モザンビーク
- モザンビーク共和国
- República de Moçambique
(国旗)
(国章)
- 国の標語:なし
国歌:最愛の祖国
公用語
ポルトガル語
首都
マプト
最大の都市
マプト
- 政府
大統領
フィリペ・ニュシ
首相
カルロス・アゴスティーニョ・ド・ロザーリオ
- 面積
総計
801,590km2(35位)
水面積率
2.2%
- 人口
総計(2011年)
23,920,000人(???位)
人口密度
23人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年)
234兆92,272億[1]メティカル
- GDP (MER)
合計(2008年)
96億[1]ドル(115位)
- GDP (PPP)
合計(2008年)
186億[1]ドル(101位)
1人あたり
896[1]ドル
- 独立
ポルトガルより
1975年6月25日
通貨
メティカル (MZM)
時間帯
UTC (+2)(DST:なし)
ISO 3166-1
MZ / MOZ
ccTLD
.mz
国際電話番号
258
モザンビーク共和国(モザンビークきょうわこく)、通称モザンビークは、アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家である。南に南アフリカ共和国、南西にスワジランド、西にジンバブエ、北西にザンビア、マラウイ、北にタンザニアと国境を接し、モザンビーク海峡を隔てて東にマダガスカルとコモロが存在する。首都はマプト。
旧ポルトガルの植民地であり、1964年からモザンビーク独立戦争を戦い抜いた後の1975年に独立を達成した。しかし、独立後も1977年から1992年までモザンビーク内戦が続いた。内戦終結後は好調な経済成長を続ける反面、HIV/AIDSの蔓延が問題となっている。ポルトガル語諸国共同体、ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国であるが、隣接国が全て英語圏の国家であるため1995年からイギリス連邦に加盟している。
目次
1 国名
2 歴史
2.1 ポルトガル植民地時代
2.2 独立と内戦
2.3 内戦終結以降
3 政治
3.1 これまでの選挙
4 軍事
5 国際関係
5.1 日本との関係
6 地方行政区画
6.1 主要都市
7 地理
8 経済
8.1 鉱業
9 国民
9.1 民族
9.2 言語
9.3 宗教
9.4 教育
9.5 保健
10 文化
10.1 食文化
10.2 音楽
10.3 文学
10.4 世界遺産
10.5 祝祭日
10.6 スポーツ
11 著名な出身者
12 脚注
13 参考文献
14 関連項目
15 外部リンク
国名
正式名称は、ポルトガル語でRepública de Moçambique(IPA: /rɨˈpublikɐ dɨ musɐ̃ˈbikɨ/ レプーブリカ・デ・ムサンビーケ)。通称、Moçambique(ムサンビーケ)。
公式の英語表記は、Republic of Mozambique。通称、Mozambique(モウザンビーク)。
日本語の表記は、モザンビーク共和国。通称、モザンビーク。国名はかつてポルトガル領東アフリカの首都が置かれたモザンビーク島に由来し、島の名前が全土を指す名前となった。独立後の1975年から1990年まではモザンビーク人民共和国だったが、1990年の憲法改正により現在のモザンビーク共和国となった。
歴史
この地域には約300万年前から人類が居住し生活していた。紀元前後にはサン人(ブッシュマン)が居住していたが、バントゥー系アフリカ人諸部族が広範囲に分布するようになった。紀元前1世紀にはギリシャ人・ローマ人[要曖昧さ回避]が沿岸部住民と交易するようになった。8世紀にはアラブ商人が金・銀を求めて港に現れるようになった。
この地域の歴史は、11世紀から19世紀の部族連合国の王の称号からアラブ人の商人が通称した、モノモタパ王国に遡る。現在のジンバブエを中心に栄えたモノモタパ王国は、スワヒリ文明最南端に位置した都市である現モザンビーク領のソファラを拠点にアラブ商人と香辛料や象牙、金などの交易を行っており、中国の陶磁器やインドの綿製品も手に入れていた。
ポルトガル植民地時代
1498年にポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてこの地に到達したのをきっかけに、16世紀初頭より、ポルトガルの植民が始まり、17世紀半ばにはポルトガルの植民地支配が確立し、ポルトガル領モザンビーク・東アフリカ(ポルトガル語: Estado da África Oriental、通称ポルトガル語: Província Ultramarina de Moçambique)の首都はモザンビーク島に置かれた。モザンビークからは遥か遠くのブラジルにまで黒人奴隷が連行された。1782年にロウレンソ・マルケスが建設された。1807年にイギリスが奴隷貿易を禁止した結果、西アフリカから奴隷を輸出することが困難になると、ポルトガルはブラジルへの新たな奴隷供給地としてモザンビークに目を向け、ザンジバルを拠点にしたサイイド・サイード王の奴隷貿易と相俟って、19世紀前半の東アフリカ内陸部は拡大する奴隷貿易の輸出用奴隷供給地となった[2]。
