カール・デーニッツ



















































































































ナチス・ドイツの旗 ドイツ国の政治家
カール・デーニッツ
Karl Dönitz


Karl Dönitz.jpg

生年月日
(1891-09-16) 1891年9月16日
出生地
ドイツの旗 ドイツ帝国
 プロイセン王国 ベルリン近郊グリュナウ(ドイツ語版)
没年月日
(1980-12-24) 1980年12月24日(89歳没)
死没地
西ドイツの旗 西ドイツ
Flag of Schleswig-Holstein.svg シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 アウミューレ(ドイツ語版)
出身校
ミュルヴィック海軍士官学校
前職
軍人
所属政党
Reichsadler der Deutsches Reich (1933–1945).svg 国家社会主義ドイツ労働者党
(1944年 - 1945年)
称号
Планка Золотой партийный знак НСДАП.svg 黄金ナチ党員バッジ
騎士鉄十字章
配偶者
インゲボルグ・デーニッツ
子女
ウルズラ・ヘスラー
クラウス・デーニッツ
ペーター・デーニッツ
サイン
Dönitz Unterschrift.jpg




ナチス・ドイツの旗 ドイツ国(フレンスブルク政府)大統領

内閣
ゲッベルス内閣(ドイツ語版)
フォン・クロージク内閣(ドイツ語版)
在任期間
1945年4月30日 - 1945年5月23日



War ensign of Germany (1938–1945).svg ドイツ海軍総司令官

内閣
ヒトラー内閣
在任期間
1943年1月30日 - 1945年5月1日
総統
アドルフ・ヒトラー



War ensign of Germany (1938–1945).svg ドイツ海軍潜水艦隊司令長官

内閣
ヒトラー内閣
在任期間
1935年 - 1943年1月30日
総統
アドルフ・ヒトラー




ナチス・ドイツの旗 ドイツ国防軍最高司令官

内閣
ゲッベルス内閣(ドイツ語版)
フォン・クロージク内閣(ドイツ語版)
在任期間
1945年4月30日 - 1945年5月23日
大統領
カール・デーニッツ




ナチス・ドイツの旗 ドイツ国(フレンスブルク政府)国防大臣(英語版、ドイツ語版)

内閣
ゲッベルス内閣(ドイツ語版)
フォン・クロージク内閣(ドイツ語版)
在任期間
1945年4月30日 - 1945年5月23日
大統領
カール・デーニッツ
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カール・デーニッツ
Karl Dönitz
生誕
(1891-09-16) 1891年9月16日
ドイツの旗 ドイツ帝国
 プロイセン王国 ベルリン近郊グリュナウ(ドイツ語版)
死没
(1980-12-24) 1980年12月24日(89歳没)
西ドイツの旗 西ドイツ
Flag of Schleswig-Holstein.svg シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 アウミューレ(ドイツ語版)
所属組織
War Ensign of Germany (1903-1918).svg ドイツ帝国海軍(Kaiserliche Marine)
Flag of Weimar Republic (jack).svg ヴァイマル共和国海軍(Reichsmarine)
War ensign of Germany (1938–1945).svg ナチス・ドイツ海軍(Kriegsmarine)
軍歴
1910年-1945年
最終階級
海軍元帥
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カール・デーニッツKarl Dönitz、1891年9月16日 - 1980年12月24日)は、ドイツの海軍軍人、政治家。海軍軍人としての最終階級は元帥(大提督)。


潜水艦作戦の第一人者で、無線誘導による群狼作戦をあみだした。ウィンストン・チャーチルを最も苦しめたドイツの軍人の一人。総統アドルフ・ヒトラーの自殺後にはその遺書(英語版)に基づき大統領に就任し、連合国への無条件降伏を行った。




目次






  • 1 経歴


    • 1.1 第一次世界大戦から戦間期まで


    • 1.2 第二次世界大戦


      • 1.2.1 潜水艦隊司令長官


      • 1.2.2 海軍総司令官




    • 1.3 大統領としての指名から敗戦へ


    • 1.4 逮捕


    • 1.5 ニュルンベルク裁判


    • 1.6 シュパンダウ刑務所に服役


    • 1.7 晩年




  • 2 人物


    • 2.1 ゴールデンソーンのインタビュー




  • 3 著作


  • 4 関連書籍


  • 5 脚注


    • 5.1 注釈


    • 5.2 出典




  • 6 参考文献


  • 7 関連項目





経歴



第一次世界大戦から戦間期まで




1917年〜1918年頃、潜水艦U39勤務時代のデーニッツ中尉


ベルリン近郊グリュナウ(ドイツ語版)にてカール・ツァイス社の技師だった父エミール・デーニッツのもとに生まれる。母はカールが4歳の時に死に、父が男手ひとつでデーニッツ含む二人の息子を育てた。「皇帝と祖国に仕えることが第一の義務であり、個人の幸福など瑣末なことに過ぎない」というプロイセン的規律がデーニッツ家の教育方針だった[1]


1910年4月1日、フレンスブルク・ミュルヴィックの海軍士官学校に入学[1]。1912年に父が死去し、父に代わる偶像として上官ヴィルフリート・フォン・レーヴェンフェルト(ドイツ語版)海軍大尉を尊敬するようになった[1]。フォン・レーヴェンフェルトは1912年にデーニッツを小型巡洋艦ブレスラウの士官候補生として配属した[1]


この艦に勤務中に第一次世界大戦を迎え、オスマン帝国を同盟国に誘うために地中海の港で停泊を続けていたが、潜水艦Uボートに関心を持つようになった[2]。1917年1月に潜水艦当直士官課程を終えるとヴァルター・フォルストマン大尉が艦長を務める潜水艦U39に勤務[3]


第一次世界大戦に潜水艦長として参戦。1918年、乗艦が潜航中に航行不能となり、急浮上をしたところをイギリス軍に捕らわれて捕虜となる。Uボートの艦長は絞首刑になるという噂を聞き、発狂したふりをして1919年、本国送還となる。


