LGツインズ













































LGツインズ
創設年度

1990年

ロゴデザイン

LG Twins insignia.svg

所属リーグ

韓国野球委員会



歴代チーム名

MBC青龍(1982年 - 1989年)
→LGツインズ(1990年 - 現在)



本拠地

蚕室総合運動場野球場(ソウル特別市松坡区)

Jamsil Baseball Stadium.jpg


収容人員
30,500人

ソウル特別市

永久欠番


9
41




獲得タイトル





韓国チャンピオン(2回)

1990・1994




成績(タイトル以外)









韓国シリーズ出場(6回)(太字は勝利した年)

2勝4敗
1983・19901994・1997・1998・2002



プレーオフ(9回)(太字は勝利した年)

3勝6敗
1993・1995・19971998・2000・2002・2013・2014・2016



準プレーオフ(5回)(太字は勝利した年)

5勝0敗
19931998200220142016










Aクラス(14回)

1982-1983・1986・1990・1993-1995・1997-1998・2000・2002・2013-2014・2016



Bクラス(23回)

1984-1985・1987-1989・1991-1992・1996・1999・2001・2003-2012・2015・2017-2018




球団組織
オーナー
具本茂(ク・ボンム、LGグループ会長)
運営母体

LGグループ
監督

柳仲逸(リュ・ジュンイル) 























LGツインズ
各種表記

ハングル:

엘지 트윈스

漢字:

-

発音:

エルジー=ツインズ
エルジ=トゥインス

英語:

LG Twins
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LGツインズ(エルジー・ツインズ、엘지 트윈스、LG Twins)は、韓国のプロ野球チームである。LGグループがオーナーであり、韓国プロ野球発足時の1982年から存在するチームのひとつ。チーム名はソウル特別市の汝矣島にある親会社のオフィスビルであるLGツインタワーに因む。縁故地(ホームタウン)はソウル特別市。本拠地は同市内の蚕室球場。


韓国プロ野球における1982年からの累積観客動員では最大を記録している(2018年まで)。




目次






  • 1 チーム略歴


  • 2 概要


    • 2.1 MBC青龍時代(1982-1989)


    • 2.2 LGツインズ時代(1990- )


      • 2.2.1 1990年代


      • 2.2.2 2000年代


      • 2.2.3 2010年代






  • 3 永久欠番


  • 4 歴代成績


  • 5 主な在籍選手


    • 5.1 投手


    • 5.2 捕手


    • 5.3 内野手


    • 5.4 外野手




  • 6 歴代監督


  • 7 主な退団・引退選手およびコーチング・スタッフ


    • 7.1 韓国人選手


    • 7.2 外国人選手およびコーチングスタッフ




  • 8 キーワード


    • 8.1 ワールドカップの年と韓国シリーズ


    • 8.2 チームの人気と親会社の名称変更




  • 9 脚注


  • 10 外部リンク





チーム略歴




  • 1982年 MBC青龍として発足


  • 1990年 球団売却に伴いLGツインズに



概要



MBC青龍時代(1982-1989)


1982年の韓国プロ野球発足と同時に誕生した韓国文化放送(MBC)を親会社とするMBC青龍(エムビーシー チョンヨン、ハングル:MBC청룡。資料によっては「MBCブルードラゴンズ」、または「MBCドラゴンズ」とするものもある)としてソウルを本拠地として創設。1983年まではプレイングマネージャーとして、日本プロ野球でも活躍した白仁天が活躍し、1982年には史上唯一のシーズン打率4割(.412)を記録した。しかし、1980年代後半は低迷が続き、毎年のように監督が交代し親会社のMBCの経営陣も球団運営に熱意を見せなかった。結局1989年シーズン終了後、球団の売却を決定、LGグループが当時約130億ウォンで買収してLGツインズとなった。



LGツインズ時代(1990- )



1990年代


1990年代は4度の韓国シリーズ進出、1990年と1994年に韓国シリーズを制覇するなど、当時のヘテ・タイガースとともに90年代の人気球団としての地位を両分し、「シンパラム(新風)野球」として一世を風靡した。1990年にLG初代監督として、前身のMBCで活躍した白仁天が迎えられ、球団創設初年度に三星ライオンズをやぶって韓国シリーズ初優勝を果たした。だが翌91年は6位と低迷したため、この年限りで白仁天は退任となった。


1992年から李廣煥監督が就任し、初年度は7位と低迷したが、翌93年は公式戦4位でプレーオフまで進出した。そして1994年、柳志炫、金宰炫などの新人選手、当時プロ2年目の李尚勲などの若手が活躍し、2度目の韓国シリーズ優勝を成し遂げた。
このころがまさにLGツインズの黄金時代であり、当時の主なスター選手としては李尚勲、柳志炫、金龍洙、徐容彬、宋九洪、金東洙などがあげられる。


