ムスタファ・ケマル・アタテュルク






































ムスタファ・ケマル・アタテュルク
Mustafa Kemal Atatürk

Bozok, Adatepe, Gürer, Atatürk, and Kılıç (cropped)2.jpg
1937年撮影




トルコの旗 トルコ共和国
初代大統領

任期

1923年10月29日 – 1938年11月10日

出生

(1881-05-19) 1881年5月19日
Flag of the Ottoman Empire.svg オスマン帝国、セラーニク
死去

(1938-11-10) 1938年11月10日(57歳没)
トルコの旗 トルコ、イスタンブール
政党

共和人民党
配偶者
ラティーフェ・ハヌム(ウッシャキー)
署名

Signature of Mustafa Kemal Atatürk.svg

ムスタファ・ケマル・アタテュルク[注釈 1][注釈 2]Mustafa Kemal Atatürk、1881年5月19日[注釈 3] - 1938年11月10日)は、オスマン帝国の将軍、トルコ共和国の元帥、初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導したことで知られる。




目次






  • 1 経歴


    • 1.1 生い立ち


    • 1.2 初期の軍歴


    • 1.3 伊土戦争


    • 1.4 バルカン戦争


    • 1.5 第一次世界大戦


    • 1.6 トルコ共和国の建国


    • 1.7 大統領時代




  • 2 ケマル主義


  • 3 イスラーム主義者による批判


  • 4 その他


  • 5 家族


    • 5.1 子女


      • 5.1.1 養女


      • 5.1.2 養子






  • 6 注釈


  • 7 脚注


  • 8 参考文献


  • 9 関連文献


  • 10 関連項目


  • 11 外部リンク





経歴



生い立ち




テッサロニキに保存されているアタテュルクの生家


1881年、オスマン帝国領セラーニク県(英語版)の県都セラーニク(現ギリシャ領テッサロニキ)のコジャ・カスム・パシャ街区で、税関吏アリ・ルザー・エフェンディ(英語版)と母ズュベイデ・ハヌム(英語版)[注釈 2]の子として生まれた。夫妻は『選ばれし者』を表す「ムスタファ」と命名し、後に、サロニカ幼年兵学校の数学教官ユスキュプリュ・ムスタファ・サブリ・ベイ[注釈 2]大尉が自身の担当教科にムスタファが長けていた縁から彼に「ケマル」(「完全な」を意味する)を与え、ムスタファ・ケマルとなった[注釈 4]。なお、『ユダヤ百科事典』によると、トルコのユダヤ人の多くは、ムスタファ・ケマルをシャブタイ派であると信じているが、トルコ政府はそれを認めていない、という[2]


ムスタファ・ケマルは、父の希望で、シャブタイ派カパンジュ分派に属するシェムスィ・エフェンディ(トルコ語版)が開校し西洋式教育を実施していた学校 (Şemsi Efendi Mektebi) に進んだが、父が死亡したため、家族で叔父の許に身を寄せた。しばらくして、母がラグプ・エフェンディと再婚したため、ムスタファ・ケマルは、ホルホル街区の叔母エミネ・ハヌムの家に身を寄せた[3]。サロニカ幼年兵学校[注釈 5]では、フランス語教官メフメド・ナーキ(英語版)モナスティル少年兵学校(英語版)では、歴史教官メフメド・テヴフィク(トルコ語版)らの影響を受けた。



初期の軍歴




士官学校時代の写真、前列左から右へ:キャーズム・「キョプリュリュ」、ムスタファ・ケマル、アリ・フアト、セダート、後列:アブディ、メフメド・ハイリ、ヌスレト、1901年頃




第5軍での参謀研修時代、前列左から右へ:ムスタファ・ケマル、リュトフュ・ミュフィト、フアト・ズィヤー(トルコ語版)ムヒッディン(英語版)、後列:ハリル、ハイリ、スュレイマン・シェヴケト、不明、アリ・フアト、1907年7月15日、ベイルートにて




ピカルディ大演習にて、オーギュスト・エドゥアール・ヒルシャワー大佐 (Auguste Edouard Hirschauer) の説明を聴くオスマン軍将校、ムスタファ・ケマル