大戦終了後もヴェルサイユ条約によって縮小されたドイツ海軍に残ることができた。しかし、条約で潜水艦の開発、配備が禁止されていたため、デーニッツも水上艦艇の勤務となった。その期間に日本を含む諸外国を遠洋航海で訪問しているが、アメリカに行けなかった事を後に後悔している[4]。水雷艇艇長、駆逐艦艦隊司令、北海方面海軍司令部参謀を歴任後、1934年に軽巡洋艦エムデンの艦長に就任する。1935年にヒトラーのヴェルサイユ条約の軍備制限条項の破棄(ドイツ再軍備宣言)による潜水艦部隊再建のため、大佐だったデーニッツが潜水艦隊司令長官(BdU)に抜擢された。



第二次世界大戦



潜水艦隊司令長官




Uボートとデーニッツ、1941年6月 (従軍記者のブーフハイムが撮影したもの)




ナチ式敬礼を行うデーニッツ(後ろ向きの人物)。1941年。


デーニッツはドイツ海軍の潜水艦隊司令長官として、1936年1月1日以降のUボート作戦を指揮し、1943年1月30日以降は海軍総司令部(ドイツ語版)(OKM)トップの海軍総司令官として、海軍全体の指揮をとる。デーニッツの巧みな作戦指揮や後のUボートの優先生産計画に支えられ、「灰色の狼」と呼ばれる潜水艦作戦は、チャーチルから英国への最大の脅威として恐れられた。


しかし、大西洋の戦いが戦機を決すると考えたチャーチルとデーニッツに対してドイツ海軍総司令部は大陸的思考に定着し、デーニッツが総指揮官として指揮権を得た時にはすでに戦いの趨勢は決していた[5]


開戦の日、デーニッツは57隻のUボートを擁していた(大西洋に派遣できたのは26隻)。デーニッツは当初より300隻のUボートが最低でも必要(100隻が哨戒、100隻が戦場への往復、100隻が整備)と表明していたが、通商破壊に必要な数はおろか訓練用にも事欠く状態で、開戦時に「なんたることだ!また英国と戦争をせねばならんとは!」と現状を嘆いた。


英国との開戦後も状況は変わらなかった。月産29隻の供給では損害の補填しかできず、その上、エーリヒ・レーダー元帥の指揮下で水上艦艇の補助としてデーニッツは作戦を制約された。そのため、対英戦での通商破壊作戦に使用できるUボートの数はごく僅かに限られていた。しかも、開戦直後(1939年9月6日)よりUボートの磁気式信管の魚雷は早期爆発を頻発し[注 1]、ノルウェー攻略ではデーニッツは数週間前からUボートに通商破壊戦を中止させ、全兵力の42隻をノルウェー沿岸の英艦隊の予想進撃路に配置しなければならなかった。しかし、同地の鉱物から発せられる強い地磁気で魚雷は誤作動を繰り返し、ほとんど成果をあげなかった。


この魚雷の不調は深刻で、U47の報告により海軍はより威力の劣る接触式の信管による起爆に1939年10月20日に変更させた。しかし、今度は魚雷の深度調節機の欠陥が明らかになり、Uボートは現実的には駆逐艦への魚雷攻撃が不可能になった。この魚雷の欠陥と少なすぎる潜水艦の数から、緒戦の英軍の欧州からの水上艦艇の補助的な艦隊戦に関して、多くの戦果をみすみす逃す結果となった。魚雷の問題の技術的解決は1940年の夏までかかった。それでも、開戦初期は新規建造トン数を上回る撃沈数を挙げたため、これらの功績により、1939年から1940年の間に少将から中将に昇進した[注 2]



ドイツは渋るヒトラーを海軍が説得した結果、1940年8月17日にイギリスの封鎖宣言に対してようやく対封鎖宣言を行った[注 3]。これにより無警告で商船を撃沈することが違法ではなくなったために、デーニッツの作戦への制約は一つ少なくなった。


当初は潜水艦の数の不足と英軍の警戒の弱さから単独行動の商船が犠牲になった。しかし、英軍が護送船団方式をとると、敵の輸送船団を発見した1隻の潜水艦が近在の味方潜水艦を誘導して一時にこれを襲撃するという「群狼作戦」で、シーレーンを破壊し軍需民需の物資を海外からの輸入に依存するイギリスを苦しめた。


またUボートの建造もフランス占領後にはやや増加し、ビスケー湾から直接大西洋に出ることができた。しかし、ヒトラーからの要望でUボートの地中海派遣や北極海派遣が続き大西洋で作戦するUボートの数は限られた。1941年末のアメリカ参戦後、西海岸沿岸で活動できたのは6隻の大型の9型ボートだけであった。しかし、1940年以降はフランス占領の効果とUボート増産の効果がでて、1943年春に連合軍の護衛戦術が変更されるまで戦果は増え続けた。



海軍総司令官


1943年1月30日、レーダー元帥の後任として海軍総司令官に就任し、海軍元帥にも昇進する。なお、後任の潜水艦隊司令長官にはフォン・フリーデブルク少将が就任した。


デーニッツはレーダーの辞任の理由となったヒトラーの大型艦の廃艦命令について、それを強硬に主張するヒトラーを1943年2月4日に「装備を含めて」Uボート関連の「ドック工員や水上艦艇」を陸軍に振り向けることを中止させ、翌日6日にテオドール・クランケ中将が「成功を約束する機会」で「大型艦を戦場に派遣する」との暫定的なヒトラーの許可を得る。2月26日ヒトラーに大型艦の廃艦命令を一部撤回させ、後に大型艦は生き残った。