しかし1995年3位、1996年7位と成績が低下すると、李廣煥も96年シーズン途中で交代となった。このあと監督代行を務めた千普成が監督に昇格し、翌97年は2位に浮上したが、韓国シリーズでヘテタイガースに敗れた。98年も2位だったがまたもやヘテに韓国シリーズで敗れ、翌99年に総合6位(ドリームリーグ4位、この年から2000年まで2リーグ制)と低迷したため千普成監督も退任した。



2000年代


2000年から李光殷監督が就任し、同年はドリームリーグ1位でプレーオフに進出したが、斗山ベアーズに敗れた。翌01年は6位に終わり、オフにはシーズン途中で監督代行となった金星根が正式に監督に就任した。


2002年、金星根の指揮の下、公式戦4位ながら準プレーオフ、プレーオフを勝ち上がり、韓国シリーズに出場したが三星ライオンズに敗れた。しかしフロントとの対立で金星根がこの年限りで退任してから、チームの低迷が始まった。


2003年は1990年代韓国シリーズ優勝に導いた李廣煥監督の再登板となったが、6位に終わりこの年限りで退任した。2004年から李順喆監督が就任したがまた6位に終わり、、2005年と3年連続で6位と成績不振が目に付くようになって、2000年代半ばからチーム強化に成功し、韓国シリーズに3度進出した地域ライバルの斗山ベアースに水をあけられる状態に陥る。


2006年は投手インストラクターとして加藤初が4年ぶりに復帰、宇都博之がトレーニングコーチを務めた。同年、球団史上初の最下位の屈辱を味わい、シーズン途中で李順喆監督は成績不振で退任となり、オフには同チームのOBであり、現代ユニコーンズを4回優勝に導いた金在博を新監督として迎え、巻き返しを図かった。その初年度の2007年は5位で終わったが、夏場までポストシーズン進出枠を争い、シーズン終了間際までポストシーズン進出の可能性を残すなど健闘した。だが2年目の翌2008年は、投打ともに振るわず序盤から低迷を続け、2年ぶり2度目の最下位に沈んだ。
2009年には20年以上のコーチ経験があり、2008年まで中日ドラゴンズの投手コーチを務めていた高橋三千丈を投手コーチとして招聘した。オフにFAで鄭成勲、李晋暎の大物野手を獲得したこともあり、上位進出も期待されたが、投手陣の弱さが克服できず7位に終わり、例年と代わり映えのない成績で7年連続ポストシーズン進出に失敗し、低迷から脱出できなかった。なお金在博はこの年限りで退任し、新監督として朴鍾勲が迎えられた。



2010年代


2010年はトレードでネクセンヒーローズから李宅根をトレードで獲得し、かつての主力選手李炳圭の復帰などで戦力を補強したが、外野手が必要以上に多いなどチーム構成のバランスが悪く、6位となり8年連続でポストシーズン進出に失敗した。
2011年は前半こそ首位争いをしていたものの、夏場から勝率を下げる一方でハンファと同率6位に終わり、9年連続ポストシーズン進出失敗の不名誉な韓国プロ野球新記録を塗り替えてしまった。成績不振の責任を取る形で朴鍾勲監督も辞任し、金杞泰監督が就任した。


2012年は4月7日の公式戦開幕を前にして、前年チーム最多勝(13勝)だった朴顯俊、金聖賢の2名の投手が金銭を受け取り競技操作事件に加担したとして有罪となり、解雇された後に球界から永久追放処分を科されてしまう(韓国プロ野球八百長事件)。投手力不足を解消できず7位でポストシーズン進出失敗記録を10年に伸ばした。2013年は公式戦2位で11年ぶりにポストシーズン進出となり、プレーオフから出場したが斗山ベアーズに敗れた。2014年4月23日、最下位に低迷していたためシーズン中にも関わらず金杞泰監督が辞任し、同年5月11日、楊相汶が監督に就任すると調子を取り戻し、公式戦4位で1998年以来となる2年連続でポストシーズンへ進出した。NCダイノスとの準プレーオフに勝利し、2年連続プレーオフへ進出したがネクセン・ヒーローズに敗れた。2015年は9位で、3年ぶりにポストシーズン進出を逃した。2016年は4位で2年ぶりにポストシーズンへ進出し、起亜とのワイルドカード決定戦、ネクセンとの準プレーオフで勝利したが、プレーオフで公式戦2位のNCダイノスに敗れた。2017年は6位でポストシーズン進出はならず楊相汶監督が退任した。


2018年より柳仲逸監督が就任するも、同年は8位で2年連続ポストシーズン進出はならなかった。



永久欠番




  • 9 - 李炳圭(イ・ビョンギュ)


  • 41 - 金龍洙(キム・ヨンス)