ムスタファ・ケマルは、1899年3月14日、陸軍士官学校(陸士1317年入学組)に入学した。士官学校では、校長メフメド・エサド(英語版)オスマン・ヌーリ(英語版)らの薫陶を受け、同期生のアリ・フアト(ジェベソイ)、メフメド・アーリフ(英語版)、サーリフ(ボゾク)、アフメド・フアト(ブルジャ)、一期先輩のアリ・フェトヒ(オクヤル)、一期後輩のヌーリ(ジョンケル)、キャーズム・カラベキル、キャーズム・「キョプリュリュ」(オザルプ)らと親交を深めた[注釈 6]。1902年2月10日に同校を歩兵少尉として第8席の成績で卒業し、陸軍大学に進んだ。1905年1月11日に同学を参謀大尉として修了(陸大57期、5席)して、研修のためダマスカスの第5軍に配属された[5]。士官学校在学中からアブデュルハミト2世の専制に反感を抱いており、ダマスカスで軍医ムスタファ(英語版)や陸大同期のリュトフィ・ミュフィト(英語版)と共に「祖国と自由」(Vatan ve Hürriyet) を設立した。その後、無断でサロニカに戻り、マケドニア支部を設立したという。1906年にマケドニアでは、青年将校や下級官吏が、パリの統一と進歩協会(青年トルコ党)の現地支部を設立し、1907年6月20日に上級大尉 (Kolağası) に昇進したムスタファ・ケマルが1907年10月13日にサロニカの第3軍司令部に転属された[5]ときには、「祖国と自由」の支部も統一と進歩協会に吸収されていたため、ムスタファ・ケマルも同協会に加入した。しかし、同協会ではタラートや、ジェマルが力を持っており、立憲革命の成功で、レスネのニヤーズィ・ベイ(英語版)やエンヴェル・ベイらが「自由の英雄」として名声を獲得した。


1908年6月22日、ルメリア東部地区鉄道監察官に、1909年1月13日、第3軍隷下のサロニカ予備師団参謀長に任命された。1909年の3月31日事件(英語版)を鎮圧するため、サロニカの第3軍とアドリアノープル(現エディルネ)の第2軍から部隊が「行動軍」の名の下にイスタンブールに派遣されたが、ムスタファ・ケマルは、第3軍から派遣された予備師団の作戦課長として参加し、11月5日に第3軍司令部に戻った。1910年9月6日から11月1日まで第3軍士官養成所に勤務した後、再び第3軍司令部に戻った。9月12日から18日まで実施されたピカルディ大演習(トルコ語版)に武官として派遣された。この際、飛行機への搭乗を勧められたが同行した将校の警告に従って、乗らなかった。その後、搭乗予定であった飛行機が墜落し搭乗者全員が死亡した。ムスタファ・ケマルは一生涯、飛行機に乗らなかった。統一と進歩協会第二回大会で職業軍人による政治活動の禁止を再提案した[注釈 7]。1911年1月15日、第5軍団司令部に配属され、第38歩兵連隊を経て、9月27日に参謀本部付となった[5]



伊土戦争


1911年9月29日にイタリアがリビアに侵攻したため、イスマイル・エンヴェル・ベイ、アリ・フェトヒ・ベイ、オメル・ナージ・ベイ(トルコ語版)、アフメド・フアド・ベイ、メフメド・ヌーリ・ベイ、ヤークブ・ジェミル・ベイ(トルコ語版)ら統一と進歩協会の志願者たちとともにトリポリタニアに赴くことになった。1911年11月27日、船上で少佐に昇進したムスタファ・ケマルは、新聞記者「ムスタファ・シェレフ」としてアレクサンドリアを経由して陸路ベンガジに向かった。12月18日、ベンガジ・デルネ地区東部の義勇部隊司令官となったが、1912年1月16日、左目を負傷し、1か月ほど治療を受けた後、1912年3月11日にデルネ地区司令官に任命されゲリラ戦を展開した[5]



バルカン戦争


第一次バルカン戦争の勃発によりトリポリタニアから呼び戻されたムスタファ・ケマルは、ウィーンで目の治療を受け、11月24日にダーダネルス海峡地区混成部隊司令部の作戦課長に任命され、同部隊がボラユル軍団として再編された際も作戦課長の任務を継続した。1913年1月26日のボラユルの戦い(英語版)で軍団主力のアリ・フェトヒ・ベイ指揮下の第27師団が、スティリヤン・コヴァチェフ(英語版)将軍の指揮するブルガリア第4軍隷下のゲオルギ・トドロフ将軍の指揮する第7リラ歩兵師団の前に敗北した。バーブ・アーリ襲撃(英語版)事件を契機にエンヴェル・ベイらが実権を握り、5月13日にロンドン条約が調印され、アドリアノープル(現 エディルネ)がブルガリア王国に割譲された。第二次バルカン戦争では、ボラユル軍団とともにブルガリア軍に対して攻勢に出て、7月15日にケシャン(英語版)を、7月17日にイプサラ(英語版)を、7月18日にウズンキョプリュを、7月21日にはカラアーチとディメトカ(現 ディディモティホ(英語版))を経由してアドリアノープルを奪還した。ムスタファ・ケマルは、同日街に入り、8月10日に街を離れた。その後、10月27日にソフィア駐在武官に任命された。ソフィアでは、陸軍大臣となったコヴァチェフの娘ディミトリナ・「ミティ」・コヴァチェヴァ (Димитрина "Мити" Ковачева / Dimitrina "Miti" Kovacheva) に接近した。1914年1月11日以降、ベオグラードとツェティニェの駐在武官も兼任した[5]



