アスレティック・ビルバオ

























































アスレティック・クルブ
原語表記
Athletic Club
愛称
ロス・レオネス (ライオンズ)
クラブカラー
赤と白
創設年
1898年
所属リーグ
リーガ・エスパニョーラ
所属ディビジョン
プリメーラ・ディビション
ホームタウン
ビルバオ
ホームスタジアム
サン・マメス
収容人数
53,332
代表者
スペインの旗 ホス・ウルティア
監督
スペインの旗 ガイスカ・ガリターノ
公式サイト
公式サイト


















ホームカラー














アウェイカラー



■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ

アトレティック・クルブ(スペイン語: Athletic Club)は、スペイン・バスク州・ビルバオに本拠地を置くサッカークラブである。日本では、アスレティック・ビルバオ (Athletic Bilbao) あるいはビルバオの通称で広く知られている。


1912年に最後の外国人選手がクラブから去って以降、選手は「バスク人」に限定するというクラブ方針を守っており[1]、契約するプロ選手はバスク州(ビスカヤ県・ギプスコア県・アラバ県)、ナバラ州、ラ・リオハ州出身者か、フランス領バスクのラブール・スール・バス=ナヴァール出身者のみである。




目次






  • 1 概要


  • 2 クラブ方針


  • 3 歴史


    • 3.1 20世紀


      • 3.1.1 前身2クラブの合併


      • 3.1.2 初期のコパ・デル・レイでの躍進


      • 3.1.3 全国選手権創設と参入


      • 3.1.4 ペントランド監督時代


      • 3.1.5 アトレティコ・ビルバオへの強制改名


      • 3.1.6 クレメンテ監督の黄金期とその後


      • 3.1.7 フェルナンデス監督時代




    • 3.2 21世紀


      • 3.2.1 暗黒の2年間


      • 3.2.2 カパロス監督時代


      • 3.2.3 ビエルサ監督時代


      • 3.2.4 バルベルデ監督 (第2期)






  • 4 スタジアム


  • 5 ユニフォーム


    • 5.1 デザインの変遷


    • 5.2 スポンサーとサプライヤー




  • 6 タイトル


    • 6.1 国内タイトル


    • 6.2 国際タイトル




  • 7 成績


  • 8 記録と統計


  • 9 現所属メンバー


    • 9.1 ローン移籍中の選手




  • 10 歴代監督


  • 11 歴代所属選手


    • 11.1 GK


    • 11.2 DF


    • 11.3 MF


    • 11.4 FW




  • 12 脚註


  • 13 外部リンク





概要


1929年以来継続してプリメーラ・ディビシオンに在籍しており、8回優勝している。コパ・デル・レイ(国王杯)では24回の優勝を誇る。


ラ・リーガ通算順位表ではレアル・マドリード、FCバルセロナ、バレンシアCFに次ぐ4位に位置し、レアル・マドリード、バルセロナとともに一度もセグンダ・ディビシオン(2部)に降格したことがない3クラブのうちのひとつである[1]


レアル・ソシエダとの対戦はバスクダービーとして盛り上がりを見せる。


「ロス・レオネス (Los Leones, ライオンズ) 」というニックネームがある。マメスはローマ人によってライオンの群れの中に投げ入れられたキリスト教徒であるが、ライオンたちはマメスの捕食を拒み、そうして彼は後に聖人となった。


アスレティックはスペインにおいて株式会社化を行っていない4つのクラブ(その他はレアル・マドリード、バルセロナ、CAオサスナ)のうちのひとつであり、ソシオ (socios) と呼ばれる組合員によって所有され経営されている。女子チームはスーペルリーガ(女子1部)で4回優勝している。



クラブ方針


バスク人に限定するというクラブ方針は、近年では規制が多少緩められ、直系の先祖にバスク出身者がいる選手はプレー可能となっている。この方針は賛否両論であるが、地元出身者を積極的にトップチームに昇格させることや、クラブの忠誠心などが称賛されている。かつてはライバルのソシエダもアスレティック同様の方針を持っていたが、1989年以降のソシエダはバスク人以外の選手(スペイン国外出身選手)とも契約を交わすようになった。アスレティックは外国人監督を招くことには積極的で、クラブ創設以降、多くのスペイン国外出身者が監督を務めた。クラブには、レサマ (Lezama) と呼ばれる下部組織のピラミッドを通して若いバスク人選手を育成するというカンテラ方針があり、また、ホセバ・エチェベリアやハビ・マルティネスなど、他クラブからの優秀なバスク人選手のリクルートも行っている。



歴史



20世紀



前身2クラブの合併





コパ・デル・レイ初優勝時の選手達(1903年)


イギリスに繋がりがある異なる2つの集団によって、ビルバオにサッカーがもたらされた。製鉄業や造船業などに従事したイギリス人労働者と、イギリス留学帰りのバスク人学生である。19世紀後半のビルバオは、近隣に鉄鉱石鉱山や造船所を抱えた一級の工業港湾であった。この地域はスペイン経済の推進力となり、結果として多くの労働者移民を引きつけ、中にはイングランド北東部から移住した炭鉱労働者、サウサンプトン・ポーツマス・サンダランドから移住した造船業従事者もいた。彼らはサッカーとともに育ち、1890年代初頭にイギリス人労働者が集ってビルバオFC (Bilbao Football Club) を形成。バスク人学生らがイギリス人労働者たちの対戦相手となっていたが、学生らは土木工学や商学を修めるためにイギリスに渡った。イギリスでサッカーへの興味を深め、ビルバオに戻るとイギリス人労働者たちとの試合に手を加え始めた。1898年、Gymnasium Zamacoisという総合スポーツクラブに所属していた学生たちは、英語のスペルを用いたサッカーチーム、アスレティック・クルブ (Athletic Club) を設立[1]。1901年4月5日、カフェ・ガルシアで集会が開かれて公式にクラブの設立が宣言された[1]。1902年に初開催されたコパ・デル・レイには、ビルバオFCとアスレティック・クラブの合同チーム(クルブ・ビスカヤ、Club Bizcaya)として参戦し、クラブ・ビスカヤは決勝でFCバルセロナを破って優勝した[1]。1903年、2つのクラブは正式に合併してアスレティック・クルブ (Athletic Club) となった[1]。同年にはバスクの学生がアスレティック・クルブ・マドリードを形成し、このクラブは後にアトレティコ・マドリードに発展した。アスレティック・クラブの創設日はサッカー史家の間で議論の対象となっており、クラブ自身は1898年創立であると発表しているが、本当の設立年は1901年もしくは1903年であるとする意見もある。