歴代成績




































































































































































































































































































































































































年度
シーズンランク
最終順位
試合数



勝率

MBC青龍
1982
3位/6チーム
3位
80
46
34
0
0.575
1983

1位/6チーム

準優勝
100
55
43
2
0.561
1984
4位/6チーム
4位
100
51
48
1
0.515
1985
5位/6チーム
5位
110
44
65
1
0.404
1986
3位/7チーム
3位
108
59
41
8
0.590
1987
5位/7チーム
5位
108
50
51
7
0.495
1988
6位/7チーム
6位
108
40
64
4
0.389
1989
6位/7チーム
6位
120
49
67
4
0.425
LG TWINS
1990

1位/7チーム

優勝
120
71
49
0
0.592
1991
6位/8チーム
6位
126
53
72
1
0.425
1992
7位/8チーム
7位
126
53
70
3
0.433
1993
4位/8チーム
4位
126
66
57
3
0.536
1994

1位/8チーム

優勝
126
81
45
0
0.643
1995
2位/8チーム
3位
126
74
48
4
0.603
1996
7位/8チーム
7位
126
50
71
5
0.417
1997
2位/8チーム

準優勝
126
73
51
2
0.587
1998
3位/8チーム

準優勝
126
63
62
1
0.504
1999
3位/4チーム
3位
132
61
70
1
0.466
2000
1位/4チーム
4位
133
67
63
3
0.515
2001
6位/8チーム
6位
133
60
71
2
0.458
2002
4位/8チーム

準優勝
133
66
61
6
0.520
2003
6位/8チーム
6位
133
60
71
2
0.458
2004
6位/8チーム
6位
133
59
70
4
0.457
2005
6位/8チーム
6位
126
54
71
1
0.432
2006
8位/8チーム
8位
126
47
75
4
0.385
2007
5位/8チーム
5位
126
58
62
6
0.483
2008
8位/8チーム
8位
126
46
80
0
0.365
2009
7位/8チーム
7位
133
54
75
4
0.406
2010
6位/8チーム
6位
133
57
71
5
0.429
2011
6位/8チーム
6位
133
59
72
2
0.450
2012
7位/8チーム
7位
133
57
72
4
0.442
2013
2位/9チーム
3位
128
74
54
0
0.578
2014
4位/9チーム
4位
128
62
64
2
0.492
2015
9位/10チーム
9位
144
64
78
2
0.451
2016
4位/10チーム
4位
144
71
71
2
0.500
2017
6位/10チーム
6位
144
69
72
3
0.489
KBO 通算36シーズン
2回優勝
4483
2121
2257
105
0.484


主な在籍選手



投手



  • 11 柳済国(リュ・ジェグク)

  • 18 李東鉉(イ・ドンヒョン)

  • 20 林廷宇(イム・ジョンウ)

  • 21 陳該受(チン・ヘス)

  • 23 車雨燦(チャ・ウチャン)

  • 35 タイラー・ウィルソン

  • ケイシー・ケリー



捕手



  • 27 劉江南(ユ・ガンナム)

  • 42 鄭相昊(チョン・サンホ)



内野手



  •   2 呉智煥(オ・ジファン)

  • 52 徐祥祐(ソ・サンウ)

  • トミー・ジョゼフ



外野手



  • 10 金容儀(キム・ヨンウィ)

  • 22 金賢洙(キム・ヒョンス)

  • 32 李天雄(イ・チョヌン)

  • 33 朴龍澤(パク・ヨンテク)

  • 36 李炯宗(イ・ヒョンジョン)

  • 55 蔡恩成(チェ・ウンソン)



歴代監督


前任監督の辞任、解任で務めた監督代行は歴代監督に含み、出場停止、休養などで一時的に代行を務める時は含まない。




  • 白仁天(1982-1983.4.25)
    姦通罪で逮捕されたため、1983年シーズン途中解任


  • 兪百萬(ユ・ベンマン、1983.4.26.-1983.6.8.)監督代行


  • 韓東和(ハン・ドンファ、1983.6.9.-1983.6.18.)監督代行


  • 金東燁(キム・ドンヨプ、1983.6.19.-1983年シーズン終了)


  • 魚友洪(オ・ウホン、1984-1985.6.17.)
    1985年シーズン途中成績不振で解任。


  • 韓東和(1985.6.18.-1985.6.22.)監督代行


  • 金東燁【第2次】(1985.6.23. - 1987.7.10.)
    1987年シーズン途中成績不振と球団側との軋轢によって解任。


  • 兪百萬(1987.7.11.-1988)
    1987年シーズンは監督代行


  • 裵聖瑞(ペ・ソンソ、1989)


