日本歌謡大賞




































日本歌謡大賞
THE JAPAN MUSIC AWARDS

Nippon Budokan 2010.jpg
会場に多く使われている日本武道館

受賞対象
優れた楽曲・歌手
会場
日本武道館(大半)

日本の旗 日本
授与者
放送音楽プロデューサー連盟
初回
1970年
最新回
1993年








































輝け!!日本歌謡大賞(フジテレビ制作)
ジャンル
音楽番組 / 特別番組
オープニング
日本歌謡大賞讃歌(保富康午作詞・廣瀬健次郎作曲・前田憲男編曲・東京混声合唱団コーラス)
エンディング
その年の大賞受賞曲
製作
制作
フジテレビ

放送
放送国・地域
日本の旗 日本
放送期間
1972年11月16日 - 1993年11月16日
放送枠
火曜ワイドスペシャル
回数
7[1]



特記事項:
詳細に関しては#歴代司会者と担当テレビ局を参照









































輝け!!日本歌謡大賞(東京12チャンネル→テレビ東京制作)
ジャンル
音楽番組 / 特別番組
オープニング
日本歌謡大賞讃歌(保富康午作詞・廣瀬健次郎作曲・前田憲男編曲・東京混声合唱団コーラス)
エンディング
その年の大賞受賞曲
製作
制作
東京12チャンネル→テレビ東京

放送
放送国・地域
日本の旗 日本
放送期間
1971年11月11日 - 1992年11月17日
放送枠
火曜ゴールデンワイド(第23回)
回数
6



特記事項:
詳細に関しては#歴代司会者と担当テレビ局を参照









































輝け!!日本歌謡大賞(日本テレビ制作)
ジャンル
音楽番組 / 特別番組
オープニング
日本歌謡大賞讃歌(保富康午作詞・廣瀬健次郎作曲・前田憲男編曲・東京混声合唱団コーラス)
エンディング
その年の大賞受賞曲
製作
制作
日本テレビ

放送
放送国・地域
日本の旗 日本
放送期間
1973年11月20日 - 1990年11月29日
放送枠
木曜スペシャル
回数
5



特記事項:
詳細に関しては#歴代司会者と担当テレビ局を参照









































輝け!!日本歌謡大賞(日本教育テレビ→全国朝日放送制作)
ジャンル
音楽番組 / 特別番組
オープニング
日本歌謡大賞讃歌(保富康午作詞・廣瀬健次郎作曲・前田憲男編曲・東京混声合唱団コーラス)
エンディング
その年の大賞受賞曲
製作
制作
日本教育テレビ→全国朝日放送

放送
放送国・地域
日本の旗 日本
放送期間
1974年11月26日 - 1991年11月29日
放送枠
水曜スペシャル(第13回まで)
新・水曜スペシャル(第17回)
回数
5



特記事項:
詳細に関しては#歴代司会者と担当テレビ局を参照









輝け!!日本歌謡大賞(ニッポン放送制作)
放送局
ニッポン放送
テンプレートを表示








輝け!!日本歌謡大賞(文化放送制作)
放送局
文化放送
テンプレートを表示

日本歌謡大賞』(にほんかようたいしょう)は、1970年から1993年まで開催された日本の音楽に関する賞である。


略称は「歌謡大賞」。主催はTBS以外の放送局8局(下記参照)が結成した「放送音楽プロデューサー連盟」。毎年フジテレビ・日本テレビ・テレビ朝日・テレビ東京・ニッポン放送・文化放送、RFラジオ日本、エフエム東京が協力制作し放送制作はとその参加テレビ局が年替わりで担当放送し、番組名は『輝け!!日本歌謡大賞』(かがやけ にほんかようたいしょう)[2]




