分類されるのが妨げられている[105][106]。しかしながら、広大な市域や多様な地形、海辺の場所などイスタンブールでは微気候(英語版)が見られる。市街の北部は海洋性気候で表されるが (Cfb)、これは黒海からの湿気や比較的高い植生の密度による。市街南部の人口密集地の気候は暖かく、湿度の影響を受けにくい[107]



Skyscrapers, both near and far, soar above a dense layer of fog that keeps the ground hidden from view.


レヴェント(英語版)地区を覆う霧。朝によく発生する。


実際、イスタンブールの気候の顕著な特徴の一つに持続的な高湿度があり、湿度は80%に達しほとんどは朝である[108]。これらの気象条件により霧はごくありふれたもので、市の北側や中心部から離れた場所ではより多い[107]。特に深い霧はボスポラス海峡を含め地域の交通を混乱させ、秋や冬の月に継続的に起こり湿度が高いまま午後まで残る[109][110][111]。高湿度の条件と霧は夏の月の間は昼までに解消されるが、長引いた湿度は夏の高い気温に不快な悪影響を与える[108][112]。夏の数ヶ月間の最高気温の平均は29℃程度で、降雨は珍しく6月から8月にかけて測定可能な降水量は15日程度だけである[113]。しかしながら、低い降水量にもかかわらず夏の月の期間、雷雨は高く集中している[114]
冬のイスタンブールは地中海盆地周辺の他のほとんどの都市と比べると冷涼で最低気温の平均は4-5℃である[113]。黒海からの湖水効果雪はよくあり、予測するのが難しく霧と共に厄介なものになる可能性があり、都市のインフラを混乱させる[115]。春や秋は穏やかであるが、しばしば雨が降ったり変わり易い北西からの冷たい風や南からの暖かい突風で、同じ日に激しい気温変化を引き起こす[112][116]


イスタンブールの年間降雨日は平均で115日で、年間降水量は 852ミリメートル (33.5 in) である[113][117]。極値は最高気温の記録は40.5℃、最低気温の記録は-16.1℃をそれぞれ観測している。1日当たりの降水量の記録は 227ミリメートル (8.9 in) で、1日当たりの降雪量の記録は 80センチメートル (31 in) である[118][119]








































































































































































トルコの旗 トルコ・イスタンブールの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

最高気温記録 °C (°F)
18.3
(64.9)
24.0
(75.2)
26.2
(79.2)
32.9
(91.2)
33.0
(91.4)
40.2
(104.4)
40.5
(104.9)
38.8
(101.8)
33.6
(92.5)
34.2
(93.6)
27.2
(81)
21.2
(70.2)
40.5
(104.9)
平均最高気温 °C (°F)
8.7
(47.7)
9.1
(48.4)
11.2
(52.2)
16.5
(61.7)
21.4
(70.5)
26.0
(78.8)
28.4
(83.1)
28.5
(83.3)
25.0
(77)
20.1
(68.2)
15.3
(59.5)
11.1
(52)
18.4
(65.1)
日平均気温 °C (°F)
5.8
(42.4)
5.9
(42.6)
7.6
(45.7)
12.1
(53.8)
16.7
(62.1)
21.0
(69.8)
23.4
(74.1)
23.6
(74.5)
20.2
(68.4)
16.0
(60.8)
11.9
(53.4)
8.2
(46.8)
14.3
(57.7)
平均最低気温 °C (°F)
2.9
(37.2)
2.8
(37)
3.9
(39)
7.7
(45.9)
12.0
(53.6)
16.0
(60.8)
18.5
(65.3)
18.7
(65.7)
15.5
(59.9)
12.0
(53.6)
8.5
(47.3)
5.3
(41.5)
10.3
(50.5)
最低気温記録 °C (°F)
−10.4
(13.3)
−16.1
(3)
−7.0
(19.4)
−0.6
(30.9)
3.6
(38.5)
8.0
(46.4)
10.5
(50.9)
8.2
(46.8)
5.2
(41.4)
1.0
(33.8)
−4.0
(24.8)
−9.4
(15.1)
−16.1
(3)

降水量 mm (inch)
98.4
(3.874)
80.2
(3.157)
69.9
(2.752)
45.8
(1.803)
36.1
(1.421)
34.0
(1.339)
38.8
(1.528)
47.8
(1.882)
61.4
(2.417)
96.9
(3.815)
110.7
(4.358)
123.9
(4.878)
843.9
(33.224)
平均降水日数
20
17
16
14
12
8
5
6
7
12
16
19
152
平均降雪日数
6
6
3
0
0
0
0
0
0
0
0
4
19
% 湿度
77
75
74
71
72
70
67
68
68
72
74
76
72

出典: 世界気象機関 (国際連合)[120] Devlet Meteoroloji İşleri Genel Müdürlüğü[121] BBC Weather Centre[122]


都市景観


ファティ(英語版)地区はオスマンに征服されるまでガラタのジェノヴァ共和国の要塞がある街全体と一致している。ジェノヴァの要塞は19世紀には街の北側へ市街地を拡大するため大部分が取り壊され、唯一ガラタ塔だけが残っている[123]。ガラタは現在の行政区ではベイオール(英語版)地区に含まれ、タクスィム広場周辺部はイスタンブールの商業や娯楽の中心地となっている[124]


ドルマバフチェ宮殿はオスマン期の統治の中心で、ベイオール北のベシクタシュ地区にある。そこを越えた場所にあるイニョニュ・スタジアムはトルコでは最古のスポーツクラブであるベシクタシュJKが本拠地としている[125]
以前は村であったオルタキョイ(英語版)はベシクタシュ地区内にあり、オルタキョイモスク(英語版)の名称にも含まれボスポラス海峡に沿った第1ボスポラス橋近くに位置する。ボスポラス海峡に岸に沿って並んだ北側のヤリィ(英語版)は豪華なシャレー(英語版)の邸宅は19世紀に貴族やエリート階級の夏の離宮として建てられた[126]。さらに内陸や市内の環状道路の外側にあるレヴェント(英語版)やマスラクはイスタンブールの重要な経済の中心である[127]



Two- and three-story colored houses with docks and balconies, built directly on the edge of the water

もともとはイスタンブールの郊外でヤリィ(英語版)と呼ばれる邸宅がボスポラス海峡沿いに建ち並び、現在ではイスタンブールの高級地区の一部。


オスマン期、ユスキュダルやカドゥキョイはイスタンブールの郊外で、駐屯地や海辺の別荘、庭園がある静かな場所であったが20世紀の後半になるとアジア側も急速な都市化を経験し、市内の他の住宅地区と比較して後に開発されたこの地区はより良いインフラと都市計画に至っている[8]。ボスポラス海峡のアジア側の多くは経済や商業的な中心のヨーロッパ側の郊外として機能し、市内の人口の3分の1を占めるが雇用は4分の1を占めるだけである[8]。20世紀のイスタンブールの急速な成長の結果、市内の相当な部分でゲジェコンドゥ(一夜建て)と呼ばれる不法建築物が構成されている[128]。現在では徐々にいくつかのゲジェコンドゥが占める地区は取り壊され、現代的な大規模住宅群に置き換わって来ている[129]


イスタンブールには他の大都市のように主要な都市公園はないが、多くの緑地が広がっている。ギュルハーネ公園(英語版)ユルドゥズ公園(英語版)はもともとトプカプ宮殿やユルドゥズ宮殿などイスタンブールの2つの宮殿の土地に含まれていたが、トルコ共和国になり初期の10年間で公共の公園に利用されるようになった[130]
フェテヒ・パシャ・コルス(英語版)はアナトリアのボスポラス橋に隣接したユルドゥズ宮殿反対側の丘の斜面に位置している。ヨーロッパ側に沿ったファティ・スルタン・メフメト橋に近いエミルギャン公園(英語版)はもともとはオスマンの指導者の私有地に属しており、47haの公園内には多様な植物があり、2005年以来毎年チューリップ祭が催されている[131]。イスタンブールっ子 Istanbulites に夏の間、ポピュラーな場所にはベオグラードの森(英語版)が含まれ市の北縁の 5,500ヘクタール (14,000エーカー) を占めている。森林はもともとビザンティンやオスマンの時代に市内に水を供給するための貯水池として使われ今でも残っている[132][133]






イスタンブールのスカイライン




建築物




A reddish building topped by a large dome and surrounded by smaller domes and four towers

元々は大聖堂で後にモスクに変わったアヤソフィアは現在は博物館。6世紀に建てられる。


イスタンブールは主としてビザンティンやオスマンの建築物で知られているが、しかしその建物はそれ以前に街を支配した様々な人々や帝国を反映している。例えば、ジェノヴァやローマの建築はイスタンブールではオスマンに相対する物として見ることが出来る。古代のギリシア建築は何も残らなかったが、ローマ建築はより耐久性があることが証明されている。コンスタンティノープル競馬場(ヒッポドローム)からのオベリスクは今でもスルタンアフメト広場で見られ、ヴァレンス水道橋の一部の区間は4世紀後半に建てられたが比較的手付かずでファティ地区の西縁に残っている[134]
コンスタンティヌスの円柱(英語版)は330年に新しいローマ帝国の首都を記すため建てられたが、ヒッポドロームからそう遠くない場所に今でも建っている[134]


初期のビザンティン建築は古典様式のローマのドームやアーチをモデルとし受け継いでいたが、聖セルギウス・バッカス教会(英語版)[要リンク修正](リトルアヤソフィア)ではこれらの要素に改良がなされた。イスタンブールで現存する最古のビザンティン建築は廃墟ではあるけれど後にイムラホルモスクに転換された454年に建てられたストゥディオス修道院(英語版)である[135]。1261年にコンスタンティノープルが奪回されるとビザンティン様式は今でも現存する最も重要なコーラ教会とパンマカリストス教会(英語版)に拡大している。それでも、イスタンブールで最も象徴的なビザンティン様式の建築物の頂点の一つはアヤソフィアで、一番上のドームは直径31mあり[136]、アヤソフィアはモスクに変わる前は1,000年以上にわたり世界最大の大聖堂で、現在では博物館になっている[67]


イスタンブールに現存する最古のオスマン建築にはアナドル・ヒサル(英語版)やルメリ・ヒサルなどの城塞が含まれ、コンスタンティノープルの市街をオスマンが包囲する際の助けとなった[137]。4世紀の間にわたって、オスマンは高くそびえるモスクや華麗な宮殿を建築しいつまでも残るイスタンブールの印象的な街並を作って行った。最大の宮殿であるトプカプ宮殿は内部のバロック様式のハレムから新古典主義建築のエンダルン学校(英語版)(図書館)など多種多様な建築様式が含まれている[138]オスマン帝国のモスク(英語版)にはスルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)やスレイマニエ・モスク、イェニモスク(英語版)が含まれ、これら全ては16世紀から17世紀にオスマン帝国の隆盛期に建てられている。後の世紀、特にタンジマートの改革期にはオスマン様式の建築物はヨーロッパ様式のものに変わっている[139]
イスティクラル通り(英語版)周辺の地区は壮麗なヨーロッパの大使館や新古典様式やネオルネッサンス建築、アール・ヌーヴォー建築の通りで満たされている。ベイオールの建築物は教会や店舗、劇場、公的な建物であるドルマバフチェ宮殿などが含まれる[140]



行政



A map depicting districts, squeezed between two bodies of water; farther districts are very large compared to those clustered in the center.

イスタンブールの市街はボスポラス海峡に沿った中心部から遠くに伸びる。(地図の上部が黒海で下部がマルマラ海)


2004年以来、イスタンブールはトルコでは2つある市域と県域が同一の範囲で広がる都市[141]の1つである[142]。イスタンブールはイスタンブール県の県都と見なされ、イスタンブール大都市自治体(MMI)により統治され39の都市行政区に分けられている[注釈 1]


現在の都市機構は19世紀のタンジマート期の改革に遡り、それ以前はカーディーと大宰相の後援の下、イマームにより都市を率いていた。フランスの都市をモデルに、宗教的な仕組みは市長とイスタンブール中のミレット制の代表者で構成された議会に置き換わった。ベイオールは市内では最初の自らの首長と議会を有する地区であったが、議員はミレットの代表者の代わりに地区に長年住む住民であった。オスマン帝国憲法以後、法律が制定されこの仕組みは市全体に拡大され20のパリの行政区を模範としていたが、1908年まで全ては実行されておらずイスタンブールは9つの地区で構成された行政区として宣言された[143][144]。この仕組みは belediye(自治体)と名称を変えてトルコ共和国建国後も続いたが、1957年にこの自治体は解散した[97][145]。イスタンブールを含めトルコの人口集中地区に隣接した小さな集落は1980年代初期にそれぞれ主要都市に併合され、その結果大都市の自治体となった[146][147]


イスタンブール大都市自治体の意思決定機関は、地区議会から選ばれた議員による市議会である。市議会は予算管理やインフラの維持、博物館や主要な文化センターの監督など市全体の問題を担当している[148]。市政府は「強力な市長と弱い議会」のアプローチの下で運営されるため、議会の指導者、市長は迅速な意思決定を行う権限を有しているがしばしば透明性は犠牲にされる[149]。市議会は大都市行政委員会により助言されるが、委員会もまた自らの意思決定を行う限られた権限を有する[150]。全ての委員会の代表者は市長や議会により任命される[150][151]



A mid-rise glass-paned office building, with an array of Turkish flags in the front.

ファティ地区にある1953年に建てられたイスタンブール市庁舎


一方、地区議会はそれぞれの地区内の廃棄物管理や建設計画に関して主に責任がある。それぞれの地区は独自の予算を有するが、市長には地区の意思決定を再検討する権利がある。区長を含むすべての地区議会の議員の5分の1はそれぞれの地区の代表として市議会の議員として選ばれる[148]。全ての地区議会と市長を含む市議会の議員は5年ごとの選挙により選出される[152]
2004年以来、公正発展党のカディール・トプバシュ(英語版)がイスタンブール市長を務めている[153]


イスタンブール大都市自治体とイスタンブール県は同等の管轄区域を持つが、いくつかの権限は県政府に残されている。イスタンブール大都市自治体に似て、イスタンブール県は政府から任命された知事[154]、民主的に選出された意思決定機関である地方議会と任命された行政委員会がある。自治体レベルで行政委員会が反映され、県行政委員会には、大臣や部門長が含まれ県議会に助言を行っている[151][155]。県行政の役割は学校や住宅、政府の建物、道路の建設や維持、芸術、文化、自然環境保全や推進に限定されている[156]。フセイン・アヴニ・ムトゥル Hüseyin Avni Mutlu は2010年5月以来、イスタンブール県の県知事である[157]



統計

















































































































































人口推移
トルコ共和国建国以前
トルコ共和国建国以後


人口


人口

±%
100
36,000
1924
500,000

361
300,000
1927
680,000
+36.0%
500
400,000
1935
741,000
+9.0%
7th c.
150–350,000
1940
793,000
+8.4%
8th c.
125–500,000
1945
860,000
+8.4%
9th c.
50–250,000
1950
983,000
+14.3%
1000
150–300,000
1955
1,258,000
+28.0%
1100
200,000
1960
1,466,000
+16.5%
1200
150,000
1965
1,742,000
+18.8%

1261
100,000
1970
2,132,000
+22.4%
1350
80,000
1975
2,547,000
+19.5%

1453
45,000
1980
2,772,000
+8.8%
1500
200,000
1985
5,475,000
+97.5%
1550
660,000
1990
7,620,000
+39.2%
1700
700,000
1995
9,260,000
+21.5%
1800
570,000
2000
10,923,000
+18.0%
1850
785,000
2005
12,061,000
+10.4%

1914
1,125,000
2010
13,256,000
+9.9%

Sources: Chandler 1987, Morris 2010, and Turan 2010
Pre-Republic figures estimated[注釈 3]


歴史の大半を通じてイスタンブールは世界の大都市の中に位置付けられてきた。500年までにはコンスタンティノープルはローマを超え40万から50万の人口を擁していた[159]。コンスタンティノープルは歴史的な大都市であるバグダードや長安を押し退け、13世紀までには世界最大の人口を抱える都市に位置していた。世界最大の都市には戻らなかったものの、コンスタンティノープル陥落後も19世紀初めにロンドンが上回るまで、ヨーロッパ最大の都市であった[160]。今日でもモスクワと並びヨーロッパ最大の都市集積を形成している[注釈 4]


トルコの統計機関はイスタンブールの人口は2011年12月31日現在13,483,052人と推計しており、トルコ最大の都市を形成しトルコの全人口の18%を占めている[2]。広大な面積のためイスタンブールは世界の市域人口の順位でトップ5に含まれているがこれは都市圏と同等と考えられ、本来の市街人口は大体15位以下である[3][162]。イスタンブールの人口は年間3.45%増加しており、OECDの78の大都市圏の中でも最も高い位置にある。第二、第三の位置を占めるOECDの大都市圏もイズミルやアンカラなどトルコの都市で、この高い人口増加率はトルコの全国的な都市化を反映している[17]。イスタンブールは特に20世紀後半に急速に成長し、1950年から2000年の間の半世紀に人口は10倍になった[13]。人口の急増は市域の拡大から来ており、特に1980年から1985年にかけては人口は2倍になっている[97]。著しい成長がありそれは未だにあり、大部分は住環境の改善や職を求めるトルコ東部からの移住者により勢いが与えられている。イスタンブールの多くの住民は7つの北部や東部の県を出自としているが、イスタンブールのその人口はそれぞれの地方の人口を超えている。とくにイスタンブールの50万人を数える住民はスィヴァス県やカスタモヌ県の人口を超えている[14]
イスタンブールの人口に占める外国人の割合は僅かで、2007年現在42,228人であった[163]


28%の市民だけが元からのイスタンブールの出身である[164]


イスタンブールの人口密度は2,523人/km2でトルコの人口密度の102人/km2を遥かに超えている[165]。人口密度が高い傾向にあるのは北西部や西部、ヨーロッパ側に位置する南西部の市中心部である。最も人口密度が高いのはアジア側の地区であるユスキュダルである[14]



宗教・民族



A building with six minarets, one central dome, four semi-domes and numerous small domes.


