金村義明





















































金村 義明
基本情報
国籍
日本の旗 日本
出身地
兵庫県宝塚市
生年月日
(1963-08-27) 1963年8月27日(55歳)
身長
体重

185 cm
90 kg
選手情報
投球・打席
右投右打
ポジション
三塁手、一塁手
プロ入り
1981年 ドラフト1位
初出場
1982年9月14日
最終出場
1999年9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)



  • 報徳学園高等学校


  • 近鉄バファローズ (1982 - 1994)


  • 中日ドラゴンズ (1995 - 1997)


  • 西武ライオンズ (1997 - 1999)




金村 義明(かねむら よしあき、1963年8月27日 - )は、兵庫県宝塚市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。現在は野球解説者、タレント。2017年12月からは兵庫県高砂市観光交流ビューローからの委嘱によって「高砂応援大使」を務めている[1]


2000年、在日韓国人3世であることを自著「在日魂」で公表した。旧名は金 義明(キム・ウィミョン、김의명)だった。現役引退後は帰化して日本国籍を持っている[2]




目次






  • 1 来歴・人物


    • 1.1 プロ入り前


    • 1.2 近鉄時代


    • 1.3 中日時代


    • 1.4 西武時代


    • 1.5 解説者としての活動




  • 2 エピソード


  • 3 詳細情報


    • 3.1 年度別打撃成績


    • 3.2 表彰


    • 3.3 記録


    • 3.4 背番号




  • 4 出演


    • 4.1 現在の出演番組


    • 4.2 過去の出演番組


    • 4.3 テレビCM


    • 4.4 ラジオCM


    • 4.5 著書




  • 5 関連項目


  • 6 脚注


  • 7 外部リンク





来歴・人物



プロ入り前



  • 中学・高校時代を通じて、報徳学園に在学。高校3年生だった1981年には、エースの4番打者として、甲子園の全国大会へ春夏連続出場を果たした。春の選抜大会では、大府高との1回戦で、槙原寛己との投げ合いに敗れた。しかし、夏の選手権大会では、チームを全国制覇に導いている。また、両大会では打者として、通算打率は.577、本塁打3本を記録している。

    • 高校3年夏の全国大会では、「1回戦突破」という目標を盛岡工業高校戦で達成すると、前年優勝の横浜高校と対戦した2回戦で2打席連続本塁打を放った。3回戦で荒木大輔を擁する早稲田実業学校高等部、準々決勝で藤本修二のいた今治西高校に勝利すると、名古屋電気高校との準決勝で、工藤公康から二塁打を含む3安打を記録。さらに、投手として、初戦から決勝戦までの全6試合で完投勝利を収めた[3]。夏の全国大会の優勝投手で、4番打者を務めながら全試合を1人で完投した選手は過去に8名いるが、この大会での金村を最後に現れていない。また、この大会で記録した通算打率.545(22打数12安打2本塁打)は、夏の全国大会優勝投手としては1939年の嶋清一(.550)に次ぐ歴代2位(春の全国大会を含めると3位)に当たる(いずれも2015年大会終了時点)[4]。このように投打とも大いに活躍したことから、現役を引退してからも、高校野球関連の番組・企画にたびたび登場している[5]。ただし、完投勝利を収めるたびにマウンド上で飛び上がりながらガッツポーズを披露したため、高野連の関係者から注意を受けたという[6]

    • 高校3年夏の選手権全国大会終了後に、工藤などと共に高校日本代表へ選ばれると、韓国遠征で高校韓国代表との親善試合に出場した。金村自身が後年語ったところによれば、試合の合間に現地の女性とお忍びで遊び過ぎたことが祟って、日本への帰国後に泌尿器科医の診察を受けたという。




  • 1981年のドラフト会議で、近鉄バファローズと阪急ブレーブスから1位で重複指名。抽選の末に、近鉄が交渉権を獲得した。なお、阪急は再指名を経て、山沖之彦を獲得している。
    • 金村自身は、ドラフト会議の時点で阪急への入団を志望していた。阪急電鉄沿線で往年の主力打者・長池徳士(1979年限りで現役を引退)の自宅の近くに実家があったことや、「阪急ブレーブスこども会」へ入会していたことや、看板選手の福本豊を少年時代から応援していたことによる[7]。『在日魂』(現役引退後に著した自叙伝)によれば、ドラフト会議の前には、近鉄から挨拶を受けつつ水面下で阪急への入団交渉を進めていたという。しかし、重複指名の末に近鉄が独占交渉権を獲得したことを受けて、当時阪急の打撃コーチであった長池の自宅を泣きながら訪問。長池や当時の阪急スカウト・三輪田勝利から「近鉄で頑張れ」と言われたことから、近鉄への入団を決意した。