目次






  • 1 概要


  • 2 休止後の音楽賞レースの実情


  • 3 各賞


    • 3.1 過去に存在した各賞




  • 4 発表方法


  • 5 歴代受賞一覧


    • 5.1 大賞


    • 5.2 優秀放送音楽新人賞




  • 6 歴代司会者と担当テレビ局


  • 7 補助アナウンサー


  • 8 演奏


  • 9 放送音楽プロデューサー連盟加盟局


  • 10 ラジオ中継


  • 11 脚注





概要


TBSテレビは1969年の大晦日に『日本レコード大賞』授賞式を生放送し、高い視聴率を得るようになった。これを見たTBS以外の他局は制作放映権の各局持ち回りを提案するも、TBSから固辞されたため、"打倒レコード大賞"を目標にして集結し、1970年7月4日に「放送音楽プロデューサー連盟」を結成、2日後に『日本歌謡大賞』を制定した。


第1回授賞式は1970年11月9日に開催されるもテレビ中継されず、東京ヒルトンホテル真珠の間で『放送音楽プロデューサー連盟懇親会 日本歌謡大賞受賞パーティー』が開催された。その模様はVTRに収録され、総集編や名場面などの映像素材に用いられている。また、同日放送の『NTV紅白歌のベストテン』内で表彰式を行い、受賞者が出演し歌唱した。司会は第1回から3回までは前田武彦が担当、第4回から終了までは高島忠夫が担当した。


1971年の第2回から全国ネットで放送されることとなったが、放送枠が確保されずに当日の生中継ではなく後日録画放送の地域も散見された[3]。1975年の第6回までは通常番組を休止して放送し、1976年の第7回から日本テレビは『木曜スペシャル』、フジテレビは『火曜ワイドスペシャル』枠で、テレビ朝日は1982年の第13回まで『水曜スペシャル』、1986年の第17回は『新・水曜スペシャル』、1991年第22回は金曜19:30 - 21:54[4]で、東京12チャンネルは通常番組を休止して、1992年第23回は『火曜ゴールデンワイド』(同『火ワイ』)枠でそれぞれ放送していた。なお1978年の第9回から音声がステレオ化された。(また、1992年の第23回・テレビ東京制作回はクリアビジョン放送を実施した。)


1988年の第19回は昭和天皇のご容態を配慮して開催せず、担当予定のフジテレビが総集編を放送した。翌89年の第20回から放送時間が3時間に拡大、ただし局の都合で放送時間が2時間半になることもあった。これ以降は歌手側も音楽賞を辞退する事例が頻発し、番組視聴率も低下する。


1994年4月26日に主催者の放送音楽プロデューサー連盟は総会で『日本歌謡大賞』の開催取り止めを正式決定し[5]、23年間の歴史に幕を下ろした。当時の日本歌謡大賞運営委員長の吉岡正敏によると「歌謡という言葉で、一年を振り返る音楽を捕らえることの限界を認めた」という[6]


番組オープニングとエンディングには、保富康午作詞・廣瀬健次郎作曲・前田憲男編曲のテーマソング「日本歌謡大賞讃歌」が東京混声合唱団のコーラスで放送されていた。



休止後の音楽賞レースの実情


日本歌謡大賞休止後の音楽賞レースの実情は『全日本有線放送大賞』からの流れを汲む『ベストヒット歌謡祭』が2011年の東日本大震災を機に賞レースから撤退しコンサート形式にリニューアル。さらに2017年には『全日本有線放送大賞』と並び「二大有線放送大賞」と称された『日本有線大賞』が50周年を機に終了したため、2018年以降、日本における音楽賞レースはライバルとした『日本レコード大賞』のみとなっている


そのレコード大賞も近年は、一部週刊誌で「買収疑惑」が報じられるなどしている。その最たるものが2013年の第55回で「レコード大賞最有力」と言われていたAKB48の『恋するフォーチュンクッキー』が受賞できなかった例が挙げられる。
さらに2014年に審査委員を務めるスポーツニッポンが、大賞決定と同時刻に受賞作品の詳細をネットニュースで配信したため、事前にどの作品が受賞するかわかっていたのではないか、という疑惑が生じた[7]


2015年には、レンタルチェーン店を展開するTSUTAYAが自社のニュースサイトにて、“特定のレコード会社や芸能事務所が審査委員に対して何らかの働きかけを行っている”とする音楽関係者の声を報じた。この種の癒着は1970年代ころからあったとされるものの、審査委員の大半を新聞社とテレビ局の社員が占めるため、「報じない、報じられない」といった状態が続いてきたと、音楽評論家の麻生香太郎は指摘している[8]