スルタンアフメト・モスクはイスタンブールでは最大で、トルコ政府宗教局(英語版)によりイスラームの祝祭日に祈りが主導される。


イスタンブールは多くの歴史を通じて国際的な都市であったが、オスマン帝国の終わり以来均質化されてきている。それでもトルコの少数民族のほとんどは集中してイスタンブールに残っている。トルコ国内やイスタンブールの大多数の人たちは自分たちをムスリムと見なし、より明確にはスンナ派の信徒である。ほとんどのスンナ派の信徒はハナフィー学派を信奉し、約10%のスンナ派の信徒はシャーフィイー学派を信奉している。450万人のトルコ人の非スンナ派を数え、これらはアレヴィー派である。トルコ国内のアレヴィー派の3分の1はイスタンブールに居住している[164]。スーフィズムのような神秘主義はトルコ共和国の建国後、公式に禁止されたが今でも多数の信者を誇っている[166]



A building with several domes, large and small, in front of a courtyard with a smaller standalone structure


エユップスルタンモスク(英語版)アブ・アイユブ・アル・アンサリ(英語版)の宮殿は巡礼者にはポピュラーな場所[167]


コンスタティノープル総主教は6世紀以来、総主教に定められ、「エキュメニカル総主教」(全地総主教)という称号を持つ3億人の正教会信徒の指導者として広く見なされている[168]。1453年まではアヤソフィアを総主教座としていたが、アヤソフィアがオスマン朝に接収されてモスクとなって以後は、パンマカリストス修道院付属教会(現在のフェティエ・モスク)などを転々としたのち、1601年以降は旧市街北部・フェネル地区の聖ゲオルギオス大聖堂を基盤にしている。19世紀に入るとイスタンブールのキリスト教徒は正教会かアルメニア正教会(非カルケドン派)いずかれの信徒である傾向があった[169]。1923年のトルコとギリシャの住民交換や1942年のヴァルリク・ヴェルギシ(英語版)(富裕税)、1955年のイスタンブール暴動(英語版)など20世紀の多くの出来事により、フェネル(英語版)サムティア(英語版)を中心としていたギリシャ人の人口はかなり減少している。1919年には35万人、1923年には13万も居たイスタンブールのギリシャ人は21世紀初めには3,000人に減少している[170][171]


トルコのアルメニア人(英語版)の人口はアルメニア人虐殺により部分的な減少を見たが、最近のアルメニアからの移民により戻って来ている。1913年には164,000人のアルメニア人がイスタンブールに居たが今日では50,000から70,000人のアルメニア人が居る[172]


最大の少数民族はクルド人コミュニティで、トルコ東部や南東部を元にしている。市内のクルド人の存在はオスマン時代初期に遡るが[173]、イスタンブールへのクルド人の流入は1970年代後半のトルコ・クルド紛争とクルディスタン労働者党により加速し始めている[174]。200万から400万人のクルド人がイスタンブールには居住し、イスタンブールは世界の他のどの都市よりもクルド人が住んでいることを意味している[175][176]


ボラト(英語版)地区はかなりのセファルディムコミュニティが暮らしており、最初に形成されたのはスペイン異端審問の時代に遡る[177]。ロマニオットとアシュケナジムはセファルルディムよりも前にイスタンブールに同様に居住していたが、その割合は減っており今日ではアシュケナジムはイスタンブールのユダヤ人のほんの1%だけである[178][179]。イスラエルへの移住によりユダヤ人の人口は全国的に減少し、1950年の100,000人から2005年には18,000人に減少している。大部分はイスタンブールかイズミルに居住している[180]レヴァンティン(英語版)はオスマン期にガラタに居住したカトリック教徒で、19世紀から20世紀初期のイスタンブールの文化や建築を形作るのに重要な役割を担った。彼らの人口は減っているが今でも少数が市内に残っている[181]



経済



A half dozen skyscrapers interspersed among low- and mid-rises, with open expanse visible in the background

レヴェントのビジネス地区にはイスタンブールの高層ビルが林立する。


2008年現在のイスタンブールのGDPは1,820億ドルで、世界の都市圏の域内総生産では34位に付けている[182]。イスタンブールはトルコ国内のGDPの27%を占め、国内産業労働力の20%が都市に存在する[17][183]。1人当たりのGDPで70%、生産性で50%それぞれ国内平均を上回っており一つには高付加価値に集中した生産活動が要因である。多くの人口とトルコ経済への高い貢献からイスタンブールはトルコの国税の5分の2を担っている[17]。税には30人のイスタンブールを本拠とする億万長者も含まれ、この数は世界の都市で5番目に多い人数である[184]
都市の大きさが想像されるように、イスタンブールではオリーブオイル、タバコ、輸送機器、電機など様々な製品を生産し多様な産業経済を擁している[183]。高付加価値の生産活動への集中があるにも関わらず低付加価値の生産部門もかなりを占め、イスタンブールのGDPに占める割合は26%だが市の合計出荷額の5分の4に相当している[17]。2005年にイスタンブールに本拠地を置く企業の輸出総額は 41,397,000,000ドルで、輸入総額は69,883,000,000ドルであった。これはトルコ全体の合計にそれぞれ輸出で57%、輸入で60%を占めている[185][186]


イスタンブールはトルコでは唯一の資本市場であるイスタンブール証券取引所を有する。もともとは1866年にオスマン証券取引所として設立されたが、その重要性は1930年代の世界大恐慌により減少した。一連のトルコ政府の金融自由化計画により1986年に現在の形で再編成されている[187]。19世紀から20世紀初期の間、ガラタのバンカラル・ジャデッシ(英語版)Bankalar Caddesi(銀行大通り)はオスマン帝国の金融センターでオスマン証券取引所もそこにあった[188]。バンカラル・ジャデッシはイスタンブールの金融地区として1990年代まで続き、トルコのほとんどの銀行は本社をモダンなビジネス中心地区であるレヴェントやマスラクに移転している。1995年にイスタンブール証券取引所は現在のサルイエル(英語版)イスティニエ(英語版)地区に建物を移転している[189]



A large ship passes underneath a suspension bridge and behind a small mosque with two towering minarets.

黒海とマルマラ海を結ぶボスポラス海峡は世界でも繁忙な航路の一つ。左側がボスポラス橋、右側がオルタキョイモスク。


現在、石油が豊富な黒海と地中海を結ぶ唯一の海のルートであるボスポラス海峡は世界でも混雑した航路の1つで、1年間で2億トン以上の原油が通過しており交通量はスエズ運河の3倍に上る[190]。混雑を緩和するため、街のヨーロッパ側に海峡と並行してイスタンブール運河(英語版)と呼ばれる新たな運河を建設することが提案されている[191]


イスタンブールにはハイダルパシャ港(英語版)、アンバルリ港 Ambarlı、ズィーティンブルヌ港 Zeytinburnu の3つの大きな港の他にいくつかの小さな港や石油ターミナルがボスポラス海峡やマルマラ海沿いに立地している[192][193]。ハイダルパシャ港はボスポラス海峡の南東に位置し、2000年代初めまでイスタンブール最大の港であった。ハイダルパシャ港からアンバルリ港へ運営がシフトして以来、ハイダルパシャ港は容量以下で運営され港を閉鎖する計画もある[194]


2007年現在、アンバルリは都心の西端に位置し年間150万TEUの取扱能力があり地中海沿岸では4番目に大きな貨物ターミナル港である。一方のハイダルパシャ港の取扱能力は354,000TEUである[195][196]


ズィーティンブルヌ港は自動車道路やアタテュルク国際空港に近いことから利点があり[197]、都市の長期計画で全てのターミナルと道路、鉄道網との相互の接続性を必要としている[198]


イスタンブールは著名な観光地として観光客数が増加しており、2000年には240万人の外国人観光客が訪れ2010年には700万人の外国人観光客が訪れており世界で10番目に多くの観光客が訪れる都市である[15][199]。イスタンブールはトルコの外国人観光客の4分の1を受け入れ、トルコではアンタルヤに次ぐ国際的なゲートウェイとなっている。イスタンブールの観光業界はヨーロッパ側に集中し、市内の90%以上のホテルはヨーロッパ側に立地している。低中級クラスのホテルはサライブルヌ(英語版)に立地する傾向があり、ハイエンドのホテルは金角湾北側の歓楽街や金融センターに立地する。イスタンブールには70の博物館があるが、もっとも観光客が訪れるのはトプカプ宮殿博物館とアヤソフィアで毎年3,000万ドルの収益をもたらす。市の環境マスタープランでは17の宮殿と64のモスク、49の教会はイスタンブールで歴史的に重要なものであると言及している[200]


所得分配はイスタンブールでは公平ではなく、20%の最高所得層が64%の資産を利用し20%の最低所得層が4%の資産を利用している[201]



金融




バンカラル・カデッシはオスマン期のイスタンブールの金融の中心。右側は1892年に完成したオスマン中央銀行の本店の最初の建物。


イスタンブールは1923年にアンカラが政治的な首都になってからも常に「金融の首都」である。1980年代の特定の市場開放はさらにこの地位を強化した。1986年初め発足したイスタンブール証券取引所(ISE)は普通株、国債、短期国債、収益分配証明書、債券、民営化の管理で発行される債券と社債取引、夜間の業務を行うために設立されたトルコでは唯一の証券取引所である[202]




金融地区のマスラク


1993年にイスタンブール証券取引所は金市場の自由化を決定し、1995年にイスタンブール金取引所が設立されトルコ中央銀行の金塊の輸入独占は終わりを告げ、金取引は民間部門のメンバーに移された[203]
レヴェント、マスラクはトルコの大企業や銀行、世界的な金融部門の巨大企業の地域本部が置かれており、シティバンク、メリルリンチ、JPモルガン、HSBCホールディングス、ABNアムロ銀行、INGグループ、BNPパリバ、ソシエテ・ジェネラル、ウニクレディト、ドイツ銀行、コメルツ銀行などがイスタンブールに拠点を置いており、他の金融機関も多く立地している。レヴァントとマスラクの両地区は絶えず成長しダイナミックなスカイラインに変わり、いくつもの新しい超高層ビル計画が提案され認可されており毎年着手されている。



工業




欧州最大規模のショッピングモールイスタンブール・ジョヴァヒル(英語版)前にある、イスタンブールメトロのシシュリ(英語版)の駅入口


イスタンブールはトルコの産業の中心で、トルコの労働力の20%を雇用し職場の38%を提供している。これに加えて、イスタンブールはトルコの貿易の55%と卸売りの45%を生み出し、GDPの21.2%、税収の40%、工業生産額の27.5%に寄与している。多くのトルコの大きな生産工場はイスタンブールに立地しており、イスタンブールやその周辺部では木綿や果物、オリーブオイル、絹、タバコなど生産されている。食品加工、織物製品、オイル製品、ゴム製品、金属製品、皮革、電機、ガラス、機械、紙や紙製品、アルコール飲料などはイスタンブール市内の主要な工業製品に含まれる。イスタンブールではまた、自動車やトラックの組み立て工場もある。これらの様々な事業は過去にペンキ工場に近かったため悪化した2008年の花火爆発事故のような災害にも見舞われている[204]


医薬産業は1952年にレヴェントにエジザルバシュ医薬品工場が設立され始まった[205]。今日では134の企業がトルコの製薬業界でビジネスを行っており、大部分はイスタンブールかその近郊を基盤としている[206]



観光




マルマラホテルからのタクスィム広場とカンファレンスバレーの眺め。


イスタンブールはトルコでも最も重要な観光スポットの1つである。数千ものホテルや他の旅行者中心の産業がイスタンブールにはあり、観光や業務で訪れる両方の旅行者を満たしている。2006年には23,148,669人がトルコを訪れ、ほとんどはイスタンブールやアンタルヤの空港や港を通り入国している[207]
イスタンブールのアタテュルク国際空港やサビハ・ギョクチェン国際空港を利用しトルコに入国した観光客は2005年の4,849,353人から翌年には5,346,658人に増加している[208]。2011年には急成長しているトルコの観光事業により1,050万人に増加している。2011年のイスタンブールの2つの国際空港は5,000万人以上の旅客を扱っている[209]


イスタンブールはまた世界の主要な会議の目的地の一つであり、世界有数の国際的な団体や機関にとってはますます人気のある選択肢となっている[210]。イスタンブールの会議の魅力は3つに分かれた会議と展示エリアにより発展した。カンファレンス・ヴァレー(イスタンブールコンベンション・エキシビジョンセンター、イスタンブールヒルトン・コンベンション・エキシビジョンセンター、軍事博物館文化センター・ジェマイルレシィトリーコンサートホール)、空港・エキシビジョン地区(150,000m2)、CNR国際博覧センターの周辺の展示スペース)、ビジネス・金融地区(多くの分散型のセンターを含む)がある。これらが集まったエリアは宿泊施設、会議場、展示スペースが結合したのが特徴である。これらは個々にでもイスタンブールメトロの輸送を通じて総合的に使うことも出来、10,000人またはそれ以上の参加者に対応している。



文化



イスタンブールは歴史的に文化的な中心として知られているが、トルコ共和国の中心がアンカラに移ると文化的なシーンは停滞した[211]。新しい政府はトルコ人に音楽の伝統とくにヨーロッパ由来の音楽に適用させようと新しい計画を確立したが、音楽の機関や海外の古典音楽の芸術家は主に新しい首都に集中した[212]。多くのトルコの文化的なシーンはイスタンブールにルーツを持っていたが、文化的な重要性が単にその過去の栄光に基づくだけでない都市として再びグローバルに現れることは1980年代や1990年代までなかった[213]



The facade of a masonry building, with four Greek adorning its entrance, under a clear blue sky


イスタンブール考古学博物館(英語版)は1891年にオスマン・ハムディ・ベイ(英語版)により創設されたトルコ最古の近代博物館[214]