大西洋では、英軍が逆探知装置を開発し、戦線に投入していた。デーニッツは、Uボート部隊に対して、現在地や燃料残量などの些細なことを、最大で1日に7回も報告を求めたが、英軍は短波方向探知機により無線を発信したUボートの位置を把握し、追跡・攻撃を行った。Uボートは長距離哨戒機や駆逐艦からの被害が増え、さらに米護衛空母が参加すると、Uボートは攻撃する前に空から制圧され戦果は激減する反面Uボートの損害は大幅に増加した。しかしデーニッツは、遅くまで英軍の逆探知能力に気づかず、Uボートの被害を拡大させた。撃墜した爆撃機から英軍の正確な電子兵器のシステムが判明すると、1943年5月に無線電波誘導による「狼群作戦」を終わらせた。


デーニッツも個人的に、1943年5月19日にUボート乗組員だった次男ペーターを失い、自らの作戦で自らの息子を失う悲劇にあう。さらに、ノルマンディー上陸作戦以降はフランスの基地も失い、Uボート戦は壊滅的な苦境に陥った。さらに、1944年5月13日にはSボート乗組員だった長男クラウスが戦死する個人的な悲劇が続いた。


1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に、海軍創設時の協約である非政治的なドイツ海軍は全体的に無関係であった[注 4]。また、デーニッツ自身もヒトラーを除けば全て良くなるとは考えていなかった。なぜなら仮にヒトラーを除いても、戦争の根本原因の国と国の衝突する利害関係までがなくなるわけではない上に、もし連合軍へ無条件降伏すればイギリスの秘密命令「エクリプス」(ドイツ分割計画)が実行されるので、全力を傾け「ヨーロッパ要塞」を守り抜くことが賢明だと考えていた。


デーニッツは戦況について新型電動潜水艦の就役やヴァルター・ボートの開発に期待を持ち、それらが大量に戦線に登場すれば戦局は好転すると考えていた。デーニッツは1944年当時でもソ連と西欧諸国の同盟は不自然であり、英国の戦争理由はヒトラーの言うように「力の均衡のため」であると信じていた。「ソ連が中部ヨーロッパに進出すれば力の均衡はソ連側に大きくふれてしまうため、英国は平和交渉に応じる。そのためには、交渉のテーブルに着ける能力をもたねばならず、防戦を続けるべきである。」と主張していた。


もっともデーニッツもアルデンヌ敗北後は、仮に新型電動Uボートやヴァルター機関のボートが就役したとしても、ドイツの敗北は避けられないと感じていた。しかし、戦争継続の態度は変わらなかった。その理由は、1944年の厳冬期に無条件降伏すれば国際法によりドイツ兵は現地で拘束され、そのためにソ連領内の数百万の生命が東部戦線やその奥地で失われる。それを防ぐために、春までは戦闘を継続するべきだと考えた。そして、春以降ドイツ本国のいくつかの都市が敵の手に落ちた後も、もし無条件降伏を行えば東部残留のドイツ人がソ連軍占領下のドイツ人同様に残虐行為にさらされるとして、さらに継戦を正しいとした。


デーニッツは、ノルマンディーの敗北後から終戦までの戦争末期二つの軍事行動を行っている。一つは、時代遅れとなった旧型Uボートの出撃を命じつづけた。その結果、戦果がほとんど見込めないにもかかわらず旧型Uボートの乗員の損失は続いた。デーニッツは、新型Uボート就役まで出撃を控えさせる処置をあえてとらない理由を「大西洋の敵航空機が本土や戦線へ振り向けられることを防止するために」と、「わずかでも戦略物資をアメリカからヨーロッパの戦場へ入れない」ためと説明している。もう一つは、1945年の1月から終戦まで難民や兵士をソ連の残虐行為から救うために、ソ連陸軍の包囲が開いている海上からデンマークや本国(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン)へ輸送を開始したことである。



大統領としての指名から敗戦へ






総統地下壕でヒトラーと会見するデーニッツ。1945年。


1945年4月23日、ヘルマン・ゲーリング国家元帥は連合軍に単独で講和を申出て反逆者として官職を剥奪され、ハインリヒ・ヒムラーSS長官も4月28日にスウェーデン経由で講和を申出て反逆者となり表舞台から消えた。デーニッツは「ヒトラーの死で軍律[注 5]から解放されしだい」海軍は降伏させ、自らは司令部で地上軍として「玉砕」するとの決意を部下や娘婿のギュンター・ヘスラーに打ち明けていた。


だが、ヒトラーは遺書(英語版)の中で後継者をデーニッツに指命していたため、4月30日19時30分、ナチス党官房長マルティン・ボルマンより電報(第1号電報)が届いた。そこには「総統は前国家元帥ゲーリングに代わって、海軍元帥閣下(デーニッツ)、貴方を後継者に指名した。」と書かれていた。しかしその電報はヒトラーの死には触れていなかったため、デーニッツはただちに「我が総統。貴方に対する私の忠誠は不変です。貴方をベルリンから救出するため私は引き続きあらゆる手段を試みます」と返信した。そして実際にデーニッツはすぐさま海軍兵士にヒトラー救出部隊を結成させ、ベルリンへ送り込んだ(この時に派遣された兵士のほとんどが戦死した)[7]


5月1日午前「遺書発効」とのボルマンからの第2号電報で、ヒトラーの死を知ったデーニッツはヒトラーの死を国民に公表した。その内容は次のとおりであった。


全ドイツ国民ならびにドイツ国防軍の全兵士諸君。我らが総統アドルフ・ヒトラーは亡くなった。きわめて深い悲しみと畏敬の念をもってドイツ国民は首を垂れる。彼は早くから共産主義の持つ恐るべき危険性を認識し、これと戦うことに全生涯を捧げた。彼のこの戦いの果てに、ゆるぎなくまっすぐな人生の果てにあったのは、ドイツ国首都での英雄的な死であった。彼の人生はドイツへの比類なき奉仕であった。怒涛のようなボルシェヴィキの侵攻に対し、彼の戦いはドイツを越えて全ヨーロッパに、文明世界全体に投入された。総統は私を後継者に指名した。私はその責任を悟り、この過酷な運命の時にあって、ドイツ国民の指導を引き継ぐものである[8]

