後醍醐天皇



























































































後醍醐天皇

後醍醐天皇像(清浄光寺蔵)





第96代天皇



在位期間
1318年3月29日 - 1339年9月18日
文保2年2月26日 - 延元4年8月15日

即位礼
1318年4月30日(文保2年3月29日)
大嘗祭
1318年12月15日(文保2年11月22日)
元号
文保
元応
元亨
正中
嘉暦
元徳
元弘
建武
延元
追号
後醍醐院
1339年10月11日(延元4年9月8日)追号勅定
関白
二条道平→一条内経→九条房実
→鷹司冬平→二条道平→近衛経忠
→鷹司冬教→(廃止)
先代
花園天皇
次代
南朝:後村上天皇
北朝:光厳天皇、光明天皇

誕生
1288年11月26日(正応元年11月2日)
崩御
1339年9月19日(延元4年8月16日)
吉野行宮
陵所
塔尾陵

尊治
別称
吉野院、元徳院、元応帝
元服
1304年1月27日(嘉元元年12月20日)
父親
後宇多天皇
母親
五辻忠子
中宮
西園寺禧子(後京極院)
珣子内親王(新室町院)
女御
二条栄子
子女
護良親王
尊良親王
宗良親王
恒良親王
成良親王
後村上天皇(義良親王)
懐良親王
満良親王 他多数
皇居
二条富小路内裏
吉野行宮
親署
後醍醐天皇の親署
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後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年11月26日(正応元年11月2日) - 1339年9月19日(延元4年8月16日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:1318年3月29日(文保2年2月26日) - 1339年9月18日(延元4年/暦応2年8月15日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。




目次






  • 1 生涯


    • 1.1 即位


    • 1.2 倒幕


    • 1.3 流罪、そして復帰


    • 1.4 建武の新政


    • 1.5 足利尊氏の離反


    • 1.6 南北朝時代




  • 2 論評


  • 3 芸能


  • 4 側近


  • 5 諡号・追号・異名


  • 6 系譜


    • 6.1 系図




  • 7 后妃・皇子女


    • 7.1 皇子の名の読み




  • 8 偏諱を与えた人物


  • 9 在位中の元号


  • 10 著作


  • 11 陵・霊廟


  • 12 登場作品


  • 13 脚注


  • 14 参考文献


    • 14.1 評伝




  • 15 関連項目


  • 16 外部リンク





生涯


大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子。生母は、内大臣花山院師継の養女・藤原忠子(談天門院、実父は参議五辻忠継)。正応元年11月2日(1288年11月26日)に誕生し、正安4年(1302年)6月16日に親王宣下。嘉元元年(1303年)12月20日に三品に叙品。嘉元2年(1304年)3月7日に大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれた。また、徳治2年(1307年)5月15日には、中務卿を兼任している。



即位


徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、文保2年2月26日(1318年3月29日)花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚、3月29日(4月30日)に即位。30代での即位は1068年の後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、はじめから後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。このため、自己の子孫に皇位を継がせることを否定された後醍醐天皇は不満を募らせ、後宇多法皇の皇位継承計画を承認し保障している鎌倉幕府への反感につながってゆく。元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。前年に邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時機が熟したこの時期に後醍醐天皇が実質上の治天の君となったことは大きな謎とされる。



倒幕




『太平記絵巻』第2巻(山中をさまよう後醍醐天皇)
埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵


正中元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である西園寺家所生の親王は邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良親王を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、後醍醐天皇は次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、譲位の圧力はいっそう強まった。元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱(元弘の変)と呼ぶ。



流罪、そして復帰


幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。



建武の新政




後醍醐天皇像
(三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』より)



帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃して建武の新政を開始する。また、持明院統のみならず大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児たちをも皇位継承から外し、本来傍流であったはずの自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、父の遺言を反故にして自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にした。


建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家たちの多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な二条河原の落書にみられるようにその無能を批判され、権威をまったく失墜した。また、倒幕に功績のあった護良親王が征夷大将軍の地位を望んだために親王との確執が深まり、同じく天皇と対立していた尊氏の進言を受けて親王を鎌倉に配流している。