美術館・博物館


19世紀末までにはイスタンブールは都市自体、この地域の芸術の中心としてトルコやヨーロッパ、中東などから街に芸術家を集めていた。アンカラをトルコの文化の中心として作る努力にも関わらず、1970年代までイスタンブールはトルコの主要な芸術関連の機関が置かれていた[215]。さらに、1980年代には大学やアートジャーナルが新たにイスタンブールに創設され、以前はアンカラを拠点としていた芸術家が移って来ている[216]


ベイオールは街の芸術の中心として一変し[217]、若い芸術家や以前は海外に暮らしていた年長のトルコの芸術家が基盤をこの場所に見付けている。イスタンブール現代美術館(英語版)ペラ美術館(英語版)サキプ・サバンジュ美術館(英語版)サントラル・イスタンブール(英語版)などモダンな美術館は2000年代に開館し、展示スペースやオークションハウスは都市の国際的な雰囲気への寄与を引き立てるものになっている[218]
しかし、これらの美術館は未だに歴史的な半島にあるトルコの近代的な博物館の先駆けとなったイスタンブール考古学博物館(英語版)トルコ・イスラーム美術博物館(英語版)ほどの人気は得ていない[200][214]



映画


トルコでの最初の映画上映は少なくとも1896年のユルドゥズ宮殿(英語版)で、パリで技術が公開された丁度1年後であった[219]。映画館はベイオールで急速に現れ始め、今ではイスティクラル通り(英語版)の名で知られる通り沿い映画館は集中していた[220]。トルコの映画産業は1950年代まで発展は無かったが、イスタンブールは初期のトルコの映画(英語版)の中心であった[221]。それ以来、イスタンブールはトルコで最も人気がある映画やドラマ、コメディーの場所である[222]。トルコの映画産業は世紀の後半に強化されるが、それは『ウザク(英語版)』Uzak(2002年)、『私の父と私の息子(英語版)』Babam ve Oğlum(2005年)まで無く、2つの映画はイスタンブールで撮影されトルコ映画は国際的なかなりの成功を見始めた[223]。イスタンブールとその絵のような美しいスカイラインは多くの海外映画の舞台となり、『トプカピ』(1964年)や『007 ワールド・イズ・ノット・イナフ』(1999年)、『ザ・インターネット2』(2006年)、『ミッション・イスタンブール(英語版)』(2008年)などがある[224]



イベント


文化的な再現と同時にイスタンブールでは文化的な催しが創設され、1973年頃からトルコや世界中から様々な芸術が披露し始められた。フラグシップとなるイスタンブール国際映画祭(英語版)イスタンブール国際ジャズフェスティバル(英語版)は1980年代初期から行われている。現在では専ら音楽やダンスだけを中心とした、以前のイスタンブールフェスティバルは1994年以来、イスタンブール国際音楽祭(英語版)として知られている[225]。元のイスタンブールフェスティバルから発展した祭典で最も顕著な催しにはイスタンブール・ビエンナーレ(英語版)があり、1987年以来2年ごとに開催されている。初期の姿はトルコの視覚芸術を披露する目的であったが、国際的なアーティストに開放されて以来、ヴェネツィア・ビエンナーレやサンパウロ・ビエンナーレと並び権威あるビエンナーレとして評価が上がって来ている[226]



レジャー・エンターテイメント



Goods overflow out of storefronts, leaving a narrow passageway where shoppers move about.

グランドバザールは世界最大規模の屋内市場の一つ。


イスタンブールには歴史的なものから現代のものまで多くの商業施設がある。カパル・チャルシュKapalıçarşı(グランドバザール)は1461年以来市場が開かれており、世界最古で最大の屋内市場である[227][228]ムハマトパシャ・チャルシュ(英語版)は青空市でカパル・チャルシュからエジプシャン・バザールにかけ広がっている。エジプシャンバザールは1660年以来、イスタンブールのメジャーな香辛料の市として開かれている。ガレリア・アタキョイ(英語版)はトルコのモダンなショッピングモールの先駆けとして1987年に開業した[229]。それ以来、モールは歴史的な半島の外のメジャーなショッピングセンターになっている。アクメルケズ(英語版)は1995年と1996年に「欧州最高」、「世界最高」のショッピングモールのタイトルをショッピングセンター国際評議会(英語版)より与えられている。イスタンブール・ジョヴァヒル(英語版)は2005年に開業しそれ以来、欧州最大のショッピングモールである。カニヨンショッピングモール(英語版)は2006年に建てられた商業建築カテゴリーで都市景観建築評価賞を獲得している[228]


ニシャンタシュ(英語版)アブディイペクチ通り(英語版)とアナトリア側のバグダード通り(英語版)は高級ショッピング地区へ発展している[230][231]




大晦日のニシャンタシュのデコレーション


典型的なケバブのようなトルコ料理と並んでイスタンブールは、歴史的なシーフードレストランでも有名である。市内の多くの最も評判な店や高級な店はボスポラス海峡の海岸にあり、マルマラ海に沿ったクムカプ(英語版)地区には歩行者ゾーンがあり周辺には約50のレストランがある[232]


イスタンブール中心部から 15kilometers (9 mi) 離れたプリンス諸島(トルコ語版)はシーフードレストランでも人気がある。これらのレストランは車の来ない通りと、静かで穏やかな雰囲気がある歴史的な夏の離宮で、プリンス諸島はイスタンブールっ子や外国人観光客にとっては人気のある観光地である[233]。外国の料理を特徴としたレストランは主にベイオール地区に集中している。イスティクラル通りに沿った、チチェキ・パサジュ(英語版)はワインハウス(メイハネ(英語版)としても知られる。)やパブ、レストランが入っている[234][235]。イスティクラル通り周辺の他のいくつかの地区ではベイオールのナイトライフに応えるため最近では改装され、以前の商店街は現在ではパブやカフェ、生演奏が行われるレストランが林立している[236]。他のイスタンブールのナイトライフの中心的な場所にはニシャンタシュ(英語版)オルタキョイ(英語版)ベベック(英語版)、カドゥキョイなどがある[237]



スポーツ



A stadium with a football pitch and track surrounded by multi-tier seating and covered by a large hanging roof

76,092人の観客を収容可能なアタテュルクオリンピックスタジアムはトルコ最大の多目的スタジアム


イスタンブールにはいくつかのトルコで最も古いスポーツクラブがある。ベシクタシュJKは1903年に創設され、数あるクラブチームの中でも最古のものと考えられている。初期にはトルコで唯一のクラブチームで、時折トルコの代表チームとしてプレーしていた[125]。サッカーのクラブチームは国内の争いでそれぞれの優位な時期を見て来たが[125]、ガラタサライやフェネルバフチェSKは国際大会では善戦し、プロサッカー1部リーグスュペル・リグで最も多くの優勝回数を誇っている[238][239]。ガラタサライとフェネルバフチェSKはボスポラス海峡を挟んで長年にわたりライバル関係にあり、ガラタサライは市内のヨーロッパ側にフェネルバフチェSKはアナトリア側に本拠地を置いている[238]
イスタンブールにはエフェス・ピルゼン S.K.、ベシクタシュJK、フェネルバフチェ・ユルケル、ガラタサライ・メディカルパーク(英語版)の4つのクラブチームがあり、プロバスケットボール1部リーグのターキッシュ・バスケットボール・リーグでプレーしている[240]


イスタンブールには2000年から多くのスポーツ施設が建設されたり改良されており、夏季オリンピックの招致活動が行われている。アタテュルク・オリンピックスタジアムはトルコ最大の多目的スタジアムで、2002年に竣工し国際陸上競技連盟では最上級に分類される陸上競技施設である[241]。スタジアムではUEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝が開催され、イスタンブール・ビュユクシェヒル・ベレディイェ・アンカラスポルのホームフィールドとして残っている。シュクリュ・サラジオウル・スタジアムはフェネルバフチェSKのホームフィールドで、改修工事が竣工した3年後にUEFAチャンピオンズリーグ 2008-09 決勝(英語版)が開催された。2011年にはトルコ・テレコム・アリーナが完成し、ガラタサライのホームであったアリ・サーミ・イェンスタジアム(英語版)から置き換わった[242][243]。3つ全てのスタジアムはUEFAスタジアムカテゴリーでカテゴリー4に分類され、UEFAチャンピオンズリーグを開催するのに適したスタジアムである[注釈 5]



A brightly lit basketball court and game, with spectators filling the surrounding darkened bowl of seats


ウルケルスポーツアリーナ(英語版)は2012年に開業し、バルケットボールやバレーボールのクラブチームであるフェネルバフチェ・ユルケルのホームコート。


スィナン・エルデム・ドームはヨーロッパ最大の屋内アリーナの中に含まれ2010年バスケットボール世界選手権や2012年世界室内陸上競技選手権大会、2011-12ユーロリーグ(英語版)の準決勝が開催されている[247]


2010年にシナン・エルデムドームが完成するまでアブディ・イペクチ・アリーナがイスタンブールの主要な屋内アリーナで2001年バスケットボール男子欧州選手権が開催された[248]。他の屋内アリーナの中には2000年から運営されているBJKアクアトラルアリーナ(英語版)が含まれ、イスタンブールのスポーツクラブのホームコートを提供している。より最近では13,800席を備えるウルケルスポーツアリーナ(英語版)は2012年に開業し、フェネルバフチェ・ユルケルのホームコートにしている[249]。建設ブームにも関わらず、2000、2004、2008、2012年のオリンピック招致やUEFA EURO 2012、UEFA EURO 2016の招致は失敗に終わっている[250]。イスタンブールは、2020年夏季オリンピックに向けて招致活動 (enを行っていた。2013年9月7日に開催都市が発表されたが、決選投票で東京に敗れている[19][251][252]


イスタンブール・パークは2005年に世界ツーリングカー選手権が2006年にル・マン・シリーズが開催されているが、それ以降はどちらも開催されていない[253][254]。2005年から2011年の間、イスタンブール・パークでは毎年開催されるトルコグランプリが行われていたが、資金難から将来の開催は不確実さが残る[255]。イスタンブールセーリングクラブは1952年に創設され、イスタンブールやその周辺の航路で行われるショーケースとなる競技を毎年行っている[256][257]
トルコオフショアレーシングクラブも主要なレースを主催しており、もっとも権威あるレースである海兵隊杯も含まれる[258]。イスタンブールでは時折、F1パワーボート世界選手権も開催され最後に開催されたのは2000年で、ボスポラス海峡で開かれた[259]



メディア



Entrance to an office building with an overhead sign saying 'Hürriyet'

1948年に創刊したHürriyetはトルコで最も読まれている新聞。


ほとんどの国営のラジオ局やテレビ局はアンカラをベースとしているが、イスタンブールはトルコメディアの最も重要なハブである。メディア産業のルーツは、オスマン帝国の首都であった時代の1831年に最初にトルコで発行された新聞であるTakvim-i Vekayi(情勢の暦)にある。ジャガログル(英語版)通りでは新聞が印刷され、バーブ・アーリ通り Bâb-ı Âli は金角湾を越えたベイオールとともに急速にトルコの印刷メディアの中心となった[260]。今日、イスタンブールでは幅広い種類の定期刊行物が発行されている。ほとんどの全国紙はイスタンブールを拠点として、同時にアンカラやイズミル版がある[261]



新聞


イスタンブールを拠点とするザマン新聞(英語版)は1986年の創刊と歴史が浅いが、トルコでは最も広く流通している新聞で週に100万部が発行されている。ポスタ新聞(英語版)、ヒュッリイェト、サバ新聞(英語版)ハバールテュルク(英語版)の各新聞はトルコの5大紙で、それぞれ毎週20万部以上を売り上げている。ヒュッリイェトの英字版であるヒュリットデイリーニュース(英語版)は1961年より発行されていたが、2007年にザマン新聞により発行された英字紙のトゥデイズ・ザマン(英語版)が発行部数で追い抜いた。いくつかの小さな新聞社の中にはイスタンブールを拠点とするミッリイェトやチュムフリエット(英語版)のような人気の発行者も含まれる[261][262]



A four-story, white flat-roofed building with two Turkish flags and a portrait on the exterior

国営の TRT'sの本社。イスタンブールではラジオも放送。



ラジオ


イスタンブールでのラジオ放送の開始は1927年に遡り、最初のラジオ電波の送信はエミノニュ Eminönü の中央郵便局の上から行われた。後の数10年間で設立された他のラジオ局と先の放送の管理は最終的には国営のトルコ国営放送(TRT)の下になり、1964年の設立から1990年までラジオやテレビの放送を独占していた[263]。今日、TRTは4局の国営ラジオ局を運営しこれらの放送局はトルコの人口の90%以上をカバー出来るように全国に送信所を持っている。Radio 2は唯一イスタンブールに拠点を置いており、教育番組からスポーツ競技の放送までをカバーしトルコでは最もポピュラーなラジオ局である[263]。イスタンブールのラジオ放送はトルコでは一番賑やかで主にトルコ語や英語の番組内容を特徴としている。両方の内容を放送する希有な放送局にはアチクラジオ(英語版) (94.9 FM) がある。トルコでは初の民放ラジオ局で初の海外音楽を特徴とする1992年に設立されたメトロFM(英語版) (97.2 FM) も含まれる。国営のRadio 3はアンカラを拠点とするが英語のポップスを特徴とし、NTV Radyo (102.8 FM) は英語のニュース番組を放送している[264]



テレビ


TRT-Children はTRTのテレビ局で唯一、イスタンブールを拠点としている[265]。それにもかかわらず、イスタンブールにはいくつものトルコの放送局や国際的な報道機関の拠点が置かれている。イスタンブールを拠点とするトルコスターテレビ(英語版)はTRTのテレビ放送の独占が終わった後に始めて設立された民放局である。スターテレビと同じくイスタンブールを拠点とするショーテレビ(英語版)は全国的に人気が高いままで、トルコやアメリカのシリーズ物の番組を放送している[266]サマンヨルテレビ(英語版)Kanal D(英語版)トルコATV(英語版)や他のイスタンブールのテレビ局はニュース番組やシリーズ番組の混成で放送される。トルコNTV(アメリカのMSNBCと提携)とSky Turk(英語版)もイスタンブールを拠点とするが、主にトルコを視聴範囲としたニュースを放送している。BBCはイスタンブールに地域事務所を置きトルコ語ニュースの運営を援助しているのに対し、アメリカのニュース専門チャンネルCNNは1999年にトルコ語放送のCNNトルコ(英語版)を1999年に設立した[267]。ビジネスとエンターテイメントのチャンネルであるCNBC-eもイスタンブールを拠点とし、2000年から放送を開始した。



教育



A triumphal arch adjacent to a Turkish flag and in front of an open plaza

イスタンブール大学の入口。市内ではトルコの最古の教育機関


イスタンブール大学は1453年に創設された、市内にある最古のトルコの教育機関である。元はマドラサで、大学には法律、医学、科学部門が19世紀に創設されトルコ共和国が建国されてからは宗教から分離された[268]。イスタンブール工科大学は1773年にオスマン帝国海軍の技術学校として創設されたのが起源で、工科に特化した大学としては世界で3番目に古い大学である[269][270]。これらの公立大学は市内にある8つの内の2つで[271]、他の有名なイスタンブールの国立大学にはミマール・スィナン芸術大学が含まれ1970年代までトルコで最も重要な芸術に関する機関で[215]、マルマラ大学はトルコでは3番目に大きな高等教育機関である[272]イスタンブール文化大学(英語版)は2010年に創設された一番新しい公立大学で、11の学部を通して2年間の学位取得過程を提供している[273]


