林銑十郎


































































































日本の旗 日本の政治家
林 銑十郎
はやし せんじゅうろう


Premier Senjuro Hayashi.jpg
総理在任時(1937年)

生年月日
1876年2月23日
出生地
日本の旗 日本 石川県金沢市
没年月日
(1943-02-04) 1943年2月4日(66歳没)
死没地
日本の旗 日本 東京府
出身校
陸軍大学校卒業
前職
軍事参議官
称号
帝國陸軍の階級―肩章―大将.svg 陸軍大将
正二位
勲一等旭日桐花大綬章
功四級金鵄勲章
配偶者
林初治
子女
中田純子(長女)
斎藤禌子(四女)
親族
白上佑吉(弟)
サイン
HayashiS kao.png




日本の旗 第33代 内閣総理大臣

内閣
林内閣
在任期間
1937年2月2日 - 1937年6月4日
天皇
昭和天皇




日本の旗 第46代 文部大臣(首相兼任)

内閣
林内閣
在任期間
1937年2月2日 - 1937年6月4日




日本の旗 第53代 外務大臣(首相兼任)

内閣
林内閣
在任期間
1937年2月2日 - 1937年3月3日




日本の旗 第39-40代 陸軍大臣

内閣
齋藤内閣
岡田内閣
在任期間
1934年1月23日 - 1935年9月5日
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林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、1876年(明治9年)2月23日 - 1943年(昭和18年)2月4日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍大将、正二位、勲一等、功四級。


斎藤内閣と岡田内閣の陸軍大臣を務めた後、内閣総理大臣(第33代)となり、文部大臣を兼任、組閣直後には外務大臣も短期間兼任した。




目次






  • 1 来歴


  • 2 越境将軍


  • 3 食い逃げ解散


  • 4 人となり


  • 5 年譜


  • 6 栄典


  • 7 記念・栄誉


  • 8 家族・親族


  • 9 系譜


  • 10 著作


  • 11 出典


  • 12 参考文献


  • 13 関連項目





来歴


石川県金沢市小立野に旧加賀藩士林孜々郎の子として生まれる。母は別所さは(別所兎毛三の四女)。金沢市尋常師範附属小学校を経て、1894年(明治27年)7月、日清戦争が始まると、四高補充科を中退し、士官候補生となり陸軍士官学校に入校。1897年(明治30年)6月28日、少尉任官、歩兵第7連隊付となる。1903年(明治36年)、陸軍大学校を卒業。


1905年(明治38年)に始まった日露戦争に従軍し、旅順攻撃に参加。以後、陸軍大学校校長、近衛師団長、朝鮮軍司令官、陸軍大将と進み、齋藤内閣、岡田内閣で陸軍大臣を務める。


1937年(昭和12年)、内閣総理大臣となる。


1943年(昭和18年) 1月半ば頃から風邪をこじらせ、自宅療養中に脳溢血を発症、そのまま2月4日に薨去。66歳だった。



越境将軍




林はカイゼル髭で有名だった



林内閣は発足当時から色々と評判の悪い内閣だったが、それは林の性格から来ている部分も多い。


林は常に周囲の最強硬論を鵜呑みにするところがあったため、陸軍部内では革新派のロボットになりやすいと見られていた。満州事変が起こった際、朝鮮軍司令官の職にあった林は、強硬派の神田正種参謀の進言を入れて、中央の指示なしに朝鮮派遣軍を満州に進め越境将軍(えっきょう しょうぐん)の異名をとった。天皇の勅裁を受けていない軍隊の国外派兵は統帥権干犯である。しかし林はそんなことには意も介さず、むしろ金谷範三参謀総長から「命令が出るまで増援はならぬ」と命令されたことに対して「意外なる命令あり」と日記に記すほどだった。


岡田内閣の陸相時代には、皇道派の重鎮・真崎甚三郎教育総監を辞めさせている。この措置は、統制派の中心・永田鉄山軍務局長の意向に沿ったものといわれる。こうした林の性格を石原莞爾は「林大将なら猫にも虎にもなる。自由自在にすることができる」と評している。


