九谷焼






古九谷獅子牡丹文銚子, 文化庁


九谷焼(くたにやき)は、石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器である。




目次






  • 1 歴史


    • 1.1 古九谷


    • 1.2 再興期


      • 1.2.1 再興期の主な窯元


      • 1.2.2 中興の祖




    • 1.3 新九谷




  • 2 作風


  • 3 現代の作家


  • 4 その他


  • 5 脚注


  • 6 参考文献


  • 7 関連項目


  • 8 外部リンク





歴史



古九谷




九谷焼始祖「後藤才次郎紀功碑」(左)と「古九谷窯址」(右)、加賀市山中温泉九谷町




古九谷の皿


大聖寺藩領の九谷村(現在の石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)、藩の殖産政策として、始められるが、約50年後(18世紀初頭頃)突然廃窯となる。窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる、2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っている[1]


「古九谷」と呼ばれる磁器は、青、緑、黄などの濃色を多用した華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が特色で、様式から祥瑞手(しょんずいで)、五彩手、青手などに分類されている。祥瑞手は、赤の輪郭線を用い、赤、黄、緑などの明るい色調で文様を描いたもの。五彩手は黒の輪郭線を用い、青、黄、緑、紫などの濃色で文様を描いたものである。青手は、色使いは五彩手と似るが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶした様式のものである[2]


これら「古九谷」と呼ばれる初期色絵作品群の産地については、戦前から1960年代にかけて「九谷ではなく佐賀県の有田で焼かれたものである」という説が主張されはじめた[3]。有田の山辺田窯(やんべたがま)、楠木谷窯などの窯跡から古九谷と図柄の一致する染付や色絵の陶片が出土していること、石川県山中町の九谷古窯の出土陶片は古九谷とは作調の違うものであったことなどから、「古九谷は有田の初期色絵作品である」との説が有力となった[4]


東京都文京区本郷の大聖寺藩上屋敷跡(現・東京大学医学部附属病院敷地)からは大量の古九谷風の色絵磁器片が出土した。1987年以降、これらの磁器片の胎土を蛍光X線分析、放射化分析によって科学的に調査した結果、肥前産の磁器と九谷産の磁器が抽出された。その結果、伝世品の五彩手古九谷や青手古九谷と同様の磁器片は肥前産であると判断され、一方、分析結果から九谷産とみなされる磁器片は伝世の古九谷とは胎土、釉調、成形などの異なるものであると判断された[5]


以上のような窯跡の発掘調査や出土品の化学分析などの結果から、従来古九谷と位置づけられてきた一群の初期色絵磁器は、その大部分が1640 - 1650年代の肥前産と考えられている[6]。しかし、1998年、九谷古窯にほど近い九谷A遺跡から、古九谷風の色絵陶片が発掘されたことから、「複数の産地で同一様式の磁器がつくられていた」可能性を探るべきだとの意見もある[7]



再興期


古九谷の廃窯から、約一世紀後の文化4年(1807年)に加賀藩が京都から青木木米を招き金沢の春日山(現在の金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。これらの窯の製品を「再興九谷」という。
同じ頃、能美郡の花坂山(現在の小松市八幡)で、新たな陶石が発見され今日まで主要な採石場となった。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、文政2年(1819年)に磁器を、翌年に陶器を、それぞれ移入禁止にした。



再興期の主な窯元


括弧内は開窯時期



  • 春日山窯(文化4年-1807年)

  • 若杉窯(文化8年-1811年)

  • 小野窯(文政2年-1819年)

  • 民山窯(文政5年-1822年)

  • 吉田屋窯(文政7年-1824年)

  • 木崎窯(天保2年-1831年)

  • 宮本屋窯(天保3年-1832年)

  • 蓮代寺窯(弘化4年-1847年)

  • 松山窯(嘉永元年-1848年)


春日山窯は京風、若杉窯は有田風、吉田屋窯は古九谷風を得意とした。春日山窯開窯以前の天明年間に、ほぼ同じ場所で越中国城端の焼物師、殿村屋和助という人物が窯を開いていた記録があるが、どのような焼物であったのかは、判っていない。



