元号





元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった[1]。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。




目次






  • 1 総説


  • 2 中国


  • 3 日本


    • 3.1 元号制定の条件


    • 3.2 元号の字数


    • 3.3 元号使用の歴史


    • 3.4 最も期間の永い元号と短い元号


    • 3.5 元号使用の現状


      • 3.5.1 切手における元号




    • 3.6 元号と商標


    • 3.7 元号使用の不都合


      • 3.7.1 元号をめぐる事件


      • 3.7.2 コンピュータでの処理




    • 3.8 西暦と元号との変換




  • 4 朝鮮半島


  • 5 ベトナム


  • 6 脚注


    • 6.1 注釈


    • 6.2 出典




  • 7 参考文献


  • 8 関連項目





総説


紀年法のうち、西暦やイスラム紀元、皇紀(神武紀元)などが無限のシステム(紀元)であるのに対して、元号は有限のシステムである。皇帝や王など君主の即位、また治世の途中にも行われる改元によって元年から再度数え直され(リセット)、名称も改められる。元号の元年は「1年目」に当たる。英訳すると、元号は「regnal era name」などとなる。


君主が特定の時代に名前を付ける行為は、君主が空間だけでなく時間まで支配するという思想に基づく。「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた。


元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念は、元号を建てることにより、既存の王朝よりも自らの正統性が優越しているか、少なくとも対等であることを示すことができるという意識を生んだ。そのため、時の王朝に対する反乱勢力はしばしば独自の元号を建てた。また、時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった[注 1]。このように、後世から公認されなかった元号を「私年号」と呼ぶ。


中国王朝の政治制度を受容した周囲の王権は元号制度もともに取り入れているが、これも同様の発想に由来する。中国王朝から見れば、中国王朝を真似て、しかもこれと対等であることを示すために建てられた周辺諸国の元号は、やはり「私年号」であり、使用は許されないものであった。一方で周辺諸国の王権は中国王朝から冊封を受け、周囲の競争勢力に対する自らの正統性の保障としたが、冊封の条件の一つが「正朔を奉ずる」ことであったため、独自元号の使用と冊封は両立しない要素であった。この矛盾の均衡点は中国王朝と冊封国との力関係によって決まる。地理的に近く何度も国土を占領されている朝鮮半島では独自元号が少ないのに対し、地理的に遠く中国王朝との戦争に勝っているベトナムでは1945年まで独自元号が使用されていた。そして、海を隔て、後には冊封すら受けなくなった日本では独自元号が今も使用されている。


元号は漢字2字で表される場合が多く、まれに3字、4字、6字の組み合わせを採ることもあった。最初期には改元の理由にちなんだ具体的な字が選ばれることが多かったが、次第に抽象的な、縁起の良い意味を持つ字の組み合わせを、漢籍古典を典拠にして採用するようになった。日本の場合、採用された字はわずか72字であり[2]、そのうち21字は10回以上用いられている。一番多く使われた文字は「永」で29回、二番目は「天」「元」のそれぞれ27回、4番目は「治」で21回、5番目は「応」で20回である[3]。「平成」の「平」は12回目であり、「成」は元号の漢字として初めて使われた[4]。「昭和」の「昭」は1回「和」は19回、「大正」の「大」は6回「正」は19回、「明治」の「明」は7回使われている[3]


独自の元号が建てられた国家には、以下の項目に挙げる他、柔然、高昌、南詔、大理、渤海がある。また遼、西遼、西夏、金は中国史に入れる解釈もあるが、いずれも独自の文字を創製しており、元号も現在伝えられる漢字ではなく、対応する独自文字で書かれていた。



中国





明で発行された大明通行宝鈔と呼ばれる紙幣。左下に洪武の元号が書かれている。



前漢の武帝の治世・紀元前115年頃に、統治の初年に遡って「建元」という元号が創始されて以降、清まで用いられた。


武帝以前は王や皇帝の即位の年数によって、単に元年・2年とだけ数えられ、新しい王が即位すると改元されて再び元年から数えられる在位紀年法が用いられていた。治世途中での改元は文帝によるものが最初で、改元後は後元年・後2年(景帝は2度改元し、「中」「後」を用いた)とされた。武帝の時、「元」は祥瑞によって決めるべきで、即位の年を「建」、彗星出現の年を「光」、一角獣(麒麟)捕獲の年を「狩」とすることが献策された。これによって「建元」「元光」「元狩」といった元号が作られ、以後、このような漢字名を冠した元号を用いる紀年法が行われるようになった。


中国の元号は、中国王朝の冊封を受けた朝鮮、南詔、渤海、琉球などでもそのまま使われた(南詔、渤海は独自の元号も使用した)。


明の太祖(朱元璋)は、皇帝即位のたびに改元する一世一元の制を制定した。これにより実質的に在位紀年法に戻ったといえるが、紀年数に元号(漢字名)が付されることが異なっている。また元号が皇帝の死後の通称となった。


1911年に辛亥革命によって清が倒れると元号は廃止された。各省政府は当初、革命派の黄帝紀元を用いていたが、これもまた帝王在位による紀年法であり、共和制になじまないという理由で、中華民国建国に際し、1912年を中華民国元年(略して民国元年)とする「民国紀元」が定められた。1916年に袁世凱が帝制(中華帝国)を敷いた時には「洪憲」の元号を建てた。ただし、清室優待条件によって宣統帝溥儀は紫禁城で従来通りの生活が保障されており、宮廷内部では「宣統」元号が引き続き使用されていた。このことが溥儀の「復辟(帝制復活)」への幻想を生んだ。


満州国が1932年に建国すると「大同」と建元し、1934年に溥儀が皇帝に即位すると「康徳」と改元され、1945年の満州国の滅亡で再び元号は廃止された。


中華人民共和国が大陸を制覇すると、「公元」という名称で西暦が採用されるもキログラムが「公斤」と、キロメートルが「公里」と表記されるのと同じで、これは元号ではなく、中国語表記である。一方、中華民国(台湾)では民国紀元が現在に至るまで用いられている。暦学的な厳密さを必要としない局面では、略して「民国」と表し、「宣統」の次の元号として扱われることもある。西暦2018年は、中華民国107年(民国107年)である。