初期のコパ・デル・レイでの躍進


アスレティックは初期のコパ・デル・レイで顕著な活躍を見せた。クルブ・ビスカヤによる第1回大会優勝に続いて、新しく形成されたアスレティック・ビルバオは1903年の第2回大会でも優勝を果たした。1904年には対戦相手のクルブ・エスパニョール・デ・マドリードがスタジアムに到着できず、アスレティックが自動的に優勝となった。1907年、ウニオン・ビスカイーノとの合同チームとしてクルブ・ビスカヤという名称が復活した。数年間の停滞期を挟み、1911年に再び優勝すると、1914年から1916年までは3年連続で優勝。このチームのスター選手は卓越したゴールスコアラーのピチーチであり、1915年のコパ・デル・レイ決勝ではハットトリックを達成した。彼の功績を称え、1953年以降のリーガ・エスパニョーラの得点王にはピチーチ賞というトロフィーが与えられている。



全国選手権創設と参入


1920年のバスク地方には、アスレティック以外にもレアル・ウニオン、アレナス・クルブ・デ・ゲチョ、レアル・ソシエダなどのクラブがあった。これら4クラブは1928年の全国選手権(リーガ・エスパニョーラ)の創設メンバーとなり、1930年にはCDアラベスも加わった。当時のプリメーラ・ディビシオン(1部)は10クラブで構成されていたため、全国選手権のトップリーグの半数をバスク地方のクラブが占めることとなった。初期のアスレティックはCon cantera y afición, no hace falta importación(地元出身のチームやサポーターとともに! 外国人選手は必要ない)をスローガンとした。



ペントランド監督時代




1930-31シーズンのラ・リーガ優勝メンバー


1921年にはイングランド出身のフレッド・ペントランド監督が就任。彼はエル・ボンビンという愛称で知られ、ショートパスを多用するサッカーを好んでアスレティックのプレースタイルに変革を起こすと、1922-23シーズンにチームをコパ・デル・レイ優勝に導いた。ペントランド監督は1927年にアスレティックを離れ、アスレティック・マドリード(現在のアトレティコ・マドリード)、レアル・オビエド、スペイン代表などの監督を歴任したが、1929年には再びアスレティックの監督に就任し、1929-30シーズンと1930-31シーズンには2シーズン連続でリーグ戦とカップ戦のダブル(2冠)を達成。特に前者のシーズンでは18試合12勝6分という成績でシーズン無敗優勝を果たしている。1930年から1933年まで4シーズン連続でコパ・デル・レイを制し、1932年と1933年には2シーズン連続でリーグ戦2位となった。1931年にはバルセロナに12-1で圧勝したが、これは現在でもバルセロナの最大得点差敗北記録として残っている。ペントランド監督は2度の在任期間中にチームを2回のリーグ優勝と5回のカップ優勝に導いた。



アトレティコ・ビルバオへの強制改名


フランシスコ・フランコの独裁時代には非スペイン語の名前の使用が禁止され、またバスク出身選手のみにプレーを許すというチーム方針が撤廃された(グランドペアレント・ルールの発端とされる)ため、1941年から1973年までの間は、アトレティコ・ビルバオ (Atlético Bilbao) に改名した。様々な面で厳しい時代であった1940年代には、下部組織で優秀な選手を育成することでクラブとしての競争力維持に努めた[1]。1941年にはテルモ・サラがデビューを飾り、以来13シーズンをアトレティコでプレーして公式戦通算294得点を積みあげた。サラはスペイン代表でも多くの試合に出場して20得点を挙げた。サラは1950-51シーズンに38得点を挙げたが、2010-11シーズンにレアル・マドリードのクリスティアーノ・ロナウドに塗り替えられるまで、この記録は50年間も1シーズン最多得点記録であり続けた。サラと同時代の著名選手にはホセ・ルイス・パニーソなどもいる。1942-43シーズンには、リーグ戦とカップ戦のダブル(2冠)を達成し、1944年と1945年にもコパ・デル・レイを獲得した。


1950年代前半にはラファ・イリオンド、ベナンシオ・ペレス、アグスティン・ガインサなどのフォワードが次々と現れ、彼らは1949-50シーズンのコパ・デル・ヘネラリシモ(現在のコパ・デル・レイ)優勝に貢献。1955年にはチェコスロバキア人のフェルディナンド・ダウチーク監督が就任し、クラブにいっそうの繁栄をもたらした。ダウチク監督は1955-56シーズンにリーグ戦とカップ戦のダブルを達成し、さらに1955年と1958年にもコパ・デル・ヘネラリシモで優勝。1956-57シーズンにはUEFAチャンピオンズカップに初出場し、準々決勝でマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)に敗れて敗退した。1957-58シーズンのコパ・デル・レイ決勝は栄華を極めていたレアル・マドリードとの対戦となったが、相手のホームであるエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで勝利して優勝した。1930年代から1950年代にクラブの成功を助けたのは、各クラブに課された厳しい外国人選手数制限であった。多くの場合、クラブはメンバーの中に外国人選手を3人までしか入れられず、全ての試合で少なくとも8人のスペイン人選手がプレーした。レアル・マドリードとバルセロナは、アルフレッド・ディ・ステファノ(アルゼンチン出身)、フェレンツ・プスカシュ(ハンガリー出身)、ホセ・サンタマリア(ウルグアイ出身)、ラディスラオ・クバラ(ハンガリー出身)などの選手に二重国籍を取得させることでルールの裏をかいたが、アトレティコは自らのカンテラ方針を頑なに固持し、わずかの柔軟さも示さなかった。


1960年代のスペインサッカー界はレアル・マドリードに支配され、アトレティコはわずかに1度、1968-69シーズンにコパ・デル・レイを獲得しただけであった。国際的なクラブのように、アトレティコはグランドペアレント・ルールを採用し、バスク地域に先祖がいる選手の獲得を許容した。このルールにより、バルセロナ出身のアルマンド・メロディオのアトレティコでのプレーが可能となった。1960年代にはメロディオの他にも、ヘスス・マリア・ペレーダ、ミゲル・ホネス、ホセ・エウロヒオ・ガラテなどがプレーを許された。この3選手はいずれもバスク生まれではなかったが(ガラテの両親はバスク人である)、いずれもバスク地域で育ち、バスク帰化人に区分された。1960年代前半にはホセ・アンヘル・イリバルが台頭し、守護神としてクラブのレジェンドの地位まで上り詰めた。


1970年代はあまり良い期間ではなく、1972-73シーズンに1度コパ・デル・レイを獲得しただけであった。1975年11月20日にフランコが死去して独裁体制が終焉すると、12月5日のレアル・ソシエダとの試合直前、アトレティコのキャプテンであるイリバルとソシエダのキャプテンであるイグナシオ・コルタバリアは、イクリニャと呼ばれるバスクの旗をセンターサークルまで運んで儀式的に広げた。フランコの死去以来、公共の場でバスク国旗が掲げられた初めての出来事であった。1976-77シーズンにはUEFAカップの決勝に進出し、アウェーゴール差でユヴェントスFC(イタリア)に敗れた。これ以後、クラブはアスレティック・ビルバオに再改名した。