第一次世界大戦





ガリポリ戦線にて、第3軍団司令官エサド・パシャ(英語版)とその幕僚たちと


第一次世界大戦中の1915年1月20日、第19師団長に任命され、2月25日、エサド・パシャの指揮下にある第3軍団の予備兵力として、ガリポリ半島のエジェアバド-セッデュルバヒル周辺に展開した。3月23日、ダーダネルス要塞地区司令部司令官ジェヴァード・ベイの命令で、第19師団は、エジェアバドの後背地にて予備兵力とされ、ドイツから招聘されたオットー・リーマン・フォン・ザンデルスの指揮のもとに第5軍が新設されると軍予備とされた[6]


1915年4月25日、英仏軍がガリポリ上陸作戦を敢行し、ムスタファ・ケマル・ベイは、オーストラリア・ニュージーランド軍団が上陸したアルブルヌ地区に急行し、前進を食い止めた。6月1日に大佐に昇進した。1915年8月6日夜半、英軍は、増援の第9軍団をスヴラ湾に上陸させた。ザンデルス将軍は、サロス集団司令官アフメド・フェヴズイ・ベイ(英語版)にアナファルタラルでの即時反撃を命令したが、手間取ったため、ムスタファ・ケマル・ベイに同地区の指揮権を委譲し、8月8日よりアナファルタラル集団司令官となった。英軍の前進を食い止めたムスタファ・ケマルは、ルーシェン・エシュレフ(ユナイドゥン)(トルコ語版)らイスタンブールのメディアにより「アナファルタラルの英雄」として報じられ、名声を獲得した。8月19日以降、第16軍団司令官も兼任した。


12月10日、アナファルタラル集団司令官を辞任し、1916年1月27日、エディルネの第16軍団司令部に着任し、同軍団とともにディヤルバクルに転進し、ワン湖とチャパクチュル(現 ビンギョル)との間の80キロメートルの戦線を受け持った。ガリポリ戦での軍功で軍務期間が加算され、1916年3月19日、「ミールリヴァー」に昇進しパシャとなった。その後、8月7日にロシア軍よりビトリスとムシュを一時的に奪還した。1917年3月7日、第2軍司令官代理となった後、ヒジャーズ遠征軍(英語版)司令官への就任が提案されたが、これを固辞した。7月5日、第7軍司令官に任命されたが、ユルドゥルム軍集団(英語版)司令官エーリッヒ・フォン・ファルケンハインと衝突して、第7軍司令官を辞任してイスタンブールに戻った。10月9日、再度、第2軍司令官への任命の辞令が出されたが、赴任する前に、11月7日に総司令部付とされた。


1917年12月15日から1918年1月5日まで、皇太子ワフデッティンのドイツ帝国訪問に随行し親交を深めた。6月から7月にかけて、療養のために、ウィーンとカールスバート(現 カルロヴィ・ヴァリ)に滞在したが、メフメト5世が亡くなったため、8月2日にイスタンブールに戻った。帰国後、8月7日、パレスティナ・シリア戦線(英語版)でザンデルス元帥の指揮するユルドゥルム軍集団隷下の第7軍司令官に任命され、スルタンに即位しメフメト6世となっていたワフデッティンから「スルタンの名誉副官」の称号を贈られた。1918年9月19日に開始された英連邦軍のメギッド攻勢(ナブルスの敗北)の後、9月20日、メフメト6世の主席副官ナージ・ベイ(英語版)を通じて休戦を勧め、自らの陸軍大臣への就任を求める電報を打った。その後、オスマン帝国軍はアレッポまでの退却を余儀なくされ、10月30日夕刻に調印され翌31日正午に発効した休戦協定の第19条に規定されたドイツ人とオーストリア人の国外退去命令に従い、ザンデルス元帥が退任し、ムスタファ・ケマルがユルドゥルム軍集団司令官に就任し、11月7日まで同職に留まった。