日本



元号を用いた日本独自の紀年法は、西暦に対して和暦(あるいは邦暦)と呼ばれることがある。


日本国内では今日においても西暦と共に広く使用されており、今年(西暦2018年)は平成30年に当たる。



































元号名 期間 年数
通算年日数 天皇名 改元理由
公的 当時
漢字 読み 始期 現在 始期 現在

平成
へいせい 平成元年(1989年)
1月8日

平成30年(2018年)
12月27日
平成元年(1989年)
1月8日

平成30年(2018年)
12月27日
30年

7001290000000000000♠29年353日間
第125代今上天皇
天皇即位
による改元


元号制定の条件


『昭和大礼記録(第一冊)』によると、一木喜徳郎宮内大臣は、漢学者で宮内省図書寮の編修官であった吉田増蔵に「左記の五項の範囲内に於て」元号選定にあたるように命じた[5]



  • 元号は本邦はもとより言うを俟たず、支那、朝鮮、南詔、交趾(ベトナム)等の年号、その帝王、后妃、人臣の諡号、名字等及び宮殿、土地の名称等と重複せざるものなるべきこと。

  • 元号は、国家の一大理想を表徴するに足るものとなるべきこと。

  • 元号は、古典に出拠を有し、その字面は雅馴にして、その意義は深長なるべきこと。

  • 元号は、称呼上、音階調和を要すべきこと。

  • 元号は、その字面簡単平易なるべきこと。


なお歴史的には、「他国でかつて使われた元号等と同じものを用いてはならない」という条件はなかった。例えば徳川家康の命によって用いられた「元和」は、唐の憲宗の年号を用いたものである。近代の「明治」も大理国で用いられた例があり、「大正」もかつてベトナムの莫朝で用いられた(ただし、読みは「たいせい」)。



元号の字数



日本の元号は伝統的に二文字であるが、元号に用いることのできる文字数は明確に制限されていない[注 2]。この例外は聖武天皇・光明皇后の時代から約四半世紀、天平感宝、天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲の5つ(四文字)のみである。




元号使用の歴史




宗福寺にある源清麿の墓。左下に「安政」の元号が刻まれている。




1895年(明治28年)11月8日、
三国干渉の結果となった遼東半島還付条約。日本の「明治」と清の「光緒」、二ヶ国の年号が記されている。


『日本書紀』によれば、大化の改新(645年)の時に「大化」が用いられたのが最初であるとされる。以後、7世紀中後期には断続的に元号が用いられたことが『日本書紀』には書かれている。しかし、当時使われた木簡の分析によると、元号の使用は確認されていない。まだ7世紀後半は、元号よりも干支の使用が主流だったようである。文武天皇5年(701年)に「大宝」と建元し、以降、継続的に元号が用いられることとなった。


山本博文東京大学資料編纂所教授著「元号全247総覧」によると、<暦仁のように、短い元号もあるので、全国に浸透しない元号もあったが、民衆は干支で十二支と十干を組み合わせた60年周期の暦で事足りていて、民衆に元号が浸透したのは江戸時代以降。


平安時代末期、源頼朝は、寿永二年十月宣旨によって朝敵認定を赦免され東国支配権を認められるまで、養和ついで寿永への改元をいずれも認めず、それ以前の治承の年号を使い続けるなど、元号は強い政治性を帯びていた。


南北朝時代には、持明院統(北朝)、大覚寺統(南朝)が独自に元号を制定したため、1331年から1392年まで2つの元号が並存した[6](建武元年、同2年は、南北共通)。


室町時代には、朝廷が元号を定めた新元号を、将軍が「吉書始」と呼ばれる儀式で改元を宣言して、武家の間で使用されるようになった。そのため元号選定には武家の影響力は強いものであった。特に足利3代将軍の義満以降、改元に幕府の影響が強まった。一方で京都の室町幕府と対立した鎌倉府が改元を認めずに反抗するという事態も生じた。また応仁の乱などで朝廷と幕府が乱れると朝廷による改元と幕府の「吉書始」の間が開くようになり、新元号と旧元号が使用される混乱も見られた。


戦国時代末期、織田信長は元亀4年7月、将軍足利義昭を京都から追放した直後に元亀から天正への改元を主導し、織田政権の開始を象徴する出来事となった。


江戸時代に入ると幕府によって出された禁中並公家諸法度第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし。但し重ねて習礼相熟むにおいては、本朝先規の作法たるべき事(中国の元号の中から良いものを選べ。ただし、今後習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである)」とされ、徳川幕府が元号決定に介入することになった。また、改元後の新元号を実際に施行する権限は江戸幕府が有しており、朝廷から連絡を受けた幕府が大名・旗本を集めて改元の事実を告げた日(公達日)より施行されることになっていた。これは朝廷のある京都においても同様であり、朝廷が江戸の幕府に改元の正式な通知をして、幕府が江戸城で諸大名らに公達を行い、江戸から派遣された幕府の使者が京都町奉行に改元の公達を行い、町奉行が改元の町触を行った後で初めて施行されるものとされた。京都の役人や民衆はたとえ改元の事実を知っていても、町触が出される前に新元号を使うことは禁じられていた[7]