クレメンテ監督の黄金期とその後


1981年、ハビエル・クレメンテ監督が就任した。彼はすぐにチームの組織化に取り組み、クラブの歴史上最も成功を収めたチームのひとつを築いた。サンティアゴ・ウルキアガ、ミゲル・デ・アンドレス、イスマエル・ウルティビ、エスタニスラオ・アルゴーテ、アンドニ・スビサレッタ、マヌ・サラビアなどのカンテラ出身の若手選手が、ダニ、アンドニ・ゴイコエチェアなどのベテラン選手とうまく融合。クレメンテ監督の指揮下最初のシーズンはリーグ戦で4位となり、1982-83シーズンには27年ぶりのリーグタイトルを手にし、1983-84シーズンにはリーグとコパ・デル・レイのダブルを達成した。1984-85シーズンと1985-86シーズンにはリーグ戦で4位となった。クレメンテ監督のアスレティックは、頑強なゴイコエチェアに象徴されるような荒々しいプレースタイルで悪名高かった。クレメンテ監督は、2人の守備的ミッドフィールダーを計3人のディフェンダー(2人のセンターバックと1人のスイーパー)の前に配置することを好み、守備的だが効果的なフォーメーションであるとみなされた。クレメンテ監督退任後にはイリバル監督、ハワード・ケンドール監督、ユップ・ハインケス監督、ハビエル・イルレタ監督などが就任したが、加速度的に進んだ各クラブの国際化の波に飲まれ、主要なトロフィーを獲得できず、復帰したクレメンテ監督も2度目の成功は得られなかった。



フェルナンデス監督時代


クレメンテ監督以降で最も成功したアスレティックの監督は、1996年に就任したルイス・フェルナンデス監督である。1998年、彼はクラブをリーグ戦2位に導き、UEFAチャンピオンズリーグの出場権を獲得した。クラブがカンテラに対して採用した、それまでより柔軟なアプローチがフェルナンデスの利益となった。今日では、バスク地方のクラブの下部組織でプレーしさえすれば、誰もがアスレティックのトップチームでプレーすることができる。このように、1980年代後半には、サラマンカ出身のパチ・フェレイラや、ブラジル出身で幼少時代にバスク地方に移住したビセンテ・ビウルンなどがアスレティックでプレーした。フェルナンデス監督は初めてバスク系フランス人(ビセンテ・リザラズ)と契約し、イスマエル・ウルサイス、ホセ・マリなどがいたチームに加えた。バスク地方の他クラブの下部組織からも選手を引き抜きはじめたため、これらのクラブはアスレティックに対して領土侵害であると主張。1995年、アスレティックはバスクダービーを争うライバルのソシエダからホセバ・エチェベリアを引き抜き、両クラブ間に険悪な感情が引き起こされた。リザラズは1シーズン後にアスレティックを離れたが、ウルサイス、ホセ・マリ、エチェベリアなどが1997-98シーズンの中心選手となり、ラファエル・アルコルタ、ジュレン・ゲレーロ、パチ・フェレイラなどとともに戦った。



21世紀



暗黒の2年間


2001年から2003年まで率いたハインケス監督時代(2度目)、2003年から2005年まで率いたエルネスト・バルベルデ監督時代を経て、2005-06シーズンと2006-07シーズンのアスレティックは残留争いに巻き込まれた。2005-06シーズンは苦戦を強いられ、クラブ史上初のセグンダ・ディビシオン降格の危機に遭った。最下位のチームの指揮を引き継いだクレメンテ監督(3度目の就任)は、指揮したチームに守備的な安定をもたらすことで広く知られており、降格からチームを救うことが期待された。37節、エスタディオ・デ・リアソールで行われたデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦 (2-1) に勝利してトップリーグ残留を決めると、残留を果たしたにもかかわらず、クレメンテ監督は2006-07シーズンの指揮を執ることなく退任。2006-07シーズンは前年度よりも厳しい戦いを強いられ、クラブ史上最悪のシーズンとなった。特にディフェンスが崩壊し、失点数は最下位のジムナスティック・タラゴナに次いでワースト2位の数字を記録。シーズン終盤まで降格圏付近に位置したが、シーズン最終節、サン・マメスでのレバンテUD戦 (2-0) に勝利して辛くもトップリーグ残留を決めた。



カパロス監督時代


2007-08シーズン序盤は苦しむも、徐々にホアキン・カパロス新監督の戦術が浸透し、11位で残留を手にした。2008-09シーズンのアスレティックは再び見映えしない結果となり、前シーズンと比べれば早く残留を確実にしたが、順位表の中位でシーズンを終えた。しかしコパ・デル・レイでは、ライバルのオサスナや強豪のセビージャFCなど厄介な相手との対戦を切り抜け、同大会で24年ぶりに決勝に進出した。エスタディオ・デ・メスタージャで行われたバルセロナとの決勝には1-4で敗れたが、まったく不名誉な結果ではなく、高額年俸選手揃いのバルセロナはリーグ戦とUEFAチャンピオンズリーグで傑出した結果を残していた。この準優勝により、アスレティックはUEFAカップから名称が変更されたUEFAヨーロッパリーグの出場権を得た。


2009-10シーズンは国内リーグでも欧州の舞台でも着実な進歩を遂げた。レアル・マドリードを破るなど、ホームでは立派な成績を残し、安定して順位表の上半分に位置した。UEFAヨーロッパリーグのグループリーグ、ヴェルダー・ブレーメン(ドイツ)との試合はホーム・アウェーともに完敗したが、CDナシオナル(ポルトガル)とFKアウストリア・ウィーン(オーストリア)からは計4試合で勝ち点10を獲得し、グループ2位で決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント1回戦ではRSCアンデルレヒト(ベルギー)と対戦し、ホームでのファーストレグには1-1で引き分けたが、アウェーのセカンドレグに0-4と大敗し、2試合合計1-5で敗退となった。リーグ戦ではアウェーの試合で脆さを見せたが、ホームでは11勝4分4敗の好成績を残し、わずかに欧州カップ戦出場権に及ばない8位でシーズンを終えた。若手有望株のハビ・マルティネス、マルケル・スサエタ、オスカル・デ・マルコスなどが好パフォーマンスを披露し、エースのフェルナンド・ジョレンテや16歳のイケル・ムニアインがトップチームで飛躍的な成長を遂げた。シーズン終了後には、過去15シーズンに渡ってアスレティックで500試合以上に出場したエチェベリアが現役引退し[2]、赤白のシャツを着て300試合以上に出場したフランシスコ・ジェステが突然チームを離れた。