イスタンブールの著名な大学には政府の支援があるが、市内には多くの著名な私立の機関もある。最初の近代的な私立大学としてロバートカレッジ(英語版)は1863年にアメリカからの団体により設立された。高等教育部門は1971年にボアズィチ大学に移行され、残りの部門はアルナウトゥキョイ Arnavutköy にロバートカレッジの名の下、全寮制学校として残った[274][275]。私立大学はトルコでは公式には1982年のトルコの憲法(英語版)により非合法となったが、1970年当時イスタンブールにあった15の「高校」は事実上の大学であった。イスタンブールで1982年以来、最初の私立大学が設立されたのは1992年のコチ大学(英語版)で他に数十の大学が10年の間に開学している[274]
今日、市内には少なくとも30の私立大学がありイスタンブール商科大学(英語版)カディル・ハス大学(英語版)も含まれる[276]



An ivy-covered neoclassical building atop a hill, with a greenery-adorned walkway leading to its entrance

ボアズィチ大学はアメリカの寄宿学校であったロバートカレッジの高等教育部門が移行したのが始まり。


2007年には約4,350の学校があるが、そのうちの半数は小学校で各校平均688人の生徒が在籍する。近年ではイスタンブールの教育システムは大幅に拡大してきており、2000年から2007年にかけて学級数や教師の数は倍近くに生徒の数は60%以上増加している[277]


ガラタサライ高校(英語版)は1481年にガラタ宮殿帝国学校として設立されたイスタンブールでは最古の高校で、市内でも2番目に古い教育機関である。この学校はバヤズィト2世の命により建てられ、さらなる帝国の成長を強化するための手段として多様な背景を持つ学生を教育しようとした[278]。トルコのアナトリアン高校の1つで、外国語での教育に重点を置くエリート公立高校である。ガラタサライは例えばフランス語で教育が行われ、他のアナトリアン高校はトルコ語と並んで英語やドイツ語で主に授業を行っている[279][280]。市内にはまた、リセオ・イタリアーノ(英語版)など外国の高校もあり、外国人を教育するために19世紀に設立された[281]


イスタンブールの他のいくつかの高校は独自の教育や入学条件を特徴としている。クレリ軍事高校(英語版)はボスポラス海峡の岸に沿ったチェンギャルキョイ(英語版)にあり、トルコ海軍高校(英語版)プリンス諸島(英語版)の1つにありこれらは軍の高校で、トルコ空軍士官学校(英語版)トルコ軍士官学校(英語版)、トルコ海軍士官学校などを補完するものである。他の重要な高校にはダルシュファカ高校(英語版)があり、少なくとも一方の親が居ない全国の子供に無料で教育を行っている。ダルシュファカでは第4学年で英語の授業が始まり、第6学年で第二外国語であるドイツ語とフランス語の授業が始まる[282]。他の市内の有名な高校には1908年に設立されたカブタシュ・エルケクリセ(英語版)[283]や1955年に設立されたカディキョイ・アナドルリセ(英語版)が知られている[284]



公共サービス




シラフタラガ発電所は現在は美術館で、1914年から1952年の間はイスタンブールの唯一の電力源


イスタンブールの最初の水道システムは街の歴史の初期に遡りヴァレンス水道橋のような水道橋により水は当時街の多くの貯水池に蓄えられていた[285]


スレイマン1世の命令によりキクチェシュメ Kırkçeşme 水道網が1563年までに建設され、この水道網は毎日 4,200立方メートルの水を158箇所に送水していた[285]。後には公の要求によって、多くの水源からアフメト3世の泉(英語版)のような公共の泉へ導管を使い送水された[286]。今日のイスタンブールでの塩素処理やろ過した水道水の供給や、下水処理のシステムはイスタンブール上下水道局(İSKİ)により管理されている[287]


シラフタラガ発電所(英語版)Silahtarağa は金角湾沿いの火力発電所で最初の機関室が完成した1914年から1952年までイスタンブールの唯一の電力源であった[288]。トルコ共和国建国後は都市の電力需要の増加に対応し発電所は幾度も施設の改装を受け、1923年の23 MW から1956年にはピークの 120 MW に容量が増加した[288][289]。発電所の容量は次第に減少し、経済的な理由により1983年に閉鎖された[288]。発電と送電を独占する国営のトルコ電力庁(TEK)が1970年から1984年の間設立されていたが、現在ではトルコ発電送電会社(TEAŞ)とトルコ配電会社(TEDAŞ)に分けられ、完全な民営の電力公益事業者である[289]



An arched neoclassical building with hanging banners, with a yellow vehicle parked in front

1909年に遡る現在のイスタンブールの中央郵便局[290]


オスマンの郵便・電信省は1840年に創設され最初の郵便局である帝国の郵便局はイェニモスク(英語版)の中庭近くに開局した。1876年には最初の国際郵便網がイスタンブールと広大なオスマン帝国の領地を超えた間に開設された[291]。皇帝アブデュルメジト1世は1847年にサミュエル・モールスに最初の公式な特許を授与し、最初の電信線がイスタンブールとエディルネの間に建設され1856年のクリミア戦争終戦の通知までには完成している[292]。初期の電話回線はイスタンブールでは1881年頃に出始め、後に最初の手動の電話交換機が1909年にイスタンブールで運用が始まり郵便・電信省は郵便・電信電話省になった[291][293]。イスタンブールの通信インフラはその後、大幅に発達している。GSMの携帯電話網がトルコに到達したのは1994年のことで、イスタンブールは最初にサービスが提供された都市のうちの1つであった[294]。今日、携帯電話と固定電話のサービスは、1995年に郵便・電信電話省からトルコテレコム(英語版)が分離されて2005年に民営化されて以降いくつかの民間事業者により提供されている[291][294]。郵便事業は今も郵便・電信機構の管理下で国営として残っており PTTの頭文字は保っている[291]


2000年にはイスタンブールには137の病院があり、そのうちの100は私立の病院であった[295]。トルコの国民は国営の病院で医療助成が受けることができる[261]。公立病院は混雑しているか遅い状態で、私立の病院は余裕がある人には適している。私立の病院はここ10年ほどで顕著に増加し外来患者の私立病院の利用割合も2005年と2009年を比較すると6%から23%に増加している[261][296]。多くの私立の病院や一部の公立病院はハイテク設備を備えMRIも含みまた医療研究センターと関連付けられている[297]。トルコは他の国よりもより多くのアメリカを基盤とする医療施設認定合同機構の認定を受けた病院があり、ほとんどは大都市に集中している。とくに私立病院の高い質の医療は急増するトルコへの医療観光に貢献し、2007年から2008年に40%増加した[298]。レーザー眼科手術はとくに医療観光の患者の間で広まっており、トルコは手続きで特化していることで知られている[299]



交通




道路





ファーティフ・スルタン・メフメト橋はボスポラス海峡に架かる吊り橋の一つ


イスタンブールの主要な自動車道路にはオトヨル1号線(英語版)(O-1)、オトヨル2号線(英語版)(O-2)、オトヨル3号線(英語版)(O-3)、オトヨル4号線(英語版) (O-4) がある。O-1は街の内側の環状道路を構成しボスポラス橋を渡っており、O-2は街の外側の環状道路で ファーティフ・スルタン・メフメト橋(第二ボスポラス橋)を通っている。O-2はエディルネに続いており、O-4は東側のアンカラへと続いている。O-2、O-3、O-4はつながり合って、ポルトガルからトルコ、イラン国境までの欧州自動車道路E80号線の一部を構成している[300]。2つのボスポラス海峡に架かる橋はトルコのアジア側とヨーロッパ側を結び、2つの橋で毎日40万台もの自動車交通を扱っている[301]。14.6kmの2本で構成されたアブラシャトンネルがクムカピ Kumkapı、ファティヒ Fatih とセリミエ Selimiye、ユスキュダル Üsküdar 間のボスポラス海峡の下で現在建設中である[302]
第3ボスポラス橋(英語版)は1990年代初期に最初に構想されたが、最終的に実現可能であると言うことでプロジェクトが2012年に正式に着手された[303]。これらの新たなトンネルと橋の計画は2015年には完成の見込みである[302][303]



公共交通



A red and silver electrified tram running through a street as a crossing pedestrian waits for it to pass

イスタンブールの近代的なトラム。1872年に登場した馬車軌道からの長い道程がある。


イスタンブールの公共交通網は路面電車、ケーブルカー、地下鉄路線、路線バス、バス・ラピッド・トランジット、フェリーなど複合的なシステムで構成されている。交通機関の運賃は2010年に導入されたICカードシステムであるイスタンブールカルトか以前からの電子チケットデバイスであるアクビル(英語版)に統合され利用されている[304]
イスタンブールの市電(英語版)は馬車軌道であった1872年に遡るが1960年代には最初の電化された市電は廃止されている[305]
イスタンブール市電・チュネル会社(İETT)が運行する市電は1990年代には徐々に復活し、イスタンブールノスタルジックトラム(英語版)や速いトラム路線が導入され、現在では毎日265,000人を運んでいる[305][306]。テュネル Tünel は1875年に開業し、世界ではロンドンのメトロポリタン鉄道に次いで2番目に古い地下式鉄道である[305]。この路線は現在でもカラキョイとイスティクラル通り(英語版)の急な573mの路線を運行しており、よりモダンなケーブル鉄道がタクシム広場とカラキョイの間を2006年から走り始めた[307][308]
イスタンブール地下鉄は5つの路線で構成され、4路線が建設中である[309][310]


イスタンブールの両側の地下鉄は最終的にボスポラス海峡の下を通るマルマライの海底トンネルにより結ばれ、トラキア側とアナトリア側では史上初となる鉄道による接続が2013年に完了した[311]。計画の完了後にはイスタンブールの鉄道のシェアは現在の3.6%から27.7%に増加すると予想され、これは唯一東京やニューヨークに続くものである[312]。それまでは路線バスが市内両サイドの毎日220万人の輸送を担う[313]メトロバス(英語版)はバスの高速輸送網を構成し、ボスポラス橋を横切り専用の車線により目的地まで達している[314]



水運


イスタンブールシーバス(英語版)は旅客船とカーフェリーを組み合わせボスポラス海峡の両岸やさらには北部や黒海などを結ぶ航路を運航している[315][316]。İDOはマルマラ海周辺にも就航地があり、自治体が運営するフェリー運航事業者としては世界最大である[317]。イスタンブールのクルーズ船のターミナルはカラキョイにあるイスタンブール港で1時間に1万人の旅客を扱う容量がある[318]。イスタンブールにやって来るほとんどの人たちは空路だが、約50万人の外国人観光客は海路により街へやって来る[200]



鉄道




シルケジ駅


イスタンブールで国際間の鉄道が開業したのは1889年ことで、ブカレストとシルケジ駅の間でシルケジ駅は遂にはパリからのオリエント急行の東のターミナル駅として有名になった[87]。ブカレストやテッサロニキからの定期列車の運行は2010年初めまで続けられ、前者はマルマライの工事により中断され後者はギリシャ債務危機(英語版)の影響による[319][320]。1908年にハイダルパシャ駅が開業した後は、バグダード鉄道の西のターミナルやヒジャーズ鉄道の延伸に使われた。今日ではどちらの路線もイスタンブールからの直接の運行はない[321][322][323]。アンカラやトルコを横断した他の地点への運行は通常トルコ国鉄により行われているが、マルマライやイスタンブール-アンカラ高速線(英語版)の建設工事のため、2012年2月から一時的に閉鎖されている[324]。マルマライは2013年10月29日に正式に開業し列車の運行が開始された[325]



長距離バス


民間のバス会社は鉄道網によって提供されるサービースを超えて、代わりにより上手く運営されている。イスタンブールの主要バスターミナルはヨーロッパ最大で、毎日15,000台のバスと60万人の旅客を扱いトルコ国内や近隣国をはじめ遠くはフランクフルトまで運行されている[326][327]



空港



An aerial view of an airport with three runways and several taxiways arranged around a terminal

2011年には3,740万人の旅客を扱ったアタテュルク国際空港。イスタンブールのハブ空港


イスタンブールには2つの国際空港があり、そのうちの大きい方であるアタテュルク国際空港は市中心部の西側24kmの場所に位置し2011年には3,740万人の旅客を扱い、ヨーロッパでは8番目、世界では30番目に忙しい空港であった[328]。サビハ・ギョクチェン国際空港は市中心部の南東45kmの場所にあり、2001年にアタテュルク国際空港の混雑緩和のため開港している。格安航空会社が占めており、イスタンブールの第2の空港として特に2009年に新しい国際線ターミナルが開業して以来、急速に旅行者にはポピュラーになって来ている[329]。サビハ・ギョクチェン国際空港は2011年には1,270万人の旅客を扱っており、国際空港評議会は世界で最も急速に成長している空港としている[330][331]。イスタンブールには6本の滑走路と巨大なターミナルを備えた世界最大級の規模となるイスタンブール新空港が黒海沿岸に建設中であり、[332][333]、2018年10月に開港予定である。新空港が開港すると、現在のアタテュルク国際空港は閉鎖される[334]



姉妹都市


イスタンブールは以下の都市と姉妹都市の関係にある[335][336][337]



ヨーロッパ



  • コソボの旗 プリズレン、コソボ


  • アゼルバイジャンの旗 バクー、アゼルバイジャン[337]


  • ギリシャの旗 アテネ、ギリシャ[337]


  • ドイツの旗 ベルリン、ドイツ[338]


  • スペインの旗 バルセロナ、スペイン[339]


  • ハンガリーの旗 ブダペスト、ハンガリー[340]


  • ドイツの旗 ケルン、ドイツ[337]


  • ルーマニアの旗 コンスタンツァ、ルーマニア[337]


  • アルバニアの旗 ドゥラス、アルバニア[337]


  • イタリアの旗 フィレンツェ、イタリア[337]


  • ロシアの旗 カザン、ロシア連邦[337]


  • イギリスの旗 ロンドン、イギリス[337]


  • ウクライナの旗 オデッサ、ウクライナ[337]


  • ブルガリアの旗 プロヴディフ、ブルガリア[337]


  • チェコの旗 プラハ、チェコ[341]


  • オランダの旗 ロッテルダム、オランダ


  • ロシアの旗 サンクトペテルブルク、ロシア (1990)[342]


  • ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 サラエヴォ、ボスニア・ヘルツェゴビナ


  • マケドニア共和国の旗 スコピエ、マケドニア共和国[337]


  • スウェーデンの旗 ストックホルム、スウェーデン[337]


  • フランスの旗 ストラスブール、フランス[337]


  • イタリアの旗 ヴェネツィア、イタリア[337]


  • ポーランドの旗 ワルシャワ、ポーランド[337]


アジア



  • イランの旗 タブリーズ、イラン


  • カザフスタンの旗 アルマトイ、カザフスタン


  • ヨルダンの旗 アンマン、ヨルダン


  • レバノンの旗 ベイルート、レバノン


  • タイ王国の旗 バンコク、タイ王国


  • 大韓民国の旗 釜山広域市、大韓民国


  • シリアの旗 ダマスカス、シリア


  • アラブ首長国連邦の旗 ドバイ、アラブ首長国連邦


  • ベトナムの旗 ホーチミン市、ベトナム社会主義共和国


  • イランの旗 エスファハーン、イラン


  • インドネシアの旗 ジャカルタ、インドネシア


  • サウジアラビアの旗 ジッダ、サウジアラビア


  • マレーシアの旗 ジョホールバル、マレーシア


  • アフガニスタンの旗 カーブル、アフガニスタン


  • パキスタンの旗 ラホール、パキスタン


  • トルクメニスタンの旗 マル、トルクメニスタン


  • キルギスの旗 オシ、キルギスタン


  • ウズベキスタンの旗 サマルカンド、ウズベキスタン


  • 中華人民共和国の旗 上海市、中華人民共和国


  • 日本の旗 下関市、日本


  • インドネシアの旗 スラバヤ、インドネシア


  • 中華人民共和国の旗 西安市、中華人民共和国


  • 中華人民共和国の旗 広州市、中華人民共和国[343]