戊辰戦争前(慶応以前)には、天皇の交代時以外にも随意に改元(吉事の際の祥瑞改元、大災害や大規模戦乱が発生した時の災異改元など)していた。しかし、戊辰戦争の結果として全国政府の座を奪取した明治政府は、明治に改元した時に一世一元の詔を発布し、明治以後は、現在に至る、新天皇の即位時に改元する「一世一元の制」に変更された。これにより、辛酉改元や甲子改元も廃止された。さらに、1872年(明治5年)には、西洋に合わせて太陽暦(グレゴリオ暦)へと移行することになり、「旧暦(太陰太陽暦)に代わる暦として永久にこれを採用する」との太政官布告により採用された[8](詳細は「グレゴリオ暦#日本におけるグレゴリオ暦導入」を参照)。それに伴い、元号や干支、神武天皇即位紀元(皇紀、神武暦)[注 3]に加えて、キリスト紀元(西暦、西紀)の使用も始まったが、第二次世界大戦時には西暦はむしろ敵性語扱いされた節もあった。その後、太陽暦に移行しても、1910年代までは旧来の太陰太陽暦(天保暦)での暦が併記されていたように、年数を数えるにおいて民衆には浸透しづらかった側面もある。


第二次世界大戦敗戦後に、日本国憲法制定に伴う皇室典範の改正をもって、元号の法的根拠は一時消失した。しかし、官民を問わず「昭和」の元号が使用され続けた。だが、第二次世界大戦終結の翌年に当たる1946年(昭和21年)1月には、尾崎行雄が衆議院議長に改元の意見書を提出した。この意見書において、尾崎は、第二次世界大戦で敗れた1945年(昭和20年)限りで「昭和」の元号を廃止して、1946年(昭和21年)をもって「新日本」の元年として、1946年(昭和21年)以後は無限の「新日本N年」の表記を用いるべきだと主張した。これに対して、石橋湛山は、『東洋経済新報』1946年(昭和21年)1月12日号のコラム「顕正義」において、元号の廃止と西暦の使用を主張した。1950年(昭和25年)2月下旬になると、参議院で「元号の廃止」が議題に上がった。ここで東京大学教授の坂本太郎は、元号の使用は「独立国の象徴」であり、「西暦の何世紀というような機械的な時代の区画などよりは、遙かに意義の深いものを持って」いる上、更に「大化の改新であるとか建武中興であるとか明治維新」という名称をなし、「日本歴史、日本文化と緊密に結合し」ていることは今後も同様であるため、便利な元号を「廃止する必要は全然認められない」一方で「存続しなければならん意義が沢山に存在する」と熱弁をふるった[9]


1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発すると、元号の議題は棚上げされた。以来、元号の廃止や新たな元号に関する議論は低調にとどまり、現在に至るまで元号と西暦の双方が使用され続けている。一方で、皇紀(神武天皇即位紀元)に関しては(文化的な場での使用を除き)公文書でも使用されなくなった。


その後、論争を経て1979年(昭和54年)に元号法が制定された。これは昭和天皇の高齢化と、1976年(昭和51年)当時の世論調査で国民の87.5%が元号を使用している実態[10]に鑑みたものである。元号法では「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と定められ、明治以来の「一世一元の制」が維持された。ここで再び元号の法的根拠が生まれ、現在に至っている。



最も期間の永い元号と短い元号


最も期間の永い元号は昭和の62年と14日。最も期間の短い元号は暦仁の2か月と14日である。



元号使用の現状


日本において、元号は元号法によってその存在が定義されており、法的根拠があるが、その使用に関しては基本的に各々の自由で、私文書などで使用しなくても罰条などはない。一方で、西暦には元号法のような法律による何かしらの規定は存在しない (法令以外では日本工業規格[注 4]に見られるような公的な定義例がある)。 なお、元号法制定にかかる国会審議で「元号法は、その使用を国民に義務付けるものではない」との政府答弁があり[注 5]、法制定後、多くの役所で国民に元号の使用を強制しないよう注意を喚起する通達が出されている。また、元号法は「元号は政令で定める事」「元号は皇位の継承があった場合に限り改める事(一世一元の制)」を定めているにすぎず、公文書などにおいて元号の使用を規定するものではない。しかしながら、公文書の書式においては生年などを記載する際、西暦を選択しまたは記載するためのスペースはほとんど設けられていない。そのため、日本共産党などは、事実上西暦が否定されており「元号を使わなければ受理しないなど、元号の使用が強制されているのは不当」であると主張している[11]。同様に、キリスト教原理主義者団体などは「元号の使用を強制し西暦の使用を禁止するのは、天皇を支持するか否かを調べる現代の踏み絵である」と主張している[12]


国(日本国政府)、地方公共団体などの公文書ではほとんど元号が用いられる。ただしウェブサイトについては本文は元号を使用していても最終更新日やファイル名などは西暦を使用していることもある。また、官公庁の中長期計画の名称など、キャッチフレーズとして年を印象付けさせる場合は西暦が用いられることが多い[13][14]。国において西暦が使用されている具体例には以下のものがある。



  • 2002年(平成14年)制定の気象測器検定規則(平成14年3月26日国土交通省令第25号)に定められた気象機器の検定証印の年表示[注 6]1951年(昭和26年)制定の乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年12月27日厚生省令第52号)に定められた食品の賞味期限表示の一部[要出典]などは、西暦を使用するよう規定した法令も少数ながら存在する。


  • 旅券(パスポート)は日本国外でも用いられるため、名義人の生年が西暦で記載されている。


  • 住民基本台帳カードや個人番号カード(マイナンバーカード)は、有効期限が西暦で、生年月日が元号で表記されている。一方で、都道府県公安委員会が発行する運転免許証は所持者の生年月日、交付年月日、有効期限年月日、各3種類(自動二輪車・小型特殊自動車・原動機付自転車、その他、第二種)の免許取得年月日の全てが元号のみで表記されている。なお、2018年(平成30年)8月6日から同年9月4日まで、運転免許証の有効期限年を西暦表記に変更するための表示の見直し等の「道路交通法施行規則の一部を改正する内閣府令案」に係るパブリックコメントが実施された[16]