2010-11シーズン序盤にはジョレンテが何度も得点してチームを引っ張り、前向きなスタートを切った。アウェーでの成績は不安定であり、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得できる4位への挑戦には不十分であったが、他クラブの不振からUEFAヨーロッパリーグ出場権獲得の可能性が生まれた。シーズン中盤には守備陣に負傷者や出場停止者が多発したが、それまでビルバオ・アスレティック(Bチーム)のメンバーでしかなかったボルハ・エキサがセンターバックのポジションに入り、堅実なプレーでシーズン終了までレギュラーを務めた。10代のムニアインはほとんどすべての試合に左ウイングとして先発出場し、巧妙なプレーでジョレンテやガイスカ・トケーロなどのフォワードにパスを供給した。18歳のホン・アウルテネチェもまたカパロス監督に強い印象を残し、深刻な怪我でシーズンを一足早く終えるまでは左サイドバックのレギュラーを務めた。シーズン終了前にはU-21スペイン代表のアンデル・エレーラとの契約が順調に進み、アスレティックはリーグ戦6位で欧州カップ戦の舞台への復帰を決めた。



ビエルサ監督時代


2011-12シーズン前にはソシオ(クラブ会員)全員が参加した会長選が行われ、現職のフェルナンド・ガルシア・マクア会長は、選手として長くアスレティックに在籍したホス・ウルティアに敗北[3]。ウルティア新会長の公約にはアルゼンチン代表前監督のマルセロ・ビエルサ招聘が含まれており[4]、その公約通りビエルサが監督に就任した。ビエルサ監督は2010 FIFAワールドカップでチリ代表をベスト16へと導いており、2002-03シーズンまで指揮を執ったハインケス監督(ドイツ)以来、8シーズンぶりの外国人監督であった[5][6]。在任期間中にアスレティックの名声を回復したカパロス監督は契約満了によりアスレティックを去った。ビエルサ監督は型にはまらないフォーメーションや戦術を採用し、チームの変革に取り組んだ。何人かの選手は本来のポジションとは異なるポジションでプレー。2010 FIFAワールドカップ優勝メンバーのハビ・マルティネスは足元の技術を見込まれてセンターバックに転向し、デ・マルコスは本来ミッドフィールダーであるが左サイドバックとしても起用された。シーズン序盤の成績は不安定であり、エレーラの負傷離脱などもあったが、シーズンが進むにつれて選手たちは戦術変更に適応し始め、7節のバスクダービーに勝利してシーズン初勝利を挙げると、2011年秋にはパリ・サンジェルマンFC(UEFAヨーロッパリーグ)、オサスナ、セビージャなどに勝利し、バレンシアCFやバルセロナなどから勝ち点1をもぎ取った。6節から19節までの15試合で敗れたのはグラナダCF戦の1試合のみであった。UEFAヨーロッパリーグではグループリーグを首位で通過し、決勝トーナメント1回戦ではFCロコモティフ・モスクワ(ロシア)を撃破。決勝トーナメント2回戦ではマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)と対戦し、オールド・トラッフォードで行われたファーストレグに3-2で勝利すると、ホームで行われたセカンドレグに2-1で勝利して2試合合計5-3での勝ち上がりを決めた。シャルケ04(ドイツ)と対戦した準々決勝ファーストレグでは、相手フォワードのラウル・ゴンサレスが2得点を挙げるなど、72分の時点で1-2とリードされていたが、その後アスレティックが立て続けに得点して4-2で勝利した。セカンドレグは2-2の引き分けで終え、2試合合計6-4でスポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルとの準決勝進出を決めた。ポルトガルで行われた準決勝ファーストレグには1-2で敗れたが、セカンドレグは89分のジョレンテの得点などで3-1と勝利し、2試合合計4-3で決勝進出を決めた。5月9日にルーマニアの首都ブカレストにあるアレーナ・ナツィオナラで行われた決勝では、アトレティコ・マドリードに0-3で敗れて準優勝に終わった[7]



バルベルデ監督 (第2期)


2013-14シーズンよりエルネスト・バルベルデ監督が8年振りに復帰。あわせてスペイン有数の司令塔に成長したMFベニャも4年振りにクラブに復帰した。ミケル・リコ、ムニアイン、アンデル・エレーラ、スサエタらに加え、さらにデ・マルコス、イトゥラスペ、イバイ・ゴメスらで構成されるMFは、質量共にリーガ有数の陣容となった。
開幕前にFWフェルナンド・ジョレンテがユヴェントスに移籍したことで得点力が心配されたが、開幕してみると順調に勝ち星を重ね、最終的に20勝9分8敗で4位となり16シーズンぶりのUEFAチャンピオンズリーグ (CL) への出場を決めた。2014-15シーズンは最終的に7位でリーグ戦を終えた。


2015-16シーズンの始めとなるスーペルコパ・デ・エスパーニャでは、前シーズンに三冠を達成したFCバルセロナと対戦したが、サン・マメスで行われた1stレグではアリツ・アドゥリスのハットトリックを含む4-0で大勝し、2ndレグでも1-1で引き分けて約30年ぶりとなるタイトルを獲得した。



スタジアム


2013年までホームスタジアムであった旧サン・マメスは当時スペイン最古のスタジアムであった[1]。このスタジアムはサン・マメスという教会のそばに建てられたため、「ラ・カテドラル (La Catedral, 大聖堂) 」という愛称を持つ。当初の収容人数は7,000人であり、1913年8月21日のラシン・イルン戦(1-1)が初試合となった[1]。この試合ではセベ・スアソのキックオフによって試合が開始され、ピチーチがスタジアム最初の得点者となった[1]。1982 FIFAワールドカップではグループリーグの数試合が行われた。2013年6月5日に長い歴史に幕を下ろし、翌日から取り壊された。2013年9月16日に新スタジアムの新サン・マメスがセルタ・デ・ビーゴ戦でこけら落としとなった。



ユニフォーム



デザインの変遷


























1903

1910

1913

1950

1970

1982

1996

2004

2009

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1921年のコパ・デル・レイ優勝時


黎明期のアスレティックは間に合わせの白いシャツでプレーしていたが、1902-03シーズン、ブラックバーン・ローヴァーズFC(イングランド)と似たような青色と白色の縦縞のシャツが、フアン・モセールによって提供された。1909年には、クリスマスをロンドンで過ごしていたフアン・エロルドゥイという名前のビルバオ出身学生が、25枚の新しいシャツを購入するようクラブに頼まれたが、彼は十分な量を探し出せなかった。手ぶらでビルバオ行きの船を待っている最中、エロルドゥイは港近くのサウサンプトンFCのチームカラーがビルバオの街と調和していると感じ、50枚の赤白のシャツを購入して持ち帰った。クラブの首脳陣はユニフォームカラ―変更を即決し、1910年以降は赤色と白色の縦縞のシャツを着てプレーするようになった。エロルドゥイが購入した50枚のうちの半分は兄弟クラブのアトレティコ・マドリードに送られた。青白のシャツから赤白のシャツに切り替わる前、スペインで赤白のシャツを採用していたのはスポルティング・デ・ヒホン(1905年より)のみであった[8][9]