近鉄時代



  • ドラフト会議では、阪急・近鉄の両球団から投手として指名。しかし、近鉄への入団直後に内野手へ転向した。金村本人は、現役からの引退後に、「高校3年生春の全国大会で投げ合った槇原が最速147km/hのストレートを投げている姿を見て、『俺はプロに入っても投手では通用しない』と悟った。夏の全国大会で優勝できたのは、カットボールと変化球で打者の打ち気をかわすことに徹したからに過ぎない」と明かしている[8]。ただし、内野手として一軍に定着していた1989年には、投手としてオープン戦1試合に登板している。

  • 入団1年目の1982年には、ウエスタン・リーグ公式戦全試合へ出場。同リーグの選抜メンバーとしてスタメンで出場したジュニアオールスターゲーム(横浜スタジアム)では、第4打席までにサイクルヒット(二塁打 → 本塁打 → 西武ライオンズに入団した工藤からの三塁打 → 単打)を記録すると共に、MVPへ選ばれた[9]。ただし、MVPの副賞として賞金139万円を獲得したことから、シーズン終了後の契約交渉では球団から賞金分の減俸を提示。金村は、一軍の公式戦にほとんど出場できなかったこともあって、この提示を渋々受け入れた[10]。なお、一軍公式戦でも、1986年7月17日の対阪急戦(西宮球場)でサイクルヒットを達成している。

  • 1985年までは一軍に定着できなかったが、佐々木恭介コーチの指導で徐々に頭角を現すと、1986年からは羽田耕一に代わって三塁のレギュラーに定着。「いてまえ打線」と呼ばれた打線の中軸として活躍するとともに、その豪快なイメージから「いてまえ大将」と称された。引退後の現在も、「かつて豪快だったパシフィック・リーグのイメージを継承した最後の選手」という評価を受けている。


  • 1986年に初めて出場試合数が100を超え、打率.275、本塁打23本(キャリアハイ)、打点67(キャリアハイ)の成績を残した[11]

  • 1988年には、西武との間でパシフィック・リーグの優勝を激しく争っていたシーズン終盤の試合で、死球によって右手の有鉤骨を骨折した。その影響で出場選手登録を抹消されたが、3試合後に当たる「10・19」(川崎球場でのロッテとのダブルヘッダー)の第1試合を、三塁側の記者席から私服姿で観戦。NPBが登録抹消中の選手のベンチ入りを認めていないにもかかわらず、当時の首脳陣の計らいによって、ユニフォームに着替えたうえで第2試合を三塁側(近鉄)のベンチ内で見届けた。その直後に患部の手術を受けたが、金村が後年述懐したところによれば、当時の医療技術では現在ほど有鉤骨の骨折へ適切に対応できなかったとのことで、翌1989年のオープン戦期間中も手術個所の痛みが残っていたという[12]。結局、かねてから懇意にしていた猿木忠男(当時は阪神タイガースのトレーナー)を通じて自費で手術を受け直したが、同年のシーズン序盤はリハビリに専念。中盤から戦線に復帰したものの、リハビリ期間中に球団が獲得したハーマン・リベラが正三塁手へ定着していたため、本人曰く「チームは(前年の『10・19』で逃した)リーグ優勝を果たしたが、自分は主に三塁の守備固めとして起用されていたせいか、優勝を心から喜べなかった」とのことである。

  • 1991年には、9月26日の対福岡ダイエーホークス戦(藤井寺球場)に三塁手として出場したが、9回表に捕手としてマスクを被った。リーグの優勝戦線にいたチームが、一軍のベンチに入っていた捕手(山下和彦、古久保健二、光山英和)を全員起用したばかりか、8回裏の光山の打席で代打を出したことによる。なお、金村が捕手として出場したのは、現役時代を通じてこの試合だけだった。ただし、捕手として1点を失ったほか、チームも6-7というスコアで福岡ダイエーに惜敗している[13]

  • 1994年には、規定打席への到達を逃すも、打率.299と好調であった。その一方で、一軍監督の鈴木啓示や一軍作戦兼バッテリーコーチの梨田昌孝は、金村とポジションの重なる中村紀洋を育てる意向を持っていた。結局、中村の台頭、鈴木監督の指導方針[14]、コーチ陣や球団首脳部への不信感などが重り、1994年のシーズン終了後に球団史上初となるFA権の行使を宣言。星野仙一などからの誘いを受けて、中日ドラゴンズへの移籍を決めた[15]

  • 13年間にわたった在籍期間中には、一軍公式戦でシーズン2桁本塁打を6回、全試合出場を3回記録。通算成績は打率.258、本塁打127本で、近鉄~大阪近鉄時代の中村や、「いてまえ打線」で共に中軸を担ったラルフ・ブライアント、石井浩郎、タフィ・ローズを下回った。金村自身も、「成績の面では一流ではなかった」と認めている。