トルコ共和国の建国




スィワス会議の頃、左から右へ:ムザッフェル、ラウフ、ベキル・サーミ、ムスタファ・ケマル、ルーシェン・エシュレフ、ジェミル・ジャヒド、ジェヴァート・アッバス





チャイ訪問、左から右へ:アースム、イスメト、不明、ツヴォナレフ、セミョーン・アラロフ、ムスタファ・ケマル、イブラヒム・アビロフ、アリ・イフサン、1922年3月31日





キャーズム・カラベキル、ラティーフェ(英語版)、ムスタファ・ケマル、1923年2月8日、エドレミト


1918年11月13日、イスタンブールのハイダルパシャ駅に着いたムスタファ・ケマルは、停泊する戦勝国艦船を目の当たりにした。1919年4月、シェヴケト・トゥルグート・パシャ(英語版)、ジェヴァート・パシャ、ムスタファ・フェヴズィ・パシャは秘密裏に会談を持ち、「三人の誓約」(Üçler Misâkı) と呼ばれる報告書を作って国土防衛のため軍監察官区の創設を決定した。4月末、ムスタファ・フェヴズィは国防大臣シャーキル・パシャに報告書を提出し、4月30日、国防省とスルタン・メフメト6世は、参謀総長の承諾を受けた決定を承認した[7]。そして、イスタンブールに第1軍監察官としてムスタファ・フェヴズィ・パシャが、コンヤにユルドゥルム軍監察官(後に第2軍監察官)としてメルスィンリ・ジェマル・パシャ(英語版)が、エルズルムに第9軍監察官(後に第3軍監察官)としてムスタファ・ケマル・パシャが、ルーメリ軍監察官としてヌーレッディン・パシャが派遣され、第13軍団が国防省直属となる計画であった[8]。この計画に従い、ムスタファ・ケマル・パシャは、東部アナトリアに派遣されることになった。5月15日、ムスタファ・ケマル・パシャは、ユルドゥズ宮殿に伺候し、メフメト6世との最後の会見の後、5月16日、貨客船「バンドゥルマ」で出航し、5月19日、サムスンに上陸した。後にトルコ共和国は、サムスン上陸の日をもってトルコ祖国解放戦争開始の記念日としている。ムスタファ・ケマルはアナトリア東部のエルズルム、スィヴァスにおいてアナトリア各地に分散していた帝国軍の司令官たち、旧統一と進歩委員会の有力者たちを招集、オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げ、また「アナトリア権利擁護委員会」を結成して抵抗運動の組織化を実現する。


抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年3月16日、首都イスタンブールを占領すると、首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちは権利擁護委員会のもとに合同し、アンカラで大国民議会を開いた。彼らは自らを議会を解散させたオスマン帝国にかわって国家を代表する資格をもつ政府と位置付け、大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。ムスタファ・ケマルはアンカラ政府内で自身に対する反対者を着々と排除して運動内での権威を確立しつつ占領反対運動をより先鋭的な革命政権へとまとめ上げていった。また、モスクワ条約を結んで政敵エンヴェル・ベイを支援していたソビエト連邦の同盟国になる一方で政権内に傀儡の公式トルコ共産党(トルコ語版)をつくり、共産主義者の勢力伸長を警戒した[9]


この頃、アンカラ政府がアナトリア東部に支配地域を拡大する一方、西方からはギリシャ軍がアンカラに迫っていたが、ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦い(英語版)で撃退した。この戦いの後、アンカラ政府のトルコ軍は反転攻勢に転じ、1922年9月には地中海沿岸の大商業都市イズミルをギリシャから奪還した。彼の有名な命令「全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ("Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz'dir ileri"、この文の後の発言は検閲対象となったため不明)」は、このときに発せられたものである。


反転攻勢の成功により、アンカラ政府の実力を認めた連合国に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功した。同年10月、連合国はローザンヌ講和会議にアンカラ政府とともにイスタンブールのオスマン帝国政府を招聘したが、ムスタファ・ケマルはこれを機に帝国政府を廃止させて二重政府となっていたトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようとはかり、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させた。「スルタン=カリフ」の聖俗一致を改めさせ、世俗権力である「スルタン」の地位を廃し、11月19日に大国民議会にアブデュルメジト2世を象徴的なカリフに選出[10]させた後、インドのムスリムから届いた手紙を「政治行為」としてオスマン皇族を全て国外退去させた。翌1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。