同日、すでにヒトラーによって解任されていたヒムラーがデーニッツのもとに現れた。ヒムラーはデーニッツからヒムラーの解任を告げるボルマンの電報を見せられたが、それに構わずデーニッツに祝辞を述べるとともに「私がナンバーツーとして貴方を支えたい」と申し出てきた。デーニッツはこれを断っているが、親衛隊・警察勢力の離反を恐れてひとまず彼を政府に留め置いている。しかし、連合国から「ホロコーストの執行者」「強制収容所の支配者」として悪名高かったヒムラーは、降伏処理のために設立された臨時政府であるフレンスブルク政府にとっては邪魔な存在であり、5月6日になってから「もう会うつもりはない」と通達して放逐した[9]



5月1日午後、ゲッベルスとボルマンが共同署名した第3号電報がデーニッツのもとに届き、そこには「昨日15時30分に総統戦死。4月29日付けの遺書には、貴殿(デーニッツ)を大統領に、ゲッベルス博士を首相に、ボルマンをナチ党大臣に、ザイス=インクヴァルトを外相に」指名する(ヒトラーの遺書による内閣)とあった。デーニッツはゲッベルス、ボルマン等を含む人事が今後の降伏交渉の重荷になると考え、第1号電報で無制限の権限を得たとして、第3号電報の存在を握りつぶし、暗号電文に関係した通信士には口外を禁じた[10][要ページ番号]


そこでデーニッツは財務相のルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクを筆頭閣僚(leitenden Reichsminister、首相代行)兼外相に任命し、組閣を依頼した。なお、同日連合軍の地上部隊がせまって来たため、5月2日朝に総司令部をフレンスブルクに移した。


デーニッツは苦慮の後、ドイツ全土が軍事占領されての「自然的終戦」ではなく、「公式降伏」が必要と判断した。理由は、ソ連占領地区での投降した軍民への容認できない残虐行為が報告されており、そのため、西方での部分降伏を行い、東部では戦争を継続し難民輸送と兵員の撤退をさらに継続するのが主要な目的であった。また「降伏は軍隊がするので、国家がするわけではない。条約上の降伏は、弱体化しても国家主権を維持できる可能性がある」とのクロージク首相代行の上申を容れた結果でもあった。


5月5日、英軍のモントゴメリー元帥との間で北ドイツの部分降伏を発効させることに成功した。また、ボルマンとゲッベルスに対抗するために終戦処理政府を立ち上げ、連合軍に対して自らをドイツの正式代表として示した(ただし連合軍はこの表示に曖昧な態度で臨んだ)。


5月6日にはヨードルに全権を与えて米軍のアイゼンハワーの元に、西部戦線での無条件降伏を申し込んだ。ところが、アイゼンハワーは5月7日までにソ連軍を含めて無条件降伏を行わなければ、既に降伏している北部地区を爆撃すると通告した。これに対して、ヨードルはようやく発効を5月9日とすることに成功したのみであった。デーニッツは、この結果を踏まえ海上輸送に全艦艇を投入して続行することを命じた。このドイツ海軍最後の作戦は潜水艦をはじめ全ての使用可能な艦艇で行われ公式には9日まで、実際には終戦後1週間程度は継続された。1945年1月から5月にデーニッツは200万人[注 6]の市民と兵を救出したが、その間、ソ連軍の攻撃で1万人以上の損害がバルト海などで発生した[注 7]



逮捕




連合国に逮捕されるフレンスブルク政府の面々。先頭がデーニッツ大統領、後ろから歩いているのがヨードル上級大将とシュペーア軍需相


降伏後、2週間ほど西側連合軍はフレンスブルク政府を完全に無視した。この間、デーニッツ以下フレンスブルクの面々は無意味な「政府ごっこ」をしていなければならなかった。デーニッツは毎朝10時に「閣議」を開き、また、一党独裁の「民族主義国家」を維持しようと国民に向けて「複数政党制の狂気」を熱心に演説した。この時の状況について、閣僚の一人だったシュペーアは「我々は中身が空っぽの覚書を作り、うわべは活動的になることで我々の存在の無意味さに逆らおうとしていた。我々は最適の方法で自らを笑い物にしていた。あるいはすでに笑い物になっていた」と述べている[12]


5月23日になってついに西側連合国はフレンスブルク政府を解体した。デーニッツと彼の閣僚らは一か所に集められ、アイゼンハワーの代理人から「戦争犯罪裁判の被告人としてバート・モンドルフへ移送するので準備するように」と通告された。ヨードルはこれに動揺し、デーニッツに対して「海軍元帥閣下はさきほどの戦争犯罪の話をどう思われますか?我らはアイゼンハワー、モントゴメリー、ジューコフと同じく軍人としての務めを果たしただけではないのですか?」と聞いたが、デーニッツは苦笑いを浮かべながら「私の場合はね。ヒトラーが死んだのだからその後継者が代理を務めろということなのだろうな」と述べた[13]


その後、ゲーリングが収容されていたルクセンブルクのモンドルフのパレス・ホテルに送られ、8月中旬までそこで過ごした[14]。シュペーアの回顧録によればこの間、デーニッツとゲーリングは「被告人たちの中の首座」をめぐって争っていたという。ゲーリングとデーニッツはドアの前で会うのを避け、それぞれが二つのテーブルで座長として君臨したという[15]


8月中旬にニュルンベルク国際軍事裁判にかけるために他の被告人とともにニュルンベルク刑務所へと移された。



ニュルンベルク裁判




ニュルンベルク裁判中。前席のゲーリングと話す後部席のデーニッツ。横で聞いてる人物はヘス。


ニュルンベルク刑務所に送られた後もデーニッツ、カイテル、ヨードルといった軍人組は冷静にふるまっていた。デーニッツは「ドイツ海軍の顧問弁護人オットー・クランツビューラー(ドイツ語版)元艦隊法務長に弁護を頼みたい。それが認められないならアメリカ海軍かイギリス海軍の潜水艦の艦長に弁護を頼みたい。彼らは私が誇り高く戦ったことを知っているはずだ」と述べた[16]。結局は1936年のU18沈没以来の旧知の間柄のクランツビューラー元艦隊法務長がデーニッツの専属弁護人に就くことになった。デーニッツは「私個人の弁護ではない。私は潔白。海軍特にUボート艦隊のことを弁護してもらいたい」と依頼[17]した。