中日時代



  • 球団史上初めてFA権の行使によって他球団から移籍したため、移籍当初は三塁のレギュラーとして起用された。しかし、期待されたほどの結果を出せないまま、故障で戦線を離脱。さらに、同じポジションを守る外国人選手(ダネル・コールズやレオ・ゴメス)に定位置を奪われたことから、一軍公式戦への出場機会がほとんどないまま2年間を過ごした。

  • 一時は張本勲の仲介でKBO球団への移籍も検討したが、1997年の開幕直後に、近鉄時代の同僚だった小野和義との交換トレードで西武ライオンズに移籍した。[16]



西武時代




  • 1997年シーズン中の移籍直後から、主に代打・一塁手・指名打者として一軍公式戦に起用。3割を超える打率でチームのリーグ優勝に貢献したが、若手選手の起用を優先する首脳陣の方針で、日本シリーズにはほとんど出場できなかった。翌1998年には、横浜ベイスターズとの日本シリーズで、第1戦と第6戦に出場。しかし、第6戦の打席で佐々木主浩から併殺打に抑えられたことによって、チームのシリーズ敗退が決まった[17]


  • 1999年に現役を引退。引退試合になった9月30日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)では、1打席限定でスタメンに起用された(詳細後述)。なお、近鉄時代を含めて3回出場した日本シリーズでは、所属したチームが3回とも敗退。結局、シリーズ制覇を一度も経験できなかった。



解説者としての活動



  • 現役引退の当初は、野球解説者・野球評論家としての専属契約を結べなかったことから、フリーランスの立場で「野球人」と称して『週刊ベースボール』でコラムを連載。その一方で、サンケイスポーツの記者に同行しながら、自分で仕事の依頼や出演交渉に当たっていた。この時期から現在に至るまで、NPBの春季キャンプ期間中には、解説者としての取材を目的に全球団の一軍キャンプ地を必ず訪問。また、個人事務所として有限会社カネムラ企画を設立した[18]ほか、近鉄時代のチームメイト・野茂英雄が代表を務めるNOMOベースボールクラブの理事に名を連ねている[19]


  • 2000年のシドニーオリンピック期間中には、『週刊プレイボーイ』からの依頼で、正式競技として日本代表が出場していた野球を取材[20]。さらに、『ジャンクSPORTS』(フジテレビ)にゲストパネラーとして出演した際のトークの面白さが注目されたことから、2000年8月にフジテレビ及び系列の関西テレビと専属解説契約を結んだ(フジテレビとの専属契約は2017年限りで終了[21])。2017年まではフジテレビ解説者としてCSのプロ野球ニュースの火曜日MCを努めてたが、専属契約が終了した2018年からはプロ野球ニュースの解説者として引き続き随時出演する。2001年からは、J SPORTSの野球解説者や、スポーツ報知の野球評論家を務める。なお、解説・評論活動では、「現場主義」をモットーに掲げている[22]

  • 西武時代からの自宅がある東京を活動の拠点に置きながら、近鉄時代を過ごした大阪や、中日時代を過ごした名古屋でも地元局制作の情報・バラエティ・ラジオ番組へたびたび登場。関西テレビ制作の阪神・オリックス公式戦中継に、ゲスト解説者として出演することもある。同局が平日の夕方に『FNNスーパーニュースアンカー』を放送していた時期には、木曜日第1部のレギュラーコメンテーターとして、メインキャスターの山本浩之と共に「野球漫談」と称されるほどのやり取りを展開した。

  • 『スーパーニュースアンカー』が終了した2015年4月からは、『上泉雄一のええなぁ!』(MBSラジオ平日夕方の生ワイド番組)に月曜パートナーとしてレギュラーで出演。『アンカー』時代から続く「野球漫談」や、阪神以外の球団の事情も織り込んだ評論などで人気を博している。2016年からは、同局の野球解説者としても活動[23]。2017年度以降のナイターオフ期間には、MBSラジオで『上泉雄一のええなぁ!』月曜日への出演を続けながら、生放送のラジオ番組では自身初の冠番組『MBSヨル隊「金村義明のええかげんにせぇ〜!」』でパーソナリティを務める[24]



エピソード



  • 野球以外のスポーツでは、報徳学園中学校時代に、柔道で初段を取得した。また、実母が焼肉店を開くまで宝塚カントリークラブで長らくキャディーを務めていた縁で、少年時代から折に触れてゴルフをプレー[22]、現役引退後は、チャリティーゴルフコンペにたびたび参加している。

  • 実家は裕福でなかったが、報徳学園高校が甲子園の全国大会でたびたび逆転勝利を収めてきた話を実母から聞いたことをきっかけに、プロ野球より同校に憧れを持つようになったという[7]。このような経験から、現役引退後は、高校野球の特待生制度に賛成する立場を表明している[25]