大統領時代




アフガニスタン国王アマーヌッラー・ハーンとムスタファ・ケマル・アタテュルク、アンカラ、1928年。




共和国建国10周年記念式典、左から右へ:フェヴズィ、ムスタファ・ケマル、キャーズム、イスメト


1924年、ムスタファ・ケマルは議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させてオスマン帝国末期から徐々に進められていた脱イスラム国家化の動きを一気に押し進めた。同年、共和国政府はメドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷を閉鎖、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して宗教勢力の一掃をはかる。


当初、ムスタファ・ケマルは穏健野党の育成をはかる試みも行っていたが、1925年前後、野党進歩共和党(英語版)による改革への抵抗、東アナトリアにおける宗教指導者シェイフ・サイード(英語版)反乱(英語版)など、反ムスタファ・ケマル改革の動きが起こったことを受けて方針を改め、1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を一斉に逮捕、政界から追放した。翌日、ムスタファ・ケマルは議会で6時間にも及ぶ大演説を行い、その最後に「私がトルコだ!」と言い放った。これにより、ムスタファ・ケマルは自身が党首を務める共和人民党による議会の一党独裁体制を樹立、改革への絶対的な主導権を確立した。




ラテン文字の読み書きを自ら教える「教頭」(Başöğretmen) ムスタファ・ケマル大統領


これ以降、独裁的な指導力を握ったムスタファ・ケマルは、大胆な欧化政策を断行した。1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもトルコ語と相性の良くないアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化の改革を押し進めた。文化面では、1931年、私財を投じてトルコ歴史協会(英語版)、その後トルコ言語協会をアンカラに設立した[11]


経済面では世界恐慌後、ソ連のヨシフ・スターリンが1932年に巨額の融資と経済顧問団を派遣、1934年5月からトルコも五カ年計画を導入する。また、男性の帽子で宗教的とみなされていたターバンやトルコ帽(フェズ)は着用を禁止(女性のヴェール着用は禁じられなかったが、極めて好ましくないものとされた)され、スイス民法をほとんど直訳した新民法が採用されるなど、国民の私生活の西欧化も進められた。1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときムスタファ・ケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。


1938年11月10日、イスタンブール滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿で死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。アタテュルクは、生前、医者に「肝硬変は「ラク(トルコの蒸留酒)」のためではない」と診断書を書かせようとしたが、純エタノールにして毎晩500ミリリットルは呑んでいたと言われ、明らかに死因の一部である。


ケマル・アタテュルクは死に至るまで一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる。また、彼の死後には次節で述べるようにケマル・アタテュルクの神格化が進むが、生前の彼は個人崇拝を嫌っていたという。ケマル・アタテュルクの死後、大統領に就任したイスメト・イノニュは強引さとカリスマ性こそアタテュルクに劣るものの、第二次世界大戦を終戦直前まで中立を保ちトルコを戦火に巻き込まずに乗り切り、その手腕と功績は高く評価されている。しかし国内の改革を並行して推し進めることは叶わず、内政面の改革と再発展は大戦後まで持ち越される。



ケマル主義





アンタルヤにあるアタテュルク像


ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷いた。一党独裁を築き上げ、反対派を徹底的に排除して強硬に改革を推進したアタテュルクと、その後継者となったイスメト・イノニュも他国の独裁政権と比較すれば、政変なく政権を守り通すことに成功した。結果として、トルコは独裁政権下にありながら全体として国家の安定に成功した例となり、「成功した(正しい)独裁者」[要出典]ムスタファ・ケマルはその死後も現在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけている。救国の英雄、近代国家の樹立者としてのムスタファ・ケマル評価はトルコではあたりまえのものになっている。1926年の議会にて「私がトルコだ!」と言い放った逸話が示すように、ムスタファ・ケマルの頭にはトルコしかなかった。ムスタファ・ケマルの口癖の一つは「我々はトルコ人以外の何ものでもない」で、その遺体が一時置かれていたアンカラの民俗博物館の石版には「我が肉体は滅びるとも、トルコ共和国は永遠なるべし」と刻まれている[12]


ムスタファ・ケマルがトルコ革命の一連の改革において示したトルコ共和国の政治路線は「ケマル主義(ケマリズム)」「アタテュルク主義」と呼ばれ、ムスタファ・ケマルに対する個人崇拝と結びついて現代トルコの政治思想における重要な潮流となっている。もっとも、ケマル主義の信奉者を主張する人々の中には左派的・脱イスラム的な世俗主義知識人からきわめて右派的・イスラム擁護的な保守主義者、民族主義者まで様々な主張があり、実際にはケマル主義の名のもとに多様な主義主張が語られている。