  • 特許庁が発行する公開特許公報等の工業所有権公報は、「平成22年1月1日(2010.1.1)」の形で元号表記と西暦表記の日付を併記している[17]。また、特許の出願番号等も「特許2000-123456」のように「西暦年+6桁の通番」の形式とされている[18]。これは、日本以外での利用を考慮したためで、世界知的所有権機関が定める標準に準じて行われている[19]


  • 2018年(平成30年)3月30日の改正により、計量法に基づく計量法施行規則(平成5年通商産業省令第69号)第15条に規定する修理年、並びに食品店等の質量計、燃料油メーター、タクシーメーター等が対象である特定計量器検定検査規則(平成5年通商産業省令第70号)第28条の3及び第56条に定める検定証印の年表示を西暦に限定した。但し2018年12月31日までは経過措置として従前の元号表示も可としている[20]


  • 食品表示法に基づく食品表示基準(平成27年内閣府令第10号)に係る通知「食品表示基準について」(平成30年7月10日消食表第375号)の「(加工食品)」1-(3)-⑤に定める消費期限又は賞味期限表示例では元号との選択可として西暦の表示例も明記されている[21]


  • 2018年(平成30年)6月15日に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針2018」(骨太方針)において、表紙の日付、「平成n年度税制改正」等の名称中に含まれるもの、及び脚注の出典制定日、を除外すると、64ページの「平成31年」1箇所を除き、過去未来共に西暦のみの表記となっている[22]





運転免許証に見る元号の使用例


日本国内において西暦の併用が増加したのは、1964年(昭和39年)の東京夏季オリンピックに向けてのキャンペーンを経た後である。皇室典範改正により元号が法的根拠を失った後も、東京オリンピックのキャンペーンが始まる前までは、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効に伴う独立・主権回復以後も、米国による統治下に置かれ日本から切り離された沖縄と小笠原諸島、千島列島を除き、前述の背景により元号のみが常用されていた。とはいえ、1976年(昭和51年)に行われた元号に関する世論調査では、「国民の87.5%が元号を主に使用している」と回答しており、「併用」は7.1%、「西暦のみを使用」はわずか2.5%であった。元号が昭和から平成に変わると、「西暦を併用する人」「西暦を主に使用する人」も次第に多くなってきた。殊に21世紀に入った今日ではインターネットの普及などもあり、日常において「元号より西暦が主に使用されるケース」は格段に増えているため、元号では「今年が何年なのか判らない」「過去の出来事の把握が難しい」という人の割合も多くなってきている[23]


報道機関では『朝日新聞』が1976年(昭和51年)1月1日に、『毎日新聞』が1978年(昭和53年)1月1日に、『読売新聞』が1988年(昭和63年)1月1日に、『日本経済新聞』が1988年(昭和63年)9月23日に、『中日新聞』『東京新聞』が1988年(昭和63年)12月1日に、日付欄の表記を「元号(西暦)」から「西暦(元号)」に改めた。それでも昭和年間の末期には、未来の予測(会計年度など)を「(昭和)70年度末」といった表記をすることが多かった。1989年(平成元年)1月8日の平成改元以降、その他の各報道機関も本文中は原則として西暦記載、日付欄は「2012年(平成24年)」の様に「西暦(元号)」という順番の記載を行うところが多くなった。『産経新聞』[注 7]や『東京スポーツ』、一部の地方紙[注 8]、NHKの国内ニュースのように本文中は原則元号記載、日付欄は「平成29年(2017年)」の様に「元号(西暦)」という順番の記載を行っている報道機関もある。日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』は平成改元以降、日付欄の元号併記を取りやめ西暦表記のみに変更していたが、2017年(平成29年)4月1日より元号を併記する「西暦(元号)」表記に改めた(本文中は引き続き西暦表記のみ)[24][25][26]


鉄道などの乗車券や金融機関の預金通帳なども、以前は元号(の年部分表記)が主流であったが、2019年の改元を前に、西暦表記に改める動きもみられる[27][28]



切手における元号


日本で発行されている切手には元号および西暦で発行年が記載されている。ただし歴史的にみれば大きな変遷がある。なお、記念切手には万国郵便連合(UPU)によって原則として西暦で発行年を入れるように規定されている。


日本の切手で発行年が入るものに記念切手があるが、記念切手の印面に戦前までは元号が入る場合と全くない場合が混在していた。ただし国立公園切手の小型シートには皇紀(西暦)とアラビア数字で記入されたものがある。戦後、発行された記念切手には「昭和二十二年」といったように漢数字で表記されていたが、経緯は不明であるが1949年(昭和24年)頃から西暦のみで表記されるようになった。ただし、年賀切手の中に一部例外があるほか、皇室の慶事に関する記念切手は元号のみの表示の場合があった。また年賀小型シートなどには「お年玉郵便切手昭和三十一年」といった元号による表記があるほか、切手シートの余白には元号で発行年月日が入っていたが、1960年(昭和35年)頃からなくなった。


1979年(昭和54年)に施行された元号法による政策のためか、1979年(昭和54年)7月14日に発行された「検疫制度100年記念切手」から西暦と元号で併記されるようになった。ただし理由は不明だが、毎年発行される国際文通週間記念切手のみは西暦しか表記されていない。また切手シートの余白に1995年(平成7年)頃から「H10.7.23」というローマ字による発行年月日が、さらに2000年(平成12年)からは「平成12年7月23日」という元号表記が入るようになった。


なお、世界的に見ると切手に記入される年号としては西暦のほかには仏滅紀元、イスラム暦、北朝鮮の主体暦、中華民国(台湾)の民国紀元などがある




元号と商標


日本においては、元号としてのみ認識される商標(例えば「平成」)は、識別力がないとされ商標登録を受けることはできない。また、元号と普通名称等の識別力のない文字(例えば饅頭についての「まんじゅう」)とを組み合わせた商標(例えば「平成まんじゅう」)等も、同様に商標登録を受けることはできない。