  • 1981年9月の日韓親善高校野球の日本選抜の1人として出場[2]。家族とともに韓国に渡ったがこのとき金村家は朝鮮籍であったため、臨時パスポートの取得に苦労した[2]。在韓中、政府のはからいで父が幼い頃に生き別れになった釜山在住の姉2人とソウルで再会。普段無口だった父は号泣、この歓待で「韓国のイメージが変わった」という金村家は帰国後、一家全員で韓国籍に切り替えた[2]

  • 『在日魂』によれば、近鉄からはドラフト前の時点で、「(東海大学から前年に読売ジャイアンツへドラフト1位で入団した)原辰徳の契約金(推定8,000万円)と年俸(推定840万円)を上回る金額と、(関連会社の近鉄不動産が扱っている)土地を用意する」という条件を出されていたとされる。しかし、ドラフト会議後に球団社長と代表が交代したことから、球団スタッフの顔触れも一新。実際の入団交渉では、以上の条件を白紙に戻したため、金村本人は「まるで詐欺やないか」と思ったという。そのため、交渉はしばしば決裂。在阪スポーツ紙などから実母がバッシングを受ける事態にまで至ったが、契約金6,000万円、年俸380万円(金額はいずれも推定)という条件で近鉄に入団した。入団決定後は、契約金を全額両親に渡したうえで、両親のために近鉄不動産から実勢価格より3%安い金額で土地を購入したという[26]。また実母は、金村の入団を機に自宅のある宝塚市内で長らく焼肉店を営んだ(現在は閉店)。

  • 入団時の背番号は28であったが、それまで28番をつけていた花房健が着ていたユニフォームがそのまま金村に引き継がれる。金村曰く「入団会見の直前にHANABUSAのワッペンを外した」という。

  • 近鉄入団当時、入団交渉のゴタゴタやルーキーながらパンチパーマといった出で立ちもあり、加えてドラフト一位というやっかみから、先輩から目を付けられ寮では何回かお金が盗まれるなど、陰湿ないじめとされる出来事があったという。そんな中、厳しくも優しく接してくれたのが栗橋茂・平野光泰・森脇浩司などであった[27]。特に森脇は金村を大変気に入っていたという。しかし彼らが遠征中にも、先輩の眼を盗んで金村はお金を盗まれるなどしたという。

  • 近鉄入団時の守備走塁コーチで、後に一軍監督を務めた仰木彬には、生前を通じて深い恩義を感じていた。

    • 仰木がオリックス・ブルーウェーブの一軍監督を務めていた1990年代中頃に、仰木が肺癌を患っていることを知った。仰木から口止めを懇願されたことを機に、仰木が2005年12月15日に逝去するまで、その事実を誰にも言わなかった。また、仰木の晩年には、ゴルフなどで親交を続けていた。

    • 仰木がオリックスの一軍監督を務めていた時期から、野球解説者への転身後は、春季キャンプ期間中にオリックスブルーウエーブおよび後継球団のオリックス・バファローズの一軍キャンプを最初に取材。2015年までは毎年、キャンプインの初日(2月1日)から、キャンプ地の宮古島や宮崎市へ取材に赴いていた[28]

    • 仰木の逝去当時は、『ベリーベリーサタデー!』(関西テレビ制作土曜朝のワイドショー)内のスポーツコーナー「Weeklyベリスポ!」に、コメンテーターとしてレギュラーで出演。逝去翌々日(2005年12月17日)の「Weeklyベリスポ!」で仰木の生前葬を取り上げた際には、全国向けの生放送中にもかかわらず、思わず号泣した[29]。翌2006年には、仰木とのエピソードを記した著書『仰木彬 パリーグ魂:命をかけてプロ野球を救った男』も出版している。



  • 近鉄では1984年にメジャーリーガーのドン・マネーを好待遇で入団させたが、マネーが球場内のロッカーや風呂場の汚さに失望したあげく、短期間で退団した。金村は、後に選手会長へ就任すると、この一件を踏まえて待遇や施設の改善に尽力。選手専用駐車場の確保(それ以前は選手専用のものはなく、開幕戦の予告先発だった野茂が球団役員専用車のため駐車を拒否された)や風呂場の改装等が実現したという[30][31]。また、本人曰く「右手有鉤骨の骨折(1988年10月)による痛みが1989年に入ってからも(前述したように)引かなかったのは、当時のチームドクター(球団専属の医師)の誤診に沿って(最初の)手術を受けたせい」とのことで、回復後に球団へ掛け合ってチームドクター制度を廃止させた。

  • 自身と大塚光二が進行を務めるプロ野球バラエティ番組「ガンバレ日本プロ野球!?」(J SPORTS)では仰木は2度ゲストで出演、この縁から同番組のキャンプ編ではオリックスキャンプからスタートするのが恒例となっている。


