蝦夷征討




蝦夷征討(えみしせいとう)とは、日本の古代において蝦夷に対して朝廷が行った征討である。中央史観の強かった時代には蝦夷征伐と呼ばれた。




目次






  • 1 古墳時代


  • 2 称徳以前


  • 3 三十八年戦争


    • 3.1 第1期


    • 3.2 第2期


    • 3.3 第3期


    • 3.4 第4期




  • 4 朝廷の軍事政策


  • 5 その後


  • 6 年表


  • 7 脚注


  • 8 参考資料


  • 9 関連項目





古墳時代


蝦夷についての最も古い言及は、『日本書紀』にあるが、伝説の域を出ないとする考えもある[1]。しかし、5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝には、478年倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中に以下の記述がある。


「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」


この記述から、この時代には既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている[1]。例えば俘囚の多くが吉弥侯部氏を名乗っているが、吉弥侯部、君子部、公子部は毛野氏の部民に多い姓である[1]



称徳以前


7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されているが、大化年間ころから国際環境の緊張を背景とした蝦夷開拓が図られ、大化3年(647年)に越国の北端とみられるの渟足柵設置を皮切りに現在の新潟県・宮城県以北に城柵が次々と建設された。太平洋側では、白雉5年(654年)に陸奥国が設置されたが、神亀元年(724年)には国府を名取郡の広瀬川と名取川に挟まれた地(郡山遺跡、現在の仙台市太白区)から宮城郡の松島丘陵南麓の多賀城に、直線距離で約13km北進移転している。日本海側では、斉明天皇4年(658年)から同6年(660年)にかけて蝦夷および粛慎を討った阿倍比羅夫の遠征があった後、和銅元年(708年)には越後国に出羽郡が設置され、和銅5年(712年)に出羽国に昇格し陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られた。この間、和銅2年(709年)にやや大規模な反乱があり(『続日本紀』)、その後も個別の衝突はあったものの蝦夷と朝廷との間には全面的な戦闘状態はなかった。道嶋嶋足のように朝廷において出世する蝦夷もおり、総じて平和であったと推定されている。



三十八年戦争


宝亀元年(770年)には蝦夷の首長が賊地に逃げ帰り、翌2年の渤海使が出羽野代(現在の秋田県能代市)に来着したとき野代が賊地であったことなどから、宝亀年代初期には奥羽北部の蝦夷が蜂起していたとうかがえるとする研究者もいるが[2]、光仁天皇以降、蝦夷に対する敵視政策が始まっている。また、光仁天皇以降、仏教の殺生禁止や天皇の権威強化を目的に鷹の飼育や鷹狩の規制が行われて奥羽の蝦夷に対してもこれを及ぼそうとし、またそれを名目に国府の介入が行われて支配強化につながったことが蝦夷の反乱を誘発したとする指摘もある[3]。宝亀5年(774年)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、弘仁2年(811年)まで特に三十八年戦争[4]とも呼ばれる蝦夷征討の時代となる。一般的には4期に分けられる[1]



第1期


桃生城に侵攻した蝦夷を征討するなど、鎮守将軍による局地戦が行われた。蝦夷の蜂起は日本海側にも及び、当時出羽国管轄であった志波村の蝦夷も反逆、胆沢地方が蝦夷の拠点として意識され始めた。後半は主に出羽において戦闘が継続したが、伊治呰麻呂らの協力もあり、宝亀9年(778年)までには反乱は一旦収束したと考えられている。



第2期



宝亀11年(780年)から天応元年(781年)まで。伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)とも呼ばれる。


宝亀11年3月22日(780年5月1日)、呰麻呂は伊治城において紀広純らを殺害、俘囚軍は多賀城を襲撃し略奪放火をした。


正史の記録には以後の経過が記されていないが、出羽国雄勝平鹿2郡郡家の焼亡、由理柵の孤立、大室塞の奪取及び秋田城の一時放棄と関連づける見解もある[2]。藤原小黒麻呂が征東大使となり、翌天応元年(781年)には乱は一旦終結に向かったと推察されている。



第3期


延暦8年(789年)に、前年征東大使となった紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討が開始された。紀古佐美は5月末まで衣川に軍を留め、進軍せずにいたが、桓武天皇からの叱責を受けたため蝦夷の拠点と目されていた胆沢に向けて軍勢を発したが、朝廷軍は多数の損害を出し壊走、紀古佐美の遠征は失敗に終わったという。(詳細は巣伏の戦いを参照)。