彼ら「ケマル主義」の擁護者たちの中でも、トルコ政治の重要な担い手の一部である軍部の上層部は、「ケマル主義」「アタテュルク主義」を堅持することはトルコ共和国の不可侵の基本原理であるという考え方をしばしば外部に示してきた。1960年と1980年の二度に渡る軍部の武力政変も政治家のケマル主義からの逸脱是正、あるいはケマル主義の擁護を名目として実行されている。




アンカラにあるアタテュルク廟(アヌト・カビール)


ムスタファ・ケマルの墓は、アンカラ市内の丘陵上に建設されたアタテュルク廟にあり、毎日内外から多くの参拝者が訪れる、国家の重要な建造物になっている。毎毎年彼の命日である11月10日9時5分には、トルコ全土で2分間の黙祷が捧げられ、アタテュルク廟ほかなど記念式典が行われる。


また、イスタンブールには彼にちなんで名づけられた空港(アタテュルク国際空港)、エルズルムには大学(アタテュルク大学)がある。トルコ全土の町々では、主要な通りにアタテュルクにちなんだ名前がつけられ、町の中心的な広場にはアタテュルクの銅像が立ち、役所や学校にはアタテュルクの肖像画が掲げられている。トルコ共和国の通貨である新トルコリラ(略称YTL)は、全ての紙幣にアタテュルクの肖像が刻印、印刷されている。さらに、「アタテュルク擁護法」という法律も存在し、公の場でアタテュルクを侮辱する者に対して罰則が加えられることもある。


トルコにおけるこうした徹底的なムスタファ・ケマルの顕彰に対しては、トルコの国内においても、世俗的な立場にある人々の間からも、「行き過ぎた神格化」であり「政教分離」に違反するのではという疑義を示す声もあるほどである。[要出典]少なからぬ観察者は、トルコの国家体制護持とムスタファ・ケマルに対する個人崇拝は密接に関係していると考えている。例えばイスラム的な価値観と国家体制との関係で見ると、1980年の9月12日クーデター以前は、徹底的な政教分離主義はケマル主義の名のもとに国家体制と不可分のものとされていたし、体制によって民族主義とイスラムの調和がはかられ始めた1980年代以降は、体制にとって許容可能な「望ましいイスラム」がアタテュルクの望んだイスラムのあり方であるとして正統化をはかる事例がみられるようになった。



イスラーム主義者による批判


アタテュルクが酒を好んだこと、イスラーム保守派への抑圧などからイスラーム主義者の中にはアタテュルクを背教者を意味するカーフィル(トルコ訛:キャーフィル)と非難する者も存在している。



その他



  • テッサロニキにあるマケドニア・リゾルト・ロッジ.No80に所属するフリーメイソンだった[13]


家族




ムスタファ・ケマルと妻ラティーフェ




養女たち 左から右へ:ルキイェ(トルコ語版)、サビハ、アフェト、ゼフラ・アイリン(トルコ語版)


1923年1月29日、イズミルの豪商ウシャキザーデ家の娘ラティーフェ(英語版)と結婚。しかし1924年9月から10月にかけての東部訪問で離婚危機となり、1925年8月5日に離婚が発表された。


母ズュベイデの再婚相手である、ラグプの親戚フィクリイェ(トルコ語版)とアンカラ駅の官邸で同棲していた(イマーム婚(トルコ語版)をあげていたという説もある)。フィクリイェはチャンカヤ官邸前で拳銃自殺を図り、1週間後、アンカラ・ヌムーネ病院(トルコ語版)で死亡(弾痕が背中にあったため、他殺説もある)。



子女


ムスタファ・ケマルに実子は無く、死亡した戦友の子を[要出典]養子として十数人を家族としたという。「いつも厳しく、学校の成績を気にする人だった」という証言も残っている。


但し、サビハ・ギョクチェンは、養女だけで養子はいなかったと主張していた。



養女




  • アフェト・イナン - 歴史家

  • ネビレ(トルコ語版)

  • フィクリイェ

  • ルキイェ(トルコ語版)


  • ゼフラ・アイリン(トルコ語版) - 1936年、フランスのアミアン近郊で列車から転落して死亡。事故とも自殺とも言われている


  • サビハ・ギョクチェン - 世界初の女性軍用機操縦士


  • ユルキュ(トルコ語版) - ズュベイデの養女ヴァスフィエの娘



養子




  • アブドゥルラーヒム(トルコ語版) - 孤児→技師、顔がケマルに酷似。(ズュベイデは、遺言でアブドゥルラーヒムにも遺産を遺した)


