原博実
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名前 | ||||||
愛称 | ヒロミ、アジアの核弾頭[1][2] | |||||
カタカナ | ハラ ヒロミ | |||||
ラテン文字 | HARA Hiromi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | (1958-10-19) 1958年10月19日(60歳) | |||||
出身地 | 栃木県那須塩原市 | |||||
身長 | 183cm[3][1] | |||||
体重 | 80kg[3][1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1981-1992 | 三菱重工 / 三菱自動車 | 192 | (65) | |||
代表歴2 | ||||||
1978-1988 | 日本 | 75 | (37) | |||
監督歴 | ||||||
1998-1999 | 浦和レッドダイヤモンズ | |||||
2002-2005 | FC東京 | |||||
2007 | FC東京 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2007年12月23日現在。 2. 2007年12月23日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
原 博実(はら ひろみ、1958年10月19日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。栃木県那須塩原市(旧・黒磯市)出身[4]。公益社団法人日本プロサッカーリーグ副理事長、日本サッカー協会常務理事。
スポーツアナウンサーの原大悟は実子[5]。
目次
1 来歴
1.1 選手時代
1.2 指導者時代
1.2.1 浦和レッドダイヤモンズ
1.2.2 FC東京
1.3 日本サッカー協会
1.4 Jリーグ役員
2 評価
2.1 監督としての戦術・若手育成
2.2 解説・評論
3 解説者としての出演歴
4 所属クラブ
5 個人成績
6 代表歴
6.1 出場大会など
6.2 試合数
6.3 得点数
7 指導歴
8 監督成績
9 関連情報
9.1 書籍
10 脚注
11 関連項目
12 外部リンク
13 参考文献
来歴
選手時代
小学5年生時からサッカーに傾倒し[6]、黒磯中学校時代にはすでに長身を活かしたヘディングを得意としていた[7][8]。1974年に矢板東高校へ進学し、栃木県選抜として国体でベスト4入り[8]。当時は西ドイツのFWウーヴェ・ゼーラーのプレーを参考にしていた[8]。
1977年に早稲田大学教育学部へ進学[4]。1978年の総理大臣杯では法政大学を相手に得点を重ねて優勝を果たした[6]。大学選抜として参加した1979年のユニバーシアードでは、ゼーラーに影響されて身に付けた相手よりも早く跳ぶヘディングで海外の190cmクラスのセンターバックを相手にしても競り負けず8試合で7得点を挙げた[6]。A代表に選出されても偉ぶらず真剣に練習に取り組む姿勢は周囲からの信頼を集め、大学4年時には主将を務めた[6]。このように「ストライカーたるものエゴイストであるべき」と言われる中で、彼の言動や振る舞いはその正反対でとても利他的であり、誰からも尊敬される人物であった。
1981年に三菱重工業に入社し(勤労管理課[4])、日本サッカーリーグ(JSL)の同社サッカー部(のちに三菱自動車サッカー部。現在の浦和レッドダイヤモンズの前身)に所属。ポジションはフォワード(FW)で、エースストライカーとして活躍した[9]。中盤の構成力に欠ける三菱では、田口光久らが原を目掛けてフィード、原が頭で落とし、川添孝一らがゴールを狙うというシンプルなカウンター攻撃も多用された[6]。1982年には尾崎加寿夫と共に得点源となりJSL優勝を達成。
社員選手としてプレーを続けていたが、31歳の時にJリーグ参入を控えるクラブからの呼び掛けに「サラリーマンやるために三菱に入ったわけじゃないから」と応じてプロ契約を結び[注 1] 三菱重工業を退社した[9]。Jリーグでのプレーを望んでいたが[9]、コーチ就任を要請されたため、1992年5月に現役を引退[10]。臆せず真っ向から競り合いに臨んでいたため、鼻骨骨折は現役通算で9度に及んだ[11]。
