曹丕
文帝 曹丕 | |
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魏 | |
初代皇帝 | |
魏文帝(閻立本筆、ボストン美術館蔵) | |
王朝 | 魏 |
在位期間 | 220年11月25日 - 226年6月29日 |
都城 | 洛陽 |
姓・諱 | 曹丕 |
字 | 子桓 |
諡号 | 文皇帝 |
廟号 | 高祖[1] 世祖[2] |
生年 | 中平4年(187年) |
没年 | 黄初7年5月17日 (226年6月29日) |
父 | 曹操 |
母 | 卞皇后 |
后妃 | 郭皇后 |
陵墓 | 首陽陵 |
年号 | 黄初 : 220年 - 226年 |
曹 丕(そう ひ)は、三国時代の魏の初代皇帝。父曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。著書に『典論』がある。
目次
1 生涯
2 治績
3 後世の評価
4 『列異伝』に関する考察
5 逸話
6 三国志演義
7 妻子
7.1 后妃
7.2 子
8 脚注
9 参考文献
10 外部リンク
生涯
曹操と卞氏(武宣皇后)との長子として生まれ、8歳で巧みに文章を書き、騎射や剣術を得意とした。初めは庶子(実質的には三男)の一人として、わずか11歳で父の軍中に従軍していた。建安2年(197年)に曹操の正室の丁氏が養子として育て、嫡男として扱われていた異母長兄の曹昂(生母は劉氏)が戦死すると、これがきっかけで丁氏が曹操と離別する。次兄の曹鑠も程なく病死し、一介の側室でしかなかった生母の卞氏が曹操の正室として迎えられた。以後、曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになる。やがて曹丕は文武両道の素質を持った人物に成長することとなった。『三国志』魏書によれば、曹丕は茂才に推挙されたが、出仕しなかった。
曹操の下で五官中郎将として副丞相となり、曹操の不在を守るようになった。
建安22年(217年)に曹操から太子に正式に指名される。通説ではこの時に弟の曹植と激しく後継争いをしたと言われる。建安24年(219年)に曹操不在時に魏諷の反乱が起こるが、陳禕が曹丕に密告したために露見し、捕らえられ無差別処刑された。
建安25年(220年)に父が逝去すると、魏王に即位し丞相職を受け継ぐ。王位についたばかりの頃、私兵四千家あまりを統率して孟達が魏に帰伏し、大いに喜び孟達を厚遇した。当時、大勢の臣下のうちで、孟達への待遇があまりに度はずれであり、また地方の鎮めの任を任すべきでないと考えるものがあった。これを耳にすると、「私が彼の異心なきことを保証する。これも例えてみれば、蓬の茎で作った矢で蓬の原を射るようなものだ(毒を以て毒を制すの意)」といった。
その後、献帝に禅譲を迫って皇帝の座に即いた。ただし、表向きは家臣達から禅譲するように上奏し、また献帝から禅譲を申し出たのを曹丕は辞退し、家臣達に重ねて禅譲を促されるという形を取った。2回辞退したのちに、初めて即位した。ここで後漢が滅亡し、三国時代に入ることとなる。文帝は内政の諸制度を整え、父から受け継いだ国内を安定させた。特に陳羣の進言による九品官人法の制定は、後の世に長く受け継がれた。
黄初3年(222年~223年)に始まった出兵は、三路から呉を攻め、曹休が呂範を破り、曹真・夏侯尚・張郃らが孫盛・諸葛瑾を破り、後に曹仁と曹休が最終的に大敗した。江陵を包囲攻撃し陥落寸前まで追い込んだが、また疫病が流行したため退却せざるを得なかった(222年から223年にかけての三方面での戦い)。
黄初5年(224年)の出兵では、曹丕は10数万の軍勢を率いて広陵からそのまま出撃し、徐盛が長江沿岸に築いた偽の城壁に驚き、曹丕は広陵に到ると囲営を望見して愕然とし、魏の人々は偽城を恐れ、延々すること数百里で、しかも江水も盛長となり、これを見て「孫権には未だ人材が多く、攻め取るのは難しい」と感嘆し、戦わずして退却した。
黄初6年225年、再び出兵したが、10数万の軍勢で自ら親征しての広陵へと進撃。この年は寒さが厳しく長江が凍り、曹丕は「天は、南北を区切ろうとするのか」と歎じたが、龍舟を動かすことが出来なかったので撤退した。この時、呉宗室の孫韶軍500人の奇襲を受け、曹丕が大いに驚き魏軍が混乱する中、曹丕の副車と魏軍の輜重などが奪われ、魏軍は敗走した。
黄初7年(226年)、風邪をこじらせて肺炎に陥り、そのまま崩御した。死ぬ間際、司馬懿・曹真・陳羣・曹休に皇太子の曹叡を託した。
治績