足利尊氏の離反



建武2年(1335年)、中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れる。



南北朝時代


足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する(なお、太平記の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。享年52(満50歳没)。


摂津国の住吉行宮にあった後村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司である津守氏の荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営している。



論評


同時代では、早くも天皇側近の北畠親房が『神皇正統記』において保守的公家観から新政策への批判を加えている。



芸能


後醍醐天皇は大覚寺統の天皇・皇族の間で習得が求められていた笛を粟田口嗣房、没後はその従兄弟の藤井嗣実から習得し、更に秘曲に関しては地下楽人の大神景光から習得していたとみられている[1]。特に「羅陵王」という舞楽曲の一部で秘曲として知られた「荒序」という曲を愛好し、たびたびこの曲を演奏している。この曲は平時には太平を寿ぎ、非常時には勝利を呼ぶ曲と言われ、元寇の時にも宮廷でたびたび演奏されていた。このため、「荒序」と討幕を関係づける説もある[2]


更に後醍醐天皇は持明院統の天皇・皇族の間で習得が求められていた琵琶の習得にも積極的で、西園寺実兼に懇願して文保3年(1319年)1月10日には秘曲である慈尊万秋楽と揚真操を、元亨元年(1321年)6月15日には同じく秘曲の石上流泉と上原石上流泉の伝授を受け、翌元亨2年(1322年)5月26日には秘曲である啄木を実兼が進めた譜面を元に今出川兼季から伝授されている(実兼が病のため、息子の兼季が代理で教授した)。しかも天皇が伝授で用いたのは皇室の累代の名器とされた「玄上」であった。嘉暦3年(1328年)2月16日には、持明院統でも天皇しか伝授を受ける事が出来ないとされていた「啄木」の譜外口伝の伝授を兼季から受けていた。勅命である以上、兼季もこれを拒むことができず、その事情を伝えられた持明院統を象徴する秘伝が大覚寺統の天皇に知られたことに衝撃が走った。後伏見上皇は日記の中で持明院統が守ってきた琵琶の道が今上(後醍醐天皇)に奪われてしまったと嘆いている[3]


更に綾小路有頼から催馬楽の秘曲を、二条資親からは神楽の秘曲の伝授を受けるなど積極的に各種の音楽の奥義を極めた他、西園寺家や平等院、東大寺正倉院から名器を召し上げて自らの物としており、物質面でも内容面でも両統迭立以来大覚寺統・持明院統で独自の文化を築きつつあった宮廷音楽の統一を図り、自らの権威を高めようとしていた[4]



側近




  • 近衛経忠

  • 万里小路宣房

  • 北畠親房

  • 吉田定房

  • 日野資朝

  • 日野俊基





  • 千種忠顕

  • 坊門清忠

  • 四条隆資

  • 洞院実世

  • 文観

  • 円観





諡号・追号・異名


後醍醐天皇は、延喜・天暦の治と称され天皇親政の時代とされた醍醐天皇・村上天皇の治世を理想としていた。天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるが、醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていた。これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。また、醍醐天皇は宇多天皇の皇子であり、後醍醐天皇は自己を父・後宇多天皇の正統な後継者として位置づける意味で命名したとする説もある。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。


崩御後、北朝では崇徳院・安徳天皇・顕徳院・順徳院などのように徳の字を入れて院号を奉る案もあった。平安期に入ってから「徳」の字を入れた漢風諡号を奉るのは、配流先などで崩御した天皇の鎮魂慰霊の場合に限られていたが、結局生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」とした。あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。



系譜







系図












































































































































































































































































































































































































 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

88後嵯峨天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

宗尊親王
(鎌倉将軍6)
 
【持明院統】
89後深草天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【大覚寺統】
90亀山天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

惟康親王
(鎌倉将軍7)
 

92伏見天皇
 
 
 
 
 

久明親王
(鎌倉将軍8)
 

91後宇多天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

93後伏見天皇
 

95花園天皇
 

守邦親王
(鎌倉将軍9)
 

