サウジアラビア









サウジアラビア王国

المملكة العربية السعودية











サウジアラビアの国旗 Emblem of Saudi Arabia.svg
(国旗)
サウード家大紋章


国の標語:لا إله إلا الله محمد رسول الله
(lā ilāhā illā-llāhu; muhammadu rasūlu-llāhi)
(アラビア語:アッラーの他に神はなし、ムハンマドはアッラーの使徒なり)


国歌:サウジアラビアの国歌


サウジアラビアの位置









































公用語

アラビア語

首都

リヤド
最大の都市
リヤド

政府




















国王(二聖モスクの守護者国王)

サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ

首相

サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ (兼任)
王太子 ムハンマド・ビン・サルマーン
第一副首相
ムハンマド・ビン・サルマーン (兼任)


面積











総計

2,149,690km2(13位)
水面積率
極僅か


人口











総計(2012年)

29,200,000人(45位)

人口密度
12.84人/km2



GDP(自国通貨表示)





合計(2008年) 1兆8,037億[1]サウディ・リヤル(Riyal)


GDP (MER)





合計(2008年) 4,816億[1]ドル(24位)


GDP (PPP)











合計(2008年)
5,933億[1]ドル(21位)
1人あたり 23,833[1]ドル


統一
1932年9月23日

通貨

サウディ・リヤル(Riyal) (SAR)

時間帯

UTC +3(DST:なし)

ISO 3166-1
SA / SAU

ccTLD

.sa

国際電話番号
966



サウジアラビア王国(サウジアラビアおうこく、アラビア語: المملكة العربية السعودية‎)、通称サウジアラビアは、中東・西アジアの国家。首都はリヤド。サウード家を国王に戴く絶対君主制国家。世界2位の原油埋蔵量を持つ国であり、石油(原油)を中華人民共和国をはじめ世界中に多く輸出している。イスラム教最大の聖地メッカ(マッカ)と第2のマディーナ(メディナ)を擁する。世界銀行の定義では高所得国に分類され、アラブ諸国で唯一G20に加盟しているが、産業の多様性には乏しく、天然資源開発が主要産業となっている。


サウジアラビアにおける死刑や信教の自由、女性の人権など、欧州と異なる文化、法体制に対しては批判もある[2][3][4][5]




目次






  • 1 国名


  • 2 歴史


  • 3 政治


    • 3.1 絶対君主制・政教一致


    • 3.2 行政・立法


      • 3.2.1 税制




    • 3.3 司法


      • 3.3.1 司法改革の歴史




    • 3.4 人権




  • 4 外交


    • 4.1 亡命者の受け入れ




  • 5 軍事


  • 6 地理


  • 7 気候


  • 8 行政区画


    • 8.1 主要都市




  • 9 交通


  • 10 経済


    • 10.1 主な企業




  • 11 水資源


  • 12 国民


    • 12.1 民族


    • 12.2 言語


    • 12.3 宗教




  • 13 教育


  • 14 文化


    • 14.1 スポーツ


    • 14.2 大衆文化


    • 14.3 ネット文化


    • 14.4 出版


    • 14.5 映画館




  • 15 脚注


  • 16 関連項目





国名


アラビア文字による正式名称はالمملكة العربية السعودية(翻字: al-mamlakah al-ʿarabīyah al-suʿūdīyah, アル・マムラカ・ル・アラビーヤ・ッ・スウーディーヤ)であり、「サウード家によるアラビアの王国」を意味する。通称السعوديةal-suʿūdīyah, アッ=スウーディーヤ)。


公式の英語表記は Kingdom of Saudi Arabia(キングダム・オヴ・サウディ・アレイビア)。通称 Saudi Arabia(サウディ・アレイビア)。国民・形容詞はSaudi。日本語での表記はサウジアラビア王国。通称サウジアラビア。まれにサウディアラビアとも表記される[6]サウジと略して呼ばれることも多い。


リヒテンシュタインと同様に、国際連合加盟国でも非常に珍しい「統治王家の名前」を国名にしている国家である。



歴史





現在のサウジアラビアの建国者アブドゥルアズィーズ国王。1945年、ヤルタ会談の帰路にあったフランクリン・ルーズベルト米大統領と船上会談を行った。


この国が現在存在する地域には長い歴史があるが、サウード王家自体は1744年に中央アラビアのナジュド地方に登場している(第一次サウード王国)。この年、リヤドの近くにあるディルイーヤの支配者ムハンマド・イブン・サウード(英語版)は宗教指導者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブと盟約を結び、新たな国家体制をつくった。この同盟は18世紀に形成され、今日のサウジアラビア王朝の統治の基礎となっている。続く150年間、サウード家はアラビア半島の支配を巡ってエジプトやオスマン帝国そして他のアラブ部族ラシード家(英語版)[要リンク修正]のジャバル・シャンマル王国と争い興亡を繰り返した(第二次サウード王国参照)。


第三のそして現在のサウード国家は、1902年に僅か22歳のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード国王(サウジアラビア王国の初代国王)がサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回し、ナジュドで建国したものである(ナジュド及びハッサ王国)。


1915年にメッカ(マッカ)の太守(シャリーフ)であったハーシム家のフサイン・イブン・アリーが、イギリス軍のトーマス・エドワード・ロレンスの協力を得てアカバを占領し、その後ダマスカスに進軍してヒジャーズ王国を建国した(アラブ反乱)。


アブドゥルアズィーズは、1913年からハサー、1921年のハーイル征服(英語版)までにカティーフ、ナジュドの残り(ナジュド・スルタン国)を制圧した。そして1926年までにヒジャーズ王国を制圧し(サウード家のヒジャーズ征服(英語版))、1926年1月8日、アブドゥルアズィーズはヒジャーズの王(マリク)となる。1927年1月29日にはナジュド王の称号を得た(彼の以前のナジュドの称号はスルタン)。1927年5月20日に結ばれたジッダ条約によってイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認め、ヒジャーズ・ナジュド王国が成立。1932年に主要地域のハサー、カティーフ、ナジュドそしてヒジャーズが統一してサウジアラビア王国が成立した。1934年、サウジ・イエメン戦争、イドリシ朝アスィール首長国(英語版)を併合した。


アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済には及ばず、1933年にサウジアラムコが設立され1938年3月にダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」が発見されるまで国は貧しい状態だった(サウジアラビアの石油産業の歴史(英語版))。油田開発は第二次世界大戦のために中断したものの、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業した。石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会における大きな影響力も与えた。


アブドゥルアズィーズは1953年の崩御を前に、拡大した一族ネットワークに依拠する他の地域の絶対的支配者たちと対する難しさに配慮して王位継承の規定を図っている。同年に次男サウードが父の死を受けて第2代国王に即位したものの、1960年代にサウードの経済的失政によって王国は危機に陥り、またエジプトのナーセル大統領からの地域的な難問への対応にも失敗してしまった。その結果、1964年にサウードは退位させられ、代わって異母弟のファイサルが第3代国王に即位した。1973年の第4次中東戦争に際してサウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、石油危機を引き起こした。この後、サウジアラビアを初めとする石油輸出国機構 (OPEC) が大きな国際的影響力を発揮するようになる。


1975年に家族間抗争が一因でファイサル国王が甥のファイサル・ビン・ムサーイド(英語版)王子により暗殺された。その後、やはり異母弟のハーリドが王位を継ぎ第4代国王となった。1979年にイラン革命に影響を受けたイスラム過激主義者によるアル=ハラム・モスク占拠事件が発生。武力で鎮圧したものの、以後、イスラム過激派に配慮した政策を行うことになった。1982年にハーリドが崩御して異母弟のファハド(「スデイリー・セブン」の一人)が第5代国王に即位する。


1990年にイラクが隣国クウェートを侵略して湾岸危機が起こると、国土防衛のために米軍の駐留を許可した。聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに敬虔なイスラム教徒たちは反発し、後に同国人のウサーマ・ビン=ラーディンが反米テロを組織する原因ともなった。


2005年にファハドが崩御し、彼の異母弟のアブドゥッラーが第6代国王に即位した。アブドゥッラー国王治世下では、スルターン、ナーイフ、サルマーンのスデイリー・セブンが3代続けて皇太子を務めた。


2015年1月、アブドゥッラーが崩御し、異母弟のサルマーンが第7代国王に即位、異母弟のムクリンが皇太子となった。同年4月、ムクリンは皇太子を解任され、ナーイフ元皇太子の息子のムハンマド・ビン・ナーイフが皇太子となり、第3世代王族への王位継承に初めて道筋をつけた。



政治



絶対君主制・政教一致


サウード家による絶対君主制でワッハーブ主義に基づく厳格なイスラム教義を国の根幹としており、後述の時期になるまでは憲法をもたなかった政教一致。要職は王族が独占しており、ギネス世界記録には王族の数が世界最大と記載されている。サルマーン現国王は第2世代であるが現在は第6世代まで誕生している。


建国以来、長年にわたって不文憲法を貫いていたが、ヒジュラ暦1412年シャアバーン27日(1993年3月1日)に公布された統治基本法が憲法の役割を果たすようになった。また、同時に諮問評議会法や地方行政法も発布され近代法治国家としての体裁が整えられた[7]


政府は統治基本法が憲法であるとしているが、一方でその第1条に「憲法はクルアーンおよびスンナとする」と明記されており、実態はクルアーンこそが『憲法』である。同じイスラム教でも、シーア派は敵視されている。



行政・立法



従来は内閣も議会も存在せず、勅令が法律公布と同義となり、行政も勅令の他、クルアーンやシャリーアに則って施行されてきたが、統治基本法公布によって選挙が行われ、内閣に相当する閣僚評議会や国会に相当する諮問評議会、そして地方議会も設置された。ただし首相格の閣僚評議会議長は国王の兼任である。



国内は13の州に分割されている。勅任の知事(アミール)が就任するがサウード家出身者以外は認められない。



税制


税金のない国と言われることもあるが、実際には統治基本法にザカート税(喜捨の義務)が明記されており、ザカート税法の規程が存在する。徴税担当は「所得税およびザカート税省」。属人主義であるシャリーアを基準とするサウジアラビアではサウジアラビア人とそれ以外の外国人では適用される税法が異なる。税率的にはほとんど変わらないが、サウジアラビア人にはザカート税を、外国人には所得税を課す。


税金がないといわれる一因には、ワッハーブ派の法理ではザカートとワクフ以外の財産徴収はシャリーアに反する搾取であると考えられているため、欧米で言うところの税金は搾取であり憲法違反であるとされているからである。これはオイルマネーで潤っているからというわけでもなく、油田発見以前の貧しい国だった時代にも初代国王が欧米式の税制を導入しようとした時にイスラムに反するとして猛反対されて実施されなかった過去がある。ザカート、ワクフは欧米の税金とは違うものであるとする主張を採用すれば税金のない国となる。



司法


サウジアラビアでは宗教が法律となりコーランに基づくイスラム法(シャリーア)により統治が行われている。しかし、実際は部族的慣習がそのまま社会的慣習となっているケースが多く、数々の矛盾を孕んでいるため、他のイスラム圏では見られない独特の環境を生み出している。この複雑な法体系の近代化が進められ、現代では大幅に制度改革が実施されている。


司法は原則としてワッハーブ派に基づいて執行されることになっているが、東部州のシーア派住民は法務省の下位機関であるシーア派裁判所のシーア派の裁判官(カーディー)による裁判権が認められている。このため、一国に二種類の刑法と民法が存在するという複雑な事情があり、どちらの裁判所によって判決が出されるかによって適用される法律が異なる場合もある。ただし、シーア派に認められているのは24条の刑法と婚姻、遺産相続、ワクフのみであり、ワッハーブ派住民とシーア派住民の間で訴訟になった場合にはワッハーブ派の法が優先される差別的な状況になっている。