  • 白仁天(1990 - 1991)
    LGとしては初代、7年ぶり復帰


  • 李廣煥(イ・グァンファン、1992 - 1996.7.23.)
    1996年シーズン途中、成績不振の責任を取って解任


  • 千普成(チョン・ボソン、1996.7.24. - 1999)
    1996年シーズンは監督代行


  • 李光殷(イ・グァンウン、2000 - 2001.5.15.)
    2001年シーズン途中、成績不振の責任を取って解任


  • 金星根(キム・ソングン、2001.5.16. - 2002)
    2001年シーズンは監督代行


  • 李廣煥【第2次】(2003)
    前回の優勝の経歴を買われて7年ぶり復帰も宣銅烈を監督として招こうとする球団側の思惑で1年で2軍監督として勇退。


  • 李順喆(イ・スンチョル、2004 - 2006.6.5.)
    成績不振の責任を取って辞任


  • 梁承浩(ヤン・スンホ、2006.6.6. - 2006シーズン終了)監督代行


  • 金在博(キム・ジェバク、2007 - 2009)


  • 朴鍾勲(パク・チョンフン、2010 - 2011)


  • 金杞泰(キム・ギテ、2012 - 2014.4.23)


  • 趙啓顕(チョ・ゲェヒョン、2014.4.24 - 5.11)※ 首席コーチのまま指揮を執り監督不在であったが、事実上の監督代行であった。


  • 楊相汶(ヤン・サンムン、2014.5.13 - 2017)


  • 柳仲逸(リュ・ジュンイル、2018 - )



主な退団・引退選手およびコーチング・スタッフ



韓国人選手




金在博(キム・ジェバク、在籍年度1982 - 1991)

元LGツインズ監督(2007 - 2009)

李光殷(イ・グァンウン、在籍年度1982 - 1991)

MBC球団の創設メンバーで球団を代表した強打者。ポジションは主にサード、後にレフトを守ったこともある。
1991年シーズンオフ、若返りを図った球団から金在博とともに引退勧告を受けた時、現役続行を選んで太平洋ドルフィンズに移籍した金在博と違って、引退を引き受けて1992年からコーチに就任。
将来の監督候補のライバルだった金在博はこの件で球団との間に溝が生じて監督として古巣に戻るのに15年が掛かったのに対して、コーチとしてチームに残って2000年シーズン監督に昇格。球団初の生え抜き監督の栄光を手にした。しかし、同年のプレイオフで継投を間違って敗退すると、翌シーズン、開幕から9勝26敗の惨状の責任をとって5月途中で辞任した。現在は母校の延世大学の監督を勤めている。

金尚勲(キム・サンフン、在籍年度1984 - 1993)

MBC時代は「ミスター青龍」と呼ばれ、LGになってからは初代「ミスターLG」の名を冠した好打者。88年.354の高打率で首位打者になる。1993年オフ、韓大化との交換トレードでヘテ・タイガースに移籍した。

金龍洙(キム・ヨンス、在籍年度1985 - 2000)

韓国プロ野球通算最多セーブおよびセーブポイント記録保持者。キャリア序盤は切れ味のあるスライターを武器にして「剃刀」のニックネームをとっていた。入団初年度は平凡な成績に終わったが、翌年抑えに転向すると開花。選手生活の後半はチームの事情によって先発と抑えを行き来しながらも両方で好成績を上げており、最多勝利投手になったこともある。通算成績は126勝89敗227セーブ、防御率2.98。いまだ、チームの通算最多勝利と最多セーブの両方の記録を持っている。佐々木主浩についでアジアで2人目で通算200セーブを突破して、個人通算100勝、200セーブの記録ははアジアではただ一人。この記録はメジャーリーグでも3人しか持っていない。現役時代につけていた背番号41はLGツインズ史上初の永久欠番となった。現役引退後はLGの投手コーチなどをつとめた。2010年5月より中央大学校野球部監督となったが、2012年11月、審判に金銭を渡した嫌疑で韓国アマチュア野球界から3年間の資格停止の処分を受けた。

鄭三欽(チョン・サムフム、在籍年度1985 - 1996)

宣銅烈は大学の同期で大学時代は彼の影に隠れて目立たなかった。プロ入り後、登板機会を得て実力を認められるようになった。しかし、自己主張がつよく、チームの首脳陣と確執を見せる事も多かった。成績も敗戦数が多かったが、チームの戦力が整ってくると勝ち数の方が上回るようになり、ローテーションの柱になる。1996年、球団初の100勝投手になるが、球威の低下によって球団から引退勧告を受ける。結局、この年限りで引退を表明、同球団のコーチに就任。現在は韓國富川(ブチョン)高校野球部の監督を務めている。
キャリア初期の負け数の多さが響いて通算成績は106勝121敗47セーブと負け越した。ハンファの宋津宇(ソン・ジヌ)に抜かれるまでは、韓国プロ野球で通算最多敗戦の記録を持っていた。頭脳派として知られ、研究熱心でもあり、コーチとしてもコンピュターを用いた当時では新しい指導法を導入したりして後輩を育てあげる。このことで、1998年、韓国政府から新知識人に選ばれたこともある。