スポンサーとサプライヤー













































期間[10]
サプライヤー[10]
胸スポンサー[10]
1982-1990

アディダス

なし
1990-1999

Kappa
1999-2001
アディダス
2001-2008
100% Athletic
2008-2009
ペトロノール (石油)
2009-2013

アンブロ
2013-2015

ナイキ
2015-2017
ビルバオ・ビスカヤ・クチャ (銀行)
2017-

ニューバランス

スペインの主要クラブの中では、バルセロナと同様に最後までユニフォーム広告を拒んだクラブであったが、2004-05シーズンのUEFAカップとコパ・デル・レイでは、バスク州政府から数十万ユーロのスポンサー料を得て、シャツの胸に緑色の文字でエウスカディ(Euskadi)と記した[11]。赤・白・緑はバスクカラーである。2008年には、クラブ史上初めてとなる胸スポンサーとの契約に踏み切り、年額200万ユーロ以上のスポンサー料を得て、ビスカヤ県に拠点を置く石油会社のペトロノールのロゴを胸に入れた[12]。また、ユニフォームは1990年から1999年までkappaが製造していたが、クラブ自身が製造していた時期もあり、国外で入手するのが困難であった。2009年、イギリスのスポーツ用品ブランドであるアンブロと、ユニフォームの提供。さらに2013年からはナイキと契約している。[13]



タイトル



国内タイトル



  • プリメーラ・ディビシオン:8回
    • 1929-30, 1930-31, 1933-34, 1935-36, 1942-43, 1955-56, 1982-83, 1983-84



  • コパ・デル・レイ:23回
    • 1903, 1904, 1910, 1911, 1914, 1915, 1916, 1921, 1923, 1930, 1931, 1932, 1933, 1943, 1944, 1944-45, 1949-50, 1955, 1956, 1958, 1969, 1972-73, 1983-84



  • スーペルコパ・デ・エスパーニャ:2回
    • 1984, 2015



  • コパ・エバ・ドゥアルテ:1回
    • 1950



国際タイトル



  • ラ・ペケーニャ・コパ・デル・ムンド:1回
    • 1967



成績








優勝
準優勝
3位/ベスト4

ピチーチ賞


















































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































シーズン
リーガ・エスパニョーラ

国王杯[14]