19世紀に入り、1858年にポルトガル領では奴隷制度が廃止されたものの、劣悪な労働環境による契約労働制により事実上の奴隷労働制度が続いた。19世紀末に進んだアフリカ分割の中でポルトガルはモザンビークとアンゴラを横断しようとする「バラ色地図」計画を発表したが、1890年にイギリスの圧力に屈したポルトガルはザンビアとジンバブエとマラウイの領有を諦め、1891年の条約で現在のモザンビークの領域が確立された[3]。また、同1891年にポルトガル領モザンビーク総督はイギリス・フランス資本の勅許会社、モザンビーク会社・ニアサ会社・ザンベジア会社に開発の権利と司法権を除く自治権を与えた。このためポルトガルが旧宗主国であるにも関わらず、独立後にイギリス連邦の加盟国となっている。また、ポルトガルの圧政に対し、1894年のロウレンソ・マルケス襲撃など先住民による抵抗運動が頻発したが、それらは全てポルトガル軍により鎮圧された。1898年にモザンビーク島からロウレンソ・マルケスに植民地の首都が遷都され、以降ロウレンソ・マルケスはポルトガル領東アフリカの首都となった。
その後、第二次世界大戦が終結し、脱植民地化時代に入るとアフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立の波がモザンビークにも押し寄せた。ポルトガルのアントニオ・サラザール政権は1951年にモザンビーク等のアフリカ植民地を「海外州」と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。モザンビークやアンゴラは形式上本国ポルトガルと同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、モザンビークには3,800万ポンドが投資された。さらに、リンポポ川流域へのポルトガル人の入植や、港湾の能力拡大のための鉄道建設が進められたが、モザンビーク植民地の慢性的なポルトガルへの輸入超過を補うために南アフリカ連邦の鉱山への黒人労働者の出稼ぎによって経済は支えられた。
しかし、形式上の本国との対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、モザンビークでも1964年9月に、エドゥアルド・モンドラーネを議長としたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)がタンザニアを拠点に武装闘争を開始し、モザンビーク独立戦争が始まった。マルクス主義を掲げ、ソ連の援助を受けていたFRELIMOは冷戦構造の中で西側諸国の脅威であり、そのためポルトガル軍も強権を以て解放軍に対処した。1969年にモンドラーネは暗殺されたが、サモラ・マシェルらが後を継いで独立戦争を継続し、約10年を経てポルトガル本国でのカーネーション革命がきっかけとなり、1975年6月25日にモザンビークはモザンビーク人民共和国として完全独立を果たした。
独立と内戦
独立後、出国したポルトガル系モザンビーク人に代わって権力を握ったFRELIMOは政党化し、一党制による社会主義路線を推進した。社会主義を掲げるモザンビークは1976年の国連制裁決議に従って白人国家ローデシアの国境を封鎖したが、この措置はモザンビークとローデシア双方の経済に大打撃を与えた。1977年にポルトガル領時代の元秘密警察PIDEを母体としてローデシア諜報機関によって結成された反政府組織モザンビーク民族抵抗運動(MNR,RENAMO)は政府軍と衝突し、モザンビーク内戦が勃発した。イデオロギー的正当性を欠いていたRENAMOは、当初は成人男子や少年を強制徴収することによってしか兵力を集めることができず[4]、暴力と恐怖を旨に学校や病院への襲撃作戦を遂行した。
1980年にローデシアが崩壊し、黒人国家ジンバブエが独立すると、アフリカにおける反共の砦を自認していた南アフリカ共和国はローデシアに代わってモザンビークとアンゴラの社会主義政権に対して不安定化工作を発動した。南アフリカをはじめとする西側諸国の援助を受けたRENAMOは農村部で略奪、暴行を激化させたため、1984年にはモザンビークと南アフリカ両国の間にンコマチ協定が締結され、南アフリカはRENAMOに対する支援を、モザンビークはANCに対する支援を相互に打ち切り、両国の間で不可侵条約が結ばれた。しかし、その後も実質的にこの協定は反故にされ、以降も南アフリカによるRENAMO支援が続けられた[5]。さらに、1986年にはマシェル大統領が事故死し、後任としてジョアキン・アルベルト・シサノが新たな大統領に就任した。
