マニウス・クリウス・デンタトゥス
































マニウス・クリウス・デンタトゥス
Manius Curius Dentatus
(M'. Curius M'.f. M'.n. Dentatus)


タッデーオ・ディ・バルトーロの描くデンタトゥス , シエーナのパラッツォ・プッブリコ

出生
紀元前330年
死没
紀元前270年
出身階級
プレブス
氏族
クリウス氏族
官職
護民官(紀元前298年頃)
執政官(紀元前290年、275年、274年)
プラエトル(紀元前283年)
ケンソル(紀元前272年)
水道二人官(紀元前270年)
指揮した戦争
第3次サムニウム戦争(紀元前290年)
ベネウェントゥムの戦い(紀元前275年)
テンプレートを表示

マニウス・クリウス・デンタトゥス(ラテン語: Manius Curius Dentatus、紀元前330年 - 紀元前270年)はマニウスの息子で、共和政ローマ時代に三度執政官に就任し、サムニウム戦争を終結させたプレブス出身の英雄である。大プリニウスによると、産まれた時すでに歯が生えていたため、デンタトゥス(歯のある)という渾名を付けられた[1]




目次






  • 1 略歴


  • 2 逸話


  • 3 美術作品


  • 4 脚注


    • 4.1 出典


    • 4.2 注釈




  • 5 参考文献


  • 6 外部リンク


  • 7 関連項目





略歴


デンタトゥスは紀元前298年から291年の間、幾度か護民官を務めた。護民官として、インテルレクスであったアッピウス・クラウディウス・カエクスによる執政官選挙からの平民候補締め出しに対し、元老院に民会を許可するように働きかけるなどして抵抗した[2][3]
この行動はデンタトゥス自身を候補者へと押し上げたが、アッピウスは平民出身の執政官と並立する事に強硬に抵抗し[2]、選出されたのはアッピウスが三度インテルレクスを務めた後であった[4]


紀元前290年、執政官に選出されると、第3次サムニウム戦争を終結させ、サビニ人の反乱を鎮圧、二度の凱旋式[2][5]と、ルカニア人に勝利して小凱旋式を挙行した[2][6]。凱旋後は国家事業であるウェリヌス湖[注釈 1]の排水事業に加わった。


紀元前283年、デンタトゥスは北イタリアに住むガリア人とのアレティウムの戦いにおいて戦死した ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテル の後任としてプラエトルに就任した。ポリュビオスによれば、デンタトゥスはまず捕虜返還を要求したが、ガリア人は使者を殺してそれに応えたため、怒ったローマ軍によってガリア人セノネス族はそのテリトリーから駆逐され、アドリア海に面した地にセノネスの名を冠した植民地セナ・ガリカが設立されたという[7][8]





ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ, デンタトゥスの凱旋式 (1727-1729年)


二度目の執政官を務めた紀元前275年には、エピロス王ピュロスと戦うために、徴募に応じない兵士の財産を売り払うなど厳しい対応を取り、ベネウェントゥムの戦いにおいて引き分けに持ち込み、ピュロスをイタリア半島から撤退させた[9]。その結果凱旋式を挙行し[10][11]、翌年も続けて執政官を務めた[12]


紀元前272年にはケンソルを務め[13]、同僚の死後は古代ローマで2番目に古い旧アニオ水道建設を引き継いだ。紀元前270年には引き続き水道二人官の一人として建設を担当し、その費用には彼がこれまでに獲得してきた戦利品が充てられたという[10]。この建設中にデンタトゥスは死去し、その後任者 マルクス・フルウィウス・フラックスの監督の元、水道は完成された[14]



逸話


デンタトゥスは質素で清廉な人物と考えられている。晩年は農業をして暮らしていたといい、ある時サムニウム人の大使が高価な賄賂を持って彼の元を訪れると、炉端で蕪を焼いているところだった。彼は賄賂を拒み、こう言ったという「私はこれを食べながら金を持つ連中に指図する方が性に合っている[2][15][16][注釈 2]」 この話が真実か定かではない (ことによると大カトーの創作かもしれない) が 、多数の画家たちに題材とされている。


また、デルフト工科大学技術管理学科の学生協会クリウスは、彼の名から付けられた[17]



美術作品



他にも、
フェデーレ・フィスケッティ[18]
Jean Guillaume Moitte (1795–1796年)[19]
作者不明 (1664年)[20]
など



脚注



出典





  1. ^ プリニウス, 7.15.

  2. ^ abcde松原, 33.


  3. ^ ブロートン, 174.


  4. ^ ブロートン, 174–175.


  5. ^ ブロートン, 183.


  6. ^ ブロートン, 184.


  7. ^ ポリュビオス『歴史』2.19


  8. ^ ブロートン, 188.


  9. ^ リウィウス,ペリオカエ 14

  10. ^ abブロートン, 195.


  11. ^ Fasti Triumphales[1]


  12. ^ ブロートン, 196.


  13. ^ ブロートン, 198.


  14. ^ ブロートン, 199.


  15. ^ キケロ、老年, 55-56.


  16. ^ マクシムス, 4.3.5.


  17. ^ S.V.T.B. Curius


  18. ^ MET


  19. ^ MET


  20. ^ スコットランド国立美術館




注釈





  1. ^ 現在のラツィオ州リエーティ付近


  2. ^ マクシムスより。デンタトゥスはサムニウム人にこう言った「こう記憶し報告するがいい。私は戦に倒れることはあっても、金に転ぶ事はない (refertote et memento me nec acie vinci nec pecunia corrumpi posse)




参考文献



  • 大プリニウス 『博物誌』。

  • マルクス・トゥッリウス・キケロ 『大カトー・老年について』。


  • Valerius Maximus. Factorum ac dictorum memorabilium libri. 


  • T. R. S. Broughton. The Magistrates of the Roman Republic Vol.1.  (American Philological Association, 1951年, 1986年再版)


  • 松原俊文(訳) 『史料翻訳ローマ共和制偉人伝』。(地中海研究所紀要2006.03)邦訳[2]解題[3][4]



外部リンク




  • Wikisource-logo.svg "Dentatus, Manius Curius". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). 1911. 

  • Fasti Triumphales at attalus.org. Partial, annotated English translation. From A. Degrassi's "Fasti Capitolini", 1954. Attalus.org



関連項目



  • ベネウェントゥムの戦い

  • 共和政ローマ執政官一覧

  • 共和政ローマ監察官一覧

  • リエーティ

  • フェーローニア



















公職
先代:
ルキウス・ポストゥミウス・メゲッルス、
ガイウス・ユニウス・ブブリクス・ブルトゥス

ローマの執政官(コンスル)
紀元前290年
同僚
プブリウス・コルネリウス・ルフィヌス
次代:
マルクス・ウァレリウス・マクシムス・コッリヌス、
クィントゥス・カエディキウス・ノクトゥア
先代:
クィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲス、
ガイウス・ゲヌキウス・クレプシナ

ローマの執政官(コンスル)
紀元前275年
同僚
ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌス
次代:
マニウス・クリウス・デンタトゥス
セルウィウス・コルネリウス・メレンダ
先代:
マニウス・クリウス・デンタトゥス
ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌス

ローマの執政官(コンスル)
紀元前274年
同僚
セルウィウス・コルネリウス・メレンダ
次代:
ガイウス・ファビウス・ドルソ・リキヌス、
ガイウス・クラウディウス・カニナ



Popular posts from this blog

サソリ

広島県道265号伴広島線

Setup Asymptote in Texstudio