金兌源(キム・テウォン、在籍年度1986 - 1998)

入団当初は剛速球を放るピッチャーとして毎年期待されながら、度胸不足と制球難で伸び悩んでいた。いわゆる未完の大器の典型のような選手だった。1990年、白仁天監督が赴任して、同監督のスパルタ式トレーニングの下で急速に成長、その年18勝をあげて初優勝に貢献。以後、ローテーションの一角として働いた。1993年、サンバンウル・レイダース戦でノーヒット・ノーランを達成。チーム史上唯一のノーヒット・ノーラン記録者である。


盧燦曄(ノ・チャンヨプ、在籍年度1989 - 1997)

MBC青龍の最後の新人で、1987年のシーズンオフにMBCから指名を受けたが、ソウルオリンピック出場のため、1年遅れて入団。新人の時から打線の主軸になった。鋭いバッティングが持ち味で「剣客」というニックネームがついた。しかし、1993年シーズン、頭を直撃したデッドボールの影響で視力に問題が生じ、その後の成績は降下の一途をたどる。これが引退を早める原因になった。

金東洙(キム・ドンス、在籍年度1990 - 1999)

LGツインズ最初の新人として入団。球団側は支離滅裂としていたMBC時代末期のイメージの払拭のため、彼を球団を代表するスターとして前面に出そうとした。1990年、新人王を獲得でその期待に答えて、韓国球界を代表するキャッチャーに成長する。
1999年シーズンオフ、FA宣言して、三星ライオンズに移籍。その後、SKワイバーンズ、現代ユニコーンズ、ヒーローズと渡り歩き、2009年に引退した。現在はネクセン・ヒーローズのバッテリーコーチを務めている。
2009年現在、韓国プロ野球の野手では現役最年長、ピッチャーを含んでもハンファの宋津宇(ソン・ジヌ)に続いて2番目で、2009年シーズン現役で1軍試合の出場を果たし、野手としては実働20年を記録した最初の選手となった。

宋九洪(ソン・グホン、在籍年度1991 - 1997、2000)

1992年、球団史上初の年間20本塁打を記録して、7位に沈んだチームの中心打者として台頭。この年は、盗塁も20を記録して、俊足巧打のイメージを確立する。翌年の1993年は、リードオフとショートとしてチームを牽引して、3年ぶりのポストシーズン進出に貢献。しかし、1994年シーズンは兵役の問題で全シーズンを欠場、韓国シリーズ優勝の年にはチームと一緒にいられなかった。1995年にチームに復帰。
闘志が前面に出るプレイでファンに愛されたが、柳志炫の入団でサードにコンバートされてからは、守備に精彩を欠いてエラーが続出。1997年のシーズンオフ、ヘテ・タイガースにトレード。サンバンウル・レイダースを経て、2000年シーズン古巣に復帰するが、その年限りで引退。現在はLGツインズの守備コーチを務めている。


韓大化(ハン・デファ、在籍年度1994 - 1995)

詳細は本人の項目を参照。


李尚勲(イ・サンフン、在籍年度1993 - 1997、2002 - 2003)

元中日ドラゴンズ。日本での登録名はサムソン・リー


柳志炫(ユ・ジヒョン、在籍年度1994 - 2004)

ショートとして金在博を彷彿する巧みな守備や俊足巧打、賢いプレーでファンの人気を集めた。1994年の新人王。
2001年のシーズン後の年俸交渉で本人の希望額と球団側の提示額の差を埋めないまま、調停に持っていき、ここで勝利。韓国プロ野球史上初めて、年俸調停で選手が勝利する先例を残す。しかし、ここからこの件を快く思わなかった球団側の冷遇が始まり、出場機会が大幅に減少。野手陣の若返り策に出た球団の方針によって2004年シーズン後半からはほぼコーチ扱いされ、引退か移籍かの選択を迫られる。結局2004年シーズンを終えて正式に引退を表明、2005年シーズンからコーチに就任。2006年シーズンの前は、コーチングスタッフとしてワールドベースボールクラシックに参加。2006年シーズン後退団し、アメリカにコーチ研修に赴く。帰国後LGのコーチに復帰。


金宰炫(キム・ジェヒョン、在籍年度1994 - 2003)