内戦が長期化し、経済が疲弊する中で、1989年に東側諸国の勢力低下と合わせてシサノ大統領率いるモザンビーク政府は社会主義体制の放棄を決定し、翌1990年に複数政党制と自由市場経済を規定した新憲法を制定した。さらに、1990年から1991年にかけての大旱魃の影響もあり、和平交渉の結果、1992年にローマ和平協定がローマで締結され、内戦は終結した。
内戦終結以降
内戦後の新政権樹立のため、1994年10月に国際連合モザンビーク活動(ONUMOZ)の支援の下、複数政党制による大統領選挙及び議会選挙を実施された。この結果、与党のFRELIMOが勝利し、新政権が創設された。内戦終結に至ったのは、シサノ大統領の現実的外交(西側寄りに転換し、南アフリカとの交渉を進展させた)と経済政策の転換によって和平の道が開けたことが要因のひとつである。
1995年に南アフリカやジンバブエなど、周辺の英語圏諸国との経済的結びつきを深めるため、それまでオブザーバーとして参加していたイギリス連邦に正式に加盟した。翌1996年にはポルトガル語世界(ルゾフォニア)との結びつきを深めるためにポルトガル語諸国共同体に加盟した。1998年にはモザール社が南アフリカと日本などの投資により誕生した。和平協定締結後は安定した政治と年率8%の経済成長を実現したが、国民の70%が貧困ライン以下で、失業率も54%に達している。
シサノ大統領は2003年にはアフリカ連合(AU)の第2代総会議長に選出され、更に引退後の2007年にはモ・イブラヒム賞の第一回受賞者となった。現在はHIV/AIDSの蔓延が深刻であり、慢性的な医師不足の改善は進まず、国民の教育水準も低い。
2005年の大統領選挙では、与党FRELIMOからアルマンド・ゲブーザが新たに大統領に就任した。ゲブーザは2009年の大統領選挙でも勝利した。2014年1月には中華人民共和国の援助で新しい大統領府が建設された[6]。
政治
大統領を国家元首とする共和制国家である。大統領は1994年1月以来、直接選挙で選出され、任期5年。大統領の他に行政府の長たる首相が存在する。
立法府たる共和国議会(en:Assembly of the Republic (Mozambique))は一院制であり、全250議席はすべて直接選挙によって選出される。任期5年。1994年1月に国民選挙委員会が設置された。
主要政党としては、社会民主主義、民主社会主義のモザンビーク解放戦線 (FRELIMO)、保守主義のモザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE)、中道右派のモザンビーク民主運動(en:Democratic Movement of Mozambique、MDM)の名が挙げられる。
司法権は最高司法機関たる最高裁判所が司る。
これまでの選挙
- 第1回大統領・国政選挙:1994年10月。シサノ大統領再任、得票率53%。民主化の行方を占う選挙であった。
モザンビーク解放戦線 (FRELIMO) : 44.7%
モザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE) : 37.8%
- 1998年6月、地方選挙が実施された。投票率はきわめて低く、33自治体の平均投票率が15%に満たなかった。この背景には、教育水準の低位と環境の不整備などが挙げられる。
- 第2回大統領・国民議会選挙:1999年12月3日から5日。シサノ大統領が再選された。 政党別の獲得議席数は、以下の通り。
モザンビーク解放戦線 (FRELIMO) : 133
モザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE) : 117
- 第3回大統領・国民議会選挙:2004年12月1日から2日。ゲブーザ与党公認候補(FRELIMO幹事長)が大統領に選出された。政党別の獲得議席数は、以下の通り。
モザンビーク解放戦線 (FRELIMO) : 160
モザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE) : 90
- 第4回大統領・国民議会選挙:2009年10月。ゲブーザ与党公認候補(現職大統領)が大統領に選出。政党別の獲得議席数は、以下の通りで与党の勝利となった。
モザンビーク解放戦線 (FRELIMO) : 191
モザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE) : 51
モザンビーク民主運動 (MDM) : 8
軍事
モザンビーク国防軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成される。総人員は約11,200人であり、徴兵制を採用している。2006年の軍事支出はGDPの0.8%だった[7]。
国際関係