延暦13年(794年)には、再度の征討軍として征夷大使大伴弟麻呂、征夷副使坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われた。この戦役については「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」(『類聚国史』)と記録されているが他の史料がないため詳細は不明である。しかし、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人にすぎないにもかかわらず唯一史料に残っているため、中心的な役割を果たしたらしい。


延暦20年(801年)には坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征し、夷賊(蝦夷)を討伏した。このとき蝦夷の指導者阿弖流為は生存していたが、いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻っていることから、優勢な戦況を背景に停戦したものと見られている。『日本紀略』には、同年の報告として、大墓公阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が五百余人を率いて降伏したこと、田村麻呂が2人を助命し仲間を降伏させるよう提言したこと、群臣が反対し阿弖流為と母礼が河内国で処刑されたことが記録されている。また、このとき閉伊村まで平定されたことが『日本後紀』に記されている。


第3期の蝦夷征討は、延暦22年(803年)に志波城を築城したことで終了した。



第4期


弘仁2年(811年)の文室綿麻呂による幣伊村征討が行われ、和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置に至った。爾薩体・幣伊2村を征したと『日本後紀』にあることから征討軍が本州北端に達したという説もある。翌年には徳丹城が建造され、9世紀半ばまでは使用されていたが、このとき建郡された3郡については後に放棄されている[1]



朝廷の軍事政策


朝廷は平時より陸奥国・出羽国各地に城柵を設置して、国内各地の軍団に番を組ませて守備させた。また、それぞれの城柵に属する鎮兵も設置されて協力して城柵を守った。鎮兵は坂東(関東地方)各国から派遣された。また、奈良時代初期の征討の場合には北陸道・東海道各地から兵が現地へ派遣されたが、奈良時代中期以降は坂東各国からの派兵に限定されたため、同地域には大きな負担になった[5]。一方、北陸道は出羽国と密接な越後国を含めて兵士の負担を負うことは無かったが、代わりに米などの兵粮を負担させられる場合が多かった。これらの兵粮は来朝する蝦夷や城柵付近に定住した俘囚に対する支給にも用いられた[6]。更に大規模な征討の際には坂東や東山道など幅広い地域から兵粮の調達が行われた[7]



その後


以後、組織だった蝦夷征討は停止し、朝廷の支配下に入った夷俘、俘囚の反乱が記録されるのみとなったが、津軽や渡島の住民は依然蝦夷と呼ばれた。夷俘、俘囚の反乱の主なものとしては、元慶の乱、天慶の乱などがある。前九年の役、後三年の役については、文献上征討対象である安倍氏、清原氏を俘囚とするものがあるものの、近年では両者とも官位を有する下級貴族階級であったとする説が有力になってきている[8]。また、蝦夷の征討は延久蝦夷合戦を最後に行われなくなり、このころから奥州藤原氏の時代までに本州北端までが日本の国制下に入ったと考えられている。



年表




  • 景行天皇40年 : 蝦夷の謀反、日本武尊が征討(伝説)。


  • 仁徳天皇55年 : 蝦夷の反乱、上毛野田道が派遣されるが伊峙水門で敗死(伝説)。






  • 敏達天皇10年(581年) : 蝦夷の寇。


  • 舒明天皇9年(637年) : 蝦夷反乱し入朝せず、上毛野形名が妻の活躍により征討に成功。


  • 大化3年(647年) : 渟足柵設置。

  • 大化4年(648年) : 磐舟柵設置。


  • 斉明天皇4年(658年) : 阿倍比羅夫が遠征し、降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。

  • 斉明天皇5年(659年) : 阿倍比羅夫蝦夷を討ち、一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。

  • 斉明天皇6年(660年) : 阿倍比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められ、粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、これを破る。同年、比羅夫は夷50人余りを献じる。


  • 和銅元年(708年)頃 : 出羽柵設置。

  • 和銅2年(709年) : 蝦夷が良民を害し、巨勢麻呂、佐伯石湯、紀諸人らが征討に出発。諸国の兵器を出羽国に送る。

  • 和銅5年(712年) : 出羽国設置


  • 養老4年(720年) : 陸奥国の蝦夷の反乱、按察使上毛野広人殺害。多治比県守征討。


  • 神亀元年(724年) : 海道の蝦夷の反乱、陸奥大掾佐伯児屋麻呂殺害。小野牛養、出羽の蝦夷を征討。大野東人が多賀城築城


  • 天平5年(733年) : 秋田城(出羽柵を移動)設置。

  • 天平9年(737年) : 牡鹿柵設置。


  • 天平宝字3年(759年) : 雄勝城・桃生城築城。


  • 神護景雲元年(767年) : 伊治城築城。





  • 宝亀元年(770年) : 蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇賊地に逃げ帰り、道嶋嶋足ら派遣。

