ピグモン勝田




ピグモン 勝田(ピグモン かつた、1965年4月1日 - 1994年10月24日)は、大川興業所属のお笑い芸人。本名:勝田 啓司(かつた けいじ)



人物


1965年、東京都に生まれる。青山学院大学卒業後は広告代理店に勤務[1]。1990年に大川興業に入団[1]。尊敬する芸能人は田原俊彦で、彼を人生の目標としていた。父はテレビ朝日の元プロデューサー・勝田康三[1]。母も一時期、女優として活動していた経験があった[1]


座右の銘は「まだまだ」、21世紀の目標は「平穏な日々を送ること」だった。大島勝美との漫才コンビ「トーキング」としても活動していた。(大島は勝田の死後、「プリオ」を結成。)


芸名は顔が『ウルトラマン』に登場した友好珍獣ピグモンに似ていたことから。



突然の事故死


1994年10月、大川興業は埼玉県の新座ニチイ(のちのサティ、現:イオン)の店頭広場に設けられた特設舞台で「花火」と題したパフォーマンス公演を行っていたが、途中で舞台を降り敷地内のケヤキの木にサルのような動きをしながら登ったところ、ぶら下がっていた枝が根元から折れて転落し後頭部を強打、ただちに新座志木中央総合病院に収容される。大川興業社長の大川豊は、「勝田の無事を祈ってください」と涙ながらに訴えていたが[1]、意識が戻らず、翌24日早朝に死去。29歳没。


彼の通夜・葬儀には芸人仲間やファンが数多く駆けつけ、早すぎる死を悼んだ(メッセージを書くためのノートがお墓にあり、そのノートに「トシちゃん(田原俊彦)がいいとも!のレギュラーになった」など書き込まれている/会報より)。


稲川淳二の怪談に「大川興業の若手芸人」の話がある。


  • 格安物件を見つけ借りる際、新人芸人で収入が少ないので大川興業の総裁に保証人になってもらい住むことに。借りたマンションは古いが安い割には広くしっかりした豪華な物件のため総裁が「いい物件を見つけて羨ましいじゃないか、新人なのに生意気だぞ」と言うが、夜中就寝中、突然別の部屋に明かりが付き、見たことがあるが名前が出て来ない有名芸人と高倉健、渥美清が麻雀をしていておいで、おいでと仲に入るよう誘われるといった夢なのか現実なのか解らない不思議な体験をしていた、朝目覚めると別の部屋で寝ていた自分がいる、麻雀を誘われた際、必ず自分は目を開けていて麻雀をしたことをハッキリ覚えているとしゃべるが「それは夢遊病じゃないか」と周りに言われる。後ほど中古車を賈い、事故を起した時警察から住所を聞かれた際、住んでいる物件が、愛人に刺し殺された佐々木つとむ(芸人)の愛人が住んでいた住所の近くだと言われる。そして毎回麻雀で解らなかった芸人は佐々木つとむ(佐々木つとむは高倉健、渥美清のモノマネ、麻雀ネタを得意としていた)だと解ったのと同時に自分が住んでいる高島平のマンション、その部屋こそ愛人が住んでいた部屋だった、そして彼の運命は、という話である。稲川のコメントには「ピー音」が入っていたり、イニシャルで話している時もある[2]


脚注



  1. ^ abcdeスポーツニッポン 1994年10月25日 23面


  2. ^ ビデオ作品「稲川淳二の超こわい話2」(バンダイビジュアル 1997年7月25日)に第4話「愛人のマンション」というタイトルで収録。この怪談は稲川が毎年夏に開催するミステリーナイトツアーの中で語られた時の映像を使用している。









Popular posts from this blog

サソリ

広島県道265号伴広島線

Accessing regular linux commands in Huawei's Dopra Linux