デーニッツは4つの起訴事項のうち、起訴第一事項「侵略戦争の共同謀議」、起訴第二事項「平和に対する罪」、起訴第三事項「戦争犯罪」の3つで起訴された。起訴状を届けられた際に感想を求められると「これらの訴因のどれも私には一切関係ない」と述べた[18]


デーニッツが検察から問われている罪状の中でも特に刑が重くなる可能性が高いものとして、ラコニア号撃沈事件を受けて1942年9月17日に出した原則命令[19]「難船者救助はその陳述がUボートにとって重要な場合に限る」は、沈没船の乗員・乗客を殺せと命じたに等しいというものがあった(ラコニア指令(英語版))。しかし弁護人クランツビューラーはアメリカ海軍太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督を引っ張りだすことに成功し、ニミッツ提督はクランツビューラー弁護士が作成した太平洋海戦に関する20問の質問書にこたえて「対日戦の最初から、アメリカ軍の潜水艦は自艦や作戦が危険になる恐れがある場合は警告や沈没船の救出作業をしなかった」ことを証言した。ただしニュルンベルク裁判は『しっぺ返し理論』(連合軍も同じことをやっているという対抗)を認めていなかったのでこれだけでは不十分だった。そこでクランツビューラー弁護士は「商船に抵抗を命令することによってロンドン潜水艦協定は、もはや商船には適用できなくなったということです。同様に全ての船に一般的警告がなされ、それとともに攻撃されるべき船への個々への警告が必要ではない、と公表された作戦地域におきましてもこの協定は適用されえません。」というロンドン協定解釈を行った。そして「私はアメリカ海軍本部が対日戦争で国際法に違反していたと証明したくない。」「アメリカ海軍本部はロンドン協定の実質解釈においてドイツ海軍本部と同じだったのです」と結論した。これは効果てきめんでアメリカ判事フランシス・ビドルはアメリカの面子を守るためにクランツビューラー弁護士の見解に賛成した[20]


しかしイギリス検事デビッド・マクスウェル=ファイフからの反対尋問で造船所の人員増強に強制収容所の囚人1万2000人を求めたことを追及された。この件ではデーニッツが不利となった[21]


1946年10月1日、被告人全員に判決が言い渡された。まず、被告人全員がそろった中で一人ずつ判決文が読み上げられた。デーニッツの判決文は「デーニッツはドイツUボートを建設して養成したが、証拠聴取の結果、彼は侵略戦争の謀議に通じておらず、これを準備し、開始した事実は出なかった。彼は純粋に軍事的な任務を果たした職業軍人だった。彼は侵略戦争計画が示された最も重要な相談に出席していなかった。彼がそこで下された決定を前もって知らされていたということに何の証拠もない」として、第一起訴事項につき無罪とした[22]。さらに「本法廷は武装したイギリス商船に対する潜水艦攻撃に対してデーニッツを有罪とするだけの証拠がそろっていない。生存者を殺害せよと命じたとされることについても有罪とは認められない」としたが、「デーニッツは視野に入った全ての物の撃沈をUボートに認める海域を設定した。これは海戦に関するロンドン協定に反する物である。またコマンドに関する命令を海軍内に伝達した他、強制収容所囚人を造船所で働かせようとした」として第二起訴事項と第三起訴事項につき有罪とした。デーニッツはこの判決に怒りをあらわにした。自分が大西洋の一部を撃沈水域にしたことは事実だが、アメリカ海軍はもっと酷く全太平洋を撃沈水域としていたからである[23]


その後、個別に言い渡される量刑判決で彼は懲役10年の判決を受けた[24]



シュパンダウ刑務所に服役




ニュルンベルク裁判で禁固刑を受けた戦犯が服役したシュパンダウ刑務所。デーニッツは1947年から1956年まで服役した。同刑務所は連合国4カ国が月ごとに交替で看守を出し、イギリスは1月・5月・9月、フランスは2月・6月・10月、ソ連は3月・7月・11月、アメリカは4月・8月・12月を担当した[25]


デーニッツ含む禁固刑を受けた7人の戦犯たちはしばらくニュルンベルク刑務所で服役を続けていたが、1947年7月18日にDC-3機でベルリンへ移送され、護送車でシュパンダウ刑務所に送られてそこに投獄された。デーニッツの囚人番号は2番だった[25]


刑務所内ではノルマの労作業をこなしながら自由時間には読書をしていることが多かった。ショーペンハウアーの著作や鳥類学の神秘の本などをよく読んでいたという[26]。家族からの手紙が一月に一度しか許されないことに不満を述べていた[27]


1952年冬にはデーニッツとシーラッハとアメリカ人看守1名が刑務所中庭で雪合戦に興じ、三人とも厳しく罰せられる事件があった[28]


釈放の二ヶ月前に弁護士クランツビューラーとの接見が許された。デーニッツは西ドイツ国民が自分を有罪と考えているかと弁護士に尋ねたが、弁護士は「一握りの連中はそのようなことを考えているが、大多数の者は貴方の有罪は政治的なものだと考えている。多くのマスコミも貴方の記事を書こうとしているが、悪く書こうとしているのではない」と述べてデーニッツを安心させた[29]


1956年9月30日午前0時、デーニッツは10年の刑期を満了して釈放された。刑務所の門の前で張っている報道陣をかわすためにイギリス軍所有のリムジンがおとりで最初に出て報道陣を引きつけ、その後デーニッツの乗ったタクシーが刑務所を出た[30]