94後二条天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直仁親王
 
 
 
 
 
邦良親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

康仁親王
〔木寺宮家〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

























































































































































































































































































































































































【持明院統】
〔北朝〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【大覚寺統】
〔南朝〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

96後醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

光厳天皇 北1
 

光明天皇 北2
 
 
 
 
 
 
 
 

97後村上天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

崇光天皇 北3
 
 
 
 
 

後光厳天皇 北4
 
 
 
 

98長慶天皇
 

99後亀山天皇
 

惟成親王
〔護聖院宮家〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
栄仁親王
 
 
 
 
 

後円融天皇 北5
 
 
 
 
(不詳)
〔玉川宮家〕
 

小倉宮恒敦
〔小倉宮家〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

貞成親王
(後崇光院)
 
 
 
 
 

100後小松天皇 北6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

102後花園天皇
 

貞常親王
〔伏見宮家〕
 

101称光天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 




后妃・皇子女




  • 皇后:藤原(西園寺)禧子(後京極院、1303-1333) - 西園寺実兼女

    • 皇女(1314-?)

    • 皇女:懽子内親王(宣政門院、1315-1362) - 光厳天皇後宮



  • 皇后:珣子内親王(新室町院、1311-1337) - 後伏見天皇皇女
    • 皇女(1335-?) - 南朝系図は幸子内親王とする



  • 女御:藤原(二条)栄子(安福殿) - 二条道平女


  • 典侍:藤原(五辻)親子(中納言典侍) - 五辻宗親女
    • 皇子:満良親王(花園宮・常陸親王?)


  • 典侍:源氏(大納言典侍) - 北畠師重女

  • 典侍:藤原氏(新按察典侍) - 持明院保藤女

  • 典侍:某氏(帥典侍讃岐) - 父不詳


  • 掌侍:藤原氏(勾当内侍) - 世尊寺経尹女
    • 皇女


  • 掌侍:菅原氏(少将内侍) - 菅原在仲女
    • 皇子:聖助法親王 - 聖護院


  • 後宮:藤原(阿野)廉子(三位局、新待賢門院 1301-1359) - 阿野公廉女、洞院公賢養女

    • 皇子:恒良親王(1325-1338) - 後醍醐天皇皇太子

    • 皇子:成良親王(1326-1344) - 征夷大将軍、光明天皇皇太子

    • 皇子:義良親王(後村上天皇、1328-1368)

    • 皇女:祥子内親王 - 斎宮

    • 皇女:惟子内親王 - 今林尼衆

    • 皇女?:新宣陽門院 - 『大日本史』は後村上天皇皇女とする



  • 後宮:源(北畠)親子(民部卿三位) - 北畠師親女、一説に日野経光女・経子

    • 皇子:護良親王(尊雲法親王・大塔宮、1308-1335) - 梶井門跡、征夷大将軍

    • 皇女:姚子内親王 - 今林尼衆

    • 皇子 - 南朝系図は尊性法親王とする

    • 皇女 - 近衛基嗣室



  • 後宮:藤原(二条)為子(権大納言局) - 二条為世女

    • 皇子:尊良親王(一宮、?-1337)

    • 皇子:宗良親王(尊澄法親王、1311-1385?) - 天台座主、征夷大将軍

    • 皇女:瓊子内親王(1316-1339)

    • 皇女



  • 後宮:藤原(洞院)実子 - 洞院実雄女
    • 皇女


  • 後宮:藤原(洞院)守子(1303-1357) - 洞院実泰女

    • 皇子:玄円法親王(?-1348) - 一乗院

    • 皇子?:最恵法親王 - 妙法院



  • 後宮:憙子内親王?(昭慶門院、1270-1324) - 亀山天皇皇女

    • 皇子:恒性(越中宮、1305-1333) - 大覚寺

    • 皇子:無文元選(1323-1390) - 遠江方広寺開山



  • 後宮:藤原氏(権大納言三位局・霊照院、?-1351) - 二条為道女

    • 皇子:法仁法親王(躬良親王、1325-1352) - 大聖院

    • 皇子:懐良親王(鎮西宮・筑紫宮、1329-1383) - 征西将軍

    • 皇女



  • 後宮:藤原氏(遊義門院一条局) - 橋本実俊女

    • 皇子:世良親王(?-1330)