大学在学中に日本代表に初選出され[4]、通算で国際Aマッチ75試合に出場。釜本邦茂に次いで歴代2位[注 2] となる37得点を記録した(国際Aマッチ以外にも日本サッカー協会が認定した日本代表の試合を含めると171試合出場72得点[10]。)。当時の日本代表はアジアの中でもまだまだ弱小国ではあったが、そういった背景がありながらも2試合に1得点という驚異的なペースでゴールを決めていたことになる。森孝慈監督の下、尾崎や柱谷幸一と共にセンターフォワードの候補ともなったが、持ち前の体力・運動量からサイドで守備にも貢献することを求められたため[12][13]、左ウイングに配された。中央へ切れ込んで放つヘディングシュートを武器とし[14][12](ただし、本人はヘディングよりも左足シュートの方が得意だったと回想している)、その圧倒的な得点力で「アジアの核弾頭」の異名を取った。代表チームがアウェーゲームの際に敵国に行くと、最も警戒すべき選手として常に大写しになるのは原だったと言われている。特に1986年ワールドカップ予選・ホーム北朝鮮戦で水溜りに入ったボールを足先で浮かせてDFをかわし決めた[14]「雨中ゴール」、1987年のソウルオリンピック予選・アウェー中国戦での強烈な決勝ヘディングシュート[15] が有名である。
指導者時代
浦和レッドダイヤモンズ
1992年5月に引退後、浦和レッドダイヤモンズのコーチ・ユース監督を務めた。
1998年にトップチーム監督に就任。主軸FWの福田正博が負傷離脱する中[16]、新人の小野伸二をトップ下に抜擢し、変則的な中盤を菱型にした4-4-2(左MFのチキ・ベギリスタインを攻撃的、右MFの石井俊也を守備的にプレーさせることで、バランスを取った[16][17]。)を形成してチームを躍進させる。セカンドステージでは過去最高順位の3位に入った。また、怪我が多かった福田に替えて、若手の山田暢久を「一皮向ければ」と主将に据えている[17][18]。
翌1999年ファーストステージは負傷者が続出した影響もあって[19][20]13位と振るわず、解任。原は守備の人材不足を感じていたためシーズン途中に補強がなされたものの、その補強が活かされる前の解任だった[21]。この年浦和はJ2降格を喫するが、後にGMの横山謙三は、降格の主要因について「原監督を途中で替えたということが大きい」「(原を留任させていれば)後半盛り返せただろうと思っている」と語っている[21]。原自身は後に雑誌のインタビューで「弱いといわれた時期も、誰もが誇りは持っていた。ある意味王者のスピリットを持っているチームだった」と浦和を評する。また、2000年1月に発売された本『浦和レッズは負けない』にも寄稿している。
2000年以降は浦和の育成担当としてクラブに残留するという選択肢も有ったが、監督として再び勝負する機会が遠のきかねないと判断し[20]、浦和を退団。
その後スペインへ渡りリーガ・エスパニョーラの数チームを視察。ベギリスタインを通じて紹介を得たこともあった[22]。帰国後はサッカー解説者としてスカイパーフェクTV!の欧州サッカー中継を中心に活動。多くのファンを得た(後述)。
FC東京
2002年からFC東京の監督に就任[10]。新興クラブであるFC東京は、J2降格を避けるべく負けないサッカーを志向してチーム作りを行っていたが、「攻撃サッカー」を掲げる原の招聘によって、勝つためのサッカー、面白いサッカーを標榜するように転換[23][24]。原によれば、チームには大熊清前監督が築いたひたむきに守備をこなす姿勢が残っていたので、攻撃重視で指揮を執っても守備が疎かになることは無いだろうという目算があったという[8]。
初采配となった2002年Jリーグ開幕戦では、前年度リーグ優勝の鹿島アントラーズを相手に、前がかりに走り続ける積極的なサイドアタックを繰り返し、4得点を挙げて圧勝。後の語り草となった[25]。4-2-3-1の布陣を基本としつつ、同年獲得したMF石川直宏、DF加地亮のコンビで右サイドから打開し、左サイドには戸田光洋らFWタイプの選手を置いて中央へ走りこませるという左右非対称の斬新な攻撃[26] で上位進出に成功。2004年ナビスコカップでは延長PK戦の末に古巣浦和を下して、チームに初のJリーグタイトルをもたらした。