欧州カップ
その他
最多得点者[15]
ディビジョン
順位







選手
得点数
1898-99

全国選手権発足前







1899-00







1900-01







1901-02

優勝






1902-03

優勝






1903-04

優勝






1904-05
準優勝






1905-06
準優勝






1906-07







1907-08







1908-09







1909-10

優勝






1910-11

優勝






1911-12







1912-13
準優勝






1913-14

優勝


地域リーグ

優勝


1914-15

優勝


地域リーグ

優勝


1915-16

優勝


地域リーグ

優勝


1916-17



地域リーグ



1917-18



地域リーグ



1918-19



地域リーグ



1919-20
準優勝


地域リーグ

優勝


1920-21

優勝


地域リーグ

優勝


1921-22



地域リーグ



1922-23

優勝


地域リーグ

優勝


1923-24
ベスト4


地域リーグ

優勝


1924-25
GS敗退


地域リーグ



1925-26
GS敗退


地域リーグ

優勝


1926-27
GS敗退


地域リーグ



1927-28
GS敗退


地域リーグ

優勝


1928-29

ラ・リーガ
3位
18
8
4
6
43
33

20
ベスト4


地域リーグ

優勝

ウナムーノ
20
1929-30
ラ・リーガ

優勝
18
12
6
0
63
28

30

優勝


地域リーグ


ゴロスティサ[16]
28
1930-31
ラ・リーガ

優勝
18
11
0
7
73
33

22

優勝


地域リーグ

優勝

バタ[17]
37
1931-32
ラ・リーガ
2位
18
11
3
4
47
23

25

優勝


地域リーグ

優勝

ゴロスティサ[18]
21
1932-33
ラ・リーガ
2位
18
13
0
5
63
30

26

優勝


地域リーグ

優勝

バタ
22
1933-34
ラ・リーガ

優勝
18
11
2
5
61
27

24
ベスト8


地域リーグ

優勝

バタ
19
1934-35
ラ・リーガ
4位
22
11
3
8
60
37

25
ベスト16


バスク・カップ

優勝

バタ
16
1935-36
ラ・リーガ

優勝
22
14
3
5
59
33

31
ベスト8


バスク・カップ


バタ
24
1936-37

スペイン内戦のため開催されず
1937-38
1938-39
1939-40
ラ・リーガ
3位
22
11
4
7
57
44

26
2回戦敗退





ウナムーノ[19]
26
1940-41
ラ・リーガ
2位
22
13
5
4
49
24

31
ベスト16





ウナムーノ
12
1941-42
ラ・リーガ
7位
26
10
7
9
55
41

27
準優勝





サラ
29
1942-43
ラ・リーガ

優勝
26
16
4
6
73
38

36

優勝





サラ
27
1943-44
ラ・リーガ
10位
26
10
5
11
47
51

25

優勝





サラ
21
1944-45
ラ・リーガ
6位
26
14
2
10
54
41

30

優勝





サラ[16]
34
1945-46
ラ・リーガ
3位
26
15
5
7
63
38

33
ベスト16



コパ・デ・オロ
準優勝

サラ[20]
24
1946-47
ラ・リーガ
2位
26
15
4
7
72
38

34
ベスト4





サラ[21]
33
1947-48
ラ・リーガ
6位
26
12
4
10
56
44

28
ベスト16





パニーソ
17
1948-49
ラ・リーガ
6位
26
11
2
13
61
63

24
準優勝





サラ
31
1949-50
ラ・リーガ
6位
26
12
5
9
72
66

29

優勝





サラ[22]
36
1950-51
ラ・リーガ
7位
30
15
3
12
88
56

33
ベスト4



コパ・エバ・ドゥアルテ

優勝

サラ[23]
46
1951-52
ラ・リーガ
2位
30
17
6
7
78
46

40
ベスト16




ベナンシオ
18
1952-53
ラ・リーガ
6位
30
14
4
12
83
52

32
準優勝





サラ[20]
25
1953-54
ラ・リーガ
6位
30
12
8
10
54
44

32
ベスト8





E・アリエタ
17
1954-55
ラ・リーガ
3位
30
15
9
6
78
39

39

優勝





E・アリエタ
23
1955-56
ラ・リーガ

優勝
30
22
4
4
79
31

48

優勝



ラテン・カップ
準優勝

アルテチェ
20
1956-57
ラ・リーガ
4位
30
16
5
9
59
45

37
ベスト16

チャンピオンズカップ
ベスト8


マルカイダ
12
1957-58
ラ・リーガ
6位
30
14
4
12
56
48

32

優勝





アルテチェ
17
1958-59
ラ・リーガ
3位
30
17
2
11
72
33

36
ベスト16




ウリベ
16
1959-60
ラ・リーガ
3位
30
19
1
10
74
45

39
ベスト4





E・アリエタ
20
1960-61
ラ・リーガ
7位
30
12
6
12
42
41

30
ベスト8





E・アリエタ
14
1961-62
ラ・リーガ
5位
30
12
8
10
52
38

32
ベスト8





E・アリエタ
15
1962-63
ラ・リーガ
10位
30
10
8
12
41
40

28
ベスト16




アルゴイティア
9
1963-64
ラ・リーガ
8位
30
12
5
13
43
40

29
2回戦敗退





E・アリエタ
8
1964-65
ラ・リーガ
7位
30
13
6
11
36
41

32
ベスト4

フェアーズカップ
ベスト8


A・アリエタ
15
1965-66
ラ・リーガ
5位
30
14
6
10
43
32

34
準優勝




オルマサ
16
1966-67
ラ・リーガ
7位
30
11
9
10
43
36

31
準優勝

フェアーズカップ
1回戦敗退

ペケーニャ・コパ
・デル・ムンド

優勝
アルゴイティア
16
1967-68
ラ・リーガ
7位
30
11
10
9
51
28

32
ベスト8

フェアーズカップ
ベスト8



ウリアルテ[24]
26
1968-69
ラ・リーガ
11位
30
10
8
12
42
46

28

優勝

フェアーズカップ
ベスト8



ウリアルテ
9
1969-70
ラ・リーガ
2位
30
17
7
6
44
20

41
ベスト4

カップウィナーズカップ
1回戦敗退


スビアガ
12
1970-71
ラ・リーガ
5位
30
14
7
9
40
31

35
ベスト16

フェアーズカップ
1回戦敗退



ウリアルテ
12
1971-72
ラ・リーガ
9位
34
15
4
15
39
32

34
ベスト4

UEFAカップ
2回戦敗退



ウリアルテ
17
1972-73
ラ・リーガ
9位
34
12
9
13
41
38

33

優勝





ロホ
9
1973-74
ラ・リーガ
5位
34
15
7
12
35
31

37
5回戦敗退

カップウィナーズカップ
2回戦敗退


ラサ
7
1974-75
ラ・リーガ
10位
34
13
7
14
40
42

33
ベスト4





ルイス[16]
21
1975-76
ラ・リーガ
5位
34
14
11
9
43
38

39
4回戦敗退





ダニ
14
1976-77
ラ・リーガ
3位
34
15
8
11
55
45

38
準優勝

UEFAカップ
準優勝



ダニ
29
1977-78
ラ・リーガ
3位
34
16
8
10
62
36

40
ベスト16

UEFAカップ
3回戦敗退



ダニ
25
1978-79
ラ・リーガ
9位
34
12
10
12
56
46

34
ベスト16

UEFAカップ
1回戦敗退



ダニ
15
1979-80
ラ・リーガ
7位
34
15
5
14
52
44

35
ベスト16





ダニ
30
1980-81
ラ・リーガ
9位
34
14
7
13
64
53

35
ベスト4





ルイス
21
1981-82
ラ・リーガ
4位
34
18
4
12
63
41

40
ベスト8





ダニ
18
1982-83
ラ・リーガ

1位
34
22
6
6
71
36

50
ベスト8

UEFAカップ
1回戦敗退



ダニ
22
1983-84
ラ・リーガ

1位
34
20
9
5
53
30

49

優勝

チャンピオンズカップ
2回戦敗退

スーペルコパ
準優勝

サラビア
10
1984-85
ラ・リーガ
3位
34
13
15
6
39
26

41
準優勝

チャンピオンズカップ
1回戦敗退

スーペルコパ

優勝

ダニ
9
1985-86
ラ・リーガ
3位
34
17
9
8
44
31

43
ベスト4

UEFAカップ
3回戦敗退



サラビア
8
1986-87
ラ・リーガ
13位
34
11
9
14
39
40

31
ベスト4

UEFAカップ
2回戦敗退



サラビア
12
1987-88
ラ・リーガ
4位
38
17
12
9
50
43

46
ベスト16





ウラルデ
17
1988-89
ラ・リーガ
7位
38
15
12
11
45
35

42
ベスト16

UEFAカップ
2回戦敗退



ウラルデ
17
1989-90
ラ・リーガ
12位
38
11
15
12
37
39

37
ベスト16





ガリターノ
7
1990-91
ラ・リーガ
12位
38
15
6
17
41
50

36
5回戦敗退





バルベルデ
16
1991-92
ラ・リーガ
14位
38
13
7
18
38
58

33
ベスト8





シガンダ
12
1992-93
ラ・リーガ