  • パキスタンの旗 カラチ、パキスタン


アメリカ



  • アルゼンチンの旗 ブエノスアイレス、アルゼンチン


  • ベネズエラの旗 カラカス、ベネズエラ


  • キューバの旗 ハバナ、キューバ


  • アメリカ合衆国の旗 ヒューストン、アメリカ合衆国


  • ボリビアの旗 スクレ、ボリビア


  • メキシコの旗 メキシコシティ、メキシコ


  • ブラジルの旗 リオデジャネイロ、ブラジル


  • カナダの旗 トロント、カナダ


アフリカ



  • エジプトの旗 カイロ、エジプト


  • アルジェリアの旗 コンスタンティーヌ、アルジェリア


  • スーダンの旗 ハルツーム、スーダン


  • モロッコの旗 ラバト、モロッコ


  • ソマリアの旗 モガディシュ、ソマリア




関連項目



  • ベイオール

  • ガラタ

  • ユスキュダル

  • カドゥキョイ

  • ガラタサライ

  • フェネルバフチェ

  • ベシクタシュ

  • イスタンブールスポル

  • エジュザジュバシュ・イスタンブール

  • イスタンブール・シンバル


  • 飛んでイスタンブール - 1978年、庄野真代の大ヒットソング。同年『第29回NHK紅白歌合戦』に初出場。


  • サイト・ファーイク - イスタンブールを舞台とした小説を多数発表。


  • ピエール・ロティ - 処女作の舞台


  • DRIV3R - PlayStation 2のカーアクションゲーム。舞台の一つがイスタンブールである。


  • アサシン クリード リベレーション - ユービーアイソフト制作のゲーム。16世紀初頭のコンスタンティノープルが主な舞台となる。

  • 在イスタンブール日本国総領事館



注釈




  1. ^ abcSources have provided conflicting figures on the area of Istanbul. The most authoritative source on this figure ought to be the Istanbul Metropolitan Municipality (MMI), but the English version of its website suggests a few figures for this area. One page states that "Each MM is sub-divided into District Municipalities ("DM") of which there are 27 in Istanbul" [emphasis added] with a total area of 1,538.9km2 (594.2 sq mi).[96] However, the Municipal History page appears to be the most explicit and most updated, saying that in 2004, "Istanbul Metropolitan Municipality's jurisdiction was enlarged to cover all the area within the provincial limits". It also states a 2008 law merged the Eminönü district into the Fatih district (a point that is not reflected in the previous source) and increased the number of districts in Istanbul to thirty-nine.[97] That total area, as corroborated on the Turkish version of the MMI website,[98] and a recently updated Jurisdiction page on the English site[99] is 5,343km2 (2,063 sq mi).

  2. ^ abcThe foundation of Byzantion (Byzantium) is sometimes, especially in encyclopedic or other tertiary sources, placed firmly in 667 BC. However, historians have disputed the precise year the city was founded. Commonly cited is the work of 5th-century-BC historian Herodotus, which says the city was founded seventeen years after the city of Chalcedon,[21] which came into existence around 685 BC. However, Eusebius, while concurring with 685 BC as the year Chalcedon was founded, places Byzantion's establishment in 659 BC.[22] Among more modern historians, Carl Roebuck proposed the 640s BC[23] while others have suggested even later. Further, the foundation date of Chalcedon is itself subject to some debate; while many sources place it in 685 BC,[24] others put it in 675 BC[25] or even 639 BC (with Byzantion's establishment placed in 619 BC).[22] As such, some sources have opted to refer to Byzantium's foundation as simply located in the 7th century BC.

  3. ^ abHistorians disagree—sometimes substantially—on population figures of Istanbul (Constantinople), and other world cities, prior to the 20th century. However, Chandler 1987, pp. 463–505, a follow-up to Chandler & Fox 1974,[84] performs a comprehensive look at different sources' estimates and chooses the most likely based on historical conditions; it, therefore, is the source of most population figures between 100 and 1914. The ranges of values between 500 and 1000 are due to Morris 2010, which also does a comprehensive analysis of sources, including Chandler (1987); Morris notes that many of Chandler's estimates during that time seem too large for the city's size, and presents alternative, smaller estimates. Chandler disagrees with Turan 2010 on the population of the city in the mid-1920s (with the former suggesting 817,000 in 1925), but Turan, p. 224, is, nevertheless, used as the source of population figures between 1924 and 2005. Turan's figures, as well as the 2010 figure,[158] come from the Turkish Statistical Institute. The drastic increase in population between 1980 and 1985 is largely due to an enlargement of the city's limits (see the Administration section). Explanations for population changes in pre-Republic times can be inferred from the History section.


  4. ^ The United Nations defines an urban agglomeration as "the population contained within the contours of a contiguous territory inhabited at urban density levels without regard to administrative boundaries". The agglomeration "usually incorporates the population in a city or town plus that in the suburban areas lying outside of, but being adjacent to, the city boundaries".[161] Figures dated 1 July 2011 place the populations of the agglomerations of Moscow and Istanbul at 11.62 million and 11.25 million, respectively.[162] The UN estimates that the agglomeration of Istanbul will exceed the agglomeration of Moscow in population by 2015 (with 12.46 million and 12.14 million, respectively), although extrapolation suggests that the former will not surpass latter until the second half of 2013. A revision with 2013 data is due in the first half of 2014.[161]


  5. ^ While UEFA does not apparently keep a list of Category 4 stadiums, regulations stipulate that only these elite stadiums are eligible to host UEFA Champions League Finals,[244] which Atatürk Olympic Stadium did in 2005, and UEFA Europa League (formerly UEFA Cup) Finals,[245] which Şükrü Saracoğlu Stadium did in 2009. Türk Telekom Arena is noted as an elite UEFA stadium by its architects.[246]




脚注





  1. ^ “The Results of Address Based Population Registration System, 2013”. Turkish Statistical Institute (2013年12月31日). 2014年1月29日閲覧。

  2. ^ abc“Province by Province / Town Center and Town / Village Population – 2011”. Address Population-Based Registration System (ABPRS) Database. The Turkish Statistical Institute (2011年). 2012年5月9日閲覧。

  3. ^ abMossberger, Clarke & John 2012, p. 145


  4. ^ Demographia: World Urban Areas & Population Projections


  5. ^ Statistical Institute page

  6. ^ ab日高ら(1990)、p.10-11、1.イスタンブールへようこそ、- 歴史を辿る<神話の中で生まれた町>


  7. ^ 日高ら(1990)、p.6-7、1.イスタンブールへようこそ、- イスタンブールに魅せられて

  8. ^ abcWCTR Society; Unʼyu Seisaku Kenkyū Kikō 2004, p. 281

  9. ^ abc井上(1990)、p.56-58、2-「新しいローマ」の登場、憧れの都コンスタンティノープル


  10. ^ Çelik 1993, p. xv

  11. ^ abMasters & Ágoston 2009, pp. 114–5


  12. ^ Dumper & Stanley 2007, p. 320

  13. ^ abTuran 2010, p. 224

  14. ^ abc“Population and Demographic Structure”. Istanbul 2010: European Capital of Culture. Istanbul Metropolitan Municipality (2008年). 2012年3月27日閲覧。

  15. ^ abWeiner, Miriam B. “World's Most Visited Cities”. U.S. News & World Report. 2012年5月21日閲覧。


  16. ^ “The World According to GaWC 2010”. Globalization and World Cities (GaWC) Study Group and Network. Loughborough University. 2012年5月8日閲覧。

  17. ^ abcde“OECD Territorial Reviews: Istanbul, Turkey”. Policy Briefs. The Organisation for Economic Co-operation and Development (2008年3月). 2012年8月20日閲覧。


  18. ^ Global Cities 2017 AT Kearney 2017年公表 2017年8月4日閲覧。

  19. ^ ab“IOC selects three cities as Candidates for the 2020 Olympic Games”. The International Olympic Committee (2012年5月24日). 2012年6月18日閲覧。


  20. ^ 日高ら(1990)、p.7-9、1.イスタンブールへようこそ、- 雑踏の中で


  21. ^ Herodotus Histories 4.144, translated in De Sélincourt 2003, p. 288

  22. ^ abIsaac 1986, p. 199


  23. ^ Roebuck 1959, p. 119, also as mentioned in Isaac 1986, p. 199


  24. ^ Lister 1979, p. 35

  25. ^ abFreely 1996, p. 10

  26. ^ abcRoom 2006, pp. 177


  27. ^ Gregory 2010, pp. 62–3

  28. ^ abMasters & Ágoston 2009, p. 286


  29. ^ Masters & Ágoston 2009, pp. 226–7


  30. ^ Finkel 2005, pp. 57, 383


  31. ^ Göksel & Kerslake 2005, p. 27


  32. ^ Room 2006, pp. 177–8


  33. ^ Göktürk, Soysal & Türeli 2010, p. 7


  34. ^ Keyder 1999, p. 95


  35. ^ Pliny the Elder, book IV, chapter XI:
    "On leaving the Dardanelles we come to the Bay of Casthenes, ... and the promontory of the Golden Horn, on which is the town of Byzantium,a a free state, formerly called Lygos; it is 711 miles from Durazzo, ..." )


  36. ^ abJanin, Raymond (1964). Constantinople byzantine. Paris: Institut Français d'Études Byzantines. p. 10f.. 

  37. ^ abGeorgacas, Demetrius John (1947年). “The Names of Constantinople”. Transactions and Proceedings of the American Philological Association (The Johns Hopkins University Press) 78: 347–67. doi:10.2307/283503. JSTOR 283503. 

  38. ^ abcdNecdet Sakaoğlu (1993/94a): "İstanbul'un adları" ["The names of Istanbul"]. In: 'Dünden bugüne İstanbul ansiklopedisi', ed. Türkiye Kültür Bakanlığı, Istanbul.


  39. ^ According to the Reallexikon für Antike und Christentum, vol. 164 (Stuttgart 2005), column 442, there is no evidence for the tradition that Constantine officially dubbed the city "New Rome" (Nova Roma or Nea Rhome). Commemorative coins that were issued during the 330s already refer to the city as Constantinopolis (see e.g. Michael Grant, The climax of Rome (London 1968), p. 133). It is possible that the Emperor called the city "Second Rome" (Deutera Rhome) by official decree, as reported by the 5th-century church historian Socrates of Constantinople.


  40. ^ Bartholomew, Archbishop of Constantinople, New Rome and Ecumenical Patriarch


  41. ^ Finkel, Caroline, Osman's Dream, (Basic Books, 2005), 57; "Istanbul was only adopted as the city's official name in 1930..".


  42. ^ An alternative derivation, directly from Constantinople, was entertained as an hypothesis by some researchers in the 19th century but is today regarded as obsolete; see Sakaoğlu (1993/94a: 254) for references.


  43. ^ Detailed history at Pylos#The Name of Navarino


  44. ^ Bourne, Edward G. (1887年). “The Derivation of Stamboul”. American Journal of Philology (The Johns Hopkins University Press) 8 (1): 78–82. doi:10.2307/287478. JSTOR 287478. 


  45. ^ G. Necipoĝlu "From Byzantine Constantinople to Ottoman Kostantiniyye: Creation of a Cosmopolitan Capital and Visual Culture under Sultan Mehmed II" Ex. cat. "From Byzantion to Istanbul: 8000 Years of a Capital", June 5 - September 4, 2010, Sabanci University Sakip Sabanci Museum, Istanbul. Istanbul: Sakip Sabanci Museum, 2010 p. 262


  46. ^ Necdet Sakaoğlu (1993/94b): "Kostantiniyye". In: 'Dünden bugüne İstanbul ansiklopedisi', ed. Türkiye Kültür Bakanlığı, Istanbul.


  47. ^ A.C. Barbier de Meynard (1881): Dictionnaire Turc-Français. Paris: Ernest Leroux.


  48. ^ Stanford and Ezel Shaw (1977): History of the Ottoman Empire and Modern Turkey. Cambridge: Cambridge University Press. Vol II, p. 386; Robinson (1965), The First Turkish Republic, p. 298


  49. ^ Arab historian Al Masudi writes that the Greek calls the city Stanbulin. Necipoĝlu (2010) p. 262

  50. ^ ab"Istanbul", in Encyclopedia of Islam.


  51. ^ H. G. Dwight (1915): Constantinople Old and New. New York: Scribner's. [要ページ番号]


  52. ^ Edmondo De Amicis (1878) Costantinopoli Milano, Treves, passim


  53. ^ http://www.aii-t.org/j/maqha/magazine/osman/20080219.htm


  54. ^ Rainsford, Sarah (2009年1月10日). “Istanbul's ancient past unearthed”. BBC. http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7820924.stm 2010年4月21日閲覧。 


  55. ^ Düring 2010, pp. 181–2


  56. ^ Çelik 1993, p. 11


  57. ^ De Souza 2003, p. 88


  58. ^ Freely 1996, p. 20


  59. ^ Freely 1996, p. 22


  60. ^ Grant 1996, pp. 8–10


  61. ^ Limberis 1994, pp. 11–2


  62. ^ Barnes 1981, p. 77


  63. ^ Barnes 1981, p. 212

  64. ^ abBarnes 1981, p. 222

  65. ^ ab井上(1990)、p.58-60、2-「新しいローマ」の登場、私の前を歩いている御方が

  66. ^ abcGregory 2010, p. 63

  67. ^ abKlimczuk & Warner 2009, p. 171


  68. ^ Dash, Mike (2012年3月2日). “Blue Versus Green: Rocking the Byzantine Empire”. Smithsonian Magazine. The Smithsonian Institution. 2012年7月30日閲覧。


  69. ^ Dahmus 1995, p. 117


  70. ^ Cantor 1994, p. 226


  71. ^ Morris 2010, pp. 109–18


  72. ^ Gregory 2010, pp. 324–9


  73. ^ Gregory 2010, pp. 330–3


  74. ^ Gregory 2010, p. 340


  75. ^ Gregory 2010, pp. 341–2


  76. ^ Reinert 2002, pp. 258–60


  77. ^ Baynes 1949, p. 47


  78. ^ 井上(1990)、p.238-240、6-ビサンティン帝国の落日、ビサンティン帝国の滅亡


  79. ^ Gregory 2010, pp. 394–9


  80. ^ 井上(1990)、p.114-116、3-「パンとサーカス」の終焉、「髭の皇帝」は誰か

  81. ^ abHolt, Lambton & Lewis 1977, pp. 307


  82. ^ Holt, Lambton & Lewis 1977, pp. 306–7


  83. ^ Holt, Lambton & Lewis 1977, pp. 735–6

  84. ^ abChandler, Tertius; Fox, Gerald (1974年). 3000 Years of Urban Growth. London: Academic Press. ISBN 978-0-12-785109-9. 


  85. ^ Shaw & Shaw 1977, pp. 4–6, 55


  86. ^ Çelik 1993, pp. 87–9

  87. ^ abHarter 2005, p. 251


  88. ^ 「オリエント急行の時代 ヨーロッパの夢の軌跡」p183 平井正 2007年1月25日発行 中央公論新社


  89. ^ Shaw & Shaw 1977, pp. 230, 287, 306およびオスマン債務管理局の項目に付した出典


  90. ^ Çelik 1993, p. 31


  91. ^ 「バルカン 歴史と現在」p308-309 ジョルジュ・カステラン著 山口俊章訳 1994年7月発行 サイマル出版会


  92. ^ Landau 1984, p. 50


  93. ^ Dumper & Stanley 2007, p. 39


  94. ^ Keyder 1999, pp. 11–2, 34–6


  95. ^ Efe & Cürebal 2011, pp. 718–9


  96. ^ “Districts”. Istanbul Metropolitan Municipality. 2011年12月21日閲覧。

  97. ^ abc“History of Local Governance in Istanbul”. Istanbul Metropolitan Municipality. 2011年12月21日閲覧。


  98. ^ “İstanbul İl ve İlçe Alan Bilgileri” [Istanbul Province and District Area Information] (Turkish). Istanbul Metropolitan Municipality. 2010年6月20日閲覧。


  99. ^ “Jurisdiction”. Istanbul Metropolitan Municipality. 2011年12月21日閲覧。


  100. ^ “Istanbul from a Bird's Eye View”. Governorship of Istanbul. 2010年6月13日閲覧。

  101. ^ ab“The Topography of İstanbul”. Republic of Turkey Ministry of Culture and Tourism. 2012年6月19日閲覧。


  102. ^ Revkin, Andrew C. (2010年2月24日). “Disaster Awaits Cities in Earthquake Zones”. The New York Times. http://www.nytimes.com/2010/02/25/science/earth/25quake.html 2010年6月13日閲覧。 


  103. ^ Parsons, Tom; Toda, Shinji; Stein, Ross S.; Barka, Aykut; Dieterich, James H. (2000年). “Heightened Odds of Large Earthquakes Near Istanbul: An Interaction-Based Probability Calculation”. Science (Washington, D.C.: The American Association for the Advancement of Science) 288 (5466): 661–5. doi:10.1126/science.288.5466.661. PMID 10784447. 