解説者時代同様に親しみやすいコメントと、自チームの得点時には何度もジャンプして体全体で喜びを表現する姿で[27][28][29]チーム成績とは別の部分でもサポーターから慕われ、人気を集めた[30]。古巣・浦和をライバル視する発言が多かったが、2003年に行われた福田の引退試合では、テレ玉での中継解説者を務め、2004年のナビスコカップ優勝後の場内インタビューでは「浦和も非常に素晴らしいチーム。是非リーグ戦で頑張ってもらって優勝して欲しい」とエールを送っている。
2005年は出だしこそ首位に浮上したものの、4月以降主力を次々と負傷で欠いたことなどから[31] J2降格圏まで成績を低迷させたが、シーズン終盤は12戦負けなしと持ち直した。しかし4・5月の躓きによってクラブ首脳は次期監督候補の選定を本格化しており、契約期間終了と共に退任することとなった[29]。退任報告の集会には5000人近くのファンが詰め掛けた。
2007年、監督に再任[32]。身上としているリスクをかけて攻撃に比重を置くサッカー[33] を続けたが、大量失点での敗戦も多く1年限りで退任となった[34]。
日本サッカー協会
2009年2月、日本サッカー協会(JFA)は技術委員会を強化・育成の2部門に分割再編[35]。原のJリーグでの指導実績や欧州サッカーへの精通が評価され[35]、JFA技術委員長(強化担当)に就任した。グラつきの見られた[注 3]岡田体制を支えた他[36]、JFA特任理事及び国際マッチメイク委員にも任ぜられ、Jリーグ各クラブとの調整や戦術分析、マッチメイクを統括した[35]。
また、霜田正浩と共に2010 FIFAワールドカップ終了後の日本代表新監督選定の中心としても奔走。2010年8月、新監督はアルベルト・ザッケローニに決定したが、ザッケローニの就労ビザ取得が間に合わなかったため、同年9月に行われたキリンチャレンジカップにおいて代行監督を務め、2試合を指揮しいずれも勝利を収めた。ロンドンオリンピックではU-23日本代表の団長を務めた。
2013年12月より、JFA専務理事を兼務[4]。激務が続く中でも公式戦・合宿を問わずに現場視察を欠かさず、ザッケローニとの戦略擦り合わせに腐心した[37]。2014年9月、同年6月開催のFIFAワールドカップ総括とザッケローニの後任であるハビエル・アギーレの就任決定をもって[38] 技術委員長を退任し、以後は専務理事に専念[39]。日本代表やJリーグだけでなく各種サッカー大会を精力的に視察し、日本サッカー界の底上げに注力した[40]。
2015年2月のJFA理事会において、大仁邦彌JFA会長や霜田と共にアギーレの解任に伴う処分が提議されたが、3名とも任命責任は認められなかったため、給与を自主返納することで[41] 収拾を図った。
2015年6月、日本体育協会常務理事に選定され[42][43]、国体委員長として[44] 冬季国体の開催地選定や、2020年東京五輪に向けた女子種目の拡充を担った[45]。
2016年1月、JFAは史上初となる会長選挙を行った。当時JFAのNo.3[46]でもあった原は「自分も出ないと(選挙戦にならず制度が)変わらない」[47] と立候補を表明。原とNo.2の田嶋幸三副会長が争う構図になるのは「規定路線」であり[48]、原は劣勢[注 4]が確実視されていたが[50]、秋春制の導入に慎重なJリーグクラブや[51]、JFAとJリーグの関係強化を推進した実績により支持を集め[52]、45%の評議員票を獲得、僅差での敗退となった[53][51][46]。
Jリーグ役員
2016年2月、田嶋は自分と会長の座を争った原を二階級ほどの降格になる理事職に降格させる人事案を決めた。その話を田嶋から直接聞いた村井満Jリーグチェアマンは[46] 各クラブの強化部門に影響を及ぼせる人物として、すぐさま原にJリーグ副理事長就任を打診[54]。原もこれに快諾し[55]、3月より同職に就任[56]。JFAを離職し[57][58]、自身の「専門とするところ」であるクラブ目線での日本サッカー強化を担うこととなった[55]。翌3月、Jリーグからの選出で、JFA常務理事に就任[59][60]。彼の功績や人柄を表すエピソードと言える。