    • 皇子:静尊法親王(恵尊法親王) - 聖護院

    • 皇女:欣子内親王 - 准三后



  • 後宮:藤原氏(少納言内侍) - 四条隆資女
    • 皇子:尊真(醍醐宮) - 南朝系図は杲尊法親王と同一人とする


  • 後宮:藤原氏(大納言局) - 洞院公敏女、一説に正親町実明女
    • 皇女 - 南朝系図は瑜子内親王とする


  • 後宮:藤原氏(左衛門督局) - 二条為忠女?
    • 皇女 - 今林尼衆


  • 後宮:藤原氏(権中納言局) - 洞院公泰女?
    • 皇女 - 南朝系図は貞子内親王とする


  • 後宮:藤原氏 - 吉田定房女

  • 後宮:藤原氏?(坊門局) - 坊門清忠女?
    • 皇女:(用堂?)


  • 後宮:源氏 - 堀川基時女
    • 皇女


  • 後宮:源康子(飛鳥井局・延政門院播磨) - 源康持女

  • 後宮:源氏(若水局) - 源康持女、康子妹

  • 後宮:源氏 - 堀口貞義(貞満の父)女?
    • 皇女 - 吉水院宗信妻、尊寿丸母


  • 後宮:某氏(昭訓門院近衛局) - 父不詳
    • 皇子:知良王 - 『南朝紹運図』は守永親王と同一人とする


  • 生母不詳

    • 皇女:用堂(?-1396) - 東慶寺5世住持

    • 皇女 - 六条有房室、上記何れの皇女か不明

    • 皇子?:竜泉令淬(?-1366) - 万寿寺住持

    • 皇子:賢光 光遍寺5代住職





皇子の名の読み


後醍醐天皇の皇子の名には、通字として「良」が用いられている。その読みは古くから「なが」「よし」の両様に読まれてきた。


江戸時代後期から第二次世界大戦までの時代には「なが」の読みが一般的であった。「なが」説の根拠は、一条兼良が著したと伝える『諱訓抄』の写本で「護良」に「モリナカ」と読み仮名が振ってあることなどがあげられる。


明治維新後の南朝忠臣顕彰の風潮に乗って、南朝関係者を祭神とする神社(建武中興十五社)が次々と建立され、明治2年(1869年)には護良親王を祀る鎌倉宮、明治5年(1872年)に宗良親王を祀る井伊谷宮、明治17年(1884年)に懐良親王を祀る八代宮、明治23年(1890年)に尊良親王を祀る(明治25年(1892年)に恒良親王を合祀)金崎宮の4つの神社が創建されたが、これらの神社では、すべて祭神名を「なが」と読むことで統一している。また、大正4年(1915年)に宮内省書陵部が職員のための内部資料として編纂した『陵墓要覧』でも、たとえば「護良親王墓」に「もりながしんのうはか」との読み仮名を振っている。


一方、大正時代の頃(1920年代)から歴史学者らの研究で「良」を「よし」と読む説が発表されていた。大正9年(1920年)には八代国治、昭和14年(1939年)には、平田俊春が、史料的根拠を示して「よし」と読むべきことを指摘している。その後「よし」説の根拠として挙げられている史料には、八代と平田が指摘したものを含め、次のようなものがある[5][6]



  1. 『諱訓抄』の写本は多く残されているが、「モリナカ」の読みを載せるものは天和元年(1681年)に写されたものが最古であり「モリナカ」の読み仮名が一条兼良の生きた室町時代まで遡れるものかどうか疑問が残る。


  2. 応安4年(1371年)に書写された「帝系図」(国立歴史民俗博物館所蔵)では「後村上院」の名を「義儀」と記してある。これは本来「儀義」であって「のりよし」と読んだものと推測される。