この様な中、レコード大賞の審査委員を務める産経新聞は2015年に自ら、「出来レースでは?」と題し、賞の存在意義に疑問を投げかける記事を同社のニュースサイトにて掲載した。また、レコード大賞常任実行委員で音楽家の富澤一誠はインタビューに対し、「賞レースの盛り上がりが、ファンには音楽業界の利益優先の『腐敗』や『出来レース』のように映るようになり、大衆から支持を失っていった」と認めた。


『週刊文春』2016年11月3日号においては、前年に大賞を受賞した三代目J Soul Brothersが買収によるものであったとの記事が掲載され、「年末のプロモーション業務委託書として」と書かれた1億円の請求書が公開された。このことについての三代目J Soul Brothersサイドからの反応は無く、事実は不明となっている[9]



各賞


各賞の選考は後述される放送音楽プロデューサー連盟加盟在京テレビ・ラジオ8社と準会員(NNS・FNS・ANN・TXN・NRN・JFN・および独立U協加盟各局)の投票で放送音楽賞・放送音楽新人賞が決定され、最終審査で大賞をはじめとする各賞が決定される。



「日本歌謡大賞」

その年を通じて、『最も放送音楽に貢献した楽曲』に贈られる。そのため、賞の授与対象は対象曲を歌唱した歌手に限らず作詞・作曲・編曲者・所属プロダクション・所属レコード会社が対象になる。放送音楽賞、放送音楽新人賞(第14・15回を除く)受賞者から1組の1曲を選出する。

「最優秀放送音楽賞」

日本レコード大賞における最優秀歌唱賞に相当し1983年以降、放送音楽賞受賞者の中から、その年に最も顕著な活躍をした歌手に対して、1組が選出される。連盟賞、大賞に並び三賞と称される。

「放送音楽プロデューサー連盟賞」

1982年まで、放送音楽賞、放送音楽新人賞の候補となった全員を表彰する。

1983年以降、その年の活躍が顕著な歌手に対して、放送音楽賞受賞者から2組を選出する。

「放送音楽賞」

日本レコード大賞における優秀作品賞(旧・金賞・ゴールド・ディスク賞)に相当する。

1982年まで、6組を選出し、同時に大賞候補とする。

1983年以降、原則13組を選出し、連盟賞、最優秀放送音楽賞、日本歌謡大賞の候補とする。

「放送音楽特別賞」

「優秀放送音楽新人賞」

日本レコード大賞における最優秀新人賞にあたり、第14回以降は放送音楽新人賞の中から2組を選出し表彰する。

「放送音楽新人賞」

日本レコード大賞における新人賞に相当し、その年にデビューし放送音楽に貢献しその活躍・将来性が特に顕著な歌手に贈られる。第13回までは新人賞候補の中から原則として2組を選出し、同時に大賞候補者としていた。

また7月には赤坂プリンスホテルなどの宴会場で「日本歌謡大賞新人祭り」として上半期優秀新人を選出するも、1984年の第15回で廃止している。



過去に存在した各賞


「放送音楽新人部門連盟賞」

「放送音楽部門連盟賞」


発表方法


受賞者と受賞曲目を司会を読み上げるのが通例であった。第4回では受賞曲の前奏部で読み上げ、第8回は受賞者の顔写真をスクリーンへ投影するなど趣向を凝らした発表もあった。