  • オールスターゲームのパリーグ三塁手は石毛宏典、松永浩美がメインだった為、仰木彬がパリーグ監督である1990年のみ監督推薦として出場できた。


  • 鈴木健と容姿が似ている。1988年、西武と近鉄が最後まで優勝を争った際、はた山ハッチ(やくみつる)は自身執筆の『パロ野球ニュース』(1988年8月)で両人と思われるトランクス姿の人物を描き、「今年はウチが優勝だ」と宣言する四コママンガを描き、同じコマに登場する中日の星野仙一監督が「お前は近鉄の金村か?西武の鈴木健か、どっちだ」と突っ込むネタを描いている。その鈴木とは西武移籍時にチームメイトとなり、この際にも『パロ野球ニュース』や[32]、日刊スポーツでネタにされていた[33]。2人が似ていることは当人達も自覚していて、鈴木は金村を「お兄ちゃん」と呼んで慕い、金村は球場やキャンプ取材時に「鈴木健さんですよね?」と度々声を掛けられると証言している。

  • 現役時代に、プロ野球ニュースのオフ企画で片岡篤史が父親に贈った檜風呂の一番風呂に入浴した、このエピソードがきっかけで後に阪神に移籍した片岡は、日ハム時代から使われている応援歌の歌詞に「リフォーム」「檜風呂」の言葉を用いたファンファーレが追加され、茶化された事から(後に短期間で応援団が新たに作り直したファンファーレに差し替えられた)、引退後に「申し訳ないことをした」と振り返った[34]


  • 1996年5月1日の対巨人5回戦(ナゴヤ)、5回裏にバルビーノ・ガルベスの投球が打者・山崎武司の頭付近を通過したことが発端となる乱闘に、“マスコットバットを持ち出し参戦した”とされる[35]。この件については、乱闘の当事者であるガルベスと山崎に加え、金村も罰金10万円と厳重注意を受けた。後年、自身がラジオパーソナリティを務める『ツー快!お昼ドキッ』(CBCラジオ)で「素振りをしているときに乱闘が起こり、何事が起こったかと見に行ったら巻き込まれ、バットを持っていたことは、取り上げられるまですっかり忘れていた」と語っている。

  • 1999年9月30日の引退試合、対千葉ロッテマリーンズ戦の第1打席(現役最後の打席)であえなく凡退している。金村は前出のラジオ番組で「現役最後の打席でこれまでの選手生活を思い出すと涙が溢れ、ボールが見えづらかった。にもかかわらず、マリーンズ先発の薮田安彦は容赦なくフォークボールを投げてきた。空気を読んで欲しかった。」と語っている。このシーンをモノマネする芸人は「現役最後の打席で涙に溢れながらもチンポジ(男性器の位置)を気にする金村選手」として演じている。

  • 現役引退後の2017年12月からは、高砂市への居住経験がないにもかかわらず、同市出身の花*花と共に高砂応援大使を委嘱されている。委嘱のきっかけは、近鉄の選手時代から高砂市内へ頻繁に足を運んでいることを、『上泉雄一のええなぁ!』で頻繁に明かしていることによるという。同年11月に市内で講演会を実施したことも、応援大使への就任につながった[1]

  • 2018年夏の第100回全国高等学校野球選手権記念大会前後には、「高校野球100年の歴史を彩ったレジェンドの1人」として、大会関連の番組・イベント・インタビュー企画に多数登場。全国大会3回戦の8月17日には、第1試合の常葉大学附属菊川高校対近江高校を前に、記念大会の特別企画である「甲子園レジェンド始球式」へ臨んだ。

    • 数年来患っている痛風と五十肩の影響で利き手(右手)の腫れが収まらないまま登板した[36]ため、投げたボールはワンバウンドで、外角に大きく外れてしまった。金村自身は、始球式直後の取材で苦笑いを浮かべながら、「お恥ずかしい。緊張し過ぎて体が言う事を聞かなかった。近江高校のキャッチャー(有馬諒)が(ワンバウンドの投球を)よく捕ってくれた」というコメントを残した[37]

    • 奇しくも、金村は37年前(1981年)のこの日に、報徳学園高校の投手として第63回大会準決勝で愛工大名電高校(当時の校名は名古屋電気高校)と対戦。前述したように、工藤から3安打を放ったばかりか、工藤を相手に完投勝利を収めた[36]。また、始球式の翌日(18日)に開かれた準々決勝には、小園海斗を擁する報徳学園高校が第2試合へ登場している(結果は済美高校の前に2- 3というスコアで惜敗)。





詳細情報



年度別打撃成績
































































































































































































































































































































































































































































































































































































O
P
S

1982

近鉄
7 17 17 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 7 0 .118 .118 .118 .235

1983
38 83 76 6 15 3 0 2 24 11 1 0 4 0 3 0 0 19 2 .197 .228 .316 .544

1984
54 115 94 11 16 3 0 2 25 10 2 0 6 2 11 0 2 23 3 .170 .266 .266 .532

1985
42 80 72 11 21 3 1 3 35 8 0 0 3 0 4 0 1 13 1 .292 .338 .486 .824

1986
130 493 437 66 120 23 6 23 224 67 3 1 10 4 39 0 3 83 10 .275 .335 .513 .848

1987
130 531 469 51 114 12 2 14 172 61 4 3 8 11 42 2 1 101 11 .243 .300 .367 .667