曹丕の統治は主に王権を重視するものであった。宦官を一定以上の官位に昇進できないようにしたのは、その端的な処置であると言える。他にも郭氏を皇后に立てる際は、皇帝を差し置いての太后への上奏を禁じ、冀州の兵士5万戸を河南郡に移した。身内にも厳しく、曹植を始めとする兄弟を僻地に遠ざけ、地力を削ぐため転封を繰り返したことで有名である。これによって必要以上に藩屏の力が衰えた。曹操死後において、曹丕が跡を継ぐと司馬懿はますます重用され、後の司馬氏の台頭を招いてしまった。魏を滅ぼした西晋の武帝司馬炎はこれに鑑みて皇族を優遇したが、今度は逆に諸王に軍事権まで与えるなど厚遇が過ぎ、八王の乱を引き起こすに至る。
政治面では年上である孫権の戦略に欺かれ、手玉にとられている。軍事面では3度にわたり呉に出兵したが、いずれも勝利を得ることはできず、3連敗を喫している。なお、文帝は在位わずか6年で崩御するが、それが創業したばかりの王朝の基盤を培うには不充分な期間だったため、結果として魏の寿命を縮めたという指摘もある。
後世の評価
太子になった際に浮かれすぎ、辛憲英から呆れられたなどと書かれている。甄氏に死を賜ったことや、曹植を陥れ、曹彰を冷遇したことが有名である。それ以外にも、出戻り降将于禁を辱めて死なせたり、夏侯尚の妾を殺して夏侯尚を痴呆にしてしまい、結果的に衰弱死させたことや、自分ではなく曹植を擁立しようとしていた丁儀・丁廙・楊俊らに対する誅殺、鮑勛(父は鮑信、曹操の起業を助けた建国の功臣と言ってもよい人物)の諫言を嫌がり、鍾繇・華歆・陳羣といった名臣達から助命嘆願が出ていたのも聴き容れず、最終的には微罪で処刑してしまった。他にも功臣であり宗室でもある曹洪に対し、過去に借財を頼んで断られた恨みから皇帝即位後に他の罪を口実に殺そうとする、荀惲、盧毓、崔林、杜夔らに対して罷免を行う…など、枚挙に暇がない。
その能力も同時期の君主から低い評価を得た。[独自研究?]劉備臨終の際、諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある」と言った。孫権は諸葛瑾への手紙には、曹操の統率力を高く評価し、また曹丕は曹操より万事に及ばない、と書いたという。
皇帝在位中には国内の大きな混乱はなかった。が、曹丕が魏を建国した220年に制定した九品中正法は後の政局の腐敗を招いた。上位の官僚に力のない寒門からは成ることは出来ず、力のある勢族から下位の官僚に成る者はいない。司馬懿はその欠陥を悪用し自分の息のかかった人物を登用する手段として用い、西晋時代に入ると豪族たちが貴族化し、貴族台頭の時代を迎える。王朝政権は腐敗しており、豪族共同体は私利私欲で崩壊していくことになる。
『三国志』の撰者である陳寿は「文学の資質には天稟といえる趣があり、博聞強記の学識と技芸の才能を兼備していた。これでこのうえ、広大な度量を加え、公平な誠意をもって努め、徳心を充実させることが出来たならば、古代の賢君もどうして縁遠い存在であっただろうか」と評されており、つまり婉曲的に『器が小さい、寡徳な欠陥人格者』だと言われている。
『列異伝』に関する考察
曹丕は志怪小説『列異伝』の撰者といわれているが、現行の『列異伝』は『芸文類聚』『水経注』をはじめとする各文献に引用された話を集めた輯本であり、曹丕死後の景初、正始、甘露年間の話も含まれている。
『隋書』経籍志では「列異伝 全三巻、魏文帝撰」とあるが、『旧唐書』では「全三巻、張華撰」となっており、『新唐書』芸文志では「張華撰」とするが、巻数を三巻ではなく一巻とするなど、記録の異同が多い。清の姚振宗『隋書経籍志考証』では「張華が魏文帝に続いて作り、後代の人々が混同したのだろう」としているが査証はない。
もともと「列異伝」という題名自体、誰でも付け得るものであり、『太平御覧』所収の諸文献を比較すると、撰者を記していないケースが多い。撰者名がある場合は、曹丕に次いで張華が多い。そのほかにも呉の胡冲や、西晋の皇甫謐の著作として『列異伝』の名前が見える。さらに、こうした類書の場合、著者の正確性をあまり問題にしないことが多い。このため現行の『列異伝』と曹丕の書がどのような関係にあるか、正確には分からない。
志怪小説の撰者として、曹丕の名が挙げられたことは、彼が怪奇な文学風の持ち主であったことも一因であろう。しかし、古い志怪小説の場合、そこに「怪奇とは天による戒め、前兆である」という思想が前提となっていることも忘れてはならない。有名な『捜神記』にしても、文章の構成としては「ある事件」→「従来の解釈」→「干宝の解釈」のスタイルが全編に見られる。