同年4月の熊本地震に際しては、自ら現地入りして活動休止中のロアッソ熊本と協議し、リーグ戦再開に向けての調整に当たった[61]。
2018年4月、日本サッカー協会技術委員会強化部会員に就任[62]。
評価
監督としての戦術・若手育成
指導者としての評価に際しては、特に若手の積極起用に注目して語られることが多い[63]。自身も「監督をやっていて楽しいのは、(チームの勝利よりも)選手がみるみる伸びていき、顔を輝かせているのを見ているとき」「タイトルをとれれば楽しいけど、人がぐんぐん伸びていく時期を見るのがうれしい。それが一番好き」と語る[64]。
浦和でも小野、山田を抜擢し、大きく成長させているが、小野は元々注目度の高い期待株であること、盛田剛平ら新人選手を重用してチームを低迷させたこともあったことから、原の評価を低く見る者もある。原の下でもプレーした浦和OB福田正博は「サテライト・ユースの指導経験しかなかった原にいきなりトップチーム、しかも浦和レッズという独特の雰囲気を持つチームの監督を任せるのは非常にプレッシャーのかかることだったのではないか」という趣旨のコメントを、雑誌に寄せた原稿で述べている。
その後に就任したFC東京でも若手登用の傾向は強く、石川、加地、茂庭照幸、今野泰幸を獲得してレギュラーに据え、日本代表に選出されるまでに成長させた[65]。横浜F・マリノスで出場機会のなかった石川に対しては「(故障者が出ている)今なら使っちゃうよ」という口説き文句で移籍を決断させた。
選手として原と4年間(2002-2005)過ごした戸田は、原と選手との距離感・信頼関係の構築について「“試合に出てくるんじゃないか”と思わせるくらい選手と一緒の目線で戦っている」「顔色を伺ったってどうこうなる人じゃない」とコメント[27]。原の下で5年間(2002-2005, 2007)コーチを務めた長澤徹は、原は選手の短所を包み隠さず指摘し、時に敗因として名指しするが、それでも選手からの信頼を損ねることはなかったという。選手と真摯に向き合うことができるコミュニケーションの天才だと評している[66]。
4バックシステムを好み[67]、『ニュースステーション』がJリーグ全クラブの監督に対して行った、3バックと4バックに関するアンケートに対し(このアンケートが行われた当時は3バックシステムを採用するクラブが多く、このようなテーマが議題となった)、回答の理由を「4バックが好きだから」とだけ説明した[68]。原曰く、布陣を決める時にまず考えることは、選手個々の長所を出せるかどうか[67] である。しかし、選手の個性・特徴を最大限発揮させることを理想としていることから[69]、2007年には、不安定ながら新たなプレースタイルの模索を始めた石川と、石川には元来の能力を発揮してほしいと原点回帰を求める原との間で、微妙な溝が生じたこともあった[70]。
解説・評論
原はテレビ解説者としても、多くのファンを得ている。解説者としての原のファンのことを「ヒロミスタ」と呼ぶことがある。ゴールが決まった時に、それが開始1分であろうが後半ロスタイムであろうが、あるいはVゴールであったとしても「いい時間帯[注 5] に得点しましたね[71]」と発言したり、選手がまだシュート態勢であり、実際にそのシュートがゴールインするか否かがわからない状態にもかかわらず「あ、入った」などと発言した[71]ことが、そのきっかけとなった。
試合に熱中するあまり解説を忘れることもしばしばだが、広い視野からの的確な指摘を分かりやすく視聴者に伝えるという解説者としての技量がある、さらに選手への批判も臆せず口にする。解説者を辞する時はスカパー!で特別番組が何本も作られた。コラムニストのえのきどいちろうもヒロミスタの一人である。
試合中に感極まって泣きながら解説をしたこともある。その試合はUEFAカップ史上最高の決勝と呼び名の高い2000-01シーズンの決勝戦、リヴァプールFC vs デポルティーボ・アラベスである。アラベスはリヴァプールとは比較にならないほどの中小クラブであったが、ヨハン・クライフの息子であるジョルディ・クライフらをはじめとする魅力的な選手は少なくなかった。その決勝ではリヴァプールに2-0、3-1、4-3と3度もリードを奪われながら決して諦めることなく戦い、88分にクライフが同点ゴールを決めて4-4、延長戦に持ち込む。しかし、最後は5-4でリヴァプールに敗れ、アラベスは準優勝に終わった(このシーズン、リヴァプールは他にもFAカップとリーグカップも制し、最終的に三冠を達成している)。この激闘を解説していた原は「涙がでてきてしまいましたよ。」と話した。