独立時に主導権を握ったのが社会主義を掲げるFRELIMOだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親東側政策に結びつき、親西側の立場から反政府ゲリラを支援するローデシアや南アフリカ共和国などとは敵対政策が続いたが、冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。
ポルトガル語諸国共同体の一員であり、ポルトガルやブラジル、カーボ・ヴェルデ、アンゴラなどポルトガル語圏の国々(ルゾフォニア)とは深い絆を保っている。
周辺諸国との関係においては、特に南アフリカ共和国との関係が経済的に大きい。また、タンザニアとは独立戦争以来の友好関係が存在する。
隣接国が全て英語圏であるため、1987年からイギリス連邦のオブザーバーとなっていた。モザンビークが南アフリカとジンバブエの民主化に大きな役割を果たした功績が認められたため[8]、1995年に正式にイギリス連邦に加盟した。
第5回アフリカ開発会議中の2013年6月1日に、横浜で日本との間に投資協定が結ばれた[9]。
日本との関係
織田信長の家来として活躍した弥助は、現在のモザンビーク出身で、ポルトガル人により日本まで渡航したと推定される。
1980年代以降日本に留学する者も現れており、ベンビンダ・ツレのように長期間の留学を経て日本で就職後帰国した者もいる。このベンビンダは小学生向けの学習雑誌に読み物が掲載される、帰国の年にはラジオ番組で特別企画が長期間にわたって組まれるなどして多くの日本人に名前が知られている。
- 在留日本人数 - 179人(2015年10月現在)[10]
- 在日モザンビーク人数 - 39人(2013年6月現在)[11]
地方行政区画
モザンビークは、10の州(província,プロヴィンシア)、及び、州と同格の1つの市(cidade,シダーデ)に分かれる。
カーボ・デルガード州 (Cabo Delgado) 州都 - ペンバ (Pemba)
ガザ州 (Gaza) 州都 - シャイシャイ (Xai-Xai)
イニャンバネ州 (Inhambane) 州都 - イニャンバネ (Inhambane)
マニッカ州 (Manica) 州都 - シモイオ (chimoio)
マプト市 (Maputo cidade)
マプト州 (Maputo província) 州都 - マプト (Maputo cidade)
ナンプーラ州 (Nampula) 州都 - ナンプーラ (Nampula)
ニアサ州 (Niassa) 州都 - リシンガ (Lichinga)
ソファラ州 (Sofala) 州都 - ベイラ (Beira)
テテ州 (Tete) 州都 - テテ (Tete)
ザンベジア州 (Zambezia) 州都 - ケリマネ (Quelimane)
主要都市
主要な都市はマプト(首都)、マトラ、ベイラ、ナンプラがある。
地理
モザンビークの国土面積は、アメリカ合衆国のカリフォルニア州の約2倍に相当する。国土はザンベジ川によって地勢上二つの地域に分かれる。
ザンベジ川の北では、なだらかな海岸線が内陸部に入って丘陵や低い台地となり、さらに西に進むとミオンボ森林に覆われたニアサ高原やナムリ高原(シレ高原)、アンゴニア高原、テテ高原、マコンデ台地のような険しい高原となる。ザンベジ川の南では、低地は広く、マショナランド台地とレンボ山地が深南部に存在する。マダガスカル島とはモザンビーク海峡を挟んで向かい合う。国内最高峰はビンガ山(2,436m)。
2500km以上におよぶ海岸線には、熱帯のビーチとサンゴ礁の浅瀬が美しく広がる。
モザンビークには五つの大きな河川が流れており、最も大きく重要なものはザンベジ川である。モザンビークにはニアサ湖(またはマラウイ湖)、シウタ湖、シルワ湖と三つの湖が存在し、いずれも北部に位置する。
ケッペンの気候区分によれば、気候は熱帯雨林気候とサバナ気候に分かれるが、首都のマプトが位置する南部は冬季には平均気温が20度以下まで下がり、5月から9月までは比較的しのぎやすい。
経済
通貨は新メティカルであり(2009年現在、1USドルはほぼ27メティカルである)、1000:1のレートで旧メティカルと置き換わっている。旧通貨は2012年末までにモザンビーク銀行によって償還される見込みである。USドル、南アフリカランド、そして近年ではユーロもまた広く受け入れられ、ビジネスの取引で使われている。法定最低賃金は月60USドルである。モザンビークは南部アフリカ開発共同体(SADC)の加盟国である。
第一次産品の生産が主だが、鉄鉱石やマンガン、チタン(重砂)などの鉱産資源も多い。日本向け輸出はエビが多い。1980年代は内政の失敗に加え、内戦や旱魃などで経済は壊滅状態に陥った。内戦終結後も、1999年、2000年と続いて起きた大洪水などの自然災害などで経済は打撃を受けていたが、1990年代後半以降から経済が急速に発展しており、1996年から2006年までに年平均8%の経済成長を達成した[12]。
