苗字帯刀




苗字帯刀(みょうじたいとう)は、江戸時代の身分証明といえる表象。




目次






  • 1 概要


  • 2 参考文献


  • 3 関連項目


  • 4 外部リンク





概要


家名の中でも特に領知の名前に由来し、一種の領主階級であることを示す苗字を公称(私称とは異なる。また源氏などの姓・本姓の名乗りを含む)する事、また武門の証である武具等を腰に帯び、百姓と町人を殺害する権利を持つことを指す。これによって自身が領主階級であり、また一族であることを示した。


豊臣秀吉政権の際の刀狩以後も百姓・町人など非武家階層の者達もまだ一定の武器を保有しており、完全に武装解除された訳ではなかった。その点においては江戸時代も同じであり、装束として脇差等を腰に帯びるなど護身武器の携帯もある程度は認められていた。長刀に関しては制限があり、武士等の身分証明のような権利とされた。苗字については百姓・町人階級にも祖先や家名が存在するが、これを公の場で用いる事を禁止する事で差別化を図った。具体的には宗門人別帳などの公文書への記載が許されず、墓碑銘や過去帳など私的な場合においてのみしか使用が認められなかった。





大隈重信(佐賀藩の藩士、幕末の志士)


苗字帯刀の権利については武家の棟梁たる将軍家(幕府)、その直臣として自治領を持つ旗本(旗本領)、独自に家臣団を抱える各大名家(藩)など、小身の領主を抱える君主階級に決定権があった。藩に苗字を巡る訴訟を起こして藩が裁決を下したという出来事も起きている。佐原の名主であった伊能忠敬は領内においては代々「伊能」姓を許されていたが、領外でこれを名乗ることが出来ず、57歳の時に蝦夷地測量の功績によって江戸幕府から改めて苗字帯刀の許可を得て佐原以外でも「伊能」姓を名乗ることが許されている。また苗字と帯刀の特権は必ずしも一体ではなく、苗字は認められても帯刀は認められない例や苗字は子孫への伝承を許すが、帯刀は授与された当人一代に限った例もある。


また大名・旗本などは、しばしば家柄や功労により領内の有力百姓や町人などにこれを許して武士に近い者として扱ったが、武士身分とまで認められたかどうかとは曖昧な点がある。実際、村役人層や豪商などは町人・百姓身分ながらも苗字帯刀を許される場合があり、逆に郷士などのように在郷武士として苗字帯刀を許されながら農村に住むものとの区別が困難な部分がある。


明治維新後の1870 年(明治3年)に平民苗字許可令が出され平民の苗字の名乗りが公的に許されるようになった。また1876年(明治9年)の廃刀令によって刀を帯びるのは許されなくなり、証明の権利としての苗字帯刀は役割を終えた。



参考文献






  • 岩本由輝「苗字帯刀」『社会科学大事典 17』(鹿島研究所出版会、1974年) ISBN 978-4-306-09168-9


関連項目



  • 刀狩

  • 氏姓制度



外部リンク


  • 名字帯刀御免



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