レーモン3世 (トリポリ伯)

































レーモン3世
Raymond III

トリポリ伯

Raymond of Tripoli seal.jpg
レーモン3世のシール

称号
トリポリ伯:1152年 - 1187年
出生
1140年

薨去
1187年
トリポリ
配偶者
エスティヴァ
父親
レーモン2世(英語版)
母親
オディエルヌ
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レーモン3世(Raymond III, 1140年 - 1187年)は、トリポリ伯(在位:1152年 - 1187年)。母オディエルヌはエルサレム王ボードゥアン2世の娘[1]



生涯


1164年、アルターの戦闘で捕虜となり、10年間牢につながれた。解放後の1174年、ゴーティエ・ド・サントメールの寡婦でガリラヤ女公(ティベリアス領主)のエスティヴァ[2]と結婚し、ティベリアスを領地として得た[3]。当時、フランク人でもっとも賢明な人物といわれ[4]、1174年にエルサレム王ボードゥアン4世(従兄の子にあたる)の摂政となり、のちにその甥で後継者のボードゥアン5世の摂政も務めたが、1186年、ボードゥアン5世の死後エルサレム王位についたギー・ド・リュジニャンと対立した。1187年春にサラディンが侵攻した際には、独断で休戦協定を結んだが、その後ルノー・ド・シャティヨンやテンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォールがムスリムを襲撃し、休戦は破棄された状態となった。同年7月2日、サッフリーヤに陣をかまえる十字軍国家のフランク軍をおびき出すため、サラディンはレーモンの妻とその子(前夫との息子)のいるティベリアスを攻撃した。7月4日、フランク軍はヒッティーンの戦いにおいてムスリム軍に大敗し、エルサレム王ギーやルノーは捕虜となったが、レーモンは先遣部隊を率いてムスリム軍の包囲を突破し、逃げ切ることができた[5]。しかし、レーモンはその後まもなくしてトリポリで病没した。


レーモンと妻エスティヴァの間に子はなく、レーモンはアンティオキア公ボエモン3世の長子レーモン(4世)を養子としてトリポリ伯位の後継者に指名した。しかし、ボエモン3世の意向により、トリポリ伯位はレーモンの弟ボエモン4世に継承された。レーモン(4世)は父ボエモン3世に先立って死去した。



脚注




  1. ^ A.ジョティシュキー、p.152


  2. ^ S.Runciman、Genealogical Trees.


  3. ^ 『十字軍全史』、p.62


  4. ^ ジョルジュ・タート、p.112


  5. ^ A.ジョティシュキー、p.162



参考文献



  • A.ジョティシュキー『十字軍の歴史』刀水書房、2013年

  • Steven Runciman, A History of the Crusades: vol.2 The Kingdom of Jerusalem and the Frankish East 1100-1187, Cambridge University Press, 1987.

  • 新人物往来社 編『十字軍全史』新人物往来社、2011年

  • ジョルジュ・タート『十字軍』創元社、1993年








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