  104. ^ Traynor, Ian (2006年12月9日). “A Disaster Waiting to Happen – Why a Huge Earthquake Near Istanbul Seems Inevitable”. The Guardian (UK). http://www.guardian.co.uk/world/2006/dec/09/turkey.naturaldisasters 2010年6月13日閲覧。 


  105. ^ Kottek, Markus; Grieser, Jürgen; Beck, Christoph; Rudolf, Bruno; Rube, Franz (2006年6月). “World Map of the Köppen-Geiger climate classification updated”. Meteorologische Zeitschrift 15 (3): 259–263. doi:10.1127/0941-2948/2006/0130. http://www.schweizerbart.de/resources/downloads/paper_free/55034.pdf 2011年2月27日閲覧。. 


  106. ^ Peel, M. C.; Finlayson, B. L.; McMahon, T. A. (2007年). “Updated world map of the Köppen-Geiger climate classification”. Hydrology and Earth System Sciences 4 (2): 439–473. doi:10.5194/hessd-4-439-2007. http://www.hydrol-earth-syst-sci-discuss.net/4/439/2007/hessd-4-439-2007.pdf 2011年2月27日閲覧。. 

  107. ^ abEfe & Cürebal 2011, pp. 716–7

  108. ^ ab“Weather – Istanbul”. World Weather. BBC Weather Centre. 2012年10月15日閲覧。


  109. ^ “Istanbul Enshrouded in Dense Fog”. Turkish Daily News (2005年1月14日). 2012年10月15日閲覧。


  110. ^ “Thick Fog Causes Disruption, Flight Delays in İstanbul”. Today's Zaman (2009年11月23日). 2012年10月15日閲覧。


  111. ^ “Dense Fog Disrupts Life in Istanbul”. Today's Zaman (2010年11月6日). 2012年10月15日閲覧。

  112. ^ abPelit, Attila. “When to Go to Istanbul”. TimeOut Istanbul. 2011年12月19日閲覧。

  113. ^ abc“Resmi İstatistikler (İl ve İlçelerimize Ait İstatistiki Veriler)” [Official Statistics (Statistical Data of Provinces and Districts) - Istanbul] (Turkish). Turkish State Meteorological Service. 2012年9月22日閲覧。


  114. ^ Quantic 2008, p. 155


  115. ^ Kindap, Tayfin (2010年1月19日). “A Severe Sea-Effect Snow Episode Over the City of Istanbul”. Natural Hazards 54 (3): 703–23. ISSN 1573-0840. http://www.springerlink.com/content/cu66841r30p20v72/ 2012年10月15日閲覧。. 


  116. ^ “Istanbul Winds Battle Over the City”. Turkish Daily News (2009年10月17日). 2012年10月15日閲覧。


  117. ^ “Yıllık Toplam Yağış Verileri” [Annual Total Participation Data: Istanbul, Turkey] (Turkish). Turkish State Meteorological Service. 2012年7月6日閲覧。


  118. ^ “İstanbul Bölge Müdürlüğü'ne Bağlı İstasyonlarda Ölçülen Ekstrem Değerler” [Extreme Values Measured in Istanbul Regional Directorate] (Turkish). Turkish State Meteorological Service. 2010年7月27日閲覧。


  119. ^ “March 1987 Cyclone (Blizzard) over the Eastern Mediterranean and Balkan Region Associated with Blocking”. American Meteorological Society. 2010年7月27日閲覧。


  120. ^ “Weather Information for Istanbul”. 2010年3月6日閲覧。


  121. ^ [1]


  122. ^ “BBC - Weather Centre - World Weather - Average Conditions - Istanbul”. 2010年3月6日閲覧。


  123. ^ Çelik 1993, pp. 70, 169


  124. ^ Çelik 1993, p. 127

  125. ^ abc“Besiktas: The Black Eagles of the Bosporus”. FIFA. 2012年4月8日閲覧。


  126. ^ Moonan, Wendy (1999年10月29日). “For Turks, Art to Mark 700th Year”. The New York Times. 2012年7月4日閲覧。


  127. ^ Oxford Business Group 2009, p. 105


  128. ^ Karpat 1976, pp. 78–96


  129. ^ Yavuz, Ercan (2009年6月8日). “Gov't launches plan to fight illegal construction”. Today's Zaman. http://www.todayszaman.com/newsDetail_getNewsById.action?load=detay&link=177450&bolum=103 2011年12月20日閲覧。 


  130. ^ Boyar & Fleet 2010, p. 247


  131. ^ Taylor 2007, p. 241


  132. ^ “Water Supply Systems, Reservoirs, Charity and Free Fountains, Turkish Baths”. Republic of Turkey Ministry of Culture and Tourism. 2012年4月29日閲覧。


  133. ^ Time Out Guides 2010, p. 212

  134. ^ abChamber of Architects of Turkey 2006, pp. 80, 118


  135. ^ Chamber of Architects of Turkey 2006, p. 176


  136. ^ Gregory 2010, p. 138


  137. ^ Freely 2000, p. 283


  138. ^ Necipoğlu 1991, pp. 180, 136–137


  139. ^ Çelik 1993, p. 159


  140. ^ Çelik 1993, pp. 133–34, 141


  141. ^ もう1都市は同じ大都市自治体のイズミットでこちらはコジャエリ県とほぼ同一の範囲


  142. ^ “Büyükşehir Belediyesi Kanunu” [Metropolitan Municipal Law] (Turkish). Türkiye Büyük Millet Meclisi (2004年7月10日). 2010年11月30日閲覧。 “Bu Kanunun yürürlüğe girdiği tarihte; büyükşehir belediye sınırları, İstanbul ve Kocaeli ilinde, il mülkî sınırıdır. (On the date this law goes in effect, the metropolitan city boundaries, in the provinces of İstanbul and Kocaeli, are those of the province.)”


  143. ^ Çelik 1993, pp. 42–8


  144. ^ Kapucu & Palabiyik 2008, p. 145


  145. ^ Taşan-Kok 2004, p. 87


  146. ^ Wynn 1984, p. 188


  147. ^ Taşan-Kok 2004, pp. 87–8

  148. ^ abKapucu & Palabiyik 2008, pp. 153–5


  149. ^ Erder, Sema (November 2009 2009). “Local Governance in Istanbul” (pdf). Istanbul: City of Intersections. Urban Age (London: London School of Economics): 46. http://v0.urban-age.net/publications/newspapers/istanbul/media/UrbanAgeIstanbulNewspaper_en.pdf 2012年7月16日閲覧。. 

  150. ^ abKapucu & Palabiyik 2008, p. 156

  151. ^ ab“Metropolitan Executive Committee”. Istanbul Metropolitan Municipality. 2011年12月21日閲覧。


  152. ^ Kapucu & Palabiyik 2008, pp. 155–6


  153. ^ “The Mayor's Biography”. Istanbul Metropolitan Municipality. 2011年12月21日閲覧。


  154. ^ 在イスタンブール日本国総領事館 イスタンブールについて


  155. ^ “Organizasyon” [Organization] (Turkish). Istanbul Special Provincial Administration. 2011年12月21日閲覧。


  156. ^ Organisation for Economic Co-operation and Development 2008, p. 206


  157. ^ “Encümen Başkanı” [Head of the Council] (Turkish). Istanbul Special Provincial Administration. 2011年12月21日閲覧。


  158. ^ “Address Based Population Registration System Results of 2010 (doc)”. Turkish Statistical Institute (2011年1月28日). 2011年12月24日閲覧。


  159. ^ Morris 2010, p. 113


  160. ^ Chandler 1987, pp. 463–505

  161. ^ ab“Frequently Asked Questions”. World Urbanization Prospects, the 2011 Revision. The United Nations (2012年4月5日). 2012年9月20日閲覧。

  162. ^ ab“File 11a: The 30 Largest Urban Agglomerations Ranked by Population Size at Each Point in Time, 1950–2025 (xls)”. World Urbanization Prospects, the 2011 Revision. The United Nations (2012年4月5日). 2012年9月20日閲覧。


  163. ^ Kamp, Kristina (2010年2月17日). “Starting Up in Turkey: Expats Getting Organized”. Today's Zaman. 2012年3月27日閲覧。

  164. ^ ab“Social Structure Survey 2006”. KONDA Research (2006年). 2012年3月27日閲覧。 (Note: Accessing KONDA reports directly from KONDA's own website requires registration.)


  165. ^ “Turkey”. The World Factbook. The Central Intelligence Agency (2012年6月28日). 2012年7月6日閲覧。


  166. ^ U.S. Bureau of Democracy, Human Rights, and Labor. “Turkey: International Religious Freedom Report 2007”. U.S. Department of State. 2012年3月27日閲覧。


  167. ^ Davidson & Gitlitz 2002, p. 180


  168. ^ “History of the Ecumenical Patriarch”. The Ecumenical Patriarch of Constantinople. 2012年6月20日閲覧。


  169. ^ Çelik 1993, p. 38


  170. ^ Athanasopulos 2001, p. 82


  171. ^ “The Greek Minority and its foundations in Istanbul, Gokceada (Imvros) and Bozcaada (Tenedos)”. Hellenic Republic Ministry of Foreign Affairs (2011年3月21日). 2012年6月21日閲覧。


  172. ^ Khojoyan, Sara (2009年10月16日). “Armenian in Istanbul: Diaspora in Turkey welcomes the setting of relations and waits more steps from both countries”. Armenia Now. 2012年6月21日閲覧。


  173. ^ Masters & Ágoston 2009, pp. 520–1


  174. ^ Wedel 2000, p. 182


  175. ^ Zalewski, Piotr (2012年1月9日). “Istanbul: Big Trouble in Little Kurdistan”. TIME. 2012年6月23日閲覧。


  176. ^ “Can't They Get Along Anymore?”. The Economist (2005年9月8日). 2012年6月23日閲覧。


  177. ^ Rôzen 2002, pp. 55–8, 49


  178. ^ Rôzen 2002, pp. 49–50


  179. ^ Brink-Danan 2011, p. 176


  180. ^ ʻAner 2005, p. 367


  181. ^ Schmitt 2005, passim


  182. ^ “III – Which are the largest city economies in the world and how might this change by 2025?”. PricewaterhouseCoopers (2009年11月). 2012年3月27日閲覧。

  183. ^ ab“Presentation of Reference City: Istanbul”. Urban Green Environment (2001年). 2011年12月30日閲覧。


  184. ^ Melby, Caleb (2012年3月16日). “Moscow Beats New York, London In List Of Billionaire Cities”. Forbes. 2012年3月27日閲覧。


  185. ^ “Dış Ticaretin Lokomotifi İstanbul” [Istanbul is the Locomotive of Foreign Trade] (Turkish). NTV-MSNBC (2006年2月13日). 2012年3月28日閲覧。


  186. ^ CNN Türk: Dış ticaretin lokomotifi İstanbul (Istanbul is the locomotive of foreign trade)


  187. ^ Odabaşı, Attila; Aksu, Celal; Akgiray, Vedat (2004年12月). “The Statistical Evolution of Prices on the Istanbul Stock Exchange”. The European Journal of Finance (London: Routledge) 10 (6): 510–25. doi:10.1080/1351847032000166931. 


  188. ^ “History of the Bank”. The Ottoman Bank Archives and Research Centre. 2012年3月28日閲覧。


  189. ^ “Milestones in ISE History”. Istanbul Stock Exchange (2012年). 2012年3月28日閲覧。


  190. ^ Oxford Business Group 2009, p. 112


  191. ^ Jones, Sam, and agencies (2011年4月27日). “Istanbul's new Bosphorus canal 'to surpass Suez or Panama'”. The Guardian. 2012年4月29日閲覧。


  192. ^ Organisation for Economic Co-operation and Development 2008, p. 80


  193. ^ “Ports of Turkey”. Cerrahogullari T.A.S.. 2012年8月28日閲覧。


  194. ^ Cavusoglu, Omer (2010年3月). “Summary on the Haydarpasa Case Study Site”. Cities Programme. London School of Economics. 2012年4月3日閲覧。


  195. ^ “What Role for Turkish Ports in the Regional Logistics Supply Chains?”. International Conference on Information Systems and Supply Chain (–2008-05-30). 2012年8月28日閲覧。


  196. ^ Organisation for Economic Co-operation and Development 2008 p82


  197. ^ Organisation for Economic Co-operation and Development 2008, p. 143


  198. ^ Organisation for Economic Co-operation and Development 2008 p81


  199. ^ “Urban Tourism: An Analysis of Visitors to Istanbul”. Vienna University of Economics and Business. ...

  200. ^ abc“Istanbul '10”. Turkey Tourism Market Research Reports. Istanbul Valuation and Consulting (2010年). 2012年3月29日閲覧。 (n.b. Source indicates that the Topkapı Palace Museum and the Hagia Sophia together bring in 55 million TL, approximately $30 million in 2010, on an annual basis.)


  201. ^ “İstanbul Büyükşehir Belediyesi Resmi Web Sitesi”. Istanbul Metropolitan Municipality (IMMWEBl). 2006年11月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年1月1日閲覧。


  202. ^ Financial sector (PDF)”. Foreign Economic Relations Board Turkey DEIK. 2006年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年1月1日閲覧。


  203. ^ “World Gold Council > jewellery:Turkey”. World Gold Council. 2007年1月1日閲覧。


  204. ^ [2] 無許可の花火工房爆発、20人死亡、トルコ 2008年02月01日 01:31 AFP


  205. ^ Baytop T. Türk Eczacılık Tarihi Araştırmaları (History of Turkish Pharmacy Researches) Istanbul. 2000:12-75.


  206. ^ Dogan UVEY*, Ayse Nur GOKCE*, Ibrahim BASAGAOGLU (2004) "Pharmaceutical Industry in Turkey" in 38th International Medical History Congress in Istanbul


  207. ^ Hürriyet: 2006’da Türkiye’ye gelen turist başına harcama 728 dolara indi


  208. ^ Sabah: Turist sayısı genelde düştü İstanbul'da arttı


  209. ^ [3]


  210. ^ “EIBTM 2007 - The Global Meetings & Incentive Exhibition for the MICE Industry”. Reed Exhibitions Limited (member of the Association of Event Organisers (AEO)). 2006年3月11日閲覧。 [リンク切れ]


  211. ^ Göktürk, Soysal & Türeli 2010, p. 8


  212. ^ Reisman 2006, p. 88


  213. ^ Göktürk, Soysal & Türeli 2010, pp. 2–4

  214. ^ ab“İstanbul – Archaeology Museum”. Republic of Turkey Ministry of Culture and Tourism. 2012年4月19日閲覧。

  215. ^ abGöktürk, Soysal & Türeli 2010, pp. 221–3


  216. ^ Göktürk, Soysal & Türeli 2010, pp. 223–4


  217. ^ 『世界の美しい階段』 エクスナレッジ、2015年、173頁。ISBN 978-4-7678-2042-2。


  218. ^ Hansen, Suzy (2012年2月10日). “The Istanbul Art-Boom Bubble”. The New York Times. 2012年4月19日閲覧。


  219. ^ Göktürk, Soysal & Türeli 2010, pp. 130–1


  220. ^ Göktürk, Soysal & Türeli 2010, pp. 133–4


  221. ^ Göktürk, Soysal & Türeli 2010, p. 146


  222. ^ Göktürk, Soysal & Türeli 2010, p. 165


  223. ^ Nikitin, Nikolaj (2012年3月6日). “Golden Age for Turkish Cinema”. Credit-Suisse. 2012年7月6日閲覧。


  224. ^ Köksal 2012, pp. 24–5


  225. ^ “History”. The Istanbul Foundation for Culture and Arts. 2012年4月13日閲覧。


  226. ^ Gibbons, Fiachra (2011年9月21日). “10 of the Best Exhibitions at the Istanbul Biennial”. The Guardian. 2012年4月13日閲覧。


  227. ^ Hensel, Michael; Sungurogl, Defne; Ertaş, Hülya, eds ( エラー: 月日を month や day に分けずに date にまとめて記入してください。). “Turkey at the Threshold”. Architectural Design (London: John Wiley & Sons) 80 (1). ISBN 978-0-470-74319-5. 