1988
99 379 323 37 93 17 0 14 152 48 2 1 5 3 48 2 0 65 7 .288 .377 .471 .848

1989
81 288 244 32 55 7 0 7 83 30 0 2 12 1 29 0 2 68 6 .225 .312 .340 .652

1990
113 450 376 67 103 25 1 17 181 51 7 7 5 2 64 3 3 85 6 .274 .382 .481 .863

1991
130 526 467 65 126 16 3 16 196 60 2 2 6 1 50 2 2 88 13 .270 .342 .420 .762

1992
102 390 335 50 87 11 3 13 143 44 5 3 4 1 48 4 2 66 7 .260 .355 .427 .782

1993
47 176 154 14 34 6 1 3 51 28 1 1 5 0 15 1 2 21 2 .221 .298 .331 .629

1994
80 279 254 34 76 15 0 8 115 28 2 1 3 3 17 0 2 47 3 .299 .344 .453 .797

1995

中日
28 88 79 4 14 4 0 1 21 5 0 1 2 0 7 0 0 15 6 .177 .244 .266 .510

1996
42 45 40 1 7 1 0 0 8 6 0 0 0 0 5 0 0 6 0 .175 .267 .200 .467

1997

西武
73 152 124 13 38 10 1 3 59 26 3 0 0 2 22 0 4 28 6 .306 .421 .476 .897

1998
41 52 38 2 10 2 0 1 15 7 0 1 0 3 10 0 1 11 0 .263 .404 .395 .799

1999
25 60 44 2 8 0 0 0 8 7 2 0 0 0 16 3 0 6 2 .182 .400 .182 .582
通算:18年
1262 4204 3643 466 939 158 18 127 1514 487 34 23 73 33 430 17 25 752 85 .258 .337 .416 .753

  • 各年度の太字はリーグ最高


表彰



  • ジュニアオールスターゲームMVP:1回(1982年)


記録



初記録



  • 初出場:1982年9月14日、対西武ライオンズ後期8回戦(日生球場)、8回表に羽田耕一に代わり三塁手として出場

  • 初先発出場:1982年9月21日、対日本ハムファイターズ後期11回戦(後楽園球場)、8番・三塁手として出場

  • 初安打:同上、4回表に木田勇から中前安打

  • 初打点:1983年5月12日、対ロッテオリオンズ4回戦(川崎球場)、8回表に仲根政裕の代打として出場、スティーブ・シャーリーから同点適時打

  • 初本塁打:1983年10月21日、対阪急ブレーブス26回戦(藤井寺球場)、2回裏に木下智裕から3ラン





節目の記録



  • 100本塁打:1992年4月21日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(日生球場)、5回裏に園川一美からソロ ※史上169人目

  • 1000試合出場:1994年6月11日、対日本ハムファイターズ11回戦(東京ドーム)、7番・三塁手として先発出場 ※史上319人目





その他の記録




  • オールスターゲーム出場:1回 (1990年)


  • サイクルヒット:1986年7月17日、対阪急ブレーブス12回戦(阪急西宮球場) ※史上39人目
    • 1982年7月23日のジュニアオールスターゲーム(横浜)でもサイクル安打を達成






背番号




  • 28 (1982年 - 1986年)


  • 6 (1987年 - 1997年途中)


  • 24 (1997年途中 - 1999年)



出演



現在の出演番組



レギュラー



  • 以下の番組はいずれも、MBSラジオで制作。


    • 上泉雄一のええなぁ!※2015年3月30日放送分より、月曜パートナーとして出演。


    • MBSベースボールパーク※2016年からレギュラー解説者として出演。

      • 野球解説者としては、MBSラジオと専属契約を結ぶ一方で、同じタイトルを使用するMBSテレビの阪神戦中継(主にラジオと同時に放送する場合の副音声)にも随時登場する。


      • 神宮球場のヤクルト対阪神戦をニッポン放送との相互ネット形式で中継する場合には、試合の展開に応じて、ニッポン放送でも金村の解説が流れることがある。一方2017年までは、金曜日に開催された甲子園球場の阪神対巨人戦の中継を通じて、TBSラジオに金村の解説が流れることがあった。

      • 2016年度のナイターオフ期間には、金山泉(毎日放送アナウンサー)とのコンビで、『with Tigers MBSベースボールパーク みんなでホームイン!』の日曜版へ月に1回のペースで出演していた。




    • MBSヨル隊「金村義明のええかげんにせぇ〜!」(MBSラジオ) ※2017年度以降のナイターオフ番組。火曜日の生放送番組であるため、ナイターオフ期間には、『上泉雄一のええなぁ!』月曜日と合わせて2日連続でMBSラジオの番組へレギュラーで登場する。