  • 宝亀5年(774年) : 紀広純、大伴駿河麻呂派遣、桃生城に侵攻した蝦夷を征討(~宝亀6年)。(三十八年戦争の開始)

  • 宝亀7年(776年) : 陸奥国、蝦夷征討。志波村の蝦夷反逆、佐伯久良麻呂投入、胆沢地方の蝦夷征討。

  • 宝亀8年(777年) : 出羽において戦闘継続、出羽国軍蝦夷に敗れるも翌年までには一旦反乱収束。





  • 宝亀11年(780年) : 陸奥国長岡郡に蝦夷侵入。覚鱉城(かくべつじょう)築城。伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)勃発、牡鹿郡大領道嶋大楯、紀広純殺害。多賀城炎上。藤原継縄、大伴益立、紀古佐美、大伴真綱、安倍家麻呂ら投入。百済王俊哲投入。出羽国府後退とする説あり。

  • 天応元年(781年) : 藤原小黒麻呂投入。戦果を挙げ征夷軍一旦解散。





  • 延暦8年(789年) : 紀古佐美、佐伯葛城らによる蝦夷征討。大規模な対蝦夷軍事行動はじまる。巣伏の戦いで征夷軍大敗。巨勢野足投入。

  • 延暦10年(791年) : 文屋大原、大伴弟麻呂、百済王俊哲、多治比浜成、坂上田村麻呂投入。

  • 延暦13年(794年) : 征夷副将軍坂上田村麻呂による蝦夷征伐。

  • 延暦16年(797年) : 坂上田村麻呂、征夷大将軍に任官。

  • 延暦20年(801年) : 坂上田村麻呂、閉伊村まで平定。

  • 延暦21年(802年) : アテルイ、モレら降伏、処刑。胆沢城築城。

  • 延暦22年(803年) : 紫波城築城。

  • 延暦24年(805年) : 藤原緒嗣、蝦夷征討と平安京造営の中止を奏上。

  • 弘仁2年(811年) : 幣伊村征討。和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置。文屋綿麻呂蝦夷征伐終了を奏上。






  • 貞観11年(869年) : 貞観地震


  • 元慶2年(878年) : 出羽の夷俘反乱(元慶の乱)


  • 天慶2年(939年) : 出羽の俘囚反乱(天慶の乱)


  • 永承6年(1051年)-康平5年(1062年) : 安倍氏征討(前九年の役)。


  • 延久2年(1070年) : 延久蝦夷合戦


  • 永保3年(1083年)-寛治元年(1087年) : 清原氏征討(後三年の役)。


  • 康和6年(1104年)-永久元年(1113年)頃 : 藤原基頼が「出羽常陸并北国凶賊」を討つ。


  • 文治5年(1189年) : 奥州藤原氏征討。(奥州合戦)


  • 文永5年(1268年) : 津軽の蝦夷反乱。安藤氏討たれる。


  • 元応2年(1320年)-嘉暦3年(1328年) : 安藤氏の乱(蝦夷大乱)。



脚注



  1. ^ abcde高橋崇 1986

  2. ^ ab熊田亮介 2001


  3. ^ 秋吉正博「日本古代の放鷹文化と統治思想」根本誠二 他編『奈良平安時代の〈知〉の相関』(岩田書院、2015年) ISBN 978-4-87294-889-9


  4. ^ 出典は『日本後紀』


  5. ^ 永田英明「古代東北の軍事と交通」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 P213-221


  6. ^ 永田英明「古代東北の軍事と交通」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 P228-230


  7. ^ 永田英明「古代東北の軍事と交通」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 P221-228


  8. ^ 元木泰雄 2011



参考資料




  • 高橋崇 『蝦夷―古代東北人の歴史』 中央公論新社、中公新書、1986年、ISBN 4121008049


  • 熊田亮介 「古代国家と秋田」 『秋田県の歴史』 山川出版社、2001年、ISBN 4634320509


  • 元木泰雄 『河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流』 中央公論新社、2011年 ISBN 9784121021274

  • 新詳日本史 浜島書店、2006年、ISBN 4834320324



関連項目



  • コシャマインの戦い

  • シャクシャインの戦い

  • クナシリ・メナシの戦い

  • 蝦夷

  • 俘囚

  • 移配

  • 越国

  • 末期古墳








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