なおアルベルト・シュペーアによると、デーニッツはヒトラーの後継者になったことを激しく後悔し、シュパンダウ刑務所の出獄にあたって(自分をヒトラーに推薦したと信じていた)シュペーアに「お前のせいで私は11年を無駄にした。お前がいなければヒトラーは私を国家元首にしようなどという考えを決して起こさなかった。私の部下たちはみな連邦海軍で指揮権を復活した。だが私を見ろ。まるで犯罪者だ。私の軍歴が滅茶苦茶だ。」と捨て台詞を残したという。デーニッツの非難に対し、シュペーアは「あの戦争で数百万人の人間が殺された。さらに数百万人が強制収容所で殺された。ここにいる我らは皆政府の一部であった。しかし君がここで悩んでいるのは5000万人の死者のことではなく、君の10年間だ。君の刑務所での最期の言葉はこんなものなのか。『私の軍歴!』」と反論したという[26]



晩年


刑務所服役中からデーニッツの支持者は「デーニッツは不当に有罪判決を受けた」と訴える運動を行っていたが、釈放後のデーニッツもそうした運動に参加した。彼を「海軍元帥閣下」と呼びかける旧幕僚に囲まれている時が彼にとっては一番居心地が良かったという[31]。そして回想録『10年と20日間』を執筆した。タイトル通り自らが政治やイデオロギーは頭になかった従順な軍人であることを訴える著作であった[31]


晩年は信仰に拠り所を求め、ハンブルク近郊にあるアウミューレ(ドイツ語版)の自宅で妻と暮らした[31]


1980年数回の入院の後に病気のため自宅で死去。89歳没。その死亡記事は全世界の新聞に配信された。デーニッツは自らの棺にドイツ連邦共和国の旗をかけて埋葬されたいと希望したが、西ドイツ政府は拒否した[31]。また西ドイツ政府はドイツ連邦軍将兵に対して軍服でデーニッツの葬儀に参加せぬようにと訓示をしたにもかかわらず、2名の士官が軍服で参列した[32]


デーニッツは死の少し前にこう述べていた。「ヒトラーの政治的後継者とみなされなければ私の立場は全く違っているだろう。だが今では誰もこんなことを尋ねたりしない。もしも私の代わりに、たとえばヒムラーがライヒ最後の数日間を決定していたとすれば、一体どうなっていただろう? 私はあの頃混乱した時代にあって人間としてできるだけのことをした」[33]



人物




1940年4月19日、ヴィルヘルムスハーフェン。Uボート乗組員と握手するデーニッツ。


逮捕された際の米軍の拘留記録によると身長は179センチである[34]


ニュルンベルク刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が、開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、デーニッツの知能指数は138で、ヘルマン・ゲーリングと並んで全被告人中第3位の知能の高さであった(1位のヒャルマル・シャハトは高齢を考慮して一定数値を加算調整されていた。そのためこれを除いた素点のIQの比較ではアルトゥール・ザイス=インクヴァルトに次ぐ第2位となる)[35]


一次大戦でのUボート搭乗経験で海面下深くに押し込まれた鋼鉄のダクトが密集する狭い空間での乗組員の連帯力を知ったといい、この時の体験を後々まで盛んに話した。彼は「我々は海の底で完全に孤立した大きな家族のようなものだった。つまりUボートの乗組員は運命共同体である。これほど美しい物はめったにない。その一員であることは、最高に貴重で忘れられない経験である」と述べており、「一人は皆のために。皆は一人のために」をモットーとしていた[3]


ヒトラーはデーニッツを深く信任しており、彼のことを「海のロンメル」と評していた[36]。またゲッベルスからも高く評価されており、ゲッベルスの日記からは「デーニッツとゲーリングはなんと違っていることか。二人とも自分の兵器の、ひどい技術的反動を被った。ゲーリングは諦めてしまい、それで駄目になった。デーニッツはそれを克服した」「あちこちで提案されていることだが、空軍の指揮権を海軍に移して、デーニッツに任せてはどうだろう。デーニッツなら悪くない候補者だ。とにかくも荒れ果てた我が空軍に彼なら新しいモデルを与えてくれるだろう。私の考えではこれこそが新しい勝利の前提だ」といったデーニッツ賛辞が数多く見られる[37]


デーニッツは煩わしい民主主義を疎み、またソ連や社会主義を憎悪していたが、それ以外にはこれといった政治信念を持っておらず、ナチ党の古参党員というわけでもなかった。そのような彼がヒトラーの後継者に指名されたのは謎多きことだった[36]



ゴールデンソーンのインタビュー




カール・デーニッツ(1943年)


ニュルンベルク裁判の際に精神医学者レオン・ゴールデンソーンから受けたインタビューの中でデーニッツは、自身がヒトラーの後継者になったことについて「ヒトラーが私を選んだのは、海軍軍人として評判が高く分別のある男でないと、きちんとした和平は結べないと思ったからに違いない。私は喜んで引き受けた。当然ではないか。当時はヒトラーのユダヤ人絶滅計画のことなど知らなかった。ニュルンベルクに来て初めて知ったのだ」「崩壊しつつある国家の指導者の地位を引き受けることは犯罪なのかね。ドイツの天敵であるロシアに武器や人員を奪われるのを防ぐのが犯罪だというのかね。我々が降伏しなければならないのは分かっていたし、その相手はロシアではなく英米であってほしい思っていた。」と述べている[38]


またニュルンベルク裁判については「そもそも外国の法廷がどうして主権を有する他国の政府を裁けるのだ。我々が戦争に勝っていたらルーズベルト、モーゲンソー、チャーチル、イーデンらを裁くことができたというのか。我々にはできなかっただろうし、そうしようとも思わなかっただろう。いかなる裁判が行われるにせよ、それは当の国家とそこに設けられた法廷による物でなければならない」と批判している[38]