8位
38
17
6
15
53
49

40
3回戦敗退





シガンダ
16
1993-94
ラ・リーガ
5位
38
16
11
11
61
47

43
4回戦敗退





シガンダ
20
1994-95
ラ・リーガ
8位
38
16
10
12
39
42

42
ベスト8

UEFAカップ
3回戦敗退



ゲレーロ
16
1995-96
ラ・リーガ
15位
42
11
15
16
44
55

48
ベスト16





エチェベリア
10
1996-97
ラ・リーガ
6位
42
16
16
10
72
57

64
4回戦敗退





シガンダ
17
1997-98
ラ・リーガ
2位
38
17
14
7
52
42

65
ベスト8

UEFAカップ
2回戦敗退



エチェベリア
13
1998-99
ラ・リーガ
8位
38
17
9
12
53
47

60
ベスト16

チャンピオンズリーグ
GS敗退



ウルサイス
17
1999-00
ラ・リーガ
11位
38
12
14
12
47
57

50
2回戦敗退





エチェベリア
11
2000-01
ラ・リーガ
13位
38
11
10
17
44
60

43
ベスト16





ウルサイス
13
2001-02
ラ・リーガ
9位
38
14
11
13
54
66

53
ベスト4





ウルサイス
18
2002-03
ラ・リーガ
7位
38
15
10
13
63
61

55
ベスト32





ウルサイス
15
2003-04
ラ・リーガ
5位
38
15
11
12
53
53

56
ベスト64





ジェステ
11
2004-05
ラ・リーガ
9位
38
14
9
15
59
54

51
ベスト4

UEFAカップ
ベスト32



ウルサイス
12
2005-06
ラ・リーガ
12位
38
11
12
15
40
46

45
ベスト16

インタートトカップ
2回戦敗退



アドゥリス
6
2006-07
ラ・リーガ
17位
38
10
10
18
44
62

40
ベスト32





ウルサイス
8
2007-08
ラ・リーガ
11位
38
13
11
14
40
43

50
ベスト8





F・ジョレンテ
12
2008-09
ラ・リーガ
13位
38
12
8
18
47
62

44
準優勝





F・ジョレンテ
18
2009-10
ラ・リーガ
8位
38
15
9
14
50
53

54
ベスト32

ヨーロッパリーグ
ベスト32

スーペルコパ
準優勝

F・ジョレンテ
22
2010-11
ラ・リーガ
6位
38
18
4
16
59
55

58
ベスト16





F・ジョレンテ
19
2011-12
ラ・リーガ
10位
38
12
13
13
49
52

49
準優勝

ヨーロッパリーグ
準優勝



F・ジョレンテ
29
2012-13
ラ・リーガ
12位
38
12
9
17
44
65

45
ベスト32





アドゥリス
14
2013-14
ラ・リーガ
4位
38
20
10
8
66
39

70
ベスト8





アドゥリス
16
2014-15
ラ・リーガ
7位
38
15
10
13
42
41

55
準優勝

チャンピオンズリーグ
ヨーロッパリーグ
GS敗退
ベスト32



アドゥリス
18
2015-16
ラ・リーガ
5位
38
18
8
12
58
45

62
ベスト8

ヨーロッパリーグ
ベスト8



アドゥリス
20
2016-17
ラ・リーガ
7位
38
19
6
13
52
42

63
ベスト16

ヨーロッパリーグ
ベスト32



アドゥリス
16
2017-18
ラ・リーガ
16位
38
10
13
15
41
49

43
ベスト32

ヨーロッパリーグ
ベスト16



アドゥリス
20
2018-19
ラ・リーガ

38
















記録と統計




現所属メンバー


2018年9月1日時点



























































































No.

Pos.
選手名
1

スペインの旗

GK

アレックス・レミロ
2

ルーマニアの旗

DF

クリスティアン・ガネア
3

スペインの旗

DF

ウナイ・ヌニェス
4

スペインの旗

DF

イニゴ・マルティネス
5

スペインの旗

DF

ジェライ・アルバレス
6

スペインの旗

DF

ミケル・サン・ホセ
7

スペインの旗

MF

ベニャ・エチェバリア
8

スペインの旗

MF

アンデル・イトゥラスペ
9

スペインの旗

FW

イニャキ・ウィリアムズ (Flag of Liberia.svg) (Flag of Ghana.svg)
10

スペインの旗

FW

イケル・ムニアイン
11

スペインの旗

MF

イニゴ・コルドバ
12

スペインの旗

DF

ユーリ・ベルチチェ
13

スペインの旗

GK

イアゴ・エレリン
























































































No.

Pos.
選手名
14

スペインの旗

MF

マルケル・スサエタ
15

スペインの旗

DF

イニゴ・レクエ
16

スペインの旗

MF

ダニ・ガルシア
17

スペインの旗

MF

ミケル・リコ
18

スペインの旗

MF

オスカル・デ・マルコス
20

スペインの旗

FW

アリツ・アドゥリス
21

スペインの旗

MF

アンデル・カパ
22

スペインの旗

MF

ラウール・ガルシア
23

スペインの旗

MF

ウナイ・ロペス
24

スペインの旗

DF

ミケル・バレンシアガ
25

スペインの旗

GK

ウナイ・シモン
30

スペインの旗

FW

ゴルカ・グルセタ
31

スペインの旗

MF

ペル・ノラスコアイン



ローン移籍中の選手


in








No.

Pos.
選手名


out
































No.

Pos.
選手名
--

スペインの旗

DF

ウルツィ・イリオンド (グラナダ)
--

スペインの旗

DF

マルケル・エチェベリア (ヌマンシア)
--

スペインの旗

DF

シャビエル・エチェイタ (ウエスカ)






















No.

Pos.
選手名
--

スペインの旗

FW

アシエル・ビジャリブレ (ロルカ)
--

スペインの旗

FW

サビン・メリノ (レガネス)



歴代監督










































































































































20世紀[25]

監督 (1910-1963)
 

監督 (1963-2000)
1910-1914

イングランドの旗 シェパード
1963-1964

スペインの旗 フアン・オチョアンテサーナ
1914-1915

イングランドの旗 ビリー・バーンズ
1964-1965

スペインの旗 アントニオ・バリオス (2度目)
1915-1919
監督不在
1965-1968

スペインの旗 アグスティン・ガインサ
1919-1921

イングランドの旗 ビリー・バーンズ (2度目)
1968-1969

スペインの旗 ラファエル・イリオンド
1921-1922

イングランドの旗 バートン
1969-1971

イングランドの旗 ロニー・アレン
1922-1925

スペインの旗 フアン・アルスアガ
1971-1972

スペインの旗 サルバドール・アルティガス
1925-1926

イングランドの旗 ラルフ・カービィ
イングランドの旗 フレッド・ペントランド
1972-1974

ユーゴスラビアの旗 ミロラド・パヴィッチ
1926-1929

ハンガリーの旗 リッポ・ヘルツカ
1974-1975

スペインの旗 ラファエル・イリオンド (2度目)
1929-1933

イングランドの旗 フレッド・ペントランド (2度目)
1975-1979

スペインの旗 コルド・アギーレ
1933-1935

スペインの旗 パトリシオ・カイセド
1979-1981

オーストリアの旗 ヘルムート・ゼネコウィッツ
1935-1937

イングランドの旗 ウィリアム・ガーバット
スペインの旗 ホセ・マリア・オラバリア
1981

スペインの旗 イニャキ・サエス
1939-1941

スペインの旗 ロベルト・エチェバリア
1981.7-1986.6

スペインの旗 ハビエル・クレメンテ
1940-1947

スペインの旗 フアン・ウルキース
1986-1987

スペインの旗 ホセ・アンヘル・イリーバル
1947-1949

イングランドの旗 ヘンリー・ジョン・バッジ
1987.7-1989.11

イングランドの旗 ハワード・ケンドール
1949-1952

スペインの旗 ホセ・イララゴーリ
1989.11-1990.6

スペインの旗 ホセ・フランシスコ・ロホ
1952-1954

スペインの旗 アントニオ・バリオス
1990.7-1991.3

スペインの旗 ハビエル・クレメンテ (2度目)
1955-1957

チェコスロバキアの旗 フェルディナンド・ダウチーク
1991-1992.6

スペインの旗 イニャキ・サエス (2度目)
スペインの旗 ヘスス・アラングレン
1957-1958

スペインの旗 バルタサール・アルベニス
1992.7-1994.6

ドイツの旗 ユップ・ハインケス
1958-1960

ブラジルの旗 マルティム・フランシスコ
1994.7-1995.3

スペインの旗 ハビエル・イルレタ
1960-1962

スペインの旗 フアン・アントニオ・イピーニャ
1995.7-1996.6

ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ドラゴスラヴ・ステパノヴィッチ
スペインの旗 ホセ・マリア・アモロルトゥ
1962-1963