ただし、その商標を使用し続けたことによって、識別力が生じた場合(例えば「平成まんじゅう」という商標を長年使い続けた結果、だれもが「平成まんじゅう」といえばその饅頭のことだと分かるようになった場合)には商標登録される場合もある[29]としており、実際に食品会社の「明治[30]」や「大正製薬[31]」は商標登録されている。


商標登録できないのは現元号に限られ、改元された後の旧元号は商標登録できる(例えば改元後には「平成」も商標登録できる)との報道もある[32][33]が、特許庁では旧元号も現行の元号と同様に取り扱われるとしており、その明確化のために基準の改訂を検討しており[29]、2019年2月からの実施を目指している[34]



元号使用の不都合



以下の理由から西暦を使用する者や西暦を使用せざるを得ない者、または元号自体に否定的な姿勢を示す者もいる。



  • 西暦には終わりがなく、紀年数は常に変わらないが、元号には終わりがあり、いつかは変更される。明治維新前は大事件や政権を担う征夷大将軍の都合などで幾度と変更され、明治維新後は新天皇の即位(天皇の崩御または生前退位による次期皇位継承者への譲位)によって変更されている。このため、例えば「平成100年」(西暦2088年)のような遠い未来の紀年を正確に表現できない[注 9]

  • 印字コストあるいは記載スペース等の都合で元号名を省略して年数字だけを表記する様式があるが、短い間隔(数年も有りうる)で改元が続いた場合、これらの書類は年の特定が困難になる。一方、相当する下2桁のみの省略形式の西暦では長期的考慮が不要な用途ならば問題ない。

  • 元年より前の過去を表現する場合、西暦では「紀元前N年」という形で表現できるが、元号には「紀元前」の概念が設けられていない。このため、例えば「明治前28年」(西暦1840年。実際は天保11年)という過去の紀年を正確に表現できない。そして、元号そのものが施行される前の過去は、もはや表現できない。

  • 日本独自の紀年であり、国外では通用しないため、外国人には理解されにくい。日本国内でも、元号ではなく西暦で時期を覚えている人には、同様の問題が生じる[40]

  • 西暦では1年に対する紀年数が常に1対1の関係にあるのに対し、日本の元号制度では「立年改元」ではなく「即日改元」を採用しているため、1つの西暦年に対して複数の元号(1860年=安政7年・万延元年。1912年=明治45年・大正元年、1926年=大正15年・昭和元年、1989年=昭和64年・平成元年)が混在する例や、翌月が新しい元号の「元年」ではなく「2年」になる例が発生する。
    • 過去の日本では、749年に、天平→天平感宝→天平勝宝と、3つの元号が混在した例がある。また、大正15年(西暦1926年)12月10日の1ヶ月後の日付は、昭和2年(西暦1927年)1月10日である。明治以後の現在は一世一元の改元であり、年に3代の天皇が即位する可能性は極めて低いが、当該事項のように複数の元号を充てる必要が発生した場合、大きな混乱が予想される。これらは特に、コンピュータで年を扱う際の事務処理や変換のアルゴリズムが煩雑になる(「昭和100年問題」のような年問題も発生させている。後述)。


  • 元号が変更される度に、各種印刷物記載の旧元号を新元号に修正する作業のための、余計な時間と費用を発生させる。また修正が困難である(一度公に出回ったもので回収や再配布にコストがかかるもの)か修正に時間がかかる[注 10]ため、古い元号の使用を続けざるを得ないケースがあり、混乱のもととなる。

  • 元号が異なる2つの年の前後関係を判別するには、元号の順序を記憶していなければならない。また、元号が異なる2つの年の間隔を計算するには、西暦などの無限の紀年法に換算するか、元号の継続年を知っていなければならない(例:明治30年から平成10年まで何年離れているか、というような年数を数えにくい)。特に「和暦表記のみ」と「西暦表記のみ」が混在する場合はさらに混乱しやすい(例:昭和58年から1996年まで何年離れているか、など)。


  • 年度の区切りが改元の区切りと一致せず、改元後年度の終了日までの呼称は旧元号による(例えば平成元年3月31日は昭和63年度に属する)ため、混乱を生じやすい。

  • 元号が不定期に変更されるため、時代の流れを切断し、世界史の中における日本史についての認識を誤らせる。


  • コンピュータにおけるファイル名の先頭部分に元号を用いた場合、単純に文字コードの順序で並べると、利用者の意図しない順序になり、混乱を招くおそれがある。


例:「元治→慶応→明治→大正→昭和→平成」の順序にすべきところが、「慶応→元治→昭和→大正→平成→明治」の順序になる(文字コード「シフトJIS」の昇順で並べた場合)。


元号をめぐる事件



  • 「大正16年元旦」(1927年1月1日)に配達される予定であった年賀郵便には「(大正)16年1月1日」の日付印が押印されていたが、1926年(大正15年・昭和元年)末の12月25日に大正天皇が崩御したため、年賀郵便の取扱いそのものが中止になった。ただし、それまでに引き受けていた年賀郵便は年が明けて配達された。訂正の意味で「(昭和)2年1月1日」の日付印が押印されていたものもある。

  • 大正から昭和へ改元される際、『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)が新しい元号を「光文」との誤報を流した(詳細は「光文事件」を参照)。

  • 盗難預金通帳を偽造された保険証で本人確認をして銀行が払い戻しをした過失に対する民事訴訟で、銀行側が保険証の生年月日が「昭和元年6月1日」という存在しない日付(上記のとおり、昭和元年は12月25日からの1週間しかない)なのに気が付かなかった過失があるとして敗訴した事例[41]がある。



コンピュータでの処理


元号を採用している日本においても、コンピュータでは元号よりも西暦による処理の方が次の点において便宜であるとされる。



  • 元号では改元される毎に新元号に換算する処理を追加する必要があるが、西暦ではそれが不要である。ただし、アプリケーションによっては、コンピュータの内部処理として特定の日付を基準とした。例えばExcelでは1900年(明治33年)1月1日を基準日とする。シリアル値で管理しているので、西暦であっても基準日以前を使用する場合は別途計算処理が必要となる。