通常の警察組織とは別に、勧善懲悪委員会と呼ばれる宗教警察が厳しい取り締まりを行っており、違反者は外国人であっても問答無用で逮捕される。


原則的に女性と男性は完全に区別されている。公共の場所でのアバヤ(ベール)、ヒジャーブ(スカーフ)、ニカーブ(顔のベール)の着用は、一般にサウジアラビアの習慣について語る際にしばし用いられる特徴的なことであろう。女性による自動車の運転も世界で唯一禁止されてきたが(イスラムでは禁じられていない)、2017年9月26日にサルマーン国王が運転を許可する勅令を出し[8]、2018年6月24日解禁された[9][10][11][12][13]。結婚、就職、旅行など全ての行為について、女性は父またはその男兄弟(即ち、伯父または叔父)、夫などの「男性保護者」の許可が必要である。20世紀初頭までのアジアでのいわゆる「三従」に似る。


裁判はアラビア語のみで行われ、仮に被告がアラビア語を理解できなくても通訳なしで一方的に進められる。また、証人はイスラム教徒の男性がアラビア語で証言しなければ証拠能力を認めない。このため、アラビア語を理解できない外国人労働者には極めて不利な裁判になる。


酒やポルノ類の持込などに対しては、重刑が課せられる。イスラム思想に則り法整備をしており、麻薬、強姦、殺人、同性愛においては死刑、窃盗においては手首切断や、飲酒においては鞭打ち刑などの身体刑を行っており、また裁判についても、被告人が理解できない言語で公判が進められたりと公平でない上、判決を容認しない場合は、弁護士などは資格を剥奪される。これらの法令は西欧各国のメディアにより非難されている。


2005年5月には、スリランカから出稼ぎに来ていたリザナ・ナシカというメイド(事件当時17歳)が、乳児にミルクを与えた際に気管に詰まり、メイドが救命措置を取ったが死亡してしまい、事故死ではなく殺人であると判定され、死刑が宣告された。スリランカ政府は寛大な処分を求めたが、それにもかかわらず2013年1月、斬首刑が執行された。



ムハンマドの慣例に従い、9歳女子との結婚を認めるというイスラーム法が存在するため、10歳前後での早婚も公に認められている[14][15]。一例ではあるが親の借金のかたに結婚させられる8歳の幼女までも存在し[16]、上記のイスラーム法に定められた年齢になるまで性行為を行わないことを条件に結婚の継続が承認されている[17]。これに関しては批判も少なくないが、サウジの大ムフティーであるアブドルアジズ・アール=アッシャイフが、イスラーム法上10歳の少女でも結婚・性行為の対象とすることができ、批判者は少女への不正義を行っていると逆に批判した[18]


名誉殺人も存在しているとされ、認められれば罪に問われないことが多い。家族を他の宗教に改宗させようとした外国人とその家族を射殺した男は、これにより無罪判決が下った。
ディーヤと呼ばれる制度があり、被害者の法定相続人が加害者を許した場合は罪に問われない。これは金銭によって示談になった場合にも適用される。



司法改革の歴史


保守的なサウジアラビアの司法制度であるが、近年になってからはさまざまな司法制度改革が行われている。
建国以来、長年にわたって憲法がなかったが、1993年3月1日に公布された統治基本法が実質的な憲法となった。


シャリーアでは特許や著作権などの欧米では一般的な権利について認めていなかったが、1989年に特許と著作権に関する法律が施行され、1990年には特許を認定する特許局が設置された、サウジアラビア人の特許が初めて認められたのは1996年のことである。特許は15年間有効とされ、さらに5年間の延長が可能である。
ただし、サウジアラビアで公式の暦はヒジュラ暦であり、1年がグレゴリオ暦にくらべて11日ほど短いため、期限切れがグレゴリオ暦のそれよりも若干早く来るという特徴がある。


2007年10月に出された勅令により始まり、2009年2月14日の勅令で大規模な司法制度改革が行われた。今までの最高司法委員会に代わって最高裁判所、控訴裁判所、普通裁判所が設置され日本や欧米のような三審制の裁判が行えるようになった。2009年2月14日の勅令で大規模な人事異動が実施され、初めての女性副大臣が誕生するなどリベラル派人材への大幅入れ替えが実施された。



人権



国際人権規約(自由権、社会権)に批准しておらず、厳格にシャリーアを執行する姿勢に対して、欧米諸国から批判が多々ある。しかし、批判国に対する石油輸出停止などの経済制裁がたびたび実行されている[19]ため、これらの報復を恐れて国交断絶や経済制裁などを発動する先進国は皆無となっている。また中東有数の親米国家であることから、アメリカ合衆国は、アメリカ中央軍の部隊を駐留させて中東の反米諸国を牽制している。


基本統治法は第26条で「王国はイスラム法にのっとり人間の権利を保護するものとする」と明文規定するが、ここに定める“人間の権利”とはイスラム法における権利であって、西洋的な「人権」とは異なる概念である。また、雇用主による外国人就労者に対するパスポートの取り上げ(スポンサー制度)も横行しており、国際労働機関から再三にわたり改善勧告を受けている。近年、スポンサー制度を一括管理する民間機関の設置が議論されているが、本格的な実施には至っていない。


2014年2月には、「社会の安全や国家の安定を損なう」全ての犯罪行為、「国家の名声や立場に背く」行為をテロリズムと判じ、処罰対象にする対テロ法を施行した。これにより捜査当局は“容疑者”の尾行や盗聴、家宅捜索が可能になる。ヒューマン・ライツ・ウォッチは「当局がすぐに平和的な反体制活動家に対して新法を利用するだろう」と警鐘を鳴らした。



外交





アブドゥッラー王太子とブッシュ米大統領 (両者ともに当時)


最初に国交を結んだ国はソビエト社会主義共和国連邦であり[20][21][22]、事実上計画経済をとるにも関わらず (en:Economy of Saudi Arabia) 、反共主義と君主制のために独立後、冷戦時はアメリカ合衆国や宗主国イギリスなどの西側諸国と緊密な関係を築き[注釈 1]、今日も中東では最大の親米国家で同盟国とされる。そのため、サウジアラビアの内政を西側諸国は表立っては非難しない最大の要因となっており、外交では常にサウジアラビアの姿勢・立場を擁護しており、イランやシリア等の反米国家に対する対応とは正反対となっている。一方で湾岸協力会議やイスラム協力機構の盟主としてイスラム圏に影響力を持ち、ユダヤ人国家であるイスラエルを承認していない。しかし両国ともにアメリカやイギリスとの関係が深いことから、表面的には対立を避けている。また、歴史的な関係が深く、ともに王室が存在しているスペインとは王室同士の交流が頻繁にあるなど、元来友好関係が深い。なお、イスラム国家に対する対立の歴史がない日本とも特に1960年代の高度経済成長以降日本がエネルギー外交を進めることもあり、石油の輸出入などの貿易を含め敵対的でない関係にある。しかし、サウジアラビアには文化の大きな違いがあるため宮内庁は日本の皇室のサウジアラビアへの接近には極めて慎重である。反面、経済的理由からサウジアラビアとのつながりを深めたい内閣等の強い要望で、皇太子徳仁親王が何度か訪問したことがあり、アブドラ国王崩御の際にも訪問している[24]


