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Showing posts from February 15, 2019

蝦夷

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この項目では、集団としての蝦夷について説明しています。その他の用法については「蝦夷 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 アテルイ、モレの顕彰碑 (京都市清水寺) 蝦夷 (えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。 中央政権の地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。 大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。 目次 1 語源と用字 2 えみし 2.1 歴史記録 2.2 民族系統 2.3 民俗資料に見えるエミシ 3 えぞ 4 脚注 4.1 注釈 4.2 出典 4.3 参考文献 5 関連項目 6 外部リンク 語源と用字 蝦夷は古くは 愛瀰詩 と書き(神武東征記)、次に 毛人 と表され、ともに「えみし」と読んだ。後に「えびす」とも呼ばれ、「えみし」からの転訛と言われる [1] 。「えぞ」が使われ始めたのは11世紀か12世紀である [2] 。 えみし、毛人・蝦夷の語源については、以下に紹介する様々な説が唱えられているものの、いずれも確たる証拠はないが、エミシ(愛瀰詩)の初見は神武東征記であり、神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力とされている。「蝦夷」表記の初出は、日本書紀の景行天皇条である。そこでは、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察して、「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と述べており、5世紀頃とされる景行期には、蝦夷が現在の東北地方だけではなく関東地方を含む広く東方にいたこと、蝦夷は、「身を文けて」つまり、邪馬台国の人々と同じく、入墨(文身)をしていたことが分かっている。 古歌で「えみしを 一人 百な人 人は言へども 手向かいもせず」(えみしは一人で百人と人は言う

多賀城

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多賀城 (宮城県) 多賀城政庁 正殿跡 城郭構造 古代城柵 築城主 大野東人 築城年 神亀元年(724年) 廃城年 不明 遺構 政庁跡など 指定文化財 国の特別史跡「多賀城跡 附 寺跡」 位置 北緯38度18分24秒 東経140度59分18秒 座標: 北緯38度18分24秒 東経140度59分18秒 地図 多賀城 多賀城 胆沢城 志波城 秋田城 東北地方の主な城柵 画像外部リンク 多賀城市の文化財 > 歴史サロン > 歴史の風 [1] 多賀城市の古地形 多賀城 (たがじょう/たがのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。 奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった [2] 。なお、多賀城が存在した頃は「平安海進」により、周囲は現在と大きく異なる地形をしていたことに注意を要する。 目次 1 概要 2 歴史 3 アクセス 4 周辺 5 脚注 6 参考文献 7 関連項目 8 外部リンク 概要 多賀城のステレオ空中写真(1975年) 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成 奈良盆地を本拠地とする大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。創建は724年(神亀元年)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年で762年(天平宝字6年)藤原恵美朝狩が改修してから780年(宝亀11年)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で砦麻呂の乱による焼失の復興から869年(貞観11年)の大地震(貞観地震)による倒壊まで、第4期は869年 - 10世紀半ばで震災の復興から廃絶までに分けら

蝦夷征討

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蝦夷征討 (えみしせいとう)とは、日本の古代において蝦夷に対して朝廷が行った征討である。中央史観の強かった時代には 蝦夷征伐 と呼ばれた。 目次 1 古墳時代 2 称徳以前 3 三十八年戦争 3.1 第1期 3.2 第2期 3.3 第3期 3.4 第4期 4 朝廷の軍事政策 5 その後 6 年表 7 脚注 8 参考資料 9 関連項目 古墳時代 蝦夷についての最も古い言及は、『日本書紀』にあるが、伝説の域を出ないとする考えもある [1] 。しかし、5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝には、478年倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中に以下の記述がある。 「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。 東は毛人を征すること、五十五国。 西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」 この記述から、この時代には既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている [1] 。例えば俘囚の多くが吉弥侯部氏を名乗っているが、吉弥侯部、君子部、公子部は毛野氏の部民に多い姓である [1] 。 称徳以前 7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されているが、大化年間ころから国際環境の緊張を背景とした蝦夷開拓が図られ、大化3年(647年)に越国の北端とみられるの渟足柵設置を皮切りに現在の新潟県・宮城県以北に城柵が次々と建設された。太平洋側では、白雉5年(654年)に陸奥国が設置されたが、神亀元年(724年)には国府を名取郡の広瀬川と名取川に挟まれた地(郡山遺跡、現在の仙台市太白区)から宮城郡の松島丘陵南麓の多賀城に、直線距離で約13km北進移転している。日本海側では、斉明天皇4年(658年)から同6年(660年)にかけて蝦夷および粛慎を討った阿倍比羅夫の遠征があった後、和銅元年(70

mount error(2):No such file or directory)

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0 I mounted a couple of smb shares via fstab sucessfully and the user are currently using them. When I mount another smb shares with this syntax: //server/share /mnt/dir1 cifs vers=2.1,credentials=/pas.cred 0 0 mount -a i keep getting the following error mount error(2): No such file or directory Refer to the mount.cifs(8) manual page (e.g. man mount.cifs) how do i fix mount error(2): No such file or directory) (the file does exist by the way) Thanks mount cifs smb smbclient share | improve this question edited 26 mins ago James