安土桃山時代















安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。




目次






  • 1 概要


  • 2 沿革


    • 2.1 織田信長による政権の確立


    • 2.2 豊臣秀吉による天下統一


    • 2.3 豊臣時代の終結




  • 3 年表


  • 4 桃山文化


    • 4.1 絵画


    • 4.2 工芸


      • 4.2.1 漆器


      • 4.2.2 陶器


      • 4.2.3 活字印刷




    • 4.3 茶道


    • 4.4 芸能


      • 4.4.1 踊り


      • 4.4.2 語り物




    • 4.5 建築


      • 4.5.1 城郭


      • 4.5.2 その他






  • 5 関連項目


  • 6 脚注


  • 7 参考文献





概要


織田信長の居城であった安土城と豊臣秀吉の居城伏見城のあった桃山丘陵地域から、このように歴史学者から呼ばれる。特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代といい、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼ぶ。ただし、桃山の名称は江戸時代になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられ、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったことから名付けられたもので[1]、桃山城と呼ばれる城が存在したわけではない。そのため、歴史的経緯を尊重するなら「伏見時代」の方が適切な呼称となるが、そもそも、安土城は完成からわずか3年余りしか存在しておらず、伏見城(指月城と木幡山城)についても文禄元年(1592年)の築城から秀吉の死までわずか7年であったなど、それぞれ在城は短期間であり、これらを時代の呼称に用いること自体が適切ではないという主張もある(ただし秀吉の死後、家康が伏見城で政務を執っている)。そのため、近年は織豊時代という呼び方も広まっており、安土大坂時代天正時代大坂時代の呼称を提案する識者もいる(ただし、大坂城についても、秀吉の関白就任後は朝廷への出仕の必要から京都に設置した聚楽第に居住していたため、実際の在城期間は短い)。


安土桃山時代の始期と終期には複数の見解が存在する。始期は、織田信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した永禄11年(1568年)、義昭が京都から放逐されて室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれた元亀4年(1573年)、安土城の建設が始まった天正4年(1576年)とする考えもある。終期は、豊臣秀吉が死去した慶長3年(1598年)、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した慶長5年(1600年)、家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)などがある。何れにしても、「織田・豊臣の時代」という概念をどこで区分するかの違いではあるが、室町時代、戦国時代と重複してしまうことが、その定義を難しくしている。


美術史では、慶長20年(1615年)の豊臣家滅亡までを安土桃山時代と称するのが一般的で、特に「桃山文化」「桃山美術」などと言う場合、秀吉が覇権を握った天正半ばから文禄を経て慶長の終末に至るまでを時代区分とする。それは政権の在り処に関わらず、秀吉や同時代の有力者が好んだ華やかな空気が、なお日本を支配していたと認識されているためである。当時の文化的中心であった京都および周辺地域では、秀吉を継いだ秀頼によりなおも活発な社寺建設が行われていたし、それに倣って各地でも作事が活発であり、関ヶ原の戦いによる政権交代によって文化的断絶までが生まれたわけではなかった。だが豊臣家が滅亡した元和偃武以後、世相の安定を背景に、桃山文化は変質していき、一方では洗練の度合いを増し桂離宮などの瀟洒な数寄屋建築を生みだしたし、他方では日光東照宮や武家の御殿など豪華さを競うバロック的傾向を強めていった。



沿革



織田信長による政権の確立



戦国大名の中で織田信長の勢力が次第に強大になり、足利義昭を奉じて京都に上洛したことで、信長による政権が始まった。元亀4年(1573年)に信長が足利義昭を京から放逐すると[2]、室町幕府は事実上崩壊し、織田政権が確立する。さらに、天正4年(1576年)に安土城が築城されて、名実共に天下布武への流れが現実のものとなっていた。こうした中、信長の支配により平和を取り戻した京を中心に新たな文化が花開いていった。信長はその後も勢力を拡大し日本中央部を制圧して天下統一は目前と思われた。しかし、明智光秀による謀反によって天正10年(1582年)の本能寺の変で自害に至った。



豊臣秀吉による天下統一




鳥獣文様陣羽織 伝秀吉着用



本能寺の変に対し、羽柴秀吉はいち早く京に駆け付け首謀者である明智光秀を破った(山崎の戦い)。これにより織田政権内での主導権を掌握した秀吉は清洲会議や賤ヶ岳の戦いを経て信長の後継者として地位を固め、天正11年(1583年)には大坂城の築城を開始する。天正14年(1586年)には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り[3]、天正18年(1590年)に日本を統一し全国で検地と刀狩りを実施させ政権の安定に力を注いだ。また、文禄元年(1592年)秀吉は明の征服を目論んで文禄・慶長の役を起こしたが、経由地であるはずの朝鮮で戦況は膠着する。