シーア派のイランとは敵対関係にあり、2016年1月2日にサウジアラビアがシーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけにイランとの関係は急速に悪化。イランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけにイランとの国交を断絶し[25]、これにバーレーン、スーダンも続いてイランとの国交断絶を表明した[26]。シーア派に近いアラウィー派のシリアのアサド政権とも強く敵対してきた。また、両国の同盟国であるロシアとの関係も良くないとされる。


2018年、カナダとサウジアラビアの間でにわかに緊張が高まっている[27]



亡命者の受け入れ


ウガンダのイディ・アミン、パキスタンのナワーズ・シャリーフ、チュニジアのザイン・アル=アービディーン・ベン=アリーなどの亡命を受け入れた。



軍事



基本統治法33条によればサウジアラビア軍が守るべきものの優先順位は一に「イスラム教義」、二に「二聖モスク」(マスジド・ハラームと預言者のモスク)、三番目が「社会と祖国」であり、「国民」の防衛は含まれていない。少なくとも建前の上では、国民及びその権利を守ることを第一とした民主国家の軍とは基本理念が異なる。


アメリカ軍と親密な関係を持ち、アメリカ中央軍の部隊駐留を認め、キング・ハリド軍事都市など国内にいくつもの米軍基地を置かせている。
兵站に必要な軍事施設同士の道路交通網などもアメリカによって整備されている。


装備は西側諸国のものだけでなく、例えば中国からは弾道ミサイルのDF-3やDF-21を導入している[28]。また、軍部と軍事産業との汚職もあり、特に、駐米大使を長く務めたバンダル・ビン・スルターン王子(当時国防大臣だったスルターン皇太子の息子 2012年から2014年まで総合情報庁長官)は1982年のF15の輸入に際してアメリカ議会で強力なロビー活動を展開し、またBAEシステムズとの400億ポンドにのぼる取引でも王子側に10億ポンドの賄賂が渡ったことが明らかになっている[29]。2011年の軍事支出は485億USドルと若干の増加傾向にある。


使用する兵器の大半は輸入に頼っているが、1998年にはダンマームの工場で国産のファハド装甲車を生産するなど、工業基盤の成熟に伴い兵器の国産化を始めている。
湾岸戦争とイラク戦争では後方基地としての役目を担っていた。


志願制であり、職業軍人により構成されている。



  • 正規軍

    • 陸軍

    • 海軍

    • 空軍

    • 防空軍



  • 準軍事組織

    • サウジアラビア国家警備隊

    • サウジアラビア王室警備隊

    • 総合情報庁

    • 武装警察

    • サウジライトニングフォース





地理





アラビア半島の衛星画像




サウジアラビアの地勢図




サウジアラビアの地図


アラビア半島の大部分を占め、紅海、ペルシア湾に面する。中東地域においては面積が最大級である。


北はクウェート、イラク、ヨルダン、南はイエメン、オマーン、アラブ首長国連邦、カタールと国境を接する。
かつては、イエメン、オマーン、アラブ首長国連邦との国境線は大部分が未画定であったが、2000年までにすべて画定した。
アラブ首長国連邦との国境は1974年の条約(英語版)によって一時画定し、これによりサウジアラビアはアル・アイン周辺の数ヶ村をアラブ首長国連邦へ譲り渡す代わりにカタールとアブダビとの間のアラビア湾に面した地域の割譲を受けて、アラブ首長国連邦とカタールとは国境を接しなくなった。しかし2006年にアラブ首長国連邦政府はふたたび割譲した地域の領有権を主張し、紛争が再燃した。


国土の大部分は砂漠で、北部にネフド砂漠、南部にルブアルハリ砂漠(広さ25万平方km)があり、その間をアッダハナと呼ばれる長さ1500kmに及ぶ砂丘地帯が結ぶ。鉄分を含むため赤色を呈し、衛星画像で弓状に曲がった地形が識別できる。砂漠と紅海の間には中央山地(北のヒジャーズ山地から南東のアシール山地)があり、標高2500m前後に達する。その間のマッカ州、バーハ州、アスィール州にかけては標高2000mを超える高原地帯が広がっている。南部には国内最高地点であるサウダ山(英語版)(標高3313m)がそびえる。



気候


気候は砂漠気候で夏は平均45°C、春と秋は29°Cで、冬はまれに零下になり、標高2000mの高原地帯では過去に積雪も観測されている。ジッダやダンマーム等の沿岸部は高温多湿、リヤド等の内陸部は高温乾燥となり内陸部は昼夜の気温差が大きい。標高1500~2200mに位置するターイフ、ハミース・ムシャイト、‎アブハー、バーハ等が位置する高原地帯は避暑地となり快適な気候となる。インド洋モンスーンの影響を受けるバーハ州、アスィール州は降水量が多く、年間降水量が200㎜~500㎜に達する。



行政区画



国内には13の州があるが、知事(アミール)は、すべて王族が勅任されている。



主要都市




サウジアラビアの都市の位置




  • リヤド(リヤード:首都、650万、標高612 m)


  • ジッダ(ジェッダ:397万、標高12 m)


  • メッカ(マッカ:191万、標高277 m)


  • マディーナ(メディナ:127万、標高608 m)


  • フフーフ(アル・フフーフ:113万、標高154 m)


  • ターイフ(110万、標高1,879 m)


  • ダンマーム(ダンマン:97万)


  • ブライダ(65万)


  • アル=フバル(62万)


  • タブーク(60万、標高760 m)


