三河一向一揆










「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」 月岡芳年筆 明治6年(1873年)


三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、戦国時代に三河国の西三河全域で永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)まで半年ほど行われた一向一揆である。曹洞宗の勢力が強かった東三河は該当しない。




目次






  • 1 概要


  • 2 三河三ヶ寺と、不入の特権


  • 3 三河一向一揆の発端


  • 4 一向一揆側についた家康家臣


  • 5 一揆の収束とその後


  • 6 脚注


  • 7 参考文献


  • 8 関連項目





概要


現在の安城市野寺の本證寺第十代・空誓(蓮如の孫)が中心となって浄土真宗本願寺派門徒に檄を飛ばし、領主の松平(のちの徳川)家康と戦った。『三州一向宗乱記』に「当国碧海郡野寺村の本證寺と申すは、一向宗の小本寺にて、守護不入の道場、当国三箇寺の其の一箇寺なり」と記載されている。


中心勢力は、三河三ヶ寺と本宗寺および、桜井松平氏、大草松平氏、吉良氏、荒川氏といった反家康勢力である。門徒側には、家康の家臣の本多正信(後の家康の参謀)や蜂屋貞次(徳川十六神将)や夏目吉信(三方ヶ原の戦いで家康の身代りとして討死)が参加するなど、内紛の様相も呈していた。松平宗家に台頭した安城松平家(家康の家系)が三河の中原に位置する安祥城に居城していた時代から、もともと真宗門徒でもあった安城譜代を勢力拡張に伴って家臣団化したものであり、その最たるものは、本證寺門徒でもあった石川氏である。一族の間で門徒方と家康方に分裂するなど、主君に対する踏み絵にもなった。


三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機とされる。敵からも「犬のように忠実」と半ば揶揄される形で評価された三河家臣団の半数が、門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつける事となった。


大久保忠教の『三河物語』に詳細が長文に渡って記述されている。また、『三州一向宗乱記』にも詳しい。



三河三ヶ寺と、不入の特権


本證寺(安城市野寺町)、上宮寺(じょうぐうじ・岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(岡崎市針崎町)は、三河における本願寺教団の拠点で三河三ヶ寺と呼称され、松平広忠(家康の父)の代に守護使不入の特権を与えられていた。



三河一向一揆の発端


三州一向宗乱記では、本證寺での発端説を第一に挙げ、次に本證寺での別説、さらに上宮寺での説を二通り挙げている。諸説あると解説している。




大久保忠教の著書『三河物語』の記述


永禄5年(1562年)に本證寺に侵入した無法者を西尾城主酒井正親が捕縛したため、守護使不入の特権を侵害されたとして、永禄6年(1563年)正月に一揆が起こったという。

上宮寺発端説

永禄6年(1563年)に松平氏家臣の菅沼定顕に命じて上宮寺の付近に砦を築かせ、上宮寺から兵糧とする穀物を奪ったことに端を発したという(しかし、菅沼定顕という家臣の実在が不詳)。


東照宮御実紀巻二の記述。御家人等佐崎の上宮寺の籾をむげにとり入たるより。一向専修の門徒等俄に蜂起する事ありしに。


不入特権を主張する三河三ヶ寺と、教団の利権を解体して三河国統一を目指す徳川家康との対立が深まり、守護使不入の特権が侵害されたことに端を発して、本證寺第十代・空誓(蓮如の孫)は、上宮寺や勝鬘寺と共に檄を飛ばし、本願寺派門徒を招集して菅沼氏の砦を襲撃した。真宗門徒の松平氏家臣や、吉良氏などの有力豪族や今川氏の残党なども加わり、松平氏の本城である岡崎城まで攻め上り、家康を窮地に陥れた。