日本の三菱商事も出資したアルミ精錬事業のモザール社(主たる出資は南アフリカのBHPビリトン)は、2000年より事業を開始した。国内最大級企業であるモザール社は、オーストラリアのアルミナを原料として輸入した上で、南アから供給される豊富・安価な電力のもとに精錬の後にアルミニウムとして輸出しており、モザンビークの輸出市場での位置づけは高い。背景として、北西部のテテ州にあるザンベジ川流域のカオラ・バッサダムの水力発電(植民地時代にポルトガルが建設。つい最近までポルトガル所有であった)が、大量の電力を南アフリカに供給・売電していることがある。そのことが、南アから安価な電力をモザールに対して安定供給するシステムへとつながった。
2010年9月1日、首都マプトでパンの値段が30%引き揚げられたことへの抗議がきっかけとなり暴動が発生した。警官隊が発砲し、子ども2人を含む市民7人が死亡した。2日、政府はデモ隊が築いたバリケードを取り除くために軍隊を導入した。民間テレビ局STVでは10人が死亡し、27人が重軽傷を負い、140人が拘束されたと報道している。因みに、モザンビークは国民の70%が貧困ライン以下で世界で最も貧しい国の一つであるといわれており、失業率も54%に達している[13]。
鉱業
モザンビークでは長年エビなどの漁業やカシューナッツ等の農業といった第一次産業が産業構造の主要を占めていたが、石炭や宝石などの有機鉱物資源に恵まれており、さらに2012年からは大規模な天然ガス田の資源が沖合いに発見され注目を集めている[14]。
鉱物資源の背景は、モザンビーク北東部の地層が南北方向に傾いたモザンビーク帯と東西方向に傾いたザンベジ帯間の分岐合流点に位置し、新原生代(約8~5億年)の造山帯であることから、長年の複合的な熱と変形がルビーやガーネット他の鉱物形成に理想的な温度と圧力をもたらしたといわれる[15]
- 石炭
埋蔵量は約7億トンで、モザンビークの主要鉱産物の一つである。日本政府の主導で「石炭産業発展5カ年プラン」が進められており、2011年には探査活動の結果としてテテ州で約200億トンの資源量が報告されている[16]。
- 天然ガス
モザンビークでは世界でも最大規模の埋蔵力を誇るガス田が発見されている。
2003年には南アフリカ企業による陸上ガス田が生産開始し、南アと輸出用ガスパイプラインで結ばれるなど、同国からの投資が近年増えている。また、モザンビーク北部沖合いにおけるオフショアの天然ガスの液化設備計画が三井物産らによって進められている。プラント建設は、千代田化工建設と米CB&I社、イタリアのサイペン社の3社連合が請け負う。LNGの生産能力は年1200万トンでインフラも含めた事業総額は少なくとも1兆円規模とみられる[17]。
- 宝石
1980年代後半からルビーが産出されるようになり、特に2009年以降になると世界のルビー需要を担うようになってきている。
北東部でのルビー採鉱
またパライバトルマリンも産出されており、ブラジル産やナイジェリア産のパライバトルマリンが枯渇している現状では
良質な宝石質のパライバトルマリンはここでのみの産出となっている[18]。
国民
民族
マクア人(Emakhuwa)・ロムウェ人(Elomwe)が40%、マコンデ人、シャンガーン人、ショナ人、スワジ人などのバントゥー系黒人の諸民族が国民全体の99.66%を構成し[7]、その他メスチーソ(黒人と白人の混血。ムラート)が0.2%、インド人(印僑)が0.08%、ポルトガル系モザンビーク人を主とする白人が0.06%とごく少数の非黒人系マイノリティが存在する[7]。2007年現在では1,500人から12,000人に達する規模の中国系コミュニティが存在するとも推定されている[19][20]。
2010年代初頭より、経済的停滞が続く旧宗主国ポルトガルから経済的に勃興を遂げつつあるモザンビークに専門職従事者の移住が進んでおり、首都マプトには約2万人のポルトガル人が存在すると推定されている[21]。
言語
公用語はポルトガル語(モザンビーク・ポルトガル語)である。その他、バントゥー諸語(マクア語、セナ語、ツォンガ語、ニュングウェ語、チェワ語、ショナ語、ロムウェ語、マコンデ語、ツワ語、ロンガ語、チョピ語、ヤオ語、コティ語、ンワニ語等)や、北部ではスワヒリ語も用いられる。英連邦に加盟している国では唯一、英語を公用語としていない。
モザンビークの言語状況は複雑である。1997年のセンサスによれば公用語のポルトガル語を第一言語とする人々は国民の8.8%であり[7]、第二言語とする人々の27%[7]を合わせても35%ほどにしかならない。バントゥー諸語も最大話者数を擁するマクア語でも26.1%程にしかならず[7]、諸言語が混在する状態にある。
宗教
1997年のセンサスによれば、カトリック教会が23.8%、ザイオニスト教会(Zionist Churches)が17.5%、イスラームが17.8%、その他が17.8%、無宗教が23.1%である[7]。