  • BANZAI!野球好き(J SPORTS)


  • enjoy! Baseball(フジテレビ・関西テレビ[38]・テレビ新広島)
    • フジテレビ制作分の中継については、2017年限りで専属契約を終了。



  • SWALLOWS BASEBALL L!VE(フジテレビONE)


  • プロ野球ニュース[39]


  • バラいろダンディ(TOKYO MX)※2015年10月から2018年3月まで木曜ダンディ、2018年4月より金曜ダンディ(それ以前より単発ゲスト出演多数)


  • コヤぶるッ!SPORTS(関西テレビ)





準レギュラー




  • たかじん胸いっぱい → 胸いっぱいサミット(関西テレビ)


  • 羽鳥慎一モーニングショー(テレビ朝日) ※報徳学園高校の投手として夏の選手権全国制覇を経験した実績を買われて、2018年の第100回選手権記念大会直後から、高校野球やNPBドラフト会議関連の話題を取り上げる際にコメンテーターとして出演。



以下はいずれも、MBSテレビで制作。


  • 水野真紀の魔法のレストランR ※2ヶ月に1回程度のペースで出演


  • 戦え!スポーツ内閣 ※2016年10月からのレギュラー放送開始を機に、番組のコンセプトに沿って、「プロ野球大臣」という肩書で出演。


  • ちちんぷいぷい ※2017年11月22日から水曜日の全編に出演。『FNNスーパーニュースアンカー』に続いて、総合司会の山本浩之と共演している。





過去の出演番組




  • 松尾雄治のピテカンワイド(TBSラジオ、2001年10月1日 - 2002年9月)※野球解説者として初めてレギュラーで出演


  • ジャンクSPORTS(フジテレビ)


  • すぽると!(フジテレビ)


  • ベリーベリーサタデー!(関西テレビ)


  • FNNスーパーニュースアンカー(関西テレビ)※木曜第1部コメンテーター


  • こんちわコンちゃんお昼ですょ!(MBSラジオ)※月に1回のペースで月曜日に電話で出演


  • きになるオセロ(ABCテレビ)※隔週


  • ツー快!お昼ドキッ(CBCラジオ)※水曜パーソナリティ

  • 金村義明の健康でいてまえ!(ラジオ大阪)※パーソナリティ


  • 玉袋筋太郎のナイトスナッカーズ 西荻窪編


  • ガンバレ日本プロ野球!?(J SPORTS)※プロ野球のオフシーズンに放送


  • J SPORTS STADIUM※主にロッテ戦の解説を担当。2014年はテレビ新広島制作分(地上波同時放送)に出演。


  • ケンゴローサーカス団(MBSテレビ)※「団員」の1人としてレギュラー出演



テレビCM


  • 国土リアルエステートテレビコマーシャルキャラクター(大阪府ローカル)


ラジオCM


  • エスライズ・エージェンシー(2016年 - 、MBSラジオ・関西ローカル限定)


著書



  • 『在日魂』(講談社、2000年、ISBN 4062103494/講談社文庫、2004年12月、ISBN 4062749378)

  • 『元祖いてまえ男金村義明のプロ野球警戒警報!』(日本文芸社、2002年)ISBN 4537250909

  • 『プロ野球勝てる監督、負けるボス』(実業之日本社、2004年)ISBN 4408395536

  • 『仰木彬 パリーグ魂:命をかけてプロ野球を救った男』(世界文化社、2006年)ISBN 4418065369

  • 『80年代パ・リーグ 今だから言えるホントの話』(東京ニュース通信社、2016年)ISBN 4198641358



関連項目



  • 兵庫県出身の人物一覧

  • 大阪近鉄バファローズの選手一覧

  • 中日ドラゴンズの選手一覧

  • 埼玉西武ライオンズの選手一覧


  • あぶさん - 「あぶさんの中に自分を出してほしい」と水島新司の所まで自分で描いた作品を持っていったことがある。



脚注


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  1. ^ ab女性デュオ「花*花」、元プロ野球・金村さん高砂応援大使に(『神戸新聞』東播版2018年1月6日付記事)

  2. ^ abcd朝日新聞 2017年3月15日 23面


  3. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.05「1981年8月21日 全試合をひとりで投げ抜き、悲願の全国制覇達成」(『Web Sportiva』2010年8月16日付記事)[リンク切れ]


  4. ^ 【甲子園V腕座談会】(2)池田もPLも練習しなかった(『スポーツ報知』2015年8月9日付記事)


  5. ^ 亀梨和也 NHK甲子園特番ナビゲーターに「感動体感したい」(『スポーツニッポン』2015年7月21日付記事)


  6. ^
    【甲子園V腕座談会】(4)3年生・水野VS1年生・桑田(『スポーツ報知』2015年8月9日付記事)