その一方で、林には変わり身の早い面もあった。元々皇道派の真崎に近いと見られていたのに、二・二六事件に前後していつの間にか統制派に鞍替えしていたのもその一例であり、大命降下後に満州組の石原の助言で閣僚選びを進めていたのが、それが陸軍主流派の了解を得られないと見るや石原もろとも満州組を周囲から駆逐したのもまたその一例である。


家庭内の細かな問題にもなかなか結論を出さない。こうと決めた後の処理は早いのだが、それまでに時間がかかり、その上無口で説明不足ときているから誤解を受けることが多かった。そんな林を人は後入斎(こうにゅうさい)と呼んだ。



食い逃げ解散




初閣議後の記者会見で所信を表明(1937年2月2日)



1937年(昭和12年)3月末、林は突然衆議院を解散して総選挙に踏み切る。昭和12年度の予算はその前日に成立しており、特にこれといって解散する理由もなかったことから、世上はこれを「食い逃げ解散」と評した。この前夜に林は2人の陸軍予備役将校と会談し、その席上林は解散を強要されたとの噂が流れた。そうした事実はなかったが、林が圧力に弱いロボット総理と見られていたことに起因している。その一方で林自身は解散・総選挙により新党運動が起こり、既成政党の改革が進むと見ていた。そもそも林は暫定政権のつもりで、「早く片付けて後は玄人に譲りたい」と、側近に漏らしていた。林が片付けたいと思っていたのは、政治正常化という課題であり、「玄人」とは近衛文麿を指すといわれる。


ところが、選挙になっても近衛は林の期待通りに新党運動に動かず、林自身も政治改革派の無所属候補を積極的に応援しないものだから、選挙後の各党の勢力図はむしろ政党勢力を勢いづかせる結果となった。右翼の一部からは、もう一度解散して政党を懲罰せよとの意見もあがったが、さすがの陸軍もこの有様では林を見放さざるを得ず、林内閣は選挙後早々に総辞職に追い込まれた。結局林内閣は短命で特に何もしなかったことから、林の名をもじって何にもせんじゅうろう内閣と皮肉られた。先代の広田内閣から続くこうした政局の混乱は、国民に新世代の出現を願わせ、次の第1次近衛内閣に過剰な期待をかける原因ともなった。



人となり




内閣総理大臣時の林銑十郎


その豪快なカイゼル髭にもかかわらず、林の素顔は謹厳で温厚だった。酒は一切飲まず、晩年は煙草も、唯一の趣味だったビリヤードもやめた。信心深いところがあり、首相に就任してから「祭政一致」とぶちあげたことから、元老・西園寺公望などは憲法違反ではないかと危ぶんだ。現在でもよく林のこの声明は「神権政治」への復古であると思われがちだが、この言葉に秘められた林の真意は、神に仕えるつもりで誠心誠意政治に取り組むということだったようだ[要出典]


昭和17年9月、真崎邸を訪れた林は、「何もかも、君のいう通りになってしまった。何とも申しわけがない」といって、深く頭を下げて詫びたというのも、林の実直さを示す逸話の一つである。


意外な所では、林はイスラム教に関連した諸事の第一人者であり、自身は回教徒ではなかったが大日本回教協会の会長を務めている。同協会は在日回教徒のためにモスク・回教会館・神学校・図書館・宿泊所などの設立を目指して活動し、協会誌である『回教世界』を発刊している。



年譜




総理就任を祝う家族らと



  • 1896年(明治29年)- 陸軍士官学校卒業(第8期)

  • 1903年(明治36年)- 陸軍大学校卒業(第17期)

  • 1925年(大正14年)- 歩兵第二旅団長

  • 1926年(大正15年)- 陸軍中将に進級、東京湾要塞司令官

  • 1927年(昭和2年)- 陸軍大学校長

  • 1929年(昭和4年)- 近衛師団長

  • 1930年(昭和5年)- 朝鮮軍司令官

  • 1931年(昭和6年)- 満州事変勃発の際に関東軍の要請を入れて独断で満州に進軍

  • 1932年(昭和7年)- 陸軍大将に進級

  • 1936年(昭和11年)- 予備役編入

  • 1937年(昭和12年)- 内閣総理大臣

  • 1940年(昭和15年)- 内閣参議

  • 1942年(昭和17年)- 大日本興亜同盟総裁

  • 1943年(昭和18年)- 2月4日に薨去、正二位・勲一等旭日桐花大綬章(没時陞叙)