教育
1975年にポルトガルから独立して以来、学校建設と教員の訓練登録は人口増加に追いついていない。特にモザンビーク内戦(1977-1992)の後、就学数は着実な若年人口の増加のため常に高くなっており、教育の質は煽りを受けている。全てのモザンビーク人は法律によって初等教育レベルの学校に出席することを義務付けられているが、多くのモザンビークの児童は家族の生活のために農場で働かなければならないため、初等学校に通っていない。2007年には、100万人の児童が未だに学校に通っておらず、彼らの多くは農村部の貧しい地域出身である。モザンビークの教員のほぼ半数は未だに無資格である。女児の就学数は2002年に300万人だったのが2006年には410万人に増加し、修了率も31,000人から90,000人に増加したが、修了率は著しく低い水準を保っている。[22]。7年生の後、生徒は中等学校に通うために標準化された国家試験を受けねばならず、中等学校は8年から10年までである[要出典]。モザンビークの大学の枠は極端に限られており、そのため多くの準大学教育を終えた学生はすぐには大学の勉強に進めない。多くは教員として働くか、無職となる。職業訓練を提供する機関も存在し、農業学校、工業学校、教育学校などは10年生の後に開ける準大学である。
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は47.8%(男性:63.5%、女性:32.7%)である[7]。植民地時代の1950年の非識字率は97.8%であった[23]。2005年の教育支出はGDPの5.0%だった[7]。
主な高等教育機関としては、エドゥアルド・モンドラーネ大学(1962年)やモザンビーク教育大学の名が挙げられる。
保健
出生率は女性一人につき、約5.5人である[24]。2004年の保健への公的支出はGDP比2.7%であり、一方で同年の私的支出は1.3%だった[24]。2004年の一人当たりの保健費は42USドル(PPP)だった[24]。2000年代初頭には、人口100,000人に対して医者が3人だった[24]。2005年の乳幼児死亡率は新生児1,000人に対して100人だった[24]。15歳から49歳までのHIV感染は10%を越える[24]。
モザンビークのHIV感染率は高く、2007年のHIV感染者は約150万人であり[7]、感染率は12.5%である[7]。
2017年、マラリアとコレラの流行が深刻化した。マラリアは2017年1月から3月の間に148万人が診断され、288人が死亡した。コレラは3年連続の流行となり1,222人が感染し、うち2人が死亡している[25]。
文化
イスラームの沿岸商人とヨーロッパの植民者の影響にもかかわらず、モザンビークの人々は小規模農業に基づいた土着の文化を保っている。モザンビークで最もよく知られたアートの様式としては、モザンビーク北部のマコンデ人による木彫品とダンスが特に有名である。中流階級や上流階級はポルトガル植民地時代の遺産と、言語的影響を今も強く受けている。
食文化
この節の加筆が望まれています。 |
音楽
モザンビーク特有のポピュラー音楽のジャンルとしてダンス音楽のマラベンタの名が挙げられる。モザンビーク出身の著名なミュージシャンとしては、スワヒリ語で歌い、70年代に東西両ブロックで活躍したアフリク・シモーネや、マラベンタやキゾンバを歌う女性歌手ネイマ、マラベンタとヒップ・ホップを融合したMCロジェールなどの名が挙げられる。
文学
文字によるモザンビークの文学は、植民地時代の20世紀前半にルイ・デ・ノローニャによるポルトガル語の詩によって始まった[26]。これは、アンゴラやカーボ・ヴェルデといった大西洋側のポルトガル植民地に比べ、約半世紀遅れたものだった[26]。その後植民地主義を批判する詩を残した女性詩人ノエーミア・デ・ソウザや、後の1991年にカモンイス賞を受賞し、ポルトガル語世界で最も偉大な詩人の一人とされる[26]ジョゼ・クラヴェイリーニャにより、モザンビークのポルトガル語詩は発達を続けた。独立後には、マルクス主義的なプロパガンダ詩が目立つようになった。独立後の注目される詩人としてはルイス・カルロス・パトラキンの名が挙げられる。
モザンビークの小説の歴史は、ジョアン・ディアスによってポルトガル語で書かれた『ゴディド』(1952年発表)によって始まった[26]。その後の代表的な作家としては『僕たちは皮膚病にかかった犬を殺した』(1964)で国内外からの評価を得た[26]ルイス・ベルナルド・ホンワナや、1980年代から活動し、『夢遊の大地』(1992年)などで新語の創造に励むミア・コウト、『ウアララピ』(1987)でデビューしたウングラニ・バ・カ・コーサなどの名が挙げられる。
世界遺産