ヒトラーについては「彼のいうことはいつも筋が通っているように思えたし、彼の要求はドイツのためを思ってのことと感じられた。今にして思えば彼はユダヤ人や近隣諸国民に対してあまりにも配慮に欠けていた。」「彼は極めて頭脳明晰だった。私はドクター・ギルバートから受けた知能テストで数字を9桁まで記憶できたが、ヒトラーは驚くべき記憶力を発揮し、読んだことのある物はなんでも思い出せたのだ」と述べている[39]。ゲーリングについては「この裁判に関する限り、ゲーリングの行いに悪いところなど思い当たらない。これまでいかなる嫌疑も証明できてはいないではないか。私はゲーリングに言ったことがある。国家社会主義の問題点はそれが分裂した家だったことであり、ドイツは隣人の事を考えずにコミュニティで生きていこうとしたのだ、と。ゲーリングは私に同意していた。だから、ゲーリングでさえも検察が世界の人々に信じ込ませようとしているほどには悪い人間ではないのだ」と述べている[40]


また同インタビューの中で自分はユダヤ人に対して偏見はないと主張した。その実例としてデーニッツは、1934年にデーニッツの艦がスペインの港に停泊した際にドイツ領事の反対を押し切ってスペイン北部に銅山を所有するユダヤ人を艦の午餐会に招いたことと、またヒトラーが海軍士官学校の責任者の将校がユダヤ系であるとして罷免を要求してきたときに拒否したことをあげている[41]。またユダヤ人迫害を知っていたかという質問に対しては「知っていたとも言えるし、知らなかったともいえる。1938年のユダヤ人襲撃やユダヤ人に課された罰金については、何かで読んで知っていた。だがUボートや海軍の問題で手いっぱいでユダヤ人のことを気にかけてはいられなかった」「私にやましいところはない。残虐行為や犯罪行為には加担していない。祖国のためにヒトラーの戦争遂行には手を貸したが、だからといって私がユダヤ人絶滅の手助けをしたという批判に晒されるのはおかしい。それはまったくのでたらめだ」と答えている[42]


強制収容所については知っていたことを認めたが、「当時収容されていたのは1万2000人の政敵だけだった。いまアメリカ占領下のドイツだけで50万人のドイツ人が収容所に入れられている。それを考えたことはあるか。」「(強制収容所は)ある程度は正当だと言える。1933年にヒトラーが共産主義者を収容所に放り込んでいなければ、内戦が勃発し、流血の惨事になっていただろう。共産主義者は合法的に選ばれた政府に対しても反乱を起こす。ドイツにおける内乱の危機は1932年に最高潮に達していた。この時に共産主義か国家社会主義かの選択が迫られたのだ。そしてパウル・フォン・ヒンデンブルクら保守派はヒトラーを選んだ。私もそうだった。もう一度共産主義か国家社会主義を選ぶことになっても、私はまた同じ選択をするだろう。有害思想の持ち主を収容所に入れたことによりドイツは血を流さずにすんだのだ。内乱になった方がよかったとでもいうのか」と述べている[43]


ソ連や共産主義については嫌悪感を隠さず「ロシアは世界最悪の犯罪国家だし、共産主義は最も邪悪な思想だ。連中が私を共同謀議に加担したかどで告発するなどお笑い草だ。ロシア人はいつも陰謀を企てているではないか。ロシアは我々と戦争になる前、デンマークを少々とポーランドが欲しいと言ってきた。それが今では政治的な陰謀を企てたと言って私を告発している。」と批判している[44]



著作



  • 『海上の戦争』1946年 アメリカ海軍情報局

  • 『ドイツ海軍魂―デーニッツ元帥自伝』 山中静三訳、原書房、1981年。ISBN 978-4562011919

  • 『10年と20日間―デーニッツ回想録』 山中静三訳、光和堂、1986年。ISBN 978-4875380733



関連書籍




  • ヨルダン・ヴァウス 『Uボート・エース』 雨倉孝之訳、朝日ソノラマ、1997年。ISBN 978-4257173175


  • グイド・クノップ 『ヒトラーの共犯者(上)』 高木玲訳、原書房、2001年。ISBN 978-4562034178



脚注



注釈





  1. ^ 1939年10月13日のU47による停泊中の英戦艦ロイヤル・オークへの襲撃でも7本の魚雷のうち2本しか正常に作動しなかった。


  2. ^ ヒトラーは権限の伴わない将官の昇進を陸海軍でこの時期大量に任命している。これにより、旧プロイセン軍人のヒトラーへの嫌悪感が多少和らいだとされる。


  3. ^ アシカ作戦を前にしてレーダーはヒトラーとの1940年7月11日の会談で、「英国民に戦争を実感させる為に、先ず海上補給の締め上げ、次にイギリス主要都市の爆撃とで政治的に決着をつける」ことを進言している。もっともアシカ作戦自体は10月12日には作戦はヒトラーにより中止された。


  4. ^ しかし、事件後「ナチ式敬礼」が海軍式(帝政ドイツ式)に代えて採用された。また、事件直後には関係者として国防軍情報部長官であったカナリス海軍中将が逮捕され、終戦間際の1945年4月に刑死している。


  5. ^ ドイツ軍人は伝統的にその元首(この場合はヒトラー)に対して宣誓(神聖な契約、誓)により忠誠を尽くすことが強く義務付けられていた(忠誠宣誓)。これは英米のシビリアンコントロールとは違った騎士道精神的な伝統であり、大戦後のドイツ国防軍でも旧軍出身者にとり混乱の原因となった[6]


  6. ^ 輸送人員について、Wolfgang Frankは250万から300万人とし[10][要ページ番号]、Cajus Bekkerは200万人以上としている[11]


  7. ^ 主な損害として、1945年1月30日にヴィルヘルム・グストロフ号で9000人以上、2月10日にシュトイベン号で9300人以上、4月16日にゴヤ号での7000人以上があげられる。犠牲者の大半が難民の女性と子供たち、少数の負傷兵であった。




出典




  1. ^ abcdクノップ 2001, p. 322.