歴代受賞一覧



大賞































































































































年(回) 受賞歌手 受賞曲
1970年(第1回) 藤圭子
圭子の夢は夜ひらく
1971年(第2回) 尾崎紀世彦
また逢う日まで
1972年(第3回) 小柳ルミ子
瀬戸の花嫁
1973年(第4回) 沢田研二
危険なふたり
1974年(第5回) 森進一
襟裳岬
1975年(第6回) 布施明
シクラメンのかほり
1976年(第7回) 都はるみ
北の宿から
1977年(第8回) 沢田研二
勝手にしやがれ
1978年(第9回) ピンク・レディー
サウスポー
1979年(第10回) 西城秀樹
YOUNG MAN (Y.M.C.A.)
1980年(第11回) 八代亜紀
雨の慕情
1981年(第12回) 寺尾聰
ルビーの指環
1982年(第13回) 岩崎宏美
聖母たちのララバイ
1983年(第14回) 田原俊彦
さらば‥夏
1984年(第15回) 五木ひろし
長良川艶歌
1985年(第16回) 近藤真彦
大将
1986年(第17回) 中森明菜
Fin
1987年(第18回) 近藤真彦
泣いてみりゃいいじゃん
1988年(第19回) 開催中止
1989年(第20回) 光GENJI
太陽がいっぱい
1990年(第21回) 堀内孝雄
恋唄綴り
1991年(第22回) とんねるず
情けねえ
1992年(第23回) 香西かおり
花挽歌
1993年(第24回) 堀内孝雄
影法師


優秀放送音楽新人賞























































































































































































































年(回) 受賞歌手 受賞曲
1970年(第1回) 辺見マリ
経験
野村真樹
一度だけなら
1971年(第2回) 小柳ルミ子
わたしの城下町
南沙織
17才
1972年(第3回) 森昌子
せんせい
三善英史

1973年(第4回) アグネス・チャン
草原の輝き
桜田淳子
わたしの青い鳥
1974年(第5回) 中条きよし
うそ
西川峰子
あなたにあげる
1975年(第6回) 細川たかし
心のこり
岩崎宏美
ロマンス
1976年(第7回) 内藤やす子
想い出ぼろぼろ
新沼謙治
嫁に来ないか
1977年(第8回) 清水健太郎
失恋レストラン
高田みづえ
硝子坂
1978年(第9回) 渡辺真知子
ブルー
石野真子
失恋記念日
1979年(第10回) 桑江知子
私のハートはストップモーション
倉田まり子
HOW! ワンダフル
1980年(第11回) 田原俊彦
ハッとして!Good
松田聖子
青い珊瑚礁
1981年(第12回) 近藤真彦
ギンギラギンにさりげなく
山川豊
函館本線
1982年(第13回) シブがき隊
100%…SOかもね!
松本伊代
センチメンタル・ジャーニー
1983年(第14回) THE GOOD-BYE
気まぐれ ONE WAY BOY
岩井小百合
恋・あなた・し・だ・い!
1984年(第15回) 吉川晃司
ラ・ヴィアンローズ
岡田有希子
-Dreaming Girl- 恋、はじめまして
1985年(第16回) 本田美奈子
Temptation(誘惑)
芳本美代子
雨のハイスクール
1986年(第17回) 少年隊
仮面舞踏会
真璃子
夢飛行
1987年(第18回) 酒井法子
ノ・レ・な・いTeen-age
立花理佐
キミはどんとくらい
1988年(第19回) 開催中止
1989年(第20回) マルシア
ふりむけばヨコハマ
田村英里子
真剣
1990年(第21回) 忍者
お祭り忍者
晴山さおり
一円玉の旅がらす
1991年(第22回) SMAP
Can't Stop!! -LOVING-
中嶋美智代
とても小さな物語
1992年(第23回) 田川寿美
女・・・ひとり旅
永井みゆき
大阪すずめ
1993年(第24回) シュー・ピンセイ
パッシング・ラヴ


歴代司会者と担当テレビ局









































































































































































































放送日 男性司会者 女性司会者 担当局 放送枠 視聴率 会場
第1回
1970年11月9日
前田武彦 なし テレビ放送なし -
東京ヒルトンホテル
第2回
1971年11月11日