モザンビーク国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件存在する。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Dia da Fraternidade universal | |
2月3日 | モザンビーク英雄の日 | Dia dos Heróis Moçambicanos | エドゥアルド・モンドラーネの命日 |
4月7日 | モザンビーク女性の日 | Dia da Mulher Moçambicana | |
5月1日 | メーデー | Dia Internacional dos Trabalhadores | |
6月25日 | 独立記念日 | Dia da Independência Nacional | |
9月7日 | ルサカ協定記念日 | Dia da Vitória | |
9月25日 | 国民解放軍記念日 | Dia das Forças Armadas de Libertação Nacional | |
10月4日 | 平和と和解の日 | Dia da Paz e Reconciliação | |
10月19日 | サモラ・マシェル誕生日 | 初代大統領 | |
11月10日 | マプト市民の日 | マプトのみ | |
12月25日 | 家族の日/クリスマス | Dia da Família |
スポーツ
モザンビークではサッカーが盛んだが、2010年現在モザンビーク代表のFIFAワールドカップ出場経験はない。植民地時代には、エウゼビオなどの選手がポルトガル代表として活躍し、指導者ではカルロス・ケイロスを輩出している。
陸上競技ではマリア・ムトーラがシドニーオリンピック女子800mで金メダルを獲得している。
著名な出身者
弥助 - 織田信長の家臣
エウゼビオ - サッカー選手
ミア・コウト - 文学者
アルマンド・サ - サッカー選手
ジョアキン・アルベルト・シサノ - 元アフリカ連合議長
ネイマ - ミュージシャン
シモン・マテ・ジュニオル - サッカー選手
マリア・ムトラ - 陸上中距離選手
マランガタナ・ングウェニア - 画家
脚注
- ^ abcdIMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
^ 吉田昌夫『アフリカ現代史II──東アフリカ』山川出版社〈世界現代史14〉、東京、1990年2月10日、2版1刷発行、25-26頁。
^ A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳3 『ポルトガル3──世界の教科書=歴史』 ほるぷ出版、1981年。pp.36-40。
^ 舩田クラーセンさやか「紛争後モザンビーク社会の課題──村に戻らない人々」『朝倉世界地理講座 アフリカII』池谷和信、武内進一、佐藤廉也編、朝倉書店、2008年4月。pp.658-659
^ レナード・トンプソン/宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史【最新版】』明石書店、2009年11月。p.404
^ “China Built New Presidential Palace in Mozambique”. China Aidd. https://china.aiddata.org/projects/40732 2018年7月26日閲覧。
- ^ abcdefghijkCIA World Factbook2009年12月12日閲覧。
^ 市之瀬敦『ポルトガルの世界 海洋帝国の夢のゆくえ』社会評論社、2001年12月 pp.164-165
^ 日・モザンビーク投資協定の署名 外務省
^ 外務省 モザンビーク基礎データ
^ 外務省 モザンビーク基礎データ
^ http://www.iceida.is/english/main-activities/mozambique/
^ 食料と燃料の値上げで暴動、死傷者多数 モザンビーク CNN 2010.09.02
^ http://bizgate.nikkei.co.jp/special/emerging/topics/index.aspx?n=MMBIb4000020122012
^ http://www.gia.edu/JP/gia-news-research-mozambique-expedition-ruby-discovery-new-millennium
^ http://www.jogmec.go.jp/library/recommend_library_10_000004.html
^ http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ18HXP_Y5A510C1TJC000/
^ https://www.feelsogood.jp/paraiba.html