  7. ^ ab【甲子園V腕座談会】(1)池田もPLも練習しなかった(『スポーツ報知』2015年8月9日付記事)


  8. ^ 【甲子園V腕座談会】(3)金村さんの秘技「おちょくり投法」(『スポーツ報知』2015年8月9日付記事)


  9. ^ [1]


  10. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.04「1982年7月23日、ジュニアオールスターでサイクルヒット&MVP」(『Web Sportiva』2010年7月15日付記事)


  11. ^ [2]


  12. ^ 【日本ハム】清宮と同箇所骨折経験持つ金村義明氏「まずは手の筋力取り戻せ」(『スポーツ報知』2019年3月4日付記事)


  13. ^ あの金村も急造捕手経験 ロッテ・五十嵐は全ポジション出場達成(『スポーツニッポン』2014年12月10日付記事)


  14. ^ 現役引退後に著した『勝てる監督 負けるボス』では、「最低の監督」という表現で鈴木を批判している。


  15. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.10「1995年2月14日 野茂英雄、ドジャース入団」(『Web Sportiva』2010年12月21日付記事)


  16. ^ トレードはこうやって決まる!現場とフロントの連携


  17. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vo1.07「1998年10月26日 涙の横浜ベイスターズ、38年ぶり日本一」(『Web Sportiva』2010年9月21日付記事)


  18. ^ フーガキャスティングの講師一覧|金村義明


  19. ^ NOMOベースボールクラブ 運営役員紹介


  20. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.06「2000年9月17〜27日 シドニー五輪、初のプロ・アマ合同チームの裏側」(『Web Sportiva』2010年9月6日付記事)


  21. ^ 金村義明オフィシャルブログ2018年1月3日付記事「謹賀新年」

  22. ^ ab金村義明プロフィール金村義明オフィシャルサイト


  23. ^ ANAクラウンホテル大阪(金村義明オフィシャルブログ2015年12月20日付記事)


  24. ^ 金村義明氏 初の冠番組「ええかげんにせぇ〜!」MBSラジオで10・10開始(『スポーツニッポン』2017年9月23日付記事)


  25. ^ 【甲子園V腕座談会】(終)今だから話せる「蔦さん伝説」(『スポーツ報知』2015年8月9日付記事)


  26. ^ 『在日魂』P139~P140


  27. ^ 『在日魂』P142~P144


  28. ^ 2016年には、2月1日(月曜日)が『上泉雄一のええなぁ!』への出演日と重なっていたため、解説者への転身後初めて同月2日からキャンプを取材(取材先は宮崎市清武総合運動公園)。


  29. ^ 株式会社パートナーシステム・講師プロフィール 金村義明


  30. ^ “「お笑いワイドショー マルコポロリ」2013年12月15日(日)”. gooテレビ (2013年12月15日). 2014年5月28日閲覧。


  31. ^ 『在日魂』第3章「プロ野球狂想曲」


  32. ^ 1997年5月『パロ野球ニュース』。日本ハムの上田監督(当時)が「西武のベンチ入り人数が一人多い」と抗議したら、実は「右の鈴木健(金村)」と「左の鈴木健(本人)」という二人一組のスイッチヒッターだった、あるいは同じく上田が「西武の三塁手が二人いる」と抗議したら、実は「鈴木健1人だが、時々分身の術を使う(と称して金村が現れる)」という扱いだった、というもの。


  33. ^ 1997年10月、西武が優勝を決めた翌日、やくが中紙面に描いた選手イラストに、NHK連続テレビ小説のふたりっ子になぞらえて、「西武のふたりっ子」と描いた。


  34. ^ 鵜飼克郎 (2017年8月5日). “金村義明氏が片岡篤史「檜風呂」応援誕生のきっかけを回顧”. 週刊ポスト. http://www.news-postseven.com/archives/20170805_600223.html 2017年8月7日閲覧。 


  35. ^ 【5月1日】1996年(平8) 32分中断 ガルベス“危険球”に山崎武司突進!大乱闘!(2011年5月1日、スポニチアネックス)2014年11月20日閲覧

  36. ^ ab「五十肩と痛風…」金村義明さん、ソフト工藤監督に投げ勝った記念日にレジェンド始球式スポーツ報知 2018年8月17日


  37. ^ 【高校野球】レジェンド始球式で金村義明氏ワンバウンド投球「お恥ずかしい」 東スポWeb 2018年8月17日記事


  38. ^ 関西テレビローカルは『プロ野球中継(西暦)』の番組名


  39. ^ 2009年度より水曜のMCを担当




外部リンク






  • 個人年度別成績 金村義明 - NPB.jp 日本野球機構

  • 金村義明|公式ウェブサイト


  • 金村 義明 - Facebook


  • Yoshiaki Kanemura (yoshiaki_kanemura) - Instagram





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