  • 西暦を使用する外国の情報を利用する際に、元号で表記するには西暦から和暦に換算する処理が必要となる。


  • オペレーティングシステムの大半は、ファイル作成日付に見られるように西暦を使用している。

  • 「㍾」「㍽」「㍼」「㍻」「㋿」については合字が準備されているが、それ以前以後は無い。


これらの点から、日本でもコンピュータでの処理に際しては内部で西暦を用いているが、ほとんど全ての公文書(前述の通り西暦が用いられているものも存在している)では元号を使用することを始め、一般にも書類事務は元号を用いるというニーズが根強いため、表示や入力に際しては元号を使用できるアプリケーションが多い。これは、特に使用者を限定せず多様な用途が想定されているオフィススイートに顕著である(ExcelやOpenOffice.orgなど多種)。


なお、昭和年間に使用されていたアプリケーションの中には、年を「昭和○○年」として入力し、処理されているものがある。平成以降も、内部的に昭和の続きとして扱うため、1989年(平成元年=昭和64年)、1990年(平成2年=昭和65年)、1991年(平成3年=昭和66年)…として処理される。しかし、3桁になる2025年(平成37年=昭和100年)に誤作動が起きる可能性(昭和100年問題)が懸念されている。


Excel 98以前は、2桁で入力した場合は元号優先で処理していた。例えば、「08.03.01」と入力した場合、Excel 98以前のバージョンでは「平成8年(1996年)3月1日」と処理されていた(詳細は「Microsoft Excel#日付の変換問題」を参照)。なお、Excel 2000以降のバージョンでは西暦(この場合、「2008年(平成20年)3月1日」)で処理されるようになっている。



西暦と元号との変換



西暦年から元号年を簡易に計算する方法として、知りたい年の西暦の紀年数から各元号の元年の前年(0年)の西暦を引いて元号の紀年数を算出する方法がある(逆に、加えると西暦が算出できる)。減算は、下2桁同士でもよい。




  • 1867年=慶応3年=明治0年

    • 1878年:78-67=明治11年

    • 明治11年:1867+11=1878年

    • 1967年:1967-1867=明治100年


    「明治100年」の式典は 1968年(昭和43年)の10月23日に行われた。



  • 1911年=明治44年=大正0年
    • 1919年:19-11=大正 8年



  • 1925年=大正14年=昭和0年

    • 1947年:47-25=昭和22年

    • 昭和63年:1925+63=1988年


    昭和は西暦と下1桁が5ずれているので、比較的数えやすい。



  • 1988年=昭和63年=平成0年

    • 1990年:90-88=平成2年

    • 1999年:99-88=平成11年

    • 2008年:108-88=平成20年


    西暦に12を足して下二桁を読むことで、平成年を算出することもできる。




朝鮮半島




「韓国併合ニ関スル条約」に関する李完用への全権委任状。左に純宗の署名「」と共に「隆熙」の元号が記されている。



朝鮮半島では三国時代の高句麗の広開土王が西暦391年に「永楽」という独自元号を使ったという記録が最古のものであり、その後も複数の元号を使った史料がある。


新羅でも650年までは独自の元号が用いられていた。高麗も第4代の光宗までは独自の元号が用いられたが、その後は中国の元号を用いた。李氏朝鮮では中国の元号を初めから用いたが、清に征服されその冊封を受けた後も、内心ではなおその正統性を認めずに国内文書では干支と国王の在位紀年が用いられ、また一部では明の崇禎の元号を用い続けた(崇禎紀元)他、近代に入ると太祖李成桂が即位した1392年を元年とする「開国紀元」の使用が見られるようになった。日清戦争により清の影響下から離れると「開国紀元」が公用化され、次いで1896年のグレゴリオ暦採用に伴い「建陽」の元号を建てた。1897年の大韓帝国成立後は一世一元の制を採用して「光武」「隆熙」の元号が定められ、1910年の韓国併合で廃止された。日本に併合されていた期間には日本の元号が西暦と併せて用いられた。


独立後、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は西暦を公式の紀年法としていたが、1997年9月9日、金日成の生年である1912年を元年とする「主体紀元」(主体暦)の採用を宣言し、西暦と併用している。西暦2018年は、主体暦107年である。


大韓民国では、建国当初の一時期(1948年8月15日 - 9月24日)上海に大韓民国臨時政府が樹立された1919年を元年とする大韓民国紀元(元号ではない紀元)を公式の紀年法としていたが、その後李承晩政権時代には神話上最初の君主とされる檀君が即位した紀元前2333年を元年とする檀君紀元(檀紀)を採用した。1962年からは西暦に切り替えたが、その後も非公式に檀紀が使われることがある。これも主体紀元と同様に元号ではなく、紀元である。西暦2018年は、檀紀4351年である。



ベトナム



ベトナムでは、中国から独立した970年、時の丁朝が太平の元号を制定して以来独自の年号が使われ、1945年の阮朝滅亡まで続いた。阮朝は一世一元の制を採用したが、それ以前も陳朝期以降は在位中の改元が少ない。


19世紀後半にフランス植民地支配が始まると、新たに公用文となったフランス語文書で元号が使われることはなく、次いで広まったクォックグー(ベトナム語のローマ字表記)でも同様であり、元号の認知度は次第に低下した。1945年にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム民主共和国(1945年 - 1976年)の成立に伴い君主制が廃止されると、元号も全廃され、公用年号は西暦に統一された。しかし、1976年までの旧北ベトナムにおいて、寺社などの建築物の棟札・扁額や祈祷文などに見られる漢字テクストの中には1945年を元年とする「越南民主共和」と干支を非公式に使用した例があり、また、1946年発行の2ドン(đồng)銅貨にも西暦とともに1945年を元年としたnam II(2年)という表示がある。1976年以後も「共和社会主義越南」の使用例が同様に存在する(「共和社会主義越南」元年は「越南民主共和」元年と同じ1945年である)。また、同様に旧南ベトナムの寺社においても「越南共和」(ベトナム共和国:1955年 - 1975年)を非公式の紀年法として使用した例がある。