柳志炫、徐容彬とともに1994年の新人旋風の中心の一人。パワーヒッターとしての片鱗を見せ、新人ながら21本塁打を記録。LGツインズとOBベアーズは、広い蚕室球場をホームに持って、1992年になってようやく年間20本塁打を超えた打者を輩出した。こういう状況の中で、高卒間もない新人として年間20ホームランを軽く超えて、長距離砲の候補として期待を集める。しかし、その後は長打力はなかなか成長を見せず、年間20ホームラン以上を記録したのは新人の年を含めて2度しかない。その反面、打率の方は2000年から6年連続3割を記録。
2002年シーズン途中、「大腿骨頭無血性壊死」という奇病を診断され、選手生命の危機に立たされる。しかし、これを承知で韓国シリーズに強行出場、代打で活躍し、ファンに強い印象を残す。手術を経て、無事チームに復帰したものの、それからの活躍の可能性に疑いを持った球団側は再発の場合を想定した裏面契約を迫り、球団に不信感を持つようになる。この件を根にもって、2003年シーズンオフ、FA宣言して、SKワイバーンズに移籍。チームを代表するスター選手に対する球団側の粗末な扱いにファンからの批判の嵐が起こされた。SKでは3度の韓国シリーズ優勝に貢献し、2010年シーズン終了後に引退。2011年は米国のロサンゼルス・ドジャース傘下のA級マイナーリーグに属するグレートレーク・ルーンス、2012年は日本・読売ジャイアンツでコーチ研修を受けた。2013年からスポーツ専門ケーブルテレビ局の解説者になった。


徐容彬(ソ・ヨンビン、在籍年度1994 - 2006)

詳しくは本人の項を参照。2014年より中日ドラゴンズ打撃コーチ補佐。


趙寅成(チョ・インソン、在籍年度1998 - 2011)

2000年ごろから約10年にわたって強肩強打の捕手として活躍した。2006年WBC(ワールドベースボールクラシック)韓国代表。2009年には試合中に観客の前で沈秀昶とマウンド付近で口論し、シーズンの残り試合をすべて2軍で送ったこともあった。2011年オフ、FA(フリーエージェント)を行使しSKワイバーンズに移籍。


朴明桓(パク・ミョンファン、在籍年度2007 - 2012)

2006年オフ、FA(フリーエージェント)で斗山ベアーズから移籍。2007年に10勝をあげた以外は故障で苦しみ1軍での登板数も少なく、大きく期待を裏切り2012年限りで退団。


李大炯(イ・デヒョン、在籍年度2003 - 2013)

2007年から2010年まで4年連続盗塁王の快足の選手。詳しくは本人の項を参照。


李晋暎(イ・ジンヨン、在籍年度2009 - 2015)

詳しくは本人の項を参照。


李炳圭(イ・ビョンギュ、在籍年度1997 - 2006、2010 - 2016)

詳しくは本人の項を参照。


鄭成勲(チョン・ソンフン、在籍年度2009 - 2017)

詳しくは本人の項を参照。


奉重根(ポン・ジュングン、在籍年度2007 - 2018)

詳しくは本人の項を参照。



外国人選手およびコーチングスタッフ




柳高雄(ユ・ゴウン、在籍年度1985-1988)

元中日ドラゴンズ。1983年の張明夫(チャン・ミョンブ、日本名:福士明夫)、1984年の金日融(キム・イリュン、日本名:新浦寿夫)などの活躍に触発された、在日韓国人選手スカウトブームに乗って入団した内野手。しかし、4年の在籍期間中は主に二塁手を務めて、守備はある程度こなしたものの、打撃は期待を下回った。


ジム・テータム(在籍年度2000)

元ヤクルトスワローズ。負傷の為1年限りで退団し、そのまま現役引退。


李一義(イ・イルィ、在籍年度2002-2003)

日本名は吉本一義。1994年から2000年に福岡ダイエーホークスに在籍した在日韓国人選手。ダイエー退団後テストでLGへ入団。2002年は主に代打として72試合に出場したが、翌年はわずか2試合の出場にとどまり、その年限りで退団。


ウィン(在籍年度2004)

韓国での登録名は苗字の方を取って「フタド(후타도)」だった。LGでは開幕4連敗と1勝もあげられないまま、期待に応えられず5月に解雇となった。


レス・ウォーランド(在籍年度2005)

2008年12月17日に横浜ベイスターズがウォーランドの獲得を正式発表した。成績は19試合に登板、4勝10敗1S、防御率5.04。2010年斗山ベアーズと契約し、5年ぶりに韓国プロ野球へ復帰。


バディ・カーライル(在籍年度2006)

シーズン途中の5月に入団。当初は抑えとして期待されていたが、中継ぎに定着し好投。終盤には先発でも起用されたが結果は残せなかった。
成績は32試合に登板、2勝6敗2S、防御率3.25。リリーフでの好投を買われてLG側から契約延長を打診されたが、個人事情で固辞して退団。2007年はアトランタ・ブレーブスとマイナー契約を結んだ。2010年北海道日本ハムファイターズに入団。


ティム・ハリッカラ(在籍年度2007)