栄典


叙位


  • 1897年(明治30年)10月15日 - 正八位[1]

  • 1899年(明治32年)12月26日 - 従七位[1]

  • 1904年(明治37年)3月22日 - 正七位[1]

  • 1909年(明治42年)3月1日 - 従六位[1]

  • 1914年(大正3年)3月10日 - 正六位[1]

  • 1917年(大正6年)8月30日 - 従五位[1]

  • 1921年(大正10年)8月30日 - 正五位[1]

  • 1926年(大正15年)4月2日 - 従四位[1]

  • 1929年(昭和4年)9月2日 - 正四位[1]

  • 1932年(昭和7年)5月2日 - 従三位[1][2]

  • 1934年(昭和9年)5月15日 - 正三位[1][3]

  • 1937年(昭和12年)7月2日 - 従二位[1][4]

  • 1943年(昭和18年)2月4日 - 正二位(没時陞叙)[1][5]


叙勲


  • 1906年(明治39年)4月1日 - 功四級金鵄勲章・勲五等双光旭日章[1]

  • 1913年(大正2年)5月31日 - 勲四等瑞宝章[1]

  • 1915年(大正4年)11月7日 - 勲三等瑞宝章[1]

  • 1920年(大正9年)11月1日 - 勲三等旭日中綬章[1]

  • 1926年(大正15年)4月26日 - 勲二等瑞宝章[1]

  • 1932年(昭和7年)6月14日 - 勲一等瑞宝章[1][6]

  • 1934年(昭和9年)4月29日 - 勲一等旭日大綬章[1]

  • 1943年(昭和18年)2月4日 - 勲一等旭日桐花大綬章(没時陞叙)[1][7]


褒章


  • 1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[1]

  • 1915年(大正4年)11月7日 - 大正三四年従軍記章[1]



記念・栄誉


記念章

  • 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[1]

外国勲章佩用允許


  • 1910年(明治43年)8月28日 - 大韓帝国 勲三等八卦章[1]

  • 1935年(昭和10年)9月21日 - 満州国 満州帝国皇帝訪日記念章[1]



家族・親族



  • 長女 純子(富山県、元十二銀行頭取で薬種商中田清兵衛の長男勇吉の妻)

  • 四女 禌子(警視総監、台湾総督府総務長官等を歴任した斎藤樹の長男吉彦の妻)

  • 弟 白上佑吉(内務官僚)



系譜


  • 林家

                河合良成━━━━━河合良一━━河合良秋
                                 ┃
                       ┏━中田幸吉━━━━順子
                       ┃
                中田清兵衛━━╋━中田亮吉━━愛知和男
                       ┃
                       ┗━中田勇吉
                           ┃
                       ┏━━━純子
                林 銑十郎━━┫
                       ┗━━━禌子


著作


  • 『満洲事件日誌』(みすず書房、1996年) ISBN 4-622-03800-5  解説・高橋正衛


出典




  1. ^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyz『陸軍大将林銑十郎特旨叙位の件』 アジア歴史資料センター Ref.A12090244400 


  2. ^ 『官報』第1606号「叙任及辞令」昭和7年5月11日


  3. ^ 『官報』第2212号「叙任及辞令」昭和9年5月19日


  4. ^ 『官報』第3149号「叙任及辞令」昭和12年7月3日


  5. ^ 『官報』第4818号「叙任及辞令」昭和18年2月5日


  6. ^ 『官報』第1636号「叙任及辞令」昭和7年6月15日


  7. ^ 『官報』第4818号「叙任及辞令」昭和18年2月5日




参考文献



  • 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』(立風書房、2001年) ISBN 4-651-70079-9




関連項目






  • 林内閣

























公職
先代:
広田弘毅

日本の旗 内閣総理大臣
第33代:1937年
次代:
近衛文麿
先代:
荒木貞夫

日本の旗 陸軍大臣
斎藤内閣・岡田内閣:1934年 - 1935年
次代:
川島義之
先代:
有田八郎

日本の旗 外務大臣(兼任)
林内閣:1937年
次代:
佐藤尚武
先代:
平生釟三郎

日本の旗 文部大臣(兼任)
林内閣:1937年
次代:
安井英二

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