また、浦和レッズ監督時に指導したベギリスタイン(後にFCバルセロナ技術部長など)と親交を深めたことを機に日常会話に支障が無い程にスペイン語を習得[72]。スペイン語に近いとされるポルトガル語を話すブラジル人選手とも通訳を介さずに会話している[73]。料理をはじめとするスペイン文化全般にも造詣が深い。FC東京の監督時にも、チームのラ・コルーニャ遠征やポストシーズンの視察に合わせて、原がスペインを紹介する番組が作成された。
解説者としての出演歴
JFA技術委員長就任以降も不定期にメディア出演を行なっている。
Jリーグ (NHK BS1、スカパー!、J SPORTS)
- 技術員長就任後はNHKの中継出演から退いている。
UEFAチャンピオンズリーグ (スカパー!、J SPORTS)
- 過去に放映権を持っていたWOWOWの中継にも出演していた
プレミアリーグ (NHK BS1)
- かつてはスカパー!、J SPORTSの中継にも出演していた。現在もNHKの中継には出演している
セリエA (スカパー!)
リーガ・エスパニョーラ (過去:NHK BS1、JSKY SPORTS(現J SPORTS))
バルサTV (J SPORTS)
FIFAワールドカップ (スカパー!) ※2002年、2006年
・Jリーグジャッジリプレイ(youtube)
所属クラブ
黒磯市立黒磯小学校[6]
黒磯市立黒磯中学校[74]
栃木県立矢板東高等学校[74]
- 早稲田大学ア式蹴球部
- 1981年4月 - 1992年5月[10] 三菱重工業 / 三菱自動車
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1981 | 三菱 | JSL1部 | 18 | 4 | |||||||
1982 | 14 | 18 | 7 | ||||||||
1983 | 11 | 18 | 3 | ||||||||
1984 | 9 | 18 | 8 | ||||||||
1985 | 22 | 10 | |||||||||
1986-87 | 22 | 8 | |||||||||
1987-88 | 22 | 10 | |||||||||
1988-89 | 18 | 3 | |||||||||
1988-89 | JSL2部 | 16 | 9 | 1 | 0 | ||||||
1990-91 | JSL1部 | 18 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 19 | 3 | ||
1991-92 | 2 | 0 | 1 | 0 | |||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 176 | 56 | |||||||
日本 | JSL2部 | 16 | 9 | 1 | 0 | ||||||
総通算 | 192 | 65 |
その他の公式戦
- 1990年
コニカカップ 5試合3得点
代表歴
出場大会など
アジア競技大会(1978, 1982, 1986)
FIFAワールドカップ予選(1982, 1986)
オリンピック予選(1984, 1988)
試合数
- 国際Aマッチ 75試合 37得点 (1978-1988)[4]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1978 | 6 | 1 | 0 | 0 | 6 | 1 |
1979 | 2 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 |
1980 | 5 | 2 | 6 | 0 | 11 | 2 |
1981 | 10 | 1 | 8 | 5 | 18 | 6 |
1982 | 6 | 3 | 10 | 1 | 16 | 4 |
1983 | 10 | 6 | 18 | 7 | 28 | 13 |
1984 | 7 | 5 | 5 | 3 | 12 | 8 |
1985 | 10 | 5 | 8 | 4 | 18 | 9 |