  • カティーフ(55万)


  • ハミース・ムシャイト(54万、標高2,066 m)


  • ハーイル(44万、標高992 m)


  • アル=ジュバイル(41万) - ロイヤルコミッション(英語版)(Royal Commission for Jubail and Yanbu)管轄の石油工業団地都市


  • アブハー(39万、標高2,270 m)


  • ナジュラーン(35万、標高1,293 m)


  • ヤンブー(ヤンブウ:32万)


  • バーハ(アル・バハ:10万、標高2,155 m)


  • ジーザーン(ジャーザーン:10万、標高40 m)



交通


西部にはイスラム教の2大聖地であるメッカとマディーナがあり、世界各地から巡礼者が訪れる。2007年からは非ムスリムに対しても観光ビザが発行されるようになったが、団体ツアーのみ発行され個人には発行されていないが、2018年中に外国人に対して観光ビザを発行する計画があることを明らかにしている。個人入国を認める査証は巡礼(巡礼ビザ、ムスリムのみ)か政府や各種団体(外交官ビザ、公用ビザ)、現地企業の招聘による仕事(商用短期訪問ビザ)、サウジアラビア在留者の家族(家族訪問ビザ)の場合のみ発行される。女性は既婚者が原則で夫または男性の近親者同伴、単独の場合は30歳以上であることが条件。


国営航空会社のサウジアラビア航空が世界各国[30]を結んでいる他、外国航空会社がリヤードやジッダなどの主要都市に乗り入れている。


世界で唯一女性が自動車を運転することが禁止されていた国であるが、2017年9月に解禁される方針が発表された[8](法的に禁止しているわけではないが運転免許の発給がされず、社会通念的にも運転は禁止されていると見なされた[31])。ただし、女性が財産として自動車を所有することは禁止されていない[31]。このため、女性が自動車を利用する場合は運転手を雇うか、親族男性に運転してもらわなければならなかった[31]。政府の統計によると、サウジアラビアの家庭が雇う男性運転手の数は約140万人で、多くは海外からの出稼ぎ労働者であった[32]。そして、2018年6月24日女性の運転が解禁された[9][10][11][12][13]


鉄道ではかつてはヒジャーズ鉄道が運行されていたが現在は廃止になっている。現代はサウジアラビア鉄道公社によってリヤド - ダンマーム間に旅客路線が運行されている。またハラマイン高速鉄道が建設されている。その他都市鉄道としてメッカにメッカ・メトロが運行され、リヤドでもリヤド・メトロの建設が進められている。ガルフ鉄道構想もある。



経済



2015年のGDPは約6320億ドルであり[33]、日本の近畿地方よりやや小さい経済規模である[34]。同年の一人当たりGDPは2万138ドルである[33]


OPECの盟主的存在であり、石油などの天然資源の採掘と輸出が主な外貨獲得源(石油が外貨収入の約90%を占めている)となっているほか、これらで獲得した外貨を世界各国で投資運用している。中央銀行は1952年に設立された通貨庁であり、政府系投資ファンドとしても知られている。


しかしながら製造業などは小規模なものしか存在せず、また巡礼者や業務渡航以外の一般観光客を受け入れていないことから、観光業による外貨獲得も非常に低い。この為、近年では政府主導でITなどを中心とした経済多角化を進めているが、依然として天然資源開発関連以外の分野においては外国資本導入が進んでいない。


2010年9月、英国のシンクタンクのZ/Yenグループによると、リヤドは世界第69位の金融センターと評価されており、中東ではドバイ、カタール、バーレーンと比較するとまだ出遅れている[35]


こうした状況を打開するために、ムハンマド・ビン・サルマーンが中心となり「ビジョン2030」と題された経済大改革を打ち出すなどしている[36]


G20の一員となっている。



主な企業



  • サウジアラビア航空

  • サウジアラムコ

  • SABIC (Saudi Basic Industries Corporation)

  • キングダム・ホールディング・カンパニー

  • サウジ・ビンラディン・グループ



水資源


サウジアラビアの水資源は、古くはオアシスなどの湧水と井戸からの取水に頼ってきた。聖地メッカではザムザムの泉と呼ばれるわき水を頼りに定住生活が営まれてきた。1932年に300メートル以上の深井戸の掘削に成功すると化石水の採取により水の供給量は大幅に増加し農業生産を支えている。汲み上げられる地下水は、アラビア半島が湿潤だった1万年以上前に降った雨水が地下の帯水層に閉じこめられた化石水であり、現在ではほとんど補給されることがない。このため各地の井戸では水位の低下が深刻になってきており、現在のペースで水を使い続ければ、地下水資源は2040年までに枯渇すると予測されている。


サウジアラビアは世界最大の海水淡水化プラント稼働国である。20余りの主要都市に人口の80%が集中しており、都市部ではオアシスや地下水だけではまったく足りないため、海水淡水化プラントからの供給無しには生活できない。アシュベールにある世界最大のプラントは毎日100万トンを生産しており、国全体では年間で12億2千万立方メートルの水を海水淡水化によって得ている。プラントの多くは1970~1980年代に建設されており、2000年ごろから多くのプラントが老朽化を迎え始め、メンテナンスと建て替えのために多くの事業が日本を始めとする海外へ発注されている。主要都市では下水を再処理して都市周辺の農業用水に回すための浄化施設がある。海水淡水化プラントから供給される水は1リットルあたり2リヤルのコストがかかり、さらに内陸部へ送水するのに1 - 2リヤルのコストがかかるため、大変に高価な水である。しかし、水道代は10トン1リヤルほどで、一般家庭の水道代が1か月4リヤルを超えることはあまりない。送水設備とコストの関係から主要都市部以外への送水はあまり活発ではなく、地方では古来からの井戸とオアシスの水源に頼っている。


リヤドなど内陸部でも毎年冬場になると数日は雨が降る。ただ、砂漠気候であるため、わずかな期間に集中して降り、数日経てば再び乾燥するため水資源としての価値はない。近年になってからは降雨量は増加傾向にあり、雨が降ると都市の低地が水没するようになっている。もともと砂漠であるため都市部には排水路などの水害対策の設備が全くなく、毎年水害によって数十人の死者が出ている。膨大な地下水のくみ上げと淡水化プラントによって総雨量を超えるほどの水が使用されていることが原因ではないかと言われており、実際にここ20年あまりでサウジアラビアの気候が穏やかになってきている。