スペインの旗 アンヘル・スビエタ
1996.7-2000.6

フランスの旗 ルイス・フェルナンデス




























































21世紀[25]

監督
2000.7-2001.6

スペインの旗 ホセ・フランシスコ・ロホ
2001.7-2003.6

ドイツの旗 ユップ・ハインケス (2度目)
2003.7-2005.6

スペインの旗 エルネスト・バルベルデ
2005.7-2005.10

スペインの旗 ホセ・ルイス・メンディリバル
2005.10-2006.6

スペインの旗 ハビエル・クレメンテ (3度目)
2006.7-2006.11

スペインの旗 フェリクス・サリウガルテ
2006.11-2007.6

スペインの旗 マネ
2007.7-2011.6

スペインの旗 ホアキン・カパロス
2011.7-2013.6

アルゼンチンの旗 マルセロ・ビエルサ
2013.6-2017.5

スペインの旗 エルネスト・バルベルデ (2度目)
2017.5-2018.5

スペインの旗 ホセ・アンヘル・シガンダ
2018.5-2018.12

アルゼンチンの旗 エドゥアルソ・ベリッソ
2018.12-

スペインの旗 ガイスカ・ガリターノ


歴代所属選手




GK




  • スペインの旗 ラファエル・モレノ・アランサディ 1911-1921


  • スペインの旗 グレゴリオ・ブラスコ 1928-1936


  • スペインの旗 アンドニ・スビサレータ 1981-1986


  • スペインの旗 ダニエル・アランスビア 2000-2008


  • スペインの旗 イニャーキ・ラフエンテ 1994-1995, 1995-1998, 1999-2009


  • スペインの旗 ゴルカ・イライソス・モレノ 2007-



DF




  • スペインの旗 ラモン・アレサンコ 1977-1980


  • フランスの旗 ビセンテ・リザラズ 1996-1997


  • スペインの旗 ミケル・ラサ 1997-2001


  • スペインの旗 ルイス・プリエト 1999-2000, 2002-2008


  • スペインの旗 アシエル・デル・オルノ 2000-2005, 2007-2008


  • スペインの旗 アンドニ・イラオラ 2003-2015


  • ベネズエラの旗 フェルナンド・アモレビエタ 2005-2013


  • スペインの旗 ウスタリツ 2005-2012


  • フランスの旗 アイメリク・ラポルテ 2012-2018



MF




  • スペインの旗 フレン・ゲレーロ 1992-2006


  • スペインの旗 ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア 1994-1998


  • スペインの旗 ホセバ・エチェベリア 1995-2010


  • スペインの旗 フランシスコ・ジェステ 1998-2010


  • スペインの旗 カルロス・グルペギ 1999-


  • スペインの旗 ティコ 1999-2008


  • スペインの旗 パブロ・オルバイス 2000-2012


  • スペインの旗 ハビ・マルティネス 2006-2012


  • スペインの旗 イゴール・ガビロンド 2006-2012


  • スペインの旗 ホセバ・デル・オルモ 2008-2009



FW




  • スペインの旗 テルモ・サラ 1940-1955


  • スペインの旗 ハビエル・アスカルゴルタ 1972-1977


  • スペインの旗 ハビエル・イルレタ 1975-1980


  • スペインの旗 フリオ・サリーナス 1982-1986


  • スペインの旗 イスマエル・ウルサイス 1996-2007


  • スペインの旗 サンティアゴ・エスケーロ 1998-2005


  • スペインの旗 アリツ・アドゥリス 2000-2008, 2012-


  • スペインの旗 フェルナンド・ジョレンテ 2004-2013


  • スペインの旗 イニゴ・ディアス・デ・セリオ 2009-2012


  • スペインの旗 イケル・ムニアイン 2009-



脚註


[ヘルプ]



  1. ^ abcdefghijAthletic Bilbao FIFA.com


  2. ^ 最終章を満喫するエチェベリアGoal.com、2009年12月15日


  3. ^ A・ビルバオ、新会長就任で大変革 Archived 2014年1月13日, at the Wayback Machine.WOWOWリーガニュース、2011年7月8日


  4. ^ ビルバオ会長候補、ビエルサ招へいを公約Goal.com、2011年7月1日


  5. ^ 伝統を放棄して180度の方向転換。“革新派”A・ビルバオの魅力。 Number Web、2011年12月15日


  6. ^ バルサファンも絶賛するA・ビルバオ。欧州で話題沸騰中の超攻撃サッカー。 Number Web、2012年4月4日


  7. ^ 轟くファルカオの咆哮、アトレティコが2シーズンぶりのEL制覇Goal.com、2012年5月10日


  8. ^ Agiriano, Jon. “Los Colores del Siglo”. 2011年2月28日閲覧。


  9. ^ “Camisetas Inglesas (In Spanish)”. Athletic Club. 2011年2月28日閲覧。

  10. ^ abchttp://www.athletic-club.net/pdfsrevista/234.pdf


  11. ^ La estrenan mañana Archived 2007年6月20日, at the Wayback Machine.Deia daily、2004年11月30日


  12. ^ El Athletic firma con Petronor un acuerdo para lucir publicidad en su camiseta por 2 millones de euros Europa Press、2008年7月29日


  13. ^ “Acuerdo con Umbro”. Athletic-club.net. 2012年3月10日閲覧。


  14. ^ Spanish Cup Winners


  15. ^ リーガ・エスパニョーラ, コパ・デル・レイ, スーペルコパ・デ・エスパーニャ, コパ・デ・ラ・リーガ, コパ・エバ・ドゥアルテ, UEFAチャンピオンズリーグ, UEFAカップウィナーズカップ, UEFAヨーロッパリーグ, ラテン・カップでの総得点

  16. ^ abcラ・リーガで19得点を挙げている


  17. ^ ラ・リーガで27得点を挙げている


  18. ^ ラ・リーガで12得点を挙げている


  19. ^ ラ・リーガで26得点を挙げている

  20. ^ abラ・リーガで24得点を挙げている


  21. ^ ラ・リーガで34得点を挙げている


  22. ^ ラ・リーガで25得点を挙げている


  23. ^ ラ・リーガで38得点を挙げている


  24. ^ ラ・リーガで22得点を挙げている

  25. ^ ab“Athletic Club trainers”. Athletic-club.net. 2013年10月19日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年12月3日閲覧。




外部リンク



  • 公式サイト(バスク語)(スペイン語)(英語)










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