サムスンから移籍したが、16試合登板で6勝8敗、防御率5.21と期待に応えられずシーズン途中に退団した。


ペドロ・バルデス(在籍年度2007)

元福岡ダイエーホークス。長打力不足の解消のため主砲として期待され入団し、最初は4番を任されたが、ヒットは安定して打つものの一発に欠けるため次第に3番での起用が増えた。選球眼に優れ四球は多く出塁率は高かったが、年間13本塁打では外国人打者としては迫力不足で、外野の守備範囲も狭かったため1年限りでの退団となった。


ジェイミー・ブラウン(在籍年度2008)

元阪神タイガース。韓国では2006年から2007年まで三星ライオンズに在籍し、2年連続2ケタ勝利を記録。三星を自由契約となったあと、その実績を買われ2008年はLGと契約したが、期待を大きく裏切り1勝5敗、7点台の防御率の成績に終わり、5月で解雇となった。


クリス・オクスプリング(在籍年度2007-2009)

元阪神タイガース。2007年シーズン途中に入団し、右の先発として活躍し2008年には10勝をあげた。しかし2009年はひじ痛で1試合も登板できずにシーズン途中退団となった。


ロベルト・ペタジーニ(在籍年度2008-2009)

元読売ジャイアンツ。2008年から2009年まで4番打者として活躍。2010年福岡ソフトバンクホークスに入団。


エドガー・ゴンザレス(在籍年度2010)

開幕から6連敗と期待に応えられず、5月に解雇された。


岡本真或(在籍年度2010)

2009年埼玉西武ライオンズを自由契約となった後、高橋三千丈コーチの勧めでLGのテストを受け、2010年に選手契約を結び、球団史上初の日本人選手(外国人登録されない在日韓国人を除く)となった。2010年シーズン当初は抑えとして起用され16セーブを記録したが、次第に信頼を失ってしまいこの年限りで退団した。2011年から東北楽天ゴールデンイーグルスでプレーしたが、この年限りで現役を引退した。

高橋三千丈(在籍年度2009-2011)

元中日ドラゴンズ。コーチとして在籍。


ラダメス・リズ(在籍年度2011-2013)

元東北楽天ゴールデンイーグルス。


ベン・ジュキッチ(在籍年度2011-2013)


ジョシュ・ベル(在籍年度2014)


エベレット・ティーフォード(在籍年度2014)


ブラッド・スナイダー(在籍年度2014)


コリー・リオーダン(在籍年度2014)


ジャック・ハナハン(在籍年度2015)


ルーカス・ハレル(在籍年度2015)


デビッド・ハフ(在籍年度2016-2017)

現東京ヤクルトスワローズ。


ジェームズ・ローニー (在籍年度2017)


ヘンリー・ソーサ (在籍年度2015-2018)


アドニス・ガルシア (在籍年度2018)



キーワード



ワールドカップの年と韓国シリーズ


このチームはLGに買収された90年からFIFAワールドカップの年には必ず韓国シリーズに進出するというジンクスがあった。また、前身のMBC青龍時代もワールドカップの年はシリーズまでは行かなくとも、必ずAクラスには入っていて、比較的に好相性を見せていた。


1990年にMBCからLGに買収された同球団だが、それまで低迷が続き、MBCとしての最後の年である89年もシーズンの最後に4連勝して、ロッテを0.5ゲーム差で抜いて辛うじて最下位を免れた。90年に白仁天を監督に迎えたものの、6位であった戦力に大きな補強は見当たらず、当然としてシーズン前の評判は決して高くなかった。LGとして迎えた初めてのシーズンである90年も開幕戦を落として、ほぼ2ヶ月間は最下位に低迷した。


しかし、同年6月の上旬から8連勝をあげてからは、文炳權(ムン・ビョングォン)、金兌源(キム・テウォン)などの若手投手の台頭、それまで抑えだった金龍洙と先発だった鄭三欽の配置転換が功を奏し、勢いに乗ったまま、シーズンの終わりまで上位を維持。レギュラーシーズン最終戦のOBベアース戦でこの年の新人王の金東洙(キム・ドンス)のサヨナラホームランでペナントレースを1位で通過、1983年以来7年ぶりの韓国シリーズ進出を確定した。韓国シリーズでは、ポストシーズンでビングレ、ヘテを連破してあがってきた三星ライオンズを4勝0敗のストレートで初優勝を決めた。


その後、初めて経験する優勝の後遺症でモチベーションの低下、主力選手の故障などが重なって、1991年、1992年はふたたび定位置のBクラスに復帰。1993年再び戦力を回復、夏場までシーズン1位の座を巡ってヘテ・タイガースと熾烈なペナントレースを繰り広げたものの9月から失速。結局シーズンを4位で終え、準プレイオフでは3位のOBベアーズを退いたものの、プレイオフで三星ライオンズに敗退した。そこで、チームはシーズンが終わってチームの顔で「ミスターLG」とまで呼ばれた中心打者の金尚勲をヘテの韓大化と交換する大型トレードを敢行した。