国民






















国籍

サウジアラビア国籍
  
69%
外国籍
  
31%



民族




サウジアラビアの人口密度分布図


広大なアラビア半島には古来から続く無数の部族勢力が跋扈しており、サウド家による長年の中央集権化政策・部族解体政策にも関わらずサウジアラビア人という民族意識の形成には至っていない[要出典]。部族社会が定住民だけでなく遊牧民から形成されていること、各地に点在する少数派宗教なども状況を難しくしている。サウード家自身、中央集権化政策が頓挫するたびに部族間・宗教間のパワーバランスを権力保持に利用している[要出典]


概ねサウジの住人は、サウジ国民という意識の前に「どの部族の出身か」(部族対立)、「どの地方の出身か」(地方対立)、「どの宗派を信じるか」(宗教対立)、「どの階級に属するか」(階級対立)で自らを認識しているという[要出典]
統計局が発表した2010年の人口統計は27,136,977人で、サウジアラビア国籍が18,707,576人と全体の69%に過ぎず、外国人が8,429,401人となっており、総人口の31%が外国人労働者である。最も多い外国人はインド人とパキスタン人でそれぞれ130万~150万人に達する。次いで、エジプト人、イエメン人、バングラデシュ人、フィリピン人、ヨルダン人、インドネシア人、スリランカ人、スーダン人などが多くなっている。


労働省によると、登録されている家庭内労働者120万人のうち、女性48万人がメイド(アラビア語:خادمة)として登録されている。



言語


言語は公用語が古典アラビア語で、日常生活での共通口語は、サウジアラビアの現代口語アラビア語変種である。




  • アラビア語ヒジャーズ方言 (約600万人) - アラビア半島の紅海沿岸の地方


  • アラビア語ナジュド方言 (約800万人) - アラビア半島の中央部にある高原地帯


  • アラビア語湾岸方言 (約20万人) - ペルシャ湾岸


外国人労働者の母語として、いくつかの言語が話されている。




  • タガログ語 (約70万人)


  • ロヒンギャ語 (約40万人)


  • ウルドゥー語 (約38万人)


  • アラビア語エジプト方言 (約30万人)



宗教





メッカのカアバ神殿






















宗教構成(サウジアラビア)

イスラム教スンニ派
  
85%
イスラム教シーア派
  
15%


宗教はイスラム教が国教である。このため、国民が他の宗教を信仰することは禁じられており、サウジアラビア国籍の取得の際にもイスラム教への改宗が義務付けられている。西部にイスラム教の聖地であるメッカがあるため、世界各地から巡礼者が訪れることもあってイスラム世界においての影響力は最も大きい。このため、サウジアラビア国民はイスラム教徒が100%であると公表されているが、これは他の宗派や宗教の存在を公式に認めていないという建前上の見解によるものである。実際には国内に多数のシーア派は住んでおり、財団法人中東経済研究所の調査によると、シーア派はイランと地理的に近い東部州に多く東部州の人口の42.5%を占めており、サウジ全土では6.4%になると推定されている。また、イエメンに近い南部のアブハーなどもシーア派(イスマーイール派、ザイド派)が多いとみられる。CIAによる統計ではスンニ派が85~90%、シーア派が10~15%と推計されている[37]


多数のシーア派の居住する東部地方はアハサーと呼ばれていた土地で、サウジアラビアに征服され併合された土地である。初代国王アブドルアジーズは東部州を併合するのに際しシーア派住民による一定の自治を認めたが、時代と共に自治権を奪われ名目上は存在しないことにされてしまったという経緯がある。このため、長年にわたりシーア派の宗教機関は非合法な存在とされてきた。湾岸戦争以降は、反体制運動を行っていたシーア派を容認、和解した。


湾岸戦争以降は他の宗派を容認する方向へ方針転換を行い、法律上もシーア派以外にも他宗教の存在を公式に認めている。近年では他宗教の信仰も限定的ながら解禁されてきている[要出典]。しかし、これは建前上のものとされ、地方では他宗派への差別的政策が未だ執られている。また、他宗教の容認は国政の一層のイスラーム化を求めるイスラーム主義の改革運動の激化を引き起こし、サウジアラビア人によるイスラーム主義武装闘争派のテロを引き起こした。このため、各個人や集団による私的なジハードを禁止するために、国王の勅令がなければ禁止とする法令が出された。


国民の4%はキリスト教徒だとも言われているが、内務省の統計では外国人居住者(数十万人のアメリカ軍関係者と外国人)もキリスト教徒に含まれている。
近年では宗教指導者たちが示す宗教的見解と民衆の生活の乖離が進み、国民が宗教的な指導に従わなくなってきており、宗教指導者がハラーム(禁忌)であるとファトワー(宗教見解)を出したものの多くを民衆が利用していることが珍しくなくなった。代表的なものとしてポケモン、バレンタインデー、クリスマスなどがある。


民衆が宗教指導者の言うことを聞かなくなった結果、宗教指導者が今まで以上に原理主義的で過激な発言を繰り返したり、宗教警察である勧善懲悪委員会による取り締まりを過激化させる傾向にある。
このような過激な発言がニュースで配信されたりしてネット上で話題になることがあるが、発言と実情がかけ離れていることが多い。
2008年には過激派宗教指導者二人が国王によって解任されるなど、過激派宗教指導者はサウジアラビアでも排除され始めている[要出典]


サウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議は長年にわたりワッハーブ派が独占してきたが、近年になって近い宗派であるシャーフィイー学派がわずかに参加するようになり、2009年2月14日に21名に増員されるとハナフィー学派とマーリク学派のウラマーも入った[要出典]。これによってサウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議がワッハーブ派の独占ではなくなりスンナ派の四大法学派が全てそろったことになる。