1986 | 6 | 7 | 6 | 1 | 12 | 8 |
1987 | 11 | 7 | 15 | 1 | 26 | 8 |
1988 | 2 | 0 | 17 | 11 | 19 | 11 |
通算 | 75 | 37 | 94 | 33 | 169 | 70 |
得点数
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|---|
01 | 1978年12月13日 | タイ、バンコク | バーレーン | 4-0 | 勝利 | 1978年アジア競技大会 |
02 | 1980年06月09日 | 中華人民共和国、広州 | 香港 | 3-2 | 勝利 | 広州国際大会 |
03 | 1980年06月18日 | 中華人民共和国、広州 | 香港 | 2-0 | 勝利 | 広州国際大会 |
04 | 1981年09月08日 | マレーシア、クアラルンプール | アラブ首長国連邦 | 3-2 | 勝利 | ムルデカ大会 |
05 | 1982年11月23日 | インド、ニューデリー | 南イエメン | 3-1 | 勝利 | 1982年アジア競技大会 |
06 | ||||||
07 | 1982年11月25日 | インド、ニューデリー | 韓国 | 2-1 | 勝利 | 1982年アジア競技大会 |
08 | 1983年02月12日 | シリア、ダマスカス | シリア | 2-2 | 引分 | 親善試合 |
09 | ||||||
10 | 1983年09月04日 | 日本、東京 | フィリピン | 7-0 | 勝利 | ロサンゼルス五輪予選 |
11 | 1983年09月07日 | 日本、東京 | フィリピン | 7-0 | 勝利 | ロサンゼルス五輪予選 |
12 | 1983年09月15日 | 日本、東京 | チャイニーズタイペイ | 2-0 | 勝利 | ロサンゼルス五輪予選 |
13 | 1983年09月25日 | ニュージーランド、オークランド | ニュージーランド | 1-3 | 敗戦 | ロサンゼルス五輪予選 |
14 | 1984年03月06日 | ブルネイ、バンダルスリブガワン | ブルネイ | 7-1 | 勝利 | 親善試合 |
15 | ||||||
16 | 1984年04月18日 | シンガポール | マレーシア | 1-2 | 敗戦 | ロサンゼルス五輪予選 |
17 | 1984年04月21日 | シンガポール | イラク | 1-2 | 敗戦 | ロサンゼルス五輪予選 |
18 | 1984年04月26日 | シンガポール | カタール | 1-2 | 敗戦 | ロサンゼルス五輪予選 |
19 | 1985年02月23日 | シンガポール | シンガポール | 3-1 | 勝利 | 1986 FIFAワールドカップ予選 |
20 | 1985年03月21日 | 日本、東京 | 朝鮮民主主義人民共和国 | 1-0 | 勝利 | 1986 FIFAワールドカップ予選 |
21 | 1985年05月18日 | 日本、東京 | シンガポール | 5-0 | 勝利 | 1986 FIFAワールドカップ予選 |
22 | 1985年08月11日 | 日本、神戸市 | 香港 | 3-0 | 勝利 | 1986 FIFAワールドカップ予選 |
23 | 1985年09月22日 | 香港 | 香港 | 2-1 | 勝利 | 1986 FIFAワールドカップ予選 |
24 | 1986年07月25日 | マレーシア、クアラルンプール | シリア | 4-0 | 勝利 | ムルデカ大会 |
25 | 1986年08月01日 | マレーシア、クアラルンプール | マレーシア | 2-1 | 勝利 | ムルデカ大会 |
26 | 1986年09月20日 | 大韓民国、大田 | ネパール | 5-0 | 勝利 | 1986年アジア競技大会 |
27 | 1986年09月20日 | 大韓民国、大田 | バングラデシュ | 4-0 | 勝利 | 1986年アジア競技大会 |
28 | 1986年09月28日 | 大韓民国、大田 | バングラデシュ | 4-0 | 勝利 | 1986年アジア競技大会 |
29 | ||||||
30 | ||||||