  228. ^ abKöse 2009, pp. 91–2


  229. ^ Taşan-Kok 2004, p. 166


  230. ^ Emeksiz, İpek (2010年9月3日). “Abdi İpekçi Avenue to be new Champs Elysee”. Hürriyet Daily News. 2012年4月28日閲覧。


  231. ^ “Shopping in Singapore is Better than Paris”. CNN (2012年1月6日). 2012年4月28日閲覧。


  232. ^ Schäfers, Marlene (2008年7月26日). “Managing the Difficult Balance Between Tourism and Authenticity”. Hürriyet Daily News. 2012年4月29日閲覧。


  233. ^ Schillinger, Liesl (2011年7月8日). “A Turkish Idyll Lost in Time”. The New York Times. 2012年4月29日閲覧。


  234. ^ Keyder 1999, p. 34


  235. ^ Kugel, Seth (2011年7月17日). “The $100 Istanbul Weekend”. The New York Times. 2012年4月29日閲覧。


  236. ^ Knieling & Othengrafen 2009, pp. 228–34


  237. ^ “A Big Night Out in Istanbul – And a Big Breakfast the Morning After”. The Guardian (2012年3月23日). 2012年4月29日閲覧。

  238. ^ ab“Galatasaray: The Lions of the Bosporus”. FIFA. 2012年4月10日閲覧。


  239. ^ “UEFA Champions League 2007/08 – History – Fenerbahçe”. The Union of European Football Associations (2011年10月8日). 2012年4月10日閲覧。


  240. ^ “Türkiye Basketbol Ligleri” [Turkish Basketball League] (Turkish). The Turkish Basketball League (2012年6月27日). ...


  241. ^ “List of Certified Athletics Facilities”. The International Association of Athletics Federations (2013年1月1日). 2013年1月2日閲覧。


  242. ^ “2008/09: Pitmen strike gold in Istanbul”. The Union of European Football Associations (2009年5月20日). 2012年4月10日閲覧。


  243. ^ Aktaş, İsmail (2012年3月14日). “Aşçıoğlu Sues Partners in Joint Project Over Ali Sami Yen Land”. Hürriyet Daily News. 2012年7月3日閲覧。


  244. ^ “Regulations of the UEFA European Football Championship 2010–12 (pdf)”. The Union of European Football Associations. p. 14. 2012年4月10日閲覧。


  245. ^ “Regulations of the UEFA Europa League 2010/11 (pdf)”. The Union of European Football Associations. p. 17. 2012年4月10日閲覧。


  246. ^ “Türk Telekom Arena Istanbul”. 'asp' Architekten. 2012年7月5日閲覧。


  247. ^ “2010 FIBA World Championship Istanbul: Arenas”. FIBA. 2012年4月10日閲覧。


  248. ^ “Istanbul – Arenas”. FIBA (2010年). 2012年6月29日閲覧。


  249. ^ “Fenerbahce Ulker's new home, Ulker Sports Arena, opens”. Euroleague Basketball (2012年1月24日). 2012年6月29日閲覧。


  250. ^ Wilson, Stephen (2011年9月2日). “2020 Olympics: Six cities lodge bids for the games”. The Christian Science Monitor. 2012年6月29日閲覧。


  251. ^ “UEFA Announce New Euro 2020 Bid Process”. The Independent (2012年5月16日). 2012年6月29日閲覧。


  252. ^ 安倍首相「本当にうれしい 」東京五輪決定 cnn.co.jp 2013.09.07


  253. ^ “Events”. FIA World Touring Car Championship (2012年). 2012年6月29日閲覧。


  254. ^ “The Circuits”. European Le Mans Series (2012年). 2012年7月3日閲覧。


  255. ^ Richards, Giles (2011年4月22日). “Turkey Grand Prix Heads for the Scrapyard Over $26m Price Tag”. The Guardian. 2012年7月3日閲覧。


  256. ^ “2012 Yarış Programı ve Genel Yarış Talimatı” [2012 Race Schedule and General Sailing Instructions] (Turkish). The Istanbul Sailing Club (2012年). 2012年7月3日閲覧。


  257. ^ Turkish Daily News (2008年8月23日). “Sailing Week Starts in Istanbul”. Hürriyet Daily News. 2012年7月3日閲覧。


  258. ^ “About Us”. The Turkish Offshore Racing Club (2012年3月31日). 2012年7月3日閲覧。


  259. ^ “Races”. F1 Powerboat World Championship (2012年). 2012年7月3日閲覧。


  260. ^ Brummett 2000, pp. 11, 35, 385–6

  261. ^ abcd“Country Profile: Turkey”. The Library of Congress Federal Research Division (2008年8月). 2012年5月8日閲覧。


  262. ^ “Gazete Net Satışları” [Net Sales of Newspapers] (Turkish). Medyatava (2012年4月30日). 2012年5月8日閲覧。

  263. ^ ab“TRT – Radio”. The Turkish Radio and Television Corporation. 2012年5月8日閲覧。


  264. ^ Time Out Guides 2010, p. 224


  265. ^ “TRT – Television”. The Turkish Radio and Television Corporation. 2012年5月8日閲覧。


  266. ^ Norris 2010, p. 184


  267. ^ “Chris Morris”. BBC. 2012年5月8日閲覧。


  268. ^ “History”. Istanbul University (2011年8月11日). 2012年8月20日閲覧。


  269. ^ “History”. Istanbul Technical University. 2012年7月4日閲覧。


  270. ^ “University Profile: Istanbul Technical University, Turkey”. Board of European Students of Technology. 2012年3月30日閲覧。


  271. ^ “State Universities”. The Turkish Council of Higher Education. 2012年3月30日閲覧。


  272. ^ “About Marmara”. Marmara University. 2012年7月4日閲覧。


  273. ^ “General Information”. Ankara: Istanbul Medeniyet University. 2012年3月30日閲覧。

  274. ^ abDoğramacı, İhsan (2005年8月). “Private Versus Public Universities: The Turkish Experience Nuvola-inspired File Icons for MediaWiki-fileicon-doc.png(DOC)”. 18th International Conference on Higher Education. 2012年3月30日閲覧。


  275. ^ “History of RC”. Robert College (2012年). 2012年10月15日閲覧。


  276. ^ “Private Universities”. The Turkish Council of Higher Education. 2012年3月30日閲覧。


  277. ^ “2007 Yılına Ait Veriler” [Data for 2007] (Turkish). Governorship of Istanbul. 2011年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月30日閲覧。


  278. ^ “Historique” [History] (French). Galatasaray University. 2012年3月30日閲覧。


  279. ^ “Millî Eğitim Bakanlığı Anadolu Liseleri Yönetmeliği” [Ministry of Education Regulation on Anatolian High Schools] (Turkish). Ministry of Education (1999年11月5日). 2012年3月30日閲覧。


  280. ^ “Galatasaray Lisesi”. Galatasaray High School. 2012年7月4日閲覧。


  281. ^ “The History of the Italian School”. Liceo Italiano. 2012年7月3日閲覧。


  282. ^ “Principles of Education”. Darüşşafaka High School. 2012年7月6日閲覧。


  283. ^ “Kabataş Erkek Lisesi” (Turkey). Kabataş Erkek Lisesi. 2012年3月31日閲覧。


  284. ^ “KAL Uygulamalı Yabancı Dil Laboratuvarı” [KAL Applied Foreign Language Lab] (Turkish). Kadıköy Anadolu Lisesi. 2012年3月31日閲覧。

  285. ^ ab“Istanbul and the History of Water in Istanbul”. Istanbul Water and Sewerage Administration. 2007年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年3月11日閲覧。


  286. ^ Tigrek & Kibaroğlu 2011, pp. 33–4


  287. ^ “İSKİ Administration”. Istanbul Water and Sewerage Administration. 2007年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月31日閲覧。

  288. ^ abc“Silahtarağa Power Plant”. SantralIstanbul. 2012年3月31日閲覧。

  289. ^ ab“Short History of Electrical Energy in Turkey”. Turkish Electricity Transmission Company (2001年). 2009年11月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月5日閲覧。


  290. ^ “Central Post Office”. Emporis. 2012年4月4日閲覧。

  291. ^ abcd“About Us | Brief History”. The Post and Telegraph Organization. 2012年3月31日閲覧。


  292. ^ Masters & Ágoston 2009, p. 557


  293. ^ Shaw & Shaw 1977, p. 230

  294. ^ ab“About Türk Telekom: History”. Türk Telekom. 2012年3月31日閲覧。


  295. ^ Sanal 2011, p. 85


  296. ^ Oxford Business Group 2009, p. 197


  297. ^ Oxford Business Group 2009, p. 198


  298. ^ Connell 2010, pp. 52–3


  299. ^ Papathanassis 2011, p. 63


  300. ^ Google, Inc. Google Maps – Istanbul Overview (地図). Google, Incによる作成.. http://maps.google.com/maps?hl=en&ll=41.036118,29.047165&spn=0.147611,0.292168&t=m&z=12 2012年4月1日閲覧。 


  301. ^ Efe & Cürebal 2011, p. 720

  302. ^ abERM Group (Germany and UK) and ELC-Group (Istanbul) (January 2011 2011). “Volume I: Non Technical Summary (NTS)”. Eurasia Tunnel Environmental and Social Impact Assessment. The European Investment Bank. 2012年7月4日閲覧。

  303. ^ abLetsch, Constanze (2012年6月8日). “Plan for New Bosphorus Bridge Sparks Row Over Future of Istanbul”. The Guardian. 2012年7月4日閲覧。


  304. ^ Songün, Sevim (2010年7月16日). “Istanbul Commuters Skeptical of Transit Change”. Hürriyet Daily News. 2012年7月5日閲覧。

  305. ^ abc“Chronological History of IETT”. Istanbul Electricity, Tramway and Tunnel General Management. 2012年4月1日閲覧。


  306. ^ “T1 Bağcılar–Kabataş Tramvay Hattı” [T1 Bağcılar–Kabataş Tram Line] (Turkish). İstanbul Ulaşım A.Ş. (Istanbul Transport Corporation). 2012年8月20日閲覧。


  307. ^ “Tunnel”. Istanbul Electricity, Tramway and Tunnel. 2012年4月3日閲覧。 (Note: It is apparent this is merely a machine translation of the original Turkish page.)


  308. ^ “F1 Taksim–Kabataş Füniküler Hattı” [F1 Bağcılar–Kabataş Funicular Line] (Turkish). İstanbul Ulaşım A.Ş. (Istanbul Transport Corporation). 2012年8月20日閲覧。


  309. ^ “Raylı Sistemler” [Rail Systems] (Turkish). İstanbul Ulaşım A.Ş. (Istanbul Transport Corporation). 2012年8月20日閲覧。


  310. ^ “Ağ Haritaları” [Network Maps] (Turkish). İstanbul Ulaşım A.Ş. (Istanbul Transport Corporation). 2012年8月20日閲覧。


  311. ^ “Turkey: Connecting Continents”. Economic Updates. Oxford Business Group (2012年3月7日). 2012年4月3日閲覧。


  312. ^ Efe & Cürebal 2011, p. 723


  313. ^ “Public Transportation in Istanbul”. Istanbul Electricity, Tramway and Tunnel General Management. 2012年4月3日閲覧。


  314. ^ “Metrobus”. Istanbul Electricity, Tramway and Tunnel General Management. 2012年4月3日閲覧。


  315. ^ “Interaktif Haritalar | İç Hatlar” [Interactive Map of Timetables | Inner-City Lines] (Turkish). İDO. 2012年4月3日閲覧。


  316. ^ “Dış Hatlar” [Interactive Map of Timetables | Inter-City Lines] (Turkish). İDO. 2012年4月3日閲覧。


  317. ^ Grytsenko, Sergiy (2011年9月26日). “EBRD Supports Privatisation of Ferry Operations in Istanbul”. The European Bank for Reconstruction and Development. 2012年4月4日閲覧。


  318. ^ “Liman Hizmetleri” [Port Services] (Turkish). Turkey Maritime Organization (2011年2月10日). 2012年8月28日閲覧。


  319. ^ “Bölgesel Yolcu Trenleri” [Regional Passenger Trains] (Turkish). Turkish State Railways. 2012年4月3日閲覧。


  320. ^ Keenan, Steve (2012年6月22日). “How Your Greek Summer Holiday Can Help Save Greece”. The Guardian. 2012年9月28日閲覧。


  321. ^ “Haydarpasa Train Station”. Emporis. 2012年4月3日閲覧。


  322. ^ Head, Jonathan (2010年2月16日). “Iraq – Turkey railway link re-opens”. BBC. 2012年4月3日閲覧。


  323. ^ “Transports to Middle-Eastern Countries”. Turkish National Railways. 2012年4月3日閲覧。


  324. ^ Akay, Latifa (2012年2月5日). “2012 Sees End of Line for Haydarpaşa Station”. Today's Zaman. 2012年4月3日閲覧。


  325. ^ 世界初の大陸間海底トンネル、トルコで開通 2013年10月30日 08:33 AFP


  326. ^ “İstanbul Otogarı” [Istanbul Bus Station] (Turkish). Avrasya Terminal İşletmeleri A.Ş. (Eurasian Terminal Management, Inc.). 2012年4月3日閲覧。


  327. ^ “Eurolines Germany–Deutsche Touring GmbH–Europabus”. Touring. 2012年4月3日閲覧。


  328. ^ Rogers, Simon (2012年5月4日). “The World's Top 100 Airports: Listed, Ranked, and Mapped”. The Guardian. 2012年7月6日閲覧。


  329. ^ Strauss, Delphine (2009年11月25日). “Sabiha Gökçen: New Terminal Lands On Time and Budget”. The Financial Times. 2012年7月4日閲覧。


  330. ^ “Yolcu Trafiği (Gelen-Giden) (pdf)” [Passenger Traffic (Incoming-Outgoing)] (Turkish). General Directorate of State Airports Authority. 2012年4月3日閲覧。


  331. ^ “Sabiha Gökçen Named World's Fastest Growing Airport”. Today's Zaman (2011年8月18日). 2012年4月4日閲覧。


  332. ^ “Minister Names Location for 3rd Airport”. Hürriyet Daily News (2012年8月3日). 2012年8月18日閲覧。


  333. ^ Turkey seeks to build six-runway airport ft.com January 23, 2013 6:26 pm


  334. ^ トルコに世界最大規模の国際空港が10月29日開港!概要が明らかに(All Aboutニュース 2018年3月28日 2018年4月1日閲覧)


  335. ^ “Sister Cities of Istanbul”. 2009年7月1日閲覧。


  336. ^ Erdem, Selim Efe (2009年7月1日). “İstanbul'a 49 kardeş” (Turkish). Radikal. http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=94185 2009年7月22日閲覧. "49 sister cities in 2003" 

  337. ^ abcdefghijklmnopIBB (2010 [last update]). “kardes_sehir_isbirligi_ve_iyi_niyet_anlasmasi_imzalanan_seh.pdf (application/pdf Object)”. ibb.gov.tr. 2011年5月30日閲覧。


  338. ^ “Berlin's international city relations”. Berlin Mayor's Office. 2009年7月1日閲覧。


  339. ^ “Barcelona internacional - Ciutats agermanades” (Spanish). © 2006-2009 Ajuntament de Barcelona. 2009年7月13日閲覧。


  340. ^ “Sister cities of Budapest” (Hungarian). Official Website of Budapest. 2009年7月1日閲覧。


  341. ^ www.praha-mesto.cz. “Partner cities”. 2008年10月9日閲覧。


  342. ^ “Saint Petersburg in figures - International and Interregional Ties”. Saint Petersburg City Government. 2008年11月23日閲覧。


  343. ^ http://www.ibb.gov.tr/tr-TR/Pages/Haber.aspx?NewsID=20463




脚注関連文献





  • ʻAner, Nadav (2005). Pergola, Sergio Della; Gilboa, Amos; Ṭal, Rami. eds. The Jewish People Policy Planning Institute Planning Assessment, 2004–2005: The Jewish People Between Thriving and Decline. Jerusalem: Gefen Publishing House Ltd. ISBN 978-965-229-346-6. 