教育


イスラム教を国教とする祭政一致国家のため宗教教育が重視されるが、自然科学や実技については不十分とされる。初等教育の段階でクルアーン(コーラン)の朗誦、講義を受ける。高等教育ではコンピューターや金融など第三次産業に関わるカリキュラムが組まれる。一方、初の工科系大学であり男女共学制のサウジアラビア王立科学技術大学(英語版) (KAUST) が、2009年9月に100億ドルの基金で設立された。
また、シーア派を邪教とする教育が、シーア派を含むすべての国民に対して長らく行われてきたとされる。


2008年10月29日、これまで女性が学ぶことが困難であった医学、経営学、外国語などを教えるサウジアラビア初の女性専用の総合大学を創設することが国王アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウードによって決定され、リヤド郊外で起工式が行われた。


女子がスポーツを行う機会は限られており、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、「公教育で女子の体育を禁じている唯一の国」として批判している。サウジアラビア教育省は、2013年5月、一部私立校で女子の体育の授業を認めると発表した[38]。2012年のロンドンオリンピックに、初めて女性選手を送るなど、近年、僅かながらではあるが女子のスポーツへの門戸が徐々に開かれている[39]



文化



スポーツ





キング・ファハド国際スタジアム


近隣の中東諸国同様サッカーが盛んであり、実際に中東、アジア内の強豪の一国として知られている。アジアカップの上位争いの常連であるだけでなく、FIFAワールドカップの常連としても知られている。


一方で、厳しい気象条件から屋外スポーツはもとより、外で運動する習慣に乏しいという実態がある。このため、成人の肥満率は30-35%近くに達すると推計されている。政府は状況を問題視しており、スポーツの振興や健康増進に向けて様々な取り組みが行われている[40]



大衆文化


1965年からテレビ放送が始まったが、宗教指導者がテレビに対して否定的見解を示しているため、現在でもアパートなどでテレビ不可を入居条件に明記している所がある。娯楽番組の視聴には衛星放送が広く利用されており、同じアラビア語圏の番組が衛星放送を利用して視聴されている。
近年では国営放送でも日本のアニメを放送するなど非常に軟化した態度を示すようになったが、これに反発した宗教指導者が2001年にポケモン禁止令を出した[41]。しかし、数年後に事件が鎮火すると再び放送されており、ポケモン禁止直後にデジモンアドベンチャーが放送されるなど放送業界は柔軟な態度を示している。


  • ポケモン禁止令の詳細はポケットモンスター#ポケットモンスターに関する様々な逆風を参照

また、派手なライフスタイルで知られる米国人のパリス・ヒルトンがサウジアラビアなどの中東でのみファッションブランドを展開し、その店舗はイスラム教の聖地メッカにも進出しているという事実があり、一般の欧米人よりも派手で身体の露出の大きい衣服を売り物にしたファッションブランドが女性に人気という側面がある。



ネット文化


インターネットの規制が厳しく、国内から海外のサイトへの接続は厳しく制限されている(ネット検閲)。
国内ではアラビア語の出会い系サイトやSNSなどが運営されている。家族以外の男女は会話をすることすら禁止されているが、親族男性の代理人がメールや書き込みを行っているという設定で女性が直接書き込んでいたりして、脱法行為的にネット上での男女交際が行われることも多い。



出版


厳重な報道管制と言論統制が敷かれており、当局が許可した書籍でなければ販売することが出来ない。特に王族に関する批判的な書籍は検閲で発売を禁じられ、世界の長者番付が掲載されアブドゥッラー現国王の資産が公開されたビジネス誌『フォーブス』は国内発禁となるなど不敬規定がある。内政に関する外国マスメディアの取材も大幅に制限され、日本ではNHK『クローズアップ現代』が2006年12月にようやく許された程度である[42]


しかし、2007年にはサウジアラビアの女性を主人公にした小説「リヤドの女たち」の発禁処分が解かれ、ベストセラーになるなど少しずつ自由化してきている。
厳しい検閲が実施されているが、出版の抜け道としてメールマガジンがある。メールの送信は出版とはみなされていないため、紙に印刷されないメールマガジンによる発行は合法とされている。リヤドの女たちも元はメールマガジンで発行されていた小説だった。


出版物に関する著作権は著作権審議委員会によって管理されており、カーディ裁判は著作権問題による訴えを扱わないため、著作権侵害があった場合は民事訴訟などではなく委員会に申し立てることになっている。ただし、申し立てが出来るのは検閲による許可を受けている出版物のみで、日本や欧米のように無条件に著作物に著作権があるわけではない。



映画館


2018年4月20日、約35年ぶりに映画が一般向けに上映された。(映画自体はDVDやブルーレイで視聴でき、設備を備えた文化センターのような施設がありたびたび上映されていた[43])1980年代、映画館を低俗で罪深いものと非難する宗教界の保守強硬派の働きかけを受け、国内の映画館を閉鎖していた[44]



脚注


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注釈




  1. ^ ただし、中華人民共和国から弾道ミサイルを導入した際はアメリカとの摩擦があった[23]



出典



  1. ^ abcdIMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])


  2. ^ “サウジの人権侵害への世界的な非難”. Pars Today (2016年8月20日). 2017年9月10日閲覧。


  3. ^ “中国とサウジ、国連人権理事会入り濃厚も「人権侵害国家に?」批判の声”. 産経新聞社 (2013年11月8日). 2017年9月10日閲覧。


  4. ^ “サウジに子どもの死刑撤廃など要求、国連子どもの権利委員会”. AFP通信 (2016年10月8日). 2017年9月10日閲覧。


  5. ^ Otto, Jan Michiel (2010). Sharia Incorporated: A Comparative Overview of the Legal Systems of Twelve Muslim Countries in Past and Present. p. 175. ISBN 978-90-8728-057-4. 