本願寺派とは仲が悪い真宗高田派の有力寺院である桑子明眼寺・菅生満性寺は家康についた。


ただし、こうした一揆の描き方には異論も出されている。平野明夫は永禄6年の家康の動向について分析したところ、上野城の酒井忠尚の挙兵が永禄6年6月(もしくはそれ以前)、寺部城の小笠原広重の挙兵が同年10月以前、東条城の吉良義昭の挙兵は同年10月下旬、一向一揆の発生が確認できるのは同年12月(もしくはそれ以前)に一揆軍が本多広孝の土井城が攻撃した後のことである。また、酒井・小笠原・吉良が一向一揆やこれを支持した家康家臣と連絡を取り合ったり、共同作戦を取ったとする形跡がない点(一向一揆が岡崎城に迫った時期にも自領に留まって岡崎へ兵を進めなかった)に注目して、酒井・吉良氏らの挙兵と一向一揆はともに家康を標的としたものであるが、あくまでも両者には関連性は無かったとしている[1]



一向一揆側についた家康家臣



  • 本多正信

  • 本多正重

  • 渡辺守綱

  • 蜂屋貞次

  • 夏目吉信

  • 内藤清長

  • 加藤教明



一揆の収束とその後


永禄7年(1564年)1月15日の馬頭原合戦の勝利で、徳川家康は優位に立ち、和議に持ち込み、一揆の解体に成功する。和議の仲介にも関わった水野信元の書状には永禄7年の春には和議が整って国内が平穏になったことが記されている[2]。その後、同年4月には小笠原氏が家康に従い、その後も抵抗を続けた吉良氏と酒井忠尚は追放されている[3]


一揆に与した武士の中には、主君への忠誠心と信仰心の板ばさみにあって苦しんでいる者もあった。その様な武士には一揆を離脱して帰参することを望む者が多くいたため、一揆は収束に向かった。またこの時、本宗寺は御坊を焼失し、勝鬘寺は伽藍を焼失していた。家康は和議を結ぶことで一揆衆を完全に解体させた後、本願寺派の寺院に他派・他宗への改宗を迫り、これを拒んだ場合は破却した。


一方、本願寺派の弾圧については次の見方もある。家臣の離反に悩まされた家康は自分に味方した家臣に対して徳政令を出して本願寺派の寺院など敵対者からの債務の返済を免除した[4]。ところが、一向一揆との和議後にその扱いが問題になった。和議の仲介にあたった水野信元は徳政令の一部でも認めて欲しいと本宗寺などに申し入れる[2]が、本願寺派寺院は徳政令は和議の条件に反すると反発した。和議の条件と家臣との約束の間で追い詰められた家康は永禄7年12月もしくはそれ以降に本願寺派の弾圧に踏み切ったとされる[5]


一揆の終結より19年後の天正11年(1583年)まで、三河国は本願寺派禁制の地となった。しかし、家康は本願寺教団に厳格な処分を下す一方、離反した家臣には寛大な処置で臨む事で家中の結束を高める事に成功した(本多正信など、一部の家臣は出奔した)。


この経験により、家康は本願寺教団の力が戦国大名にとって大きな脅威であることを身をもって理解することとなった。これが後世、本願寺教団の分裂に際し、教如を支持する一派(今の真宗大谷派)に土地を寄進して分裂を支持する行動に繋がったと言われている。


この一揆は、三河における分国支配の確立を目指した家康に対して、その動きを阻もうと試みた一向宗勢力が、一族や家臣団を巻き込んで引き起こしたものである。その意味では、松平宗家(徳川家)が戦国大名として領国の一円支配を達成する際に、必ず乗り越えなければならない一つの関門であったと考えられる。



脚注




  1. ^ 平野、2017年、P9-16

  2. ^ ab(永禄7年)12月朔日付け「水野信元書状」(本光寺常盤歴史資料館所蔵文書・『愛知県史 資料編10 織豊1』402号)


  3. ^ 平野、2017年、P24-25・36。なお、『松平記』には酒井忠尚の追放を永禄7年9月6日としており、家康と一向一揆との和議後も抵抗を続けていたことになる。


  4. ^ 平野、2017年、P21-24


  5. ^ 平野、2017年、P13-16



参考文献


  • 平野明夫「永禄六年・同七年の家康の戦い-三河一向一揆の過程-」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-013-6


関連項目



  • 徳川家康

  • 一向一揆

  • 安城市

  • 浄土真宗





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