  • Athanasopulos, Haralambos (2001). Greece, Turkey, and the Aegean Sea: A Case Study in International Law. Jefferson, N.C.: McFarland & Company, Inc. ISBN 978-0-7864-0943-3. 


  • Barnes, Timothy David (1981). Constantine and Eusebius. Cambridge, Mass.: Harvard University Press. ISBN 978-0-674-16531-1. 


  • Baynes, Norman H. (1949). Baynes, Norman H.; Moss, Henry S. L. B. eds. Byzantium: An Introduction to East Roman Civilization. Oxford, Eng.: Clarendon Press. ISBN 978-0-674-16531-1. 


  • Boyar, Ebru; Fleet, Kate (2010). A Social History of Ottoman Istanbul. Cambridge, Eng.: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-13623-5. 


  • Brink-Danan, Marcy (2011). Jewish Life in Twenty-First-Century Turkey: The Other Side of Tolerance. New Anthropologies of Europe. Bloomington, Ind.: Indiana University Press. ISBN 978-0-253-35690-1. 


  • Brummett, Palmira Johnson (2000). Image and Imperialism in the Ottoman Revolutionary Press, 1908–1911. Albany, N.Y.: SUNY Press. ISBN 978-0-7914-4463-4. 


  • Cantor, Norman F. (1994). Civilization of the Middle Ages. New York: HarperCollins. ISBN 978-0-06-092553-6. 


  • Çelik, Zeynep (1993). The Remaking of Istanbul: Portrait of an Ottoman City in the Nineteenth Century. Berkeley, Calif., & Los Angeles: University of California Press. ISBN 978-0-520-08239-7. 


  • Chamber of Architects of Turkey (2006). Architectural Guide to Istanbul: Historic Peninsula. 1. Istanbul: Chamber of Architects of Turkey, Istanbul Metropolitan Branch. ISBN 978-975-395-899-8. 


  • Chandler, Tertius (1987). Four Thousand Years of Urban Growth: An Historical Census. Lewiston, N.Y.: St. David's University Press. ISBN 978-0-88946-207-6. 


  • Connell, John (2010). Medical Tourism. CAB Books. Wallingford, Eng.: CABI. ISBN 978-1-84593-660-0. 


  • Dahmus, Joseph (1995). A History of the Middle Ages. New York: Barnes & Noble Publishing. ISBN 978-0-7607-0036-5. 


  • Davidson, Linda Kay; Gitlitz, David Martin (2002). Pilgrimage: From the Ganges to Graceland: An Encyclopedia. 1. Santa Barbara, Calif.: ABC-CLIO. ISBN 978-1-57607-004-8. 


  • De Sélincourt, Aubery (2003). Marincola, John M. ed. The Histories. Penguin Classics. London: Penguin Books. ISBN 978-0-14-044908-2. 


  • De Souza, Philip (2003). The Greek and Persian Wars, 499-386 B.C. London: Routledge. ISBN 978-0-415-96854-6. 




  • Dumper, Michael; Stanley, Bruce E., eds (2007). Cities of the Middle East and North Africa: A Historical Encyclopedia. Santa Barbara, Calif.: ABC-CLIO. ISBN 978-1-57607-919-5. 


  • Düring, Bleda S. (2010). The Prehistory of Asia Minor: From Complex Hunter-Gatherers to Early Urban Societies. Cambridge, Eng.: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-14981-5. 


  • Efe, Recep; Cürebal, Isa (2011). “Impacts of the "Marmaray" Project (Bosphorus Tube Crossing, Tunnels, and Stations) on Transportation and Urban Environment in Istanbul”. In Brunn, Stanley D. Engineering Earth: The Impacts of Megaengineering Projects. London & New York: Springer. pp. 715–34. ISBN 978-90-481-9919-8. 


  • Finkel, Caroline (2005). Osman's Dream: The Story of the Ottoman Empire, 1300–1923. New York: Basic Books. ISBN 978-0-465-02396-7. 


  • Freely, John (1996). Istanbul: The Imperial City. New York: Viking. ISBN 978-0-670-85972-6. 


  • Freely, John (2000). The Companion Guide to Istanbul and Around the Marmara. Woodbridge, Eng.: Companion Guides. ISBN 978-1-900639-31-6. 


  • Freely, John (2011). A History of Ottoman Architecture. Southampton, Eng.: WIT Press. ISBN 978-1-84564-506-9. 


  • Göksel, Aslı; Kerslake, Celia (2005). Turkish: A Comprehensive Grammar. Comprehensive Grammars. Abingdon, Eng.: Routledge. ISBN 978-0-415-21761-3. 


  • Göktürk, Deniz; Soysal, Levent; Türeli, İpek, eds (2010). Orienting Istanbul: Cultural Capital of Europe?. New York: Routledge. ISBN 978-0-415-58011-3. 


  • Grant, Michael (1996). The Severans: The Changed Roman Empire. London: Routledge. ISBN 978-0-415-12772-1. 


  • Gregory, Timothy E. (2010). A History of Byzantium. Oxford, Eng.: John Wiley and Sons. ISBN 978-1-4051-8471-7. 


  • Harter, Jim (2005). World Railways of the Nineteenth Century: A Pictorial History in Victorian Engravings (illustrated ed.). Baltimore: Johns Hopkins University Press. ISBN 978-0-8018-8089-6. 


  • Holt, Peter M.; Lambton, Ann K. S.; Lewis, Bernard, eds (1977). The Cambridge History of Islam. 1A (illustrated, reprint ed.). Cambridge, Eng.: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-29135-4. 


  • Isaac, Benjamin H. (1986). The Greek Settlements in Thrace Until the Macedonian Conquest (illustrated ed.). Leiden, the Neth.: BRILL. ISBN 978-90-04-06921-3. 


  • Kapucu, Naim; Palabiyik, Hamit (2008). Turkish Public Administration: From Tradition to the Modern Age. USAK Publications. 17. Ankara: USAK. ISBN 978-605-4030-01-9. 


  • Karpat, Kemal H. (1976). The Gecekondu: Rural Migration and Urbanization (illustrated ed.). Cambridge, Eng.: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-20954-0. 


  • Keyder, Çağlar, ed (1999). Istanbul: Between the Global and the Local. Lanham, Md.: Rowman & Littlefield. ISBN 978-0-8476-9495-2. 


  • Klimczuk, Stephen; Warner, Gerald (2009). Secret Places, Hidden Sanctuaries: Uncovering Mysterious Sights, Symbols, and Societies. New York: Sterling Publishing Company, Inc. ISBN 978-1-4027-6207-9. 


  • Knieling, Jörg; Othengrafen, Frank (2009). Planning Cultures in Europe: Decoding Cultural Phenomena in Urban and Regional Planning. Urban and Regional Planning and Development. Surrey, Eng.: Ashgate Publishing, Ltd. ISBN 978-0-7546-7565-5. 


  • Köksal, Özlem, ed (2012). World Film Locations: Istanbul. Bristol, Eng.: Intellect Books. ISBN 978-1-84150-567-1. 


  • Köse, Yavuz (2009). “Vertical Bazaars of Modernity: Western Department Stores and Their Staff in Istanbul (1889–1921)”. In Atabaki, Touraj; Brockett, Gavin. Ottoman and Republican Turkish Labour History. Cambridge, Eng.: Cambridge University Press. pp. 91–114. ISBN 978-0-521-12805-6. 


  • Landau, Jacob M. (1984). Atatürk and the Modernization of Turkey. Leiden, the Neth.: E.J. Brill. ISBN 978-90-04-07070-7. 


  • Limberis, Vasiliki (1994). Divine Heiress: The Virgin Mary and the Creation of Christian Constantinople. London: Routledge. ISBN 978-0-415-09677-5. 


  • Lister, Richard P. (1979). The Travels of Herodotus. London: Gordon & Cremonesi. ISBN 978-0-86033-081-3. 


  • Masters, Bruce Alan; Ágoston, Gábor (2009). Encyclopedia of the Ottoman Empire. New York: Infobase Publishing. ISBN 978-1-4381-1025-7. 


  • Morris, Ian (October 2010) (pdf). Social Development. Stanford, Calif.: Stanford University. http://ianmorris.org/docs/social-development.pdf 2012年7月5日閲覧。. 


  • Mossberger, Karen; Clarke, Susan E.; John, Peter (2012). The Oxford Handbook of Urban Politics. Oxford Handbooks in Politics and International Relations. Oxford, Eng.: Oxford University Press. ISBN 978-0-19-536786-7. 


  • Necipoğlu, Gülru (1991). Architecture, Ceremonial, and Power: The Topkapi Palace in the Fifteenth and Sixteenth Centuries. Cambridge, Mass.: The MIT Press. ISBN 978-0-262-14050-8. 


  • Norris, Pippa (2010). Public Sentinel: News Media & Governance Reform. Washington, D.C.: World Bank Publications. ISBN 978-0-8213-8200-4. 


  • Organisation for Economic Co-operation and Development (2008). Istanbul, Turkey. OECD Territorial Reviews. Paris: OECD Publishing. ISBN 978-92-64-04371-8. 


  • Oxford Business Group (2009). The Report: Turkey 2009. Oxford, Eng.: Oxford Business Group. ISBN 978-1-902339-13-9. 


  • Papathanassis, Alexis (2011). The Long Tail of Tourism: Holiday Niches and Their Impact on Mainstream Tourism. Berlin: Springer. ISBN 978-3-8349-3062-0. 


  • Quantic, Roy (2008). Climatology for Airline Pilots. Oxford, Eng.: John Wiley & Sons. ISBN 978-0-470-69847-1. 


  • Reinert, Stephen W. (2002). “Fragmentation (1204–1453)”. In Mango, Cyril. The Oxford History of Byzantium. Oxford, Eng.: Oxford University Press. ISBN 978-0-19-814098-6. 


  • Reisman, Arnold (2006). Turkey's Modernization: Refugees from Nazism and Atatürk's Vision. Washington, D.C.: New Academia Publishing, LLC. ISBN 978-0-9777908-8-3. 


  • Roebuck, Carl (1959). Ionian Trade and Colonization. Monographs on Archaeology and Fine Arts. New York: Archaeological Institute of America. ISBN 978-0-89005-528-1. 


  • Room, Adrian (2006). Placenames of the World: Origins and Meanings of the Names for 6,600 Countries, Cities, Territories, Natural Features, and Historic Sites (2nd ed.). Jefferson, N.C.: McFarland & Company. ISBN 978-0-7864-2248-7. 


  • Rôzen, Mînnā (2002). A History of the Jewish Community in Istanbul: The Formative Years, 1453–1566 (illustrated ed.). Leiden, the Neth.: BRILL. ISBN 978-90-04-12530-8. 


  • Sanal, Aslihan (2011). Fischer, Michael M. J.; Dumit, Joseph. eds. New Organs Within Us: Transplants and the Moral Economy. Experimental Futures (illustrated ed.). Chapel Hill, N.C.: Duke University Press. ISBN 978-0-8223-4912-9. 


  • Schmitt, Oliver Jens (2005) (German). Levantiner: Lebenswelten und Identitäten einer ethnokonfessionellen Gruppe im osmanischen Reich im "langen 19. Jahrhundert". München: Oldenbourg. ISBN 978-3-486-57713-6. 


  • Shaw, Stanford J.; Shaw, Ezel K. (1977). History of the Ottoman Empire and Modern Turkey. 2. Cambridge, Eng.: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-29166-8. 


  • Taşan-Kok, Tuna (2004). Budapest, Istanbul, and Warsaw: Institutional and Spatial Change. Delft, the Neth.: Eburon Uitgeverij B.V. ISBN 978-90-5972-041-1. 


  • Taylor, Jane (2007). Imperial Istanbul: A Traveller's Guide: Includes Iznik, Bursa and Edirne. New York: Tauris Parke Paperbacks. ISBN 978-1-84511-334-6. 


  • Tigrek, Sahnaz; Kibaroğlu, Ayșegül (2011). “Strategic Role of Water Resources for Turkey”. In Kibaroğlu, Ayșegül; Scheumann, Waltina; Kramer, Annika. Turkey's Water Policy: National Frameworks and International Cooperation. London & New York: Springer. ISBN 978-3-642-19635-5. 


  • Time Out Guides, ed (2010). Time Out Istanbul. London: Time Out Guides. ISBN 978-1-84670-115-3. 


  • Turan, Neyran (2010). “Towards an Ecological Urbanism for Istanbul”. In Sorensen, André; Okata, Junichiro. Megacities: Urban Form, Governance, and Sustainability. Library for Sustainable Urban Regeneration. London & New York: Springer. pp. 223–42. ISBN 978-4-431-99266-0. 


  • WCTR Society; Unʼyu Seisaku Kenkyū Kikō (2004). Urban Transport and the Environment: An International Perspective. Amsterdam: Elsevier. ISBN 978-0-08-044512-0. 


  • Wedel, Heidi (2000). Ibrahim, Ferhad; Gürbey, Gülistan. eds. The Kurdish Conflict in Turkey. Berlin: LIT Verlag Münster. pp. 181–93. ISBN 978-3-8258-4744-9. 


  • Wynn, Martin (1984). Planning and Urban Growth in Southern Europe. Studies in History, Planning, and the Environment. Los Altos, Calif.: Mansell. ISBN 978-0-7201-1608-3. 

  • 井上浩一 『生き残った帝国ビザンティン』 講談社〈講談社現代新書〉、1991年、第2刷。ISBN 4-06-149032-X。

  • 日高健一郎・谷水潤 『イスタンブール』 丸善〈建築巡礼17〉、1990年。ISBN 4-621-03518-5。




外部リンク













































公式


  • イスタンブール公式サイト (トルコ語)(英語)

観光



  • トルコ政府観光局 - イスタンブール (日本語)


  • 世界の建築ギャラリー - スレイマニエとセリミエ (日本語)


  • ウィキトラベル旅行ガイド - イスタンブール (日本語)

  • Official website of the Istanbul Metropolitan Municipality

  • Official website of the Istanbul Governorship

  • Istanbul Metropolitan Municipality: Interactive aerial photos (maps) of Istanbul from 1946, 1966, 1982, and 2005

  • Istanbul Metropolitan Municipality: Live views of major landmarks in Istanbul

  • Istanbul Metropolitan Municipality: Istanbul Bulteni Magazine official website


その他


  • 地図 - Google マップ


座標: 北緯41度00分49秒 東経28度57分18秒 / 北緯41.01361度 東経28.95500度 / 41.01361; 28.95500







Popular posts from this blog

Accessing regular linux commands in Huawei's Dopra Linux

Can't connect RFCOMM socket: Host is down

Kernel panic - not syncing: Fatal Exception in Interrupt