  6. ^ 距離が縮まるイラクとサウジアラビアニューズウィーク日本版公式ホームページ


  7. ^ 統治基本法日本語訳文

  8. ^ ab“サウジアラビア、女性の自動車運転を許可する国王令”. BBC News (BBC). (2017年9月27日). http://www.bbc.com/japanese/41410207 2017年9月27日閲覧。 

  9. ^ abサウジアラビアで女性の運転解禁AFP、2018年6月26日閲覧。

  10. ^ ab「とても興奮しています」女性の車運転解禁毎日新聞、2018年6月26日閲覧。

  11. ^ abサウジで女性の車の運転が解禁 「とても興奮しています」産経新聞、2018年6月26日閲覧。

  12. ^ ab女性たちは笑顔でハンドルを握った。サウジアラビアで運転解禁HUFFPOST、2018年6月26日閲覧。

  13. ^ abサウジで女性の自動車運転が解禁 現地女性が喜び語るBBC、2018年6月26日閲覧。


  14. ^ フランス通信社 (2008年3月18日). “Saudi 11-year-old marries 10-year-old cousin”. BREITBART. 2008年9月26日閲覧。


  15. ^ “サウジで10歳の少年と9歳の少女が結婚!!”. Latina@最新海外トピックス. ラティーナ (2008年4月12日). 2008年9月26日閲覧。


  16. ^ 父親の借金清算で8歳女児結婚 サウジ、無効確認申し立て退ける


  17. ^ 8歳少女と47歳男性の結婚、裁判所が容認 サウジ


  18. ^ 「10歳少女の結婚も法的に可能」、サウジのイスラム教最高指導者AFP・BBニュース、2009年1月16日付


  19. ^ 中東戦争及びオイルショックを参照


  20. ^ Ismael, Tareq Y., The Communist Movement in the Arab World. New York: RoutledgeCurzon, 2005. p. 9.


  21. ^ Al Kahtani, Mohammad Zaid (2004年12月). “The Foreign Policy of King Abdulaziz”. University of Leeds. 2016年1月26日閲覧。


  22. ^ Quandt, William B. (Autumn 1981). “Riyadh between the Superpowers”. Foreign Policy (44): 37-56. http://www.jstor.org/stable/1148544 2016年1月26日閲覧。. 


  23. ^ Geoffrey Kemp. The East Moves West: India, China, and Asia's Growing Presence in the Middle East. Washington DC: Brookings Institution Press, 2010. Print.


  24. ^ 政府専用機、サウジアラビア国王崩御による皇太子殿下の御弔問で運航 FlyTeam ニュース


  25. ^ “サウジがイランと断交、シーア派指導者処刑で宗派対立悪化”. ロイター (ロイター). (2016年1月4日). http://jp.reuters.com/article/saudi-security-iran-ties-idJPKBN0UH0QK20160104 2016年1月4日閲覧。 


  26. ^ “スーダンもイランと断交 UAEは外交格下げ、周辺国に影響拡大”. ロイター (ロイター). (2016年1月4日). http://jp.reuters.com/article/saudi-iran-sudan-idJPKBN0UI1DB20160104 2016年1月4日閲覧。 


  27. ^ “カナダとサウジ、人権問題めぐり緊張高まる トルドー首相は謝罪拒否”. AFP (2018年8月9日). 2018年9月1日閲覧。


  28. ^ Exclusive: CIA Helped Saudis in Secret Chinese Missile Deal


  29. ^ サウジ王子の米国内資産の国外移転を禁止、米裁判所。AFP通信2008年2月11日


  30. ^ 極東地域は香港までが限度としており、成田国際空港の発着枠がないことから、現段階では日本への路線がない。また、外国人の出入国に対してもとりわけ厳しい。

  31. ^ abc榊原 櫻, サウジアラビアの女性自動車運転容認問題, 中東協力センターニュース, 2011年6/7月号, pp. 29-34.


  32. ^ 男性運転手が大量失職か、女性の車運転解禁で CNN(2017年9月28日)2018年1月12日閲覧

  33. ^ abIMF2016年1月2日閲覧。


  34. ^ 県民経済計算内閣府 2016年10月30日閲覧。


  35. ^ The Global Financial Centres Index8


  36. ^ “サウジアラビアの「ビジョン2030」とは?” (2016年5月9日). 2017年3月11日閲覧。


  37. ^ “The World Factbook”. 2012. Central Intelligence Agency. 2014年4月22日閲覧。


  38. ^ “サウジアラビア:女子生徒の体育授業、初めて公認”. 毎日新聞. (2013年5月13日). http://mainichi.jp/select/news/20130513k0000e030168000c.html 2013年5月13日閲覧。 


  39. ^ “サウジ女性が初のエベレスト登頂”. CNN. (2013年5月20日). http://www.cnn.co.jp/showbiz/35032262.html 2013年5月22日閲覧。 


  40. ^ 伝説の番組「風雲!たけし城」が、サウジアラビアで「要塞」と呼ばれ親しまれていた HARBOR BUSINESS Online(2017年11月25日)2017年11月25日閲覧


  41. ^ “Saudi bans Pokemon”. 2008年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月5日閲覧。


  42. ^ “苦悩する石油大国〜サウジアラビア最新報告〜”. クローズアップ現代. 日本放送協会 (2007年1月9日). 2008年9月26日閲覧。


  43. ^ 「映画禁止ではなかった」サウジ映画館解禁の伝えられない話newsweek、2018年6月15日閲覧。


  44. ^ “サウジアラビア、35年ぶりに映画一般公開”. AFP (2018年4月21日). 2018年5月3日閲覧。




関連項目



  • サウジアラビア関係記事の一覧

  • アラビア石油

  • サウジアラビアの法制

  • サウジアラビアにおける死刑

  • サウジアラビアにおける信教の自由

  • サウジアラビアにおける女性の人権


  • マンスール・オジェ(サウジアラビア国籍のセレブリティ)

  • オサマ・ビンラディン


  • サウジアラビアロイヤルカップ富士ステークス(競馬レース)










政府



  • サウジアラビア王国政府 (英語)


  • 在日サウジアラビア大使館 (日本語)


日本政府



  • サウジアラビア王国(外務省)

  • 在サウジアラビア日本大使館


観光


  • 最高観光委員会 (アラビア語)(英語)

その他



  • サウジアラビア(日本貿易振興機構) (日本語)


  • 「ISのような国」:サウジアラビアの実態(GNV)(日本語)


  • サウジアラビア(財団法人中東協力センター) (日本語)

  • アラブ・イスラーム学院


  • "Saudi Arabia". The World Factbook. Central Intelligence Agency.  (英語)


  • サウジアラビア - DMOZ (英語)


  • サウジアラビアのウィキメディア地図 (英語)














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