  • スールトマチ・ムスタファ(トルコ語版) - 牧童→クレリ少年兵学校→軍人

  • イフサン



注釈





  1. ^ 軍での階級に沿って、尉官までは、エフェンディ (Mustafa Kemal Efendi)、佐官時代は、ベイ (Mustafa Kemal Bey)、将官時代 (1916年3月19日以降)は、パシャ (Mustafa Kemal Paşa)、1921年9月19日以降は、ガーズィ(Gazi Mustafa Kemal Paşa)の敬称・称号が付けられる。1934年11月24日以降、ムスタファ・ケマル・アタテュルク。
    日本では、ケマル・パシャとも言われる。


  2. ^ abc「エフェンディ」および母ズュベイデや妻ラティーフェに用いられている「ハヌム」は姓名ではなく、トルコ語における一般的な敬称である。
    「ベイ」「パシャ」も当該記事のとおり一定の階級以上の者に用いられる尊称であり、「ガーズィ」は元軍人を意味する名誉称号で、アタテュルクのそれに関してはトルコ大国民議会から贈られたものである。



  3. ^ 正確な生年月日は不明だが、1880年3月13日から1881年3月12日の間と考えて間違いはない。アタテュルクは公式には1881年と、祖国解放戦争開始の記念日、5月19日を自身の誕生日として用いていた。[1]


  4. ^ 1934年に彼自身が制定させた苗字法の施行まで、トルコ人には姓はなく、当時のトルコ人は現代でもイスラム圏の名前でみられるように、出身地や父の名前やあだ名を加えることで個人の識別をしていた。


  5. ^ 軍人を志した動機は、近所の幼年兵学校生徒の制服が気に入ったためとも、オスマン軍士官だったラグプの息子の奨めがあったためとも言われ、単に学費が安かったからという説もある。


  6. ^ 士官学校時代にドイツ語とフランス語、日本語まで学び、ドイツ語を喋り原語のフランス民権思想書を読み、片言の日本語と英語もできたと云う。また、この間に山田寅次郎の教えを受けたとも言われる[4]


  7. ^ 第一回大会でもキャーズム・カラベキルらにより提案されていた。



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脚注





  1. ^ Mango 2011, p. 27([1]).


  2. ^ Gershom Scholem, "Doenmeh", Encyclopaedia Judaica, 2nd ed.; Volume 5: Coh-Doz, Macmillan Reference USA, Thomson Gale, 2007, ISBN 0-02-865933-3, p. 732.


  3. ^ Fatih Bayhan, Gölgesinde Mustafa Kemal büyüten kadın Zübeyde Hanım, Pegasus yayınları, 2008, ISBN 9786055943561, s. 84.


  4. ^ 「日本とトルコの民間友好史 快男児・山田寅次郎」 駐日トルコ共和国大使館 トルコの時代

  5. ^ abcdeT.C. Genelkurmay Harp Tarihi Başkanlığı Yayınları, Türk İstiklâl Harbine Katılan Tümen ve Daha Üst Kademlerdeki Komutanların Biyografileri, Genkurmay Başkanlığı Basımevi, Ankara, 1972, p. 2. (トルコ語)


  6. ^ T.C. Genelkurmay Harp Tarihi Başkanlığı Yayınları, Ibid., p. 7.


  7. ^ Zekeriya Türkmen, Mütareke Döneminde Ordunun Durumu ve Yeniden Yapılanması (1918-1920), Türk Tarih Kurumu Basımevi, 2001, ISBN 975-16-1372-8, p. 105. (トルコ語)


  8. ^ Zekeriya Türkmen, Mütareke Döneminde Ordunun Durumu ve Yeniden Yapılanması (1918-1920), Türk Tarih Kurumu Basımevi, 2001, ISBN 975-16-1372-8, p. 106. (トルコ語)


  9. ^ 18 Ekim 1920: Ankara Hükümeti tarafindan sahte Türkiye Komünist Fırkası kuruldu | Marksist.org


  10. ^ Hoiberg, Dale H., ed. (2010). "Abdümecid II". Encyclopedia Britannica. I: A-ak Bayes (15th ed.). Chicago, IL: Encyclopedia Britannica Inc. p. 23. ISBN 978-1-59339-837-8.