^ Jian, Hong (2007), “莫桑比克华侨的历史与现状 (The History and Status Quo of Overseas Chinese in Mozambique)”, West Asia and Africa (Chinese Academy of Social Sciences) (5), ISSN 1002-7122, オリジナルの2011年6月17日時点によるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20110617044234/http://scholar.ilib.cn/A-xyfz200705010.html 2008年10月29日閲覧。
^ Horta, Loro (2007-08-13), “China, Mozambique: old friends, new business”, International Relations and Security Network Update, http://www.isn.ethz.ch/isn/Current-Affairs/Security-Watch/Detail/?id=53470&lng=en 2007年11月3日閲覧。
^ “ポルトガルから旧植民地への「逆頭脳流出」”. JBPress. (2012年3月21日). http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34805 2013年7月4日閲覧。
^ Key facts Archived 2009年1月9日, at the Wayback Machine., Department for International Development (DFID), a part of the UK Government (24 May 2007)
^ A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス 『ポルトガル3』 金七紀男訳、ほるぷ出版〈世界の教科書=歴史〉、東京、1981年11月1日、初版、163頁。
- ^ abcdef“アーカイブされたコピー”. 2010年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年5月2日閲覧。
^ モザンビークでコレラ流行、1222人感染 AFP(2017年3月15日)2017年3月15日閲覧
- ^ abcde市之瀬敦「モザンビーク文学と公用語問題」『モザンビーク 「救われるべき」国の過去・現在・未来』「モザンビーク」刊行チーム、拓殖書房、1994年11月
参考文献
- 市之瀬敦 『ポルトガルの世界──海洋帝国の夢のゆくえ』 社会評論社、東京、2001年12月。ISBN 4-7845-0392-7。
- 金七紀男 『ポルトガル史(増補版)』 彩流社、東京、2003年4月増補版。ISBN 4-88202-810-7。
舩田クラーセンさやか「紛争後モザンビーク社会の課題──村に戻らない人々」『朝倉世界地理講座──アフリカII』池谷和信、武内進一、佐藤廉也編、朝倉書店、2008年4月。- 星昭、林晃史 『アフリカ現代史I──総説・南部アフリカ』 山川出版社〈世界現代史13〉、東京、1978年12月。
「モザンビーク」刊行チーム 『モザンビーク──「救われるべき」国の過去・現在・未来』 拓殖書房、東京、1994年11月。
- 市之瀬敦「モザンビーク文学と公用語問題」『モザンビーク──「救われるべき」国の過去・現在・未来』「モザンビーク」刊行チーム、拓殖書房、1994年11月。
- レナード・トンプソン/宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳 『南アフリカの歴史【最新版】』 明石書店〈世界歴史叢書〉、東京、2009年11月。ISBN 4-7503-3100-7。
- 吉田昌夫 『アフリカ現代史II──東アフリカ』 山川出版社〈世界現代史14〉、東京、1990年2月10日、2版1刷発行。ISBN 4-634-42140-2。
関連項目
- 交換船
- ポルトガル語諸国共同体
- モザンビーク島
- モザンビークにおけるLGBTの権利
外部リンク
- 政府
モザンビーク共和国政府 (ポルトガル語)(英語)
モザンビーク大統領官邸 (ポルトガル語)
在日モザンビーク大使館 (日本語)(英語)
- 日本政府
日本外務省 - モザンビーク (日本語)
在モザンビーク日本国大使館 (日本語)
- その他
ジェトロ - モザンビーク(概況)(日本語)
"Mozambique". The World Factbook. Central Intelligence Agency. (英語)
モザンビーク - DMOZ (英語)
モザンビークのウィキメディア地図 (英語)
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