  3. 応永15年(1408年)に書写された「人王百代具名記」(茨城県那珂市の常福寺所蔵)では「後村上院」の名を「儀良」と記して「良」の字に「ヨシ」と振り仮名をしている。

  4. 後醍醐天皇と政権を争った光厳天皇の曾孫後崇光院自筆の『増鏡』の写本(尊経閣文庫所蔵)では「世良」に「ヨヨシ」「尊良」に「タカヨシ」と振り仮名をしている。


  5. 永正年間(1510年前後)に書写された『増鏡』の写本(学習院大学付属図書館所蔵)では「尊良」の名を平仮名で「たかよし」と書いている。

  6. 江戸時代初期に書写された『保暦間記』の一写本(内閣文庫所蔵)では「成良」の名を片仮名で「ナリヨシ」と書いている。


  7. 寛永初年(1625年前後)に書写された『神皇正統記』の写本(青蓮院本。天理図書館所蔵)では「護良」に「モリヨシ」と振り仮名をしている。


以上の論拠から、戦後の歴史学界においては、「よし」と読んでいたとの説が大勢となっている。各種書籍における記載もこれを反映したものが多い。



  • 代表的な歴史百科事典である『国史大辞典』(吉川弘文館)において、たとえば護良親王の項目では、「もりよししんのう」で記事を立てて解説を記し、「もりながしんのう」の項には「⇒もりよししんのう」と記載している。

  • 平成20年度(2008年度)現在、高等学校の日本史B(高校の日本史の授業には、近現代史のみを扱うAと、古代から現代までの通史を扱うBとがある)の教科書で、文部科学省の検定に合格しているものは11種ある。後醍醐天皇の皇子で、そのすべてに登場しているのは護良親王と懐良親王の2人であるが、11種とも「もりよし」「かねよし」の表記がなされている。そのうち、11種のうち6種は「もりなが」「かねなが」の読みも括弧書きなどにより併記されている。系図などに記されるほかの皇子たちの名の扱いも同様である。



偏諱を与えた人物


※後醍醐の諱(実名)、「尊治」のいずれかの字を与えられた人物。


皇子



  • 良 親王


  • 雲 法親王(のちの護良親王)


  • 澄 法親王(のちの宗良親王)

  • 法親王




武士



  • 足利[7](※足利高氏より改名(読み変更なし))


    • 饗庭宣 - 別名、饗庭氏直。尊氏に近臣(寵童)として仕えて重用され、「尊」の字を賜う。


    • 吉良義 - 初め義貴、のち尊氏から「尊」の字を賜う。




  • 吉見頼(のち渋川義宗。中務大輔。南朝に属す。)


  • 小田[8] (※小田高知より改名)



在位中の元号




  • 文保 (1318年2月26日) - 1319年4月28日


  • 元応 1319年4月28日 - 1321年2月23日


  • 元亨 1321年2月23日 - 1324年12月9日


  • 正中 1324年12月9日 - 1326年4月26日


  • 嘉暦 1326年4月26日 - 1329年8月29日


  • 元徳 1329年8月29日 - 1331年8月9日


  • 元弘 1331年8月9日 - 1334年1月29日


  • 建武 1334年1月29日 - 1336年2月29日


  • 延元 1336年2月29日 - (1339年8月26日)



著作


  • 『建武年中行事』(新版は講談社学術文庫、和田英松注解・所功解説)

    漢字仮名交じり文で記された有職故実書。後世、朝廷で盛んに利用された。不明な点が多い中世の朝廷儀礼について伝える史料の一つとしても著名。『群書類従』公事部に収録されている。



陵・霊廟




後醍醐天皇塔尾陵


陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の如意輪寺内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。


通常天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。軍記物語『太平記』では、後醍醐天皇は「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされている。


皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また明治22年(1889年)に同町に建てられた吉野神宮に祀られている。


後醍醐天皇が紫衣を許して官寺とした總持寺(神奈川県横浜市鶴見区)には、後醍醐天皇の尊像、尊儀などを奉安する御霊殿がある。この御霊殿は、後醍醐天皇の600年遠忌を記念して、昭和12年(1937年)に建立された。