  11. ^ 大村 2012, p. 42


  12. ^ 武田龍夫 『新月期の国トルコ』 サイマル出版会、1987年9月、pp.145,150、ISBN 4-377-30755-X。


  13. ^ “Famous Freemasons” (英語). Lodge st.Patrick. 2015年9月7日閲覧。




参考文献




  • 新井政美 『トルコ近現代史 イスラム国家から国民国家へ』 みすず書房、2001年4月。ISBN 4-622-03388-7。 - 改訂版2008年、文献あり。

  • 大島直政 『ケマル・パシャ伝』 新潮社〈新潮選書〉、1984年5月。ISBN 4-10-600265-5。

  • 大村幸弘 「民族のアイデンティティーを求めて」『トルコを知るための53章』 大村幸弘・永田雄三・内藤正典 編著、明石書店〈エリア・スタディーズ95〉、2012年4月。ISBN 978-4-7503-3571-1。

  • 『イスラーム復興はなるか』 坂本勉・鈴木董 編、講談社〈講談社現代新書1175 新書イスラームの世界史3〉、1993年11月。ISBN 4-06-149175-X。


  • 坂本勉 『トルコ民族主義』 講談社〈講談社現代新書1327〉、1996年10月。ISBN 4-06-149327-2。 - 文献案内:pp.235-242。


  • 鈴木董 『オスマン帝国の解体 文化世界と国民国家』 筑摩書房〈ちくま新書242〉、2000年6月。ISBN 4-480-05842-7。 - 新版:講談社学術文庫、2018年3月


  • 永田雄三、加賀谷寛・勝藤猛 『中東現代史1 トルコ・イラン・アフガニスタン』 山川出版社〈世界現代史11〉、1982年5月。ISBN 978-4-634-42110-3。 - 巻末:年表・参考文献。


  • 永田雄三、加藤博 『西アジア(下)』 朝日新聞社〈地域からの世界史8〉、1993年8月。ISBN 4-02-258503-X。 - 年表・文献案内:pp.204-218。

  • 『西アジア史2 イラン・トルコ』 永田雄三 編、山川出版社〈新版世界各国史9〉、2002年7月。ISBN 978-4-634-41390-0。


  • ジャック・ブノアメシャン 『灰色の狼 ムスタファ・ケマル』 牟田口義郎 訳、筑摩書房〈ノンフィクション・ライブラリー〉、1965年 - 著者はフランス人。

    • ブノアメシャン 『灰色の狼ムスタファ・ケマル 新生トルコの誕生』 牟田口義郎 訳、筑摩書房、1975年、新装版。


    • ブノアメシャン 『灰色の狼ムスタファ・ケマル 新生トルコの誕生』 牟田口義郎 訳、筑摩書房、1990年12月、改装版。ISBN 4-480-85084-8。 - 折り込図1枚 ムスタファ・ケマルの肖像あり。原タイトル:Mustapha Kemal, ou la mort d’un empire




  • デイヴィド・ホサム 『トルコ人』 護雅夫 訳、みすず書房、1983年1月。ISBN 4-622-00600-6。 - 巻末:参考文献。原タイトル:The Turks


  • Mango, Andrew (2011), Ataturk, Hachette UK, ISBN 9781848546189 


  • 設楽国広 『ケマル・アタテュルク トルコ国民の父』 山川出版社「世界史リブレット人」、2016年8月ISBN 9784634350861



関連文献




  • トゥルグット・オザクマン 『トルコ狂乱 オスマン帝国崩壊とアタテュルクの戦争』 新井政美 監修、鈴木麻矢 訳、三一書房、2008年7月。ISBN 978-4-380-08204-7。 - 歴史小説、原タイトル:Su cilgin turkler


  • 三浦伸昭 『アタチュルク あるいは灰色の狼』 文芸社、2006年2月。ISBN 4-286-00897-5。 - 文献あり。歴史小説。


  • 今井宏平 『トルコ現代史 オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』中央公論新社<中公新書>、2017年。



関連項目











  • アタテュルク国際空港

  • アタテュルクのCM (トルコ興業銀行)

  • アタテュルク廟

  • イスラム教における飲酒

  • ガリポリの戦い

  • サカリヤ川の戦い


  • ダッカ - ケマル・アタテュルクの名がつけられた大通りがある。

  • トルコの言語純化運動

  • トルコの歴史

  • 日土関係

  • 橋本欣五郎

  • 文化的ムスリム


  • 山田宗有(寅次郎)



外部リンク



  • 百科事典マイペディア『ケマル・アタチュルク』 - コトバンク


  • Atatürk - トルコ文化省(英語)







先代:



トルコ大国民議会議長

初代:1920年 - 1923年


次代:

フェトヒ・オクヤル







先代:




トルコ共和国首相
(トルコ革命戦時下)

初代:1920年 - 1921年


次代:

フェヴズィ・チャクマク







先代:




共和人民党党首

初代:1923年 - 1938年


次代:

イスメト・イノニュ










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