こういう経緯もあって次のワールドカップの年である94年シーズンも開幕前の評判は高くなくダークホース程度の評判であった。しかし、この年はメジャーリーグ式の選手の自律性の尊重と投手分業システムを主張してきた李廣煥監督の野球が定着。それに柳志炫、金宰炫、徐溶彬の3人の新人が1,2,3番に座って、そろって新人王級の活躍を見せると、その3人をトレードで入った4番の韓大化が勝負強いバッティングでホームに帰す攻撃パターン、それに主軸投手たちの復調もあって、シーズン序盤から首位を走り、この年もシーズンを1位で通過、4年ぶりのシリーズ進出を決めると、またプレイオフでハンファ・イーグルスを3勝0敗で下してあがったシリーズ初出場の太平洋ドルフィンズを4勝0敗で下して2度目の優勝を飾る。


その次のワールドカップの年の98年は、前の年韓国シリーズに進出したにもかかわらず、ペナントレースを僅か貯金1という成績で3位で通過、ポストシーズンは準プレイオフから始めるはめになった。ここでシーズン4位のOBベアースを下して、プレイオフでは2位の三星ライオンズを破り、ワールドカップ年のシリーズ進出を決めた。しかし、この年は圧倒的な戦力を誇っていた現代ユニコーズの前に2勝4敗で敗退した。


その後の3年間は不振が続き、特に01年はシーズン始めから35試合で9勝26敗という球団史上最悪のスタートを切り、前の年から采配能力を疑われた李光殷監督を5月途中で解任し、Bクラスチームの再建に実績があった金星根ヘッドコーチを監督に昇格させ、6位でシーズンを終わった。


2002年の前評判も芳しくなく、前半戦はBクラスに低迷していた。しかし、チームはオールスター明けから快進撃を開始、シーズンが終わると前年のチャンピオンの斗山ベアースを抜き、4位で準プレイオフ進出を確保。そこから、準プレイオフでは現代ユニコーンズを2勝0敗で撃破。プレイオフでは名門再建を掲げシーズン前から大量の戦力補強を行ってシーズンを2位で通過した起亜タイガースを最終戦に持ち込む熱闘の末に3勝2敗で制圧、またこの年も韓国シリーズの進出を決めた。しかし、この年もシリーズでは圧倒的な戦力差を克服できず三星ライオンズの前に2勝4敗で敗退、同球団初の韓国シリーズ優勝を献上した。


その後、金星根監督が新しく就任した球団社長との軋轢で解任され、チームは、その後3年連続6位という成績と監督交代を巡る球団フロントの失政が重なって低迷していた。


そんな中で迎えた次のワールドカップの年の2006年は、前の年も例に倣って、このチームがまた前年の不振を振り払ってまた奇跡的な巻き返しを見せられるか注目されたが、2006年のシーズンは開幕から最下位に低迷し、6月には李順喆監督がシーズン途中ながら成績不振の責任を取り辞任、韓国シリーズ進出どころか、球団史上初めての最下位に沈み、このジンクスも途切れた。(前年の2005年まで韓国プロ野球では発足以来、年間を通じて最下位を経験していない球団は三星ライオンズ、とLGツインズの2球団だけだった。)



チームの人気と親会社の名称変更


当初ツインズの親会社はラッキーゴールドスター(韓国ではラッキー金星)グループと呼ばれ、チームの企業名のLGはその頭文字を取ったものだった。しかし1994年、チームが81勝45敗でレギュラーシーズンを制圧する快進撃を見せると、その年の韓国シリーズでもレギュラーシーズン2位でシリーズまであがってきた太平洋ドルフィンスに4勝0敗の圧勝で2度目のリーグ制覇。これはすべてのチームに勝ち越しで優勝した完全優勝であり、チームの人気は絶頂に達した。


これを受けた親会社のラッキーゴールドスターグループは、翌年のシーズン前、チームのこの人気を逃さないように、長すぎて呼びづらかった(もともと韓国語の発音に向いていなかった)グループ名を記憶しやすく呼びやすいようにチーム名のLGに変更することを決定、グループ傘下企業の名前も全部LGの名前に統一させることにした。


韓国プロ野球では、身売りなしで親会社の名前変更によって傘下のプロチームの企業名が変わることはしばしばあっても(例:ビングレ・イーグルス→ハンファ・イーグルス、OBベアース→斗山ベアース)、その逆であるこの例は世界でも例を見つけられない、子会社のプロチームによる親会社や他の系列企業の名前の改名とも言えるものであった。



脚注





外部リンク



  • LGツインズ公式サイト(韓国語)

  • ☆Strike Zone☆LGツインズ







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