31 | 1987年04月08日 | 日本、東京 | インドネシア | 3-0 | 勝利 | ソウル五輪予選 |
32 | 1987年05月27日 | 日本、広島市 | セネガル | 2-2 | 引分 | キリンカップ |
33 | 1987年06月26日 | インドネシア、ジャカルタ | インドネシア | 2-1 | 勝利 | ソウル五輪予選 |
34 | 1987年09月18日 | 日本、東京 | ネパール | 9-0 | 勝利 | ソウル五輪予選 |
35 | ||||||
36 | ||||||
37 | 1987年10月14日 | 中華人民共和国、広州 | 中国 | 1-0 | 勝利 | ソウル五輪予選 |
指導歴
- 1992年 - 1999年 浦和レッドダイヤモンズ
- 1992年6月 - 1994年 トップチーム コーチ
- 1995年 - 1996年 ユース 監督
- 1996年 サテライトチームコーチ (兼任)
- 1997年 トップチーム コーチ (サテライト兼任)
- 1998年 - 1999年 トップチーム 監督
- 2002年 - 2005年 FC東京 トップチーム 監督
- 2007年 FC東京 トップチーム 監督
- 2009年 - 日本サッカー協会
- 2009年2月 - 2014年9月 技術委員長 (強化担当)[4]
- 2009年2月 - 特任理事[4]
- 2009年11月 - 国際マッチメイク委員[4]
- 2010年7月 - 理事[4]
- 2010年9月 サッカー日本代表 監督代行[4]
- 2010年9月 サッカー日本代表 監督代行[4]
- 2013年12月 - 専務理事[4]
- 2016年3月 - 常務理事[60] (兼任)
- 2009年2月 - 2014年9月 技術委員長 (強化担当)[4]
- 2015年6月 - 2017年6月[75]日本体育協会 常務理事[43] (兼任)
- 2010年 - 日本プロサッカーリーグ
- 2010年7月 - 理事[4] (兼任)
- 2016年3月 - 副理事長[56]
監督成績
年度 | クラブ | 所属 | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
1998 | 浦和 | J | 6位 | 61 | 34 | 22 | - | 12 | 予選リーグ敗退 | ベスト8 |
1999 | J1 | 13位* | 13 | 15 | 3 | 4 | 8 | ベスト8 | - | |
2002 | FC東京 | 9位 | 39 | 30 | 13 | 2 | 15 | ベスト8 | 3回戦敗退 | |
2003 | 4位 | 49 | 30 | 13 | 10 | 7 | ベスト8 | 4回戦敗退 | ||
2004 | 8位 | 41 | 30 | 10 | 11 | 9 | 優勝 | ベスト8 | ||
2005 | 10位 | 47 | 34 | 11 | 14 | 9 | 予選リーグ敗退 | 5回戦敗退 | ||
2007 | 12位 | 45 | 34 | 14 | 3 | 17 | ベスト8 | ベスト8 | ||
通算 | 日本 | J1 | - | - | 207 | 86 | 44 | 77 | - | - |
総通算 | - | - | 207 | 86 | 44 | 77 | - | - |
- 1999年は解任時点(1stステージ終了時)の順位。
関連情報
書籍
- 岩崎龍一 『スーパーストライカーセレクション2002 (監修)』 ザマサダ、2002年。ISBN 4883970752。
脚注
- 注釈
^ Jリーグへの加盟申請をするためには、一定数のプロ契約選手が必要だった。
^ 後に三浦知良、岡崎慎司が原を上回る得点数を記録。詳細はサッカー日本代表#記録を参照。
^ 原の就任は2010FIFAワールドカップ最終予選の最中であり、日本代表はホームゲーム2試合で1得点に終わるなど、苦戦が続いていた。
^ その要因として、日刊ゲンダイは、JFA理事会及び評議会には田嶋の母校である筑波大学出身者が多いことや、犬飼基昭・大仁邦彌といった三菱OBが立て続けに会長になることへの忌避を挙げている[49]。
^ 原のtwitterアカウント名は「iijikantai(いい時間帯)」である。
- 出典