逸話
外出しようとした文帝は、馬を選んで宮中に引き入れさせた。途中で引き入れられてゆく馬を見て、朱建平は人に「この馬の相は、今日死ぬことになっている。」と告げた。文帝が馬に乗ろうとすると、馬は帝の衣服にたきこめた香のかおりを嫌って、気が立って文帝の膝にかみついた。ひどく腹を立てた文帝は即座にその馬を殺した。
司馬懿・陳羣・呉質・朱鑠(字は彦才)は文帝に寵愛され、「四友」と呼ばれて重職を歴任した。
龐統の弟龐林の妻は、同軍の習禎の妹であった。曹操が荊州を破ったとき、龐林の妻は龐林と離ればなれになり、一人で幼い娘を十余年養育した。後年、龐林が黄権に従って魏に投降したとき、やっとふたたび親子一緒になることができた。聞き知った曹丕は彼女を賢婦だと思い、寝台・帳・衣服を賜って、その節義を表彰した[3]。
三輔(長安)が混乱すると、王忠は飢え苦しんで人肉を食した。後に五官中郎将だった曹丕は、曹操・王忠らと共に外出したことがあった。このとき曹丕は、芸人に命じて墓場から髑髏を取って来させ、これを王忠の鞍に括り付けさせた。かつて人肉を食った王忠を、笑い者にしたのである。
長水校尉の戴陵が、文帝曹丕がたびたび狩猟に出かけるのを諫言したため怒りを買って処刑されかけたが、減刑されて助かった。
丁儀は文才に優れており、曹操からもその才能を評価され、清河長公主(曹昂の同母妹)を嫁がせようと考えていた。しかし息子の曹丕に意見を求めた際「丁儀の容貌は斜視(眇=すがめ、片目が小さいこと)なので、そのような醜い男の妻になっても姉上がお気の毒です」と答えた為、曹操は気が変わり、最終的に夏侯楙に対し清河公主を嫁に出した。だが曹操は、後に丁儀が改めて有能だと分かると「やはり娘を丁儀に嫁がせるべきであった」と、大いに後悔したという。夏侯楙は関中にいた頃、多くの娼妓を囲っていたため、清河長公主と仲が悪くなった。このような経緯もあり、丁儀は曹植を曹操の後継者に押し、熱心に運動した。220年に曹操が死に、曹植との後継者争いに勝利して王位に即位した曹丕は、報復人事を起こし、丁儀が捕えられて殺されたばかりか、丁一族はすべて誅殺されてしまった。
曹操が崩じたとき、子の曹丕は、曹操の寵姫たちをみな自分のものにして、はべらせた。文帝の病気が重くなったとき、母の卞后が見舞いに行った。彼女が部屋に入ってみると、とのいの侍女はみな昔、先帝が寵愛した者たちだった。太后が「いつここに来たのじゃ」と問うと、寵姫らは「おかくれあそばされたすぐ後で参りました」という。そこで太后はそれ以上進まず、嘆息しながら「犬やネズミでもお前の食べかすは食らうまい。死ぬのは当然じゃ」と言った。文帝の大葬にも太后はついに哭泣しようとはされなかった。[4]
三国志演義
曹操が冀州を攻め落とした時、曹丕は真っ先に袁紹の屋敷に乗り込み、袁煕の妻であった甄氏を見初めて自分の妻にしたという。これを聞いた曹操は「今度の戦はあいつの為にやったようなものだ」と苦笑したという。
蜀呉同盟に怒り、呉に対して黄初5年(224年)に大水軍をもって攻めるが徐盛に大敗、赤壁の戦い同様の被害を出し、そこで張遼を失ったと描写してある。
妻子
后妃
- 皇后郭女王
- 夫人甄氏、夫人李氏[5]
- 貴人李氏、貴人陰氏、貴人柴氏
- 昭儀仇氏、淑媛潘氏、淑媛朱氏
- 徐姫、蘇姫、張姫、宋姫
- 宮人莫瓊樹、宮人薛夜来、宮人田尚衣、宮人段巧笑[6]
山陽公の娘2人- 任氏(即位前の妻)
子
- 男子
曹叡(明帝)母は甄氏
曹協(賛哀王)母は李貴人
曹喈(早世)
曹蕤(北海悼王)母は潘淑媛
曹鑒(東武陽懐王)母は朱淑媛
曹霖(東海定王)母は仇昭儀
曹礼(元城哀王)母は徐姫
曹邕(邯鄲懐王)母は蘇姫
曹貢(清河悼王)母は張姫
曹儼(広平哀王)母は宋姫
- 女子
- 公主(早世)母は徐姫
- 東郷公主(母は甄氏)
脚注
^ 『三国志』「巻三・魏書三・明帝紀第三」、「巻四・魏書四・三少帝紀第四」。裴松之註引王沈『魏書』。『資治通鑑目録』「巻九」。『資治通鑑考異』「巻三・魏紀」。
^ 『資治通鑑』「巻六十九・魏紀一」では世祖とある。
^ 『襄陽記』
^ 『世説新語』
^ 『魏略』より
^ 『古今注』より
参考文献
- 松枝茂夫 『中国名詩選』上巻 岩波文庫、345頁。
- 伊藤正文 『中国古典文学大系』第16巻『漢・魏・六朝詩集』 平凡社、492頁。
- シブサワ・コウ監修 『三國志IX武将FILE』 コーエー、19頁。
外部リンク
- 『典論』解説
- 曹丕文集
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