脚注


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注釈





  1. ^ このほか、日本では室町幕府と対立した古河公方足利成氏が改元を無視して以前の元号を使い続けたという例もある。ただし改元詔書を室町幕府方の関東管領上杉氏のみに下したとの説もある。詳細は「享徳」を参照。


  2. ^ 元号法に定める元号の選定について、第1次大平内閣が具体的な要領を定めている(昭和54年10月23日閣議報告)。この要領では留意すべきことの一つとして「漢字2文字であること」としている。


  3. ^ 1840年代から1860年代にかけては、藤田東湖など国学者が皇紀を用いていた。


  4. ^ 情報における日時データ形式を規定する JIS X 0301 においては国際規格 ISO 8601 に準じて、西暦年をメートル条約の調印年を「1875」年としてこの起点から年の値を増減両方向に定義する紀年法として定めている。


  5. ^ 元号法案(趣旨説明)での答弁(参議院会議録情報 第087回国会 本会議 第13号、1979年(昭和54年)4月27日)を以下に抜粋する。

    • 国務大臣(三原朝雄君):(中略)次に、本法案が制定をされた後において、公の機関の手続あるいは届け出等において強制的な措置がとられるのではないか、現在でもそういうのが見られるがという御指摘でございました。御承知のように、私ども、本法案が制定されますれば、公的な機関の手続なりあるいは届け出等に対しましては、行政の統一的な事務処理上ひとつ元号でお届けを願いたいという協力方はお願いをいたします。しかし、たって自分は西暦でいきたいという方につきましては、今日までと同様に、併用で、自由な立場で届け出を願ってもこれを受理すると、そういう考えでおるわけでございます。

    • 国務大臣(古井喜実君):法務に関する部分についてお答えを申し上げます。従来、戸籍などの諸届けの用紙に、不動文字で「昭和」と、こういうことを刷り込んでおることは事実でございます。これは申請者に便宜を与える、便宜を図るというだけの趣旨のものでございまして、強制するとか拘束するとかという趣旨ではございません。新しい元号法が施行されるといたしまして、その場合、この辺につきましては誤解が起こらぬように、強制する、拘束するものではないという趣旨を十分徹底して、行き違いがないようにいたしたいと思っております。

    • 国務大臣(渋谷直蔵君):私に対する質問は二問ございますが、一つは、ただいま法務大臣からも御答弁がありましたように、市町村における戸籍上の届け出、住民登録、印鑑登録など、現在法的根拠がないにもかかわらず強制しておるのではないかと、こういう御質問でございます。現在の住民基本台帳、それから印鑑登録のそれらの様式は、いずれもこれは市町村が自主的な判断で定めておるわけでございますが、一般に元号が使用されておりますけれども、これはもう御承知のように、従来からの慣行によって行われ、協力を求めておる、強制するというものでないことは言うまでもございません。このことによって別に不都合なことは生じておらないと考えております。




  6. ^ 13条2項で、検定証印の数字を「西暦年数の十位以下を表すものとする」と定めている[15]


  7. ^ 産業経済新聞社が発行する産経新聞は国内の記事に関して一貫して元号表記のみを行っており、同社が発行する『サンケイスポーツ』も原則元号表記のみとなっている(ただし、産経新聞の記事を配信するウェブサイト「産経ニュース」では、トップページの今日の日付は「2010(平成22)年04月04日」、個々の記事タイトルの下にある配信日時は「2010.4.4 02:04」、記事の本文中では「平成22年」のように不統一が見受けられる)。また同社が発行する新聞では夕刊フジもかつては同様であったが、2007年(平成19年)2月1日より原則西暦表記に変更している。さらに、同社が発行するタブロイド版日刊紙『SANKEI EXPRESS』は西暦を主に使用するなど、新聞によって方針が異なっている。


  8. ^ 『河北新報』『静岡新聞』『熊本日日新聞』など。


  9. ^ 昭和年間には、行政庁の政策計画に「昭和7n年」(昭和70年代)なるものまで存在した例や、荒俣宏の小説『帝都物語』に「昭和73年」(1998年、実際の元号は平成10年)の用例がある。また、運転免許証の有効年月日が「昭和66年」(当時は3年有効のみ)という存在しなくなった年度のものを使用していた者も当時は少なくなかった。より極端な例では「昭和230年」(西暦2155年)と表記したものも見られた[35]。2018年現在においても、例えば復興特別所得税が「平成49年」(西暦2037年)まで徴収されるという表記が見られる[36]ほか、公文書の保存期限に「平成61年」などという表記も行われている例もある[37]。なお、平成3桁の年では、「平成122年」(西暦2110年)[38]、「平成222年」(西暦2210年)[39]などという表記が見られるものの、昭和230年などの例と異なり、西暦を併記している場合がほとんどである。


  10. ^ 1989年に発行された硬貨がこの例に当てはまる。昭和天皇が逝去した直後も、「平成元年」の金型ができ上がるまでの期間は、刻印の製作が完了していなかった50円と100円硬貨以外の額面の硬貨は「昭和64年」の刻印で発行された。また平成最初の日である1989年1月8日が日曜日であり、新聞社によってはあらかじめ印刷されていた日曜版を後日配達したため、その日付けが「昭和64年1月8日」という存在しない日になった。




出典





  1. ^ 所功、久禮旦雄、吉野健一郎『元号 年号から読み解く日本史』(文春新書)


  2. ^ 香川県立図書館(2110006) 香調-1315 レファレンス協同データベース(元号の千三百余年 文字は全部で72種〜縁起物…改元たびたび 朝日新聞、1989年1月8日)