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^ 原専務理事 僅差で敗れるも「投票してもらって感謝」 スポーツニッポン (2016年2月1日)
^ 会長選・僅差で田嶋氏 「J秋開幕」で票割れる 毎日新聞 (2016年2月1日)
^ Jリーグ、原氏が副理事長に…クラブ強化責任者 読売新聞 (2016年2月23日)
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^ JFA会長選落選の原博実専務理事がJリーグに転籍、JリーグNo.2に…ハリル監督らにも知らせず発表 ゲキサカ (2016年2月23日)
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- ^ ab第5回東アジア競技大会 日本代表選手団名簿 (PDF) 日本オリンピック委員会
^ 国体委員長・原博実常務理事は退任へSANSPO.COM
関連項目
デポルティーボ・ラ・コルーニャ (リーガ・エスパニョーラ)
Foot! (FC東京監督就任前までコメンテーター、2003年より「原博実のスペイン紀行」を放送)- ヨーロピアンキングス
- 浦和レッドダイヤモンズの選手一覧#監督
- FC東京の選手一覧#監督
外部リンク
原博実 (@iijikantai) - Twitter
- プロフィール
原博実 – FIFA主催大会成績 (アーカイブ)(英語)
原博実 - National-Football-Teams.com(英語)
プロフィール (2007年) - ウェイバックマシン(2007年8月8日アーカイブ分) - FC東京
- 特集
連載コラム「核心を突く」 - 日刊スポーツ (2008年2月 - 2009年2月)
飽くなき娯楽性と大勝利の追求、05シーズン版FC東京 原博実監督インタビュー (1/3) - ウェイバックマシン(2005年5月7日アーカイブ分) - スポーツナビ (2005年4月29日)
同上 (2/3) - ウェイバックマシン(2005年5月7日アーカイブ分)
同上 (3/3) - ウェイバックマシン(2005年5月7日アーカイブ分)
技術委員長を退任した原博実が振り返る アギーレ招へいの経緯とW杯の敗因 (1/2) , (2/2) - スポーツナビ (2014年9月22日)
原博実が示す“世界ベスト10”への課題 技術委員長時代に残した功績と後悔 (1/2) , (2/2) - スポーツナビ (2014年9月30日)
<TALK★FOOTBALL> 原博実技術委員長 激白 - 東京中日スポーツ (2010年5月30日)
原委員長が明かす新監督誕生の裏側 - 東京中日スポーツ (2010年9月27日)
原委員長が語る4年後への道筋 - 東京中日スポーツ (2010年9月28日)
原博実 日本の船頭になる - 東京中日スポーツ (2014年1月18日)
ザック監督に賭けた思い サッカー協会・原博実 (上) , (下) - 日本経済新聞 (2010年10月20日)
【秋春制を考える】原博実技術委員長に聞く日本サッカーの強化ビジョン (前編) (1/3) , (2/3) , (3/3) - フットボールチャンネル (2013年2月28日)
同上 (後編) (1/4) , (2/4) , (3/4) , (4/4) - (2013年3月1日)
検証ザックジャパン 原博実専務理事インタビュー (前編) (1/4) , (2/4) , (3/4) , (4/4) - Sportiva (2014年9月5日)
同上 (後編) (1/4) , (2/4) , (3/4) , (4/4)
参考文献
- 後藤健生 『1917-2002 日本サッカー史 代表篇』 双葉社、2002年。ISBN 978-4575294897。
- 後藤勝 『トーキョーワッショイ!』 双葉社、2005年。ISBN 978-4575297829。
- 西部謙司 『最も愛される監督・原博実 ヒロミズム』 出版芸術社、2007年。ISBN 978-488293-3274。
- いとうやまね 『プロフットボーラーの家族の肖像』 カンゼン、2013年。ISBN 978-4862551900。
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