一方、国内は天下統一による平和がもたらされたことなどから、諸大名は領国の経営に力を注ぎ、各地で都市が興隆していった。また、秀吉自身は京を活動の拠点とし茶の湯を始めとする文化活動を自らも積極的に行った。こうしたことに加え、南蛮貿易による異文化との接触や朝鮮陶法の伝播などにより、文化は新たな時代を迎えた(桃山文化)。



豊臣時代の終結



慶長3年(1598年)秀吉が死去すると、五大老の筆頭である徳川家康が頭角を現し朝鮮遠征軍撤退の和平交渉でも主導権を握り実質的な政権運営者へとのし上がっていった。これに対し石田三成を中心とした反家康勢力が反発し慶長5年(1600年)に全国を二分する関ヶ原の戦いが勃発した。これに勝利した徳川家康は政権の基盤を固め、慶長8年(1603年)征夷大将軍に任じられる。これにより安土桃山時代は終わり[4]、江戸時代が始まった。



年表




  • 元亀4年・1573年 - 足利義昭が京都から追放されて、室町幕府が事実上滅びる。


  • 天正3年・1575年 - 長篠の戦い。

  • 天正4年・1576年 - 織田信長、安土城を築く。

  • 天正8年・1580年 - 織田信長、顕如を降伏させて、石山本願寺との対決を終わらせる。

  • 天正9年・1582年 - 本能寺の変→山崎の戦い:明智光秀の謀反も俗に言う三日天下で終わる。

  • 天正9年・1582年 - 清洲会議→賤ヶ岳の戦い:織田信長の後継争いで、織田家重臣であった柴田勝家と羽柴秀吉が反目。羽柴秀吉が勝ち、敗れた柴田勝家が自害する。

  • 天正10年・1583年 - 羽柴秀吉が石山本願寺跡地に大坂城を築城する。

  • 天正11年・1584年 - 小牧・長久手の戦い:羽柴秀吉と織田信雄、徳川家康との戦い→和睦。

  • 天正13年・1585年 - 羽柴秀吉、藤原氏を称し関白に就任する。同年四国平定。

  • 天正14年・1586年 - 羽柴秀吉、太政大臣となり、豊臣姓を賜る。

  • 天正15年・1587年 - 九州征伐。→九州征伐後、博多でバテレン追放令を発布する。

  • 天正18年・1590年 - 小田原征伐、北条氏が豊臣秀吉に降伏、天下統一


  • 1592年 - 1598年 - 朝鮮出兵。


  • 文禄元年・1592年 - 豊臣秀吉が伏見の指月に隠居のための屋敷構を築く。

  • 文禄3年・1594年 - 指月の隠居屋敷を改修し伏見城の築城が本格化。

  • 文禄5年・1596年 - 指月伏見城が完成するが直後の慶長伏見地震で天主が倒壊。木幡山にて新たな築城に着手。


  • 慶長2年・1597年 - 木幡山伏見城が完成する。

  • 慶長3年・1598年 - 豊臣秀吉が伏見城で死去する。

  • 慶長5年・1600年 - 関ヶ原の戦い。前哨戦の伏見城の戦いで伏見城落城。

  • 慶長7年・1602年 - 徳川家康が伏見城を再建。

  • 慶長8年・1603年 - 徳川家康が伏見城で将軍宣下を受け征夷大将軍に就任する。



桃山文化



織田信長時代と豊臣秀吉時代の文化を秀吉の隠居所だった伏見城の地名をとって、桃山文化と呼んでいる。桃山文化は新興の武士勢力や豪商の気風や商人の経済力を反映して、仏教色の少ない現世的な文化である[5]。安土桃山時代には、都市部において、堺の今井宗久や博多の島井宗室ら豪商と呼ばれる新興商人が成長した時代であった[6]。その富を背景にした豪華で大掛かりな文化傾向が見られる。また信長の政策により、仏教勢力の力が中央では弱まり、仏教主義的な作品が減り、代わりに人間中心、現世的な作風が見受けられる[7]


茶の湯が流行し、唐物の名物茶道具が珍重された一方で、それへの反抗としてのわび茶も発達した。茶器が大名から家臣への報奨とされたり、茶会が武将と豪商を結ぶなど政治にも影響した。


特筆すべき点としては、天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエル来日以来の南蛮貿易によってもたらされた南蛮文化の影響が挙げられる。まだ小規模ではあったが、日本が初めて西洋文化と直接(中国などを介さずに、正式な形で)触れ合ったという点で重要である。



絵画




濃絵の特徴を良く示す『檜図屏風』狩野永徳




日本に到来した南蛮人たち


狩野派の絵師が織田信長、豊臣秀吉などその時々の権力者と結び付いて画壇の中心を占めた。



  • 障壁画:城郭、寺院などの襖、壁、床(とこ)や屏風などに描かれた[8]