  3. ^ ab『朝日新聞』1989年(昭和64年)1月7日号外(『昭和から平成へ : その日の朝日新聞 特別縮刷版』 朝日新聞社、1989年。ISBN 4022584556。所収)


  4. ^ 『朝日新聞』1989年(平成元年)1月8日14版第3面(『昭和から平成へ : その日の朝日新聞 特別縮刷版』 朝日新聞社、1989年。ISBN 4022584556。所収)


  5. ^ 猪瀬直樹 『日本の近代 猪瀬直樹著作集10 天皇の影法師』 小学館、2002年、162頁。ISBN ISBN 4-09-394240-4{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。


  6. ^ 『アラサーの平成ちゃん日本人だから知りたい日本史を学ぶ』101頁。著者はもぐら。発行所は竹書房。2015年4月2日発行。


  7. ^ 久保貴子「改元にみる朝幕関係」『近世の朝廷運営-朝幕関係の展開-』(岩田書院、1998年) ISBN 4-87294-115-2 P241-242


  8. ^ 改暦ノ詔書並太陽暦頒布(明治5年11月9日太政官布告第337号) 改暦詔書の全文


  9. ^ 「日本の年号の一考察―平成の改元を中心に―」王福順(2007年9月)


  10. ^ 「元号に関する世論調査」


  11. ^ 「元号にかんする考え方は?(1999年11月6日)、日本共産党が西暦を使うのは?(2001年12月16日)」日本共産党中央委員会


  12. ^ 信教の自由を守る日 日本キリスト改革派横浜中央教会2012年5月2日


  13. ^ 愛知県政策企画局企画課 (2015年4月23日). “愛知県の長期計画の歴史について”. 2018年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月21日閲覧。


  14. ^ 愛知県政策企画局企画課 (2015年4月23日). “愛知県の長期計画の推移と概要 (pdf)”. 2018年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月21日閲覧。


  15. ^ 気象測器検定規則 e-Gov


  16. ^ パブリックコメント 2018年9月18日閲覧(案件番号120170033を入力して検索)。


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  18. ^ 産業財産権制度125周年記念誌~産業財産権制度この15年の歩み~ 第4章 20年を迎えた世界初の電子出願、更なるIT化の進展 第2節 国際標準化への対応 (PDF)”. 特許庁. 2018年7月2日閲覧。


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  20. ^ 政省令等の改正履歴ページ中の特定計量器検定検査規則の一部を改正する省令(新旧対照表) 2018年9月1日閲覧(尚2018年9月18日現在、e-Govには反映されていません)。


  21. ^ 食品表示法等(法令及び一元化情報)ページ中の「食品表示基準について」の「本体」、2018年9月25日閲覧(pdf自体のURLは改版により変化しリンク切れになるため記載できません)。


  22. ^ 経済財政運営と改革の基本方針2018~少子高齢化の克服による持続的な成長経路の実現~ 2018年9月1日閲覧。


  23. ^ 新元号誕生でさらに混乱が? 今が平成何年かわからなくなる人たち(しらべぇ 2018年2月10日)


  24. ^ 共産党機関紙「赤旗」が元号を併記 28年ぶりに復活 「読者の便宜考えた…」(産経ニュース 2017年4月1日)


  25. ^ しんぶん赤旗 元号復活…28年ぶり、1日付紙面から(毎日新聞 2017年4月1日)


  26. ^ 「赤旗」28年ぶりに元号掲載 編集部には抗議も(朝日新聞デジタル 2017年4月1日)


  27. ^ “鉄道の切符を西暦表記に 本紙調査、改元で中部16事業者”. 中日新聞 (中日新聞社). (2018年3月20日). オリジナルの2018年3月20日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180320132238/http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2018032002000065.html 2018年3月20日閲覧。 


  28. ^ みずほ銀行 (2018年2月15日). “新システムへの移行に関するご案内 みずほ銀行のお客さまへ”. 2018年3月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月20日閲覧。 - Q7・A7に、通帳・入金帳の年表記を和暦から西暦に変更する内容がある。

  29. ^ ab“元号に関する商標の取扱いについて”. 特許庁. 2018年8月28日閲覧。


  30. ^ “商標登録0496702”. 特許情報プラットフォーム. 工業所有権情報・研修館. 2018年8月28日閲覧。


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  36. ^ 国税庁 (2018年). “復興特別所得税関係(源泉徴収関係)”. 2018年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月15日閲覧。


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  38. ^ 国立社会保障・人口問題研究所 (2012年1月30日). “日本の将来推計人口(平成24年1月推計)”. 2018年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月15日閲覧。 - 参考推計に“平成73(2061)年 - 平成122(2110)年”とある。


  39. ^ 秋田県鹿角郡小坂町 (2016年6月14日). “小坂町人口ビジョン (pdf)”. 2018年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月15日閲覧。 - 35ページ(図表37)に「平成222年(2210年)」などの表記が見られる。


  40. ^ 若者の被告が相手の裁判 「元号」で検事困る[リンク切れ]


  41. ^ 「昭和元年6月1日」ひよっこ支部長の司法書士ブログ(BLOG)、2005年2月23日




参考文献




  • 所功 『日本の年号 揺れ動く<元号>問題の原点』雄山閣、1977年、ISBN 4639002378
    • 続刊『年号の歴史 元号制度の史的研究』 雄山閣出版、1988年、増補版1996年



  • 村松剛ほか 『元号 いま問われているもの』 日本教文社、1977年


  • 瀧川政次郎 『元号考証』 永田書房、1974年

  • 歴史と元号研究会 『日本の元号』 新人物往来社文庫、2012年



関連項目







  • 紀元

  • 改元

  • 紀年法

  • 私年号

  • 元号一覧 (中国)

  • 元号一覧 (日本)

  • 元号一覧 (朝鮮)

  • 元号一覧 (ベトナム)

  • 元号一覧 (台湾)


  • 元号から西暦への変換表を見る





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