足利尊氏は後醍醐の菩提を弔うために天龍寺を造営している。また足利義政は小槻雅久や吉田兼倶といった学者の意見に従い、東山山荘(現慈照寺)の東求堂に後醍醐の位牌を安置して礼拝した[9]



登場作品


小説


  • 朝松健『邪曲回廊』-異形コレクション第33巻【オバケヤシキ】(光文社、2005年)

    光厳天皇の杖が生み出した『世界』に出現。光厳天皇に対する恨みから活火山のように炎を撒き散らす生霊となり、光厳天皇の代役となった一休を追い回す。


漫画



  • 沢田ひろふみ『山賊王』 - 南北朝時代を描いた歴史漫画。楠木正成も認める威厳ある天皇として描かれている。


  • 河部真道『バンデット -偽伝太平記-』 - 南北朝時代を描いた歴史漫画。落人狩りを素手で狩る最強の天皇として描かれている。


テレビドラマ


  • 太平記(1991年、NHK大河ドラマ、演:片岡孝夫)


脚注





  1. ^ 豊永、2006年、P97-101


  2. ^ 豊永、2006年、P102-105


  3. ^ 豊永、2006年、P105-109


  4. ^ 豊永、2006年、P110-121


  5. ^ 森茂暁 『皇子たちの南北朝 後醍醐天皇の分身』〈中公文庫、2007年〉 ISBN 978-4-12-204930-7


  6. ^ 永積安明・上横手雅敬・桜井好朗 『太平記の世界 変革の時代を読む』(日本放送出版協会、1987年) ISBN 4-14-008561-4 上横手雅敬執筆部分


  7. ^ 『太平記』巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」に「是のみならず、忝も天子の御諱の字を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。」とある。但し、実際の改名時期については『公卿補任』(新訂増補国史大系本)や『足利家官位記』(『群書類従』第四輯所収)が示す元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日が正確とされる(後藤丹治・釜田喜三郎・岡見正雄校注 『太平記』、日本古典文学大系、岩波書店)。


  8. ^ 『大日本史料』6-17 P.294(典拠は『常陸誌料』五 小田氏譜上)に「治久、初名高知、後醍醐天皇賜偏諱、因更治久、……(中略)……自延元元年至興國二年、……賜御諱…(以下略)」とある。


  9. ^ 桜井英治 『室町人の精神 日本の歴史12』(講談社学術文庫)2009年(原著は2001年)ISBN 978-4062689120 、361p




参考文献




  • 河内祥輔 『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 978-4-642-02863-9


  • 豊永聡美「後醍醐天皇と音楽」『中世の天皇と音楽』97-129頁、(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9


  • 森茂暁 『皇子たちの南北朝 後醍醐天皇の分身』(中公文庫、2007年)。旧版は中公新書



評伝



  • 建武義会編 『後醍醐天皇奉賛論文集』(至文堂、1939年9月)


  • 平泉澄 『建武中興の本義』(至文堂、1934年9月)/新版・日本学協会、1983年5月

  • 平泉澄 『明治の源流』(時事通信社、1970年6月)


  • 村松剛 『帝王後醍醐 「中世」の光と影』(中公文庫、1981年) ISBN 412200828X


  • 網野善彦 『異形の王権』(平凡社ライブラリー、1993年) ISBN 4582760104


  • 森茂暁 『後醍醐天皇 南北朝動乱を彩った覇王』(中公新書、2000年) ISBN 4121015215

  • 佐藤和彦・樋口州男編 『後醍醐天皇のすべて』(新人物往来社、2004年) ISBN 4404032129


  • 兵藤裕己 『後醍醐天皇』(岩波新書、2018年) ISBN 4004317150



関連項目



  • 南北朝時代

  • 建武の新政

  • 両統迭立

  • 大覚寺統

  • 北陸朝廷

  • 後の三房

  • 三木一草


  • ゴダイゴ - 後醍醐天皇をバンド名の由来の一つとしている



外部リンク






  • 後醍醐天皇について









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