東京12チャンネル[10]
なし
京王プラザホテル
第3回
1972年11月16日
吉永小百合 フジテレビ
新宿コマ劇場
第4回
1973年11月20日
高島忠夫 寿美花代
日本テレビ[11]
47.4%
日本武道館
第5回
1974年11月26日
黒柳徹子
NETテレビ[12]
45.3%
第6回
1975年11月24日
和泉雅子 東京12チャンネル 19.7%
中野サンプラザ
第7回
1976年11月16日
浜木綿子 フジテレビ[13]
ワイスペ 41.8%
第8回
1977年11月17日
寿美花代 日本テレビ 木スペ 46.3% 日本武道館
第9回
1978年11月15日
水沢アキ テレビ朝日 水スペ 30.9%
第10回
1979年11月23日
大場久美子 東京12チャンネル[14]
なし
NHKホール
第11回
1980年11月18日
星野知子 フジテレビ ワイスペ 40.1% 日本武道館
第12回
1981年11月12日
日本テレビ 木スペ 34.7%
第13回
1982年11月17日
テレビ朝日 水スペ 29.5%
第14回
1983年11月11日
檀ふみ
テレビ東京[15]
なし 21.9%
第15回
1984年11月20日
星野知子 フジテレビ ワイスペ
第16回
1985年11月28日[16]
日本テレビ 木スペ
第17回
1986年11月19日
テレビ朝日 新水スペ
第18回
1987年11月13日[17]
テレビ東京[18]
なし
第19回 開催中止[19]
第20回
1989年11月21日
高島忠夫 山口美江 フジテレビ ワイスペ 日本武道館
第21回
1990年11月29日
東ちづる 日本テレビ 木スペ
第22回
1991年11月29日
テレビ朝日 なし
第23回
1992年11月17日
テレビ東京 火ワイ
第24回
1993年11月16日
森口博子 フジテレビ ワイスペ
東京ベイNKホール

※視聴率は関東地区、ビデオリサーチ調べ。



補助アナウンサー



  • 日本テレビ放送担当回は、徳光和夫、福留功男、永井美奈子らが進行を補佐している。

  • テレビ朝日担当回は、1974年に山崎正が実況、1978年に高井正憲が曲紹介、棟方宏一が審査会場リポーター、1982年に廣瀬雅子が進行補佐、佐々木正洋が曲紹介、古舘伊知郎が審査会場リポーター、1991年に辻義就が進行補佐と曲紹介をそれぞれ担う。アナウンサーのほか、1974年に前田武彦、藤村俊二、川崎敬三が受賞者の家族や関係者を紹介、1978年に橋本テツヤが会場リポーターをそれぞれ務めている。

  • フジテレビ担当回は、1972年と1976年に小林大輔が前奏部曲紹介と進行補佐、1980年にみのもんたが曲紹介、1989年に河野景子が審査会場リポーターをそれぞれ担う。

  • テレビ東京担当回は、1983年にフリーアナの橋本テツヤが実況アナウンサー、局アナの土居壮が審査会場リポーターを担当した。



演奏























テレビ局 演奏
テレビ東京 豊岡豊とスイングフェイス、フラワーアンサンブル
フジテレビ
ダン池田とニューブリード → 三原綱木とニューブリード、日色ストリング・アンサンブル、ポップスヴィル・ミュージック
日本テレビ 宮間利之とニューハード、高橋達也と東京ユニオン、新音楽協会、庄崎正訓とガッシュアウト
テレビ朝日 宮間利之とニューハード、豊岡豊とスイングフェイス、原信夫とシャープス&フラッツ


放送音楽プロデューサー連盟加盟局



  • 文化放送

  • ニッポン放送

  • RFラジオ日本(第11回まではラジオ関東)


  • エフエム東京(設立当初は非加盟[20]

  • 日本テレビ

  • フジテレビ

  • テレビ朝日[21]

  • テレビ東京[22]


設立当初の参加局は日本テレビ・フジテレビ・NETテレビ・東京12チャンネル・文化放送・ニッポン放送・ラジオ関東の7社[20]。連盟側はTBSの加入を希望していたが「レコード大賞の中継をしている以上、混乱を避ける意味でも参加できない」と固辞された[20]