中興の祖


九谷庄三(くたにしょうざ、文化13年(1816年)-明治16年(1883年)は、寺井村(現在の能美市寺井町)の農家に生まれた。17歳の時に小野窯に陶匠として招聘される。後に窯業の指導に諸国から招かれるが、能登の火打谷(現在の志賀町)で、能登呉須と呼ばれる顔料を発見。後の九谷焼に多大な影響を与える。26歳で故郷に戻り寺井窯を開いた。西洋から入った顔料を早い時期から取り入れ 彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後に西洋に輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。



新九谷


明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、1873年のウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時に西洋の技法も入り込んだ。1872年頃から型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ1892年頃から、獅子を始めとする置物の製作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり量産化が進んだ。


また、明治維新による失業士族の授産施設として1872年(明治5年)に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平、初代諏訪蘇山等の参加を得て成果を上げ、1876年(明治9年)には、石川県勧業場と名を改めた。1887年(明治20年)金沢工業学校(現在の石川県立工業高等学校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。



作風



  • 飯田屋風 天保の頃、宮本屋窯の飯田屋八郎右衛門が焼いた赤絵のものを赤九谷とも言う。

  • 古九谷風 赤・黄・青(緑)・群青・紫の五色を使った重厚な五彩色の構図が特徴である。

  • 木米風 赤地の上に中国風の人物画が描かれる。

  • 吉田屋風 古九谷風で使われる五色のうち赤色を使わない。青九谷とも言う。



現代の作家



  • 二代浅蔵五十吉 (あさくらいそきち、1913年-1998年)文化勲章受章者


  • 吉田美統 (よしたみのり、1932年-)重要無形文化財保持者(人間国宝)

  • 三代徳田八十吉 (とくだやそきち、1933年-2009年)重要無形文化財保持者(人間国宝)



その他


九谷の地名は古くからの山中温泉を1番目、大聖寺川上流へ旧西谷村の栢野大杉がある村落を2番目とし9番目の村落を九谷とした[8]、また『加州名跡誌』に拠れば「山広く方五里にわたり谷深くして九百九十九谷あり、略して九谷という」とあり、その地元伝承や谷が多く最高数字の九とした説がある。


2005年(平成17年)8月完成(2006年(平成18年)3月竣工)の大聖寺川上流の九谷ダムによって出来た湖を一般公募から「五彩湖(ごさいのうみ)」と名付けたが、古九谷の地元であり、その特徴である五彩色にちなむ。



脚注




  1. ^ 石川県埋蔵文化財センター 九谷磁器窯跡、2012年1月9日閲覧


  2. ^ 佐賀県立九州陶磁文化館監修『古伊万里入門』青幻舎、2007、pp.36 -43


  3. ^ 河島達郎「「古九谷」は有田で生まれた? 」『科学朝日』


  4. ^ 「「古九谷=有田」説有力に、論争に新展開――窯跡から色絵片、九谷は技術継承」『日本経済新聞』1991年11月16日付朝刊、36ページ。


  5. ^ 大成可乃・堀内秀樹「本郷キャンパスにおける発掘調査の成果東大構内出土「古九谷」と生産地論争」西秋良宏編『加賀殿再訪 東京大学本郷キャンパスの遺跡』(東京大学コレクションX)、東京大学総合研究博物館、2000


  6. ^ 矢部良明監修『カラー版 日本やきもの史』、美術出版社、1998、pp.96 - 97


  7. ^ 寺尾健一『窯別ガイド日本のやきもの 九谷』、淡交社、2003


  8. ^ 3番目は我谷、以下の村落は我谷ダムと九谷ダムにより廃村、4番目枯淵、片谷、坂下、小杉、生水、9番目九谷、真砂の各村落順



参考文献



  • 寺尾健一『窯別ガイド日本のやきもの 九谷』、淡交社、2003

  • 矢部良明監修『カラー版 日本やきもの史』、美術出版社、1998、pp.96 - 97

  • 大成可乃・堀内秀樹「本郷キャンパスにおける発掘調査の成果東大構内出土「古九谷」と生産地論争」西秋良宏編『加賀殿再訪 東京大学本郷キャンパスの遺跡』(東京大学コレクションX)、東京大学総合研究博物館、2000


  • 「九谷焼」 中谷宇吉郎



関連項目







  • 伊万里焼

  • 青手九谷



外部リンク




  • 九谷焼 - 石川新情報書府

  • 石川県九谷焼美術館

  • 能美市九谷焼資料館

  • 石川県立九谷焼技術研修所









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