  2. ^ クノップ 2001, p. 323.

  3. ^ abクノップ 2001, p. 325.


  4. ^ ゴールデンソーン 2005, p. 223.


  5. ^ カーユース・ベッカー「呪われた海」1972年フジ出版(大西洋の戦い-総括)


  6. ^ Raymond Toliver; Trevor Constable (1971). The Blond Knight of Germany: A biography of Erich Hartmann. [要文献特定詳細情報]


  7. ^ クノップ 2001, p. 361.


  8. ^ クノップ 2001, p. 365.


  9. ^ クノップ 2001, p. 209.

  10. ^ abFrank 1953, p. 不明.


  11. ^ Cajus Bekker (1972). Verdammte See. [要文献特定詳細情報]


  12. ^ クノップ 2001, p. 364-366.


  13. ^ パーシコ、上巻p.47-48


  14. ^ マーザー 1979, p. 76.


  15. ^ マーザー 1979, p. 78.


  16. ^ パーシコ、上巻p.120


  17. ^ Die Woelfe und der Admiral /Wolfgang Frank /1953 (Finale in Nürnberg)


  18. ^ カーン 1974, p. 77.


  19. ^ Die Woelfe und der Admiral /Wolfgang Frank /1953 Die Laconia


  20. ^ マーザー 1979, p. 239-240.


  21. ^ マーザー 1979, p. 243-246.


  22. ^ マーザー 1979, p. 242.


  23. ^ パーシコ(1996)、下巻p.273


  24. ^ パーシコ(1996)、下巻p.279

  25. ^ abバード 1976, p. 125.

  26. ^ abクノップ 2001, p. 373.


  27. ^ バード 1976, p. 130.


  28. ^ バード 1976, p. 199.


  29. ^ バード 1976, p. 209.


  30. ^ バード 1976, p. 210.

  31. ^ abcdクノップ 2001, p. 375.


  32. ^ デーニッツ 1981, p. 訳者あとがき.


  33. ^ クノップ 2001, p. 376.


  34. ^ 米軍の拘留記録


  35. ^ モズレー 1977, p. 166.

  36. ^ abパーシコ、上巻p.47


  37. ^ クノップ 2001, p. 350/357.

  38. ^ abゴールデンソーン 2005, p. 232.


  39. ^ ゴールデンソーン 2005, p. /230239-240.


  40. ^ ゴールデンソーン 2005, p. 240.


  41. ^ ゴールデンソーン 2005, p. 237-238.


  42. ^ ゴールデンソーン 2005, p. 233.


  43. ^ ゴールデンソーン 2005, p. 234.


  44. ^ ゴールデンソーン 2005, p. 236-237.




参考文献



  • カーン, レオ 『ニュールンベルク裁判 暴虐ナチへ“墓場からの告発”』 加藤俊平訳、サンケイ出版、1974年。

  • クノップ, グイド 『ヒトラーの共犯者 上巻』 高木玲訳、原書房、2001年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
    ISBN 978-4562034178。

  • ゴールデンソーン, レオン 『ニュルンベルク・インタビュー 上』 ロバート・ジェラトリー(en)編、小林等・高橋早苗・浅岡政子訳、河出書房新社、2005年。
    ISBN 978-4309224404。

  • ジョゼフ・E・パーシコ(en) 『ニュルンベルク軍事裁判〈上〉』 白幡憲之訳、原書房、1996年。
    ISBN 978-4562028641。

  • ジョゼフ・E・パーシコ 『ニュルンベルク軍事裁判〈下〉』 白幡憲之訳、原書房、1996年。
    ISBN 978-4562028658。

  • カール・デーニッツ 『ドイツ海軍魂―デーニッツ元帥自伝』 山中静三訳、原書房、1981年12月。
    ISBN 978-4562011919。

  • マーザー, ウェルナー 『ニュルンベルク裁判 ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』 西義之訳、TBSブリタニカ、1979年。

  • バード, ユージン 『囚人ルドルフ・ヘス―いまだ獄中に生きる元ナチ副総統』 笹尾久・加地永都子訳、出帆社、1976年。ASIN B000J9FN36。

  • モズレー, レナード 『第三帝国の演出者 下 ヘルマン・ゲーリング伝』 伊藤哲訳、早川書房、1977年。
    ISBN 978-4152051332。


  • Wolfgang Frank (1953). Die Wölfe und der Admiral. Stalling. 



関連項目
















































公職
先代:
アドルフ・ヒトラー
ドイツ国総統

ナチス・ドイツの旗ドイツ国大統領
1945年
次代:
テオドール・ホイス
西ドイツ大統領
ヴィルヘルム・ピーク
東ドイツ大統領(ドイツ語版)
先代:
ヴェルナー・フォン・ブロンベルク
国防大臣
ヴィルヘルム・カイテル
国防軍最高司令部総長

ナチス・ドイツの旗ドイツ国国防大臣(英語版、ドイツ語版)
1945年
次代:
テオドール・ブランク
西ドイツ国防担当連邦大臣
ヴィリー・シュトフ
東ドイツ国防大臣(ドイツ語版)
軍職
先代:
(創設)

War ensign of Germany (1938–1945).svg潜水艦隊司令長官(ドイツ語版)
1943年 - 1945年
次代:
ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク
先代:
エーリヒ・レーダー

War ensign of Germany (1938–1945).svg ドイツ海軍総司令官
1943年 - 1945年
先代:
アドルフ・ヒトラー

ナチス・ドイツの旗 ドイツ国防軍最高司令官
1945年
次代:
(国防軍解体)
受賞や功績
先代:
ハイン・テル・ポールテン

タイム誌の表紙を飾った人物
1942年2月2日
次代:
ロバート・A・ラヴェット
先代:
ケネス・アンダーソン

タイム誌の表紙を飾った人物
1943年5月10日
次代:
ハロルド・L・ジョージ










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