以下TBS系列局は「制作協力局」[23]である。



  • 北海道放送

  • 東北放送

  • 新潟放送

  • 北陸放送

  • 山陰放送

  • 中国放送

  • 長崎放送

  • 熊本放送

  • 大分放送

  • 宮崎放送


  • 南日本放送
    • いずれもラテ兼営局で、ニッポン放送と文化放送をキーステーションとするNRNと、TBSをキー局とするJRNとのクロスネット局である。




ラジオ中継



  • 文化放送は、平日夕方6時と7時台枠の『大学受験ラジオ講座』や『百万人の英語』終了直後からオフ番組の『ザ・マンザイクイズ』や『ライオンズナイター』は休止や短縮して途中飛び乗りで、初期の梶原茂に続き竹内靖夫が会場から生中継している。

  • ニッポン放送は、平日開催の場合は会場からはたえ金次郎らが生中継し、NRNネット加盟局はニッポン放送から19時以降に裏送りされるナイターオフのワイド番組を通常通りに放送[24]している。







脚注


[ヘルプ]




  1. ^ (中止となった1988年第19回大会の代替の総集編も含む)


  2. ^ 時期は不明だが、当初は「!」が1つだけだった。民放では数少ないテレビ・ラジオの同時放送番組でもある


  3. ^ 特に東京12チャンネルは1981年まで系列局が無かったため、75年と79年は同局の番組を配信する地方各局に配慮して祝日の夕刻に開催されたこともあり、同日夜に『おめでとう日本歌謡大賞』を放送していた。


  4. ^ 当時19:00開始枠の『ドラえもん』は年末年始と改編期以外は休止せず、19:30に放送開始して続く金曜20時の『ミュージックステーション』枠を用いている。


  5. ^ 「『歌謡大賞』を廃止」『朝日新聞』1994年4月27日付東京朝刊、29頁。


  6. ^ 「歌番組衰退で消える歌謡大賞 『ライバル』レコード大賞は継続」『朝日新聞』1994年5月31日付東京夕刊、11頁。


  7. ^ “視聴者・審査員不在の賞レース『日本レコード大賞』“聖域化”への苦言”. cyzo.inc. 2016年1月17日閲覧。


  8. ^ “評論家・麻生香太郎が音楽業界のタブーに切り込む!集中連載第2回”. Real Sound. 2016年1月18日閲覧。


  9. ^ “三代目JSBの「レコード大賞1億円買収」で思い出される“審査委員長怪死事件”の深すぎる闇”. exciteニュース. 2018年12月31日閲覧。


  10. ^ 近畿広域圏では毎日放送(MBS)で後半の1時間のみ放送された。


  11. ^ 広島県では広島ホームテレビ(NETテレビ系列)で20時飛び乗りにより後半の1時間のみ放送された。


  12. ^ 近畿広域圏では毎日放送(MBS)で放送された。


  13. ^ 山口県では、当時TBS系とフジテレビ系のクロスネット局だったテレビ山口で同時ネットされた。


  14. ^ 近畿広域圏では関西テレビ、中京広域圏では東海テレビと、共にフジテレビ系列で放送された。広島県では、広島テレビ(日本テレビ系列)他、全国的に同時ネットで放送された。


  15. ^ テレビ大阪・テレビ愛知開局に伴い、テレビ東京での「日本歌謡大賞」では初のゴールデンタイム放送。


  16. ^ 新人賞の発表を同年11月21日に行い、大賞の発表を11月28日に行う2部体制だった。


  17. ^ 新人賞の発表を同年10月30日に行い、大賞の発表を11月13日に行う2部体制だった。


  18. ^ 広島県では、広島テレビ(日本テレビ系列)が1日遅れで放送した。


  19. ^ 同年11月22日に高島・山口両名司会による総集編をフジテレビで代わりに放送した。

  20. ^ abc「土曜の話題 “レコード大賞”に対抗馬 波紋呼ぶ『放送音楽プロデューサー連盟』設立」『読売新聞』1970年7月11日付朝刊、23頁。


  21. ^ 第7回までは日本教育テレビ(NETテレビ)


  22. ^ 第11回までは東京12チャンネル


  23. ^ 1993年、第24回のスタッフロールに依る。


  24. ^ 1979年10月から1990年3月まで毎ナイターオフに放送の「NISSAN生ステーション」や後継番組は、ニッポン放送はCMのみ流して休止している。







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