  • 濃絵:金箔地に青・緑を彩色。豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図が特徴。

  • 水墨画

  • 風俗画

  • 南蛮屏風:宣教師やポルトガル商人に風俗を描いた絵[9]


主な絵師と代表作



  • 濃絵


    • 狩野永徳:唐獅子図屏風


    • 狩野山楽:牡丹図、松鷹図


    • 長谷川等伯:智積院襖絵楓図


    • 長谷川久蔵:智積院襖絵桜図



  • 水墨画


    • 長谷川等伯:松林図屏風


    • 海北友松:山水図屏風



  • 風俗画

    • 狩野永徳:上杉本洛中洛外図屏風

    • 狩野内膳:豊国大例祭図屏風

    • 南蛮屏風





工芸



漆器



  • 高台寺蒔絵


陶器



  • 楽焼

  • 織部焼

  • 朝鮮の影響を受けた陶磁器:豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加した西日本の大名が、朝鮮の陶工多数を自領に連行し、作らせたのを発祥とする。主なものは以下の通り


    • 伊万里焼:佐賀県有田、長崎県波佐見、三川内などで焼かれた肥前磁器の総称。鍋島直茂が連れ帰った陶工を発祥とする。


    • 萩焼:山口県萩市周辺で焼かれる。毛利輝元が連れ帰った陶工を発祥とする。


    • 薩摩焼:鹿児島県一帯で焼かれる。島津義弘が連れ帰った陶工を発祥とする。


    • 上野焼(あがのやき):福岡県田川郡福智町で焼かれる。細川忠興が小倉藩主となった際に、家臣となった朝鮮人陶工に命じて焼かせたものが発祥とする。


    • 高取焼:福岡県直方市や福岡市で焼かれる。





活字印刷


  • 朝鮮人技術者の技術を移植した木版による活字印刷と、イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが伝えた西洋の活字印刷によるものがある。


    • 慶長勅版:後陽成天皇の勅命で印刷


    • キリシタン版(天草版):「天草版平家物語」、「天草版伊曽保物語」、「ぎゃ・ど・ぺかとる」、「日葡辞書」




茶道





  • わび茶
    • 千利休


  • 大名茶



芸能



踊り



  • 幸若舞

  • 阿国歌舞伎(歌舞伎踊り):出雲阿国による。歌舞伎の発祥。



語り物



  • 浄瑠璃

  • 隆達節



建築



城郭




松本城



織豊系城郭と呼ばれ、野面積み石垣が用いられるようになり、天守を持つ城郭建築が主流となる。




  • 犬山城:現存(国宝)


  • 安土城:本能寺の変後に焼失


  • 松本城:現存(国宝)


  • 大坂城:大坂の役で焼失、現在の遺構は江戸時代に造られたもの


  • 丸岡城:現存(国の重要文化財)


  • 伏見城:江戸時代初期に廃城


  • 聚楽第:豊臣秀次失脚時に破棄。大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣が遺構として伝えられる。

  • 佐和山城

  • 竹田城

  • 名護屋城


  • 姫路城:現存(国宝・世界遺産)


倭城:文禄・慶長の役で朝鮮半島に築かれた城



  • 蔚山城

  • 西生浦城

  • 順天城



その他


茶室



  • 妙喜庵待庵

書院・庭園



  • 醍醐寺三宝院表書院・庭園


関連項目







  • 日本の歴史

  • 日本史時代区分表

  • 安土桃山時代の人物一覧

  • 安土町


  • 京都(桃山)

  • 桃山文化

  • 滋賀県#歴史


  • 尾張国#歴史(愛知県西部の歴史)

  • 上洛


  • 名神高速道路(沿線が、信長と秀吉が領土を拡大した過程と一致する)


  • 脇田修(「大坂時代」を主張)

  • 桃山駅

  • 伏見桃山駅



脚注


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  1. ^ “伏見・桃山は江戸時代のタウンページで使われ定着した名称 歴史研究グループが発表”. 伏見経済新聞 (2016年11月19日). 2017年12月16日閲覧。


  2. ^ 永原 1987, p. 36.


  3. ^ 永原 1987, p. 48.


  4. ^ 永原 1987, p. 95.


  5. ^ 永原 1987, p. 81.


  6. ^ 永原 1987, p. 68.


  7. ^ 安藤 2016, p. 287.


  8. ^ 永原 1987, p. 83.


  9. ^ 安藤 2016, p. 288.




参考文献




  • 永原慶二; 青木和夫; 佐々木潤之介 『百姓・町人と大名』 読売新聞社〈日本の歴史 ジュニア版 第3巻〉、1987年5月 


  • 安藤達朗、佐藤優編、 『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』 東洋経済新報社、2016年 









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